ルネサンス論について |
【ショートメッセージ】 |
ルネサンスの意義が案外粗末にされている。れんだいこの見るところ、ルネサンスの後と以降は人類史の面貌を大きく変えている。そういう意味で、ルネサンスの史的意義はもっと確認されねばならない。ルネサンスは一朝一夕に為されたものではなく数世紀を経て醸成された近代精神のはしりである。このルネサンスの経験と継承したが故に西欧諸国はその後、世界史の舞台全面に踊り出ることに成功したのではないのか。この点でアジア、イスラム、アフリカ諸国は画然と差をつけられており、この傾向は21世紀初頭の今日まで続いており、政体において例えて云えば大人と子供と稚児ほどの差を示しているのではないのか。その心は、人民大衆への規制緩和と自由闊達、創意工夫力の引き出し如何にある。ルネサンスの研究はこの点から為さねばならない一里塚のように思えてならない。 2003.10.9日 れんだいこ拝 |
【ルネサンス総俯瞰】 |
「ショートメッセージ」で述べたように、文明的に観て、ルネサンスの洗礼を受けた民族とこれを経過させていない民族の間には大きな溝があるのではなかろうか。この観点から、今日のアングロ・サクソン民族の興隆の背景にあるものとしてのルネサンス運動を再評価してみたくなった。 これをもう少し詳しく概括してみる。ギリシャ・ローマ文明以降、ヨーロッパ諸国はキリスト教国家として分立していくことになった。この時期は一般に西欧中世と云われている。西欧中世の時期を世界史的視野から見れば、ヨーロッパは低迷期に入っていたことになる。これはイデオロギー国家が持つ負の面であると思われる。この時代トルコ、アラブ、中国、日本における国家興隆の方が社会変革的であった。しかしながら、15世紀になってルネサンスを経由したヨーロッパは俄然活動期つまり近世に入ることになり、相対的にその他諸国の方が安定期に入る。つまり、西欧近世の社会変革力がその他諸国のそれを上回る勢いで展開し始めたということである。以降、この落差は今日まで続いており、否むしろますます落差を拡げつつあり、今やアングロ・サクソン文明が世界史上を蓋いつつあるやに見受けられる。 れんだいこは、文明にはそれを活性化させる態度と不燃化させるそれとがあって、不燃態度を受容した文明はいつしか滅びていくことになる。逆に、活性態度を継続せしめる限り文明は発展し続けていくのではなかろうか、との仮説を立てている。この文明生命力の秘密を探って見たいと思っている。文明生命力とは、自然文明的な生命力(バイタリティ)に意志の力が加わり「やる気ないし覇気」に転じたものと考えられる。ラテン語で「ヴィルトゥス」(Virtus)、イタリア語で「ヴィルトゥ」(Virtu)と云われるものであるが、マキャベリは、このヴィルトゥは古代ならばギリシャからローマへ、ルネサンス期にはフィレンツェからローマへというように「民族間を移動する」と観察していた(塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」)。 この移動要因を考察することは興味ある課題ではなかろうか。主因に経済力があるとしても、それだけでは説明のつかない情動的なものに起因するプラスアルファ因子もあるのではなかろうか。ここにルネサンスの何たるかを見事に表現した言葉がある、暫し愚考せよ。我々には「ゴンドラの唄」として知られている次の歌は、メディチ家当主ロレンツォの直々の作「バッカス(酒神)の歌」が原語である。「いのち短し、恋せよ乙女、紅きくちびるあせぬまに。熱き血潮の冷めぬ間に、明日の月日はないものを」。 してみれば、我々が文明(狭義における社会)に変革を願う限りにおいて、何が発展を約束する因子で、何が停滞に導く因子であるかを摘出し、これを賢明に操り社会に適応させる知恵を持たねばならないのではなかろうか。ルネサンスはその恰好の教材であり、人類史上の叡智と因子がここに結晶している、とれんだいこは見なしている。この観点から、ヨーロッパで経由したルネサンスの概要を、主に哲学・思想的観点からアプローチして見たい。 れんだいこは、今日の我が社会に覆う低迷は、政治的にも、経済的にも、文化的にも、思想的にも非ルネサンス的な統制原理が社会の隅々にこびりついたが故と考えている。従って、本稿の考究は恐らく自ずと、その苔・垢を剥離させることに向かうだろう。そうならないとならば我が洞察の及ばないが故であると自責せねばならぬ。 2004.3.4日再編集 れんだいこ拝 |
【歴史家会田雄次氏のルネサンス観】 |
