ダンテ「神曲」考 |
【ダンテ・アリギエーリ(Dante ALIGHIERI)(1265-1321)】 |
ダンテはイタリアを代表する最高の詩人で、その地位はイタリアのみならずヨーロッパ文学の最高峰にある。 |
ダンテの名作「神曲」(ダンテ・アレギエーリ/三浦逸雄訳)は、100歌全1万4233行からなるこの物語である。ダンテは3人の案内人に導かれて地獄篇34歌(冒頭に序歌が加わる)、煉獄篇33歌、天国篇33歌の三部からなる遍歴叙事詩を作り上げている。「主題は,生身の人ダンテが彼岸の世界の旅を成就することにある。大赦の年1300年の復活祭に,おりしも人生の半ば(35歳)にあった詩人が,暗い森に迷いこみ,聖木曜日から聖金曜日にかけての夜に始まり,1週間の三界遍歴を行う。まず地獄から煉獄の一部までをラテンの大詩人ウェルギリウスがダンテを導き,地上楽園から天国の至高天までをベアトリーチェが導いて,最後に聖ベルナルド (クレルボーのベルナール) が3人目の案内役となって天上の純白の薔薇の形のうちに三位一体の神秘を示す」(河島 英昭「ダンテ『神曲』展示会」)
ダンテには二人のガイドがつく。地獄と煉獄のガイドはウェルギリウスであり、天国の案内役はベアトリーチェである。地獄は降りるにしたがって狭くなる漏斗状の地下世界で、そこではありとあらゆる罪に陥った魂の呻吟する姿が描かれる。好色、貪欲、浪費、吝嗇、激怒、怠惰、異教徒、さまざまな暴力、欺瞞、追従、聖遺物売買、占い、詐欺、偽善、盗み、不和、贋金つくり、裏切り……地底には巨大な姿をした魔王ルチフェロが半身を地に埋もれさせ、罪びとを口にくわえて噛み砕いている。 ようやくにしてそこを出ると、ほの明るい世界で、それが煉獄だ。そこは浄罪の場所であり、山となってそびえ、旅人は山頂めざして登っていく。その過程で、地獄におちる原因となったあらゆる罪のつぐないの方法と手順とが示される。頂上に近い色欲の環道をはいったところが地上の楽園であり、アダムとイブの原罪の場所だ。知恵の木もそこにある。ウェルギリウスはそこまでダンテを導くと別れてゆき、ベアトリーチェが現れる。 天国は九つの天とそれらを総括する至高の天からなる。九つの天にはそれぞれの役割をもつ天使がおり、神のメッセージを魂に伝える。最上部にある至高の天は、神と天使と、死を超克し、神とともにある歓喜を他者に伝えた至高の聖者の魂だけが住む「秘奥のバラ」とよばれる場所である。ダンテの「神曲」は壮麗な神学的秩序をなして完結する。 |
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第一歌 ダンテは、暗い森の中にいることに気づく。彼の生涯のなかばの、三十五歳のときである。森は罪ふかい人の世の比喩《ひゆ》だが、その森を出て丘にかかると、豹《ひょう》と獅子《しし》と牝狼《めすおおかみ》に出会う。この三頭の猛獣も、やはり人生の罪の象徴である。進退きわまったとき、ウェルギリウスに会うが、彼はダンテに、地獄と煉獄《れんごく》へみちびいていくことを約束する。この第一歌は、『神曲』全体の序歌のようなもので、物語は、一三〇〇年の春、復活祭の木曜日の夜半から、その翌日の聖金曜日の朝にかけての出来事である。 人のいのちの道のなかばで、正しい道をふみまよい、はたと気づくと 闇黒《あんこく》の森の中だった。 ああ、荒涼と 棘《とげ》だって たちふさがるこの森のさまは 口にするさえ せつないことだ。思うだけでも 身の毛がよだつ! その〔森の〕苦しさは 死にまさるともおとるまい。ただ、その森で おもわずうけた僥倖《しあわせ》にふれるためにも、そこで見たくさぐさのことを わたしは語ろう。 森へどうして入ったのか さだかにいうほどの覚えはない。そのときはたしか 深い眠りにおちていて、正しい道を わたしはすてていたのだから。 わたしは とある丘の麓《ふもと》にたどりついていた。そこは、わたしの心が痛ましく怖《おそ》れになやんだあの〔暗い森の〕渓谷の尽きるところだ。 目をあげると、その丘の肩のあたりが、正しい道を人びとにさし示すあの太陽の光に はやくも包まれているのが見えた。 その夜は夜っぴて ひどい不安にすごしていたのだが、こころの底にずっとわだかまっていたあの恐ろしい思いが、そのときには いくらかおさまっていた。 あたかもそれは、荒れ狂う海からやっと岸へのがれついて息づかいも荒い〔難破の〕人が、あやうかった水面をかえりみて じっと目をやるように、わたしの心も まだそのときは〔怖れから〕のがれ出ようと、背をふりかえって、生きては人の抜けられないあの森のあたりに まじまじと見入っていた。 ややあって 疲れたからだが休まると、人気《ひとけ》もない丘の斜面を わたしはふたたび歩きだしたが、しっかと踏みつけるのは いつも低い方の足だった。 とある坂にさしかかると、まだら紋の毛皮をかぶったすばしこく身の軽い豹が一頭そこにいて、面と向きあっても避けるどころかはったと行く手に立ちふさがろうとしたので、もと来た道へかえろうかと わたしはしきりに背後をふりかえった。 時刻は朝もあけがたで、太陽が星々をともなって昇っていた。それは世の初めに、神の愛がそれらの美しいものを動かしたときから、太陽とともに 空にかかっていたあの星々である。 この朝という時と さわやかな季節のことだから、目もあやな皮をかぶったその獣を見たからとて、わたしが何かいいことを期待するのも 無理からぬことだ。 だが、この〔豹の〕怖れを忘れさせたのも束の間のこと、わたしの眼前には また一頭の獅子があらわれでた。その獅子は わたしにあたりをつけている様子で、頭をふり立てて 饑《う》えで狂わんばかりだ、大気でさえ その獅子には怖れおののいているようだった。 するとまた、牝《めす》の狼が一匹、痩《や》せこけた身に貪欲のかぎりをつめたと見えて、すでに人びとにしがない暮らしをさせた奴《やつ》だが、そのぞっとする面《つら》がまえからわたしは胆《きも》をつぶさんばかりにおどろいて、丘をのぼる望みなど とっくに棄《す》ててしまっていたのだった。 それはたとえば、物に執着して手に入れた者が、やがて時がきて それを手放すはめになると、胸かきくれて 悲歎《かなしみ》にしずむものだが、身近にせまってくるその酷薄なけものにわたしががっくりしたのも それに似ていて、太陽の黙《もだ》す方へと わたしをじりじり後ずさりさせた。 まさに谷底へおちこもうとしたそのときのことだ、長らく物をいわないためか 声のかすかすした人がぽつりとわたしの眼の前に 姿をあらわした。 このすごく荒涼とした境涯でその人を見つけると、わたしは大声で呼びかけた、「おあわれみください。あなたは人の影ですか それとも なま身の方ですか」 その人はわたしに、「人間ではない、かつては人間だった者だが。わしの両親《ふたおや》はロムバルディアの出だ、生まれ故郷は ふたりともマントヴァ。わしが生まれたのはユリウスの〔帝《みかど》の〕治下、いやその末期だ、賢帝アウグストゥスの御代にはローマでも暮らしていた、たばかりと邪教のはびこった時代だった。 わしは詩人だったから、おごるイリオン〔の城〕が焼けおちたあと、トロイアから来たアンキーセの嫡子〔アエネアス〕のことを歌ったこともある。 ところで、きみのことだが、苦しみの満ちみちた谷へ引きかえすというのか。