7期 | 第二次世界大戦中盤期、終盤期までの歩み |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).1.18日
この前は、「第二次世界大戦緒戦期、中盤期までの歩み」
(れんだいこのショートメッセージ) |
1939(昭 |
【ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻】 |
6.22日、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破り、ソ連に侵攻。モスクワ攻略作戦(バルバロッサ、台風作戦)発動(「独ソ戦開始」)。作戦開始はバルカン作戦のため当初予定から遅れ、きしくも1812.6.24日のフランス皇帝ナポレオン1世のロシア遠征とほぼ同じ日になった。ヨーロッパの大半を手中に収めたナチスドイツは1941.6月、独ソ不可侵条約を破棄してソ連領内に電撃的に侵攻、スターリンをあわてさせる。独ソ戦の始まりである。 |
6.22日、コンピエーヌでのフランスとの休戦協定調印に出席。6.23日、パリを訪れる。エッフェル塔、廃兵院、ノートル・ダム寺院、オペラ座、モンマルトルの丘等を訪問。ナポレオン1世の棺を見学(棺の上に帽子を置き感慨深げに見守ったと伝えられる)。レ=アルの商品取引所の円屋根を指して、「あれは取引所だろう」と指摘したと言われる。オペラ座についても抜群の知識を有し、建築された当時の楕円形ホールの存在を指摘したと言われる。(あまりにパリについて詳しいので、パリを訪れたのは一時期パリに在住していたヒトラーの異母兄であったとする影武者説もある)
6.27日、中央軍集団はビャリストク、ミンスクでソ連西方軍50万を包囲し、32個歩兵師団、8個戦車師団を壊滅し。戦車2585両、砲1500門、航空機250機を破壊もしくは捕獲、29万の捕虜と大量の物資を得た。ソ連西戦線正面軍パヴロフ大将は敗戦の責を負わされ銃殺される。
7.15日、スターリンはドイツ軍を迎え撃つレニングラード司令官にゲオルギー・ジューコフ大将を任命した。しかしヒトラーは兵力を南方へ転用するためレニングラード攻略を停止、同市を包囲下においた(同市は44年1月まで包囲に耐え抜いた)。
7月末、ドイツ軍は、モスクワまで320キロまで到達する。北方軍集団はバルト3国を占領し8月13日ノブゴロドに到着、9月4日にレニングラード攻撃が開始され市内には砲撃と爆撃が加えられた。
8月、ヒトラーは中央軍集団にモスクワへの進撃を中止させ、南のウクライナ、コーカサス方面を先に攻略するよう命令した。ヒトラーは首都モスクワより南方の穀倉地帯、油田を手に入れるのが先だと判断したのである。グデーリアン、ボックら将軍達はモスクワ進撃を主張するが、ヒトラーの意志は変わらなかった。
戦局は当初ドイツ側が優勢で、前線はモスクワ近郊まで迫っていた。しかし例年より早く訪れた(ナポレオンを敗退させた)「冬将軍」でドイツ軍の進撃は鈍り、さらに翌年9月からシベリアから投入されたソ連軍の精鋭部隊による総攻撃にあい(スターリングラード〔現ヴォルゴグラード〕の攻防)、約5ヶ月にわたる激戦で、ドイツ軍の最精鋭部隊20万は壊滅、戦局はソ連有利に傾き始める。やがてソ連軍は反撃に転じ、ナチ占領以下のソ連領内はもとよりポーランドやバルカン半島にも進撃を始める。
緒戦はドイツの圧勝であったが、「冬将軍」などの気象条件の悪化により、ソ連を打倒できなかった。
8.2日、アメリカ、対ソ経済援助開始。8.14日、大西洋憲章 (米英共同宣言)。
8.26日、ドイツ中央軍の第2装甲軍がノブゴロドでジェスナ河に橋頭堡を築いた。
9.11日、南方軍の第1装甲軍がドニエプル河を渡河。
9.14日、南方軍のクライスト将軍の第1装甲師団と南下した中央軍グデーリアン上級大将の部隊とがキエフ東方で出会い、ソ連南西方面部隊50個師団を包囲した。ソ連軍司令官はキエフ放棄と撤退を求めたがスターリンは死守を命令、数日後撤退を許可するが、既に手後れとなりソ連軍は包囲され将兵は絶望的な抵抗を行った。
9.26日、キエフ陥落。スターリンの恐怖政治下で苦しんでいたウクライナ人の中にはドイツ軍を解放者として歓迎する住民も多かった。ソ連軍の戦死・捕虜は57万7千人(ソ連側発表)、戦車1万8千両の損害を蒙った。ヒトラーの作戦は一応戦闘では勝利を納めた。
しかし、ドイツの2倍に当たる1億7千万人の国民を持ち人的資源に優るソ連は、訓練不足ながら続々と兵士を前線に投入し、軍需工場をドイツ空軍の攻撃圏外であるウラル地方へ疎開させた。イギリス、アメリカは兵器・戦略物資を援助する。「我々は、敵の師団を約200と踏んでいた。いまやすでに360を数えている、10個師団を撃破すると敵は新たな10個師団を投入してくる」(参謀総長フランツ・ハルダーの8月の日記)。
9.30日、ヒトラーは将軍達の主張を聞きモスクワ侵攻作戦「あらし」を発動。
【アウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人絶滅政策稼動】 |
