ヒトラーの遺言考

 (最新見直し2006.10.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2006.10.22日 れんだいこ拝


【「ヒトラーの遺言」】
 太田龍・氏の2006.10.20日付れ「時事寸評bP839、「今、ヒトラーの遺言を日本民族有志が読むべき時が来た」を転載しておく。(れんだいこ文責)
 今こそ、日本民族有志は、「ヒトラーの遺言(一九四五年二月四日〜四月二日)」(邦訳、篠原正瑛。原書房、一九九一年、絶版)を読むべきである。その中の、日本についての文章を引用する。
 「ユダヤ人には、すべての責任を負わせるべきである。そして最も恥知らずな悪徳をユダヤ人の責任だと考えても、それが誤解だったということは決してない。私は確信している――ユダヤ人は、黄禍の問題で遠大な計画を立てるとともに、白色人種の国の一つが、ユダヤ人の病菌に免疫で、しかもいまや列強にのしあがってきた黄色人種の島国を亡ぼしてくれる可能性まで読んでいたのだ、と」。 (前出、八十一頁)

 
このヒトラーの遺言は、今、痛切に我々日本人の心情を打つ。「白色人種の国の一つ」とは、いうまでもなく米国である。「ユダヤ人の病菌に免疫で、列強にのしあがってきた黄色人種の島国」とは、もちろん我が日本である。ユダヤは、米国をして、日本を滅亡させる計画である、と。

 しかし、ヒトラーもこのとき、ユダヤが、黄色人種の国である中国をもまた、共産主義と言うユダヤイデオロギーを以て支配下に置き、このユダヤ化した共産中国をも使って、ユダヤ化した米国と共に、日本に確実にとどめを刺さしめる、と言うところまでは、見えなかったのか。

 およそ人類の歴史始まって以来今日まで、ヒトラーのように、中傷誹謗悪口悪態の限りをつくしてたたかれ続けている個人は、存在しない。そしてヒトラーと同時に、ナチス党も。ナチスとは、ドイツ国家社会主義労働者党。

 昭和初期、戦時中、戦後、現在と、日本の上流貴族階級、ブルジョア、エリートインテリ階級には、強烈な反ヒトラー、反ナチスの感情が存在する。それは、ヒトラーとナチス党が、ドイツの君主制、王室、貴族、ブルジョアの腐敗を痛烈に告発弾劾したこと、そのためであろう。

 前出のヒトラーの遺言は、ベルリン首相官邸地下壕で戦争末期、指揮を取ったヒトラーの言を、マルティン・ボアマンが記録したものである。そのドイツ語版は、一九八一年、ドイツ国内で初版五千部出版されたが、すぐに売れきれ、そのあとは事実上の発行禁止。今こそ、心ある日本人が読むべき書である。(了)

 太田龍・氏の2006.10.180日付け「時事寸評bP837、「日本の真の愛国者と、ドイツの真の愛国者の真剣な交流と提携の必然性に気付くべき時。」を転載しておく。(れんだいこ文責)
 「第二次世界大戦」についての敗戦後の日本人の常識は、東京裁判史観と、ニュルンベルク裁判史観と、この二つの史観を合成したものによって、形成されて居る。この常識は今や、日本人の心理の中で、牢固として抜き難い。

 しかし、表面から見ても、東京裁判と、ニュルンベルク裁判と、この二つの裁判の間には、きはめて異常な相異が存在する。それは、日本とドイツと、この二つの「同盟国」の、最高首脳の運命の相異である。

 ドイツの首脳は、ヒットラーである。そしてこのヒットラーは、ソ連軍が首都ベルリンに突入し、ベルリンの市街戦が遂行される中で、自決した。ヒットラーは、自決する前に、二つのことをして居る。一つは、ドイツ国民への遺言である。これはのちに公刊され、日本語版も出て居る。
 (『ヒトラーの遺言 ― 一九四五年二月四日‐四月二日』
  訳・解説:篠原 正瑛 、原書房、一九九一年刊)

 もう一つは、ヒットラー自決後のドイツ元首として、デーニッツ提督を任命したこと。デーニッツの政権閣僚は、米国軍によって逮捕された。そして、米英ソ連の連合国は、生存して居たナチスドイツ首脳を逮捕して、ニュルンベルクで裁判するのである。