神々のさちわいたもうあの山になぜのぼらないのだ、なべての歓喜《よろこび》の初めであり、因《もと》であるあの山を」 「さては、あなたはあのウェルギリウスさまでしたか、言葉をひろげたあの大河の源になられたお方」わたしは羞《はず》かしい面《おも》もちで その人に応《かえ》した、「ああ、詩人という詩人の名誉と光であるお方、おたすけください、ひたむきな愛情から わたしの長い勉学をとおしてあなたのお作をひもどかせていただいたこのわたしを。 あなたはわたしの師です、わたしのための詩人です。わたしが名を得たうつくしい歌のすがたを学びとったただ一人のお方です。 あの獣をご覧ください、あれにわたしは逐《お》われていたのです。世にひびく賢《さか》しいお方、あれからわたしをお救いください。あれがわたしの血管も脈も ふるえあがらせているのです」 「この荒れはてた谷から抜けだすというなら、きみは道をかえる方がいいようだな」涙ぐむわたしを見て、その人は答えた。「きみに声を立てさせたあの獣はな、よそ者には自分の道をとおらせないばかりか、さんざ痛めつけたあげくに、食い殺してしまうのがおちだ。生まれついての酷薄無道、すごく邪悪で 罪ぶかい性質《たち》でがめつい欲を満たしたことさえなく、食《くら》ったあとでも 食う前よりもがつがつするという奴だ。 あいつとつるむ獣も多いから、ヴェルトロ〔猟犬〕が来て こらしめて殺すまでは、さらにあいつらの仲間はふえるだろう。 ヴェルトロは 領地も金銭《かね》も食おうとはせぬ、ただ 知恵と愛と徳だけを糧《かて》にするだろう。その生国は フェルトロとフェルトロの間のはずだ。そのゆえにこそ、処女《おとめ》カミルラが死に、エウリアロ、トゥルノ、ニーソなどが傷ついたのだ。みじめなイタリアは こうして救われる。ヴェルトロが、もとの地獄へ追いもどすまで奴らを町々から狩りたてることだろう。 それというのも、嫉妬が奴らをはじめて地獄からおびきだしたからだ。そこでだ、わしはきみを思うて 手段《てだて》を立てているのだが、ついて来るがいい。わしが導者になろう。わしは永劫《えいごう》の場所〔地獄〕へきみを連れていくつもりだ。そこではきみは、〔昇天を〕望むすべもない叫び声を聞くだろう。口々に 第二の死を叫んでなげき悲しむそのかみの代《よ》の霊たちをも見つけるだろう。 さては焔《ほのお》の燃えるただなか〔煉獄〕でさえ 満ち足りている人を見るだろう。ときあらば、至福の群れに入る望みをもつ人たちだ。そのあとで、きみがさらに昇りたいところには、わしよりもさらに気だかい霊がおられるはずだから、別れるきわに きみをそのお方におまかせするつもりだ。というのはな、天上をしろしめすおん皇帝《かみ》がその国の掟《おきて》にそむいたからとて、その府《まち》〔天国〕へわしの入ることをよろこばないからだ。 皇帝《かみ》は天上にいまして統《す》べておられる。そこには その府《まち》と高い玉座《みくら》がある。選ばれて そこにある者は幸福《しあわせ》だ!」 そこでわたしはいった、「詩人よ、おねがいです。あなたが〔この世では〕ご存じなかった神のおん名によって、どうかこの禍いと さらにひどい禍いとから のがれるために、いまおっしゃった所へおみちびきください。あのサン・ピエトロの門や あなたの仰《おお》せのうらぶれた人たちをお見せください」 そのとたんに、その人は歩きだしたので、わたしはそのあとに随《したが》った。 |
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(私論.私見)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0913.html
おそらくぼくの読書遍歴のなかで、これほどに何度もその牙城への探索を誘惑しつづけた大冊は、ほかにはないのではないか。
最初はダンテのベアトリーチェに対する無上の愛を知りたくて読んだ。そのころのぼくのベアトリーチェは皆川眞知子だった。紫野に住んでいた従姉妹のことだ。自殺した。ついでは野上素一や寿岳文章や里見安吉に導かれ、古代ローマと初期ルネサンスをつなぐ偉大すぎるほどの橋梁として読んだ。
さらにサンドロ・ボッティチェリやギュスターブ・ドレの『神曲』に対する視覚幻想的傾倒やリロイ・ジョーンズの地獄篇をめぐる騒々しいジャジーな議論に惹かれ、また国家論としての『神曲』にも関心をもった。『遊学』のなかのダンテを綴ったのはそのころだ。
そのうち『神曲』の構造に知的アーキテクチャとしてのシステム構想を感じるようになって、いっとき「オペラ・プロジェクト」を思い描いていたときは、『神曲』をコンピュータによってシステム化することをこそ夢想しつづけていた。このあたりのことは荒俣宏や高山宏や黒崎政男がよく知っている。澁谷恭子などはぼくがダンテと心中する気ではないかと思っていたらしい。
だからピーター・グリーナウェイがBBCで「TVダンテ」を放映したと聞いたときは、しまった!というほどの嫉妬を感じた。
そのころぼくの仕事のことは何でも承知してくれていた佐藤恵子がイタリアに行くときは、いつも『神曲』の古いエディションを入手してもらうように頼んだものだった。勘定などしていないけれど、おそらく『神曲』だけで数百万円をつぎこんだのではないか。
こんな大冊は、ぼくにはかつても今後もありえない。もしあるとすれば、それはぼく自身が松岡正剛のディヴィナ・コメーディアを書物にするか、計画にするときなのである。
1289年6月、フィレンツェはアレッツォを盟主とするギベリーニ党の軍隊と命運をかけたカンバルティーノの合戦で辛くも勝った。けれども世情は落ち着かず、人心は動揺していた。
その1年後、フィレンツェのアルノー河畔のバルディ家の一室でベアトリーチェが病死した。すでに結婚してはいたが、まだ24歳だった。ダンテも24歳。
この瞬間、世界の文学史が、いや想像力の天空がぐるっと大きく転回した。
ダンテは茫然自失、悲嘆にくれる。なんとか神学書や哲学書を読んで気を紛らわし(ヴェルギリウスの『アエネーイス』、ボエティウスの『哲学の慰め』、キケロの『友情論』など)、ともかくもベアトリーチェのために綴ってきた詩をまとめ、4年後に一冊の詩集とした。これが『新生』(ヴィタ・ヌーヴォ)である。詩的半生の恋情自叙伝といってよい。
ソネット25篇、カンツォーネ4篇、バラータ1篇、スタンツァ1篇。ソネットは14行詩のこと、カンツォーネは最初の詩節の行末の語が続く詩節の行末にくりかえしあらわれる詩のことをいう。いずれも当時、シチリア派がようやく完成しつつあった詩型だった。
ダンテを知るにはこのシチリア派を観望することが欠かせない。ここではごく簡単にすませるが、シチリア派を興したのはスヴェヴィア朝のフェデリコ2世だった。
フェデリコ2世は父ハインリッヒ6世のドイツの血をもって生まれたのに、初期イタリア語のほうがずっと好きで、1208年にナポリ王兼シチリア王になると、詩歌に耽溺した。
これは日本でいえば、後鳥羽院が『新古今和歌集』とそのスタイルに耽溺した時期とまったく同じ時期にあたっていて、このことをまだ誰も指摘してこなかったことが不思議なくらいの同期的振動である。ダンテを知ろうとするときは、この“シチリア派の後鳥羽院”とでもいうべきフェデリコ2世のことは欠かせない。
