8期 | 第二次世界大戦末期、第三帝国解体の経緯 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).6.12日
この前は、「第二次世界大戦緒戦期、中盤期までの歩み」
(れんだいこのショートメッセージ) |
1945(昭和20)年、ヒトラー56歳の時 |
1.1日、ドイツ空軍は「ボーデンプラッテ」作戦を開始、連合軍の航空基地を奇襲し約400機を撃墜破したが、悪天候と搭乗員の練度不足や連合軍の反撃でほぼ同数を失い空軍も戦力を失った。
1.8日、ヒトラーは撤退を許すが多くの部隊は失われていた。
1.17日、ワルシャワ前面で停止していたソ連軍が、廃虚となったワルシャワを攻略。東プロイセンからダンチヒ(現グダニスク)を目指す。西部の攻勢で手薄になった東部戦線は有効な抵抗ができなかった。ソ連兵は住民たちに略奪暴行の限りをつくし歴史的復讐を果たした。
1.23日、サン・ヴィットを連合軍が奪回、ドイツ軍は攻勢を開始した地点まで押し戻されていた。この作戦でドイツ軍は戦死、負傷、行方不明約8万。連合軍約7万7千の損害を出した。双方約800両の戦車を失ったが連合軍は簡単に補充できたのに対し、ドイツ軍には損失を補充する生産力はなかった。ドイツ軍最後の攻勢は頓挫し、西部戦線では連合軍の進撃を遅らせる効果はあったものの無理に兵力を投入したため、東部戦線が手薄になりソ連軍の進撃を早める結果となった。
1.25日、SS長官ヒムラーは、創設されたヴァイクセル軍集団の司令官に収まりソ連軍を迎え撃つ。当初精強を誇ったSS部隊もすでに消耗し、新編された部隊は戦闘経験に乏しくかき集められた軍集団の陸軍、国民突撃隊はばらばらに配置され、実戦経験のないヒムラーの担当した戦線はたちまち突破された。
1.30日、ヒトラーはこの日のラジオ演説を最後にしており、以降はやめている。
【ヤルタ会談始まる】 |
2.4日、ヤルタ会談。 2.11日、ヤルタ協定 (スターリン、対日参戦を約束)。
2.12日、アメリカ、イギリス、ソ連の連合国首脳はクリミア半島のヤルタで会談し、戦後の連合国の勢力圏を決めドイツの無条件降伏を要求した。体調を崩していたアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはスターリンの要求に大幅に譲歩し、東ヨーロッパでのソ連の優越権を認めた。 |
2.13日夜、ドイツ東部のドレスデンをイギリス軍爆撃機が爆撃。ドレスデンにはソ連軍の侵攻を避けて、大量の避難民が市内に流入していた。翌日にはアメリカ軍爆撃機が再び爆撃を加えた。この人口密集地への無差別爆撃によって大火災が発生し、ザクセン王国以来の歴史的建造物も焼失。3万から13万(住所が登録されていない避難民の犠牲者を確定できないため)の市民が死亡した。
2.13日、日ハンガリーのブダペストが陥落。
3月、ヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去る他ない」と述べ、連合軍の侵攻が近い地域の全生産施設を破壊するよう「焦土命令」または「ネロ指令」と呼ばれる命令を発するがこれは軍需相アルベルト・シュペーアによってほぼ回避された。
3.5日、ドイツは満16歳の男子の徴兵を始める。
3.5日、ケルンを占領したアメリカ第1軍(コートニー・ホッジス中将)が7日ライン河にただ一つ、破壊されずに残っていたレイマーゲンのルーデンドルフ橋から侵入、ドイツ軍はジェット爆撃機、V2、スコルツェニーの特殊部隊まで投入して橋を落とそうとするが失敗する。
3.6日、ヒトラーはハンガリーでソ連軍へ反攻を命じ「春のめざめ」作戦を開始した。ドナウ河の西にいるソ連第3ウクライナ戦線正面軍を攻撃してブダペストの奪回とハンガリーの油田の確保を目指した。しかし投入された第6SS装甲軍はアルデンヌの攻勢で疲弊した部隊で、作戦はソ連軍に察知されていた。3.15日までにドイツ軍はバラトン湖付近から雪解けの泥の中を約30キロ前進しただけで、ソ連軍の反撃を受け逆に包囲され退却した。
ヒトラーは自分の名を冠したSS連隊「アドルフ・ヒトラー」が後退したことに怒り、同連隊に袖章を外すよう命令。兵士は袖章を外して溲瓶に詰めたり、戦死者の腕ごと送り返した。
