マキャべり思想の歴史的意義考 |
マキャべりの政治思想的史的意義は思われているよりはずっと大きい。これが、れんだいこのマキャべり観である。デカルトよりほぼ100年早くイタリアに生まれたマキャべりこそが「我疑う、故に我在り」の思索を為した人ではなかったか。デカルトにマキャべりの影響が認められれば面白いのだが、浅学なれんだいこには分からない。 マキャべりの政治思想的史的意義は、非西洋人には分かり難いかも知れない。なぜなら、西欧中世を牢として支配したキリスト教的世界観、政治体制論と真に対抗している意味が、キリスト教的支配の空気を吸っていない非西洋人には理解不能ではなかろうか、と思うことによる。 マキャべりの「君主論」で開陳された権謀術数的機略は、それはそれとして読めぬ訳ではないが、常にその時のマキャべりの念頭で格闘されていたキリスト教的政治論、道徳論、倫理観等々を映し出さぬ限り、理解が半端なものになるように思われる。もう一つの課題は、ユダヤ教的政治論、道徳論、倫理観等々とどういう絡みになっているのかだが、これは分からない。 ここのところを明らかにして、マキャべり思索の実践的な有意義性を認めようとするのがれんだいこのマキャべり論である。実に、西欧の政治思想史は、マキャべりを継承している点で、他の諸国のそれらより内容が深い。匹敵するものがあるとすれば、中国古代の諸子百家の営為であろうか。残念ながら、我が日本には見当たらない。しかし、この峠は必ず越えねばならぬものではなかろうか。 2003.11.3日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)
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第一章 共和主義者マキャヴェリ
マキャヴェリは15〜16世紀にかけて、分裂と動乱の時代、イタリアはフィレンツェに生きた外交官・政治学者である。彼は名著『君主論』の作者として知られるが、ほかに、官僚としての見聞と経験に裏打ちされた論文『政略論−ティトゥス=リウィウス『ローマ史』にもとずく論考』を書いた。そこで扱われた古代世界、なかんずくローマに関する記述を研究することは(マキャヴェリが当時一般の風潮を反映しているのではないにしても)我々現代人にとって、古典古代復興の時期であるルネサンスに生きた人々が、どのような古代観を持っていたかを考える上で、大きな示唆を与えてくれると感じる。これから、マキャヴェリの思想について考えてゆきたい。
副題にもあるように『政略論』はリウィウスの『ローマ史』に基づいて記述されている。しかし、マキャベリはこの本の中でローマの歴史を説き明かそうとしているのではない。彼にとって「ローマの歴史」とは「同時代のイタリア」の状況を説明するための手段であった。彼は『君主論』でチェーザレ=ボルジアをはじめとする権謀術数にたけた君主=英雄待望論を展開している。(これがいわゆる「マキャヴェリズム」のいわれである。)しかし、J=J=ルソーが『社会契約論』の中で、
「王公に教えをたれると見せかけて、マキャヴェリは人民に偉大な教訓を与えたのである。彼の『君主論』は共和主義者の教科書である。」(『政略論』解説収録『マキャヴェリの生涯と思想』会田雄次著より)
と述べているように、マキャヴェリは一貫して一徹な共和主義者であり、その共和主義的精神は『政略論』の中でこそ思う存分述べられている。そのことは彼の『ローマ史』の取り扱い方からも推測できる。彼は『ローマ史』の最初の10編、すなわちローマ共和政盛期までの歴史しか扱っていないのである。確かにカエサルやのちのローマ皇帝たちについても言及はしているが、彼らは平和を踏みにじった悪玉として憎悪の対象にしかなっていない。マキャヴェリの関心は、おもにロムルスやヌマなどのローマ市建国当初の王や、カミルスやキンキナトゥスらの共和政初期の執政官や独裁官に向けられていた。
それではこれから彼の『政略論』に基づき、マキャヴェリのローマ史観を概観してみよう。
よくマキャヴェリは君主政に比して共和政を礼賛していたと言われるが、彼は決して共和政なら何でも賛成という態度をとっていたわけではなかった。彼の考えは『政略論』第1巻第2章「共和国の種類について、また、ローマはそのいずれにあたるかについて」に詳しい。そこではまったくポリュビオス的政体循環史観に基づいた彼の考えが展開されている。すなわち、国家形態には3種類ある。王政・貴族政・民主政である。しかし、発足当初は立派であったそれらの政体も、やがて時を経るにつれて、王政は僭主政に、貴族政は寡頭政に、民主政は衆愚政に堕落してゆく。これは必然的な現象であって、必ず次々と繰り返す。彼はこう一般論を述べた後、ポリュビオスにならって共和政ローマの政体を次のように説明する。ローマは、執政官たちを見れば王政に見えるし、元老院を見れば貴族政に見え、民会の様子を見れば民主政国家に見える。そして、その3つの政体が混合しているために本来なら当然起こるはずの政体の堕落・移行が起こらない。したがって、共和政ローマこそ理想的な政治形態である、と。これはもちろん、イタリアに点在する僭主政に堕落した君主国、寡頭政・衆愚政に堕ちた共和国という当時の周辺諸国家の現状をふまえ、ローマ共和政を礼賛するものにほかならない。では、具体的な史実はどうであったか。
マキャヴェリが最も重要視しているものに平民と元老院(貴族)との対立関係がある。彼は当時の通説に反して、この対立こそがローマを強大化せしめた最大の原因であると説く。その理由の筆頭は護民官の設置の問題であった。平民と貴族の対立の中から生れたこの制度は、ローマの自由を守る上ではかりしれないほどの貢献をしたと説明される。つまり、
「この護民官は、多くの大権と栄誉を付与されていたので、常に平民と元老院とのあいだに身を置いて、貴族の横暴を阻止することができたのである。」(第1巻第3章)
というのだ。また、同時に執政官の制度についても、
「自由な国家において現制度を改革しようとする者は、すくなくとも旧制度の外観だけは残しておくべきである。」(第1巻第25章)
と評価はされているが、マキャヴェリからより大きな評価を受けているのは、むしろ独裁官の制度である。彼は次のように語っている。
「実際、そのほかのローマの諸制度のなかで、臨時独裁執政官の制度は、ローマが広大な版図を領有するようになった最大の原因に数えられるにふさわしいものである。なぜなら、このような制度がなかったら、ローマは、ただならぬ危機をとても乗り切ることはできなかったからである。共和国で普通行なわれている政治上の手続きは、その運びがのろのろしたものなので、審議会にしても行政官にしても、どんなことでも自分たちだけで事を運ぶことができず、たいていのことは他の人と共同して行動するしくみになっている。それで、これらの人々の意志の統一をはかるために、かなりの時間が必要となる。こういうのろのろした方法は、一刻の猶予も許されない場合には、危険きわまりないものである。したがって、共和国は、その制度のなかに臨時独裁執政官のような役職を必ずつくっておかなければならないのである。」(第1巻第34章)(傍線大坂。なお、訳者の永井三明氏はDICTATORの訳語として「臨時独裁執政官」を使用しておられるが、私は他のところでは慣用にしたがって「独裁官」の語を使用する。)
彼はこうやって独裁官制度を礼賛しながらも、やはり当時のイタリア情勢に触れ、ヴェネツィア共和国の「十人会」制度の賞賛に至っている。また、ここでは「共和国」制度の(ほとんど唯一の)欠陥として、その決定・審議の遅滞性が指摘されているが、このことは言葉をかえて
「新しい国家の設立、または旧制度の徹底的な改革は、一人の人間が単独でなすべきことである。」(第1巻第9章)
と説かれ、同じところでさらに、
「だから、その人物が王国を打ち立てたり、あるいは共和国を作るのに、どのような非常手段を取り上げようとも、道理をわきまえた人ならば、とやかくいってはならないものだ。たとえその行為が非難されるようなものでも、もたらした結果さえよければ、それでいいのだ。ロムルスの例のように、もたらされた結果が立派なものなら(注、ロムルスによる弟レムス殺しとその後のローマ建国を指す。(大坂))いつでも犯した罪は許される。」(第1巻第9章)
この言葉からは「共和主義者マキャヴェリ」の姿は見られず、いわゆる「マキャヴェリズム」の創始者としての姿だけが現われている。しかし、先ほどルソーの言葉を引いて説明したように、マキャヴェリズムの真髄はやはり祖国愛に基づく共和主義であった。そして、ここで語られる「何をやっても許される人間」とは、必ず結果を良いほうへ導く「力量」(ヴィルトゥ)のある人間のことなのである。このヴィルトゥとは、ラテン語のvirtusから来た言葉であるが、この言葉は(本書では他に「武勇」「美徳」「精神力」「剛」などとも訳されている)マキャヴェリの思想の根本を貫くものであった。ヴィルトゥはまた、「運命(の女神)」であるフォルトゥーナと対比され、物事はこのヴィルトゥとフォルトゥーナの組み合わせによって進んで行くのだと説かれる。そして、このことは当然ローマ史にも当てはめられている。つまり、共和政盛期までのまだ腐敗堕落していなかったローマは、ヴィルトゥに満ちており、そのヴィルトゥの力によってフォルトゥーナを招き入れ、大帝国を形成し得たというのである。それは、ローマの軍隊について使われるとき、最も強調される。マキャヴェリがローマの軍制の中で最も高く評価しているのは「市民皆兵」制度であった。この市民皆兵制の理想化はまた、当時のイタリアに横行していた頼りにならない傭兵制に対する痛烈な批判でもあった。市民皆兵制の利点については、『政略論』および『君主論』の多くの箇所で言及されているが、それらすべてに共通するものは、自国市民軍のみがヴィルトゥを持ちフォルトゥーナを呼び込むことができるというものであった。それと対をなして、マンリウス=トゥルクァトゥスやワレリウス=コルウィヌスなどのローマの将軍に例を求め(第3巻第22章等)、軍指揮官のヴィルトゥについても言及されているが、それらもやはり兵士のヴィルトゥと切り離して考えることのできないものであった。(具体的には第3巻に詳しい。)
次に重要なものとしては、ローマの法律制度があげられる。法制については主に第1巻第40・45・49章等で触れられているが、マキャヴェリにとって「法」とは、何よりも国家に対する人民の「自由」を守るものと考えられていた。十二表法作成のための十人委員会の設立について書かれた章(第一巻第40章)では、「ローマに新しい法律を制定して、自由を磐石の重きに置こうとして」合意が成立し、十人委員会が創設されたという。ここでもマキャヴェリは共和主義者であった。
第二章 マキャヴェリの宗教観
マキャヴェリは言う。
「ローマに初めて基礎を与えたのがロムルスで、(…中略…)しかしながら、神はロムルスのつくった制度だけでは、強大な支配権を満たすことはできないと考えて(…中略…)ロムルスが手をつけないままに残しておいた法律を、ヌマ(ローマ第2代の王(大坂))の手で完成させようとの心ずもりだったのである。」(第1巻第11章)
このようにしてローマに法律が生まれたという。しかし、いくら法律を作っても、それだけでは不十分であった。そこで、
「人民がきわめて凶暴なのをみてとったヌマは、平和的な手だてで、彼らを従順な市民の姿にひきもどそうとして、ここに宗教に注目した。彼は宗教を、社会を維持していくためには必要欠くべからざるものと考え、宗教を基礎として国家を築いたのであった。こうして、数世紀たつうちにこの国の神に対する尊敬は、他のどこにも見られないほどのものになった。このことが背景にあったため、ローマの元老院や有力者が試みたどのくわだてもやすやすと事が運ぶようになったのである。」(第1巻第11章)
