メディチ家の歴史(ルネサンスの物質的基礎)について |
(最新見直し2013.05.17日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、メディチ家史を確認しておく。 2006.11.24日 れんだいこ拝 |
メディチ家の約500年の歴史は、次のような四時代に区分される。
14世紀になってフィレンツェに誕生したルネサンスの動きは、ローマ、ヴェネツィアなど都市国家へ次々と波及し、イタリア・ルネサンスを開花させて行くことになった。ルネサンス誕生の背景としては、1・都市国家が収入源として交易、特に海洋交易に依拠していたことにもより進取の気風に富んでいたこと。2・繁栄し続ける都市国家の抗争が知力を必要とし才人を登用したこと、これに関連して個性の発揮が称賛されたこと。3・教皇ユリウス2世・レオ10世などに代表されるように教会の腐敗・堕落がルネサンス運動と調和していたことなどがあげられる(この教会の腐敗に対する反動として、ドイツ宗教改革に始まる宗教改革が起こる)。 この時期、「神曲」のダンテ、「デカメロン」のボッカチオ、建築のブルネレスキを始めとして、芸術にとどまらず多くの才能が世に出た。当時の小国乱立するイタリアと、その周辺が強大な君主政国家という実状からマキャベリが「君主論」を著した。彼らを支えたパトロンはメディチ家、教皇などを始めとする都市の有力者であり、彼らの貢献が多大であった。ただ、あまりに強大な有力者の支配に対する反乱も数多かった(サヴォナローラの反乱など)。 イタリア=ルネサンスはその後、都市国家がイタリアの支配権をめぐる神聖ローマ帝国、フランス王国、スペイン王国の覇権闘争(=イタリア戦争)に巻き込まれたことにより衰退・滅亡の道を歩む。唯一残ったヴェネツィアもオスマン=トルコとの地中海の覇権をめぐる争いで疲弊した。教皇領として中立地域であったローマで細々と続くことになる。 |
【メディチ家興亡史その1、フィレンツェでのメディチ家の台頭】 | |
メディチ一族は新興商人階級に属し、13ー14世紀の二世紀にわたる激烈な権力抗争の中で頭角を現わして行った。メディチ家の元々の出自は分からない。つまり、封建領主の出身ではなかったということのみが明確である。確かなことは、フィレンツェの北東近郊のムジェロ渓谷地帯に居住しており、14世紀末までにかなりの土地所有者となっていたこと、古くからの封建貴族ウバルディー二を凌ぐ最大の地主に成長していたことである。薬種業を手がけていたとされるが裏づけとなる資料は無い。明確なことは13世紀初頭にフィレンツェに進出し、銀行業(両替商)に乗り出したことであり、そのことで急速に経済的地歩を固め徐々に頭角を現わして行った。海外にまで支店網を広げ、各地の王侯やローマ教皇庁に金を貸し付ける等莫大な富を築くようになった。
第三の金持ちである条件を除けば、これらの条件はいずれも、メディチ家がフィレンツェに頭角を現わしていく上でのかなりのハンディ・キャップとして立ち塞がってきたものである。この後のメディチ家はの歩みは、一種このハンディ・キャップに対する挑戦ともなった観がある。 |
|
|
【メディチ家興亡史その2、ジョバンニ・ディ・ビッチ時代】 | |
ジョバンニは、イタリア各地に商社網を広げつつあった一族のヴィエーリに見出され、1386年に25歳で「ローマ商会」の共同経営者となった。教皇庁を主要顧客とする「ローマ商会」はヴィエーリの金融事業の中でも最重要な位置を占めており、1393年にヴィエーリが引退すると、ジョバンニはその事業を引き継いで自前の事業体に転換させた。 1397.10.1日、「ローマ商会」の本拠地をローマからフィレンツェに移し、これよりフィレンツェ経済界に君臨するメディチ銀行の第一歩が印されることになった。メディチ銀行は、1420年にかけて飛躍的な発展を遂げ、支点を主要都市に拡大した。 メディチ銀行が急速に発展した理由として、優れた組織構造と有能な人材登用があった。優れた組織構造とは、それまでのメジャー銀行であったペルッツィ商会やパルディ商会のように中央集権型の組織構成を採らず、あるいは単なる分散型の組織でもなく、その長所短所を組み合わせた親会社-子会社の二重構造にして統一と分散機能を兼ね備えたものにした。親会社は「共同経営」感覚を取り入れ、近代の持株会社に先駆する機能を果たしていた。