シチリア派はトスカナ派を生んだ。グィトーネ・ダレッツォが代表する。ラテン語を真似た衒学的なイタリア詩をつくろうとした。こうして13世紀末になってシチリア派の影響を受けたボローニャ派がおこり、グイド・グイニツェリがその花を咲かせると、この派の清新な詩体がフィレンツェに流れこんだ。若きダンテの最も親しい友人だったグイド・カヴァルカンティはこの「清新体詩」を最初に身につけた。『神曲』煉獄篇の第26歌では、ダンテはグイド・グイニツェリは「私の父というべき詩人」と書いている。
こうして『新生』の詩篇はボローニャ派の集大成ともいうべきものになった。これをもって、フェデリコ2世を後鳥羽院に比するに、定家・西行・長明をへて、兼好や阿仏尼にあたりがダンテの執筆時にあたっているというふうに見るとよい。ダンテの生まれが1265年、夢窓疎石が1275年の、兼好が1283年の生まれだった。
もうひとつ、急いで言っておきたいのは、ダンテによってイタリア語が確立していったということだ。これはフランス語が『ロランの歌』で、英語が『アーサー王物語』で、日本語が『平家物語』で出来(しゅったい)したことに比況できる。
ところで表題がそうであるように、『新生』はこれをもって新生を期そうとしたダンテの願望がよくあらわれてはいるのだが、やはりこの詩集はどう見てもベアトリーチェの死を乗り越えないままのダンテの取り乱した実情をあらわしていた。
有心(うしん)ではあっても余情(よせい)や幽玄には至らなかった。その証拠ということではないが、『新生』第23章にはベアトリーチェが死んだ夢を見て、夜中に起きると凍えるように慄くダンテ自身の姿も描かれている。
それほどにベアトリーチェはダンテの宿願の光だったのである。ダンテを語るにはこのベアトリーチェの存在を語らないでは、何にも進まない。
フィレンツェでは毎年5月1日に花祭カレンが開かれる。
ダンテがベアトリーチェと出会ったのは1274年のときの花祭で、この年はコルソ通り聖ピエール・マジョーレ教会の隣のファルコ・ポルティナーリの宏大な邸宅の庭で催された。そこがベアトリーチェの実家だった。ベアトリーチェは9歳である。
すでにダンテはベアトリーチェの兄マネットから妹ベアトリーチェのことを聞いてはいたが、会ったのは初めて、その白い服に包まれて接客している可憐なベアトリーチェにたちまち魂を奪われるような感動をおぼえた。
それにしても相手は9歳、ダンテも9歳。これは早熟だ。けれどもこういうことはおこりうる。ぼくがベアトリーチェとおぼしい少女に気づいたのは晩生(おくて)の中学2年のときであったけれど、それが5年前でも7年前でも十分におこってよいことだった。
が、ここからがダンテなのである。ぼくなどの出る幕はない。それというのも、次にダンテがベアトリーチェに出会うのは、二人ともフィレンツェの街にいながらも、9年後のことなのだ。アルノー河畔の聖トリニタ橋のたもとを、ベアトリーチェが二人の女友達にはさまれて歩いているときである。二人は再会する。けれども二人は会釈をしあったものの、会話すらしていない。
それでも『新生』にはベアトリーチェへのそれ以来の熱愛が痛々しいほど謳われた(第23章以下)。その熱愛は、『金色夜叉』ではないけれど、ベアトリーチェが銀行家に嫁いでもなお続き、そして24歳で若死にしてしまった瞬間に、永遠の凍結をみせたのだ。
では、そのようにベアトリーチェを失ったダンテが、恋愛詩や失意の物語を書いたというのならともかく、いったいどうして『神曲』などという巨大なプログラムに立ち向かったのか。
それを説明するのは容易ではないが、こんなところから見てみればどうだろう。
実はダンテは『神曲』で何人もの教皇たちを地獄に堕している。無神論者であったのではない。敬虔なカトリック教徒だった。では、なぜこんなことをしてみせたのか。
そもそも『神曲』は叙事詩であって物語であって、歴史であって百科事典であって、またおびただしい数の人名辞典になっている。さらに『神曲』はフィレンツェの政治史であって国家理想をめぐる議論にもなっている。だいたいこの時代はフィレンツェもラヴェンナもナポリも、都市国家なのである。トスカナ地方だけでもいくつもの都市同盟が複雑にむすばれていた。国家理想といえば、このことだ。あるいはキリスト教の「神の国」のことだった。
そのため『神曲』の随所には、ダンテのフィレンツェ政治やキリスト教社会に対する主張や見解が記述されている。それだけではなく聖人や神学者たちのアドレス(住処)も決定されている。そのなかで教皇が次々に地獄に堕されているわけなのだ。ダンテには教皇を堕しめる理由があったのである。
まずもってはっきりさせておかなくてはならないのは、ダンテはプラトンよろしく政治家をめざしていたということだ。それとともに、これもプラトンそっくりなのだが、フィレンツェを追放された挫折者でもあったのだ。死にいたるまでダンテは理想と挫折の懸崖にぶらさがっていた。そこが見えないでは、地獄篇の意味も天堂篇の意味もわからない。とくに煉獄篇のことは――。
さきほども書いたように、1289年にフィレンツェはギベリーニ党を相手にカンバルティーノの合戦で戦った。ダンテはこのときはグェルフィ党の騎兵隊の一兵士だった。グェルフィ党は合戦には辛勝したけれど、戦闘はかなりすさまじく、地獄篇第20歌と煉獄篇第5歌はその戦闘のありさまで埋まっているほどだ。
ところが勝ったグェルフィ党が真ッ二つに割れた。それが黒党と白党である。勝った党派には、よくあることだ。黒党には古い封建貴族がつき、白党には富裕な市民がついた。ダンテは白党だった。富裕な白党はプリオラートという最高行政機関をつくって3名の統領(プリオリ)を選び、毛織物業と両替業を保護する作戦に出た。
しかしフィレンツェだけがこうした商業で繁盛していたわけではない。相互に複雑な都市同盟によってこれらの権益は上下降し、いつも左右に揺れた。とくに教皇の権勢や教会の利益との関係が熾烈をきわめた。
こうしたなか、ダンテが統領に選ばれる日がやってきた。ダンテは社会や組織のリーダーになることに怖じけづきはしなかった。引き受けた。そして、その覚悟の瞬間から自分の活動の理想のマスタープランをハイパークロニクルに書き上げていくことを決意して、その実践に乗り出していった。
このハイパークロニクルなマスタープランこそが『神曲』なのである。
ぼくはこのように『神曲』を位置づけ読める者がいないのを、ずっと訝しく思ってきた。『神曲』は魂の階梯を描いた長大な浄化の物語であるが、他方においては、この時代の同時進行的な社会宇宙論のためのプログラムだったのである。
ダンテによって地獄に堕ちた教皇の代表は、ボニファティウス8世やアドリアーノ5世やクレメンテ5世である。
ボニファティウス8世はフィレンツェに圧力をかけ、黒党がその権勢のおこぼれをもらおうとした。そこへ教皇庁から教皇に奉仕する100人の騎兵を出せと言ってきた。すでに統領の一人となっていたダンテはこれを拒否する手紙をつきつけた。が、教皇庁は応じない。ダンテはローマに陳情するために赴き、失敗し、ついでは冤罪をふくめた容疑で裁判にさえかけられることになった。これはかなりの屈辱だったろうと思う。
結果は罰金と2年間の国外追放である。ダンテはやむなく放浪を開始して、各地の食客となって流れたのち(まさにプラトンだ)、ラヴェンナに住んだ。1314年くらいのことである。そしてこのあいだに、『神曲』を書きつづけた。