れんだいこ観点に照らせば、歴史家会田雄次氏はかなり面白い。戦後から現代に至る過程の分析観点は大いに異なるが、明治維新あるいは西欧史を知る上で参考になることが多い。その氏の最後の著作となったのが「歴史家の心眼」である。氏は最終章で、「ルネサンスの読み方」という文章を書き付けている。たまたまの偶然であったのか詮索不能であるが、奇しくもルネサンス論が「歴史家会田雄次の遺言」となった。その中で、会田氏はどのように述べているか、拾い出してみたい。 会田氏がルネサンスを書こうとするに至ったのは、PHP文庫編集者との打合せで「来るべき21世紀を生きるために、日本人の学ぶべき知恵を引き出して欲しい」と云われ、「ルネサンスは旧時代(中世)と新時代(近代)の境目に位置し、明るい世界を目指して希望と不安の間を揺れ動く時期だった。それが、様々な面で行き詰まって不安感の漂う現在の日本と似ているのではないか」という問題意識を持つに至ったからのようである。 こうして著作していくことになったが、最初に遭遇した問題は、ルネサンスの史的位置付けを廻ってであった。その意義を格別には評価しない諸説がある中で、スイスの歴史家ヤコブ・ブルクハルト(1818−97)が述べる概要「ルネサンスを『世界と人間の発見』と讃(たた)え、以後を『近代の始まり』と位置付けた」ことに賛同する。宗教家マルチン・ルターの協力者として知られるドイツの人文学者ウルリヒ・フォン・フッテンの「おお世紀よ、学問は栄え、芸術は甦る。生きることは喜びなるかな」の歓喜をその如く見る。 「一つの工夫として、スパンを長く取ってみたらどうかと思う。例えていうならば、夜明けを思い浮かべてもらえばいいだろう。それは富士山の頂(いただき)に朝日が瞬時に出てくるという性質ではなく、薄明かりの時間帯があって次第に明るくなってゆくものである。そのように長い期間の中でルネサンスをも捉えれば、これを夜の終わりと見るか、朝の始まりと見るかは別として、ヨーロッパ世界が大きく開けていった一時期に当たっていることは間違いない」と云う。 そういう風に位置付けられる会田流ルネサンスの意義は次のことに有る。「『自由を求める試練』という点から見てこそ、イタリア・ルネサンスは日本人にとってこの上ない教訓を含んだ時代になる」。概要「イタリア・ルネサンスが闘ったものは、『精神の自由』を廻ってであった。それは『カトリック教会とその教え』との闘いであった。当時、カトリック教会の規範は生活の隅々まで張り巡らされており、『箸の上げ下ろしから死に方に至るまで、全てが教会によって細かく規制されていた』。この宗教の束縛に対して、成長してきた人々の『精神の自由』を求める心が衝突した。その闘いは『人生も命も何もかもかける闘い』となった」。 「日本はその二千年の歴史の中でこれほどの、あるいはこの種の自由を経験したことが無い」、「こんな歴史的経験を持つ私達日本人には、真の自由が与える真の独創性、その道を歩む喜びなど知りようが無い。日本がルネサンスを知るべき最大の理由は、その模倣ではなく、この本当に自由な道を歩む、その道がどんなものかを知らせてくれるところにある」。 「明治以後の近代日本も敗戦という切断期を含むものの、丁度それ(イタリア・ルネサンス期)とよく似た年月日にわたって経済的繁栄を享受している。とりわけ戦後はそうだ。しかし、その間の文化的業績は経済に比べ、まぁ、無いに等しい。とりわけその独創的部分となると、残念ながら皆無としか云えない。どうしてなのか。この辺りで今一度、ルネサンスを深く考えてみる必要がありそうである」。 |
【会田流ルネサンス観に対するれんだいこ補足その一】 |
更に補足すれば次のように言えるであろう。「ルネサンスにおける人文主義の運動は、中世的教会の教会教理による鋳型にはめられた人間像からの解放運動であった。それを裏付けるいわばイデオロギーとして異教的な古典の尊重に向かい、かってのギリシャ・ローマ時代の古典的文化、教養を模範とするに至った。留意すべきは、古典復興から人間解放が出たものではなく、反対に人間精神の解放運動の一つの形が古典復興運動となったという認識の回路であろう。 そのように生み出されたイタリア・ルネサンスであったが、その限界は次のことにあったように思われる。イタリア・ルネサンスの人文主義は新興ブルジョアジーとも云うべき都市貴族によって支持され、その内容から見ても教養の高い小数支配階級の所有に属するものであった。今日的な市民社会的大衆レベルのものではなかった。このことがイタリア・ルネサンスの寿命を短くさせることになった。諸般の事情からイタリア都市国家の没落が進むにつれて、ルネサンスも又精彩を欠いて行った。