9月、アウシュヴィッツ〔Auschwitz ポーランド南部の都市オシベンチムのドイツ名。1939年9月3日にドイツによって占領され、その約1ヶ月後の10月8日に「第3帝国」に統合され、アウシュビッツになった〕で、毒ガスによる虐殺実験か行われた、とされている。以来、アウシュビッツ収容所だけで150万人の命が奪われ、ユダヤ人犠牲者は総計すれば600万人に及ぶ、と伝えられている。この数は、第2次大戦中の日本の戦死・行方不明者〔軍人・軍属〕240万人〔一般市民・原爆被害者を含める約310万人〕に比しても驚愕すべき虐殺数である。 |
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10.2日、ドイツ軍、モスクワ攻略作戦(台風作戦)発動。
10.3日、ヒトラーの演説「私は何の留保条件もつけることなく、東方の敵(ソ連)は打ち倒され、再び起き上がることがないと言える」。
10.6日、ドイツ軍はモスクワ防衛線を突破してブリヤンスクを占領。
10.13日、モスクワまで149キロのカリーニンが陥落。ドイツ軍は1812年ナポレオン軍がロシア軍を破りモスクワへの道を開いた古戦場ボロジノへと進む。スターリンは極東から転用した1個師団を防衛に投入、ドイツ軍は果敢な抵抗に大きな損害を出しながらボロジノを奪う。モスクワではレーニンの遺体が搬出され、政府機関が書類を焼却、市民が塹壕ほりや速成訓練で防衛隊に動員された。
11.7日、ナポレオンに敗れたクゥトーゾフはモスクワを放棄したが、スターリンはこの日、ドイツ軍の砲声が聞こえる「赤の広場」で革命記念日のパレードを行い、ノモンハンで日本軍を撃破したジューコフをモスクワ防衛に呼び踏みとどまっていた。
ところがここにきてドイツ軍の進撃速度は鈍ってきた、作戦が遅れるうちにロシアのステップは雨季に入り、秋の雨は舗装の無い道路をぬかるませ自動車はもちろん、戦車さえも泥にはまって動きがとれなかったのである、また補給線は伸び切り、損傷した戦車や戦闘車両はドイツ本国に送り返さねば修理できなかった。ソ連の大地は西ヨーロッパと違いインフラが未整備であらゆる物資を本国から輸送しなければならなかったが、道路や橋梁も貧弱で鉄道は軌道幅が違いドイツの幅に直さねばならなかった。これまで6週間以上継続して戦争をしたことの無かったドイツ軍は短期決戦のあてが外れた。
まもなく例年より早く冬が到来し、道路は凍結し、車両は再び動けるようになったが、冬用の被服はなく凍傷にかかり落伍する兵士が続出した。
11.15日、気温が零下22度まで下がったとグデーリアンは報告した。ドイツ軍の車両は水冷エンジンが凍結し、シリンダーに罅が入る。また大砲や銃器のオイルが凍結し可動部が動かなくなり、光学照準器は低温による誤差のため意味をなさなかった。確実な武器はスコップと銃剣に手榴弾だけという有り様だった。それでも将兵は不屈の意志で戦いを進め、吹雪の中モスクワまであと30キロに迫る。
11月、ドイツ軍を上回る戦力が整ったと判断したオーキンレックは「クルセーダー」作戦を発動。
11.18日、キレナイカに侵入、トブルク南のシディ・レゼクの飛行場を占領した。同日、英コマンド部隊がロンメルを狙ってベダ・リットリアの司令部を襲撃したが、すでに司令部は移動しており、ロンメルもいなかった。出だしが遅れたロンメルは状況の把握に努め本格的な攻勢と判断。シディ・レゼクに増援を送り、トブルクの英軍との合流を阻止する。英軍は大軍だが広く展開しすぎていると判断したロンメルは飛行場にいた英第7機甲旅団を襲い、救援の第22と第7機甲旅団を各個撃破し飛行場を奪回し、エジプトに迫った。態勢を立直したオーキンレックは東西からドイツ軍を挟み撃ちにすべく移動したが、ロンメルはトブルク南まで撤退した。
11.27日、英軍はトブルクに到達、戦力を消耗したロンメルはトリポリタニアへ撤退し来年の補給を待った。独伊軍の補給は地中海のマルタ島から出撃する英軍に妨害され、必要量を輸送できなかった。
11月、ソ連ヴィアチェスラフ・モロトフ外相(外務人民委員)はドイツを訪問しヒトラーと会談、モロトフはルーマニアに対するドイツの保障を取り消すよう迫り、またフィンランドにいたドイツ軍の撤退を要求した。ヒトラーは激怒してしまう。のちのリーベントロップとの会談は英軍のベルリン空襲で中断され、防空壕に移動した。リーベントロップは「イギリスの降伏は近い」と語ったがモロトフは「それではなぜ我々は防空壕で英軍機の爆撃をのがれなければならないのか」と皮肉を言った。
ドイツの軍需産業は前線から多大の装備を要求されたが、ヒトラー(彼は軍服のデザインから戦車の武装、銃器、飛行機、艦船の生産量など細部に係わった)やNSDAP幹部の細部に渡る口出しと、頻繁に変更される命令や仕様変更によって大きな混乱に見舞われていた。42年までは陸海空3軍は独自の工場を傘下にしており、ある工場はフル生産しても他の工場は仕事が無いなど融通は効かなかった。たとえば師団規模にまで肥大したSS師団は国防軍師団よりも戦車や砲、各種車両などを優先的に配備され。空軍相のゲーリングは自分の名前を冠した空軍所属の装甲師団を作り、党第2位である自分の権限を使い装備を優先的に回させた。空軍においても4発の戦略爆撃機計画(ウラル爆撃機)は37年に中止され、技術局長エルンスト・ウーデット上級大将の無能から新型機開発や生産管理は進まなかった、ウーデットは第1次大戦の撃墜王だったが、組織の管理能力が無く、急降下爆撃に固執しあらゆる爆撃機に急降下能力を要求。4発の大型機He177まで急降下性能を求めた、このため同機は2つのエンジンを連結し1つのナセルに納めるという無理な設計をしたため火災を頻発し開発は失敗した。戦闘機においても主力機Bf109(Me109)の後継機Me209の実用化も失敗した。戦争末期に連合軍機を速度差で圧倒したジェット戦闘機の開発にも冷淡であった。41年秋からFw190戦闘機が投入されるが、高々度では性能が低下するためBf109と並行して使用された。
