メディチ家の歴史(ルネサンスの物質的基礎)について

 (最新見直し2013.05.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、メディチ家史を確認しておく。

 
2006.11.24日 れんだいこ拝


 メディチ家の約500年の歴史は、次のような四時代に区分される。

第一期 13-14世紀 メディチ家の形成期  新興一族の中でも群を抜いてメディチ家が台頭していった時期となる。
第二期 15世紀 メディチ家の覇権確立期  メディチ体制の全盛時代となる。「ジョヴァン二・ディ・ビッチとコジモ・イル・ヴェッキオによるメディチ銀行の飛躍的成功とそれを基盤として進行した共和体制内での僭主的支配の時代、そしてコジモ及びロレンツォ・イル・マニフィコによるパトロネージと初期ルネサンス文化の『黄金時代』」とも云われる。
第三期 16世紀 君主化と君主制の確立期  「追放と復権後、メディチ教皇の間接統治を通じて君主化の道を歩み、最終的にフィレンツェ公・トスカーナ大公として君主国家の体制を確立する時代」とも云われる。
第四期 17‐8世紀 メディチ大公の衰退と没落期

 14世紀になってフィレンツェに誕生したルネサンスの動きは、ローマ、ヴェネツィアなど都市国家へ次々と波及し、イタリア・ルネサンスを開花させて行くことになった。ルネサンス誕生の背景としては、1・都市国家が収入源として交易、特に海洋交易に依拠していたことにもより進取の気風に富んでいたこと。2・繁栄し続ける都市国家の抗争が知力を必要とし才人を登用したこと、これに関連して個性の発揮が称賛されたこと。3・教皇ユリウス2世・レオ10世などに代表されるように教会の腐敗・堕落がルネサンス運動と調和していたことなどがあげられる(この教会の腐敗に対する反動として、ドイツ宗教改革に始まる宗教改革が起こる)。

 この時期、「神曲」のダンテ、「デカメロン」のボッカチオ、建築のブルネレスキを始めとして、芸術にとどまらず多くの才能が世に出た。当時の小国乱立するイタリアと、その周辺が強大な君主政国家という実状からマキャベリが「君主論」を著した。彼らを支えたパトロンはメディチ家、教皇などを始めとする都市の有力者であり、彼らの貢献が多大であった。ただ、あまりに強大な有力者の支配に対する反乱も数多かった(サヴォナローラの反乱など)。

 イタリア=ルネサンスはその後、都市国家がイタリアの支配権をめぐる神聖ローマ帝国、フランス王国、スペイン王国の覇権闘争(=イタリア戦争)に巻き込まれたことにより衰退・滅亡の道を歩む。唯一残ったヴェネツィアもオスマン=トルコとの地中海の覇権をめぐる争いで疲弊した。教皇領として中立地域であったローマで細々と続くことになる。

【メディチ家興亡史その1、フィレンツェでのメディチ家の台頭】

 メディチ一族は新興商人階級に属し、13ー14世紀の二世紀にわたる激烈な権力抗争の中で頭角を現わして行った。メディチ家の元々の出自は分からない。つまり、封建領主の出身ではなかったということのみが明確である。確かなことは、フィレンツェの北東近郊のムジェロ渓谷地帯に居住しており、14世紀末までにかなりの土地所有者となっていたこと、古くからの封建貴族ウバルディー二を凌ぐ最大の地主に成長していたことである。薬種業を手がけていたとされるが裏づけとなる資料は無い。明確なことは13世紀初頭にフィレンツェに進出し、銀行業(両替商)に乗り出したことであり、そのことで急速に経済的地歩を固め徐々に頭角を現わして行った。海外にまで支店網を広げ、各地の王侯やローマ教皇庁に金を貸し付ける等莫大な富を築くようになった。

 云える事は、メディチ家が銀行業(両替商)に手を染めていったことの慧眼ぶりである。当時のキリスト教社会では、公然たる「貸金業=高利貸し」は神と自然の法に背くものとして、教会法によっても都市法によっても禁止されていた。しかし、旺盛活発な経済活動が銀行業(両替商)と貿易商社業を必要とし始めた。この時期、銀行、両替商、貿易商は未分化の時代であり、不可分にして渾然一体だった。メディチ家がこれに積極的に取り組み始めた際に、「貸金業=高利貸し」の概念自体が曖昧で様々な逃げ口上や抜け道が用意されていた。換金の際の手数料や換算率の操作によって、為替手形の巧妙な操作によって、巨額の利益が発生することになった。これに対し、教会側は道徳的優位性から「神への勘定」項目を設けさせ、教会への喜捨や慈善活動寄付金を強制していくことで共存関係に入った。この系譜から、大商人や金融業者の教会への積極的な寄進活動やパトロン活動が生み出されることになったようである。

 この頃のフィレンツェは、古い封建貴族階級に代わって、「太った市民」と呼ばれる商業ブルジョアジーが指導階級として幅を利かせ始めていた。アルピッツィ、ダヴァンツァーティ、ストロッティ、ピッティ、サルヴィアーティーなどの有力諸家が鎬を削っており、この中で頭角を現わしていくことはなかなかの難事であった。メディチ家はその仲間入りに向けて営々努力していくことになった。共和制は、こうした資産階級に有事の財源としての国債強制割当を課していた。かなり高額課税であったが、割当の対象になるのは富豪と認められた証拠でもあり、むしろ競って課税を引き受けたようである。

 
財務的に担保されたこういう気運の中から教会や公舎の建立が始まった。1296年にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、1298年に政庁館の建設が着工された。ドメニコ修道会のサンタ・マリア・ノベェッラ聖堂、フランチェスコ修道会のサンタ・クローチェ聖堂、その他病院など、都市の中枢的な聖俗の建築物が次々と改修・拡張・新築されていった。街路や広場が拡張・整備・舗装され、有力市民の豪壮なパラッツォも次々と築造されていった。今日的に言えば、公共事業が槌音高く始まり、それに併せて民間需要も創出されていったということになる。この頃「詩聖」ダンテ(1265-1321)が出現している。1300年にプリオーレを務め、その2年後に政争に巻き込まれ国外追放に処せられた。不朽の長編名作「神曲」はこの流転の生活の中で執筆された。ダンテに続いてボッカッチョが出現したのもこの頃のことである。

 メディチ家はこの頃一族としてフィレンツェの経済界に進出していくことになった。それぞれの家系が互いに結束して利益を共有しつつあるいは別個に活動していくことにより、最も旺盛な「成り上がり者」、「俄か成金」になっていった。その様に対して、ダンテは著書「神曲・地獄扁」文中で「倣岸不遜の風」、「傲慢、嫉妬、貪欲、この三つの火花が人々の心に燃えついている」と記している。この頃までのメディチ家は新参者でしかなく、その台頭には意想外の苦難が待ち受けていた。メディチ家は一歩一歩乗り越え力づくで頭角をあらわしていったが、その過程にはかなりの刃傷・被処刑事件が伴っており、旧秩序勢力からは「暴力的で粗野で下品な一族」との「鼻つまみ」的汚名が着せられていたようである。

 英国の碩学へイル教授は、この頃のフィレンツェの栄達基準を解析して次のように記している。

 概要「フィレンツェで一人の男が評価される条件は。、まず昔から国事に関与して功績のある家系に属すること、第二に妻を名門から迎えていること、第三に資産の多いことである。第四にこの時代の気風として、古典研究が上流階級の必須の教養であり、いくら金持ちで国事に功績をおさめても、学問や教養が無ければ、尊敬や信用を勝ち得ることが出来なかった」。

 第三の金持ちである条件を除けば、これらの条件はいずれも、メディチ家がフィレンツェに頭角を現わしていく上でのかなりのハンディ・キャップとして立ち塞がってきたものである。この後のメディチ家はの歩みは、一種このハンディ・キャップに対する挑戦ともなった観がある。

