マキャべり生涯の概略履歴

【マキャヴェッリの履歴】
 本名はNiccolo Machiavelli、和名としてマキャヴェッリと訳す。1469.5.3日ー1527.6.21日。

 イタリア、ルネサンス期の政治思想家である。代表作に、「君主論」、「ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考」、「戦術論」、「フィレンツェ史」など。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治を宗教、道徳から切りはなして純粋に力関係において捉え、現実主義的な政治理論を創始した。これにより近代政治学の祖となった。政治思想書「君主論」は、イタリア文学史上最初の近代的散文でもある。

 1469年、フィレンツェの小貴族の家に生まれた。この頃フィレンツェ共和国は、メディチ家を廻る政争に明け暮れていた。1492年、25歳の時、ロレンツォ・デ・メディチが死に、1494年、それまで市を支配していたメディチ家が追放され、名実ともに共和政に復帰した。サヴォナローラの神政政治が始まった。

 1498年、29歳の時、サヴォナローラが失脚し処刑された。マキャヴェッリは、
フィレンツェ共和国政府の第二書記局長になる(〜1512年まで)。「平和及び自由について十人委員会」の副書記官長となり軍事・外交を担当することになった。当時、同盟国であったフランスをはじめ、神聖ローマ帝国、ローマなどに外交交渉のためイタリア各地やフランス、スイスなどに何度か足を運んだ。こうした活動の中で権謀術策で名高いチェーザレ・ボルジャとも出会うことになる。

 1499年、フィレンツェはフランス王のナポリ遠征に際し支援の約束をするが、結局フランスは撤退。

 1500年、政府の使節としてフランスへ行く。外交使節として各国を訪問する中で、教皇軍総司令官のチェーザレ・ボルジャに理想の君主像を見出す。

 1502年、教皇軍のチェーザレ・ボルジャがウルビーノを征服(フィレンツェはフランスに支援を求める)。使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。

 1503年、教皇アレクサンデル6世死去、チェーザレも失脚。

 1504年、傭兵に頼らない市民兵の創設を主張し、実現させる。彼は外交交渉を経験する中で、当時傭兵制度によって維持されていた軍隊制度ではフィレンツェなどイタリア諸国の没落を防ぐことは出来ないと考え、フィレンツェの有力者ピエロ・ソデリーニを説得し、フィレンツェ周辺の農民からなる新しい軍隊を創設した。

 1506年、市民兵の軍部秘書になる。兵はコンタードの農民を徴集した。

 1509年、この新しい軍隊は長年にわたってフィレンツェを悩ましてきたピサの反乱を鎮圧するのに成功し、マキャベリの評判は高まった。

 1511年、教皇ユリウス2世が神聖同盟でフランスに対抗。フランスに使節として赴く。

 1512年、ローマ教皇やイスパニアの後押しでメディチ家がフィレンツェへの復帰を図り、市民兵はスペイン軍を相手に敗退する。追放されていたメディチ家がフィレンツェに復帰する。これにに伴い、マキャヴェッリは職を失い郊外に隠棲する。イタリアを取り巻く外交・軍事情勢には強い関心を払いつつ、再度活躍の場を求めてメディチ家への接近を図る。マキャヴェッリはメディチ家とは付かず離れずの関係を維持する。「リヴィウス論」に着手する(未完)。

 1513年、マキャベリは反メディチ陰謀の容疑(ボスコリ事件)で拘束され、拷問を受ける。まもなく釈放され、「君主論」を脱稿、筆名が上がる。(「君主論」については、「マキャべりの君主論(政体、政略論」に記す)

 この頃、彼は「ルチェラーイ家の庭園」という当時のフィレンツェの若い貴族らの文人サークルと交流していたが、そこでの議論を基にしてまとめた「ローマ史論」(正式名は『ティトス・リウィウスの最初の十巻についての論考』)を書く。これはローマの歴史家リウィウスの「歴史」に加えた注解を集めたもので、ここでマキャベッリは共和政ローマがどのような原因によってあのように広大な領域を支配するに至ったのかに関心を注ぎ、ローマの政治体制や軍制、さらにはローマ人のとった政策や戦術を当時のイタリアを念頭に置きつつ分析し、政治・外交・軍事の非倫理的性格を仮借なく論じている。

 1518年、タリア演劇史上画期的な作品と言われる戯曲「マンドラゴラ」を執筆し、文筆家としての名声を広めた。

 1520年頃、マキャベッリとメディチ家との関係は好転し始め、とくにジュリオ・メディチの厚遇を得るようになった。そして再びマキャベリは各地へ使節として派遣されるようになる。この頃、教皇庁の行政官であったフランチェスコ・グイッチャルディーニとの親交も始まった。そしてメディチ家のジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)の依頼で、「フィレンツェ史」(Istorie fiorentine)の執筆を始める(〜1525年)。

 1520年、反メディチの陰謀「オルティ・オリチェライ事件」の首謀者たちはマキャヴェッリの学問的弟子であった(自身は加担していない)。

 1521年、「戦術論」 (Dell'arte della guerra)が執筆される。

 1525年、ジュリオ・デ・メディチが教皇に選出され、クレメンス7世となると、マキャベリは完成したばかりの「フィレンツェ史」を携えてローマへ行った。この書はフィレンツェの起源から1492年のロレンツォ・デ・メディチの死に至るまで歴史を扱ったもので、その間の政治的混乱や戦争を通じて、政治・軍事上の教訓を示した。

 その頃イタリアでは同盟国のフランスが神聖ローマ皇帝カール5世の前に大敗しする。マキャベッリはフィレンツェ防衛の任務を命ぜられたが、1527年、皇帝軍がローマに攻め入り、ローマが劫掠に遭うと(「ローマ略奪」)、フィレンツェに再び反乱が起こり、メディチ家を再追放する。すでにメディチ派となったマキャベッリは再びフィレンツェから敵視され、反乱の1ヶ月後に失意のうちに没した。

  • ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio:リウィウス論、ローマ史論考、ディスコルシ、政略論 などとも呼ばれる)




(私論.私見)