マキャヴェリはこのように、必要のために宗教が「つくられた」と説明する。そしてその宗教が誓約厳守の精神を生み、
「軍隊を指揮したり、平民を元気づけたり、善人を支持したり、悪人を恥じ入らせたりするのに、どれほど宗教の力が役にたっていた…。」(第1巻第11章)
と言う。また、
「神への畏れのないところでは、その国家は破滅のほかはないだろう。さもなくば、宗教のないのを一時的にでもうめあわせのできるすぐれた君主の高徳によって統治されるよりほかはないだろう。そのような君主たちの生命もかぎりあるものだから、彼らの能力(ヴィルトゥ)に衰えがみえてくると、たちまち国勢も地に堕ちることとなる。」
と、宗教に対するヴィルトゥの力が強調されている。
このようにマキャヴェリの宗教観はきわめて政治主導型の、現実的なものであった。しかし、宗教についてもまた、マキャヴェリは当時のイタリアの状況への言及を怠ってはいない。それは、
「人間とは、いつの世でも同一のルールにしたがって生まれ、生活し、そして死んでいくものだからである。」(第1巻第11章)
古代の宗教は、犠牲奉納などの派手な宗教儀式により、民衆を宗教的な雰囲気に浸し、国内の秩序維持と統一に絶大な力を持ったという。(第1巻第12章)しかし、彼はキリスト教はその原始キリスト教時代のよい点を全く失い、堕落の淵に沈んでいるという。ローマ教会(教皇)は、その権威によってイタリアを統一するどころか、世俗権力に安住してこれを行使することに熱中し、外国勢力を導入し、結果としてイタリアを崩壊させたと痛烈な批判を行なっている。教会の悪徳については、
「教会の悪影響というのは、ほかのどんな不測の事態をもってしたところで、その足もとにも及ばないほどの猛烈なものなのだから。」(第1巻第1章)
つづいて第1巻第13章では、宗教がいかに政治の手段として利用されていたかが描かれ、14章では「鳥占い」の恣意的取り扱いによる軍事利用の例があげられている。
このようにローマの宗教思想はきわめて現実主義的であったため、現実的政治理論であるマキャヴェリズムを奉じるマキャヴェリにとって、宗教に例をもとめることは自己の理想を表現する上で非常に役立っていると思える。
おわりに
『政略論』の中では、まだまだ多くの事件が語られているが、その全てを紹介するのは冗漫であり不必要でもあるので省略する。
以上、共和政体・法律・宗教について概観してきた。その上で気がついたことをあげていくと、第一はやはりマキャヴェリは「共和主義者」であったということである。そして、共和政ローマの政治体制、あるいは法・宗教など全てがきわめて現実的であったからこそ、マキャヴェリはローマ史を通してみずからの現実主義的政治理念(マキャヴェリズム)を語る気になったのであろう。マキャヴェリが当時のイタリアの情勢を批判し、それに警告を発するために、なぜ共和政ローマの歴史を語ろうとしたのか。その問の答えは出た。それはマキャヴェリがリウィウスの『ローマ史』を利用しながら、共和政末期の混乱時代、あるいは帝政期について全く触れていない(むしろ触れることができなかった)事が明らかに示している。
このように、現実主義的政治理論として『政略論』を見直すとき、我々はその中に必ず現代に通ずるものを見い出すことができる。その意味でマキャヴェリは、現在なお、我々が尊ぶべき木鐸なのであろう。
[3999] 池田大作「親米提言」(資料のみ)2
投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/08/22(Fri)
18:59:57
手段と目的が転倒する病理
アメリカの“一人勝ち”といわれるグローバリゼーションの影響
注1 先制攻撃ドクトリン
「敵対国やテロ組織に対し、必要な場合は単独で先制攻撃する」という、アメリカが昨年9月に発表した「国家安全保障戦略」における新方針。「圧倒的な軍事的優位を将来にわたって維持する」との方針とともに、同戦略の柱となっている。
「正しい戦争」の基準
キリスト教の正戦論は干五百年以上の伝統をもち、今日もアメリカの軍事大学で理論科目として教えられている。アウグスチヌスは、人は神の都と地上の部の双方に住んでおり、罪ある現世では力を行使して悪に対抗せざるを得ない、国家はそのゆえに神によって召されたと教えた。ただし戦端を開くには厳しい基準があって、明確な侵略の脅威、先制攻撃の禁止、最高の政治権威による承認、自衛的な限定戦争、戦後の確実な改善見通しなど、「正しい理由」(Ius ad bellum)がなければならないとされる。しかし広島・長崎の原爆やホ□コーストの反省から、現代にもはや「正しい戦争はない」とする見方もある。
碩学(せきがく=大学者)ジェレミー ベンサム氏(英人)は、自然法や自然権を否定して、(自然権とかは)「竹馬にくくりつけたタワゴトだ」(!)と断定しました。「背後のものなぞ捨ててしまってあるものをあるがままに受け入れ」る、といふ、おるぶらいと様の考え方は、ジェレミー ベンサムの「功利主義」(=数で表すことのできるもののみが存在する。数で表せないもの、目に見えないもの、は、存在しないに等しい、といふ考へ方)の考へ方そのものです。
近代=合理主義=数がすべて=真理判断(神とか自然法)の拒否 といふ考へ方を前面に打ち出した近代政治思想家の代表は、マキャべリ、ホッブズ、ベンサム、です。
すなはち、
マキャべり=権謀術数
ホッブズ =自己保存
ベンサム =功利主義です。
マキャべり=権謀術数 は、「目的のためには、手段を選ぶな。なんだかんだ言つても、勝ち残つたものが正しいのだから」(さうしないと、イタリアの内乱は終わらないではないか!)といふ考へ方です。
ホッブズ =自己保存 は、「なんだかんだ言つても、たくさん生き残つたはうの勝ちだ」(さうしないと、イングランドの宗教戦争・内乱は、終はらないではないか!)といふ考へ方です。
ベンサム=功利主義 は、「なんだかんだ言つても、数で表すことができる人間の利益になるものが、望ましい」(さうしないと、神学論争が終わらず、学者の数だけ真理があるといふことになるではないか!)といふ考へ方です。マキャべり=権謀術数 ホッブズ =自己保存 ベンサム =功利主義 に共通してゐるものは何かといふと、「真理判断(=神、自然法など)の拒否」すなはち、「その背後を証明することが不可能だろう」といふことです。これ、すなはち、「近代合理主義」であります。
おるぶらいと様は、「近代合理主義」で一貫してをり、それはそれで、すばらしいことではあります。
自然科学は、「近代合理主義」のおかげで大発展をとげるわけです。しかし、社会科学のはうはどうでせうか?
人間社会は、まだ「近代合理主義」で「啓蒙」されてゐない人々がたくさん存在します。といふわけで、「前近代的 自然法学」の有効性は、いまだに、ある(!)、わけです。
マキャべりは500年前、ホッブズは350年前、ベンサムは200年前の人ですが、今から100年前、19世紀末から、欧米社会は、世紀末のアノミー(=無連帯から生ずる無秩序)の時代に入ります。
エミール デュルケーム(仏人)といふ人がその著書「自殺論」で近代合理主義では考へられない現象を指摘してゐます。すなはち、「金持ちになつた人が、なぜか、自殺する」(!?)といふ現象です。「貧乏になつた人が自殺する」といふ話であるば、いつの時代でもある現象です。今の日本でも盛んに起つてゐます。しかし、金持ちになつた人が自殺するとは、どういふことでせう?
それは、かういふことです。すなはち、「どうも、急に金持ちになつた人に自殺率が高いやうだ。急に金持ちになつた人は、今まで付き合つてゐた貧乏人からは「裏切り者」扱ひされ、これから付き合ふことになる金持ちからは「成り上がり者」扱ひされる。このやうに、他者との連帯を失つた結果として生ずる孤独感(!)が、金持ちの自殺の原因だ」といふことです。
マキャべりから数へて400年、ベンサムから数へて100年、すなはち、長くて400年間、短くて100年間、近代合理主義を続けると、人間は、アノミーに陥るといふことです。
これ、すなはち、「真理判断の拒否」=「近代合理主義」に人間が耐へることができる期間は、100年から400年(!)といふことです。
ちなみに、日本国は、現在アノミーの時代に入つてゐますが、明治維新から数へて、130年ほど経つてをります。ここに、「前近代的自然法学」の復権の余地があるわけです。
やはり、人間は、真理とは何かわからないくせに(!)、真理が何にであるかにこだわらざるをえない(!!)生き物だ、といふことです。松原 正(まつばら ただし)氏は、その著書「戦争はなくならない」で、次のやうに述べてゐます。
(引用)
(松原正著「戦争はなくならない」)未來永劫人間は決して戰爭を止めはしない。なぜなら、戰爭がやれなくなれば、その時人間は人間でなくなる筈だからである。では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるを得ず、己れが正義と信ずるものの爲に損得を忘れて不正義と戰ひたがるといふ習性である。即ち、動物は繩張を守る爲に戰ふに過ぎないが、人間は自國を守る爲に戰ふと同時に、その戰ひが正義の戰ひであるかどうかを常に氣に懸けずにはゐられない。これこそ動物と人間との決定的な相違點なのである。
(中略)
動物と同樣、人間も繩張を守るべく戰ふが、動物と異なり、正邪善惡を氣にせずにはゐられないから、不義の敵を殺す事になる。それゆゑ、人間がいかなる場合にも戰爭をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善惡の別を全く氣に懸けぬ動物に墮してゐる筈である。
(松原正著「戦争はなくならない」)
(終了)(参照:http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/MATSUBARA/SensohaNakunaranai.html)
結論。「前近代的自然法学」の効用を「近代合理主義的」に記述すれば、以下のやうになるでせう。曰く、
「前近代的自然法学には、アノミーを吸収し、秩序を維持・回復する自動制御装置(ビルド イン スタビライザー)としての機能・効用を、期待することができる」と。19世紀末のアノミーの結果、20世紀に生じたナチズムの被害者である、LEO STRAUSS レオ シュトラウス(フランシス フクヤマの先生 アラン ブルーム の先生。ドイツからナチスの迫害を逃れて、アメリカに亡命した人) は、その論文 “THREE WAVES OF MODERNITY”(「近代の三つの波」)で、次のやうに述べてゐます。このシュトラウスの論文を本投稿の結びにいたしませう。曰く、
(START)
(LEO STRAUSS “THREE WAVES OF MODERNITY” “INTRODUCTION TO POLITICAL PHILOSOPHY” P.98 収録)
liberal democracy,in contradiction to communism and facism, deprives powerful support from a way of thinking which can't be called modern at all: the premodern thought of our western tradition.
