9期 | ヒトラー没後の動き |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).6.12日
この前は、「第二次世界大戦末期、第三帝国解体の経緯」
(れんだいこのショートメッセージ) |
【ナチス党解散させられる】 |
1945年ドイツが連合軍に降伏するとナチ党は事実上解散、同年9.10日には法律によって禁止され、「犯罪的な組織」と認定された。現在もドイツ国内では「反ナチ法」によって、出版物・装備品復刻、礼式を真似るなど賛美につながる一切の行為が禁じられている。 |
7.7日、ポツダム会談 (~08/02)。
8.8日、ソ連、対日参戦 (08/09 満州侵攻開始)。
【 ニュルンベルク国際軍事裁判】 |
1945.11.20日、 ニュルンベルク国際軍事裁判開廷 (~46/10/01)。 1946.10.01日、 ニュルンベルク国際軍事裁判判決。 10.15日、ゲーリング(ドイツA級戦犯)自殺。 |
【 その後の出来事】 |
1970(昭和45).3.13日、ユーリ・アンドロポフKGB議長が、ヒトラー夫妻とヨーゼフ・ゲッベルス一家の遺体10体を完全に焼却し、遺灰を空中散布することをレオニード・ブレジネフ最高会議議長に提案。4月5日未明、極秘計画「アルヒーフ(古文書)」遺灰の空中散布を実施。 |
【ヒトラーの遺体を廻る憶測】 |
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/chronicle/1939_45_5.html 1945年4月 しかしヒトラーの死の直後は、様々な情報が飛び交った。ハンブルクのラジオ放送で、後継者に指名された海軍総司令官デーニッツは、ヒトラーが自殺したことを隠し「ヒトラーは司令室でロシア軍と最後まで戦って死んだ」と国民に呼びかけた。パリ・プレス紙では戦争続行についての意見の食い違いで部下に爆弾を仕掛けられ殺されたと報じたり、他に、昨年の暗殺計画によってヒトラーは既に殺されていたという説や、ユダヤ人に誘拐され殺された説、脳血栓を起こして死んでいたという説まで諸説が登場した。 このように諸説報じられたのも、最初に遺体確認作業をしたソ連の赤軍防諜組織スメルシュやKGB関係者に対しスターリンが徹底した箝口(かんこう)令を敷いたことにより、ヒトラーの死が謎とされてしまったことによる。 そして、ついに生存説まで登場する。タイム誌(1945年5月7日号)では、フリー・ジャーマン・プレス・サービス(FGPS)の報道としてヒトラー影武者説を掲載した。それによるとベルリンにいたヒトラーは、実は顔がそっくりなだけの食料品店主の別人で、本物のヒトラーは逃亡しているとした。他にニューヨーク・タイムス紙(1947年10月6日付)では、スウェーデンのティデニンガルナス・テレグラムビラ通信の報道としてヒトラーは飛行機でデンマークに渡ったと報じた。 特にソ連首相スターリンは、ドイツ降伏直後の5月26日にモスクワを訪れたトルーマン米大統領の特使ハリー・ホプキンズに「ヒトラーはボルマンと逃亡した」と言い、ポツダム会談でも繰り返し一貫してヒトラー逃亡説を語って英米指導者たちを困惑させている。 生存説はやがてナチス再興の恐怖となって語られるようになる。その根拠としてあげられるのが、1943年にドイツ海軍長官デーニッツが「Uボート艦隊は世界のある場所にこの世の天国と同時に難攻不落の砦を築いたことを誇りとする」と宣言していること。そして1945年2月25日、ヒトラーがラジオ放送を通じて語ったラスト・バタリオン(最後の部隊)である。「まもなく東(ソ連)と西(アメリカ)がぶつかりあう日が来るが、そのとき、その結果を左右する決定的な役割を演じるのがこのラスト・バタリアンのドイツ軍である」という演説である。 さらにこれらを裏付けるかのような出来事が発覚する。終戦2カ月後の1945年7月、ドイツの最新型潜水艦Uボートが南米アルゼンチンのブエノスアイレス港に侵入し捕獲された、と西側諸国の新聞各紙がトップで報じた。Uボートはノルウエーのクリスチャンサンドから5月2日に出港した大護送船団の一部で、大量の食糧とタバコを積んでいたという。別の日には別のUボートがアルゼンチンで1隻、ポルトガルで1隻捕獲されている。乗組員には、目的も行き先も明かされていなかった。デーニッツの言う「世界のある場所」とはどこなのか? 果たして難攻不落の基地が存在するのか? Uボートはどこへ行き何をしようとしていたのか? など、謎は多い。 ヒトラーの死の謎は、スターリンの死去した1953年以降も伏せられたままだった。ヒトラーが消えて50年後にあたる1995年4月になってもなお、英独のマスコミはヒトラーの他殺説や影武者説など死にまつわる諸説を取り上げ報じている。 そんななか、第2次世界大戦中は赤軍将校で参戦し戦後は歴史学博士号を持つジャーナリストとして活躍したレフ・ベジメンスキーが、KGB公文書や遺体発掘にかかわった兵士へのインタビューなどをまとめた本『ヒトラーは何回葬られたか?』を1995年に出版した。それによると、中庭で発見しヒトラーの遺体を思われたものは、5月5日になってヒトラーの影武者で別人のものと判明。一方、はじめ別人と考えられ埋葬されていた焼けこげの遺体を掘り起こし、5月8日に遺体の義歯からヒトラー本人と確認されたという。その後も遺体はベルリン北部に一度は埋葬されるものの、確認のため再び掘り起こすという作業が8回も繰り返されている。そして最後には旧東ドイツのマクデブルクのソ連軍基地に埋葬されていたが、1970年、基地返還にともなって遺体は完全に灰にされ空中にまかれたという。 |
(私論.私見)