3.19日、ヒトラーは「焦土作戦」を命令し、撤退の際には全ての産業施設、生活基盤を破壊し敵に渡さないよう命じた。シュペーア軍需相は「将来の国民生活の基盤までを破壊する事は出来ない」と反対したが「戦争に負ければ国民もおしまいだ、ドイツ国民が最低生活になにが必要か考える必要は無い。わが国民は弱者であることが証明され、未来は強力な東方国家(ソ連)に属することになるからだ。いずれにせよ優秀な人間はこの戦争で死んでしまったから生き残るのは劣った人間だけだろう」と述べ、命令の撤回に応じなかったとされている。実際にはこの命令はシュペーア軍需相の努力でドイツ国内の現場ではかなりサボタージュされた。
3.22日、モントゴメリーのイギリス・カナダ軍がマインツ付近でライン河を渡河した。3.28日、ヒトラーと作戦を巡り激しく論争したグデーリアンは、6週間の休養を命じられ事実上解任される。
3月、グデーリアンはしぶるヒトラーを説得してヒムラーを軍の指揮から外させた。
「第5回 ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕 ドイツ・ベルリン」。 総統地下壕はビルヘルム通り77番地の旧総統官邸の地下にあり、出入り口は総統官邸の庭に設けられた。地下施設の建設は、1936年からと1943年からの2回に分けて行われた。もともとは空襲を避けるための防空壕だったが、戦況が不利になるにつれ、地上の官邸に替えて司令室として使うようになった。地下壕の施設は上下2階に分かれ、階段でつながっている。各階に鉄のドアと隔壁があって、必要に応じて往来を遮断できるようになっていた。ヒトラーはおもに地下約15メートルの下の階にいたという。地下壕の上部は強化コンクリートでおおわれており、中央の通路に沿って18ほどの部屋に仕切られていた。ヒトラーとその愛人のエバ・ブラウンは官邸から家具を持ち込み、6部屋を使ってともに暮らしていた。地図室、談話室、複数の警備室のほか、ヒトラーの私設秘書ボルマン、広報大臣ゲッベルスの一家や選ばれたヒトラーの取り巻きの部屋もあった。 1945年4月半ばにベルリンの戦いが始まったときには、ヒトラーはすでに地下壕に移動していた。過度の猜疑心から精神を病み、妄想を抱くようになっていたヒトラーは、非現実的な勝利への望みにしがみついていた。 ヒトラーが最後に地上に姿を見せたのは4月20日、ヒトラーユーゲントに鉄十字勲章を授けるためだった。その9日後、地図室でエバ・ブラウンと結婚し、遺言を書き取らせた。翌日、新婚の夫妻は地下壕内で自殺し、非常口の一つの前にあった砲弾の炸裂孔の中で火葬された。その翌日には、ゲッベルスと妻のマグダが子どもたちを道連れにして自殺した。5月2日、ソ連軍は十数体の遺体が横たわった地下壕を発見した。 ■隠蔽された遺構その後、地上にある官邸の建物は完全に破壊されたが、総統地下壕は多少水がたまっただけで大きな破壊からは免れた。戦後のドイツ政府は、総統地下壕がネオナチの聖地となることがないよう、常に注意を怠らずにいる。 まずは1947年、ソ連が地下壕を完全に爆破しようとしたが、大きく壊れたのは部屋を仕切る壁だけだった。戦後は地下壕の大部分が東ドイツの領域となり、鉄のカーテンの向こう側に隠されたことが幸いして、地下壕は歴史の記録から抹消された。1959年にも地下壕の残存部分を爆破しようとして失敗、放置されたまま人々の記憶からほとんど消えた。 1980年代、ビルの建設工事に伴って総統地下壕のコンクリートの天蓋が密かに壊された。1990年、東西ドイツの統一を祝して催されたピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズのコンサート準備中に地下壕の残存部分が発見されたが、ベルリン当局が素早く対応し、その存在を隠した。その後の道路とビルの建設計画(地域の行政官の住宅の建設を含む)によって、地下の残存部分はさらに隠蔽された。1990年代ベルリンの観光客の多くが訪れた案内所「インフォボックス」でさえ、ごく近くにある地下壕跡には触れずにいた。 