(LEO STRAUSS “THREE WAVES OF MODERNITY” “INTRODUCTION TO POLITICAL PHILOSOPHY” P.98 収録)
(END)
(小山の意訳)
リベラル・デモクラシー、共産主義やファシズムと矛盾するといふ意味においての、 は、ある考へ方から強力な支援を引き出すことができる。その考へ方といふのは、近代とは、まったく呼ぶことができないものである。これ、すなはち、前近代的思考、われわれ西洋の伝統にある、、、
(終了)
以上。御無礼。
[3983] ワトソン遺伝子の分子生物学2 投稿者:居る無頼人(おるぶらいと) 投稿日:2003/08/13(Wed)
02:26:45
ワトソン遺伝子の分子生物学より細胞の成長や分裂も、細胞外の分子の挙動を支配しているのと同じ化学の法則を基礎としている。細胞は生物に特有の原子をもっているわけではない。細胞で作られる分子は化学者が信念をもて努力すればいつかは合成できるものである。結局、生物だけの特別な化学はない。生化学者は特別の化学法則を研究する人間ではなく、細胞内にある分子(生体分子)の挙動の研究に興味をもった化学者なのである。
細胞も化学の法則にしたがっている
Darwinの時代にすでに、化学者たちは生きた細胞も無生物と同じ化学の法則にしたがっているのだろうかという疑問を抱いていた。そのころまでには、細胞には生物特有の物質があるわけではないことはわかっていた。また生体を構成するほとんどの分子の主元素である炭素がたいせつな役割をはたしていることも、早くからしられていた。そこで、生体内の炭素化合物とほかの化合物を区別しようという意図で有機化学(炭素をふくむほとんどの化合物に関する学問)ちと無機化学の区別はできたのだが、このわけ方は人為的なもので生物的根拠はなにもない。化合物が細胞内でつくられたのか、化学実験室でつくられたのかを、純粋に化学的な方法で見分けることはできない。
それにもかかわらず、今世紀はじめの25年くらいは、化学の法則にあてはまらない生命力のようなものがあり、それが生物と非生物を分けていると考えている科学者は多かった。この“生気論”が根強かった理由の一つは、生物を研究対象にしようとした化学者(現在では生化学者とよばれている)があまり成果を上げえなかったということである。当時の有機化学に技術は、グルコースのような比較的小さな分子の構造研究には十分だったが、細胞内の重要な分子の多くはいわゆる巨大分子であり、最高の有機化学者の手にもおえないものだったのである。
酵素はすべてタンパク質であることが証明されつつあったため、長い間もっとも重要な巨大分子はたタンパク質だと信じられていた。当初は、酵素が小さな分子か巨大分子かという議論があったが1926年にアメリカの生化学者James Sumnerが、結晶タンパク質が酵素の性質をもつことを示し、議論は事実上おさまった。しかし、このような大きな発見ですら、タンパク質を含む神秘のベールをとりはらうことはできなかった。当時の化学的手段ではタンパク質の複雑な構造は解明できず、1940年ころになってもまだ、結局タンパク質は生物特有の性質を持っているということになるのではないかと思っている科学者が大勢いた。
そにうえ一般には、遺伝子も酵素と同じタンパク質だろうと思われていた。直接の証拠はなかったが、遺伝子は非常に特異性が高いのだから、タンパク質以外ではありえないと思われた。それに染色体にはタンパク質が見いだされていた。もっとも核酸も染色体の成分であることはわかっていたが、最初にうちはこれは比較的小さな分子で遺伝子として働くほどの十分な情報は伝達できないと思われていた。
巨大分子の構造についての全般的な知識不足のおえに、細胞の三次元構成にはなにか独特のものがあり、それが細胞に生物としての特質を与えているのだという考えがもたれていた。そしてこの考えが元になって細胞内の化学的相互作用をすべて正確に理解することは不可能だとも言われていた。細胞説や進化論のような何か新しい自然法則が発見されなければ、生命の本質は理解できないだろうと予測する人のほうが多かったのである。こういうほとんど神秘説ともいえる考えからは、有意義な実験が生まれてくるはずもなく、それどころかあいまいすぎて真偽を確かめることさえできなかった。この分野が発達したのは生物の興味をもった化学者や物理学者が、複雑きわまる生体分子の構造をなんとか解明しようと新しい方法を忍耐強く試みたからこそである。<転載終了>
[3982] Re; [3980] 「科学とキリスト教」の資料(張り逃げ)
投稿者:居る無頼人(おるぶらいと) 投稿日:2003/08/13(Wed)
01:22:58
RC殿、貼り逃げは許しませんぞ。<[3980]より転載>自然科学の成果としての知識の領域と、啓示としての聖書の教えの領域とは次元が違うものであり、聖書は信仰と生活に関する真理を示す正典ではあっても、自然科学が探求する領域で何かを真理として示すものではないとする立場がある。自然科学が世界の成り立ちや法則についてどのようなことを主張しても、それは神がそれらの背後にあって、それらを創造したという信仰を否定することにはならず、かえって自然科学的知見は、信仰者にとっては創造者である神の知恵と力を実感する契機にすらなりうる、というのである。これが、現在における大方の信仰者の態度であろう。<ここまで>
これは屁理屈だろう。背後に何かを仮定しなければ心の平穏が保てないのは勝手だが、その背後を証明することが不可能だろう。いつも背後にあって表には出て来ないならば。そうまでして苦しいこじつけをしなくてもいっそのこと、背後のものなぞ捨ててしまってあるものをあるがままに受け入れた方がスっきりするだろう。
<[3978]より転載>神によって与えられた法則は、厳密に成り立つ自然法則と規範的な*自然法とに分れる。自然法則の人間の側の理論的認織と顕在化のプロセスが自然科学であり、自然法の顕在化のプロセスは社会科学である。<ここまで>
このあたりも言い訳にすぎない。第一、自然法の存在をきちんと実証することが不可能である。もう、そんな苦しい言い訳を続けることはいいかげんやめにしてはどうか?フクヤマもその発想から、自然権を持ち出している。こんなものをまともにとれるのか、という問題である。フクヤマの批判の鉾先であったワトソンは、歴史的成果を上げた人物であるが、優れた教科書も著している。そして、それは、もう内容は古くなってしまったが、その思想は世界中の学生、研究者に読み継がれている名著である。
蒸し返すようであるが、奥田氏は、分子生物学の本を読んでフクヤマの言うことが正しいと確信したという。どこの何を読んだのか?以下の文を読んでフクヤマと同じ内容なのか確認してほしい。そして、ここに書かれていることは、常識的な事として学校で教えられていることである。
<「ワトソン遺伝子の分子生物学」より転載>
メンデルの見た世界人類は生物の中でも特異な存在だと考えるのはたやすい。われわれ人間だけが複雑な言葉を発明し、それによってたがいに意味のある思想や感情を伝え合うことができるようになった。そしてすばらしい文明を発達させ、ほかの生物には思いもよらないほどに、われわれを取り巻く世界を変化させてしまった。そこで人間は、自分たちにはほかの生物とは違ったなにかがあるのだと考えるようになった。このような信念は多くの宗教に取り入れられてきた。われわれは宗教を通してみずからの存在理由をさがし求め、そうすることによって人生を導く規範を打ち立てようとしてきた、100年ほど前までは、われわれひとりひとりの命にはじめと終わりがあるように、生物はある決まったとき創造されたものであり、人間という生物種もその例外ではないのが当然とされていた。
この信念にはじめて疑問が示されたのは125年前、Chaels DarwinとAlfred R. Wallaceが適者生存に基づいた進化論をとなえたときだった。彼らはいろいろな生命形態は不変のものではなく、少しずつ違った動物や植物が絶えず生み出されており、その中で生存に適するもの、繁殖しやすいものが生き残るのだと主張した。この理論を発表した当時は彼らはこの絶えまない変化が何に由来するのかがわからなかった。しかしこのような変化の基盤になるようなものならば、変化によって生じた新しい形質はその子孫に受け継がれるに違いない、と考えたのはただしかった。
最初はDarwinに対する激しい反対が起こった。大部分は、人間といやしいサルが、たとえ1000万年から2000万年前にせよ共通の祖先を持っていたなどと信じたくなかった人々からの反発であった。また、はじめにDarwinの出した証拠に納得できなかった多くの生物学者たちからも反対が出た。その中にはスイス生まれの有名な博物学で当時ハーバードにいたJean L. Agassizもいた。彼はDarwinとDarwinの擁護者であり進化論の普及に最も功績のあったThomas H, Huxrey に対して、何年間も反論を書き続けた。しかし19世紀末までに科学的な議論は終わった。今日の動植物の分布も、またそれらが化石として見つかる地質学上の年代分布も、たえず進化するさまざまな生物集団が共通の祖先から派生したと仮定しなければ説明できない。今日では少数の正当派キリスト教徒以外の人はすべて進化論を事実として受け入れている。彼らの反対は論理ではなく、宗教上の教義に固執しているためである。
Darwinの説を受け入れるなら、生命はおよそ40億年前にはじめて地球上に、単純な、おそらく今日知られている、最も単純な生命形態である細菌に似た形で現れたという考えに至る。このような細菌の存在そのものが、生命の本質はごく小さな生物に見い出されることを物語っている。進化論はさらに、この生命の基本原理があらゆる生物にあてはまることも示している。
<転載ここまで>
[3980] 「科学とキリスト教」の資料(張り逃げ)1 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/08/11(Mon)