結局、この時代のルネサンスは、自由な人間を発見することは出来たが、旧制度、遺風と持続的徹底的に闘うという積極的実践的気力を欠いていた。 但し、イタリア・ルネサンスの花粉はその後の西欧各国に飛び、お国ごとに特徴を見せながら着床していくことになった。これを思想的に見れば次のような大きな影響を与えていくことになった。「思想的領域においても、中世の統一的単一的な学問であった『スコラ学』に対して、『新哲学』が誕生する。中世のスコラ学はラテン語を唯一の用語としていたが、今や個別的世俗的な諸国語で著作されるようになった。 中世では、思想の源泉は、専ら聖書、教会神父の伝承教話、プラトン、アリストテレスに制限されていたが、今や自己自身の経験と自由な思惟が拠り所となり、思想の世俗化、多様化、個性化がその特色となった。16世紀は未だ模索的な過渡期であったが、この時期に転換が確立し、17世紀になるや確信を持った積極的な新思想が個別的にも系譜的にも体系的にも建設されるようになった」。 このことを、M・トケイヤーも「日本人は死んだ」(箱崎総一訳・日新報道・1976.2.21日)の中で次のように云っている。「欧米流の考え方によれば現代人は、中世の暗黒時代を経て、ルネッサンスという時期を迎え、そこで近代的な自我を確立した、という事実がある。また、ルネッサンスを経過することによって人間は、キリスト教の神の絆から解き放たれることになった。フランスにおいては、絶対君主制がルネッサンスの時期を経て崩壊し、人々は自由を獲得したのである。また、産業革命によって、自然の驚異から人間は独立することが可能になった。こうしたルネッサンス精神は、欧米人は広く一般に持っているのである」。 この@・近代的な自我の確立、A・キリスト教の神の絆からの解放による自由の獲得、B・自然の驚異の克服という三テーゼこそ西欧近代の始まりの根拠であり、以降世界史はこの原理とこの原理の洗礼を受けない民族との戦いとなった風がある。 |
【会田流ルネサンス観に対するれんだいこ補足その二】 | ||||||||||||||
ルネサンスの史的流れを概括すると次のように云えるのではなかろうか。
この課題の考察がなぜ重要かというと、「西欧民主主義」の庇護下で生まれたマルクス主義が「西欧民主主義」の否定に乗り出し、その際の解き方が一面的であったためその後のマルクス主義的社会主義運動に大きな不幸をもたらしたと認識する故である。そういう意味で、現代マルクス主義の再創造という必要からも、ルネサンス論、西欧民主主義論の再検討に着手せねばならないということになる。 |
【会田流ルネサンス観に対するれんだいこ補足その三】 |
ルネサンスの史的意義についてもう一つ確認せねばならないことがある。これを三ベクトルから言及してみようと思う。その一は、市民的自由活動。その二は、その一によりもたらされた資本主義の発展。その三は、シオニズムの発生である。 この三本の線が一つとなり今日の世界史へ続いてきているように思われる。特に「シオニズムの発生」にこそ着目してみたい。ルネサンス運動の本質はキリスト教世界観からの解放にあり、キリスト教世界観からの解放はユダヤ教の世界史的再登場を招き、この流れははるけき今日まで続いている、のではあるまいか。なお且つ「ユダヤ教の世界史的再登場」はシオニズムを生み、今やこのシオニズムが世界を席巻しつつある。しかしながら、ユダヤ教の中に胚胎するシオニズムこそ、かってイエス・キリストが「パリサイ人よ云々」と論難せねばならなかった「悪の偏狭論理」そのものではないのか。 そういう意味で、現代は、「シオニストよ云々」と論難する新イエス・キリストの再登場が待ち望まれているのではあるまいか。しかし、「悪の偏狭論理」は「偏狭」ではあるけれどもかなり高度な論理でもあります。故に、この論理と対決するにはそれ以上の論理を持たねばならない。さて、そういう論理を如何にして形成するのか、それは大変な技である。これを一人で為そうなどということは夢想であり、叡智の世界的ネットワークによって為すしかない。その諸団体のアソシエーションにより対決していく以外に無い。このように観点しております。 2004.3.4日 れんだいこ拝 |
ルネッサンスへの視角(1) 投稿者:羽派 投稿日: 4月 5日(木)16時30分34秒 れんだいこさん,HPでの精力的なルネッサンス研究ご苦労様.蛇足ながら,「ヨーロッパの歴史」アンリ・ピレンヌ(佐々木克巳訳,創文社)から,抜書き(一分改変)してみました。1939に書かれた古い本ですが,「歴史におけるものの見方」を作る上で,その基礎として役立ちそうな本です.