ドイツ政府は一貫してその存在を無視してきたが、時が経るにつれ、地下壕の跡を知ることが、かつての主を称えることにはならないとの声が強まってきた。戦争にかかわる他の重要な場所、例えばアウシュビッツ・ビルケナウの強制収容所や、ナチス親衛隊とゲシュタポの本部跡にある「テロのトポグラフィー博物館」は、当時を知らない世代にナチス時代の恐ろしさを伝える役割を果たしている。総統地下壕の施設がどの程度残っているかは不明だが、一部でも残っていれば、歴史の教訓を伝えるために公開される日がくるかもしれない。今のところは、ホロコースト記念碑からわずか200メートルの閑散とした駐車場の真ん中に、地下壕の位置を示す2006年に立てられた看板がひっそりとあるだけだ。 |
4.5日、ソ連軍がベルリンに迫る中、ソ連軍の主目標はチェコのプラハだとして装甲部隊のうち4個部隊を南に移動させた。
4.12日、アメリカ大統領ルーズベルトが死去。ゲッベルスはプロイセンのフリードリヒ大王(2世)がロシアのエリザヴェータ女帝の死で窮地を脱した故事(7年戦争、1756~63年)になぞらえ奇跡の再現だと語った。
4.18日、ルールでアメリカ第1、9軍に包囲されたドイツB軍集団32万5千が降伏しモーデル元帥は自決。
ソ連軍は4月中旬にはオデール・ナイセ線まで進出する。4.11日、オーストリアのウィーンを占領、4.14日、ジューコフ元帥のソ連軍第1白ロシア軍集団はオデール川を渡河しベルリンに迫る、南からはイワン・コーニェフ元帥の第1ウクライナ軍集団がナイセ河を渡った。4.20日、ソ連軍の砲撃が既に爆撃で大部分が破壊されたベルリンに加えられた。
4.25日、ソ連軍はベルリンを包囲し、ソ連軍第58狙撃師団とアメリカ軍第65歩兵師団の兵士はエルベ川畔トルガウで出会い両軍兵士が交歓した。ベルリンは東西から包囲され、アメリカ軍は中部ドイツを攻撃することになり、首都攻略はソ連軍に任される。
事実上の(ゲッベルスは1月30日「ベルリン防衛総監」に任命されていた)ベルリン防衛責任者ゴットハルト・ハインリーチ上級大将は、ベルリンを守るのにわずか2個軍しか持っていなかった。北部の第3装甲軍(マントイフェル)と第9軍(テオドル・ブッセ)でしかもほとんどの部隊は定数や装備を満たしておらず地図上に存在するだけだった。そして第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」、第33武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」、第15武装擲弾兵師団「ラトビア第1」といった外国人の部隊が含まれていた。これも師団とは名ばかりで合計1千名ほどだった。しかし、パンツァーファウスト(簡便な携帯型対戦車ロケット兵器)を手にしたヒトラーユーゲントの少年や外国人の部隊はむしろ勇敢に戦った。彼らはドイツが負ければ祖国から裏切り者として処刑されるのが分かっていた。ベルリンで最後まで戦ったドイツ軍が外国人部隊だったことになる。
ヒトラーはまだドイツ軍が保持する南部に包囲前に逃れることも出来たが、ソ連軍に包囲された第3帝国の首都ベルリンを去ろうとしなかった。ヒトラーらは連合軍がソ連と米英の勢力争いから分裂することに望みを託していた。「明日敵が仲たがいするかもしれないというときに、今日わたしが戦争をやめるとしたら、ドイツ国民と歴史は必ずやわたしに犯罪者の烙印をおすだろう」。
【「ヒトラーがドイツ国民向け最後に行ったラジオ演説】 | |
4月、「ヒトラーがドイツ国民向け最後に行ったラジオ演説の一部」が、「ヒトラー最高幹部の予言」に収録されているので紹介しておく。
ここで空襲警報のサイレンがけたたましく入った。そのためヒトラー最後の放送も、ここでプツンと途絶えてしまった。その日が1945年の4月2日だったなら、彼はこのあとなお、4週間ほど生きる。しかしともかく、彼の国民への最後の呼びかけは、こういう重大で狂おしい、しかし不完全な形で終わってしまったのだ、とある。 |
4.5日、ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告した。