 メディチ家の家系として有名なところには、13世紀に活躍したボーナジュンタ一族、14世紀にはキアリッシモ一族、アヴェラルド一族、14世紀までのメディチ家一族の結束はさほどでもなく、むしろ身内同士でのいがみ合い、殺し合いまで経験していた。15世紀に入ってから一族の結束を強め始め、アヴェラルド一族が群を抜いて頭角してきた。その覇権確立の礎を築いたのが、ジョバンニ・ディ・ビッチ(1360-1429年)であった。その長男のコジモから、ピエロ、ロレンツォへと引き継がれ、アヴェラルドの家系の歴史がメディチ一族全体の正統の歴史「王朝」となった。

(私論.私見) メディチ家の出自について


【メディチ家興亡史その2、ジョバンニ・ディ・ビッチ時代】
 ジョバンニは、イタリア各地に商社網を広げつつあった一族のヴィエーリに見出され、1386年に25歳で「ローマ商会」の共同経営者となった。教皇庁を主要顧客とする「ローマ商会」はヴィエーリの金融事業の中でも最重要な位置を占めており、1393年にヴィエーリが引退すると、ジョバンニはその事業を引き継いで自前の事業体に転換させた。

 1397.10.1日、「ローマ商会」の本拠地をローマからフィレンツェに移し、これよりフィレンツェ経済界に君臨するメディチ銀行の第一歩が印されることになった。メディチ銀行は、1420年にかけて飛躍的な発展を遂げ、支点を主要都市に拡大した。

 メディチ銀行が急速に発展した理由として、優れた組織構造と有能な人材登用があった。優れた組織構造とは、それまでのメジャー銀行であったペルッツィ商会やパルディ商会のように中央集権型の組織構成を採らず、あるいは単なる分散型の組織でもなく、その長所短所を組み合わせた親会社-子会社の二重構造にして統一と分散機能を兼ね備えたものにした。親会社は「共同経営」感覚を取り入れ、近代の持株会社に先駆する機能を果たしていた。人材登用とは、成果主義による利益の配分と社員の自発性、創意性、営業努力にに対する公正な評価システムが確立され、このことが有能な人士の結集と起用をもたらすことになった。1426.11月にアルプス越えを果たし、当時の国際的な金融・商業の中心地であったジュネーヴに支店が開設され、メディチ銀行は国際舞台に進出することになった。

 銀行業の成功によってジョバンニ・ディ・ビッチの社会的立場も急速に上昇し、銀行組合の代表の一人として共和国政府の要職を歴任することになった。政府のプリオーレには1402年、1408年、1411年と三度選ばれ、1419年にはバリーア十人会(軍事・外交委員会)委員、1421年には「正義の旗手」を務めた。その他ボローニャ大使、従属都市ピストイアの総督、ベネチア大使にもなっている。ジョバンニは、「政治的に極めて慎重な人物で、与えられた公的職務を誠実に遂行しながらも求められる以上には政治的に深入りしようとはせず、有力者間の覇権争いには一貫して距離を保った」。これはメディチ家台頭の歴史から汲み出された教訓であり、「慎重の上にも慎重に、できるだけ控えめに、敵を作らず、目立たぬようにひたすら家業に専念する」が処世訓となっていたようである。

 1413年の納税額で、メディチ家は、パンチャーティキ、ストロッティに続く共和国第三位の多額納税者となっていることが注目される。その背景として、ローマのカトリック教会への食い込みがあった。この時代、教皇がローマとアヴィニョンに並立しており、互いが自分が正統の教皇であり、相手が異端の徒であると宣言している「大分裂」時代であった。この教会大分裂の背景にはヨーロッパ各地の民族国家形成の動きがあったので、ローマ派とアヴィニョン派のどちらかが相手を屈服させて吸収合併できる状況には無かった。互いが聖年祭の派手な挙行を誇示し合い資金の手当ては喫急色を深めつつあった。この流れにメディチ銀行が乗り、コッサの枢機卿就任と軌を一にして教皇庁財政に深く関わっていくことになった。この頃の貸付金利相場は年利20~30%であり、全欧から教皇庁に集まってくる各国通貨の両替手数料も安全確実な収入として馬鹿にならなかった。それらから得られる収益が、メディチ家を経済大国フィレンツェ第3位の富豪へと押し上げていったことになる。

 この当時のフィレンツェは、寡頭政治時代で、対ミラノ、対ナポリとの戦争状態にあったが、ジョバンニは、寡頭政治家のいずれの有力者とも均衡を保ち、様々な重要な時点で彼らの政治的対立を調停する役割を果たした。都市の平和と市民全体の利益を優先して行動するジョバンニの行動は、次第に市民的信望を獲得していくことになった。ジョバンニ以前のメディチ家は、他の大商人や都市貴族と比較して芸術パトロネージや教会への寄進活動に見劣りしていたが、ジョバンニ以来熱心な擁護者へと転換していくことになった。

 14世紀になってフィレンツェからルネサンスが花開いていくことになったが、この時点では、メディチ家はパトロネージを競い合った有力家門の中の一つに過ぎず、こうしたパトロネージの複数性が初期ルネサンスの活力の基礎になっていた。フィレンツェの「メディチ化」が一挙に進んだのは、明確な絶対君主的自覚を持ったコジモ1世がフィレンツェ公(後の初代のトスカーナ公)となってからである。ジョバンニの功績は、それまでのメディチ家にまつわる「粗野で暴力的で過激な一族」というイメージの払拭であり、今やメディチ家は下層の民衆も含めて市民の広汎な支持を集める国政の中心であり、義理人情に厚い経営者であり、しかも洗練された革新的な趣味と教養に基づいてフィレンツェの町に光輝と美観をもたらす学芸のパトロンと評価されるようになったことにある。


 ジョバンニは、1429.2.20日に死去した(享年69歳)。死の床で二人の息子コジモとロレンツォに託した遺言は次の処世訓であったと伝えられている
 「私は生まれたときに神と自然が私に与えてくれた時間を十分に生きたと思っている。今私のその天寿が尽きたと思う。私は満足して死ぬが、それはお前達に財産と、健康と、地位を残してやったからだ。お前達が私の歩いた通りの道を歩めば、フィレンツェで名誉を保ち、誰からも喜ばれて生きることができるだろう。私が満足して死ねる何よりの理由は、私が誰一人として傷つけたことがないこと、むしろ誰に対してもできる限り恩恵を施したからだ。お前達も是非そうして欲しい。国家に関しては、もしお前達が安全に生きたいのなら、法や人々が定めることだけを引き受けなさい。そうすれば嫉妬や危険を招くことも無い。なぜなら、人に与えられるものより、人が獲得するものこそが憎しみを買うからだ。そうすれば、お前達はいつも、他人の分まで望んで自分のものまで失い、またそれを失うまではたえず怯えて生きる者よりも多くのものを得るだろう。こうした術によって、私は、多くの敵、多くの反目の中で、この都市で自分の評判を維持し、高めてきたのだ。だから、私の歩いてきた通り進めば、評判を維持し高めることができる。しかし違った風にやれば、お前達の行く末は、自らと自らの一族を滅ぼした連中と同じように、不幸なことになるなるだろう」(マキャベリ「フィレンツェ史」)。


 マキャベリは、「彼は豊かな富を積んで没したが、その名声と人格はその富よりもさらに豊かであった」と讃辞している。ジョバンニが着々営々と築き上げた人脈が、この後のメディチ党の基盤となった。
(私論.私見) ジョバンニの処世思想について

【メディチ家興亡史その3、コジモ・ディ・ジョヴァン二(1389ー1464)時代】

 1429年、ジョバンニの後を継いだ長男コジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴォッキオ)はその時40歳の有能な働き盛りであった。幼少よりジョバンニの英才教育を受け学問芸術に親しみを得て、経験豊かな銀行家・実業家となり、巧みな処世術と才覚で登竜していった。ジョバンニの遺言として託された処世術(1・冷静沈着なリアリズム、2・極度の政治的慎重さ、3・市民大衆への気前よさと農民的な質素さ、4・人心掌握の本能的な明敏さ)をコジモ的に受け継ぐことで、コジモ時代の30年間を通じてメディチ家がフィレンツェの頂点に上り詰めることになった。