11月、ウーデットは自殺する。しかしヒトラーが個人的に親しかった建築家のアルベルト・シュペーアを42年軍需相に任命してから軍需資材の統制を軍需省に一本化し、中央生産委員会を設け生産の効率化に成功した。またスターリングラードの敗北で意気消沈したヒトラーは罷免していた装甲師団産みの親グデーリアンを復職させ43年2月装甲軍総監に任命。グデーリアンは装甲師団の組織と訓練の権限と、シュペーアと共に生産部門の権限も得た。グデーリアンは装甲軍の兵士を訓練し、戦車の増産に力を入れたしかし、中戦車「パンテル」(75ミリ砲)、重戦車「ティーゲル」(88ミリ砲)は生産工程が多く、まだ技術的に修正しなければならない個所が多く生産は軌道に乗らなかった。このため生産工程の少ない突撃砲(戦車の車体に前方しか射撃できない砲を載せた装甲車両、自走砲とも)によって数を補わなければならなかった。
12.2日、ドイツ軍第258歩兵師団の偵察大隊はモスクワ近郊に突入し、クレムリンの尖塔を望んだが、翌日には寄せ集めの労働者を含むソ連軍に撃退された。12.4日、気温は零下35度となり、ドイツ軍は前進をやめ文字どおり凍結してしまう。
12.5日、ソ連軍、対独反攻開始。
12.6日、ジューコフは反撃に出てモスクワ前面のドイツ軍を押し返した。シベリアで日本軍と対峙していた冬季経験豊富な部隊がゾルゲの日本の攻撃は無いという情報を受け、前線に到着していた。北方からモスクワに迫っていた第3装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将)、南方の第2装甲軍(グデーリアン)の戦線が相次いで突破された。ソ連軍の装備は寒さにも適応しT34戦車は厳寒の中でもディーゼルエンジンが作動し、幅の広いキャタピラは雪上でも行動できた。ドイツ軍は機械の対応も被服の補給さえ不十分だった。
12.6日、
ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始)。
独ソ戦の形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係は悪化した。また1941年12月にはユダヤ人の組織的殺害(ホロコースト)を指示したとも言われる。
アメリカ太平洋艦隊の戦艦多数を撃沈する。ヒトラーは日本に対ソ参戦を期待していたが、日本はソ連と中立条約を結びアメリカとの戦争に踏み切った。アメリカは中立法を改正して武器貸与法でイギリス、ソ連に兵器・戦略物資を送り、大西洋では船団を護衛するアメリカ駆逐艦とUボートが交戦をすることがあったが、外交的にはヨーロッパの戦争には孤立主義の世論からイギリス寄りの中立を保っていた。しかしヒトラーはこの戦争開始のやり方にはおおいに満足であった。大島駐独大使に「まことにうってつけの宣戦布告だ、こうした方法でなければだめですよ」と語った、しかし「私はいかにしてアメリカを負かすか、まだ分からない」とも語る。
【日独伊が対米宣戦布告】 |
12.11日、日本の真珠湾攻撃に呼応する形で独伊がそれぞれ対米宣戦布告。3国同盟条約では同盟国が他国から攻撃を受けた場合には共同してこれに当たる事になっているが、同盟国から宣戦した場合には他の2国には参戦の義務はなかった。しかし、ヒトラーは参戦した。いまやドイツはソ連、イギリス、アメリカの3大国と戦うことになった。チャーチルはアメリカの参戦に歓喜する。
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12.15日、ソ連軍はカリーニンを奪回し、モスクワから200キロに渡ってドイツ軍を撃退した。これより前南方軍集団も11.21日、ハリコフを占領したものの、11.30日にはソ連軍の反撃により奪還され、退却を強いられた。ドイツ軍不敗神話の終わりが始まった。
1941(昭和16)年、陸軍最高司令官兼任。
1942(昭和17)年、ヒットラー53歳の時 |
【ヴァンゼー会議】 |
1月、ヒトラーの意をうけたナチス高官がヴァンゼー会議を開催し、「ユダヤ人の最終的解決」を決定する。 ヴァンゼー会議以前、ナチスによるユダヤ人への弾圧とは、主にユダヤ人を「国外追放ないしは隔離」することにあった。「ユダヤ人の最終的解決」がユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を意味するとされている。ヒトラーの目的が「領土拡大」から「ユダヤ人根絶」に移ったことで、第二次世界大戦はさらに悪夢の様相を帯びるようになる、とある。 |
1月、補給と兵員がトリポリに到着。1.21日、ロンメルは攻勢に出た。1.29日、ベンガジを占領。ガザラを守る英軍防衛線を陸側に迂回して海岸へ進出しようとした、英軍はこれに対し予備の機甲部隊を投入、英軍が新たに配備した6ボンド対戦車砲とアメリカ製M3戦車に苦戦したものの、トブルク西の「大釜陣地」に篭もり88ミリ砲の射程に英軍戦車を誘き出して撃破、英軍の攻勢をしのいだ。