人材登用とは、成果主義による利益の配分と社員の自発性、創意性、営業努力にに対する公正な評価システムが確立され、このことが有能な人士の結集と起用をもたらすことになった。1426.11月にアルプス越えを果たし、当時の国際的な金融・商業の中心地であったジュネーヴに支店が開設され、メディチ銀行は国際舞台に進出することになった。 銀行業の成功によってジョバンニ・ディ・ビッチの社会的立場も急速に上昇し、銀行組合の代表の一人として共和国政府の要職を歴任することになった。政府のプリオーレには1402年、1408年、1411年と三度選ばれ、1419年にはバリーア十人会(軍事・外交委員会)委員、1421年には「正義の旗手」を務めた。その他ボローニャ大使、従属都市ピストイアの総督、ベネチア大使にもなっている。ジョバンニは、「政治的に極めて慎重な人物で、与えられた公的職務を誠実に遂行しながらも求められる以上には政治的に深入りしようとはせず、有力者間の覇権争いには一貫して距離を保った」。これはメディチ家台頭の歴史から汲み出された教訓であり、「慎重の上にも慎重に、できるだけ控えめに、敵を作らず、目立たぬようにひたすら家業に専念する」が処世訓となっていたようである。 1413年の納税額で、メディチ家は、パンチャーティキ、ストロッティに続く共和国第三位の多額納税者となっていることが注目される。その背景として、ローマのカトリック教会への食い込みがあった。この時代、教皇がローマとアヴィニョンに並立しており、互いが自分が正統の教皇であり、相手が異端の徒であると宣言している「大分裂」時代であった。この教会大分裂の背景にはヨーロッパ各地の民族国家形成の動きがあったので、ローマ派とアヴィニョン派のどちらかが相手を屈服させて吸収合併できる状況には無かった。互いが聖年祭の派手な挙行を誇示し合い資金の手当ては喫急色を深めつつあった。この流れにメディチ銀行が乗り、コッサの枢機卿就任と軌を一にして教皇庁財政に深く関わっていくことになった。この頃の貸付金利相場は年利20~30%であり、全欧から教皇庁に集まってくる各国通貨の両替手数料も安全確実な収入として馬鹿にならなかった。それらから得られる収益が、メディチ家を経済大国フィレンツェ第3位の富豪へと押し上げていったことになる。 この当時のフィレンツェは、寡頭政治時代で、対ミラノ、対ナポリとの戦争状態にあったが、ジョバンニは、寡頭政治家のいずれの有力者とも均衡を保ち、様々な重要な時点で彼らの政治的対立を調停する役割を果たした。都市の平和と市民全体の利益を優先して行動するジョバンニの行動は、次第に市民的信望を獲得していくことになった。ジョバンニ以前のメディチ家は、他の大商人や都市貴族と比較して芸術パトロネージや教会への寄進活動に見劣りしていたが、ジョバンニ以来熱心な擁護者へと転換していくことになった。 14世紀になってフィレンツェからルネサンスが花開いていくことになったが、この時点では、メディチ家はパトロネージを競い合った有力家門の中の一つに過ぎず、こうしたパトロネージの複数性が初期ルネサンスの活力の基礎になっていた。フィレンツェの「メディチ化」が一挙に進んだのは、明確な絶対君主的自覚を持ったコジモ1世がフィレンツェ公(後の初代のトスカーナ公)となってからである。ジョバンニの功績は、それまでのメディチ家にまつわる「粗野で暴力的で過激な一族」というイメージの払拭であり、今やメディチ家は下層の民衆も含めて市民の広汎な支持を集める国政の中心であり、義理人情に厚い経営者であり、しかも洗練された革新的な趣味と教養に基づいてフィレンツェの町に光輝と美観をもたらす学芸のパトロンと評価されるようになったことにある。 ジョバンニは、1429.2.20日に死去した(享年69歳)。死の床で二人の息子コジモとロレンツォに託した遺言は次の処世訓であったと伝えられている
マキャベリは、「彼は豊かな富を積んで没したが、その名声と人格はその富よりもさらに豊かであった」と讃辞している。ジョバンニが着々営々と築き上げた人脈が、この後のメディチ党の基盤となった。 |
|
![]() |
|
【メディチ家興亡史その3、コジモ・ディ・ジョヴァン二(1389ー1464)時代】 | |||