 これに対し、日本では、元首としての天皇は、そのまま、皇居に住み続け、東京裁判当局は、天皇を戦犯に問はないとの、米国政府の指令を受けて居た。

 これはよく考えると、否、よく考えなくても一見して、きはめて異様である。ドイツは、米英仏占領下の西ドイツと、ソ連占領下の東ドイツとに分裂した。旧ドイツ東部の尨大な国土が、ソ連とポーランドの領土とされた。これは問答無用の暴力である。

 西ドイツでは、ドイツ基本法、なるものがつくられて、その基本法のもとに、西ドイツ政府が発足した。しかし、マンフレッド・レーダーが告発して居るように、これは、米国のシカゴ大学で短期間に起草され、西ドイツに押し付けられたものである。

 これに反し、日本では、新憲法は昭和天皇の名の下に、旧明治憲法の「改正」と言うかたちで「合法的」に、議会で可決された。

 敗戦後の事情についてのドイツと日本のこの違いを、日本人は、突き詰めて考察することを、今日まで全くしないで来た。そのことは何を意味するか。そのことは、敗戦後の日本人が、「第二次世界大戦」について、日本人としての系統的な、組織的な、合理的な歴史観を持ち得ない、と言うことを意味するのである。

 つまり、日本人は、日本人としての歴史を切断されて居るのである。歴史を奪はれた民族は必ず滅亡する。ここに、我々が、日本の真の愛国者と、ドイツの真の愛国者と、その両者の間の真剣な対話と交流と提携を追及すべき必然性が存在する。 (了)

【マルティン・ボルマン】

 「ウィキペディア(Wikipedia)マルティン・ボルマン

 マルティン・ボルマン(Martin Bormann, 1900年6月17日 - 1945年5月2日)は、ヒトラーの秘書。ベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘の改築でヒトラーに認められる。4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして次期ナチス党首に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医であるSSの医師ルートヴィヒ・シュトゥンプフェッガーと共に総統地下壕を去った。彼が残した最後の日記には、『5月1日 脱出を試みる』と記されていた。しかし両名とも生きては帰らなかった。終戦時に自殺した。

 5月1日深夜から2日未明にかけて総統官邸から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃したという証言が戦後複数発表された。ニュルンベルク裁判では欠席のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所は彼の死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからなかったので、ブラジルへ逃亡したという噂がまことしやかに語られるようになった。

 1973年になって、ヴァイデンダム橋から遠くないレアター駅で見つかった二体の人骨はシュトゥンプフェッガーとボルマンであると公式に確認された。彼らが脱出に失敗し、青酸により自殺したことは確実である(遺体の口からガラス片が発見されている)。1973年4月にドイツの法廷でボルマンの死が公式に確認された。また、1998年には家族の要請でDNAテストが行われ、人骨がボルマンのものであることが科学的に証明された。その後遺骨は荼毘に付され、バルト海に散骨された。


【ヒトラーの遺言】
 「ヒトラーの遺言」を転載する。

 マルティン・ボアマンの記録した最後のヒトラー発言(45年4月2日)

 「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国家(国民)社会主義に永遠に感謝するであろう。・・・」

 1945年4月29日、エヴァ・ブラウンとの結婚。

「生涯を終わるにあたって、・・・長い年月にわたる余に対する忠実な友情をまもって、みずから選んで、この、すでに敵の包囲網がほとんど完了した街に潜入し、彼女の運命を余の運命と分かち合おうとしている女性を妻にしようと決意した。彼女は、彼女自身の希望によって、余の妻として余とともに死ぬ。・・・・」

 遺体焼却の指示。

「余並びに世の妻は、逃亡あるいは降伏の屈辱を逃れるために、死を選ぶ。われわれ二人の決意は、余が国民に奉仕した12年間のあいだ、毎日の仕事の最も多くの部分を遂行してきたそのおなじ場所で遺体がただちに焼却されることである。」

 ベロウ・・・ヒトラー付き空軍副官・・・署名のいきさつに関する証言(回想)

