ヒトラーに影響を与えたワグナーの反ユダヤ主義考 |
(最新見直し2008.9.23日)
【ワグナー反ユダヤ主義のヒトラーへの影響考】 |
ヒトラーの反ユダヤ主義大きな影響を与えたリヒャルト・ワグナー(Richard Wagner)とはどんな人物であろうか。「ワグナーの反ユダヤ主義」、「ヒトラーとワグナー」、「ワグナー崇拝」から学ぶ。 1813.5.22日、ライプツィヒに生まれ、まもなくドレスデン移る。1831年からライプツィヒ大学、1832年、交響曲ハ長調を書き、1833年、ヴュルツブルクで指揮者としてデビューした。1840年から48年にかけ、歌劇「リエンツィ(Rienzi)」、「さまよえるオランダ人(Der Fliegende Hollander)」、「タンホイザー(Tannhauser)」、「ローエングリーン(Lohengrin)」などを書き上げる。 1848年、ドレスデン革命に参加したが、チューリヒに亡命。ショーペンハウアーに親しむ。また、このころから作品を歌劇という名称をやめ「劇」(楽劇)と呼ぶようになる。「ニーベルングの指環(Der Ring des Nibelungen)」にとりかかりはじめ、最初の楽劇「トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)」を仕上げる。その後、「ニュルンベルクのマイスタージンガー(Die Maistersinger von Nurnberg)」、”指環”の完成、「パルシファル(Parsifal)」を世に出す。 亡命生活から戻って50歳のときにワーグナーのオペラに心酔した若き王ルートヴィヒ二世(18歳)をパトロンにしたが、この王の援助の下、にバイロイトに祝祭劇場を建設し、4日間にわたる大作”指環”の上演などワーグナー音楽の聖地となる。また、ニーチェは音楽家としてワグナーに出会って『音楽の精神における悲劇の誕生』を書きワグナーの崇拝者となるが、後に決裂してワグナーの死後『ワグナーの場合』で痛烈に批判するようになった。 65歳のときにリストの娘コジマ(33歳)と結婚し、息子のジークフリート(Siegfried)、娘エヴァ(Eva)、イゾルデ(Isolde)をもうける。 ワグナー家は息子のジークフリート以降も今日でもバイロイトでの毎年の『ニーベルンゲンの指環』の上演を指導しているが、ヒトラーとはジークフリートの妻ヴィニフレッドがとりわけ深い関係を持った。ワグナーの作品は彼の死後、最も熱狂的な支持者を得たのである。仔細に見ていくと、ヒトラーの生活がいかにワグナーの思想や音楽と密接な関係があったかというのが驚くほどはっきりと浮かび上がるのである。 今日でも観光の有名な名所、ノイバシュタイン城はルートヴィヒ二世が世界をワーグナーオペラ化するという構想のもと1869年に着工されたものである。バイロイト神話から導き出されたノイバシュタイン城の部屋割りの核心は、二つの広間にによって構成されている。一つは、『タンホイザー』のワルトブルク城内の舞台セットを模した「歌手の間」と『パルシファル』の聖杯の神殿を表現した「王座の間」である。 それから半世紀後、ヒトラーがこの城を訪れ、舞台作家によって装飾された石造りの広間の中には鉤十字が並び、ヒトラーの忠臣たちは”リヒャルト・ワグナー記念演奏会”に集まっている。そこでの演奏会で「イゾルデの愛の死」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の「ザックスの迷いの歌」を聴いている。ヒトラー「ルートヴィヒ王は同時代の商売根性に対して革命をおこした男を招いた。その男こそリヒャルト・ワーグナーである」と語っている。 |
【ワグナーの反ユダヤ主義の社会的背景】 |
19世紀の中ごろからニュルンベルクに再びユダヤ人が定住するようになり、ぺグニッツ河畔にシナゴーグが建てられ、1874.9月に落成式が行われた。それに対して民族主義精神は、そのムーア的様式のシナゴーグがハンス・ザックス以来(”マイスターの主人公”)の以来の古きドイツの聖地を汚した(ハンス・ザックスに対立するのがユダヤ人を想定したベックメッサーである)として激怒し、同じ年にそのシナゴーグのすぐそばにハンス・ザックスの記念碑を建て、この楽劇の中の詩人を「ドイツ帝国の預言者」と呼んだ。 以前からハンス・ザックスを自分自身と同一視していたワグナーは、”マイスター”のニュルンベルクでの第一回公演収入をこの記念碑に寄付すると申し出たが、このとき記念碑に向かい合って立つシナゴーグに大変憤慨していたのである。 ワグナーの妻コジマ(ワグナーと同様に反ユダヤ主義者)によれば、1877年に家族とともにニュルンベルクを訪れたとき「彼の陽気な『マイスタージンガー』の気分は、残念ながらハンス・ザックスの聖地に建つシナゴーグによって害され、その「傲慢な成金主義」の光景は彼を不快にさせた、ということである。 |