こうして当然のこと(!)、ボニファティウス8世は地獄界に位置づけられたのだ。さらにニッコロ3世は地獄界第8圏に、アドリアーノ5世が煉獄界の第5円に、チェレスティーノ5世も地獄の入口に捨ておかれた。もっとも教皇のすべてが地獄にアドレスされたのではない。マルティーノ4世は煉獄界第6円に、ジョヴァンニ22世は天堂界第4天に配された。『神曲』の中では教皇であれ、すべてダンテの思いのままなのだ。
思いのままではあったが、誰をどこに配当するかということでは、ダンテはいろいろ迷っている。興味深いことに、ラヴェンナに滞在していたときのダンテは、この地の大司教にそのアドレス配当をめぐる心配事を相談していた。
それは、イスラムの異教徒でありながらアリストテレス学を発展させたアヴェロエスやアヴィケンナを煉獄界に住まわせていいか、トマス・アクィナスの論敵でパリ大学の教授だったシジエーリを天堂界の第4天にトマスとともに住まわせていいか、そういう相談だった。まさに聖人とそれに匹敵する知の王者たちを、どこにアドレスさせるというマスタープランの保留事項を決めたかったのである。大司教はダンテの配当通りでいいと答えたらしい。
このように、ダンテは放浪の中で『神曲』を書いた。いや、そのように放浪しながら聖俗のアドレスをマッピングしながら物語を編集していくことが、『神曲』にひそむ作業的本来だったのである。
さて以上のことを前提に、では、『神曲』そのものの筋立てと構造とその特色を際立たせてあきらかにしてみたい。
その前に一言、素朴な感想を言っておく。
こういうことを書くのは久しぶりなのだ。以前はメモや図解のほうが多く、ダンテについての文章化はあまりしてこなかったから、いまはなんだか気分が高まっている。さすがに『神曲』の罪と浄化の展開が胸に迫ってくるからだ。
ひとつには、ついに聖域に手をつけるような感覚があるといったらいいだろうか。もっともこれは『神曲』を読んでこなかった者にはピンとこないかもしれない。また、ひとつには、これが2003年最後の「千夜千冊」だということだ。なんだか大祓(おおはらえ)を思うのだ。またひとつには、『神曲』には一人一人が浴室に入るように裸形になって参進するものであって、こんな案内などしないほうがいいのではないかという思いが去来するということだ‥‥。
が、それでもやはり、簡潔ではあるけれど、ぼくなりの案内をしておきたい。そもそも『神曲』はダンテその人が、古代ローマの叙事詩人ヴェルギリウス(ヴィルジリオ)に案内されて地獄界からめぐっていく物語なのである。だから案内は『神曲』の手立てそのものなのだ。
お断りもしておこう。『神曲』は大きくは3部構成になっていて、よく知られるように「地獄篇」「煉獄篇」「天堂篇」と訳されることが多いのだけれど、また、ここに採り上げた寿岳文章の訳語もそうなっているのだが、ぼくはここでは煉獄篇をあえて「浄罪篇」とすることにした。おそらくそのほうが理解しやすいからである。
スタイルについてもあらかじめ言っておく。知っての通り、これは壮大な叙事詩なのである。すべての詩形はボローニャ風ではあるが、ダンテ自身が工夫開発した3行詩(テルツァリマ)で進む。かつ、地獄篇・浄罪篇・天堂篇ともにかっきり33歌からできていて、そこに序章がついている。そのため全詩は100歌になってる。
こういう詩形にこだわったのは、わが空海からエドガー・ポーまで歴史的にも何人かが傑出するが、そこに精緻な視覚的構造を配当したとなると、やはりダンテ以外にはありえない。
それでは聞きしにまさる『神曲』に繰り広げられた光景と出来事を案内したい。1年の終わりの書物案内にはふさわしいことだろう。
序章。
発端は人生の矛盾を痛感して煩悶している35歳のダンテがまどろんでいるところから始まる。ダンテはある日に「暗闇の森」に迷いこんだのだ。この「ある日」は金曜日で、イエスがゴルゴダの丘に罪を引き受けた日にあたる。
天界に遊星が走る暗闇を脱したダンテは、そこにあった浄罪山に登ろうとして、ヒョウに会う。ヒョウはダンテの行く手を遮って立ち去らない。けれどもダンテはそのヒョウの模様のもつ示唆に気づく。次にライオンとオオカミが現れ、ダンテは最初から窮地に立った。この三匹の野獣は、むろんダンテの行手を暗示する寓意になっている。
もはや絶体絶命とおもわれたとき、天上から三人の女神が手をさしのべた。マリアとルチアとベアトリーチェである。ベアトリーチェはヴェルギリウスにダンテを案内させることを命じ、ダンテが天堂界に着いたときには自分が案内することを誓う。
こうしてダンテは何かをめざすには他者の救いをもつべきであることを、冒頭に告げるのだ。
ところで、ここでヴェルギリウスがダンテの案内人になったということそのことが、そもそも『神曲』の基本アーキテクチャがどうなっているかを証している。『神曲』は古代ローマ初期のヴェルギリウスの傑作古典『アエネーイス』を下敷きにした。
『アエネーイス』はローマ建国の神話を謳った叙事詩であるが、主人公がトロイアの英雄アエネーアースになっていて、トロイアの落城後に“第二のトロイア”、すなわち理想のローマを建国しようという構想になっている。ダンテはこれが気に入った。
前半の6巻はトロイアからローマに到達するまでの放浪である。この筋書き自体、『オデュッセイア』のローマ版になっている。
ここでは詳細を省くが、巻6でオデュッセイアに母型をとった冥府行が語られ、そこでアエネーアースはアウグストゥスに請われて、その顛末を物語るという場面になる。このときアウグストゥスの甥で、将来を嘱望されながら夭折したマルケスのことを語っているとき、マルケスの母のオクターヴィアが悲しみのあまりに失神する。
この悲しみに向かって物語を告げていくという方法が、実はホメロスからヴェルギリウスをへてダンテに到達した方法だったのである。
ちなみに後半の6巻はラティウムに上陸後、原住民との激しい戦闘が繰り広げられ、アエネーアースは辛くも勝利を得るのだが、このあたりはダンテの時代のフィレンツェの戦闘に擬せられる。また、この戦闘に神々が介入するという、天界の地上への唐突な介入の仕方についても、ダンテはこれをヒントに『神曲』のシナリオに生かしていた。
こうしてダンテは、この『アエネーイス』の作者をこそみずからの案内役に選んだのだった。
地獄界。
『神曲』における地獄は大きな漏斗状になっている。その上に大地が広がっていて、その中心には聖地エルサレムがある。そこから垂直に線を引くと、地球の重心に達するようになる。ところがそこには神に反乱した巨大な天使ルシフェロが投げ落とされたままになっていて、その巨体が半ば地層に食いこんでいる。
そこで大地はルシフェロの悪に汚染されるのを嫌って海中に逃れるように広がり、そこに島嶼をつくっている。そこが浄罪界になる。
地獄界は9つのスパイラル・メインレイヤーでできていて、それぞれ「圏」と名付けられている。そこに“副獄”とも言うべきサブレイヤーが付属する。
地獄界全貌の大きさは記述されていないけれど、下から2番目の第8圏でさえ、周囲が11マイル、直径が半マイルだと地獄篇第20章には記されているから、漏斗の上部はかなりの大規模になる。その地獄界の入口が「暗闇の森」だったのである。
それでは、物語の開幕だ。