4.20日、56歳の誕生日を迎えたヒトラーは総統官邸地下壕の外に出て、ベルリン防衛に従事するヒトラーユーゲントの少年兵を激励し勲章を授ける。この際のムービーフィルムでは健康を害した彼の左手はひどく震えている。総統官邸はベルリン改造計画の一環として、建築総監シュペーアが38年に設計して竣工したものでコンクリートの耐弾構造になっており、地下15mの防空壕は爆撃にも耐えられるようになっていた。この後彼は地下壕から出る事はなかった。
ヒトラーは禁煙、禁酒家で菜食だったが主治医テオドール・モレルの調合した多くの薬を服用した。それらは即効性がある代わりに有害な成分を含み、健康をさらに蝕んだ。またパーキンソン病を患っていた、ウィーン時代に感染した梅毒が悪化したとする説もある。
夜には誕生日を祝うパーティーが開かれた、ゲーリング、リーベントロップ、カイテル、党官房長マルチン・ボルマンが祝辞を述べ、14日に自らの意志で安全な地域から官邸に来ていたエバ・ブラウンも列席した。この後ゲーリング、リーベントロップらがベルリンを離れた。ボルマンはヒトラーにベルヒテスガーデンの大本営に移るよう進言したが「自分はベルリンに残る、移りたいものは勝手にゆくがよい、咎めはしない」と断った。「自分が首都から逃げ出していたら、他人を責める資格はない。わたしはいまや運命の命ずるところに従わねばならない。助かる見込みがあるとしても、わたしはそうするつもりはない。船長もまたこの船と運命を共にする」。
4.21日、ヒトラーはソ連軍に対する反撃を命令、空軍の地上勤務兵、事務職まで1人残らず投入させようとするが、既に兵力はなかった。ヒトラーはベルリンの北に配置したフェリックス・シュタイナーSS大将指揮のSS部隊に対し反撃を命令し「この命令に無条件に従うことを拒否した将校は、即座に銃殺刑に処す、シュタイナー将軍はこの命令の遂行に責任を負わなければならない」と直接命令したが、兵力はヒトラーの地図上に存在していただけで、この部隊自体が包囲されており、シュタイナーは積極的な攻撃をしなかった。 英米軍と対峙し南西からベルリン救援を命じられた第12軍(ヴァルター・ヴェンク)もポツダムまで進出し、兵士や市民の西への脱出路を援護するのがやっとであった。
4.22日、 ソ連軍戦車隊、ベルリン市街に突入。
4.22日、バイエルンのベルヒテスガーデンにいたゲーリングは、ヒトラーが正気を失い空軍参謀長コラーに「交渉になったら、ゲーリングの方が自分よりうまくやる」と発言したことを聞き、ヒトラーに全ドイツの権限委譲を電報で求めた(ゲーリングは41年にヒトラーの後継者に定められていた)。この電報を受けたヒトラーは当初冷静だったが、ゲーリングの政治的ライバルであるボルマンはこれは反逆であるとして批判した。
4.25日、ベルリン放送はゲーリングの一切の職務からの解任を発表、ゲーリングはSSに逮捕された。ヒトラーはゲーリングの行動を裏切りと判断したことによる(逮捕命令はボルマンの独断とする説も)。空軍大臣にはフォン・グライムを元帥に昇進させ指名した。
4.26日、グライムは女性飛行家ハンナ・ライチと共に連絡機でガトウ飛行場から戦闘の最中にベルリンにやってきた。が、ベルリン上空で対空砲火で足に負傷、とっさにハンナが操縦を代わり機をブランデンブルグ門近くに着陸させた。ヒトラーはライチの勇気を称賛し「君はなんと勇敢な女性だろう。この世には、まだ忠誠心や勇気が残っているのか」と話した。
しかし、腹心であるSS長官ヒムラーもヒトラーを見限った。ヒムラーはスウェーデン赤十字のフォルケ・ベルナドッテ伯爵を通じて西側連合国と和平を画策したが、チャーチルとアメリカ大統領ハリー・トルーマンは西側だけの停戦を拒否、ソ連を含む全連合国への無条件降伏を求めたため交渉は決裂した。連合軍の放送でヒムラーの背信を知ったヒトラーは、ベルリンから逃れようとしていたヒムラーの連絡将校ヘルマン・フェーゲラインSS中将を反逆の共犯として軍法会議にかけ官邸の庭で射殺した。フェーゲラインの妻はエバ・ブラウンの妹だった。
4.27日、ムッソリーニ逮捕 (04/28 銃殺)。