 39年からの戦争・・・・「戦争は、ひとえに、あの国際政治家たち、すなわち自分自身がユダヤ系か、あるいはユダヤ人の利益のためにはたらいていた国際政治家たちによって欲せられて惹起されたものである。」、「この戦争の責任を余におしつけておくわけにはいかないだろう。・・・・」、「余は、不幸な第一次世界大戦の後に、イギリスに対して、いわんやアメリカに対して第二次世界大戦が起こることを欲したことは、けっしてない。」、悪いのは「国際ユダヤ民族とそれに手を貸している国民」、と。

 「余は、ベルリンにとどまっていて、総統ならびに宰相(首相)の座すらもはや維持できないと確信したとき、この場所で自発的に死を選ぶことを決意した。余は、戦線におけるわが軍の兵士たち、家に残された婦人たちの測り知れないほどの行動や功績、わが農民や労働者諸君や、歴史上他に例を見ない青少年たち、わが名を冠したヒトラー・ユーゲントの献身ぶり−これらの行動や功績は余にはよくわかっている−を目撃しつつ、よろこびにみちた心をいだいて死んでゆく。・・・」

 「陸軍、海軍ならびに空軍の指揮官たちに対し余は、最後的な手段を用いてわが軍の兵士たちの抗戦の精神を国家(国民)社会主義の精神にのっとって強化するとともに、その際とくに、余自身がこの運動の創設者として、卑怯な逃亡よりも、いわんや降服よりも、死を選んだことの指摘を忘れないようお願いする。・・・指揮官たるものは、・・・・すぐれた手本となって先頭に立ち、死にいたるまで忠実に義務を遂行すること・・・・」。

 政治的遺言書(第二部

 ゲーリングを追放。一切の権限の剥奪。デーニッツ元帥を、ライヒ大統領並びに国防軍最高司令官に任命する。

 「世界のすべての国民に害毒をおよぼしているもの、すなわち国際的なユダヤ人集団に対する仮借ない抵抗・・・・・」。

PHP文庫

真実のアドルフ・ヒトラー―20世紀の怪物
ISBN:4569664989
341p 15cm(A6)
PHP研究所 (2005-11-18出版)

金森 誠也【著】
[文庫 判] NDC分類:289.3 販売価:\680(税込) (本体価:\648)
ナチスドイツの指導者となり、第二次世界大戦の口火を切って欧州を戦乱の巷と化したアドルフ・ヒトラー。
絵描き志望の不遇な若者だった彼は、いかにして人類史上最悪の独裁者となったのか。
本書は、数々の資料に残されたヒトラーの言葉を紹介しながら、その生涯、政治・外交・軍事戦略、人生哲学、パーソナリティ・性癖までを丹念に考察。

“20世紀の怪物”の真の姿に迫る。
第1章 ヒトラーの生涯と戦略―その全貌を概観する(目的なき青春;政権獲得から開戦まで ほか)
第2章 ヒトラーの対外政策―列強への対応(ヒトラーと日本人;ヒトラーと大島大使 ほか)
第3章 ヒトラーの人生哲学―思想・信条の底流にあるもの(ヒトラーの英雄崇拝論(カール大帝からナポレオンまで)
頭より体が大切だという教育論 ほか)
第4章 ヒトラーの部下たち―ゲーリングからボルマンまで(洒脱だが軽率なヘルマン・ゲーリング(一八九三〜一九四六)
狡猾な宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(一八九七〜一九四五) ほか)
第5章 ヒトラーの遺産―後世いかなる影響を残したか(戦後も日本に期待したヒトラーの遺言;ネオ・ナチズムについて)

 金森誠也
[カナモリシゲナリ]
1927年、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務後、広島大学教授、静岡大学教授、日本大学教授を歴任。専門はドイツ文学、ドイツ思想(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


ゲッベルス
ヨゼフ・ゲッベルス(宣伝大臣)
Joseph Goebbels
(1897-1945)
−ヒトラーに追随し続けた宣伝の名人−
(2001.5.12、2002.11.4加筆)

