十字軍の影響について |
ヨーロッパの停滞秩序社会に変動をもたらしたものの最要因として十字軍の遠征が考えられる。この経過を概略すると次のようになる。
西ヨーロッパ世界は中世を通じて絶えず外部からの圧迫・侵入に苦しめられてきた。特に8〜9世紀以来、イスラム勢力やアジア系のマジャール人そしてヴァイキングの侵入が相次ぎ、西ヨーロッパは守勢を余儀なくされ、ひたすらその圧迫に耐えてきた。しかし、封建社会が安定し、さらに発展するなかで力を蓄えてきた西ヨーロッパ世界はそれまでの守勢から反撃に転ずるようになった。イスラム教徒の支配下に置かれていたイベリア半島では、キリスト教徒によるイスラム勢力をイベリア半島から駆逐する運動、すなわち国土回復運動(再征服、レコンキスタ)が早くから起こっていた。またドイツ人によるエルベ川以東のスラヴ人居住地への植民活動(東方植民)も12世紀以後盛んになる。こうした西ヨーロッパ世界の外への発展の最大のものが有名な十字軍であった。
当時、イスラム世界では、中央アジアから興ったセルジューク朝が急速に発展し、バグダードに入城し(1055)、イスラム世界における政治・軍事の実権を握るとともにさらに西進し、ビザンツ帝国軍を破って(1071、マンジケルトの戦い)、海岸地帯の一部を除く全小アジアを占領してビザンツ帝国を東方から圧迫した。このためビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に救援を求めてきた(1095)。
フランス人でクリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(位1088〜99)は、フランス東部のクレルモンで公会議を開き有名な演説を行った。ビザンツ帝国がしばしば救援を求めてきていること、聖地イェルサレムでの巡礼者が悲惨な状況にあることを語った後、「西方のキリスト教徒よ、高きも低きも、富める者も貧しき者も、東方のキリスト教徒の救援に進め。神は我らを導き給うであろう。神の正義のための戦いに倒れた者には罪の赦しが与えられよう。この地では人々は貧しく惨めだが、彼の地では富み、喜び、神のまことの友となろう。いまやためらってはならない。神の導きのもとに、来るべき夏こそ出陣の時と定めよ」と聖地イェルサレム回復のためにイスラム教徒に対する聖戦を起こすことを提唱した。この演説に感激した聴衆は「神、それを欲し給う」と叫び、演説はしばしば中断されたと言われている。こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十字軍が出発し、以後約200年間にわたって前後7回の十字軍が派遣されることとなった。
こうして「聖地巡礼の自由と安全確保のためと称するイスラム教徒からの聖地イェルサレム奪回」十字軍(Crusades)が発動することになったが、170余年間に7(8)回の大遠征が行われることになった。十字軍(Crusades)とは、神の兵士として、参加者が十字架を印としたのが語源であると云われる。精神的に教皇を戴く他は、統一的指揮も組織もない大遠征軍で、十字軍の大目的であった聖地の奪回と確保、教皇権威の絶対化は、結局達成されなかったが、長期・大量の人と物の移動は、貨幣経済を促進し、南欧港市を成長させ、閉ざされた中世世界観を拡大し、中世封建社会崩壊の端緒となった。
十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がを奪回するために起こした遠征であるが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことである。なぜこの時期に十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられる。
(1) | 封建社会が安定し、三圃制や11〜12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきたこと。 |
(2) | ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者となり、宗教的な熱情が高まっていたこと、このことが背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり得なかったであろう。 |