 コジモがジョバンニの後を継いだ時のフィレンツェ共和国は寡頭派の支配下にあった。その中心的人物がアルビッツィ家の当主リナルドで、対外膨張政策をもくろんでいた。いつの時代でも軍事と軍備増強は金食い虫であり、財政赤字をもたらすのが世の常である。この状況の中で、コジモは戦争推進派としてあるいは増税反対派として身を処し、沸き起こる寡頭派に対する市民の不満を上手に利用しつつメディチ党の拡大強化に乗り出した。ジョバンニの代に用心深く水面下で行われていた党派組織活動が、コジモの代になって、メディチ党が寡頭派に対抗する政治勢力として台頭を露にし、おおっぴらに党派活動を展開するようになった。

 メディチ党の団結力、組織力、凝集力を解明することは意味あるテーマであるが、資料が残されていない。ここに至るまであるいはその後の動きは、メディチ家の当主がフィレンツェを追放されても、メディチ家の財政が左前になってもメディチ党は動揺せず、フィレンツェ市内に確固たる地番を維持しえていた。その要因は何であったか。考えられることは、当時のフィレンツェ社会が要求していたものに対して、メディチ家が政治的にも財政的にも思想的にも深く繋がっていたと考える以外にはない。明らかなことは、下層の無権利大衆がメディチ支持であったという事実である。アルテに属せず、参政権を奪われていた勤労者大衆にとって、フィレンツェの共和主義イデオロギーは絵に描いた餅でしかなかった。自由や平等と云ってみても、それは旦那方だけの自由であり平等であることに不満を抱いていた下層市民は、むしろメディチ党の現実主義感覚に共感していた風がある。興味深いテーマであるが、この種の考究はさほど為されていない。

 コジモは、1416年のプリオーレ就任を皮切りに、いくつもの重要な役職、使節を務めることになった。しかし否応なく政争に巻き込まれ、1433年、政府転覆の廉(かど)で死刑の宣告を受ける身となる。しかし、幸運にも危機を脱し、パドヴァへの10年間の追放となった。パドヴァに流刑されたコジモはベネチアに移り、同じく亡命していたロレンツォと合流する。時代は逆流し、追放1年後、「内戦も暴動もなしに勝利の帰還」を果たした。この経過はまさに波乱万丈であった。

 1434年秋、45歳のコジモがフィレンツェの権力を獲得したが、それは「静かなる革命」と云えるものであった。同時に新興派閥勢力メディチ家の旧勢力との戦いの勝利の凱歌でもあった。コジモは、表向きは従来の寡頭共和制を維持しつつ、その裏で絶対的な多数派を形成し、メディチ家の権力支配を不可逆的に固定化することに成功した。それは一種の黒幕政治=僭主政であった。「閨閥の拡大」と「党派的なメディチ家人脈の形成」と「貸付による金融支配」と「政敵弾圧機関バリーアの活用」等々が政治的手法として採用され、ことごとくが首尾よく推移した。フィレンツェの市民精神として類まれな「抽選制による委員選出と短期任期による交替制」に対しても、表向きはこれを踏襲し、その内実を空洞化ざせていった。これを評して次のように云われる。

 「フィレンツェは名目上の共和制を保っていた。自由であるという見せ掛けと外観は保っていた。しかし事実は、メディチ家がフィレンツェを支配し、メディチ家がフィレンツェの住人となった。なぜならば、メディチ家がその好む者に役職を支配し、役職を与えられた者はメディチ家の合図にしたがって行動することになったからである」。

 コジモは、フィレリンツェの国運隆盛に非常に尽力した。従来式の閨閥によらず能力主義による人材登用、公平な税制としての累進課税制度の導入、公共設備インフラの整備等々に取り組んだ。

 コジモは、先行する大パトロネージの伝統を継承し、文芸を愛好したことから多くの芸術家に仕事を提供する等当代一の大パトロンとなった。今日風に言えば、メセナ(学芸擁護者)として、学問・芸術・建築のパトロンとなり、質的にも量的にも従来のそれとはスケールを異にする旺盛な活動を展開した。この時期コジモの人文主義的個性も相俟って古典研究にも力を注いだ。ヨーロッパで最初の図書館ともなるサン・マルコ図書館、バチカン図書館、フィエ-ゾレのバディアにも宗教書の図書館が創設されていった。多数の筆写家が雇われ写本が生み出される等書籍コレクションにも傾注した。プラトン・アカデミーの構想と援助、アリストテレス研究の援助等々学術サークルの援助も惜しまなかった。古典文献の収集のみならず、古代の美術品や工芸品も寄せ集めた。建築活動も前例の無いスケールで行われ、ジョバンニの代に着手されたサン・ロレンツォ聖堂の改築事業の推進、サン・マルコ修道院の再建事業その他各地の聖堂、図書室、巡礼者宿泊所の建設を指揮している。メディチ家のステータス・シンボルとして新メディチ邸、各地の別荘も普請した。「私は、この都市の気分を知っている。我々メディチが追い出されるまでに、五十年とは要しないだろう。だが、モノは残る」とのコジモの言が伝えられている。

 この間メディチ家が市政を握り、多くの学者や芸術家を招き、文芸や美術を保護・奨励したのでルネサンスの一大中心地となった。メディチ家の人々は、意識的か無作為にかこうして文芸への貢献を進んで為した。このことが究極で金融や商業活動に利することも知っていたと思われる。

 コジモの覇権確立は、メディチ銀行の活動にも未曾有の反映と躍進をもたらし、絶頂期を向かえることになった。1435年、メディチ銀行の組織の編成替えを断行し、それまであった共同経営色を払拭し、メディチ家の純粋経営に切り替えた。国内外の支店の拡大に乗り出し、先代のジュネーブ支店に続いて1435年、公会議の開催地であるバーゼルに支店を開設した。1439年、北ヨーロッパのフランドル地方の中心地ブリュージュ、1446年ロンドンとアヴィニョンに。ドイツのハンザ同盟都市リューべックには駐在員を置いた。イタリア国内には、1436年、アンコーナ。1442年、ピサ。1452年、ミラノにそれぞれ支店が置かれた。メディチ銀行の各地の支店は、中世の商会の伝統に従って、金融業のほかに様々な商品の流通を手がけており、今日的な商社活動を展開していた。

 メディチ銀行の中心的な役割を担ったのはローマ、ベネチア、ジュネーヴ、フィレンツェの4支店で、中でもローマが全利益の30%を稼ぎ出していた。このローマ教皇庁依存体質は、さらに強化される方向に向かい、長期的に見れば大きなリスクを抱えていた。ローマ教皇は代替わりするものであり、新教皇の意向次第では締め出される可能性があった。その時にメディチ銀行がローマ依存体質から抜けていなければ、メディチ家全体の深刻な危機に繋がることが明瞭であった。ここなメディチ家のジレンマが発生していた。そういう背景によってか、この頃から政治がらみの融資・投資が急増していくことになった。言い方を替えると、メディチ銀行の経営戦略とコジモの政治戦略とが密接に絡み合うようになったということでもある。それは「人を見る眼」を持つコジモならではの才覚の世界であり、そういう眼を持たないコジモ没後を考えると危険な水域に踏み出したことを意味する。

 メディチ銀行の飛躍的な繁栄をもたらした要因として、次の事由が考えられる。1・会社組織の柔構造、2・頂点に立つコジモ自身の抜群の現実感覚と指導力、倦むことを知らない勤勉さと明晰な判断力、3・総支配人や支店経営者の有能さ及びそうした人材登用システムの確立、4・経営幹部及び社員への気前の良い利益配分、5・教皇庁との密接な関係の維持。しかし、こうした組織もいつかは腐敗が忍び寄る。1440年、弟ロレンツォが亡くなり、1443年、メディチ銀行の総支配人として屋台骨を支えてきたアントニオ・サルターティが病没し、1447年、これまた有能にして絹織物会社を運営してきたフランチェスコ・ベルリンギェーリ、1455年、総支配人ジョヴァン二・ベンチの病没がコジモに打撃を与えていくことになる。後継者難に国際情勢の変化への対応の遅れが連動してやがて衰退期へと向かうことになった。