13:14:51
『岩波 キリスト教辞典』のP202から貼り付け(貼り付け開始)
『岩波キリスト教辞典』
科学とキリスト教
標題の下では通常、近代自然科学の知見とキリスト教の教説との関係が問題となる。ただし、科学に対応する西欧語(【ラ】Scientia)は学知一般をさすものであり、この意味で標題を理解すれば、キリスト教思想の成立期に遡る、*理性と*信仰という問題と重なるものとなる。近代自然科学は”自然に直接向かい、これを対象として、世界の成り立ちやそこに働く法則についての知見を得てきた、他方、キリスト教の伝統的教説もまた世界の成リ立ち等についての主張を含んでおり、それは神のことばによる啓示である正典としての聖書を解釈しつつ提示されるもの)であった。そこで、両者に相反する点が見られる場合に、これをどう扱うかが問題となり、ここから双方の知の一般的関係についての様々な立場が生じた。
第1に、キリスト教の従来の教えを採り、これと調和しない科学の知見を否定する立場がある。これは*異端審問の立場で科学を見るものである。これとは逆に第2の立場は、科学の知見に基づいてキリスト教の教説を否定し、ここからキリスト教の非真理性をあげつらう。これらに対して、第3の立場は、科学と聖書の教えが一見調和しないと思われる事態が起きるのは、世界についての教説を支えている聖書の解釈に問題があるのであって、真の科学的知見と正しい聖書解釈は調和するというものである。例えば、*地動説が唱えられた当初、教会はこれを聖書の教えに反する異端として断罪したが、地動説を主張する者たちは決して神による世界創造を否定するのではなく、かえってその創造の業を究めようとして、自然探求をしていたのであった。やがて、教会側は、聖書は*天動説を主張しているわけではないと、解釈を改訂することによって、この科学的主張との調和を図るようになったのである。
この第3の立場を推し進めたところに、自然科学の成果としての知識の領域と、啓示としての聖書の教えの領域とは次元が違うものであり、聖書は信仰と生活に関する真理を示す正典ではあっても、自然科学が探求する領域で何かを真理として示すものではないとする立場がある。自然科学が世界の成り立ちや法則についてどのようなことを主張しても、それは神がそれらの背後にあって、それらを創造したという信仰を否定することにはならず、かえって自然科学的知見は、信仰者にとっては創造者である神の知恵と力を実感する契機にすらなりうる、というのである。これが、現在における大方の信仰者の態度であろう。
これとは対照的に、根本主義者(→ファンタメンタリズム)らの創造説(Creationism)は、創世記の世界創造の記事(についての)彼らの解釈)と*進化論は矛盾するとして、進化論を批判し、合衆国の各地で学校が創造論をも教えることを要求し、その主張は科学的に裏づけられるとする(創造科学 Creation science)が、批判者からは擬似科学と評価される。これは、聖書の権威を信仰と生活の領域に限定することによって科学との棲み分けを図る近現代的キリスト教の姿勢ヘの反動として生じたものであり、科学を自らの側に引き込んで第1の立場を主張しようとする点で、近代自然科学の落とし子である科学主義の逆説的現れと見ることができる。 清水哲郎
科学論争史16−17世紀ヨーロッパ文化の特徴は自然哲学からの数学的自然科学の誕生である。この新思想誕生に際しローマ教会の権威との衝突が目立った。ローマ教会はコペルニクスの『天体の回転について』(1543)を、最初、好意的に迎えていたが、同教会の権威にあからさまに挑戦する新思想家たちがそれを支持するに至って1616年には禁書目録に加えることになる。*地動説を支持した*ガリレイのローマ教会による宗教裁判(1633)はその延長上にある。しかし同じ時期、同じく地動説を支持したドイツ人*ケプラーは宗教裁判にかけられたわけではないし、イギリスやオランダなどプロテスタント国においてはむしろ科学は大いに発達し、科学の発見した諸事実が聖書の記述と矛盾するとは考えられなかった。ガリレイ自身は、聖書の目的は「どのように天界が運行しているか」を教えることではなくて「どのようにして天界に行くことができるか、つまり救済の問題であるとすら述べている。聖書の目的は科学を教えることではなく、神との関係で自然と人間が存在する意味について教えることであると考えられた。また、F.*べ一コンの「神のみ言葉を記した書物」(聖書)と「神のみわざを記した書物」(自然)との区別(1605)も、坤の英知と偉大さは自然研究を通じて知られることを強調したものである(→神の書物)イギリスでは特に自然科学は神の計画を示す自然神学と呼ばれうるほど、宗教思想と敵対する要素が少なかった(ペイリー『自然神学』1802)。一方フランス啓蒙主義の無神論の流れは、やがてラプラスのデーモン」などの機械的決定論を生み出すこととなる。
ところが19世紀になって出てきたダーウィンの*進化論は、プロテスタント国をも含めてキリスト教思想一般にとって多大な挑戦となった。それはダーウィンの自然淘汰説が創世記1章の「神による種類に従った創造」を否定した上で、生物の種の多様性を説明する理論であったこと(*『種の起源』)、さらには生物学を越えて目的論を機械的因果論に置き換えるという世界観的形而上学を含んでいたからである。
一言で言えば、人間を他の被造物と違って持別視するキリスト教人間論に科学的装いをもって強力な打撃を与えたのである。K.ポパーの次の指摘は興昧深い。ダーウィンの自然淘汰の理論は、世界における計画や目的の存在を純粋に物理的な用語で説明することによって、目的論を因果論に還元することが原則的に可能であることを示した。自然淘汰のメカニズムが原則として創造主の行為と彼の目的ならびに計画を模擬しうるという二と、そしてまたそれは目的または目標を目指した合理的な人間行動をも模擬しうるということであった(『客観的知識』1972)。
この意見はすでに1860年にウィルバーフォースがイギリス科学振興会で『種の起源』に与えた批判とまったく同じである。当時の進化論は、ダーウィン自身は自覚していなかったが、いわば形而上学的無神論に根拠を与えることとなったわけである。もっとも当時の神学者の中にはこれを有神論の枠組みで積極的に利用していく人もいた。
20世紀には、物質の究極の素粒子の発見、*ビッグバン理論などの宇宙の起源論、分子生物学・遺伝学の発展、フロイト、ユングらの*精神分析学の発展、脳科学の進歩などがあった。キリスト教神学はむしろ*実存主義に傾き、科学思想との表立った対話は避けた。
21世紀にはこれらの科学思想とキリスト教、さらには宗教一般との関係が問われることになるであろう。対話の糸口は複雑系の科学などの発達により明らかとなってきた科学の非決定論的な側面である。予測不可能な物質世界に神はいかに関わっているのか、このことが今後の対話の焦点になっていくだろう。
(貼り付け終了)
[3979] 「科学とキリスト教」の資料(張り逃げ)2 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/08/11(Mon)
13:09:17
『キリスト教神学事典』教文館 1995年から貼り付け(貼り付け開始)
科学と宗教 Science and Religion
この項目では西欧文明の過去350年の歴史のほとんど全体に触れることになる。この期間に科学および科学を基礎とする技術は長足の進歩を遂げ,文化全体を支配する地位にまで登りつめ、宗教にも重大な影響を与えた。多くの宗教が科学や技術と充分に深いところで調和的関係を保てなかったことも、現代世界の進歩に宗教が取り残されたことの一つの原因となっている。この問題をめぐる通俗的議論は、いまだ古い時代に両者のあいだにあった衝突を種としてこれをステレオタイプ化したものに左右されており、多くの宗教者が不必要なほどに守勢的になっている。もちろんこのように十把一絡げに一般化する場合、例外は幾らでもあるが、問題の広さと大きさとを明らかにするためには、このような一般化も必要である。
「科学」ということばは幾つもの意味で用いられている。それは信頼し得る(程度の問題はあるにしろ)知識の体系を指し、幾つかの「諸科学」に分けられ、それらが統合されて1つの包括的な世界観を作り上げるものと考えられる。また別の意味では、批判的な研究や実験を通して、また検証可能な仮説を作ることによって、体験を調査研究する方法であるとされる。更には、不正確な用法であるが、例えば人々が「科学」が水素爆弾を作ると言うように、善悪にかかわらず何かをするための力の源を指す場合もある。明らかにこれらの意味は相互に関連を持つ。しかしこれらを区別することが肝要である。というのは、近年になって関心の焦点は、「科学的世界観と宗教的世界観はどのようにして調停されるか」という概念的な問題から、「人間の問題をなおざりにする科学や技術の発展によって、人間が非人間化されることをいかにして防ぐか」といった倫理的、政治的な問題に移ってきているからだけではない。「宗教」も同じように幅広い意味を持ち、混乱を避けるためにはそれらの意味が明らかにされなければならないからである。そして神学、信仰、宗教行動などは、これに対応するものが科学のうちにもあるからである。
科学と宗教とのあいだにあった古典的な論争は、方法論的な問題や実際問題にも関連は持っていたが、おもに思想的なものであった。ガリレオの思想に教会は対抗したが、それは教会指導者たちがその思想の根拠を知らなかったからではなく、もしそれが何らかの絶対的な意味で真理として受け入れられるとすると、中世キリスト教世界の枠組となっていたアリストテレスの思想(→アリストテレス主義)を根底から切り崩すことになり、社会の実際的営みに途方もない影響を与えることになるからであった。従って問題の焦点は、教会の権威と研究の自由の関係に絞られたのである。そして問題はこの装いにおいて科学の神話に組み入れられたのであった。同じ力関係がダーウィンをめぐる論争においても働いていた。そこでは*進化論に賛成するか反対するかという本来の議論は、聖書直解主義やキリスト教的啓示の権威などの問題をはじめ、人間の本性や尊厳という広範な問題と混同されてしまった。これ以外の論争も、神についての信条が、説明のつかない現象と(浅はかなことであったが)あまりにも密接に結び付けられてしまった結果として生じたし(→隙間塞ぎの神)、科学者たちが自分の発見したことの宗教的、哲学的意味について不当な主張を掲げたり、一般化をしたような場合にも生じた。