2月、ドイツ軍はハリコフでソ連軍の攻撃を撃退していた。ハリコフの北クルスクではソ連軍の戦線がドイツ軍戦線に100キロほど突出していた。ヒトラーはこの部分に着目し、南方軍、中央軍集団が南北から挟撃してソ連軍を包囲する計画で攻撃を命じた。南方軍集団司令官マンシュタインはハリコフの勝利の後4月には攻撃可能だと報告していたが、ドイツ軍部隊集結は新型戦車を待つ内に遅れる。
東部戦線では2月にはソ連軍の反撃もまずい攻撃で息切れし、退却したドイツ軍は防御拠点を築き戦線は落ち着いてきた。
4.21日、ドイツ中央軍集団北翼の5個師団10万が空輸を受けながら持ちこたえ、1月からソ連軍に包囲されていた、デミヤンスク救出が成る。ヒトラーは「撤退を許さず、死守せよ」の命令を乱発し前線の戦術的撤退まで認めなかったが、41年末から42年には命令に背いたとしてブラウヒッチュ、ボックにグデーリアンまで罷免した。
4月、ヒトラーは、戦力を補強し南方軍集団を2つに分け、A軍集団(リスト元帥)は南方のドン川西で敵を撃破、コーカサスの石油を押さえ、B軍集団(ヴァイクス将軍)はボルガ河畔の工業都市スターリングラード(現ボルゴグラード)を占領する新たな作戦(ブラウ「青」作戦)を発動する。
5月、ソ連軍はハリコフ付近で攻勢に出たが撃退される。ドイツ軍は冬の打撃から立ち直り、再びソ連軍に損害を与えた。ソ連軍は当初、ドイツ軍がモスクワを攻略するものと判断し、兵力を温存するため戦略的な撤退を行った。B軍集団は開戦期を思わせる快進撃を見せた。
5、6月にはソ連軍がスパイ網や英ウルトラ情報から、ドイツ軍の攻撃を予測し防備を固めた。
6.20日、ロンメルはエジプト国境に進むと見せかけて再度迂回し、3万5千の英軍が守るトブルクを総攻撃。6.21日、ついにトブルクを占領した。トブルクでは1万の捕虜と膨大な軍需品が手に入った。ロンメルは敗走する英軍を追ってエジプトに侵攻したかったが、戦闘に疲れたイタリア軍から邪魔されヒトラーに直訴してエジプト侵攻の許可を受けるが、すでにイギリス軍の混乱は収拾していた。6.30日、ロンメルは、アレクサンドリア西、ナイル川まで約100キロのエル・アラメインに達し防衛線に攻撃を加えたが、補給線が伸びたドイツ軍の戦車は50両ほどになってしまい、増援を受けたイギリス軍の防御は堅くついに突破出来なかった。
6.21日、ロンメルはトブルク占領の功績により最年少(50歳)の元帥に昇進。「元帥になるより1個師団を」と家族への手紙に書いている。
6月、アメリカ第8空軍がイギリスで編成され、7.4日にはオランダを爆撃した。アメリカ軍は4トンの爆弾を積め高度1万メートルを飛行する「空の要塞」B17爆撃機を投入しドイツの都市を昼間爆撃し、夜間はイギリス空軍が爆撃を行った。当初はドイツ軍の迎撃戦闘機や高射砲により大きな損害を出していたが、大規模な爆撃により次第にドイツの戦争遂行力を減滅させていった。
7.3日、820ミリ、600ミリ臼砲を投入した第11軍(マンシュタイン上級大将)とルーマニア軍の攻撃でクリミア半島のセヴァストポリ要塞が陥落。
7月、ボルホフ川西部で、ソ連軍第2打撃軍がスターリンの命令で撤退を許されず、包囲され補給を断たれて多くの兵士が飢餓と病気に倒れた。
7.11日にはモスクワ攻防戦で戦功を上げたソ連軍アンドレイ・ウラソフ中将が捕虜になる。ウラソフはスターリンに幻滅し、反スターリンのロシア人捕虜や協力者を編成して戦闘に立ち上がらせる用意があるとドイツ軍に打診した。ドイツ軍の一部には彼らに戦闘部隊の編成を認めさせ、共に戦わせようとするグループがあり、42.11月スモレンスクで「ロシア解放委員会」が設立されたが、ヒトラーはスラブ民族は人間以下のものであり、対等な同盟者として扱うことは論外だとし、同委員会は活動を停止した。一部のソ連兵捕虜はドイツ軍の収容所から脱走しても、反逆罪で収容所送りか処刑されるため、収容所で死ぬよりはドイツ軍に補助要員あるいは戦闘員として加わった。
7.23日、A軍集団の進撃は当初は順調で、ロストフを占領したがコーカサス山岳地帯でソ連軍の頑強な抵抗にあい停滞した。ヒトラーはA軍集団の第1装甲軍を援護するためB軍集団の第4装甲軍(ホト上級大将)を西に向かわせ、歩兵主力の第6軍(パウルス上級大将)を代わりにスターリングラード攻略に向かわせた。しかし進撃速度の遅い第6軍が8月にスターリングラードに到達した時にはソ連軍の防備は強化されてしまっていた。ヒトラーは突然スターリングラードを急いで占領せよと命令、いったん西に向かわせた第4装甲軍をまたスターリングラードに呼び戻した。スターリンは防衛総司令官エリュメンコ大将と第62軍司令官チュイコフ中将に死守を命じ、党中央委員会書記マレンコフ、軍事会議委員フルシチョフを派遣。ソ連軍はボルガ河を背にした文字どおり「背水の陣」で不利な態勢ながらスターリンの名を冠したこの都市を死守する構えである、ヒトラーにしてみればこの都市の名前自体が戦略上の目的よりも重要であった(ラジオ演説では都市名にはこだわっていないと冗談交じりに語ったが)。かくして副次的な作戦であったスターリングラード攻略は両軍の総力を挙げた戦いとなる。
8月、チャーチルは再び指揮官を交代させオーキンレュクの代わりにアレクサンダー大将を任命、第8軍司令官にはバーナード・モントゴメリー中将を充てた。