1429年、ジョバンニの後を継いだ長男コジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴォッキオ)はその時40歳の有能な働き盛りであった。幼少よりジョバンニの英才教育を受け学問芸術に親しみを得て、経験豊かな銀行家・実業家となり、巧みな処世術と才覚で登竜していった。ジョバンニの遺言として託された処世術(1・冷静沈着なリアリズム、2・極度の政治的慎重さ、3・市民大衆への気前よさと農民的な質素さ、4・人心掌握の本能的な明敏さ)をコジモ的に受け継ぐことで、コジモ時代の30年間を通じてメディチ家がフィレンツェの頂点に上り詰めることになった。
コジモは、フィレリンツェの国運隆盛に非常に尽力した。従来式の閨閥によらず能力主義による人材登用、公平な税制としての累進課税制度の導入、公共設備インフラの整備等々に取り組んだ。
実際には30年後に追放されることになったが、メディチ家-メディチ党の基盤の表向きの強さにも関わらずなかなか根をおろすことが難しかったということであろう。そのコジモは1464.8.1日、逝去した(享年75歳)。共和国政府は、コジモの功績を称え、「祖国の父」の尊号を贈った。教皇ピウス二世の言によれば、コジモは「無冠の独裁者、称号を持たない実質上の君主」であった。この「コジモ・イル・ヴォッキオの覇権確立」は、「先行世代の寡頭政治の方法を継承し、それを完成させながら実質上共和国を君主国へと転化させていった」点で、フィレンツェの歴史の重大な転換点となった。コジモの代にメディチ家がフィレンツェ共和国の実質的な君主として独裁的権力を振るい、しかもその地位の世襲化に成功することとなった。それ故、コジモをもってして「メディチ王朝」の開祖とする。 |
|||
|
|||
コジモ・デ・メディチの威力は後のロスチャイルド王国の先駆を為す観がある。この方面からの研究が待たれているのではなかろうか。 |
【メディチ家興亡史その4、(大)ピエロ(1416ー1469)時代時代】 |
コジモの後のメディチ家は長男ピエロ(当時48歳)、孫のロレンツォ(当時15歳)が引き継いでいくことになった。ピエロの代のメディチ家も反対派との政争に巻き込まれ、平穏ではなかった。妻として名門トルナヴォー二家の、女流詩人でもあったルクレツィアを娶った。 |
【メディチ家興亡史その5、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(1449-1492)時代】 | ||
ピエロの長男ロレンツォは、5才の頃より本格的な英才教育を受け、ラテン語、トスカーナ語、それらの文学に親しみ、10才の頃からフィレンツェの大学に通い、古代ギリシャに造詣を深めた。また祖父コジモの創設したプラトン・アカデミーでのサークルの常連となり、哲学的討論に花を咲かせている。その他建築学、音楽の素養も学んだ。1469.6月ローマの大貴族オルシー二家のクラリーチェと結婚した。その後父ピエロが53才で急死したため、母ルクレツィア、弟ジュリアーノと共にメディチ家を相続し。
|
||
|
||
このゴンドラの唄の元歌は、イタリアの古典詩人ポリッツィアーノの作った詩を、フィレンツェのメディチ家の当主ロレンツォが愛し、事あるごとに歌っていたものであるとされている。「バッカス(酒神)の歌」として知られる。1915(大正4)年に発表された流行歌「ゴンドラの歌(吉井勇作詞 。中山晋平作曲、松井須磨子歌唱)は次のように意訳している。
森田義之著「メディチ家」(講談社現代新書、2002.2.20初版)は次のように解説している(167〜181ページ抜粋)。
|
【メディチ家興亡史その6、(小)ピエロ・ディ・ロレンツォ(1472ー1503)時代】 |
メディチ家の当主は、ピエロ・ディ・ロレンツォとなったが、メディチ体制を引き継ぐには荷の重すぎる人物であった。ロレンツォの死去より2年後、1494年から約半世紀にわたってイタリアは未曾有の激動と混乱の時代に突入する。1494.9月フランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻が始まり、和睦の道を選んだピエロはフィレンツェ政庁から永久追放処分された。1494.11.17日シャルル8世の指揮するフランス軍はフィレンツェに入場し、主の居なくなったメディチ邸に本拠を構えた。メディチ銀行は撤収され、資産も没収されて、メディチ銀行のネットワークもこの年崩壊した。こうして1434年以来60年にわたってフィレンツェを支配してきたメディチ体制はあっけなく崩壊した。以降、イタリアはヴァロア朝のフランスとハプスブルク家のスペイン・オーストリアが領土的主権を争う舞台となり、イタリア諸国の勢力均衡が崩れ、ルネサンス時代の「自由と独立」気運は急速に失われていった。フィレンツェの夢は消え去り、ヨーロッパの国際社会における小国家に転落したまま推移していくことになった。 |