(3) | 教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有名なカノッサの屈辱(1077)が、十字軍が始まる 20年ほど前の出来事であったことを思い出せばよい。教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていたこと。 |
(4) | 諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていたため、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者もあったこと。 |
(5) | 当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする東方の商品を獲得して利益を得ようとしていたこと。 |
(6) | 農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいたことなどがあげられる。 |
十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合っていたので、経過とともに宗教的な要因が薄れ、経済的な要因によって動かされるようになった。
民衆十字軍 | 1096〜97 | ウルバヌス2世の演説は大きな反響を引き起こした。こうした状況のなかで隠者ピエール(1050〜1115)と呼ばれた北フランス生まれの修道士・説教士は各地で十字軍への参加を呼びかける熱烈な説教を行った。彼の元には数万の熱狂者が集まり、ピエールはこの群衆を率いて、バルカン半島を南下し、コンスタンティノープルから小アジアに渡ったが、トルコ軍に殲滅された。第1回十字軍に先立つこの十字軍は民衆十字軍(1096〜97)と呼ばれている。民衆十字軍の失敗は、聖地の回復には烏合の衆でなく、武力を持った軍隊が必要であることを教えた。 |
第1回十字軍 | 1096〜99 | フランスの諸侯・騎士を主力として、4軍団に分かれて出発し、翌年コンスタンティノープルで合流し、ビザンツ皇帝に臣従の礼をとった後、ビザンツ軍と共に小アジアに渡った。騎兵5千・歩兵1万5千の大軍は、緒戦で勝利をおさめ、トルコ軍と小競り合いを繰り返しながら小アジアを横切り、北シリアのアンティオキアに至り、半年に及ぶ攻城戦の末にここを陥れた(1098)。
アンティオキア攻略に功があった南イタリアのノルマンの騎士ボエモンはアンティオキア公国(1098〜1268)の君主に治まり、もはやイェルサレムには行こうとしなかった。これより前、エデッサを攻略したボードアンもエデッサ伯国(1098〜1146)を建ててそこに留まった。十字軍の要因の一つに諸侯・騎士達の領土獲得欲があるがこの例によく現れている。 アンティオキアからイェルサレムに向けて進撃し、6週間にわたる攻囲戦の後についにイェルサレムを陥れた(1099)。この時、十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにし、老若男女を問わず住民約7万人を虐殺した。虐殺と掠奪が終わると彼らは血にまみれた手を洗い、衣服を改めて喜びの涙にむせびながら聖墓に詣でたとキリスト教徒の年代記家が記している。 当時のイスラム教徒がキリスト教徒に寛大であったのに対し、キリスト教徒の狂信・不寛容ぶりが際だっている。この違いは当時のヨーロッパが異文化に接する機会に乏しく、封鎖された世界の中にあったので、キリスト教の隣人愛はキリスト教徒に対するものだけであったことが原因である。 ともあれ、第1回十字軍は聖地の回復に成功した数少ない十字軍であった。回復した聖地を確保するためにイェルサレム王国(1099〜1291)が建設された。 イェルサレム王国は、フランスに範をとり、ロレーヌ(ロートリンゲン)公ゴドフロアを統治者に選び、残留した戦士達に封土を与えて建てられた封建国家であった。イェルサレム王国は、前述したエデッサ伯国・アンティオキア公国・トリポリ伯国(1102〜1289)に対して宗主権を持っていたが、この三国は事実上独立していた。 |
