中世の神学社会について |
(最新見直し2006.9.22日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ルネサンスを生み出した当時の社会事情を次のように概括できる。中世の人々の生活は、世俗を王権により、精神界をカトリック教会が定めたさまざまな規制によって束縛されてきた。王権は、身分制秩序のもとで忍従と貢納を押し付け、服従のご利益を説いた。これを表権力とすれば、教会は裏権力の側から、人々に現世の貧困に耐え忍び来世に期待を抱かせた。人生の目的とは神の御心に叶う忍従生活を過ごすことであり、そうした生活態度が天国に召される際に資する事を説いた。そして教会内にも聖職の階級を設け、序列の効用を言い含めた。それは、聖書的世界のロゴス的秩序の教会秩序への転化であり、疑うことは不純不敬であった。この教会内秩序の合理化論は、世俗の王権的封建的秩序をも正当化させ、その保守的護持を説いていた。 中世を通じて出来上がった「皇帝=世俗的・封建的権威」、「教皇=カトリック教会による宗教的権威」、「教会のネットワークを利用しつつ出来上がった各地の民族王権」、これが中世ヨーロッパ社会に張り巡らされた事情であった。この体制はヨーロッパを停滞させた。牢化したこの安定秩序が覆えされるには、ルネサンス運動の勃興の日まで待たざるを得なかった。14世紀頃から、この停滞社会はじょじょに変動していった。そのかなり煮詰まった状態がいち早くイタリアに現出した。これがルネサンス勃興直前のヨーロッパの情勢であった。 2006.10.8日再編集 |
【ルネサンス時代に至るヨーロッパの趨勢の把握のための四つの大きな要因についての考察】 | ||
1 | ローマ法王(教皇庁) | 東ローマ(ビザンチン)に於ける教皇の地位が抑制的であったのに比して、「教皇庁主導の宗教国家体制」を目指して君臨した。世俗信徒は聖職者の指導に従うべきであり、聖職者はその教権組織の頂点であり且つ「神の代理人」である教皇に服従しなければならぬ、これがローマ教皇庁の原則となった。 |
2 | 神聖ローマ皇帝 | 初代カール大帝以来、「王の中の王、世俗君主の至上」として君臨した。 |
3 | 自治都市国家群 | 「政治は三流、経済は一流、文化は超一流」と云われたフィレンツェの如く、自治都市が数多く生まれていた。 |
4 | 英仏西王 | ドイツ、イタリアは国内分裂しており、本当の「王権」が存在できなかった。それに対してフランスは、、英国、スペインは国内統一を逸早く押し進めつつあった。 |
【なぜ、キリスト教が中世世界を席巻したのか】 |
ギリシャ、ローマ時代の宗教は、「教典」を持たぬ多神教であった。それに対して、一神教にして「教典」を持つユダヤ教が理論攻勢し始めた。非ユダヤ国家は、それに立ち向かう為にユダヤ教批判の先鋒的役割をしていたキリスト教を受容し始めた。イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教の根底的対立を見据えて、又違う自律自存の宗教を創造せしめた。 |
カトリック教会のヒエラルヒーは次のようになっていた。ローマ法王を頂点として、枢機卿、大司教、司教、司祭、修道士からなる聖職者階級。神と信徒の間に介在し、教典を説き聞かす役目を負った。中世ヨーロッパには、神父の権威や神学が肥大化していた。神父は独自の裁量権と宗教的権威を持っていた。神父に罪を告白し許しを乞うという「懺悔」というものがあり、神父は「懺悔」に対する裁量権を持っていた。この時期西洋人は、宗教的ドグマにどっぷりとつかり、彼らの住む狭い世界のことしか知らない田舎者になりさがった。 キリスト教徒には、収入の十分の一を教会に納めることが義務付けられていた。これを「十分の一税」という。中世社会はゆるやかながらも経済力を向上させていき、自然増収として教会の収入も増えていった。修道院直営の農場もあり、それら全体の地主でもあったローマ法王庁の資力もあがった。 |
(以下、引用元失念。只今探索中)