ヴェルギリウスの案内でダンテは地獄界に入っていく。はやくも暗黒の響きが唸っている。嘆息・悲嘆・叫喚・絶叫・怒号‥‥。『遊学』にも書いたように、『神曲』はこうした阿鼻叫喚のオノマトペイアに満ちていて、それ自体が反語的なマントラになっている。『神曲』は音響のオーケストレーションでもあったのである。
地獄の入口はアケロンの河。三途の川だ。これを渡るには地獄の渡し守カロンの舟を借りなければならない。カロンは神をも親をも呪っている白髪の鬼である。その鞭打つ姿にダンテは気絶してしまう。それでも舟は動いてダンテは対岸に運ばれる。
対岸に着いてみると、そこにはロダンの彫刻で有名な地獄門が立っている。すでにここは「彼岸」なのだ。“there”なのだ。ここには9圏の辺獄(リンボ)が待っている。
驚いたことに第1圏にはホメロス、ホラティウス、オビデウス、ルカーヌスがいる。いよいよダンテの容赦ない人物マッピングが始まったわけである。ホメロスとホラティウスがここにいるのは真実の信仰をもたなかった偉人の善良な魂ということらしい。
ぼくは最初からホメロスが地獄に堕ちているのを知ってショックだったのだが、先を読んでみると、これはまだ一番軽い罪だった。そもそもヴェルギリウスにしてからがここの住人だったのだ。
ということは、『神曲』は最初に世界で最も誉れの高い詩人たちをリンボに置いて、ダンテとともにこの4人の詩魂を強引に道連れにしたということだった。
というわけで、地獄の本番はここからである。大きくは放縦と罪悪と凶暴が占めている。ヴェルギリウスとダンテはそのすべてをつぶさに目撃する。
第2圏は入口に怪物ミノスが歯がみする。奥には肉欲に耽った者が責め苛まれている。よく見ればアッシリア女王セミラミスやクレオパトラが交じっている。打ちのめされるダンテに風のように近づいてきてくれたのは、パウロとフランチェスカの魂だった。
『神曲』にはこのように、入口の怪物、地獄の責め苦を受けている者たち、そこに一陣の風や歌となってさしこむ救済の象徴、この3つが組み立てられていく。
第3圏には怪獣チェルベロがいて、貪婪をむさぼった者、すなわちさきほどの教皇や詩人ヤコポ・アングィラーラなどが堕ちている。教皇ボニファティウス8世は冷たい雨に打たれっぱなしの状態だ。
第4圏では、悪の富神ともいうべきプルートが声を嗄らして唸っている。吝嗇と浪費の罪を犯した者たちの辺獄である。ダンテはさらに憂鬱になっていく。第5圏には「スティージェの泥沼」があって、憤怒の罪に囚われた者たちがその泥沼にどっぷり浸かっている。そのなかの一人、フィリッポ・アルジェンティはダンテの乗った舟に襲いかかってくるのだが、ヴェルギリウスとダンテは辛うじて難を免れる。
こうなると、これはまさにディズニーランドやユニバーサルスタジオの暗闇トロッコ冒険である。
やがて二人は「ディーテの城」に着く。悪魔が城門を閉めているので入れずに困っていると、天使がやってきてこれを開ける。つねに天上からベアトリーチェが見守っているというのが、この物語のミソなのだ。
ディーテの城内は燃えさかっていた。炎上都市である。燃える墓があり、そこでは異端者が焼かれている。焦炎地獄という言葉は仏教にもあるのだが、まさにそれである。ここからが辺獄第6圏にあたる。
ダンテはそのなかにフィレンツェの宿敵だったギベリーニ党の党首が火炎に踊らされているのを見る。3人の怪女フリエたちが不気味な衣装と声でメドゥーサを呼んでいる。ダンテをゴルゴンの呪文にさらして石にしてしまおうという企みだ。ダンテは堅く目を閉じる。
第7圏では牛頭怪獣ミノタウロスが待っていた。この辺獄はその内側に3つの恐ろしいバルコニーをもっている。
第1環は隣人に対して罪を犯した者が、第2環は自身に対して罪を犯した者、すなわち自殺者たちが、その体を茨に変えられている。第3環はダンテの価値思想がよくあらわれているところで、神に対して暴力をふるった者、神の娘(自然性)に暴力をふるった者(これがソドムとしての男色者らしい)、神の孫(技術性)に暴力をふるった者(これはカオルサとしての高利貸らしい)、この三者が幽閉されていた。
ときどき怪鳥アルピアがダンテたちを窺っている。のちにマックス・エルンストのロプロプ鳥を見たとき、ぼくはただちにこれがアルピアであると知った。
第7圏を見終わると、突然に巨大な断崖があらわれる。二人はとうてい歩いては通れない。そこへ怪獣ジュリオーネがやってきて、恐怖に慄えながらも、その背に乗って飛び越える。ジュリオーネは岸壁をめぐらして円をなす谷底に着く。
辺獄第8圏は10個のサブレイヤーをもっている。ここではすべて欺罔の者たちが堕ちているのだが、他人に対する欺き方で分かれる。
第1嚢は婦女誘拐者たちが鞭を打たれる。第2嚢はお追従ばかりをしてきた者たちが糞尿まみれになっている。第3嚢は聖物売買者が岩石のあいだで互いに衝突をくりかえしている。まあ、インチキ美術商たちだろう。
第4嚢は妖術者やイカサマ宗教者たちが頭を捩られたまま、背進を続けている。いっときメリル・ストリープの美容整形映画があって、彼女が顔を逆向きにして歩いていたが、あんな感じだ。ダンテはインチキやイカサマをとくに嫌っていた。第5嚢は汚職をした者たちが煮えたぎる瀝青の中で喘いでいる。そのなかを悪鬼が罪人をかかえてマーレブランケの爪で引っかけと叫んでいる。ここはどうやら汚職にまみれたサンタ・チタこと、ルッカの町なのだ。
第6嚢は偽善者たちである。重たい鉛の外套を着せられて歩かされていた。第7嚢は盗賊たち、第8嚢は策略を弄した者たちが火を浴び、よく見るとフィレンツェを誤った方向に向けた連中の顔が交じっている。そこからなんとオデュッセウスの物語の声も聞こえてきた。
第9嚢は不和の種をまいた者たちが悪魔の剣で切り刻まれて、第10嚢は錬金術で人を騙したり、ニセ金を偽造した者たちがとんでもない病気にかかっている。
こうして第8圏をすぎると、ヴェルギリウスとダンテは巨人が取り巻く井戸に出会う。『神曲』においてはすべてが寓意と比喩によって語られるのだが、巨人はたいてい「僭越」の象徴にあてられている。どうやらこの井戸を降りれば地獄の底になるらしく、そこが第9圏になっていた。
第9圏は凍てついて氷結した湖に見える。極北なのだ。地獄の極北なのだが、『神曲』の構造からすると地球の真下にあたっている。それならここは南極になる。原語ではコチト(氷獄)となっている。
ここでは、ありとあらゆる反逆者や裏切り者たちが氷漬けになっている。が、よく見ると4つのサブレイヤーをもっている。
第1円カイナは血族に対する反逆者、第2円アンテノーラは祖国や自分の党派を裏切った者である。日本の政党を割った者たちはここに入ることになるのであろう。第3円トロメオは食客に対する裏切りなのであるが、これはダンテが放浪時代にイタリア各地を遍歴したときに親切にしなかった者たちが頭を氷湖から突き出されて責め苦を受けている。なんというダンテの復讐劇だろう。
第4円ジュデッカは恩人に対する反逆と裏切りで、ここでは体が氷の中に閉じ込められる。
こうして最後に世界三大反逆者ともいうべきユダとブルータスとカシウスが地獄の帝王ルシフェロの口で噛まれたままになっている。最初に書いておいたように、ルシフェロは氷獄に半ば巨体を埋めている。