これらの論争において、科学者にとっての問題は*自律の間題であった。科学に対して何か外的な権威が何を信じるべきかを指図したり、例えば神というような、通常の科学的研究の対象にはなり得ないものを説明概念(explanatory concept)として用いることを強要することが許されるような場合には、科学は科学にはならない。
現在この自律性はほぼ科学に認められていると言ってよい。そしてこれを科学の領域と宗教の領域とを峻別するというかたちで表現しようとする試みがいろいろになされてきた。このことが宗教にもたらす危険性については既に触れた。経験科学との共通の基盤を持たない宗教は人間の生の営みのほとんど全般に対する意味を持たなくなってしまう。それに、完全に内的ないし実存的な宗教や、宗教の専門用語を宗教の内部で用いることに満足し(「自分の言語ゲームに耽る」)、他の領域の体験や言語に結び付けようとしない宗教は、長い目で見るとき、空想と区別することが難しいものとなる。
問題は、自律的な諸学科を、それぞれに固有の自律性を犠牲にすることなく、いかにして関連させ、I.T.ラムゼイ(Ian T. Ramsey)が言っていた「経験的接合」(empirical fit)を見いだすかということである。この分野でも多くのことがなされてきた。そして科学者と神学者たちが実りある対話の場を見いだしつつあることを示す徴候もある。
注目すべき変化の一例として、教条的な科学的*実証主義からの撤退が挙げられる。それによれば科学的知識のみが我々の獲得し得る唯一の種類の知識であるとされた。これは知識の定義としては実際問題として狭過ぎるものであることが分かった。例えば、我々が人(人格)について持つ知識は、物理的プロセスについて持つ知識と同様に真なるものであるが、同じような分析を加えることはできないし、同じ種類の概念に還元することもできない。良く知られた隠楡を借りれば、科学の網は科学の技法によって研究されるにふさわしい現象を捕らえることができるが、そのことによって現実の大洋が包み込んでいるすべてのことについて判決を言い渡す権利を科学者に与えはしない、ということになろう。科学者が科学の限界を意識したことによって、科学も宗教も相互の関係についてより謙遜な立場を取ることができるようになった。そして、宗教の側からも、科学の側からも、帝国主義的な主張はあまり聞かれなくなっている。
近年深い関心が寄せられている問題は、科学的発見のプロセスにおける科学者の心的態度の問題、現実解明への参与(commitment)の問題である。M.ポラニー(Michael Polanyi)やT.S.クーン(Thomas Samuel Kuhn)の業績に刺激されて、神学者たちは科学的方法と神学的方法とのあいだにある類似性に注目している(→パラダイム)。それらには共にそれぞれ異なった仕方ではあるが、「知解を求める信仰」が関係している。T.F.トランス(Thomas Forsyth Torrance)は出発点は異なるが、方法論の類似性を極限まで追求し、何冊もの著作によって、彼がいうところの「アインシュタイン革命」によって開始された新しい物理学と同じく、「神学的科学」(theological Science)も、その主題との関係において、客観的かつ知的に厳密なものであり得ると主張した。トランスはまた近代科学の成立した背景にある神学的文脈を重視し、科学にとっては世界が知的に理解できるものであることと、偶然性に支配されたものであることを認める世界観、つまり古典的なキリスト教の*天地創造の教理にあるような世界観が必要であることを証明しようとしている。
科学史および科学社会学の進歩に伴い、科学も人間の他のあらゆる営みと同様、環境によって条件付けられているものであること、そしてどこまで条件付けられているかが明らかになった。中には世界の現実についての客観的な知識が可能であるとの主張をまったく認めず、科学とは単なる道具であり、将来起こることを予言する手段以上のものではないと主張するところまで行った者もある。この主張は一見するところ、宗教的形而上学に場を与えたようにも見えるであろう。しかし、もし科学が条件付けられているとすれば、宗教も条件付けられているのである。宗教にとってそのような相対主義がもたらす立場は*不可知論でしかない。科学にとっても、真理性要求をすべて放棄することは、外的な影響の支配を受けやすくしてしまい、その結果は科学の性格を破壊することにつながる。これら望ましくない結末に直面して、科学も宗教も、条件付ける要索、限界を付する要素があるにもかかわらず、それらを越えて両者が共に到達しようとする何か基本的な、そして客観的な実存があることを(いまだほとんど知られてはいなないにしろ)主張することが、共通の利益になることが明らかになるのではないか。
*宗教体験も、オックスフォード大学のA.ハーディー(Alster Hardy)の指導下に宗教体験調査研(Religious Experience Research Unit)によって科学的に精密な研究の対象とされ、幾つかの驚くべき結果も出ている。それによれば、宗教体験はこれまで一般に考えられてきたよりも広い範囲に見られることであり、また宗教体験の基礎には小児的欲求への退行があると言われてきたことも根拠のないことなどが分かっている。社会学、人類学、心理学などを通して宗教体験を研究する方法をJ.ボウカー(John Bowker)が用いて、,人間の宗教的行動がどこまで客観的な宗教的出会いの対象を指し示し、またそれに甚礎を置くものであるかを明らかにした,深い洞察に満ちた研究を行っている。彼の研究テーマは前段に述べた問題と密接につながるが、彼の結論は、神の感覚の起源を神そのものに求めることは、科学的研究の枠組の中でなされたとしても、決して不条理なことではない、ということであった。
以上に述べたことは、実際になされつつある対話のほんの少数の例にしかすぎない。宗教と科学とは同じ現実について、共通の問題意識を持つが、両者は異なる観点から、異なる問いを念頭におきつつ、その現実に取り組むのだと一般に考えられている。そのような対話を大事にする動機の1つとなっているのは、現代の知識が断片化されているという意識であり、それに伴って、科学の始原期に事実の世界と価値の世界とが峻別されたことは、人間的には悲惨な結果をもたらしたという反省である。科学は体験の大きな塊を、手頃な大きさに砕いて、1つの塊だけを孤立させて研究することによって進歩する。部分を全体に関係付けること、そしてその全体を基礎付け、存在せしめる人間的価値(そして究極的には宗教的価値)を見失うことなく、そのうちにとどまり続けることには、あまり成功してこなかった。
先に、科学を知識としてではなく、カとして見るもう1つの傾向に触れた。このレベルで科学者たちに向けられる問いは厳密な実際的内容を持つことが多いが、科学者たちのあいだに不安と憤りとをかもし出している。問いの動機には政治的なものがあるが、道具主義的科学観から出る問いでもある。もし科学が単に理論的予言をする能力によってではなく、結果によって評価されるとすれば、つまり、世界において、善のためであれ悪のためであれ現実の力として評価されるとすると、それは好むと好まざるとにかかわらず、政治の領域、および宗教の領域に引き摺り込まれる。例えば世界教会協議会内部での議論の主題はこの性格を持ちやすい。その理由の一つは、そこには科学の進歩の直接の恩恵をいまだ受けていない国やグループが多数参加していることである。「持たざる国」の観点からすれば、科学的営みがすべて客観的であり価値自由であるという主張に疑いを向けることは難しいことではない。彼らにとって科学とは、それが実際になすことなのである。
このような言い方は、科学が長いこと尊敬すべきものとされてきた社会にとっては異様なものとして響くかも知れない。しかし、世界的観点からは、将来科学と宗教とのあいだでなされる対話は、何らかの理論的総含に向かって努カする人々によってではなく、科学を自分たちの宗教的、政治的利益の追求のために利用しようとする人々によってなされるであろう。
〔文献〕 l. G. Barbour, Issues in Science and Religion, 1966 ; J. Bowker. The Sense of God, 1973 ; A. C. Hardy. The Biology of God, 1975 ; W. Pannenberg. Wissenschaftstheorie und Thelogie, 1977 ; World Council of Churches. Faith and Science in an Unjust World, 1980 ; J. Ziman. Reliable Knowledge, 1978 ; A. R. ピーコック 『神の創造と科学の世界』 1983, 新教: M. ポラニー『個人的知識』 1985. ハーベスト社 ; T. F. トランス『科学としての神学の基礎』 1990, 教文館. (John Habgood)
(貼り付け終了)
[3978] 「科学とキリスト教」の資料(張り逃げ)3 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/08/11(Mon)
13:08:01
『新キリスト教辞典』いのちのことば社 1991年から貼り付け(貼り付け開始)
かがくとキリストきょう 科学とキリスト教
1.歴史的な関係.