宗教騎士団 | イェルサレム回復後、多数の十字軍兵士達は目的を達成したとして帰国し、また西ヨーロッパから来る増援隊は少数だったので、現地軍は絶えず兵員不足に悩まされた。このために設立されたのが宗教騎士団である。聖地の守護を目的として設立された(1119)テンプル騎士団の団員は騎士と修道士の役割を兼ね、武器を持ってキリストに奉仕する誓いを立てていた。第1回十字軍時代に成立し、ロードス島を本拠地に活躍したヨハネ騎士団、そして第3回十字軍の際に組織され活躍したドイツ騎士団は合わせて三大騎士団と呼ばれている。 宗教騎士団は、帰国後は護教活動や辺境の開拓に活躍した。特にドイツ騎士団は、ドイツの東方植民の先頭に立ち、後のプロイセンの基礎となった。 |
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第2回十字軍 | 1147〜49 | 第1回十字軍が成功をおさめたのは、セルジューク朝が分裂し内紛のために連合して十字軍と戦うことが出来なかったことが大きな理由であった。しかし、セルジューク朝はその後勢力を回復し、モスル太守のザンギーが北シリアを回復し、エデッサ伯国を滅ぼした(1146)。その翌年に第2回十字軍が派遣された。
ドイツ皇帝・フランス王が参加し、救援におもむき、アッコンに到達し、ダマスクスを攻撃したが失敗に終わり、解散して帰国した。この後のイスラム側の失地回復はめざましくザンギーの子ヌレディンがダマスクスを奪回した。このザンギー朝に仕え、のちエジプトのファーティマ朝の宰相となり、ついでファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を興したのが有名なサラディン(サラーフ=アッディーン、1138〜93 (位1169〜93))である。彼はエジプト・シリア・イラクを支配下におさめて十字軍国家を包囲し、ついにイェルサレムを奪回した(1187)。 |
第3回十字軍 | 1189〜92 | イェルサレム陥落はヨーロッパに大きな衝撃を与えた。こうした状況の中で、ドイツ皇帝フリードリヒ1世(位1152〜90)・フランス王フィリップ2世(位1180〜1223)・イギリス王リチャード1世(獅子心王、位1189〜99)というそうそうたる君主が教皇の求めに応じて十字軍士の誓いを立て、豪華な顔ぶれがそろった、もっとも十字軍らしい十字軍といわれた第3回十字軍(1189〜92)が起こされた。
しかし、当時英仏は本国で領土をめぐって激しく争っていたので協定が整わず出発が遅れ、フリードリヒのみが小アジアのルートをとって進んだが、小アジア東南部を流れるサレフ川渡河の際に溺死した。このため一部はアンティオキアに進んだが大部分は帰国してしまった。 フィリップ2世とリチャード1世は、同時に出発し(1190)、シチリア島で落ち合いそこで冬を過ごしたが、その時も反目しあい、その後は別行動を取り、再びアッコンで合流してアッコン攻城戦に加わった。アッコンはイェルサレムの北方に位置するシリアの港市でイェルサレム王国の事実上の首都であり、十字軍の最後の拠点となった町である。第1回十字軍が占領したが、サラディンが奪回し、英仏王が再び占領した。しかし、アッコンが陥落すると、フィリップ2世は病気を口実に帰国してしまった(1191)。 リチャード1世だけがイェルサレムを目指した。サラディンはリチャードと各地で戦い、リチャード軍に悩まされながらもイェルサレムを死守した。この時のリチャードサラディンと勇敢な戦いぶりは後世に長く語り継がれた。リチャードは「獅子心王(Lion-hearted )」の異名をとり、中世騎士道の典型的人物とされた。一方のサラディンもその武勇・勇猛さを知られたばかりでなく、その博愛・寛容の精神によってヨーロッパ人に多大な感銘を与えた。 結局リチャードとサラディンは和を結び、リチャードは聖地イェルサレムへの巡礼のための自由な通行権を得て帰国の途についた(1192)。リチャードは、帰途ウィーン近くでオーストリア大公の捕虜となりドイツ皇帝に引き渡されて幽閉され、莫大な身代金を払って釈放され(1194)やっと帰国した。帰国後、弟のジョンを逐って王位を取り戻し、国内の反乱を鎮圧した後、フランスに出兵しフィリップ2世と戦ったが、流れ矢にあたって戦死した(1199)。一方のサラディンはそれより6年前にすでに病死していた。かくして第3回十字軍もイェルサレムを回復することは出来なかった。 |