 1897年10月29日、ラインラント地方の中都市Rheydtの中産階級でも比較的裕福な会社員のカトリック家庭に生まれた。4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、第一次世界大戦での徴兵検査で失格となっている。彼はこの身体的なことにコンプレックスを抱いていたが、それを逆バネに学業に打ち込み、1921年にはハイデルベルク大学でロマン派文学の研究で文献学の哲学博士の学位を取得。このころは、彼の思想は反ブルジョアであったが、反ユダヤ主義は見られない。彼はゲーテ研究家のユダヤ人文学史教授フリードリヒ・グンドルフの指導を受けていたし、昔の婚約者がユダヤ人であったりしている。
 卒業後は、ジャーナリストを目指していたが失敗し、Colohneの銀行で9ヶ月間働いた。この挫折し鬱屈した状態の時にヒトラーと運命的な出会いをし、ナチス党に入党(1925年)。当初彼は、党内左派の実力者グレゴール・シュトラッサーの秘書をなどをしていた。彼は党内左派であったため、ヒトラーをブルジョワとして追放の提案さえしていたという。ヒトラーは彼を1926年4月、ゲッベルスをミュンヘン一揆の記念すべきビアホールに招いて説得し、以来ヒトラーの忠実な部下となっていく。まもなく弁舌の才能を買われ、ヒトラーの選挙活動を任されるにいたる。入党翌年の1926年にはベルリン管区指導者に抜擢され、当地区を本拠地としていたドイツ共産党と激しい闘争を繰り広げ、またDer Angriff(攻撃)という新聞を発行し、ユーモアとウィット、皮肉に飛んだパフォーマンスで民衆を魅了し、ナチスの党勢拡大に大きく寄与し、ヒトラーの政権獲得に大きく寄与する。
 1928年には国会議員、そして1929年にはナチス党のプロパガンダ全国責任者を務め、あの「Heil! Hitler(ヒトラー万歳)」を導入したのは彼であり、ヒトラー神話の創世に務め、当初12しかなかったナチス党の国会議席を、当時の大不況の追い風にのって230までに大躍進するのに貢献した。
 1933年のヒトラー内閣成立により、新設の宣伝省の大臣となり、最期までこの地位を保持した。就任早々の1933年5月には反ナチス、ユダヤ的とされた大量の書物を焼くという焚書を行って言論弾圧を行い、徹底した言論操作を行って、ユダヤ人排斥運動をあおり、ドイツ国民を戦争に追いやった。
 大戦末期には、人前に出て演説を行わなくなったヒトラーの代理として、徹底抗戦の演説を行ったり、空襲で被災した都市を視察し、救助隊の組織をして国民の賞賛を得た。スターリングラード大敗北後に行われた1943年2月18日の「総力戦」という言葉を使って国民の語りかけた演説は有名である。ベルリン攻防戦の直前には、総統地下壕に妻子をともなって入り、ヒトラーと運命をともにすることを決意した。ヒトラーの遺言によって首相に任命されたが、時すでに遅く、ヒトラー自決の翌日の1945年5月1日、ともにいた6人の子供を毒殺し、自らは妻マグダとともに拳銃で自殺し、ヒトラーの後を追った。彼は、自らの権力基盤が完全にヒトラーに依存していたことをよく知っていたので、ヒトラーに徹底した盲従を示し、常にほかの側近と競い、嫉妬で身を焦がしながらヒトラーに献身した。その結果、ヒトラーの後を追って「殉死」したことは当然の帰結であるとも言える。夫妻の死体は部下によってガソリン焼却されたが、ガソリンが足りなかったため不完全な黒こげ状態でソ連軍に発見された。
 彼は生前、ナチス党幹部の権力を利用して私腹を肥やすことには全くの無関心で、閣僚になって以後も借金に追われ続けた。私生活面ではマグダ夫人との間に5人の子供を設けつつ、1937年から38年にかけてチェコの映画俳優との浮気スキャンダルが起きて一時妻との離婚騒動が起こるが、ヒトラーの仲裁で事なきを得た。また、彼は4歳に患った小児麻痺の影響で左足に障害が残り、右側に上下動する歩き方をし、終生これをコンプレックスとして気にしていたという一面もあった。

トップ人名辞典ドイツ−ヤ行−>トラウドゥル・ユンゲ

ユンゲ
トラウドゥル・ユンゲ(ヒトラー私設秘書)
Traudl Junge
(1920-2002)
−ヒトラーの生き証人−
(20051121作成)