古代ヘブル人及び初代キリスト教徒は直接に科学を生み出していないが、次の2点において後世の近代科学の誕生に貢献することとなった。第1に、唯一の創造主なる神を礼拝し、この世界は神の被造物であって普遍的な秩序(法則)があると見なしたこと、第2に*偶像崇拝を拒否し、異教的な*占いや魔術を避けたこと(レビ19:26、31、申命18:10、11、U歴代33:6、イザヤ8:19)、である。近代科学が誕生したのは聖書の時代のずっと後、17世紀のヨーロッパにおいてである。もちろんそれ以前に科学の萌芽と呼べるものがなかったわけではない。例えば、古代パビロニヤにもギリシヤにも、*天文学を初めとする自然学や数学はかなり高度なものが存在した。しかしそれらは*神秘主義や*多神教の教義と強く結び付いていた(→本辞典「天文学とキリスト教」の項)。また中世ヨーロッパにも自然学と言われるものはあったが、*スコラ学の影響を受け、神学化・形而上学化された自然学であった。被造物としての自然が、それ自体で探求されるに値するという近代科学の精神を可能にするような方法の出現は、人間の認識の視点が「普遍」から「個物」に移っていった中世から近代への思想の流れの申でとらえることができる。例えば、16世紀の宗教改革者J・*カルヴァンは「たしかに、星の動きを調べ、その位置を定め、そのへだたりを測定し、それぞれの特性を記述するためには、技術と、また人一倍精緻な技巧が必要である。それをわきまえた上で、神の摂理が明らかになればなるほど、それによって精仰は神の栄光を見るようにいよいよ高く高められるのである」(『キリスト教綱要』1:5:2、新教出版社、1962)と述べている。このようにして彼は、神の*創造と*摂理を明らかにしようとする人間理性の働きの1つとして自然学を位置付けるが、これは近代科学の精神につながり得る。
実際、帰納法を提唱し、近代科学の方法論に大きな貢献をした17世紀の哲学考F・ベイコンは、科学を次のように意味付ける。「人間は堕落により、清浄な状態からも、被造物を治める状態からも落ちてしまった。しかしこれら失われたもののある部分はともにこの世にあって取り戻すことができる。すなわち前者は宗教と信仰によって、そして後者は芸術と科学によって」(『ノヴム・オルガヌム』)。ここには神による剣造・人間の*堕落・キリストによる回復といった、救拯(きゅうじょう)的な*ピューリタンの世界観が認められる。ベイコンは次のようにも述べている。「異教徒は世界は神のかたちであり、人間は世界の縮約されたかたちであると考えていたが、しかし聖書は、けっして世界にそれが神のかたちであるなどという栄誉を与えようとはせず、ただそれが、『神のみ手のわざ』(詩篇8:3)であると認めているだけであり、また聖書が『神のかたち』(創世1:26−27)といっているのは、ただ人間の場合だけである」(『学問の進歩』)。ここには中世的なスコラ主義から解放された近代精神がはっきり見てとれる。
近代科学の具体的展開は、17世紀のガリレーオ・ガリレーイやI・ニュートンらが数学を導入し、自然の観察データを定式化して理論形成をしたことをもって始まった。ニュートンカ学の成立はその金字塔である。*ガリレーオもニュートンも敬度なキリスト者であり、その信仰が近代科学を可能にしたとも言えるのであるが、いったん成立してしまった近代科学は次第にその成功と相まってキリスト教的基盤から離れていき、世界観の位置まで引き上げられていった。つまり18世紀の*啓蒙主義の時代に至って力学的・機械的な自然観が成立することとなる。また神学もキリスト教を擁護する意図から、逆に科学を使って神の知恵と存在を論証していこうとする、狭義の意味の*自然神学を発展させていった。J・*バトラーの『宗教の類比』(1736)は*理神論の不完全さを暴露するための手段として、自然神学の自立を進んで承認している。この時期の自然神学の命題とは、例えば「時計は設計者の産物であり、時を告げる目的のために作られている。もし宇宙の諸部分が時計仕掛けと類似しているとすれば、やはりある目的のために設計されているに違いない」というものである。これは言わば、科学的知識を使った神存在の目的論的証明である。また神の単一性について次のような形の議論が行われた。「宇宙は、明白に一つの宇宙であるように見える。それは全体にわたって一つの重力法則によって支配されており、あらゆる場所で同じ運動法則に従っている。それゆえ神の単一性は、われわれが宇宙について知っているこの確実な知識によっていまや永遠に証明されている」。
このような自然神学の議論には、幾つかの問題点がある。例えば、神の設計を根拠とする論証は、自然の仕掛けと人間の手になる仕掛けとの間の類似点を前提としているが、相違点には目をつぶっている。つまり、人間には堕落によって不完全な神認識の能力しか残っていないこと、そしてそのような不完全な人間がどうして完全な神を知ることができるのか、という問は不問に付せられている。また重力法則の単一性から神の単一性を演繹することも、今日の科学が様々なタイプの力の法則を明らかにしている以上、もはや的はずれな議論である。
最初は啓示としての聖書の補完物にすぎなかった自然神学は、次第に聖書そのものから離れ、あたかもそれ自身で成立するかのごとく扱われるようになった。それと同時に、人間理性の堕落ということが真剣に考慮されない風潮を生み出していった。さらに自然界からの*神存在の証明が批判にさらされると、あたかもキリスト教そのものの基盤が崩れたかのように考える風潮をも生み出した。そして実際に、自然界からの神存在の証明はD・ヒュームによって徹底的に批判されたのである。ヒュームが『自然宗教に関する対話』(1779) の中で行った批判の骨子は次のようなものである。
(1)諸天地創造を目撃したり体験した人間は誰もいないのだから、ある神的存在がわれわれの世界を創造したという証拠はない。
(2)この世には不完全なものがあり余るほどあるので、この世の創造者(あるいは創造者たち)は凡庸で、無器用、かつ、もうろくしている可能性も認められる。
(3)原因はその結果と対応しており、われわれが自然の中に観察する結果は有限であるので、そこから神の無限な善性、無限な知恵、無限な力能を推論することは容認しがたい。
(4)神の設計論の主唱者は、自然界に対して機械との類似性を選ぶが、植物や動物との類似性も同じようにふさわしいだろう。その場合、宇宙の原因として種子や卵を仮定することができるだろう。このようなヒュームの批判は、経験論の流れに立つ自然神学の基礎を実質的には完全に破壊してしまった。そこでヒュームのような極端な形での議論を避け、もっと常識的な立場で人間が生得的に持つ認識能力を前提にしたのが、スコットランドの常識的実在論者(コモンセンスリアリスト)たちである。彼らの考え方はC・ホッジを中心とする19世紀の古プリンストン神学にも受け継がれ、現代の福音派神学の認識論にも大きな影響を与えている。
一方18世紀*啓蒙主義の合理的世界観は、聖書の合理的批評学の成立をも促し、次第にキリスト教を科学とは別次元の宗教的価値のみの領域に押し込めることともなった。キリスト教は道徳宗教(*カント)へとおのずから制限する方向に向かい、現代のリベラルな立場の神学の誕生となる。
現代神学者の中で例えばR・*ブルトマンは、科学的世界観の中に生きる人々への宣教方法を扱っている。彼は、近代の科学的世界観を持つ人々には新約聖書の使信はそのまま理解できないものとして、キリスト教を神話化する。彼によれば、新約聖書の世界観はユダヤ的*黙示文学と*グノーシス的救済神話によって構成されているので、現代人にはとうてい受け入れがたい。そこでこれを非神話化し、信仰者の実存に常に新たに決断を迫るための使信として聖書を解釈し直していく。しかしこのようなブルトマンの*非神話化論の前提となっている科学的世界観そのものが、実は20世紀後半には様々な領域で批判にさらされており、今日その問い直しが盛んに叫ばれているのである。
2.福音主義の立場.
科学の持つ帰納的方法論を神学の方法論として応用した人に、19世紀プリンストン神学校の組織神学者C・*ホッジがいる。彼はベイコン流の自然と聖書の間の類比を使った。つまり、科学者が自然の諸事実を査定し、分類し、それらに働いている諸法則を帰納するように、神学者は聖書内の諸事実を組織化し、その諸事実を含む原則と一般的真理を確証していく、とした。このような形での客観性、中立性を標榜した神学方法論は、当時の常織的実在論の影響を受けたものであり、現代において*宣教学から提起された文化脈化(*コンテキスチュアリゼーション)という観点から再検討が迫られている。
ホッジの科学観は実証主義的であるが、実証主義そのものが現代の科学哲学によって批判にさらされている。現代では、科学は実証主義が説くように客観的に、中立に営まれるものではなく、あらかじめある理論的枠組(パラダイム)があって、そこから出発すると見られている。そしてパラダイムは前理諭的な宗教的モチーフによっても左右される可能性があり、ここにキリスト教の*認識論との接点が出てくる。
*福音主義の立場から、近代の科学的世界観というパラダイムと取り組むためには、まず何よりも宗教的モチーフとして神の創造のモチーフを回復することが必要である。そして旧新約聖書全体を通してキリスト教の世界観がどのようなものであるかを見なければならない。
聖書に啓示された根本の宗教的モチーフは、超越的な神による世界の*創造、人間の*全的堕落、イエス・キリストによる世界大の*贖罪である。つまり創造の良きものはキリストにおいて回復されるのである。ここにおいて初めて、科学が前提としている「法則」の存在論的身分が明らかになる。
科学とは、法則を探求する理論的営みのことである。従って科学をキリスト教的に意味付けするためには「法則」と「理論的営み」の両方について、聖書的モチーフに基づいた実在理解がどう与えられるかを見なければならない。
聖書は神による万物の創造を*啓示として与えているが、法則はこれら被造物に与えられた秩序である。もちろん日常生活においてこれらの法則は直観的に意識されているだけで、理論的に顕在化されていない。日常生活の中では実在は直観的に一挙に把握されているが、人間の精神の働きはそこからさらに理論的な把握へと進められていく。神によって与えられた法則は、厳密に成り立つ自然法則と規範的な*自然法とに分れる。自然法則の人間の側の理論的認織と顕在化のプロセスが自然科学であり、自然法の顕在化のプロセスは社会科学である。
このような実在の法則性への信頼なしに、すなわち超越的な創造主なる神の啓示への信頼なしに科学方法論の基礎付けを十分に与えることはできない。実際、現代科学哲学の認識原理として与えられる科学的実在論(科学理論は文字通りにとられるべきで、理論の対象が観察されなくても理論はそのまま真実の実在を表現している、とする立場)や反実在論(直接に観察可能な量のみが実在であり、科学理論は実在そのものを表現してはいない、とする立場)はこの点において、法則の超越的性格を十分に基礎付けることができていない。
近代の実在理解では一次性質(質量・大きさ・形・数等)と二次性質(色・香り・味わい・感触等)を分け、一次性質のみを真実在と見なし、近代科学では二次性質を捨象した。しかし聖書は決してそのような区別をしていない。自然を神格化することを禁じ、呪術の対象にすることを戒めているが、同時に、天体も海山も動植物も人間も、皆等しく被造物であり人間の仲間であると見ている。聖書の自然把握は大変豊かであり、自然の擬人化、人間の擬自然化すら行われている(詩篇19:1−6、雅歌2:1、マタイ6:26−29、ヨハネ15:1、2)。人間を神の像として特別な被造物と見なすと同時に、自然と人間の間にある共通性を理解することは、聖書に固有な実在理解として注目されねばならない。環境破壊の問題や、人間を機械の部品のように扱う生命操作の問題が大きな課題となってきた現代において、われわれは聖書の持つ豊かな実在理解と、それを可能ならしめている創造主なる神の与える規範性とを回復していく必要があるのである。→進化論、理性と信仰、天文学とキリスト教、自然神学、創造の教理。
〔参考文献〕稲垣久和『進化論を斬る』いのちのことば社、1981;稲垣久和「創造論とパラダイム論」(「福音主義神学」第20号所収)日本福音主義神学会,1989;R・ホーイカース他『OU科学史.月1-3巻,創元社、1983.(稲垣久和)