この頃、中世ヨーロッパはキリスト教的規律に縛られて停滞していたが、停滞する西欧に代わって、アラブ人のイスラム教国家が西はスペイン、東はインド・東南アジアにまでその領土を広げていた。アラブの活動領域は、占領したスペイン、シチリー島、北アフリカ、中東、中国、インド、東南アジアにまで及んだ。ウマイヤ王朝のアラブは、スペインとイタリアの南端シチリー島を占領した。 このリベラルな、政治体制下にあるスペインは、やがて、世界一の学術研究地として、開花する。学校では、アラブ人の学者により、天文学、地理学、歴史、人文、植物学、数学、薬学等が教えられた。そして、さまざまな教派がその宗教的寛容さとアラブの哲学に惹かれてやってくる。ユダヤ教徒は、アラブの影響を受けつつ宗教研究を行い、やがて、スペインは、ヘブライ語による研究の中心地となる。また、ネストリウス派というような異端もアラブの哲学に触発されつつ研究活動をおおっぴらに行っていた。当時のスペインでは、異端や異教として迫害されかねない人々、アラブの学者、そして、キリスト教徒が交じり合い互いに触発されつつ研究に励んだ。この時代には、歴史に名を残すスペイン生まれのアラブ人学者が数多く登場している。哲学者イブン・ルシュド(1126〜1198)(別名アヴェロエス)の「アトテレス注釈」、アンダルシア出身の百科全書的学者イブン・トゥファイル(〜1185)の哲学小説「ハイイ=ブン=ヤクザーンの物語」、神学者イブン・ハズム(994〜1064)の恋愛詩「鳩の首飾り」等の著作は、どれも中世の西欧に影響を与えている。そして、また、イブン・アラビー(1165〜1240)というような神秘主義哲学者も登場している。 これに対して、当時の西洋人たちはいまだ宗教的ドグマにひたったままで狭い世界しか知らない田舎者であり、科学的思考という点でも、アラブ人たちにはとても及ばなかった。ヨーロッパ人が世界を知るようになるのは、スペイン・ポルトガルがむかえる大航海時代以降である。 やがて、ヨーロッパ内地での十字軍というべき、キリスト教徒によるイスラム教徒排撃運動、レコンキスタが発動される。1248年には、支配層のアラブ人たちは、グラナダに追いつめられ、この時、レコンキスタは事実上達成される。そのグラナダも1492年に陥落する。レコンキスタが達成されると同時に、スペイン・ポルトガルは、アラブから学んだ科学技術により、大航海時代へと突入してゆく。 レコンキスタの後も、スペイン人だけでは、不足なので、彼らはアラブ人の技術プロフェショナルを雇った。スペイン人にとって、レコンキスタは見栄えのいい運動であるが、その反面、科学技術はアラブ人にいてもらわないと困ったのであろう。 バスコダガマは、1498年に、アフリカ大陸の南端、希望岬をまわりインドに至る航海を成功させている。このアフリカ大陸周りの海路が確立されてからというもの、インドとの香辛料貿易がもたらす富は、アラブ商人からスペイン人の手に渡る。アラブ商人たちは、もはや商売にならなくなった。さらに、スペインは、マレッカ海峡を通過して中国そして、日本に至る航海を1543年に成功させている。 この時代の航海術や造船技術の進歩の速度は、異常に早い。そしてまた、スペイン人の手により驚異的な速度で世界地図が完成されてゆく。やがて、スペイン人は、アラブ人から学ぶことが、もはやなくなったのだろう。1556年に、スペインの国王フェリペ二世は、残存しているイスラム教徒のアラブ人たちに、国外退去か処刑かの選択をせまった。多くのイスラム教徒が北アフリカに亡命した。キリスト教に改宗したアラブたちは残存することを許された。以後、イスラム教徒はイベリア半島から追い出される。 スペイン統治の時にアラブの見せた宗教的寛容さと、その後にスペイン人の見せた宗教的非寛容さは対照的であった。ちなみに、ユダヤ人もアラブ人と同時に追い出されている。 もっとも、科学技術、商業、学問等々あらゆる面で当時の西洋人を上をいくアラブをイベリア半島から追い出すのに成功したのは、ひとえにキリスト教がもとになった、スペイン人の熱狂的英雄心であるといわれる。スペインの熱狂心というのは、相当なもので、その後、スペインは、異端審問の中心地となり、「魔女」をさかんにみつけだしてきては、火あぶりの刑にして殺している。現代においても、彼らは、勇者が牛を怒らせて殺すという競技=闘牛を見て喜んでいる。 