 1920年3月16日ドイツ、ミュンヘンの生まれ。正式名はゲルトラウトであるが、通称名のトラウドゥルで知られている。ユンゲというのは、結婚後の姓である(旧姓フンプス)。生家はビール醸造業を営んでいた。元はダンサーになることを夢見ていた。
 数々の偶然から、第二次世界大戦の最中の1942年、当時22歳だったユンゲはヒトラーの私的秘書に採用される。採用された理由は、どうやらナチス旗揚げの地であるミュンヘンだということだったらしい。ヒトラーにとってはミュンヘンは懐かしく思い入れの深い場所であったのだ。東プロイセン地方の総統大本営「ヴォルフスシャンツ(狼の巣)」から、ベルリンのヒトラー最後の住処となる総統官邸地下の防空壕に至るまで、ごく身近な場所にいて、その私的な時間をつぶさに目撃した。まもなく、ヒトラー側近の一人で若い軍人ハンス・ユンゲと結婚するが、夫の早い東部戦線での戦死により、また独身に戻った。ヒトラーの遺言状も彼女がタイプした。
 終戦直後は、ロシア軍の捕虜となり、収容所に収監されたが、まもなく戦後のどさくさの中で彼女が何者だったのか、充分調査されることもなく釈放された。戦争犯罪人として裁判に掛けられたり、公職追放にもあっていない。その後『クイック』誌の編集長付秘書などの仕事を経てフリー・ジャーナリストとなる。彼女は戦後、いろいろな番組に出演し、ヒトラーについて証言しているが、(例えば、1996年、ドイツのテレビ局ZDFが、『ヒトラーと6人の側近たち』というシリーズ番組を制作した折に(日本で放映済み)、その第1回目「ヨーゼフ・ゲッベルス」の回に証人として登場している。)一度も自分がヒトラーのそばにいて、非人道的な行為の加担者の1人であったことを認めなかったし、また公式の謝罪も行わなかったが、最晩年に彼女の著作を元に制作された映画『Der Untergang』では、悔恨の言葉を口にする。2002年2月11日、ガンのため死去。

 終戦直後の1947年から48年にユンゲは記憶が薄れてしまわないうちにと自分の経験を書き起こしたが、その原稿が日の目を見ることはなかった。だが戦後何十年も経ってからある若い女性ジャーナリスト(メリッサ・ミュラー)がユンゲの元を訪れ、原稿の存在を知り、それを本にまとめることを提案する。そして元の原稿に加筆したものが、2002年に初めて刊行された彼女の著作『私はヒトラーの秘書だった(原題は、Bis zur letzten Stunde - Hitlers Sekretaerin erzaehlt ihr Leben)』(草思社、2004年)。さらにそれをもとに、2004年、映画『Der Untergang』(邦題『ヒトラー 〜最期の12日間〜』)が制作される。第二次世界大戦後、ドイツでヒトラーをテーマに製作された初めての映画である。アレクサンドラ・マリア・ララが、彼女の役を演じた。映画の最後に年老いたユンゲ本人が出てきて「何も知らずに秘書をしていたことを恥ずかしく思う。若さは無知の理由にはならない」と悔恨の言葉を口にする。

参考出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

トップ人名辞典ドイツ−ヤ行−トラウドゥル・ユンゲ


ドイツ

ドイツの総統は、ドイツ語の der F?hrer (フューラー)の訳語。この語は、英語の leader に相当する「指導者」という意味である。何の指導者なのかというとナチス党の指導者であり、党首という意味に近い。

ナチス・ドイツ第三帝国)時代の1934年8月に、アドルフ・ヒトラーが国民投票による賛同を得て正式に就任した。ヴァイマル憲法下の首相ナチス党首を兼ねる(大統領はヒンデンブルクの死後空席のまま)。ただし、正確には、この時ヒトラーが就任した職名は、F?hrer und Reichskanzler (総統兼国家首相、つまりナチス党首兼国家首相)であるから、フューラー(総統)はナチス党の「党首」に限定され、総統自体に首相の権能は含まれない。これは、後にヒトラーが遺書により、自分の後継者として、総統、首相、党首にそれぞれ別の人物を指名したことからも伺える。

第2代総統は、カール・デーニッツ。ヒトラーの遺言に基づき、1945年4月に就任し、5月に連合国に対し無条件降伏した。





(私論.私見)