【フィレンツェ史ソデリー二時代】 |
その後のフィレンツェは、「広い政府」を維持しようとする上層市民を中心とする「白派」と「狭い政府(寡頭体制)」を望む都市貴族の一派「灰色派」の対立となり、1502.8月両派妥協の上にベネチア共和国の頭領にならった終身国家主席(「終身の正義の旗手」)を設置し、名門出身のピエロ・ソデリー二を選出した。ソデリー二時代は約10年間続くことになる。この時代は、ルイ12世のフランスが新たな攻勢をかける複雑なイタリア情勢の中で、優柔不断な外交政策と長期化するピサ攻略戦、都市内での慢性化した財政危機や党派対立に揺れ動きながら、共和政時代の最後の政治的・文化的高揚を示した時代となった。 この時代にソデリー二の側近として活躍したのが二ッコロ・マキャベリ(1469-1527年)であった。フィレンツェは伝統的に軍事的弱体に悩まされてきたが、マキャベリはその建て直しを企て、1506年に市民軍の編成に着手した。これは従来の傭兵方式からの転換であった。 ソデリー二時代のフィレンツェ・ルネサンスは、サヴァナローラ時代の文化的自己否定と禁欲主義から開放されて、共和主義の理念と市民的プライドに基づく公私にわたる旺盛なパトロネージを甦らせ、新しい芸術的活力に満ちた一時代を現出した。「大評議会」議場の建設等公共的プロジェクトの進展に呼応して、私的パトロネージが活性化し、ストロッツィ家、ドー二家、パンドルフィー二家などの都市貴族が新しい礼拝堂を建てたり、私的作品を次々に注文していつた。この時代に美術史上の「盛期ルネサンス」の幕開けを告げるレオナルド・ダ・ビンチとミケランジェロの華麗な競演時代が現出した。ミケランジェロの「ダビデ像」、レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」はこの頃の作品である。ラファエロ(1483-1520年)がフィレンツェにやってきたのは1504年からである。ドー二家、ナージ家、タッディ家などの要請を受け、数多くの聖母子像や肖像画を制作することになった。 |
【メディチ家興亡史その7、ジョヴァン二時代時代】 |
この時代にメディチ家の当主ピエロは亡命先のローマから復権を図って様々な画策を為したが失敗に帰している。1503.12月、フランス軍とスペイン軍の衝突の際にフランス軍に加わり敗れ、逃走中に溺死した。これによりメディチ家の当主は弟の枢機卿ジョヴァン二に引き継がれる事になった。この頃のイタリアは、フランスとスペインと教皇という三勢力による草刈場にされ、その政争に巻き込まれる形で1512.9.1日、ソデリー二が亡命を余儀なくされている。この時スペイン軍に同行してきたのはメディチ家の三男ジュリアーノであった。その後フィレンツェ政府はメディチ家のフィレンツェ復帰を要請し、9.14日、メディチ家当主・ジョヴァン二枢機卿が入場した。1494年の亡命以来18年ぶりの帰還となった。この時フィレンツェ政庁は同時に神聖同盟(教皇国・ベネチア・ナポリ・スイス)への参加を受け入れていた。 ジョヴァン二は、これより15年間フィレンツェを「僭主支配」で統治することになる。共和制の機構を再度1494年以前の状態に戻し、国家主席の終身制を廃止し一年任期とし、大評議会と市民軍を廃止、代わりに70人評議会や百人評議会などの各種評議会を復活し、バリーアの権限を強化した。その支配の方式は、表向きは共和制の擬制を維持しながら重要な役職をメディチ派で独占するという手法であった。ロレンツォの時代と違ったことは、重要な決定が全てローマで為されるようになった事と、権力集中が一段と強化されたこと、メディチの傭兵団が常駐し、一種の警察国家的な色彩が強まったことにあった。 |
【メディチ家最初のローマ教皇レオ10世】 |
