マキャべりの「君主論(政体、政略論)」 |
(最新見直し2006.7.31日)
マキャベリ マキャベリの著作の中に、軍事関係の「戦術論」が遺されている。「戦術論」は広く兵法軍事関係の書物として読まれ軍事学の流れに大きな影響を与えた。この中で引用されているローマ式歩兵部隊の編成やギリシアの密集隊形が小銃の進歩とともに復活し、スペイン、オランダ、スウェーデンなどに採用されて近代の兵学の基礎となった。しかし、本書は、共和制のローマ軍を良しとし、皇帝時代のローマは否定している。常備のプロ化した軍隊は政策や皇帝の継承に関与し大きな災いを為したと書かれている。 「最新の技術的工夫はへの字、くの字に曲がったり凹凸の沢山ある紆余曲折の壁をつくることです。この工夫のしどころというものは城壁に敵がよじ登ることができないようなもので、しかも正面ばかりでなく、側面でも容易に敵を圧倒しうるようにつくります。もし城壁を高く作れば砲撃に対してあまりにもさらされやすくなります。またあまりに低すぎれば簡単にはしごで登られてしまいます。」戦術論より |
マキャヴェッリはメディチ家に政策を提言するために「君主論」 (Il
Principe, 没後の1532年刊行) を書いた。マキャベリーの史上不朽作となっている。「君主論」の日本語訳として、河島英昭氏の「君主論」(岩波文庫、1998年)、英語訳からの重訳として永江良一氏の「君主、ニッコロ・マキャヴェリ」がある。「君主論」は在世中のみならず死後もしばらくの間出版できなかった。しかし、君主の統率力、指導力を問う同書の教えの真髄が注目され、支持されていくことになった。 「君主論」 は、マキャヴェッリが見てきたイタリアの現実を踏まえつつイタリア半島の統一を実現しうるのはいかなる君主かを論じている。その思いは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」という彼の言葉からも理解できる。彼の理論はフォルトゥーナ(fortuna、運命)とヴィルトゥ(virtu、技量)という概念を用い、政治にはヴィルトゥー(技量や力量)とフォルトゥーナ(運)が必要で、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。 「リウィウス論」では、古代ローマにおけるヴィルトゥに長けた人々を讃えた。彼は元々共和主義者であったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦う「イタリア戦争」に衝撃を受け、君主論を書き上げる。そこには、彼が体験した挫折感と、独立を願う止まない情熱が存在していたのである。 「君主論」の中で、マキャベリは権謀術策の代名詞のように言われるチェーザレ・ボルジャの統治政策が称える。そして権力の獲得や維持の中核をなす軍事力を論じ、傭兵制度を批判し、固有の軍事力の整備を説いた。さらに理想的君主像を否定し、君主が善良で敬虔、慈悲深い人間であることは称賛すべきであるとしつつも、理想のままにふるまうならば、そうした君主はかならずや没落するだろうと論じた。そして君主に対する恐怖心、残忍な行為の有用さ、信義や誠実の信じるに足らぬことを主張する。 凡そ次のような指摘が為されている。 1、友を洗う。 人間は倒産したり失敗すると今まで親友だと思った者も去って行く。知人、友人、 親戚 今まで集まってきたのは自らの人間、性格、人徳のためでなく、単なる周囲は 得、利を求めて集まっていたのであると知るのである。 「君主〔社長)は人を捨てることを知れ」 「君主は残酷と言う汚名を気にかけるべきではない」。 2、君主は良い人と思われるより、恐れられる方が安全である。 「権力を維持するためには、信義に叛き、慈悲心に反し、人間性に逆らい、宗教に 違反した行為をしばしばせざるをえない。」 「良い人、愛される上司は後々憎まれるが、恐れられている上司は憎まれることは ない。」 「経験によれば、信義のことなど、眼中になく狡猾によって人々の頭脳を欺くことを 知っていた君主こそ、偉業を為している」。 3、君主(社長)の実力は交友、側近を観察せよ。 その人がどのような才覚かを掴むためには、その周囲を観察すれば解ってくる。その 家族、友人、知己を見ればその人の人格の拡大鏡である。 4、君主は策略と恩恵で部下を掴め。 「君主はアメとムチを使い分けよ」 5.目先の利を求めている者を欺け 「人間というものは単純で目先の利によって左右されるので人間を欺こうとする人 は欺かれる人間を常に見出すことが出来る」 騙される人間は儲けようと欲を出している人である、欲を出し過ぎなければ騙される ことはない。 |
(私論.私見)