 1439年、フィレンツェで公会議が開かれ、この時コジモは「正義の旗手」としてフィレンツェ共和国元首の地位にあり、生涯で最大の晴れ舞台を演出している。その背景にあったものは、「東西両教会の和解実現による東西キリスト教会の一致団結で異教徒に抗する」であり、これをコジモが根回しすることになった。東からは、東ローマ皇帝・ヨハネス・パレオロゴス、東方正教会総主教・ヨーゼフ、東ローマキリスト教会の名僧多数、西からは、教皇エウゲ二ウス4世他教会の名僧多数が出席し、一堂に会した。両教会とも悩みを抱えており、東方正教会はオスマン・トルコによる侵略の脅威を、カトリック教会も民主化と綱紀粛正を求められて苦境にあった。こうした事情を背景にしてフィレンツェ公会議は一年近くの長い討議と交渉の末、東西両教会の合同が決定され、7.6日、厳粛に発表された。この公会議の経過はフィレンツェの権威を増し、ヨーロッパ文化の中心都市としての地位を確立することになった。これをメディチ家から見れば、カトリック教会・東方正教会との関係が一層密接になり、メディチ銀行の教皇庁への食い込み、東方貿易への新展開をもたらしたことが推定される。

 1441.11月、コジモの積極的な仲介によりフィレンツェ、ベネチア、ミラノ三国間の和議が成立している。しかし、これで平和が実現したのではない。あくまで表向きの和議であり、合従連衡の動きが駆け引きされていった。

 この間国際情勢が変転した。1453年にコンスタンティノープルがイスラム・トルコ軍によって陥落させられた。皇帝は乱戦の中で討ち死に、十字架は引き降ろされ、大聖堂はイスラムのモスクとなった。これにより東ローマ帝国(ビザンチン帝国)が1500年の歴史を閉じた。ルネサンスとの絡みで云えば、キリスト教が支配する時代ヨーロッパでは古代ギリシャ・ローマ帝国の遺産はほそぼそとしか継承されなかった。この時期それらを正統的に継承していたのが、ビザンチン帝国や、アラブ諸国であった。

 東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の崩壊は、ビザンチン帝国の学者と書籍を大量にイタリアに流れ込ませることになった。この期せずして為された一種異文化の闖入が最も多いなる影響を与えたのがフィレンツェであった。特に思想面でプラトン主義思想が浸透してきたことの影響が甚大で、ウマ二スタ達はこぞってプラトンの対話扁に夢中になっていった。コジモがこの気運を擁護し、「プラトン・アカデミー」を設立し、好学の青年マルシリオ・フィチーノを主任としてプラトン思想を奨励していくことになった。「プラトン・アカデミー」は、「キリスト教文化の前駆形態としての古典古代文化の見直し」の橋頭堡となり、キリスト教以前のギリシャ・ローマ文化の大胆な見直しに向かわせることになった。この動きは、フィレンツェに培われてきていた共和制思想はある種なじみ、ある種パラダイムを転換させ、ウマ二スタ達を魅了した。ボッティチェリの「春」や「ヴィーナスの誕生」は、こうした思想的雰囲気の中から誕生した傑作品である。

 イスラム・トルコの次の標的はイタリアに向かうことが趨勢となった。こうした状況の中で、遂に1454年、ローディにおいて、5大国(フィレンツェ、ミラノ、ベネチア、ローマ、ナポリ)の和平協定が締結された(「ローディーの和」)。
ここにほぼ100年間続いたイタリア諸国間のサバイバル戦争が停止した。この平和は実際にはこの後も小競り合いが続いたが、基本的には40年間保たれ、イタリア・ルネサンスの大輪の花を咲かせる基礎となった。

 晩年のコジモは次のように語っていた。

 「この家はもう私達には広すぎる」。
 「私はこの都市の移り気なことをよく知っている。だから、50年以内にメディチ家はついほうされるだろう。だが、私がやらせた建築はそのまま残るだろう」。

 実際には30年後に追放されることになったが、メディチ家-メディチ党の基盤の表向きの強さにも関わらずなかなか根をおろすことが難しかったということであろう。そのコジモは1464.8.1日、逝去した(享年75歳)。共和国政府は、コジモの功績を称え、「祖国の父」の尊号を贈った。教皇ピウス二世の言によれば、コジモは「無冠の独裁者、称号を持たない実質上の君主」であった。この「コジモ・イル・ヴォッキオの覇権確立」は、「先行世代の寡頭政治の方法を継承し、それを完成させながら実質上共和国を君主国へと転化させていった」点で、フィレンツェの歴史の重大な転換点となった。コジモの代にメディチ家がフィレンツェ共和国の実質的な君主として独裁的権力を振るい、しかもその地位の世襲化に成功することとなった。それ故、コジモをもってして「メディチ王朝」の開祖とする。

(私論.私見)

 コジモ・デ・メディチの威力は後のロスチャイルド王国の先駆を為す観がある。この方面からの研究が待たれているのではなかろうか。

【メディチ家興亡史その4、(大)ピエロ(1416ー1469)時代時代】

 コジモの後のメディチ家は長男ピエロ(当時48歳)、孫のロレンツォ(当時15歳)が引き継いでいくことになった。ピエロの代のメディチ家も反対派との政争に巻き込まれ、平穏ではなかった。妻として名門トルナヴォー二家の、女流詩人でもあったルクレツィアを娶った。

 この間本業の銀行経営も「晴れのち曇り」状態に入り経営不振と長期低落傾向に歯止めがかからなくなった。こうして政治的・経済的存在感は薄れつつあったが、芸術パトロン・コレクターとしてのピエロの活動は、コジモの事業の継承者として、15世紀中葉のフィレンツェ文化において引き続き重要な役割を果たした。ピエロもまた銀行経営を基盤とし、新興ブルジョアジーの誇りを保ち貴族化しようとしなかったが、とはいえコジモ時代との違いとして宮廷文化色を強めたこと、長男ロレンツォの嫁選びにローマ貴族との縁組を推進したことを思えば、否応無く貴族化に歩一歩歩みだしたとも云える。

 ピエロは1469.12.3日に逝去した(53歳)。


【メディチ家興亡史その5、ロレンツォ・イル・マニーフィコ(1449-1492)時代】

 ピエロの長男ロレンツォは、5才の頃より本格的な英才教育を受け、ラテン語、トスカーナ語、それらの文学に親しみ、10才の頃からフィレンツェの大学に通い、古代ギリシャに造詣を深めた。また祖父コジモの創設したプラトン・アカデミーでのサークルの常連となり、哲学的討論に花を咲かせている。その他建築学、音楽の素養も学んだ。1469.6月ローマの大貴族オルシー二家のクラリーチェと結婚した。その後父ピエロが53才で急死したため、母ルクレツィア、弟ジュリアーノと共にメディチ家を相続し。

 若き当主としてメディチ家の権力を継承したロレンツォは、メディチ体制の頭領としての権力を継承して以来、43歳で早世するまで、22年間に渡ってフィレンツェの国政を指導し、実質的な支配者として名声を欲しいままにした。1478年頃パッツィ家との間に深刻な対立が発生し、4.26日のミサ・テロル事件以降、教皇、大司教まで巻き込んでの血で血を洗う凄惨な闘いとなった。ジュリアーノが暗殺され、傷を負いながらも難を逃れたロレンツォの報復は苛烈を極めた。このパッツィ家陰謀事件への過激な報復が、陰謀の主役であったシクストゥス4世教皇を激怒させ、ロレンツォとフィレンツェ政庁全体を破門にし、更に宣戦が布告されることになった。フィレンツェはバリーア十人会を設置して全面抗戦しつつ外交戦術を駆使した。しかし戦費調達により重税が課される事になり厭戦気分が募り、ロレンツォは捨て身の人質作戦に出た。「私こそが我等の敵が主眼としている人間なのだから、我が身を敵の手に委ねる。フィレンツェの誰よりも栄誉と責任を担ってきた人間として、私の生命を犠牲にしても祖国に尽くすつもりである」との決意を披瀝してナポリでの囚われの身となった。この期間複雑な交渉を粘り強く解決し、停戦に漕ぎ着けることに成功した(ナポリ講和)。