1513.3.11日ロレンツィオ・イル・マニフィコの次男ジョヴァン二(1475‐1521年)は、メディチ家出身の最初の教皇として選ばれ、レオ10世の名で即位した。37歳の史上最年少の教皇の誕生となった。かくしてメディチ家はフィレンツェと教皇国の両方を支配するイタリア最大の門閥となった。1515.11.30日レオ10世がフィレンツェに入城し、大々的に祝祭された。レオ10世の下でこの頃ローマでも華麗な宮廷文化が花開いていた。のちに「レオの時代」と呼ばれるバチカン宮廷を舞台とする盛期ルネサンス文化の「黄金時代」を現出した。レオも又、学芸の熱心な擁護者パトロネージとなり、宮廷では当時の最高の人文学者や詩人、芸術家、演劇家が集まり、催しに明け暮れることとなった。絵画の分野ではラファエロが格別に寵愛された。ミケランジェロも起用された。短期間ではあったが、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三人が揃い踏みしていたのもこの頃である。父マニフィコと同様に古典の写本にも力を入れ、私設図書館を設けて文人達に開放した。ローマ大学を拡充し、ギリシャ人学者を招き、ヘブライ語やアラブ語の著作の研究を奨励し、印刷出版にも援助の手を差し伸べた。 |
【メディチ家二番手のローマ教皇クレメンス7世】 |
1521.12月、レオは風邪をこじらせて急死した(46歳)。その後をハドリアヌス6世が在位したが一年程で死去すると、再びメディチ家出身のジュリオがクレメンス7世(在位1523-34年)として即位した。クレメンス7世が在位した11年間のイタリアとヨーロッパの情勢は、レオの時代には予想もつかなかった激しい変化の時代となった。まずは、フランス国王フランソア1世と神聖ローマ大国皇帝カール5世がイタリアでの領土権を廻って争いあう「イタリア戦争」が頂点に達した・ルターによって火蓋を切られたプロテスタント宗教改革波は、ドイツ、スイスからスカンジナビアまで広がった。英国では、ヘンリー8世の離婚問題に端を発して英国教会が分離し、東ヨーロッパではオスマン・トルコがハンガリーに浸入してオーストリアに脅威を与えることになった。 |
【メディチ家興亡史その8、アレッサンドロ時代】 |
メディチ家のアレッサンドロがフィレンツェに送り込まれた1531年からメディチ家の家系が断絶する1737年までの200年間、メディチ家はフィレンツェ公、次いでトスカーナ公として、正真正銘の君主の資格でフィレンツェとその領国を支配することになった。しかし、皮肉なことに、「メディチ王朝」として君臨したこの200年は、イタリア諸国全体が政治的経済的衰退期に突入しており、絶対王政下の西欧諸国が覇権を争う趨勢の中で一弱小国に過ぎない存在になっていく過程でもあった。但し、血脈的には、既に二人の教皇とフランス王妃を出していたが、さらに二人の教皇(ピウス4世、レオ11世)と一人のフランス王妃(マリー・ド・メディシス)を送り出し、ハプスブルク家との縁戚関係も強めながら、西欧上流階級に一層浸透していくことになった。都市内においても、この頃にメディチ家伝統のパトロネージを積極的に展開し、その権力と栄光を様々な形で刻み付け、商人の共和国フィレンツェに君主国家としてのモニュメンタルな外観を付け加えていった。今日目にするフィレンツェのあちこちでのルネサンス美とか美術コレクションは、この時代に形成されたものが多い。 |
【メディチ家興亡史その9、コジモ時代】 |
後継が紛糾したが、結局選ばれたのは、弟脈のジョヴァン二とロレンツィオ・イル・マニフィコの孫娘マリア・サルヴィアーティの息子で当時17歳のコジモ(1519-74)であった。このコジモが強権且つ英明君主として君臨していくことになった。1537.7月反メディチ派の有力者の処刑、9月皇帝カール5世より「公爵」の称号の授与、1539年カール5世の取り持ちでスペインの大貴族の娘と結婚し、皇帝=スペインとの連携強化に成功している。その様は、マキャベリの「君主論」における「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない」を地で行った歴代のメディチ家にあって珍しいタイプとなった。 コジモの治世は30年以上に及ぶことになったが、その政策は四つの課題を掲げていたようである。①・神聖ローマ皇帝とスペインからの独立性を強める、②・フィレンツェとその支配都市との政治的・経済的一体化の促進、③・旧寡頭貴族層からの政府機構の分離、④・メディチ家の栄光化。