なんとも凄惨な光景だった。が、これが地獄界の目を覆わんばかりの辺獄のすべてであって、ここでヴェルギリウスとダンテはここからの脱出を試みる。
すでに『遊学』にも書いたことだが、ぼくはこの脱出の仕方に興味をもってきた。ヴェルギリウスがダンテを背負い、ダンテはヴェルギリウスの首につかまり、巨人ルシフェロの毛深い体づたいにツイストしながら浄罪山のほうへ脱出していったのだ。この“捩れて脱出”という捩率的方法に、かつてのぼくはいたく感激したものだった。
つまり、『神曲』はここで自身の構造を回転させながら地獄界から浄罪界に向けて、まさにデコンストラクション(脱構造)したわけなのだ。こうしてダンテは「不遜」からの解放に向かっていく。
浄罪界。
ヴェルギリウスとダンテが脱出したところは海岸である。このイメージはいい。ダンテの映像的才能をあらわしている。しかし、エルサレムとはちょうど反対側になる。
そこに見上げんばかりの7層の浄罪山が聳えている。前城にははやくも怠慢な魂たちが群がっている。ここでダンテは数秘的な体験をする。いや、神秘的な数字がいつくも出てくる夢を見た。
燃える剣をもった天使が降りてきたのだ。石段があり、その最上段にまたまた剣をもった天使が坐っていた。天使はダンテの胸を3度打ち鳴らした。ついでPという文字を7つ額に刻んだ。Pは罪をあらわすシンボルである。7つのPは「7つの大罪」を寓意する。
天使は次にポケットから金と銀の鍵を取り出して、浄罪山の入口の扉を開ける。
浄罪界第1円は傲慢の罪が浄められている。けれども贖罪のためには「狭き門」をくぐって、重い荷物を運ばなければならなかった。ダンテは門をくぐり、いくつもの彫像に歌を捧げた。
第2円では羨望と嫉妬の罪が浄められつつあった。そのためにはダンテは粗末な衣服を着て、目を鉄線で縫われなければならなかった。ダンテが耳を澄ますと、天空ではエチカ(倫理)を勧める声が飛び、兄弟らしき天使がそこを舞っている。のちにスピノザが愛した光景だ。が、それが羨望者たちには見えない。
その兄弟天使に従うと、第3円が現れる。ふと気がつくと、ダンテの額からPの文字が2つ消えている。
第3円は憤怒の罪が浄められている。贖罪のためには濃い煙に息をつまらせながらも聖歌を唄わなければならなかった。
第4円は惰性の罪が問題になっている。惰性とは何か。愛の不足のことをいう。愛していながら、無関心を装うことをいう。そこでここでは勤勉な者たちを褒めながら走りまわるという贖罪の行為が課せられた。
ダンテはまた夢を見た。セイレーンの夢である。蒼白のセイレーンはダンテを誘惑しようとし、ダンテはヴェルギリウスに揺り起こさせるまでその誘惑に浸っていた。
第5円は、吝嗇と浪費の両方の罪を浄化しなければならないようになっている。ダンテは泣いた。ここではさめざめと泣きはらすことも浄罪なのだ。そこに古代詩人スタツィオが出てきて、ダンテの額のPをひとつ消した。このスタツィオの登場と役まわりについては、『神曲』をキャラクター構造と見たばあいに重要なダンテの作劇術になるのだが、ここでは省いておく。
ともかくもスタツィオの登場によって、ダンテはそろそろ「知恵の泉」に気がついたようである。
第6円は飽食が戒められる。ダンテは飢えと渇きに耐えなければならない。けれども視線の前をホログラフィのように、おいしそうな果物や飲み物がしきりに現れては消えた。
第7円は肉欲と性欲の罪を贖う場所である。スタツィオはそもそも人体というものがなぜ肉欲をもつのかという説明をしながら、ダンテの知を促した。
ダンテはアリストテレスを思い出し、知恵というものが潜在的なものと能動的なものに分かれ、前者によって外部の印象が受けられ、後者によってその印象が理解されるのだということを述べた。ダンテはまたアヴェロエスを思い出し、能動的な知恵には個性がないのは誤りなのではないかと述べた。
そのとたん、ヴェルギリウスとダンテは浄罪界を抜け出たことを知る。
そこはまさに地上の楽園とおぼしい花が咲き、草原は森にかこまれ、仙女マチルダが花を摘んでいた。歌も聞こえてきた。そう思うまもなく、森の中からは七枝燭台を先頭にきらびやかな神秘的な行列が進んできた。その中央には花車がひときわ目立ち、そこにベアトリーチェが乗っていた。
気がつくと、ヴェルギリウスとスタツィオの姿は消えていた。『神曲』はこうしてついに天堂界にさしかかる。
天堂界。
ここはダンテとベアトリーチェが昇天していくという物語になっていく。古来、『神曲』のなかでも最も美しく、かつ感動的で印象的な展開だと称賛されてきた。
構造はプトレマイオスの惑星的天体そのものである。けれどもこの時代の天体知識は天動説でも地動説でもなく、まだ香しい幻想によってのみ構造化されていた。
こんなふうである。
第1天(月天)には、まだ誓願をはたせないでいる魂がいた。そこでベアトリーチェは月の斑点の話を語った。
当時、月の斑点は神に許されないカインの魂を思わせる象徴だったのである。ベアトリーチェはそれを新たな解釈で包んでいく。第2天(水星天)には美名と善名を求める者たちがまだ戯れていた。第3天(金星天)には恋に燃える者たちがいた。そこには懐かしいフィレンツェの娘たちやシシリアの女王たちがいた。その顔は輝いている。ダンテの心は和み、懐旧と将来の音階が重なっていく。やがて「アベ・マリア」が聞こえてきた。
第4天(太陽天)では「知の魂」が弾んでいた。ダンテはトマス・アクィナスやボーナヴェントゥーラと会話を楽しんだ。これらの会話は『神曲』のなかでも注目すべきもので、人間の判断の不確実性を問うものになっている。ダンテの知はしだいに深まっていく。ぼくはここを読んで、やっと『神曲』の全体像をつかめた記憶がある。西田幾多郎の『善の研究』を思い出したのも、ここだった。
第5天(火星天)は信仰のために覚悟して闘った者たちの魂が癒されていた。そこにはダンテの曾祖父も交じっている。曾祖父はダンテを迎えて、フィレンツェの未来を予告した。第6天(木星天)にはかつて正義を断行しつづけた者の魂が凛然とした姿を見せていた。
ここではしきりにユスティニアヌス帝の語る物語が終始する。『神曲』中唯一のビザンティンな雰囲気に包まれる曲だ。ダンテはアガペーの全面的な到来を感じて、しだいに胸の内を熱くする。
かくて第7天(土星天)には、地上で瞑想や黙想をしつつげた者の魂が光っていた。また、ここからは天に向かって光の梯子がかかっていて、そこを聖者たちが昇降していくのが見えた。これはまさにウィリアム・ブレイクの光景である(ブレイクは何枚もの『神曲』スケッチを残している)。
続く第8天(恒星天)には勝利に輝く者たちの魂が待ってくれている。しかしダンテはここでさらに上に昇るための試練をうけなければならない。聖ピエトロは信仰について、聖ジャコモは希望について、さらに聖ジョバンニが慈愛についての質問をした。これが最後の口頭試問なのである。
ダンテは思慮深く、かつ勇気をもってこれに答え、すべての問答をクリアする。が、試問が終りかけていたそのとき、質問を投げかけたのはなんとベアトリーチェだったのである。
ベアトリーチェは「人間の始まり」について問うてきた。ダンテが少し考えていると、ベアトリーチェはいったいアダムが純潔だったのはいつまでだったか、罪を犯したのはいつだったか、そしてなぜアダムは302年間も辺獄にとどまらねばならなかったかと問う。