イスラム教徒のアラブが衰退すると同時に、スペイン・ポルトガルは、海洋大国として、他のヨーロッパ諸国を大きく引き離して、植民地主義の階段を駆け上る。スペイン。ポルトガルの商人たちは、繁栄を極める。大航海時代はアラブがもたらした科学技術なくしては不可能であった。 ここで、余談をひとつ。 スペインはその後、アメリカやフィリピン等に植民地を次々と築く。そして、その植民地では、スペインの男がさかんに現地の女と結婚し、多くの混血児生まれた。一説によるとこれは、最初にスペインに侵入してきたアラブの男たちは、女をつれずにやってきて、占領すると好んで金髪、青い目の女の奴隷を彼のハーレムに囲み、さかんに子どもを作った為に、その子孫は、彼らの祖先と同じようにしてアメリカやらフィリピンに男だけで出向き現地の女と結婚し混血児を生ませるのだという。さらに蛇足である。スペインにいたアラブたちをムーアともいう。 キリスト教徒に対しては彼らは寛容であり、イスラム教に改宗することも求めず、虐殺もしなかった。ただ税金を上乗せしただけである。彼らは、学校で、イスラム教やらキリスト教という宗教に関わることなく、数学、文法、地理学、天文学、医学、薬学、哲学、植物学等々を教えた。当時のアラブの柔軟さと科学技術の追求姿勢というのは、抜きに出ていた。この時代、世界の情報を一番持っていたのはアラブだといわれる。シチリー島のノルマン人の王は、世界の情報を収集する時には、イスラム教徒のアラブ人を招いて聞いていたといわれる。 「科学技術」と呼ばれるに値するものを最初に確立したのは、アラブ人ではなかろうか。古代ギリシャ人のユークリッド幾何学がいくら近代数学の基本になったとはいえ、それは、「技術」とは統合化されていなかった。遊びもしくは、高級な理論の域を出ていない。アラブ人が、初めて、「科学」と「技術」がセットになった 航海術、建築、天文学、医学、薬学というような「科学技術」を成立させたように思える。 航海術を例にとろう。まず、方角を正確に知る必要がある。それにはコンパスという道具が必要である。当時のアラブ人はこの便利なものをどこから手に入れたかは、不明であるが持っていた。 次に、緯度を知る必要がある。緯度を計測するには、三角法という数学と観測機器がセットになった天文学が必要である。三角関数の関数表も必要である。アラブ人はこれらのものをすべて揃えかつ、統合し、緯度を計測する方法を世界で最初に確立した。ちなみに、三角関数の関数表は日本の高校生の数学がいくら難しいとはいえそれでは作成することができない。今の大学生の数学の範疇である。 海図もまた必要である。なければ途方にくれるであろう。さらに、当時は帆船であるから気候を知っておく必要がある。このような複数の科学技術がセットになって航海術そして、商業貿易が成立するのである。 アラブの商船は、地中海はもとより、アラビア湾から、アラビア海を通過しインド、さらにマレッカ海峡を通過して、中国の広東省の辺りにまで航海している。 アラブの商人たちは、イスラム教国家が開拓した地域に、陸路、海路を通って行き来した。有名なシルクロードもそのひとつである。当時のバクダットは繁栄を極め、港には、何百隻もの商船が停泊し、店では絹、陶器、香水、香辛料、染料、宝石、というような高級品が扱われ、それはまるで、現代のパリかどこかの高級商店街のようであった。ペルシャ、エジプト、シリアでは、繊維、皮製品、金属工芸品、宝石加工品、ガラス製品等が、ペルシャの優れた工芸技術により製造された。地中海は、アラブの手中にあった。アラブ商人はヨーロッパ各地で取り引きを行った。アラブ商人は、ロシアにまで出没している。 シチリー島では、ペルシャ人により繊維や皮製品が製造され、これがやがてイタリアそしてヨーロッパの工芸品に受け継がれる。今でもルイ・ヴィトンのデザイナーは、ペルシャを旅行して、皮製品を買い込んで学ぶらしい。 さらに、アラブ人は中国から紙を作る方法を学び自分のものした。9世紀には、イスラム教徒の間で紙の使用が一般化している。このアラブの紙がやがてヨーロッパに渡る。 蛇足であるが、中国から紙の製造法を学んだアラブ人に対して、中国人は、アラブから何も学んでいないように見える。 ちなみに中国は、ローマ帝国と漢の頃から、近代にいたるまで、シルク、陶器、茶の輸出超過の貿易黒字国であった。