8.30日、ロンメルは再びエル・アラメインの英軍を攻撃しようとし戦線後方のアラムアルファ高地を攻撃するが、補給を受けたモントゴメリーは陣地を対戦車砲で強化し、燃料に乏しいドイツ軍の攻撃は失敗した。砂漠の厳しい気候の中で常に前線を回り、兵士と同等の食料しか口にしなかったロンメルの身体は不調を来し、持病の肝臓疾患と高血圧症が悪化したため、9.23日、療養のため本国に帰った。
イタリアに連合軍が上陸し、東部戦線でドイツ軍が守勢に回り始めた。北フランス方面への連合軍の上陸が予想された。すでに8.19日、フランスのディエップにイギリス、カナダ軍が奇襲上陸を行いドイツ軍の反撃で大損害を出し撃退された作戦があった。この作戦は本格的反攻ではなく、威力偵察的なものであったがドイツ軍に「反攻近し」と警戒を強めさせた。連合軍は北フランス上陸作戦「オーバーロード」の期日を44.5月に定め、アメリカ軍ドワイト・アイゼンハワー大将が総司令官に任命されていた。ドイツ軍のヨーロッパ西部を担当する西方総軍(ルントシュテット元帥)はB軍集団(ロンメル元帥)がフランス北部を担当していた。ロンメルは「最初の24時間で勝負がつく」と、連合軍の反攻を上陸軍が橋頭堡を築く前に海上か水際で撃破すべきだと考えていた。連合軍の攻撃が始まれば制空権を失ったドイツ軍は航空攻撃にさらされ、部隊の移動も反撃も困難になるからである。一方、ルントシュテットは上陸軍を内陸まで引き込み反撃を加え撃破する考えだった。さらに連合軍の上陸地点の予想はロンメルとヒトラーはノルマンディ地区と踏んでいたのに対し、軍首脳は距離的にイギリスに近いカレー地区を予想した。ヒトラーは連合軍の反攻に対して「大西洋防壁」を築くと盛んに国民に演説していたが、実状は要塞などとても完成にほど遠い状態であり、固定要塞で戦う戦略思想自体、ドイツ軍が戦争初期に打ち破ったものだった。敵を水際で撃破しない限り戦争に負けると考えたロンメルは海岸地帯の防備を固めるため砲台を建設し、水中には妨害物と爆発物を仕掛け、海岸には地雷を埋めた。また自身の設計による数々の妨害物を配置する、空挺部隊を防ぐ木とワイヤーの妨害物は「ロンメルのアスパラガス畠」と呼ばれた。しかし装備は資材不足によりロンメルを満足させるものではなかった。ロンメルはトート部隊(軍需省の建設部隊)や空軍の高射砲部隊に助力を求めたが、指揮系統の違いから拒否される。そして最もロンメルが必要とした物「装甲師団」はヒトラー直接の命令下に置かれていて、ロンメルの手元には無かったのである。ヒトラーはロンメルとルントシュテット両者の主張の折衷案として、装甲師団を海岸と内陸の中間に配置した。フランス北部にいた部隊の多くは東部戦線で消耗したものが再編のため休養していたり、高齢の兵士や外国人で構成された部隊であった。また、ヒトラーは最初の考えを変え反攻はカレーで行われると思うようになっていた。
8.22日、 ドイツ軍、スターリングラード猛攻撃開始 (スターリングラード攻防戦)。ドイツ第6軍を援護する第14装甲軍はスターリングラード北部を押さえボルガ河に達した、第4装甲軍は南からスターリングラードを圧迫する。しかし、攻略には兵力が足りず周辺部には弱体なルーマニア、ハンガリー、イタリア軍の同盟国軍を配置した。スターリングラードの包囲は完全ではなくソ連軍はボルガ河を渡って兵士や物資を送り込んだ。
9月、ドイツ軍は空軍の猛爆撃の後、市内に突入し激しい市街戦が展開される、瓦礫の中で両軍は時には白兵戦を交えながら1区画の奪取をめぐり血を流した。こういった市街地の戦闘ではドイツ軍の戦車は機動力を生かせない。しかしあせるパウルスは装甲師団の戦車、装甲車まで市街戦に投入、装甲師団の用兵を誤った投入に抗議したヴィッテルスハイム、シュベドラー両将軍は罷免されてしまった。一方、南方のA軍集団の第1装甲軍(クライスト大将)は8月9日マイコプを陥し、22日にはコーカサス山脈の最高峰エルブルス山に山岳部隊が登頂し、ハーケンクロイツを山頂に立てた。しかし、険しい地形と装備の不足、ソ連軍の頑強な抵抗を受けて進撃が停滞した。油田のあるバクーへ向かったが補給が続かず、空軍の援護もなくなり、油田もソ連軍が撤退の際破壊したため皮肉にも、油田地帯で燃料が尽き動きが止まってしまった。 グロズヌイ攻略に向かった北欧志願兵から成る「ヴィーキング」師団も9月下旬にソ連軍の強力な防御を受けクルプ峡谷までしか進めなかった。怒ったヒトラーはスフミ攻略が不可能だと訴えたA軍集団リスト元帥を解任し、クライストに代えたが状況は変わらなかった。
9月下旬、ヒトラーは、参謀総長ハルダーまで解任し、一時は自らA軍集団の指揮を取っている。
10.3日、A-4ロケットの打ち上げ成功。
10.23日、戦車1000両などドイツ軍の約2倍の戦備を整えたモントゴメリーは「スーパーチャージ」作戦を開始。エル・アラメインから攻勢を開始し、ドイツ・イタリア軍前線に1200門の火砲から砲撃を浴びせた。地中海のイタリア輸送船は次々に撃沈され補給に乏しい独伊軍は戦線を突破される。 ロンメルの留守を守るシュトゥンメ将軍は前線視察中に機関銃の掃射を受け心臓発作を起こし死亡した。急遽ロンメルはアフリカへ戻るが、状況は悪く、11.3日には残る戦車は23両しかなかった。11.5日、ヒトラーの「貴下は部隊に勝利か死以外の道を示してはならない」との撤退禁止命令に背き撤退を命じる。独伊軍はエル・アゲイラまで1000キロを2週間で撤退した、しかし逃げ遅れた歩兵部隊やイタリア軍は多数が捕虜になった。枢軸軍は2万5千の戦死者と3万の捕虜を出した。11.19日には独伊軍はキレナイカから西へ撤退する。