ダンテが『神曲』のなかでこの疑問をベアトリーチェに言わせたのは、ものすごい。
ここはダンテが満を持して神学論争のエッセンスをすべて吐露し、スコラ議論からの脱出をはかったところ、いまでもここをめぐって議論が進んでいるところである。
ともかくもこうして、ダンテはベアトリーチェに扶けられ、ついに第9天(原動天)に赴く。
そこには神々が住んでいて、その愛の原動力によって天を回転させている。二つの光の輪が霊妙な音楽にあわせて、外なる輪は左から右へ、内なる輪は右から左へと回転している(きっとスタンリー・キューブリックは、ここから『2001年宇宙の旅』の宇宙ステーションの最初の場面を思いついたのだろう)。そこには二つの天の弓が見え、二つの虹が動いている。神は煌めく点となり、その周囲を天使たちが聖歌を唄って輪舞する。
やがて天空に光の十字架が見えてくると、ああ、ああ、『神曲』とはこういうことだったのかということが、忽然と了解される。ボッティチェリのドローイングが最も美しくなるところだ。
このときようやく、ベアトリーチェは天使の数やはたらきを説明しはじめる。ちょうど天使の大群がやってきた瞬間である。ダンテがそこを見上げると、そこには千段に達していようかというほどの“天空円形劇場”が出現していて、光でできている薔薇が無数に輝いている。これが第10天(至高天)のエンピレオであった。
聖ベルナルドが進み出て、最後の説明役となった。
第10天エンピレオは、上の半天にはキリスト以前の聖者たちがいた。下の半天には嬰児や幼児の無垢なる魂が遊んでいた。そのあいだを聖母マリアたちが占めている。
しかし天空劇場の演目は、ここからが至高の啓示に向かってさらにさらに劇的な寓意を見せるのだ。ダンテの想像力が最高峰に達する瞬間だ。
すでに天空は真昼のように明るいのに、さらに輝く光の点が動きまわっている。そこに、まず木星界の霊たちの光が動いてDの字をつくる。その光はIとなり、ついでLをつくって、またたくまに7つの母字子字となる。
“DILIGITE”(ディリギテ)だ。天空に「愛せよ!」と刻印されたのだ。
しかし、これで刻印が終わったわけではない。ダンテは次の光の刻印を待っていた。
やはりのこと、プラズマのごとき光点はふたたび動きだし、今度はゆっくりと“QUI JUDICATIS TERRAM”を光出させた。「地を審くものよ、正義を愛せよ」である。それだけではなかった。やがてその最後の文字Mだけが残り、そこに天空のあまたの光が集まってきた。
このMは、ダンテが地上における唯一の理想を託す神意の国“Monarchia”のMである。それは故国フィレンツェであって、ヴェルギリウスの古代ローマであり、またアウグスティヌスの「神の国」の象徴だった。
こうしてダンテが茫然と光のMに見とれているその刹那、それらの光の点たちはたちまち鷲の形となって翼を広げると、ダンテの目前に飛来して、ダンテの魂を天上高く飛び放ったのだ。天使たちの大合唱が天を轟かせ、ベアトリーチェはすべての愛となる。
聖ベルナルドが聖母マリアに深い祈りを捧げ、ダンテはここにすべての英知と恩寵に包まれて、ついに、ついに、地上に戻ることになったのである。
さぁ、これで『神曲』全篇を大急ぎで案内したことになる。もう時計が午前0時に近づいてきた。
なんだかぼくも、大晦日の除夜の鐘が聞こえてきそうな気分になっている。が、ともかくも、これでぼくの『神曲』案内は終わりとしたい。ついに「千夜千冊」で一番長い案内になってしまいました。
けれども、この案内の長さこそが『神曲』なのである。これがディヴィナ・コメーディアというものなのだ。よかったら岩波文庫の『神曲』(全3冊)でも入手して、初詣のあとにでも目を通してみてほしい。
それからもうひとつ、本当はサンドロ・ボッティチェリのすばらしいドローイングの絵がいいのだけれど、これはいま入手不可能だから(出版されていない)、せめてギュスターブ・ドレの『神曲』(JICC出版局)を求め、この叙事詩がどれほどヴィジュアルな想像力に長けていたかを感じてみてほしい。
では、除夜の鐘。Mの光を。
よい年を!
第11回 ダンテ『神曲』“なんじの道を進め、そして人々をして語るにまかせよ!”(その1)
■ マルクスの生涯・七幕のスケッチ
今回からダンテ『神曲』をとりあげる。しかし、『神曲』の世界に分け入るためにも、しばらくは『神曲』のことは忘れ、『資本論』に捧げたマルクスの生涯について、レーニンが著した『カール・マルクス』に依りながらスケッチしてみたい。人の一生は「七幕」に分かれているというシェイクスピア(「お気に召すまま」)に倣って区分してみよう。
第一幕・カール・マルクスは、一八一八年の五月五日に、トリール市(プロイセン領ライン州)で生まれ、はじめはボンの大学、ついでベルリンの大学に入学して主として法学、歴史、哲学を学んだ。学位論文はエピクロスの哲学。ベルリンでは「ヘーゲル左派」(=青年ヘーゲル派)に属し、ヘーゲルの哲学から無神論的な、また革命的な結論を引きだそうとつとめていた。
マルクスは、大学卒業後、教授になろうとしたが政府がフォイルバッハを大学から追放するなどの弾圧をまのあたりにして学者としての道を断念するに至ったのだった。
第二幕・一八四二年、ヘーゲル左派と接触をもっていたライン州の急進的ブルジョアが、ケルンで「ライン新聞」を創刊した。マルクスはおもな寄稿家として招かれたが、一八四二年一〇月には、マルクスが編集長となり、この新聞の革命的民主主義的傾向は、ますます明確になった。プロイセン政府は、はじめ「ライン新聞」に検閲を課したが、一八四三年四月一日以後の発行禁止を決定した。
第三幕・一八四三年にマルクスはイェニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚した。イェニーは貴族の家の出であり、彼女の兄は一八五〇―一八五八年に内務大臣であり、最も反動的な時代において重要な役割を果たした人物であった。
一八四三年の秋に、マルクスは、アーノルド・ルーゲ(ヘーゲル左派であったが、晩年国家主義に転向し、ビスマルクを支持した)とともに、国外で急進的な雑誌を発行する目的でパリに移った。この雑誌『独仏年誌』は、一八四四年二月に第一号が出ただけであった。ルーゲとの意見の相違等で停刊が余儀なくされたのだった。
一八四四年九月に、フリードリヒ・エンゲルスが数日間パリにきて、そのときからマルクスの無二の親友となった.二人はともに、そのころ沸き立つブルドン学説(ブルドン、ピェール・ジョセフ=一八〇九―六五/フランスの無政府主義者。資本主義の諸悪の根源は商品交換のなかにあるとし、「正義」の理想にもとづく無償の信用と交換銀行によってこれを改造しようとした)など小ブルジョア的社会主義のさまざまな学説と激しくたたかったのであった。一八四七年にマルクスは『哲学の貧困』を著し、この学説に決着をつけ、共産主義の理論を確立していくのだった。一八四五年にプロイセン政府の強硬な要求によって、危険な革命家としてマルクスはパリから追放され、ブリュッセルに移った。秘密の団体「共産主義者同盟」(労働者階級の最初の国際的共産主義組織。一八四七年六月、ドイツ人亡命家を中心とする秘密結社「正義者同盟」を改組して、ロンドンで成立。一八五二年一一月解散)に加わり、第二回大会(一八四七年一一月ロンドンで開催)の委任によって、エンゲルスとともに『共産党宣言』起草し一八四八年二月に刊行した。