コジモはアレッサンドロ時代に確立された政治体制を引き継ぎながら、多くの行政機関を創設し、この機関の拡大によって議会の機能を行政の承認機関へと形骸化していった。これらの行政組織の上に、君主の私的諮問機関として「枢密顧問団」を置き、その権限を拡大して権力の集中化を図った。こうした私的な顧問団やその書記局にも他都市出身の有能な法律化が多く登用されたが、コジモは非フィレンツェ人の新官僚=法律家を養成するためにピサ大学を援助した。こうしてトスカーナの従属都市の出身者を官僚に登用することは、それらの都市を支配する上でも重要な意味を持っていた。こうしてトスカーナ大公国の政治的行政的基礎を築いた。 コジモの対外政策は、スペインの支配の枠内で相対的な独立を極力推し進めるということに費やされたようである。スペインのフランスとの戦争に戦費調達する代わりに次第にスペイン軍の駐屯を撤退させ、フィレンツェはじめトスカーナの主要都市の要塞化を進めている。あるいは1552年にピオンビーノの占領、シェナ併合等領国の拡大を図っている。1562年には、トルコ艦隊に対する防衛目的で海軍を創設している。1569年教皇ピウス5世は、コジモに「トスカーナ大公」の称号を授与している。内政に於いても、農業保護を基軸に各種産業の振興策を積極的にうちだし成功している。しかし、こうした努力にもかかわらず、イギリス、フランスの経済進出のほうが目覚しく、相対的には衰退傾向に陥っていた。 ルネサンスとの絡みで見れば次のように言える。コジモのパトロネージによつて、商人都市フィレンツェは、ヨーロッパの第一級の宮廷都市と競い合い、モニュメンタルな威観を誇る君主都市へと変貌する。フィレンツェ公国の国家的威力と絶対君主となったメディチ家の栄光を視覚的に称揚する一連の大事業に着手し、当時のトスカーナの有能な建築家、彫刻家、画家を総動員した。ヴァザーリ、アンマナーティ、バンディネッリ、チェリーニ、トリーボロ、ブロンズィーノらの面々がその中心的役割を担った。この時代「第二の黄金時代」とも呼ばれる隆盛を示し、都市の相貌を大きく変化させた。 |
【メディチ家興亡史その10、フランチェスコ1世時代】 |
1574.4.21日、コジモ1世が逝去した(55歳)。後継には長男のフランチェスコ1世(1541-87年)が元老院より選出され、33歳でトスカーナ大公となった。13年間治世することになつたが、政治的業績として見るべきものは殆ど無いとされている。この時既にハプスブルク家との政略結婚でジョヴァンナとの間に5人の女子をもうけていたが、政治よりも科学や錬金術を偏愛し、豪奢な別荘の造営や美術コレクションに注力した。愛人ビアンカ・カペッロとのスキャンダラスな恋愛劇も演じている。但し、金銀細工、ガラス製造等の特殊科学はその後フィレンツェ独自の高級工芸産業に発展していくことになったという経過も見せている。 |
【メディチ家興亡史その11、フェルディナンド1世時代】 |
急死したフランチェスコ1世の後を継いだのは、弟のフェルディナンド1世(1549-1609年)であった(38歳)。1588年にトスカーナ大公に就任し、翌1589年フランス国王アンリ2世とカトリーヌの孫娘クリスティーヌ・ド・ロレーヌと盛大な結婚式を挙げている。フェルディナンド1世はフランチェスコ1世とは対照的で明敏な政治感覚と外交感覚を備えた精力的な行政家であった。注目される点は、それまでのスペイン一辺倒からフランス寄りにシフト替えし、ローマ教皇庁への影響力も強め、フランスとスペインとの間に政治的均衡を調整した。内政では、コジモ1世時代の産業振興政策を推進し、衰微していた諸産業と農業の振興を図った。更に、西欧、中近東、ブラジルまで出かける貿易を奨励し、その活性化の為にリヴォルノの自由港化、貿易都市化を推進した。1593年この港町を完全な自由貿易港とし、宗教的異端者や犯罪者も含むあらゆる国の商人に開放し、25年間にわたる関税の免除を実行した。スペイン、ポルトガル、ドイツ、トルコ、アルメニア、ギリシャ、ペルシャ、ユダヤ人などあらゆる国や人種の商人が来航し、フランス、ベネチア、ジェノバ、ラグーサ、オランダ、ポルトガル、スウェーデンなどの領事館が置かれ、活発な貿易が営まれた。宗教的迫害を受けたユダヤ人、カトリック教徒、プロテスタント(ユグノー教徒)も活動の地を求めてやってきた。 |
(私論.私見)