第4回十字軍 | 1202〜04 | 第3回十字軍も結局聖地イェルサレム奪回という目的を達成することは出来なかった。それから6年後に教皇の座についたのが、教皇権の絶頂期の教皇として有名なインノケンティウス3世(位1198〜1216)である。彼の提唱によって第4回十字軍が起こされた。
第4回十字軍(1202〜1204)は、北フランスの諸侯・騎士を中心に編成された。目標をアイユーブ朝の本拠地であるエジプトとし、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼した。ヴェネツィアは兵士・資財の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負った。 十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が6割しか調達できなかった。交渉が難航したが、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたツァラ(アドリア海沿いの海港都市)を取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは後でよいと提案してきた。十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲い占領して略奪を行った(1202)。十字軍が同じキリスト教徒の町を襲ったという報を聞いた教皇インノケンティウス3世は激怒し、第4回十字軍士全員を破門した。「破門された十字軍」という前代未聞の事態となった。 翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンスタンティノープルに向けて出航した(1203)。ヴェネツィアの商人と亡命中のアレクシオス(ビザンツ帝国の内紛により廃位させられたイサアキオス2世の子、後のアレクシオス4世)そして十字軍の指導者の間で、廃位させられた皇帝を復位させる、その代わりに皇帝は十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、さらにエジプト遠征の費用を負担するとの密約が結ばれていた。 ヴェネツィアの商人達は十字軍を利用して商敵であったコンスタンティノープルに打撃を与え、東地中海へ商権を拡大することを企てていた。十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十字軍の指導者の説得にあって同意し、コンスタンティノープルを攻略し、占領した(1203)。 幽閉されていたイサアキオス2世が復位し、アレクシオス4世と共同皇帝となり、十字軍はコンスタンティノープルに駐留することになった。ヴェネツィアの商人達は新皇帝に密約の履行を強硬に迫ったが断られた。また密約の内容が漏れ、激高した市民達は皇帝の廃位を宣言し、アレクシオスを絞殺し、イサアキオスを毒殺した。 この宮廷クーデターを挑戦と受け取った十字軍士達は、再びコンスタンティノープルを占領し、徹底的に略奪を行った。略奪品は十字軍とヴェネツィアで折半された。 十字軍士は「ラテン帝国(1204〜61)」を建国し、フランドル伯のボードワン1世を皇帝に選出した。ヴェネツィアはコンスタンティノープルの一部と多くの島々や沿海地域を手に入れ目的を果たした。内陸部の土地は主立った十字軍士に分け与えられた。ラテン帝国に対して、小アジアに逃れて抵抗したテオドロス1世を創始者として「ニケーア帝国(1204〜61)」が建国され、ビザンツ帝国は一時消滅した。 このように第4回十字軍は、本来の目的から全くはずれてしまい、まさに「脱線した十字軍」となり、ビザンツ帝国を消滅させ、ヴェネツィアの商権拡大と諸侯・騎士の領土獲得欲のみを満足させる結果となった。またこれによって東西教会の対立が深まり、十字軍に対する不信感はますます強まった。 |
第5回十字軍 | 1228〜29 | 第4回十字軍が失敗に終わったため、教皇インノケンティウス3世は新しい十字軍を起こすために全ヨーロッパに説教師を派遣した。こうした説教師に接していたであろう北フランスのある村の羊飼いの少年エティエンヌはある日巡礼の姿をした神を見た。神は聖地回復を記した手紙を少年に渡した。エティエンヌは神の使命をさとり、一心に神のお告げを説いて回った。やがて数千人の少年少女が彼の伝道に従うようになった。