 帰還後のロレンツォは、捨て身の英雄的な行動と「気宇の大きさ、才気煥発、含蓄に富んだ判断に驚嘆した」(「フィレンツェ史」)との名声を一挙に高めることになった。留守中に生じた不穏な動きや財政危機に対処するために直ちにバリーアを設置、1480.4月新たに70人評議会を創設して、それに全ての政治権限を集中させた。この70人評議会がメディチ家が追放される1494年まで共和国の最高政治機関となり、コジモ以来進められてきたメディチ家への権力集中は一つの頂点に達した。こうして、フィレンツェ社会は、メディチ体制下の共和制のもとで経験した最後の栄光の時代を迎えた。

 この時代ロレンツォは、ヨーロッパの大国であるフランス、スペイン、神聖ローマ帝国などを「組ませず、争わせず」方向へ誘導し、イタリア内もローマ法王、ベネチア、フィレンツェ、ミラノ、ナポリの5大勢力の共存勢力均衡策を講じ、一時とはいえひこれに成功した。

 マキャベリ曰く、メディチ家はロレンツォの時代に「二重人格」となった。メディチ家の大衆的な側面と貴族的な面とが同時に展開することになったからである。ロレンツォは下層大衆の支持こそメディチ体制の基盤であることを承知していた。であるからして大衆向けの文化活動にも力を注ぎ、芸術や学問だけでなく、パレードや舞踏会を後援し、カーニバルも国家的行事となって盛大となり大衆娯楽性の強いショー的要素を強めた。他方で、一流の貴族的血筋、家名、伝統を確立していくことになった。ロレンツォの息子の代からカトリック教会の枢機卿、教皇を輩出していくことになり、ヨーロッパ随一の貴族たる地歩を築いていくことになった。

 この時代にイタリア・ルネサンスの芸術と文化が比類なく華やかな成熟の一時代=「黄金の世紀」を現出した。ロレンツォは、幼い時から完璧な君主教育を受け、哲学や文学から建築、美術、音楽まであらゆる学芸に通ずる多芸多才な知識人、「一種の万能の芸術家」であった。一芸に秀でたものに次々と有利な仕事や職を斡旋し、比類の無い学芸庇護者「メチェナーテ」になった。この時代、ヨーロッパ中の文化人、知識人がフィレンツェに憧れ、メディチ家の晩餐に招待されたいと願った。そこではプラトンの対話扁を地で行くような会話が交わされ、美術・文芸の花も咲き、ルネサンス一色の世界が現出していた。

 美術では、ヴェロッキオ、ポッライウオーロ、ボッティチェリ、ギルランライオ、レオナルド・ダ・ビンチ、フィリピーノ・リッピ、若きミケランジェロ、文学・哲学では、プルチ、ポリツィアーノ、ランディーノ、フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラらが活躍したのはこの時代である。ロレンツォの詩として知られているのは、「青春は麗し されど逃れゆく 楽しみてあれ 明日は定め無きゆえ」。

 ナポリ講和後も、シクストゥス4世は、フィレンツェに対する敵対姿勢を崩さなかったが、1480年8月にトルコ軍がナポリ領のオトラントを占拠するという事態が発生し、イタリア諸国の危機感が高まり、12月ナポリ王の仲裁で教皇とフィレンツェの和解が成立した。しかし以降もイタリア諸国家の抗争が治まることなく、「ロレンツォは、大小諸国の領土的野心と権謀術数が複雑にぶつかのあうイタリアの情勢の中で、5大強国(フィレンツェ、ミラノ、ベネチア、ナポリ、ローマ)の間で巧みな外交戦術によって勢力均衡の維持に努め、絶大な信望を博した」。この働きにより、「イタリア列強の均衡の立役者」と云われる。ロレンツォは、「平和と繁栄の守護者」としての名声を高めつつ、共和制の枠内での権力の階段を上り詰め、制度的には一市民でありながら、称号と肩書きを持たない「国家元首」的地位を獲得し、諸外国の宮廷から「僭主」と見なされ、「君主」並みの待遇を受けることになった。マキャベリの評論には、「その放縦快活な生活と重厚厳格な生活を見ると、彼の中では二つの異なる人格がほとんどありえないような結びつき方で結びついているように見えた」とある。

 やがて、このメディチ家から有力な君主や教皇まで輩出していくことになり、フィレンツェ一の名門貴族となった。教皇を輩出する資格を持った事は、ヨーロッパの一流貴族に仲間入りしたことになる。ボッティチェリやミケランジェロなどルネサンスの天才芸術家たちの大パトロンであったロレンツィオ・イル・マニフィコや、「サン・バルテルミーの虐殺」の黒幕で権謀術数の権化と云われたフランス王母カトリーヌ・ド・メディシス等々が良く知られているメディチ家閨閥である。以降の歴史において、メディチ家は一種憧憬されるブルジョアジーの代名詞として神話的な響きでもって西欧社会に影響を刻んでいくことになった。今日でも「現代のメディチ」となることが大実業家の夢とされている。

 ロレンツォが声望を高めていたこの時期、メディチ銀行の低落には歯止めがかからなかった。当主と総支配人並びに支店経営者の手腕の欠如のみならず国際的な政治情勢に翻弄され、各地の君主や権力者への過剰な貸し付けの常態化と不良債権化、イタリアの商業・金融業全体の地盤沈下という趨勢も関係した。各地の支店は政争の余波で財産没収の憂き目に合う事態も発生し、資金繰り不能に陥る事態も発生させた。ロレンツォの晩年には、メディチ銀行の破産が目前に迫り始めていた。こうした銀行経営の悪化の中で、ロレンツォが後世より「彼にとって最大の不名誉事」と非難されることになる国庫や親族の財産の私物化、公金横領事件が発生した。その他政敵に対する重税賦課と身内仲間に対する税負担の軽減という情実行為を常態化させていた。マキャベリはこう評している。「商売では、ロレンツォはまことに不遇であったと言わねばならない。その原因は、彼が実際上の仕事を任せていた各地の支社長たちのだらしなさにあった。支社長達は、私営企業の人としてよりも公営企業の人のように振舞った。おかげで、西欧各地に投資されていたメディチ家の資産の多くは失われた」。

 1492.4.8日ロレンツォが逝去した(43歳)。ロレンツォには「イル・マニフィーコ(偉大な人、ないしは華麗な人)」という称号が冠せられた。その「黄金時代」は、彼の早すぎる死によって突如として幕を下ろすことになった。マキャベリの「フィレンツェ史」は、ロレンツォの死をもって閉じたとしている。ロレンツォの死は、メディチ家とフィレンツェの歴史ばかりでなく、イタリアとヨーロッパの歴史に対しても重大な分岐点となった。


 このロレンツォの創作詩とされる次の歌が遺されている。見事にルネサンスの心を歌い上げているとして評価が高い。

Quanto e` bella giovinezza

Che si fugge tuttavia!

Chi vuol esser lieto,sia:

Di doman non c'e` certezza.

 

わかいことはなんとすばらしい(青春はうるわし)

それはすぐ過ぎ去る(されど逃れゆく)

楽しみをのぞむ者は、楽しめ(楽しみてあれ)

明日は確かではないのだから(明日は定めなきゆえ)

(私論.私見)

 このゴンドラの唄の元歌は、イタリアの古典詩人ポリッツィアーノの作った詩を、フィレンツェのメディチ家の当主ロレンツォが愛し、事あるごとに歌っていたものであるとされている。「バッカス(酒神)の歌」として知られる。1915(大正4)年に発表された流行歌「ゴンドラの歌(吉井勇作詞 。中山晋平作曲、松井須磨子歌唱)は次のように意訳している。
 いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に 熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日はないものを
 いのち短し 恋せよおとめ いざ手を取りて彼(か)の船に いざ萌ゆる頬をきみが頬に ここにはだれも来ぬものを
 いのち短し 恋せよ少女 波に漂(ただよ)う 舟の様(よ)に 君が柔手(やわて)を 我が肩に ここには人目も 無いものを
 いのち短し 恋せよ少女 黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを

 
森田義之著「メディチ家」(講談社現代新書、2002.2.20初版)は次のように解説している(167〜181ページ抜粋)。
 「平和と繁栄、ルネッサンス芸術と文化の比類なき華やかな成熟の時代を生きたロレンツ ォ・イル・マニフィコは16才の頃から詩作を始め、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオから友人のポリッツィアーノまで、トスカーナ俗語文学の伝統を豊に吸収、その文体や表現を模倣・折衷・パロディ化し、彼自身の鋭い機知とユーモア、田園への愛、緻密な洞察力等々によって多様な形式の詩や散文として再創造した。・・・ とあり、晩年、民衆的な聖史劇「聖ヨハネと聖パウロ」、「謝肉祭の歌」など発表。この「謝肉祭の歌」の冒頭歌「バッカスとアリアドネの勝利の歌」として今日でも愛唱されていると記述している」。

【メディチ家興亡史その6、(小)ピエロ・ディ・ロレンツォ(1472ー1503)時代】

 メディチ家の当主は、ピエロ・ディ・ロレンツォとなったが、メディチ体制を引き継ぐには荷の重すぎる人物であった。ロレンツォの死去より2年後、1494年から約半世紀にわたってイタリアは未曾有の激動と混乱の時代に突入する。1494.9月フランス国王シャルル8世によるイタリア侵攻が始まり、和睦の道を選んだピエロはフィレンツェ政庁から永久追放処分された。1494.11.17日シャルル8世の指揮するフランス軍はフィレンツェに入場し、主の居なくなったメディチ邸に本拠を構えた。メディチ銀行は撤収され、資産も没収されて、メディチ銀行のネットワークもこの年崩壊した。こうして1434年以来60年にわたってフィレンツェを支配してきたメディチ体制はあっけなく崩壊した。以降、イタリアはヴァロア朝のフランスとハプスブルク家のスペイン・オーストリアが領土的主権を争う舞台となり、イタリア諸国の勢力均衡が崩れ、ルネサンス時代の「自由と独立」気運は急速に失われていった。フィレンツェの夢は消え去り、ヨーロッパの国際社会における小国家に転落したまま推移していくことになった。

 これをヨーロッパ全体から見ると、15世紀末から16世紀前半の半世紀は、地理上の発見と植民地貿易の幕開けの時代であり、宗教界においては1517年にマルチン・ルターによって宗教改革の口火が切られ、プロテスタントの登場はカトリック系旧秩序に深刻な動乱と反動をもたらす改革時代となった。ロレンツォが逝去した1492年にはコロンブスが「アメリカ」を発見、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ喜望峰周りのインド航路が開拓された。この流れはスペインの植民地帝国形成時代となって支配権が移動していくことになった。

 1494.12月メディチ体制確立の過程で設置された諸機関(百人評議会、70人評議会、8人外務委員会、12人内務委員会)は全て廃止され、1434年以前の共和国の機構に戻され、新たに大評議会と80人評議会が設置された。大評議会はベネチア共和国の機構にならった国権の最高機関(政府の要職経験者を親族に持つ29歳以上の市民500人によって構成される)で、これによって国政に参加する枠は中小市民にまで拡大された。

 この共和政時代の最初の4年間に、フツィレンツェの政治に絶大な影響力をふるったのがフランスの保護を得たサン・マルコ修道院のサヴァナローラであった。サヴァナローラは、フィレンツェ人の現世享楽的な生活ぶりを非難し、悔い改めねば神罰が下ると説教していた。フランスのイタリア侵攻は、「これこそフィレンツェに下された神罰」であるとした。サヴァナローラはこうした預言者的能力により政治的影響協力を高め、「王イエス・キリスト」を戴く「全市民的」な共和国の樹立を宣言し、政庁の政治顧問的な立場から国政全般に積極的に関与した。「サヴァナロラは、ローマ法王庁と結託して市政を操る富豪メジチ家との大衆闘争の先頭に立って焚刑に処せられる」(加藤尚文「名言百選」)。その清教徒的な厳格主義に基づく改革は、ことごとくメディチ系の遺産を「改革」していく「過激な神権政治」になった。フィレンツェ内は、メディチ派対反メディチ派、サヴァナローラ派対反サヴァナローラ派が入り混じり、これに「狭い政府」派、「広い政府」派が重なって複雑多岐を極めていくことになった。

 ところが、サヴァナローラの過激政策は、この当時の教皇アレクサンドル6世の憤激を買うことになり、両者は真っ向から対立した。教皇は異端告発や政務停止令、破門によってサヴァナローラを追い詰め、サヴァナローラは逆に教皇罷免の公会議開催を画策したものの、遂に1498.4.7日逮捕され、5.23日政庁前広場で公開絞首刑に処された。「反メディチ体制への極端な反動と混乱の4年間」であった。この経過のルネサンスに与えた重大事は、それまでフィレンツェに参集していた芸術家達が逆にフィレンツェから出て行ったことにあった。


【フィレンツェ史ソデリー二時代】
 その後のフィレンツェは、「広い政府」を維持しようとする上層市民を中心とする「白派」と「狭い政府(寡頭体制)」を望む都市貴族の一派「灰色派」の対立となり、1502.8月両派妥協の上にベネチア共和国の頭領にならった終身国家主席(「終身の正義の旗手」)を設置し、名門出身のピエロ・ソデリー二を選出した。ソデリー二時代は約10年間続くことになる。この時代は、ルイ12世のフランスが新たな攻勢をかける複雑なイタリア情勢の中で、優柔不断な外交政策と長期化するピサ攻略戦、都市内での慢性化した財政危機や党派対立に揺れ動きながら、共和政時代の最後の政治的・文化的高揚を示した時代となった。

 この時代にソデリー二の側近として活躍したのが二ッコロ・マキャベリ(1469-1527年)であった。フィレンツェは伝統的に軍事的弱体に悩まされてきたが、マキャベリはその建て直しを企て、1506年に市民軍の編成に着手した。これは従来の傭兵方式からの転換であった。

 ソデリー二時代のフィレンツェ・ルネサンスは、サヴァナローラ時代の文化的自己否定と禁欲主義から開放されて、共和主義の理念と市民的プライドに基づく公私にわたる旺盛なパトロネージを甦らせ、新しい芸術的活力に満ちた一時代を現出した。「大評議会」議場の建設等公共的プロジェクトの進展に呼応して、私的パトロネージが活性化し、ストロッツィ家、ドー二家、パンドルフィー二家などの都市貴族が新しい礼拝堂を建てたり、私的作品を次々に注文していつた。この時代に美術史上の「盛期ルネサンス」の幕開けを告げるレオナルド・ダ・ビンチとミケランジェロの華麗な競演時代が現出した。ミケランジェロの「ダビデ像」、レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」はこの頃の作品である。ラファエロ(1483-1520年)がフィレンツェにやってきたのは1504年からである。ドー二家、ナージ家、タッディ家などの要請を受け、数多くの聖母子像や肖像画を制作することになった。

【メディチ家興亡史その7、ジョヴァン二時代時代】
 この時代にメディチ家の当主ピエロは亡命先のローマから復権を図って様々な画策を為したが失敗に帰している。1503.12月、フランス軍とスペイン軍の衝突の際にフランス軍に加わり敗れ、逃走中に溺死した。これによりメディチ家の当主は弟の枢機卿ジョヴァン二に引き継がれる事になった。この頃のイタリアは、フランスとスペインと教皇という三勢力による草刈場にされ、その政争に巻き込まれる形で1512.9.1日、ソデリー二が亡命を余儀なくされている。この時スペイン軍に同行してきたのはメディチ家の三男ジュリアーノであった。その後フィレンツェ政府はメディチ家のフィレンツェ復帰を要請し、9.14日、メディチ家当主・ジョヴァン二枢機卿が入場した。1494年の亡命以来18年ぶりの帰還となった。この時フィレンツェ政庁は同時に神聖同盟(教皇国・ベネチア・ナポリ・スイス)への参加を受け入れていた。

 ジョヴァン二は、これより15年間フィレンツェを「僭主支配」で統治することになる。共和制の機構を再度1494年以前の状態に戻し、国家主席の終身制を廃止し一年任期とし、大評議会と市民軍を廃止、代わりに70人評議会や百人評議会などの各種評議会を復活し、バリーアの権限を強化した。その支配の方式は、表向きは共和制の擬制を維持しながら重要な役職をメディチ派で独占するという手法であった。ロレンツォの時代と違ったことは、重要な決定が全てローマで為されるようになった事と、権力集中が一段と強化されたこと、メディチの傭兵団が常駐し、一種の警察国家的な色彩が強まったことにあった。