「ルネッサンスは反宗教的ではない.ルネッサンスの最も熱狂的な推進者の中には何人かの教皇がいたではないか。けれども,ルネッサンスが反聖職者主義的であるというのは極めて正しい.」 「宗教改革はルネッサンスの反対物である.宗教改革は人間の代わりに再びキリスト教徒を登場させる,それは,教条主義を拒絶し非難しているにしても,理性を冷やかし侮辱する.ルターは彼の同時代人である人文主義者達よりもはるかによく中世の神秘主義者達に似ている.彼は大多数の人文主義者達に嫌悪感を抱かせさえした.」 「ルネッサンスの勝利並びに宗教改革の勝利は,14世紀の初め以降絶え間なく深刻化していくカトリック教会の衰退を不可欠の条件としていた.」
「社会生活及び知的生活の両方を支配していた伝統的権威が,イタリアではずっとはやく弱くなる,あるいは消滅する。そしてこのことは大部分,都市生活の異常な発達の結果である.貴族(騎士身分)は14世紀中に軍事的職務を離れ軍隊は傭兵化する.経済組織の進歩,商事会社の発達,信用手段の改良は銀行家や実業家の知的育成を要求する.彼らは実務に従事しながら余暇を確保し,知的な気晴らしに熱中し,自分の住居を芸術品で飾り,優雅を身につける.貴族層と市民層を構成要素として生活様式,教育,趣味,楽しみによって結びついた人々全員の間に一種の現世的貴族層が形成される.この種の貴族層はどこの国にもない.旧社会は崩壊する.新しい諸集団−親和性によって自由に成立し,人間性の精神が階層の精神に取って代わっている−が形成される.」
「フィレンツェはアテーナイに較べる事のできる唯一のヨーロッパ都市であり,国家である.2人の政治理論家マキャベリとグィッチャルディーニの場合,いかなる教義的なものも政治判断に影響を及ぼしていない.二人は,神学的観念からも法的構築物からも独立している.都市生活は中世の狭い枠を越してあふれ出,公民生活になる.」 「イタリアの君主達の原則は国家理由である.彼らは一切の伝統の外にある.宗主権によっても,宣誓証書によっても,慣習によっても,何らかの特権によっても,いわんや宗教思想または法思想によっても縛られていない.」 「マキャベリがひどく残念がっているイタリアにおける政治的統一の欠如が,疑いもなく,イタリアが過去と絶縁したことの条件であった.」
「社会及び政治上の伝統の動揺に歩調を揃えて風俗と道徳の退廃が進行する.中世の道徳は本質的に禁欲主義的であった.禁欲主義は中世キリスト教の根底にある悲観主義的人生観と極めて密接に結びついていて,両者を切り離すことはできない。」 「生活はあまりに魅力的であり,あまりに心をぼーっとさせ,あまりに面白いので,最も高貴な精神の持ち主でさえが,生活を非難する考え方の中では安らぎを覚えることができない。その他の人々は,生活にのめりこんでいく.聖職者層の大半が範を垂れるのであるからそれだけ一層生活にのめりこんでいく。教皇庁は最もぎらぎらした贅沢をこれ見よがしに示す.そして在俗司祭の言動ほど為にならないものはない.修道士が信仰の冷却に最も貢献する.(デカメロン!)」 「ルネッサンスは中世の禁欲主義的道徳から自己を解放したが,それに代わる他のいかなる道徳をも樹立することをしなかった。最も高貴な,最も強い精神の持ち主は力と名誉という理想を掲げた.それ以外の者には名声が支配的な動機であった.しかし大多数の者には個人的利益以外の規範に服していたようには見えない。あるいは,自分の好み,情念に流されるままだった.夫婦の結びつきの緩み,暗殺,毒殺の頻発,あらゆる社会層にみられる裏切り行為.にもかかわらず,この混乱のただ中にあって,個人の自由の感情,人間の尊厳の感情,活力の美しさの感情,自分自身の良心に対する各人の責任の感情が芽生えてきているのである.道徳は戒律集だけにあるものではないこと,道徳が完全であるためには人格の自由な同意が必要であること.確かにこれは貴族主義的道徳観である.しかしルネッサンスの成果はその全体が貴族主義的でないか? ルネッサンスは何よりもまず知的エリートの育成によって特徴付けられ,その点で聖職者カーストが教育と学問の独占権を持っていた中世とは完全に異なっている.ルネッサンスがその最も明瞭な特色−古典古代への回帰をおうているのはこの知的エリートに対してではないだろうか。」 |
(私論.私見)