【ワグナーの反ユダヤ主義傾向著作より】 | |||||||||||||||||
ワグナーがヒトラーに影響を与えた(と言う以上のものだが)著作と考えられるものとしては、晩年の5年間に著した『再生論著作』としてまとめられる論文集がある。そのなかの、『宗教と芸術』ではヒトラーの菜食主義、動物愛護主義に影響を与えたとみられる箇所がある。また、娘Evaと結婚したH.S.チェンバレンは著作『19世紀の基礎』で反ユダヤ主義を唱え、後にナチスの反ユダヤ主義著述家ローゼンベルク(その著作『20世紀の神話』はナチスの聖典となっている)に影響した。 ではワグナーの反ユダヤ主義とはどのようなものか。これを見ておくことにする。
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【ヒトラーとワグナーの関係】 |
ヒトラーのワグナーへの傾倒は、かなりのものであった。「彼はかなり音楽的才能があった。例えば驚くべきことに彼は100回以上聴いたという『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を鼻歌や口笛によって実際に再現することができた。」という広報部長オットー・ディートリッヒの言もあるし、『トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)』は小節ごとに全て思い出せると自ら語っている。また、”マイスター”の『目覚めよ!』の合唱からは、「目覚めよドイツ」というという鬨(とき)の声をつくりだし軍旗全てについていた。
ヒトラーがどれだけワグナーを崇拝していたかは、戦争突入までに毎年開かれていた壮大な党大会(3回以降ニュルンベルクに定着)におけるワグナー音楽の活用からも伺い知ることができる。 第一回党大会ではリエンツィ(Rienzi)序曲が演奏された。第3回以降は、古い皇帝都市で、純ドイツ的伝統を示してきたとも言えるニュールンベルク(Nurnberg)で開かれるのが好例となった。この都市は、帝国都市として最初にルター派に改宗し、数世紀に渡ってユダヤ人の移住を禁じていた場所である。ワグナーは実直なこの街を象徴的に「ドイツの真中」と呼び『ニュルンベルクのマイスタージンガー(Die Meistersinger von Nurnberg)』を捧げたのである。 この楽劇は、ヒトラーのお気に入りの一つで、その中の台詞をヒトラーは度々使っている。例えば、アウトバーンの竣工式での「始めよ!」や「ドイツよ目覚めよ!」は「目覚めよ、夜明けは近づいた」という大合唱からの引用である。 1935年の党大会は「自由の党大会」とされ、ニュルンベルク法が公布されたのであるが、ここでのワグナーの音楽はどうだったであろうか。 ニュルンベルクの全教会の鐘が鳴り響く中、総統が「帝国の剣」(神聖ローマ皇帝が帯びる儀式用の剣)の複製受け取るために市庁舎に入ると”マイスター”の『目覚めよ!』の合唱が歌われた。晩になると、ヒトラーはフルトヴェングラー(戦後も巨匠と呼ばれて世界的に崇拝された指揮者)による”マイスター”の特別公演に出席した。上演後、フルトヴェングラーに「枢密顧問殿、われわれの本当の民族オペラである、この『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を心からお祝いします。」とヒトラーは述べている。そして、この党大会は『ニーベルンゲン・マーチ』と『リエンツィ序曲』で締めくくられるという具合である。 ニュルンベルクはナチスの聖地でありかつバイロイトと並んでワグナーの聖地でもあるわけだが、ヒトラーはここでもワグナーの意志の体現者としてシナゴーグ(ユダヤ教会)の破壊を実行している。 それから半世紀以上経って、1938.8月、ヒトラーの命令でこのシナゴーグは破壊されたのである。さらに同年11.9日には全国のシナゴーグが燃やされた。まさにヒトラーはワグナーの忠実な弟子だったわけである。 |
(私論.私見)