第四幕・一八四八年二月、フランスにおいて産業ブルジョアジーの指導のもとに、金融ブルジョアジーの支配する王政を打倒する、いわゆる「二月革命」が起きる。このとき、マルクスはベルギーから追放された。マルクスは再びパリの地を踏んだが、「三月革命」(二月革命の影響を受けて、その翌年の一八四九年、ウィーン、ベルリンなどに起こった革命。ドイツの諸邦に自由主義政府が成立し、憲法制定に着手した)ののち、ケルンに行き、一八四八年六月一日から一八四九年五月一九日まで「新ライン新聞」が刊行(日刊)され、その編集長となる。マルクスとエンゲルスは、この新聞をつうじて四八―四九年の革命的諸事件の経過を分析し、ドイツ革命における労働者階級と人民の針路を示し、実際活動のうえでも革命運動の重要なセンターの役割を果たした。この新聞には、マルクスが四七年にブリュッセルのドイツ人労働者協会でおこなった講義をもとにした労作『賃労働と資本』も掲載された。
勝利した反革命派=プロイセン政府は四九年五月一六日、マルクスを国外追放した。マルクスは、はじめパリに行ったが、そこからも追放されて、ロンドンに逃れ、それ以降ロンドンに住んだ。
第五幕・マルクスは六年弱の間に四回の国外追放を受け、終焉の地となるロンドンへ四九年八月二六日にやってくるのであった。ヨーロッパ大陸は反動の黒い雲に覆われ、マルクスにはイギリスより住むところがなくなっていた。一時パリに残していた家族も、そして、スイスに亡命していたエンゲルスもロンドンに着いたのだった。二人はさっそく新しい月刊雑誌『新ライン新聞、政治経済評論』を五〇年の三月ハンブルクから発刊した。しかし、この雑誌も六号(五号と六号は合併号)まで出たが資金難のために廃刊となる。
第六幕・一八六四年第一インタナショナル(=国際労働者協会、労働者階級の最初の国際的な大衆的革命組織。各国の労働者を共同行動にひきいれ、科学的社会主義をひろめた。七六年に正式解散)がロンドンで創立され、マルクスは中心的な役割を果たし、その最初の「宣言」と数多くの決議や声明や宣言の起草者であった。マルクスは、さまざまな国の非プロレタリア的社会主義の影響下にあった各国の労働運動を一つに結合し、労働者階級の統一的な闘争戦術をつくりあげた。
特に、パリ・コミューン(七一年)を極めて高く評価(『フランスにおける内乱』)した。パリ・コミューンが倒れ、またバクーニン派によってインタナショナルが分裂させられた後では、ヨーロッパでのインタナショナルの存続は不可能になり、ハーグ大会(七二年)のあとで、インタナショナルの総評議会をニューヨークに移転させた。
第一インタナショナルはその歴史的役割を終え、「個々の民族国家を基盤にして大衆的な社会主義的労働者党がつくりだされる時代に、席をゆずった」。
マルクスは、こうした重責を果たしながら貧乏と不幸がつづくなかで、『資本論』を生み出すために、骨身を削るような努力をしたのだった。そして、一八六七年、『資本論』第一巻がマルクスの手によって世にでることになる。『資本論』の正式な名は『資本論 経済学批判』である。
第七幕・マルクスは各国労働運動の指導にあたりながら、『資本論』第二、第三巻を完成させるための仕事をつづけた。しかし、インタナショナルでの激しい活動と理論的研究のために、マルクスの健康はすっかり破壊されてしまっていた。重病を重ね、たびたび仕事は長期の中断を強いられたのだった。
八一年一二月二日、妻・イェニーが亡くなる。そして、その二年後の八三年三月一四日、マルクスは安楽椅子にかけたまま、六五歳の生涯を終えた。
「人類は一つの頭を失った。しかも人類がこんにちもっていた最もだいじな頭を。プロレタリアートの運動は前進をつづける。だが、その中心がなくなった」(エンゲルスの第一インタならびにアメリカ社会主義労働者党の指導者ゾルゲ宛書簡)。
三月十七日、マルクスは、ハイゲート墓地の妻のそばへ埋葬された。約二〇人の親しい人たちが参列し、エンゲルスが葬送の辞をのべた。
「三月一四日午後二時四五分、現代最大の思想家は、考えるのをやめたのでした。ほんの二分たらずしか一人にしておかなかったのに、わたしたちが室にはいってみると、かれは安楽椅子のなかで、しずかな――だが永遠のねむりについていました。
ヨーロッパとアメリカの戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が、この人の死によってこうむった損失は、まことにはかりしれないものです。この巨人の死によってあけられた間隙は、まもなくはっきりと感じられましょう。
ダーウィンが有機界の発展法則を発見したように、マルクスは、人間歴史の発展法則を発見しました。それだけではありません。マルクスは、また、こんにちの資本主義的生産様式とそれによってうみだされたブルジョア社会との、特殊の運動法則を、発見しました。剰余価値の発見によって、ここに突然、光がなげかけられました。………
マルクスは、なによりもまず革命家でした。資本主義社会とそれによってつくりだされた国家制度との転覆に、なんらかの方法で協力すること、近代プロレタリアートの解放のために協力すること、これが生涯をかけた、かれのほんとうの仕事でした。かれこそは、はじめて、プロレタリアートに、みずからの地位と要求を、また自己の解放の諸条件を、自覚させたのでした。………
かれは、幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら、この世を去りました。同志は、シベリアの鉱山から、全ヨーロッパとアメリカをこえて、カリフォルニアにまで及んでいます。………
かれの名は、そしてかれの仕事もまた、幾世紀をつうじて生きつづけることでありましょう!」(つづく)
【参考文献】『カール・マルクス』(大月書店・レーニン著)/『マルクス』(清水書院・小牧治著)/『資本論』第一巻(新日本出版社)
中世の西ヨーロッパは、身分秩序と荘園制を柱とする封建社会です。庶民には職業を選ぶ自由はなく、キリスト教の教えが人々の生活のあらゆる場面に影響を与えていました。学問や芸術でも神や教会に仕える事が最大の目的でした。ですから、キリスト教の教義を研究する神学が最高の学問とされ、哲学はスコラ哲学となりました。
しかし14世紀になると、先ず文芸の分野で、神や教会の権威にとらわれない、自由で理性や感性に基づいた、人間中心の動きが見られるようになりました。この時代に、英仏は百年戦争(1337-1453)をおこない、黒死病(1347-1351)で2500万人以上が亡くなり、中国では明が興り(1368)、ジョン・ウィクリフは聖書を英訳した(1376-82)。
ダンテ『神曲』・・ラテン語ではなくイタリア語で書かれた長編叙事詩。地獄・煉獄・天国の三篇からなり、そこをダンテが巡る物語。
ボッカチオ『デカメロン』・・黒死病を生き延びた10人の男女が、10日間で100話を語る事から『十日物語』とも言う。キリスト教への批判を含む。
ボッティチェリ、ヴィーナスの誕生
レオナルド・ダ・ヴィンチ、モナリザ
ミケランジェロ、ダヴィデ像
ヒューマニズム、ギリシア・ローマの文化を理想とした、人間らしい生き方を尊重する考え方。ルネサンスの理念。