【メディチ家最初のローマ教皇レオ10世】

 1513.3.11日ロレンツィオ・イル・マニフィコの次男ジョヴァン二(1475‐1521年)は、メディチ家出身の最初の教皇として選ばれ、レオ10世の名で即位した。37歳の史上最年少の教皇の誕生となった。かくしてメディチ家はフィレンツェと教皇国の両方を支配するイタリア最大の門閥となった。1515.11.30日レオ10世がフィレンツェに入城し、大々的に祝祭された。レオ10世の下でこの頃ローマでも華麗な宮廷文化が花開いていた。のちに「レオの時代」と呼ばれるバチカン宮廷を舞台とする盛期ルネサンス文化の「黄金時代」を現出した。レオも又、学芸の熱心な擁護者パトロネージとなり、宮廷では当時の最高の人文学者や詩人、芸術家、演劇家が集まり、催しに明け暮れることとなった。絵画の分野ではラファエロが格別に寵愛された。ミケランジェロも起用された。短期間ではあったが、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三人が揃い踏みしていたのもこの頃である。父マニフィコと同様に古典の写本にも力を入れ、私設図書館を設けて文人達に開放した。ローマ大学を拡充し、ギリシャ人学者を招き、ヘブライ語やアラブ語の著作の研究を奨励し、印刷出版にも援助の手を差し伸べた。

 レオ10世の治世は8年間であったが、結果的に「レオは三大の教皇の収入を一人で食いつぶした。先代ユリウスの蓄えた財産と、レオ自身の収入と、次の教皇の分の三人分を」と云われるほどの浪費にふけったことになった。その財政破綻を補うために、莫大な借金、大掛かりな聖職売買、免罪符の乱発が常態化されることになった。この教皇庁の腐敗と堕落がマルティン・ルターの激しい弾劾と宗教改革の引き金となった。


【メディチ家二番手のローマ教皇クレメンス7世】

 1521.12月、レオは風邪をこじらせて急死した(46歳)。その後をハドリアヌス6世が在位したが一年程で死去すると、再びメディチ家出身のジュリオがクレメンス7世(在位1523-34年)として即位した。クレメンス7世が在位した11年間のイタリアとヨーロッパの情勢は、レオの時代には予想もつかなかった激しい変化の時代となった。まずは、フランス国王フランソア1世と神聖ローマ大国皇帝カール5世がイタリアでの領土権を廻って争いあう「イタリア戦争」が頂点に達した・ルターによって火蓋を切られたプロテスタント宗教改革波は、ドイツ、スイスからスカンジナビアまで広がった。英国では、ヘンリー8世の離婚問題に端を発して英国教会が分離し、東ヨーロッパではオスマン・トルコがハンガリーに浸入してオーストリアに脅威を与えることになった。

 1527年、ルター派の皇帝軍の一団がローマを占拠するというローマ教会史上未曾有の事件が発生し、この時のローマの掠奪は見境無く、「破壊、掠奪、暴行、虐殺、凌辱」等例を見ない「都市の破壊というより、一文明の破壊」が為された。このようにクレメンス7世の治世時代は、イタリアとヨーロッパが未曾有の分裂と混乱に見舞われ、教皇自身が翻弄され、その権威を喪失していく時代となった。

 「ローマの凌辱」に連動してメディチ家は再びフィレンツェから追放されることになった。それまでクレメンス7世の間接統治によってフィレンツェ市民は重税を課せられていたが、「ローマの凌辱」の報が伝わるや反メディチ派が一斉蜂起し、メディチ家の二人の若い当主イッポリトとアレッサンドロ、クレメンスの名代パッセリー二枢機卿を市から追放した。共和派は、大評議会と市民軍を復活させて、二ッコロ・カッポー二を国家主席に選び、サヴォナローラ時代と同じように「王イエス・キリスト」を戴く共和国を樹立した。カッポー二の後を反メディチ急進派のフランチェスコ・カルドゥッチが継いで国家主席になると、メディチ派有力者の圧迫(税負担の加重、追放、処刑)が強化され、中小市民の政治的権限の拡大がはかられた。

 1529.6月、バルセロナにおいてクレメンス7世と皇帝カール5世の和睦が成立し、皇帝がメディチ家のフィレンツェ復帰と世襲支配権を確約したことにより、武力衝突が避けられない情勢となった。ミケランジェロが共和国政府から軍事9人委員会及び築城長官兼総監督に任命され、要塞工事の先頭に立ったのはこの時のことである。かくて、スペイン兵を主力とする4万の皇帝軍とフィレンツェ軍の死闘戦が行われ(「フィレンツェ包囲戦」)、遂に1930.8.12日フィレンツェ軍は降伏した。カッポー二やカルドゥッチらの指導者達は処刑され、反メディチ派市民が永久追放されることになった。ここにフィレンツェの共和制の歴史は幕を閉じることになった。

 1531.10月、クレメンス7世は、メディチ家のアレッサンドロ(当時20歳)を統治者としてフィレンツェに送り込み、メディチ家支配を再確立した。スペインのカール5世と誼を通じ、「ロンバルディア王」及び「神聖ローマ皇帝」の冠を献上した代わりに、メディチ家の復権とそのフィレンツェ支配、フランスに対する牽制等を引き出すことに成功した。他方、フランスとの関係では縁戚交渉を進め、カテリーナをフランソア1世の第二子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロア(後の国王アンリ2世)と婚姻させることに成功し、1533年10月式が執り行われた。カテリーナはその後母后としてフランス宮廷に君臨していくことになった。

 クレメンス7世も又パトロネージであった。既にかってのように財力を背景にし得なかったが、レオ10世の諸事業を継続した。特に、ミケランジェロを敬愛し、「フィレンツェ包囲戦」時の反メディチ活動にもかかわらずこれを許し、仕事を再開させた。1533年システィナ礼拝堂に大壁画「最後の審判」の制作を依頼している。1534.9月逝去した(56歳)。


 絡みが分からないが、この頃「ローマ教皇クレメンス7世とマキャベリ、それにグィッチァルディーニの間で行われた市民軍構想をめぐっての遣り取り」が為されている。マキャベリが献策し、クレメンス7世が受け入れ、グィッチァルディーニが「現在の危険に対処するための方策としては、間に合わない」を理由に、反対している。この後マキャベリはフィレンツェから去ることになった。この時の経験は、「苦い、もう一つのアロエを飲むようなものであった」。


【メディチ家興亡史その8、アレッサンドロ時代】

 メディチ家のアレッサンドロがフィレンツェに送り込まれた1531年からメディチ家の家系が断絶する1737年までの200年間、メディチ家はフィレンツェ公、次いでトスカーナ公として、正真正銘の君主の資格でフィレンツェとその領国を支配することになった。しかし、皮肉なことに、「メディチ王朝」として君臨したこの200年は、イタリア諸国全体が政治的経済的衰退期に突入しており、絶対王政下の西欧諸国が覇権を争う趨勢の中で一弱小国に過ぎない存在になっていく過程でもあった。但し、血脈的には、既に二人の教皇とフランス王妃を出していたが、さらに二人の教皇(ピウス4世、レオ11世)と一人のフランス王妃(マリー・ド・メディシス)を送り出し、ハプスブルク家との縁戚関係も強めながら、西欧上流階級に一層浸透していくことになった。都市内においても、この頃にメディチ家伝統のパトロネージを積極的に展開し、その権力と栄光を様々な形で刻み付け、商人の共和国フィレンツェに君主国家としてのモニュメンタルな外観を付け加えていった。今日目にするフィレンツェのあちこちでのルネサンス美とか美術コレクションは、この時代に形成されたものが多い。