(貼り付け終了)
[3977] 「科学とキリスト教」の資料(張り逃げ)4 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/08/11(Mon)
13:06:38
『新カトリック大事典』 研究社 2002年から貼り付け(貼り付け開始)
かがく 科学〔ラ〕scinetia,〔英・仏〕scinece,〔独〕Wissenchaft
ここでいう科学は、学問という意味の総括的な用語ではなく、自然科学を意味するものとして用いる。
【科学と真理性】古代ギリシアにおいて科学は哲学の一部分と考えられ、その伝統は中世を通じ、近世に至るまで引き継がれていた。*ルネサンス期における科学の実験的方法の確立に伴い、科学は*神学から独立し、独自の方法論と真理性を主張するようになった。本来的な意味での哲学の一部分としては、科学は*神学と異なり、哲学の一般的立場、すなわち自然的理性による真理の獲得を目指している。したがって、神学が*啓示という超自然的な真理性の根拠を主張するのに対し、自然的理性、すなわち感覚による個別的な認識を材料とし、哲学的な諸原理のうえに論理的整合性を保ちながら、法則性をみいだす営みを続ける。みいだされた法則性は、仮説演繹法による検証を伴った帰納法則と考えられる。科学がこの法則を、理論として、その真理性を主張するためには、基礎に置いた哲学的原理の承認と、論理的整合性のうえに立った適用が不可欠である。帰納法が、個別的な実験観測結果から一般的な普遍法則を導き出すことができ、その真理性を主張するためには、特に自然の斉一性を哲学的原理として認める必要がある。この点をめぐって多くの議論が闘わされた。しかしながら、科学研究の現場にあっては、自然科学の研究者はこれらの科学哲学的問題について立ち入った問いかけをしない。
【科学の方法論】科学が独立した学問分野として発達を始めたのは、独自の方法論の確立にあった。その一つは実験的方法であり、他の一つはその実験結果を法則にまとめる際の論理的操作としての数学の使用である。実験的方法は、複雑きわまりない自然現象のなかから法則性をみいだすために、現象を規定する要因の数をできるだけ制限し、その要因の間の相関関係を求めるために、通常、自然では起こりえないような状況を設定する。本来の意味での科学の発達の初期段階において、実験的方法の条件が、人為的な方法によらず、自然現象そのもののなかに実現されていた分野をまず取り上げたのは幸いであった。それは*天文学の分野である。天文学的現象にあっては、宇宙空間に点在する天体の相互作用による運動を記述することから発達したのであるが、その運動に関しては、ほとんど真空と考えられる宇宙空間のなかに、その大きさを無視することのできるほど遠距離の間に働く万有引力が運動の原因となるので、実験的方法の要求する条件をほぼ完全に満たしている。まず*ガリレイが木星の衛星を発見し、その後ブラーエ(Tycho Brahe,1546-1601)の惑星の運動の精密かつ膨大な記録から、*ケプラーはその名を冠せられている三つの法則を帰納した。この法則の発見にあたって用いられたもう一つの方法、すなわち数学的方法が、個々のデータから三つの一般法則を導くために本質的な役割を演じた。さらに、ケプラーの3法則が*ニュートンによって万有引カおよびニュートンの運動法則から演繹され、簡単な方程式からケプラーが帰納した法則を論理的に導き出すことができた。この場合にも、数学的方法、特にニュートンおよび*ライプニツの発見した解析的方法、すなわち微分積分が決定的な役割を果たした。ニュートンのみいだした万有引力および運動の法則が、単に天体の運動を説明するだけでなく、地上のあらゆる物体の運動を説明することができたことによって、科学の一部門としての古典力学は不動の地位を占めることになった。
ブラー工、ケプラー、ニュートンとその後の数理・物理学者等によるこの古典力学の成立は、科学の方法論の典型を示している。データの集積、法則性の発見、仮説演繹法による法則の導来と実験結果による検証というこのような方法は、その後科学のあらゆる分野に適用されて今日に至っている。20世紀に入り、物質に関する科学の研究が飛躍的にその知識を増し、新しい法則性をみいだしたが、特に*アインシュタインによる*相対性理論、また、ボーア(Niels Bohr,1885_1962)、ハィゼンベルク(Werner Heisenberg 1901-76)等による量子力学の成立にあたっても、この基本的な方法論の図式は変わっていない。
【科学と信仰】近代的な科学の発展の初期に起こったガリレイの問題、また*啓蒙思想の普及に伴って唱えられた科学と信仰ないしは科学と神学の乖離・背反の問題は、今日では歴史的な経過としての意義のほかには本質的な意義を認めることは困難となっている。なぜなら、科学の発達に伴って蓄積された知識の総体、特に極微の世界から宇宙空間の果てに至るまでの物理的な知識の成長は、ますます人間の理性的な営みが、自然的理性の範囲内においても、*神の存在を認めることを示唆する方向に進んでいるからである。その著しい特長は、*宇宙の歴史に関する知識の拡大と精密化、および生物系についての知識の総体が生物系と非生物系の質的差異を明らかにしたこと、また*テイヤール・ド・シャノレダンの先駆的考察をはじめとする*進化論の再評価である。さらに、機理論および技術の発達に伴う人間頭脳の働きについての理解もまた、神の似像としての人間の肉体的・精神的構造および機能についての卓越性を示す方向に進歩を続けている。他方において、科学の方法論による知識の限界についての自覚と、科学以外の方法論の再評価およびそれによる人間の全体的理解への努力が、現在二、三の異なった方向で行われつつあり、今後さらに*精神科学との総合に向かって発展を遂げていくものと思われる。
【現代科学の特長と傾向】科学の現代における特長の一つは、時空における適床範囲の拡がりとその統一的な理解の可能性である。素粒子の領域においては、長さに関しては10-13cm、時間に関しては10-20秒の程度の領域にまで、また宇宙の領域においては、長さに関しては20億光年、時間に関しては百数十億年の範囲にまで及んでいる。しかもその範囲における時空の構造はかなりの程度理解されており、その描き出す世界像には論理な整合性と数学による処理の統一性がみられる。19世紀までは考え及ばなかった多くの知識、例えば宇宙空間における空間の曲率の概念、数学的処理方法としての非ユークリッド幾何学の採用、極微の素粒子の世界においては群論の適用による現象の整理ならびに法則性の発見が顕著である。
現象の統一的・整合的理解のもう一つの傾向は、力の種類に関してである。物質間の相互作用は、ニュートンの第2法則によって定義された力、すなわちその質量と加速度の相乗積、あるいはより一般的に、運動量の時間微分によって定義されるが、現在の知識では、その相互作用には4種類が存在し、それぞれ、重力、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用と呼ばれる。近年に至って、字宙に時間的な創成の時点があり(ビッグ・バン理論)、その結果、時間空間的な起源があり、そのごく初期においては4種類のカはただ1種類の普遍的なカであったという理論が検討されている。すでに、2種類の力、すなわち電磁相互作用と弱い相互作用は同一種のものであることが実験的に証明されているが、他の2種類についても、多くの実験事実の指し示す方向は同一的な力の存在を予想させる。このような傾向は、素粒子がクォーク(quark)と呼ばれる数種類の基本粒子から成り立つという現在の結論とともに、物質世界全体を統一的な普遍法則、あるいは基本的な物質粒子の組成によって理解しようとする古来の哲学的自然理解の方向に沿っているものといわざるをえない。また現在、微視的な系の理論と巨視的な系の理論には完全な統一性が欠けているが、その問題についても普遍的な理論の模索が行われている。
これらの理論に使用される数学は、古典力学および相対性理論ないし量子カ学の創成期に比べて、相当な抽象性をもった数学的処理を必要とするが、他面では、その結果、理論全体についての見通しがよくなり、数学の自由な適用がさらに進むにしたがって、この傾向が顕著になるであろう。
【文献】カ大1:369-76;NCE12:l190-219;B.D'ESPAGNAT, In Search of Reality(New York 1983). (柳瀬睦男)
(貼り付け終了)
[3656] 「科学」とは「学問」のことであるの検証
日本語の「科学」という言葉は、そうした一つ一つの専門、つまり「科」に岐(わか)れた「学」問である、という意味を持たせて、《science》の訳語に当てられたものであると考えられます。
http://soejima.to/boards/past.cgi?room=undefine&mode=find&word=%C2%BC%BE%E5%CD%DB%B0%EC%CF%BA+%B3%D8%CC%E4%A1%CA%A1%E1%B2%CA%B3%D8%A1%CB&cond=AND&view=5
[3966] RE:[3965] 限りがあるからこそ美しい
投稿者:小山 みつね
投稿日:2003/08/07(Thu) 01:05:31
皆さん、こんにちは、小山 みつね です。「小室直樹文献目録」掲示板 [3008] [3007] に投稿したものを、加筆修正して、こちらに投稿します。
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>天皇がなにかやったからえらいとかえらくないとか、それは因果律ですね。小室先生にとっては、天皇だからえらいんだということでしょうね。つまり予定説。
この問題を考へるためには、少し、日本史の復習をする必要があります。少しですので、お付き合ひください。お願ひします。
質問:日本の歴史において、もつとも性規範が乱れたのは、いつの時代ですか?
答:院政時代。今から1000年ぐらゐ前。
質問:その時代、性規範の乱れが、特にひどかつた階級は、どの階級ですか?
答:貴族階級。とくに、天皇家。
私事にわたつて恐縮ですが、私の高校時代の日本史の先生が、ちょっとした日本史マニアで、最先端の日本史学会の動向とかにも詳しい人でした。(高校生相手に、網野善彦(あみの よしひこ)の「異形の王権」とかを平気で教える、変な(!?)人でした)先生曰く、「院政時代の日本の宮廷は、要するに、「裏ビデオも真青(まっさお)」(!! このフレーズは、なぜか、私は、今でも印象に残つてゐます。 小山 注記)の世界であつた」と。そして、さらに先生曰く「その中でも、特に、腐敗が、一番、激しかつたのは、、、、天皇家、なのだ!」と。
その先生は、典型的なリベラル派知識人でしたので、こんなに悪い天皇制は、やはり、打倒されなければならない、といふやうなニュアンスで、このことを講義してゐました。典型的な、因果律(!)に基づいた思考ですな。
私も、高校時代は、典型的な「リベラル派学生」でしたので、この講義を聴いて、「なるほど、天皇制は、やつぱり、けしからんものなのかなあ」と、素直(!?)考へてゐたものでした。しかしながら、大学生になつて、小室直樹先生や山本七平氏の本を読んで、私は、「どうも、あの高校教師が言つていたことは、因果律を前提にした、一つのお話、仮説(!)のやうだ。予定説を前提にすると、まったく違ふストーリー(仮説!)になるんじやないか」とて、「転向」(!)することになるわけです。
「まったく違ふストーリー」(仮説!)とは、以下のやうになります。
栗山潜鋒(くりやま せんぽう)は、その著書「保建大記」に、白河法皇と白河法皇の孫(=鳥羽天皇)の中宮 待賢門院璋子(たいけんもんいん たまこ)(注1)との間に「いふべからざる」ことがあつて、鳥羽帝が崇徳帝のことを「おのが子にあらざることを知れり」と、書いてゐます。(注2)
といふわけで、因果律(ここでは、儒教流か西洋流の性規範)をとると、天皇家を守りきることが出来なくなるわけです。ですから、天皇家を守りきるためには、予定説を採る必要がでてくるわけです。>小室 宮台(真司)君、天皇はすごいと思いませんか??