4.28日夜、ヒトラーは、グライムとハンナに「今度はヒムラーが裏切った、貴官らはベルリンから脱出してヒムラーを逮捕せよ」と命じ、自分の脱出用に用意されていた最後の連絡機を2人に提供した。ハンナの操縦する連絡機「アラド96」は砲撃で穴だらけになった東西枢軸通りを巧みに縫って離陸、対空砲火をかわして炎上するベルリンを脱出した。
ヒトラーは遺書を秘書のトラウトル・ユンゲにタイプさせ戦争の継続を命じ、ゲーリング、ヒムラーを党から追放。SS長官にカール・ハンケ、第3帝国の首相にゲッベルス、大統領兼国防軍最高司令官にフレンスブルクの海軍潜水艦隊司令部にいるカール・デーニッツ提督を充て、NSDAP党首と個人遺言の執行人にボルマンを指名した。
4.28日深夜から29日早朝、ヒトラーは、首都ベルリンへのソ連軍侵攻を目前にして、長年愛人関係にあった33歳のエヴァ・ブラウンとの結婚式を、市職員ヴァルター・ワーグナーの立ち会いで地下壕の小会議室で行った(結婚証明書の日付は29日)。エバは長い間存在を知られないように孤独に耐えていた女性だった。ヒトラーは「私は既にドイツと結婚している」と語り、結婚は職務の邪魔になると考えていたが、今や彼の率いるべき第3帝国は滅びようとしていた。ヒトラーはエバの長年の献身に報いるため最後に正式に結婚したことになる。この時、エヴァは、とうとう結婚できた幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語った、と伝えられている。ささやかな披露宴が開かれ側近たちが祝福を述べた。翌正午ごろ起床したエバは「お嬢様」と呼びかけた当番兵に微笑を浮かべて「もうヒトラー夫人と呼んでいいのよ」と答えた。
ヒトラーは、ささやかな披露宴のかたわら、接見室で秘書に遺言状を口述筆記させている。次のように述べたと云われている。
「特に私は国民の指導者とその民に対し、人種法の厳守と世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し、容赦の無い抵抗を果たすよう義務付けるものである」。 |
4.28日、ソ連軍は総統官邸まで1キロ以内に迫る。
4.29日、イタリアのドイツ軍が降伏。スイスに逃れようとしたムソリーニはパルチザンに捕らえられて射殺され遺体はミラノで吊された。
4.30日、ヒトラーは部屋に掛けていたフリードリヒ大王の肖像画を総統専用機の操縦士ハンス・バウルに贈り、側近や秘書と静かに握手を交わして別れを告げた。午後3時50分(時刻は諸説あり)、エバと2人で部屋に入ったヒトラーは拳銃(ワルサーPPK)で頭を撃ち抜き自決、エバは青酸カリのカプセルを服用した。この前ヒトラーは愛犬のブロンディを毒殺させ、自身とエバの死体を見分けがつかぬように焼却するよう命じた。
この頃、ドイツの首都ベルリンはソ連軍に包囲され陥落寸前であった。総統官邸は通信網が寸断され孤立しており、ゲーリングやヒムラーといった後継者とされた人物が次々とベルリンを離れていた。ヒトラーは官邸の地下15m、厚さ2m以上のコンクリートの壁で守られた防空壕で、わずかな腹心と踏みとどまっていた。もはや戦局は明らかだった。
【ヒトラー自殺】 |
4.30日午後2時、ヒトラーは残った幹部を食堂に集め一人一人に無言で握手してまわり、エバ・ブラウンと自室に入った。やがて銃声が聞こえた。ヒトラーは、総統官邸地下壕において妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。その際ヒトラーは拳銃を用いたが、エヴァは毒を仰いだ、と伝えられている。 遺体が連合軍の手に渡るのを恐れたヒトラーの遺体はガソリンをかけて焼却されたため、その死亡は証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだったため西側諸国にとっては不可解な部分が残り、後にヒトラー生存説が唱えられる原因となった。 ヒトラーの秘書ハインツ・リンゲとルートヴィヒ・シュトムフェッガー医師はSS隊員と共にヒトラーの死体を地下壕から運び出した、エバの遺体はオットー・ギュンシェ少佐が運んだ。2つの遺体は外の砲撃で出来た穴に入れられゲッベルス、ボルマンの見守るなか、ガソリンをかけて焼かれた。ボルマンが遺体の始末を引き受け、リンゲはヒトラーの遺品を焼却するため場を離れた。あとでリンゲは遺体はSS隊員がどこかへ運んで埋葬してしまったと聞かされた。 |