11.8日、連合軍、北アフリカ上陸開始。フランス領モロッコ、アルジェリアに連合軍が上陸(トーチ作戦)しており独伊軍は挟み撃ちされる形になる。ビシー政権のフランス軍は連合軍と交戦し、カサブランカでは米戦艦「マサチューセッツ」が仏降伏時に未完成のまま逃れてきていた戦艦「ジャン・バール」と砲撃を交わし撃破した。
11.10日、仏ダルラン提督は連合軍と停戦する。ヒトラーはフランス領土全域とチュニジアへの進駐を決意。11.26日、フランスのツーロン港に停泊していたフランス艦隊はドイツ軍が侵入すると一斉に自沈した。
12.3日、ヒトラーは第5装甲軍(フォン・アルニム上級大将)を新設し、43年1月末になって新型重戦車「ティーゲル」装備の大隊を含む増援をアフリカに送り戦力を増強させたが、半年でも早くこの増援があればエジプトを占領できたのにと将兵を悔しがらせた。
11月中旬、スターリングラードで、ジェルジンスキー・トラクター工場、赤いバリケード工場など、市内のほとんどをドイツ軍が制圧していた。チュイコフの第62軍は辛うじてボルガ河の数百メートルの渡河地点にしがみついていた。しかしジューコフのソ連軍はドイツ軍がスターリングラードに掛かり切りになっている間に機動力を生かし、反攻に転じ逆にドイツ軍を市内に包囲する作戦を考えていた。ハルダーらはドイツ軍の側面が脆弱であることをヒトラーに進言したが、ソ連軍には予備兵力が無いと思い込んでいたヒトラーは、ソ連軍が150万の予備兵力を準備しているとの情報を無視した。
11、第二次世界大戦一進一退期 |
11.19日、ソ連軍、スターリングラードで反撃開始。ソ連軍は、100万の将兵、戦車980両をスターリングラード正面のエリューメンコ軍、西南方面ヴァツーチン軍、ドン河方面ロコソフスキー軍の3集団に分けてドイツ軍の脆弱な側面を攻撃、市の南西にはルーマニア第3軍の対戦車能力を持たない部隊が配備されていた。これを補強していたドイツ第48装甲軍団は旧式なチェコ製戦車を配備された予備部隊で燃料不足から2カ月もエンジンをかけておらず、移動命令が出たときには偽装のためかけられた藁に住み着いたネズミに配線をかじられ、始動するとショートが起き104両のうち42両しか出撃することが出来なかった。ソ連軍の3500門の火砲の猛射を受けたルーマニア第3軍の陣地は、ソ連第5戦車軍の200両以上のT34にたちまち突破され、市の西カラチでソ連軍が合流。
11.23日、第6軍と第4装甲軍の一部20個師団、33万人、戦車600両とルーマニア軍2個師団が市内の廃虚に包囲されてしまった。パウルスはこの時点で弾薬2戦闘日分、食料は12日分しかないと報告し、最低1日750トンの補給を求めた。ヒトラーは「現在のボルガ・北部戦線はいかなることがあっても保持せよ。補給は空輸によって行う」と第6軍にスターリングラード脱出を許さず、包囲から飛行機で脱出したパウルスを市内に送り返した。ハルダーの後任となったツァイツラー少将もスターリングラードからの第6軍の脱出を求めたがヒトラーは拒否。第4航空軍フォン・リヒトフォーフェンは30万の兵への物資の空輸は能力を超えるとしたが、パリにいたゲーリングは電話を受けると、補給は1日500トンを包囲網中にあるピトムニク、グムラクの飛行場に空輸で行うと安請け負いした。
ヒトラーは北方にいて、9月のレニングラードでのソ連軍の反撃を阻止したマンシュタイン元帥にドン軍集団を結成させ、敵の攻撃を阻止しスターリングラードの奪回を命じた。しかし、マンシュタインが司令部に到着してみると彼が指揮すべき部隊の第6軍は包囲され、第4装甲軍はわずかしか残っておらず、ルーマニア第3、4軍は大損害を受けていた。
マンシュタインはフランスから第6装甲師団、予備から第17装甲師団など部隊をかき集め13個師団を揃えたが、移動に時間がかかるうちに12月を迎えていた。ヒトラーは「第6軍は今後スターリングラード要塞部隊と呼ばれる」
と語るが、冬を迎えたスターリングラードでは土は凍結して塹壕を掘ることも出来ず、木材は戦闘で燃え尽き零下40度の寒気とソ連軍の砲火を防ぐものはテントしかなかった。
12.12日、これ以上待てないと判断したマンシュタインは「冬の暴風」作戦を発動した。第6軍救援のため第4装甲軍の3個師団がホト上級大将の指揮で、スターリングラードまでの120キロを戦いながら進む。マンシュタインは救援軍に第6軍を合流させ脱出の既成事実をヒトラーに認めさせるつもりであった。
12.16日、ソ連第1親衛軍がドン川西のイタリア第8軍前線を攻撃、弱体なイタリア軍は撃破されロストフが脅かされ、救援軍は西からソ連軍の強圧をうける。ホトは第6軍の前線まであと35キロのところで進めなくなった。マンシュタイン元帥は独断で第6軍のパウルスに脱出して救援軍に合流するよう命じたが、ヒトラーは死守を命令。官僚的な性格のパウルスは第6軍には30キロ分の燃料しかないとして合流を拒否。パウルスはヒトラーの命令を守ってしまったため第6軍の命運は尽きた。 ホトは撤退し、200キロを飛ぶ空軍の物資補給は1日65トンがやっとで食料の最低必要量さえ輸送できず、第8航空軍団は輸送機の他に爆撃機もかき集めて輸送に投入したが、ゲーリングの約束した500トンは1回も達成出来なかった。空軍は攻撃と悪天候で488機の損害を出した。スターリングラードでのドイツ軍の絶望的抵抗は43年まで続いたが、1月には餓死者が記録される。