アヘン戦争というのは、この貿易摩擦を解消させる目的で、英国が起こした戦争である。中国人の技術は、たとえ、西洋が蒸気船をつくったとしても、ある側面では、それを凌いでいたといえる。だが、中国の技術は、「高度な工芸」であり、「科学技術」ではなかった。 イスラム教国家がヨーロッパを席捲していた時代、各種の影響を与えている。当時の西洋人たちは、航海術、天文学、外科医学、薬学、文法、化学、哲学等々をイスラム教徒のアラブ人教師から学んでいる。そして、アラブ人学者たちは、中世ヨーロッパの学者たちに教科書として読まれことになる著作をいくつも残している。イランに生まれた、イブン・シーナー(980〜1037)(別名アヴィセンナ)の著書「医学の典範(カノン)」は16世紀頃までヨーロッパ医学の教科書であった。科学者イブン・アル・ハイサム(965〜1038)の「視覚論」はラテン語に翻訳されケプラーの時代まで大きな影響を与えている。この他にもイブン・ハルドゥーン(1332〜1406)の「歴史序説」等々、数多くのアラブ人の著作がラテン語に翻訳され中世のヨーロッパ人たちに読まれた。 ここで、カイロのエジプト大学が1934年に発行した、"Etymological list of Arabic words in English"から、アラビア語から英語に輸入された科学用語を少々、紹介しておく。alogrism アルゴリズム 、zero 零、alchemy 錬金術 、alcohol アルコール、alkali アルカリ、antimony アンチモン(化学物質)、alembic 蒸留機、zenith 頂点、nadir 天頂、benzine ベンゼン(化学物質)、soda ソーダ、carat カラット(重さの単位)。 アラビア語から英語に輸入された海洋・商業用語を紹介しておく。Admiral 提督、cable
ケーブル、sloop スループ、一本マストの縦帆装船、barque パーク、最後部のマストが縦帆でその他が横帆の帆船、carrack
大型武装商船、monsoon モースーン、インド洋で吹く季節風、trafiic トラフィク、交通、canal
運河、tariff 関税、運賃、cost コスト、risk リスク、caliber
カリバー、magazine マガジン、check 小切手。 以下、アラビア語が語源となっている英語を紹介しておく。物品名は、アラブ商人がヨーロッパに持ち込んだ商品に由来しているのであろう。rice 米 、appricot あんず、candy キャンディー、coffee コーヒー、lemon レモン、sugar 砂糖、cotton 木綿、sundal サンダル、sofa ソファー、matress マットレス、jar 水差し、lilac ライラック、chess チェス (インド人から教わる)、dinar 夕飯、mask マスク 、house 家、adobe 日干しレンガ、mafia マフィア、assassin 暗殺者 、jargon わかのわからない専門用語 、magazine 雑誌、guitar ギター、tambourine タンバリン、fanfare ファンファーレ、rebec レベック(楽器)。以上、紹介したのは、ほんの一部である。ちなみ、アラビア語は、ハム‐セム語族に属する。ヘブライ語と同じグループである。 話がそれたので話を数学にもどす。 古代ギリシャ人の数学はユークリッドに代表される作図による幾何学が基本でであった。これに対してアラブ人は、彼らの開発した代数により、合理数、無理数の演算を行い、さらには整数論を確立し、また、ギリシャ人が扱った幾何学の問題を代数の問題に置き直した。世界で最初に、未知数をxというような記号であらわし、これを演算したのはアラブであるらしい。 最近の研究によると、ヨーロッパ人が最初に証明したと思われていた整数論の諸定理は、アラブの方が何百年も前に証明していたことがわかってきている。今までの西洋数学史は、ギリシャからアラブをすっぽ抜かして、いきなり近世ヨーロッパになっているが、最近になって、ギリシャ→アラブ→近世ヨーロッパという発展過程が解明されつつある。 |
(私論.私見)