少年達の親は、彼らの冒険を必死に思いとどまらせようとしたが脱落者は少なく、彼らはリヨンからマルセイユへと出た。もちろん彼らは船賃も持ってなかった。この時マルセイユの船主が「お前達の殊勝な心がけに免じて聖地まで無償で船に乗せてやろう」と申し出た。彼らはその甘言を信じて7艘の船に分乗してマルセイユを出帆した。7艘のうち2艘はサルデーニャ島付近で難破し、残る5艘の船に乗った少年達はアレクサンドリアに運ばれ、奴隷として売り飛ばされた。 この出来事は少年十字軍(1212)と呼ばれている。同じような動きはドイツでも見られた。度重なる十字軍の失敗、その度に説教士達によってかきたてられた社会の興奮から引き起こされた悲劇的な出来事であった。 教皇インノケンティウス3世は、第4回ラテラノ公会議(1215)で新たな十字軍を提唱したが、その翌年に亡くなった。 インノケンティウス3世の支持を得て神聖ローマ帝国皇帝となったフリードリヒ2世(位1215〜50)は、教皇から十字軍を派遣するように迫られていたが、口実を設けては引き延ばしていた。グレゴリウス9世が教皇になると、新教皇はすぐに実行するように強く迫った。フリードリヒ2世はやむを得ず出発したが、マラリアにかかり引き返した。教皇はこれを仮病として彼を破門した。破門をもって脅されたフリードリヒ2世は翌年聖地におもむいた。 こうして始まったのが第5回十字軍(1228〜29)である。フリードリヒは、アイユーブ朝の内紛につけいり、外交交渉によってスルタンと協定を結び、一戦も交えることなくイェルサレムを回復した。協定の内容はイェルサレムは返還するが信仰上は共同統治とし、10年間の休戦を約束したものであった。しかし、その後イェルサレムは再びイスラム教徒の手に落ち(1244)、イェルサレムは 20世紀までイスラム教徒の支配下に置かれることとなった。 |
第6回十字軍 | 1248〜54 | 敬虔なキリスト教徒で「聖王」と呼ばれたフランス王ルイ9世(位1226〜70)は、国内ではアルビジョワ十字軍(1209〜29)を起こし、南フランスの異端アルビジョワ派を討伐し、根絶した。ルイ9世は単独で第6回十字軍(1248〜54)・第7回十字軍(1270)を起こした。
第6回十字軍は、目標をアイユーブ朝の都カイロに定め、ダミエッタを占領してカイロに進撃したが、イスラム教徒の反撃にあって包囲され、捕虜となった(1249)。 |
マムルーク朝(1250〜1517)は、アイユーブ朝を滅ぼし、エジプト・シリアを領有し、アンティオキア公国を滅ぼし(1268) | ||
第7回十字軍 | 1270 | 莫大な身代金を支払って釈放されたルイ9世は帰国後も聖地回復の夢を捨てず第7回十字軍を起こした。
第7回十字軍は、北アフリカを攻めて、そこに十字軍の新しい拠点を築こうとしてチュニスに上陸したが、彼はそこで病没し、これが最後の十字軍となった。 |
マムルーク朝(1250〜1517)は、トリポリ伯国も滅ぼした(1289)。さらに十字軍の最後の拠点アッコンも1291年に陥落し、シリア・パレスチナの地は完全にイスラム教徒の支配下に置かれた。この年をもって十字軍時代の終わりとする。 | ||
オスマン・トルコは、ニコポリスの戦いで(1396)バルカン・フランス・ドイツ連合軍を叩きのめし、ついに1453年コンスタンティノープルを陥落させます。第一次ウイーン包囲(1529)、プレベザの海戦、地中海の制海権奪取(1538) 以後の地中海貿易はトルコ主導。
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キリスト教国家、イタリア都市群(ロンバルディア同盟)に走った衝撃はどのような物だったでしょうか。終末思想が蔓延します、東方の文化にはかなわないと言った風潮もありました。アイデンティティクライシスです。諸侯は王権を強化せざるを得なくなります。 |