12.31日、イギリスからソ連への輸送船団JW51B攻撃のため出撃した、ドイツ海軍ポケット戦艦「リュッツォー」、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」と駆逐艦6隻は敵輸送船団に対してほとんど損害を与えられずに帰還した。ヒトラーは海軍に敵が優勢な場合には交戦を禁止していたが、オスカー・クメッツ中将は悪天候下で敵の陣容が分からずに、船団護衛のイギリス駆逐艦や遅れて救援に現れた巡洋艦2隻からの激しい防戦を受け、駆逐艦1隻が沈没し「アドミラル・ヒッパー」が損傷したため敵が優勢であると判断して引き上げた。ヒトラーは激怒し全ての大型艦を解体して資材をより有効に使うよう命令し、海軍長官レーダー元帥を解任した。後任のカール・デーニッツは大型艦の解体は撤回させたが、駆逐艦以上の艦艇の建造は中止され、海軍大型艦艇の作戦行動はさらに積極性を欠くことになった。
1943(昭和18)年、ヒトラー44歳の時 |
1.26日、ロンノル軍は、チュニジアまで後退する。ロンメルは北アフリカからの撤退をヒトラーに進言するが、ヒトラーは例によって死守を命じた。
1.21日、ドイツ軍は飛行場を失い、細々と続いた補給もパラシュート投下のみになる。1.24日、パウルスは降伏の許可をヒトラーに求めた。ヒトラーの返事は「余はすべての降伏を禁じる。軍は弾薬が尽きるまで抵抗せよ。第6軍の英雄的行動は、ヨーロッパの救済に、前代未聞の貢献を成すものである」。
1.30日、ドイツ軍は3つの地域に分断され、これまで2回のソ連の降伏勧告を拒否したパウルスは弾薬、医薬品、食料が尽き「運命が24時間以内に迫った」と無電を打ったが、ヒトラーは降伏禁止命令と共にパウルスを元帥に昇進させ「歴史上プロイセン・ドイツの元帥が降伏したことは無い」と返電した。翌日、国営百貨店の地下室に置かれた司令部でパウルスは降伏した。包囲後の戦闘でドイツ軍16万が戦死し9万1千人(将軍24人)が捕虜になった。ヒトラーの2つの目標、スターリングラードも南部の油田も手に入らなかった。
2.2日、スターリングラードのドイツ第6軍が全軍降伏した。
2.13日、第5装甲軍はまだ砂漠に不慣れなアメリカ軍第1機甲師団に攻勢をかける、「ティーゲル」の攻撃を受けたアメリカ軍は戦車150両を撃破され129人の戦死、2000以上の捕虜、行方不明者を出し歴戦のドイツ軍に緒戦で痛撃された。2.18日、ドイツ軍はカセリーヌ峠を占領した。アルニムの南にいたロンメルはマレトからガザフに進出し、敵の弱点をテベサとみて攻撃許可を求めたが攻撃は強固なターラに変更されてしまう。
このため連合軍が待ち構えていた地点を攻撃することとなり、やむなくロンメルはメデニーヌのモントゴメリーの英第8軍を攻撃するが、またもや強固な防御地点をまともに攻撃する結果となり攻勢は頓挫した。
2.23日、司令部からアフリカの部隊を「アフリカ軍集団」に統合してロンメルに指揮権を与えるという命令が届いたが、前日にロンメルはカセリーヌ峠を捨て撤退を開始していた。ロンメルは指揮をアルニムに任せ3.9日、アフリカを去る、再度ヒトラーにアフリカ撤退を進言するが拒絶され再びアフリカに戻ることは無かった。3.17日、米第2軍団の攻撃がチュニスへの退路を断つため開始され、3.20日、マレト防衛線への英第8軍の攻撃が始まった。5.12日、海路撤退することが出来ず、包囲されたアフリカ軍団とイタリア軍25万はチュニジアで降伏した。
3.13日、東部戦線のスモレンスクを視察したヒトラーを爆殺しようとヘニング・フォン・トレスコウ少将が計画した。副官のファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ中尉に爆弾入りのリキュールの瓶をヒトラーの搭乗機に持ち込ませたが、雷管に不具合が生じたため爆発せず失敗、爆弾は密かに回収され計画は明るみに出なかった。
春、東部戦線のドイツ軍装甲師団は、戦車と装備の補給を受け戦力を貯えることができた。またソ連軍も再びドイツ軍の攻勢を予測して戦力を補充していた。
7.4日、「チタデル(城砦)」作戦は奇襲の要素が失われ、強襲となったが開始された。両軍ともに満を持したクルスク戦にはドイツ軍90万、戦車・自走砲3700両、砲1万門、航空機2500機。ソ連軍133万7千、戦車・自走砲3306両、砲2万門、航空機2650機が激突した。ソ連軍中央方面軍ロコソフスキー上級大将は脱走兵の情報から攻撃を予知し、600門の砲と「カチューシャ」ロケットでドイツ軍に先制砲撃を加える。北部から攻撃する第9軍(クルーゲ元帥)のドイツ軍戦車はソ連軍の防御陣地線に突入を図るが、初陣の「パンテル」は機械故障が多発、「4号戦車」は強固な陣地から対戦車砲と、地雷原に撃破されて大きな損害を出す。重装甲の突撃砲「フェルディナント」(88ミリ砲1、機銃1装備)は砲撃をものともせず戦線を突破するが随伴の歩兵がついてこれなかったため、ソ連兵の肉薄攻撃で撃破されてしまった。重戦車「ティーゲル」は威力を示し、対戦車砲やT34を撃破したが、北部からの攻勢はソ連軍の猛烈な抵抗でオルホヴァトカ村で停滞した。第9軍はやっと10キロ進出するのに戦車の3分の2を失った。それでもドイツ軍は攻勢を維持し、南部から攻撃する第4装甲軍(ホト上級大将)、ケンプ作戦集団は北部の第9軍より強力な陣容で南部のオボヤン地区に攻撃を加えた、第1SS装甲師団「アドルフ・ヒトラー」同第2「ダス・ライヒ」同第3「トーテンコープ(髑髏)」など精鋭を含む13個師団はソ連軍の戦線に圧迫を加え前進した。南部ではドイツ軍はソ連空軍機の来襲をレーダーで捕らえ、戦闘機を迎撃に出撃させ爆撃機を撃退し制空権を押さえた。