>宮台 思いません。
>小室 残念。君はかわいそうですなあ。
(宮台真司著「これが答えだ!」より)といふ「天皇予定説」は、かういふ文脈から出てくるわけです。
小室先生は、このことを、「天皇の非倫理性を追求することで、朱子学の論理(=因果律)を破った」( 「天皇の原理」)といふやうな感じで、上品に、表現してゐました。(注3)
この「天皇予定説」を補強するために、(人間の基準で)愚かな天皇に忠誠を尽くした人物を英雄にする必要がでてきます。その人物は誰でせう?
答:楠木正成
崎門学が成立した時代は、江戸時代ですので、天皇家は北朝(!)です。ですから、露骨に南朝(!)の楠木正成を持ち上げることは出来ません。そこで上品に(!)楠木正成を持ち上げる必要がでてきます。
そこで、浅見絅斎(あさみ けいさい)は、その著書「靖献遺言」(せいけん いげん)で、バカな殿様(!!)(もしくは、まだ、赤ちゃんの皇帝とか)に、死ぬまで忠誠を尽くした、諸葛孔明(しょかつ こうめい)ら、忠勇義烈(!)のシナ人を持ち上げることで、間接的に(!!)、楠木正成を持ち上げることにしたわけです。この「天皇予定説」が、明治維新を通じて支配階級に広がり(こちらは、自覚的に)、日清日露戦争の勝利を通じて日本人全体に広がり(こちらは、無自覚的に)、大東亜戦争では、30分の1の戦力で、アメリカ相手に、3年9ヶ月闘ふ「団結力」を生んだわけです。(注4)
この「天皇予定説」は、間違ひなく、「右翼思想」です。しかし、「足利尊氏(=政治的勝者)ではなく、楠木正成(=政治的敗者)を支持せよ!」すなはち、「弱者の味方をせよ!」といふ考へかたでもあるので、なぜか、「左翼思想」と共鳴する部分があります。もちろん、「欧米列強(=足利尊氏)の手先になるな! 弱小国日本に忠誠を尽くせ!(楠木正成のやうに!!)」といふ「愛国思想」ではあるわけですが。
小林よしのり氏が、その著書「戦争論3」で、大東亜戦争時の、日本人の「戦意の高さ」について強調してゐましたが、その「戦意の高さ」の淵源(えんげん=ものごとの始まり)もまた、浅見絅斎(あさみ けいさい)の「足利尊氏(=政治的勝者 強国 アメリカ)ではなく、楠木正成(=政治的敗者 弱小国 日本)を支持せよ!」といふ考へ方から発してゐることは、間違ひありません。
ただし、小林氏は、浅見絅斎(あさみ けいさい)に、全く言及してゐないことから鑑(かんが)みるに、小林氏とは、無自覚な「浅見絅斎(あさみ けいさい)主義者」である、と、言へるでせう。
少しばかり、遺憾な話ではあります。奥田勝典氏は、投稿[3965] 限りがあるからこそ美しい で、次のやうに述べてゐます。(奥田勝典様、はじめまして。 小山より)
>尊敬する日の丸特攻隊についての理解も深まりましたし、副島先生が、自己保存を優先しすぎる人を極度に嫌うことも理解できました。副島先生は美しいものを追いかけていらっしゃるのでしょうね。
これは、なかなかに、味はい深い文章であります。
「自己保存を優先しすぎる人を極度に嫌」ふ(=ホッブズ HOBBES の「自己保存」 SELF PRESERVATION 論(=近代政治思想の淵源 いはゆる、「親米保守愛国」路線の人にも、このタイプの人が、多い)に、批判的な立場をとる)とは、まさしく、「足利尊氏(=政治的勝者)ではなく、楠木正成(=政治的敗者)を支持せよ!」といふ「浅見絅斎主義」そのもののエトス(=行動様式。および、その行動様式を支えるところの倫理、道徳)です。副島先生も、要するに、「浅見絅斎主義者」といふことです。副島先生が「反米的」な立場をとるのも、「世界の足利尊氏」(!?)たる「アメリカ グローバリズム」には、「浅見絅斎主義者」として、反対せざるを得ない、といふことでせう。副島先生は、マルクス主義から、反共親米路線、反米愛国路線、と、思想遍歴してきた人ですが、「浅見絅斎主義」の視点からみると、ある意味、一貫性がある(!?)かもしれません。
これ、すなはち、「マルクス主義」は、
プロレタリアート=楠木正成
ブルジョワジー =足利尊氏といふ点で、「浅見絅斎主義」であります。
しかし、「プロレタリアート独裁」といふ現実を目撃することで、マルクス主義は、必ずしも、「浅見絅斎主義」とは、一致しないといふことが分かり、「反共親米」に「転向」することになります。
「反共親米」は、
ソビエト帝国=足利尊氏
反共・親米 =楠木正成といふ点で、「浅見絅斎主義」であります。
しかし、ソビエト帝国が崩壊し、親米派のなかに、「自己保存が第一」「寄らば大樹の陰」といふ考への人々が多数存在する現実を目撃することで、「反米愛国」に「転向」することになります。
「反米愛国」は、
アメリカ グローバリズム=足利尊氏
アメリカへの抵抗勢力 =楠木正成といふ点で、「浅見絅斎主義」であります。
しかし、「アメリカへの抵抗勢力」のなかに、必ずしも、「浅見絅斎主義」といふか、吉田松陰(!)のやうな人ばかりではない、といふ現実を目撃することで、今の副島先生は、やや、微妙な立場に追い込まれてゐるやうです。
これを要するに、副島先生とは、表向きの思想遍歴は激しいですが、その根の部分は、「浅見絅斎主義」で、それなりに、一貫してゐる、と言へるでせう。
嗚呼、亦(また)奇ならずや!(=なんと奇妙なことではないか!)
_________________________
脚注(注1)待賢門院璋子(たいけんもんいん たまこ)の人となり。
(転載)
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/tai.html待賢門院璋子(たいけんもんいん たまこ 注記)をたずねて
先日、法金剛院と待賢門院璋子の御陵をたずねました。法金剛院では桜花が盛りを過ぎ、花びらが園池に浮かび、青女の滝の水は枯れていましたが花びらがまるで滝の水のようで、目を楽しませてくれました。
●待賢門院璋子(1101〜1145)
鳥羽天皇の中宮。崇徳天皇・後白河天皇の母。
御園女御の猶子となりましたが、のち白河法皇の猶子となり、院御所で育てられました。白河法皇に寵愛されますが、法皇の孫の鳥羽天皇の後宮に入り、皇后の宣旨を受けます。入内以降も白河法皇との関係は続き、第1皇子(崇徳天皇)は法皇の子であり、鳥羽天皇は「叔父子」と呼んで冷遇し、それが保元の乱の遠因ともなりました。http://homepage1.nifty.com/heiankyo/tai.html
(終了)(注2)栗山潜鋒(くりやま せんぽう)著「保建大記」(ほうけん たいき)からの引用。
(引用)
(栗山潜鋒(くりやま せんぽう)著「保建大記」(ほうけん たいき)日本思想体系「近世史論集」P.364 岩波書店 収録)白河帝、色好みて最も淫らなり。待賢門院璋子は鳥羽帝の女御にして、崇徳帝の母なり。白河帝、璋子を鍾愛し、其の間、詩の所謂、道(い 注記)ふ可からざる者有り。鳥羽帝も亦、崇徳は己が子に非ざることを知れり。故に鳥羽の崇徳に不慈なるは、婦言に之れ聴くに由ると雖も、白河の倫を乱ること、実に由りて基づく所なり。
(栗山潜鋒(くりやま せんぽう)著「保建大記」(ほうけん たいき)日本思想体系「近世史論集」P.364 岩波書店 収録)
(終了)(注3)小室直樹「天皇の原理」から引用。
(引用)
(小室直樹著「天皇の原理」P.314 P.315文芸春秋)徳川時代における儒学の発達過程の結果として、湯武放伐論の否定はなし得たのか。いかにして、崎門の学者は、朱子学の精緻なる論理を破り得たのであったか。
はじめにそれは、天皇(上皇)の非倫理性を徹底的に追求することによってであった。(中略)
丸山真男の言う、「反対方向性を内包したバランスは毛筋ほどの差で崩れる」からである。
天皇の非倫理性が徹底していればいるほど、それと共存する反対方向性によって、天皇は絶対の高みへのぼってゆくのである。予定説の論理によって。(小室直樹著「天皇の原理」P.314 P.315 文芸春秋)
(終了)(注4)「天皇の原理」(=「浅見絅斎主義」)は、当時の日本人全体に、無自覚的に(!)広がったが、自覚的に(!!)理解してゐた人は、ごく少数だつた、と、私は考へてゐる。
その根拠は、明治政府は、初等教育において「浅見絅斎は、すばらしい!」とて、国民教育しなかつた(!)から、である。明治政府は、「浅見絅斎は、すばらしい!」と言ふ代はりに、「二宮尊徳は、すばらしい!」といふ、一種の「資本主義教育」をしたから、である。高等教育でも、浅見絅斎が論じられたといふ話は、私は、寡聞にして聞いてゐない。
私が、「自覚的に(!!)理解してゐた人は、ごく少数」と書いたのは、「高等教育でも初等教育でも、正面から論じられたことは無い」といふ意味である。新田均(にった ひとし)氏が、当時の資料を渉猟した上で、その著書「「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す 」に、「当時の初等教育において、天皇は現人神であるという教育は、おこなわれてないない。よって天皇が現人神である、というのは、嘘である。小室直樹も、立花隆も、間違っている」といふ趣旨のことを、述べてゐる。
「初等教育において、天皇は現人神であるという教育」が行はれてゐないことは、「天皇が現人神である、というのは、嘘である」といふことを証明しない。「天皇が現人神である」といふ説が、秘密裏に(!)共有されてゐたことを証明するだけである。 新田氏のはうが、何か、勘違ひしてゐるやうである。ただし、立花隆も間違つてゐる。その根拠は、立花隆は、「国民全体(!?)が「天皇が現人神である」と信じていた」と書いているからだ。 「国民全体(!?)が」「信じてゐた」はずがない。こちらは、新田氏がいふやうに、「当時の初等教育において、天皇は現人神であるという教育は、おこなわれてないない」からである。
新田均(にった ひとし)著 「「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す 」:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=%E5%9D%87%2C%20%E6%96%B0%E7%94%B0/249-6779342-6775546
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以上。御無礼。