首相に就任したゲッベルスはソ連軍と停戦の交渉をするためロシア語の話せるハンス・クレープス中将とヴァイトリングの参謀長フォン・ドフヴィングをソ連軍陣地に向かわせた、ソ連軍は部分的停戦を拒否し無条件降伏を求めた。ゲッベルスは怒りヒトラーの後を追うことにした。
5.1日、ゲッベルスは6人の子供を薬物注射で殺すと、SS隊員に自身と妻マクダを射殺するよう命じた。「総統をとりまく裏切りの中で、死にいたるまで総統に忠実であった人間が一人くらいいても良いのではないだろうか、もし私がそうしなかったら軽蔑すべき裏切り者として以後の人生を生きねばならないのだ」。
翌日朝、ソ連軍第8親衛軍の兵士が総統官邸に突入、中庭に黒焦げの死体がくすぶっているのを発見した。ゲッベルスの遺体も焼却されていたが、不完全だったのでソ連軍によって確認された。しかしヒトラーの遺体は確認が出来なかったか、あるいは意図的にスターリンが隠したため、脱出説を含めた謎を生んでいる。今日、ヒトラーの頭蓋骨とされるものがモスクワの公文書館に保管されている。
官邸に残っていたものはブルクドルフ、クレープス両将軍が自決。ヒトラーの遺書を携えたボルマンとヒトラーユーゲント総裁アルトゥール・アックスマンらがベルリン脱出を図る。ボルマンはヴァイデンダマー橋付近で戦車の爆発で死んだ(73年西独検察が公式にはレールター駅付近)とされるがそのまま行方をくらました。シュトムフェッガー医師が銃撃で死亡、ギュンシェ、リンゲ、バウルはソ連軍の捕虜になった。アックスマンは脱出に成功しのちにバイエルンで連合軍に逮捕される。
【ヒトラーの遺体】 |
5.1日、総統官邸に突入したソ連軍が遺体を発見。5.8日、ヒトラー直属の歯科技工士、カーテ・ホイザーマンによってヒトラーとエヴァ・ヒトラー(エヴァ・ブラウン)の遺体が確認される。遺体は解剖後、歯や頭蓋骨の一部を写真撮影をし、ベルリン北部の町に埋葬された。再確認のために再び発掘され、歯だけが取りはずされてモスクワへ運ばれる。ソ連軍防諜部隊(スメルシュ)の駐留地移転に伴い、7回改葬される。8回目は旧東ドイツのマグデブルクにあったソ連軍防諜部隊基地のコンクリートで固めた裏庭に埋葬されたが、基地が東ドイツに返還されることになり発掘される。 |
5.1日のメーデーまでに帝国議会(国会議事堂)に赤旗を立てようとするソ連軍と、立てこもるSS隊員との間では激戦が行われた。5.1日、ドイツの放送局はワーグナー作曲「神々の黄昏」送葬行進曲に続いて「総統は最後の瞬間までボルェシェビズムに対する戦いを続けながら本日午後(意図的な日にちの誤り)総統官邸の司令部においてドイツのために倒れました、後継はデーニッツ海軍元帥…」とヒトラーの死を発表。
5.2日、ベルリン防衛軍司令官カール・グァイトリング大将(第56戦車軍団司令官、この6日前にハインリーチの後任となった)はソ連軍ワシリー・チュイコフ元帥にベルリンの降伏を伝え、戦闘停止を命令した。生き残った兵士は西側占領地区で降伏しようと西へ向かった、ソ連軍の捕虜になることはより過酷な報復を受けることを意味した。
5.4日午前、フランスのアイゼンハワー司令部のあった学校で、ドイツ軍ヨードル元帥は無条件降伏。
【ドイツ、無条件降伏】 | |
5.7日、 ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)。 | |
2020.6.11日、「ドイツは2度降伏した、第二次大戦の知られざる真実」。
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5.8日、ベルリンでも調印式が行われカイテル元帥は無条件降伏文書に署名した。チャーチルとアメリカ大統領トルーマンは5.8日をヨーロッパ戦争勝利の日(VEデー)とした。ヒトラーの千年帝国、第3帝国は12年3カ月で終わった。
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この後は、「ヒトラー没後の動き」
(私論.私見)