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その後スレイマンの死後(1566)キリスト教世界は一息つくことが出来ました。トルコの脅威が少なくなり、皮肉な事に教皇の権力が弱まります。ユグノー戦争(1562-1598)・30年戦争(1618-1648)等の宗教戦争で疲弊したキリスト教世界は、メフメットにより再興したトルコと1683年にウイーンで再び激突します。主にトルコ側のミスによりキリスト教側の勝利。以後はキリスト教が優位に立つのです。 | ||
約200年の間に前後7回の十字軍が派遣されたことは、当然のことながらヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼし、中世ヨーロッパ世界を大きく変化させることとなった。
宗教面では、十字軍が教皇の提唱で起こされ、一時的にせよ聖地を回復したことから、教皇の権威はますます高まり、13世紀初めのインノケンティウス3世の時に教皇権は絶頂期を迎えた。しかし、結局聖地を回復できなかったことは逆に教皇に対する信頼を失わせることとなり、宗教熱は冷却し、さらには教皇権の衰退を招くことになった。
政治面では、諸侯・騎士が没落する原因となった。長期間の遠征によって多くの諸侯・騎士が命を落とし、家系の断絶が起こった。また莫大な遠征費の負担は彼らの経済的な没落の原因となった。その一方で国王による中央集権化が進展した。国王は十字軍の指揮者として活躍し、諸侯・騎士の没落によってその地位は相対的に強化された。また諸侯・騎士が戦死し、家系が断絶した場合はその遺領を王領に編入し財政面での強化をはかった。こうして各国では国王による中央集権化が進展した。
経済面では、十字軍によって最大の利益を得たヴェネツィア・ジェノヴァなどの北イタリア海港都市がイスラム世界との遠隔地貿易(東方貿易)によって大きな利益を得て発展した。またヨーロッパ内部でも遠隔地商業や貨幣経済が発展し、都市が発達した。
文化面では、十字軍によって多くの人々が東方との間を往来したためヨーロッパ人の視野が広まり、ビザンツ文化やイスラム文化が流入し、特にイスラムから未知の学問や技術がもたらされ、近代以後のヨーロッパ文化発展の基礎がつくられた。
十字軍以後、ヨーロッパのあちこちに都市が成立・発展し、市民の活動が盛んとなった。市民達は封建制度や教会の束縛から解放された人間らしい自由な生き方を求めるようになった。市民達は人間のもつ欲望を肯定し、現世をより良くより楽しく生きることが人間らしい生き方であると考える気風を生み出していった。
市民達は、その人間中心の新しい生き方の手本を、彼らと同じように都市生活を営み、しかもキリスト教の束縛に縛られないで自由に生きた古代ギリシア・ローマの人々の生活・考え方に求め始めた。彼らの残した文芸の作品を収集し、それを深く研究し・復興することにより、新しい生き方を追求しようとした。それは神中心の中世的世界観から自我を解放しようとする動きでもあり、文学・芸術・思想の諸文化活動の上で行われていくことになった。このような動きもヒューマニズムと呼ばれるが、人文主義と訳されている。そしてヒューマニズム(人文主義・人間主義)の精神に立つ、ルネサンス期の文人・学者を総称してヒューマニスト(人文主義者)と呼んでいる。
ルネサンスは芸術上、学問上および文化上の革新運動であり、この運動は個人の解放、自然の発見、そしてギリシャ、ローマの古典文化の復興とその発展を促し、やがて学問、芸術に限らず、広く政治、宗教の世界にも革新的な気運をもりあげることに寄与した。中世の神学及び封建的社会秩序にあって埋もれていた「個人」観を「文芸復興」運動を通じて引き出し、「ギリシア・ローマにその範を求めて人間の自然な姿を求める」、「人間中心主義」ともいえる開放的な社会運動を多方面に繰り広げていった運動に対して命名されているのがルネサンスであり、以降の西欧での近代化運動に多大な影響を与えたところに哲学上の史的地位がある。こうしたルネサンスは徐々に始まった。絵画の世界が殊に有名であるが、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロへと続く経過が頂点に位置している。
つまりこの運動は、封建的な絶対君主制に反対し、キリスト教の絶対イデオロギーに反対して、人間の個人的自由と人権を求める近代ブルジョア民主主義的展開への端緒となった。
(私論.私見)