 このメディチ家の君主化の完成を経て、この頃からメディチ家内の抗争が始まっている。1531.10月、アレッサンドロは、皇帝から与えられたフィレンツェ共和国の「頭領」という資格でフィレンツェに入城したが、翌1532年には、皇帝によってメディチ家として初めて「フィレンツェ公」の称号を与えられている。4月アレッサンドロは、新憲法を発布し、旧来の議会に代わって新しく二百人議会と48人議会(後に元老院と改称。二百人議会から選ばれた48人)を設置している。最終的な決定権は公自身が握っていたが、この寡頭共和制と君主制の折衷体制が、以後200年にわたるメディチ支配体制の政体基礎となった。ところが、教皇クレメンス7世が死去すると、アレッサンドロは専制君主化し、有力貴族や亡命者達がメディチ家の当主にしてアレッサンドロと反目していたイッポリトを担ぎ出し始めた。しかし、イッポリトが急死し、1536年皇帝カ‐ル5世は庶出の娘マルガレーテをアレッサンドロに嫁がせ、政略的な婚姻が成功する等支配を強化した。しかし、この結婚の数ヵ月後メディチ家のロレンザッチョことロレンツィーノによって暗殺される身となった。これによって、コジモ・イル・ヴェッキオ以来続いていた兄脈によるメディチ家の当主継承は途絶えることになった。


【メディチ家興亡史その9、コジモ時代】
 後継が紛糾したが、結局選ばれたのは、弟脈のジョヴァン二とロレンツィオ・イル・マニフィコの孫娘マリア・サルヴィアーティの息子で当時17歳のコジモ(1519-74)であった。このコジモが強権且つ英明君主として君臨していくことになった。1537.7月反メディチ派の有力者の処刑、9月皇帝カール5世より「公爵」の称号の授与、1539年カール5世の取り持ちでスペインの大貴族の娘と結婚し、皇帝=スペインとの連携強化に成功している。その様は、マキャベリの「君主論」における「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない」を地で行った歴代のメディチ家にあって珍しいタイプとなった。

 コジモの治世は30年以上に及ぶことになったが、その政策は四つの課題を掲げていたようである。①・神聖ローマ皇帝とスペインからの独立性を強める、②・フィレンツェとその支配都市との政治的・経済的一体化の促進、③・旧寡頭貴族層からの政府機構の分離、④・メディチ家の栄光化。コジモはアレッサンドロ時代に確立された政治体制を引き継ぎながら、多くの行政機関を創設し、この機関の拡大によって議会の機能を行政の承認機関へと形骸化していった。これらの行政組織の上に、君主の私的諮問機関として「枢密顧問団」を置き、その権限を拡大して権力の集中化を図った。こうした私的な顧問団やその書記局にも他都市出身の有能な法律化が多く登用されたが、コジモは非フィレンツェ人の新官僚=法律家を養成するためにピサ大学を援助した。こうしてトスカーナの従属都市の出身者を官僚に登用することは、それらの都市を支配する上でも重要な意味を持っていた。こうしてトスカーナ大公国の政治的行政的基礎を築いた。


 コジモの対外政策は、スペインの支配の枠内で相対的な独立を極力推し進めるということに費やされたようである。スペインのフランスとの戦争に戦費調達する代わりに次第にスペイン軍の駐屯を撤退させ、フィレンツェはじめトスカーナの主要都市の要塞化を進めている。あるいは1552年にピオンビーノの占領、シェナ併合等領国の拡大を図っている。1562年には、トルコ艦隊に対する防衛目的で海軍を創設している。1569年教皇ピウス5世は、コジモに「トスカーナ大公」の称号を授与している。内政に於いても、農業保護を基軸に各種産業の振興策を積極的にうちだし成功している。しかし、こうした努力にもかかわらず、イギリス、フランスの経済進出のほうが目覚しく、相対的には衰退傾向に陥っていた。

 ルネサンスとの絡みで見れば次のように言える。コジモのパトロネージによつて、商人都市フィレンツェは、ヨーロッパの第一級の宮廷都市と競い合い、モニュメンタルな威観を誇る君主都市へと変貌する。フィレンツェ公国の国家的威力と絶対君主となったメディチ家の栄光を視覚的に称揚する一連の大事業に着手し、当時のトスカーナの有能な建築家、彫刻家、画家を総動員した。ヴァザーリ、アンマナーティ、バンディネッリ、チェリーニ、トリーボロ、ブロンズィーノらの面々がその中心的役割を担った。この時代「第二の黄金時代」とも呼ばれる隆盛を示し、都市の相貌を大きく変化させた。

【メディチ家興亡史その10、フランチェスコ1世時代】

 1574.4.21日、コジモ1世が逝去した(55歳)。後継には長男のフランチェスコ1世(1541-87年)が元老院より選出され、33歳でトスカーナ大公となった。13年間治世することになつたが、政治的業績として見るべきものは殆ど無いとされている。この時既にハプスブルク家との政略結婚でジョヴァンナとの間に5人の女子をもうけていたが、政治よりも科学や錬金術を偏愛し、豪奢な別荘の造営や美術コレクションに注力した。愛人ビアンカ・カペッロとのスキャンダラスな恋愛劇も演じている。但し、金銀細工、ガラス製造等の特殊科学はその後フィレンツェ独自の高級工芸産業に発展していくことになったという経過も見せている。

 パトロネージとしてのフランチェスコ1世の特徴は、それまでの公的な政治的プロパガンダとしての性格から離れて著しく私的な性格を強めていた。功績として、美術ギャラリーの築造と、宮殿内に3000人以上の客席と複雑な機械仕掛けのある舞台を備えた壮大なメディチ劇場、フィレンツェ郊外のプラトリーノの別荘とその庭園等が上げられる。そのフランチェスコ1世は1587.10月に逝去した。


【メディチ家興亡史その11、フェルディナンド1世時代】

 急死したフランチェスコ1世の後を継いだのは、弟のフェルディナンド1世(1549-1609年)であった(38歳)。1588年にトスカーナ大公に就任し、翌1589年フランス国王アンリ2世とカトリーヌの孫娘クリスティーヌ・ド・ロレーヌと盛大な結婚式を挙げている。フェルディナンド1世はフランチェスコ1世とは対照的で明敏な政治感覚と外交感覚を備えた精力的な行政家であった。注目される点は、それまでのスペイン一辺倒からフランス寄りにシフト替えし、ローマ教皇庁への影響力も強め、フランスとスペインとの間に政治的均衡を調整した。内政では、コジモ1世時代の産業振興政策を推進し、衰微していた諸産業と農業の振興を図った。更に、西欧、中近東、ブラジルまで出かける貿易を奨励し、その活性化の為にリヴォルノの自由港化、貿易都市化を推進した。1593年この港町を完全な自由貿易港とし、宗教的異端者や犯罪者も含むあらゆる国の商人に開放し、25年間にわたる関税の免除を実行した。スペイン、ポルトガル、ドイツ、トルコ、アルメニア、ギリシャ、ペルシャ、ユダヤ人などあらゆる国や人種の商人が来航し、フランス、ベネチア、ジェノバ、ラグーサ、オランダ、ポルトガル、スウェーデンなどの領事館が置かれ、活発な貿易が営まれた。宗教的迫害を受けたユダヤ人、カトリック教徒、プロテスタント(ユグノー教徒)も活動の地を求めてやってきた。

 パトロネージとしてのフェルディナンド1世の特徴は、再び父コジモ1世の時代の公的な性格とプロパガンダ性を回復し、まず1589年の自身の結婚祝典をフィレンツェ史上空前の規模で挙行した。1600年6女マリアとフランス国王アンリ4世と結婚、1608年長男コジモ2世と神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世の妹マリア・マッダレーナとの結婚、これらはいずれも贅を尽くして祝祭された。メディチ家のこうした豪華祝祭が、後々のヨーロッパ宮廷での豪華な祝典に影響を与えていくことになった。「顕示的消費」のモデルとなったとされている。

 美術のパトロネージにおいても、父コジモ1世の事業を意識的に引き継いで、メディチ王朝の栄光を視覚化するモニュメンタルな建築、装飾事業を推進した。注目されることとして、フェルディナンド1世は、絵画よりも彫刻作品を好み、フィレンツェ領国内の要所に設置した。1609.2.7日60歳で逝去した。彼の死と共に、メディチ家の治世の上昇期が終わりを告げた。






(私論.私見)