7.6日、ドイツ軍はペトロフカに達した。7.8日、第4装甲軍はソ連第6親衛軍司令部を制圧。7.12日にはプロホロフカに向かい第4装甲軍の武装SS師団はソ連第5親衛戦車軍と激しい戦車戦を展開した。両軍1500両の戦車は乱戦となり双方射撃距離が近いため高速のT34は76.2ミリ砲でも「ティーゲル」戦車の88ミリの長射程に対抗できた。上空ではドイツJu87急降下爆撃機、ソ連Il2襲撃機「シュトルモビク」が敵戦車を求めて乱舞した。ドイツ軍の損害は多かったがやや有利に攻撃を進めていた。マンシュタインはあとひと押しだと見た。しかし、7.13日、ヒトラーは「チタデル」作戦の中止を命じた、7.11日、連合軍がイタリアのシチリア島に上陸したのである。ヒトラーは装甲師団をイタリアに向かわせようとしたのだった。実際にイタリア本土に連合軍が上陸したのは2カ月後で部隊の転用は早すぎた。
7.7日、ウェルナー・フォン・ブラウン、ヴァルター・ドルンベルガー将軍らを総統司令部に呼び出し、1942(昭和17)年10月3日のA-4ロケットの記録映画を見る。この時、「なぜ諸君の仕事が信じられなかったのか。1939(昭和14)年にこのロケットを持っていたら、今回の戦争は起こらなかった」とつぶやいたと伝えられる。
7.10日、連合軍、シシリー島上陸 (ハスキー作戦)。
7.11日、連合軍が「ハスキー」作戦を開始。イギリス第8軍と米第7軍(ジョージ・パットン中将)が上陸したシチリア島では、北アフリカで戦っていた空軍のヘルマン・ゲーリング装甲師団が、アメリカ軍が上陸した橋頭堡のジェラをイタリア軍リヴォルノ師団と共に攻撃するが、沖合いからの艦砲射撃で撃退された。
7.14日、ソ連軍の反撃が開始され、7.30日には攻勢が始まった地点までドイツ軍は後退した。8月にはハリコフとオリョールをソ連軍が奪回。ドイツ軍は3330名が戦死、戦車約1千を失い、ソ連軍は約1万7千名が戦死、戦車約2千台の損害を出したがクルスクを守り抜き、東部戦線ではこの史上最大規模の戦車戦以降、兵員、装備の調達が続かないドイツの守勢が続く。ソ連軍は対戦車戦と機甲部隊の運用を、犠牲を出しながらもドイツ軍から学び取ってしまっていた。9月25日スモレンスクが奪回される。「チタデルは、東方におけるわれわれの主導権を維持しようとした最後の試みであった。失敗に等しいこの作戦の中止とともに、主導権は最終的にソ連軍側に移った。チタデルは東部戦線における戦争の決定的な転回点である」(マンシュタイン元帥回想録)。
【ムッソリーニ政権崩壊、バドリオ政権樹立】 |
7.25日、 ムッソリーニ逮捕。 バドリオ政権成立。
3月には30万人の労働者がストを行い軍需生産も止まる。ヒトラーほど単独の独裁態勢を固めなかったムソリーニは自身で多くの閣僚ポストを兼任、参謀総長にカバレロ元帥に替えてドイツ嫌いのアンブロジオ元帥を任命し、軍部の人事や内閣の改造で乗り切ろうとしたが、7.24日、5年ぶりに開催されたファシズム大評議会において国王に軍の統帥を返すよう議決されてしまう。議決案はファシスト党古老のディノ・グランディが起草、娘婿の元外相チアノまでが賛成し、賛成18、反対7、棄権1であった。大評議会自体は議決機関ではなくファシスト党の諮問機関だったが翌日、結果を上奏に国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世の離宮に参内したムソリーニは、国王にその場で解任されジュゼッペ・カステッラーノ准将によって逮捕されてしまった。 |
8.11日、ドイツ軍はシチリア島から英米軍の連携の齟齬をついて撤退を開始する。敗退を続けたイタリアは厭戦の空気とムソリーニへの不満がみなぎり、前線ではろくに抵抗せずに連合軍に降伏する将兵が相次いだ。
9.3日、バドリオは連合国と秘密休戦協定を結び、9.8日、連合国は放送を通じて休戦を公表した。3国同盟の一角が崩れ、元々イタリアはあてにならなかったとはいえドイツはヨーロッパで更に苦しい戦いを続けることになった。イタリアの脱落を予想していたドイツ軍は休戦と同時にローマを含むナポリ以北を迅速に占領下に置き、イタリア兵を武装解除し抵抗するものは攻撃した。バドリオと王室は南部のブリンディジに逃れる。連合軍は9.3日、メッシナ海峡から上陸、9.9日、イタリア本土ナポリ南のサレルノに上陸した。
ヒトラーは盟友ムソリーニの救出をSS特殊部隊オットー・スコルッエニー大尉に命令。スコルツェニーはムソリーニがアペニン山脈グランサッソの標高2914メートルのホテルに軟禁されているのを突き止めた。3方を山で囲まれケーブルカーが通っていたが約100名のカラビニエリ(警察と軍隊を合わせたような組織の兵、現在でもある)が警備していた。
【イタリア無条件降伏】 |
9.8日、イタリア、無条件降伏。 |
9.10日、ドイツ軍、ローマ占領。9.12日、 ドイツ軍特殊部隊、ムッソリーニ救出。スコルツェニーはSS特殊部隊と降下猟兵部隊を率いて、山頂のわずかな広場にグライダー12機(着陸成功8機)と離着陸距離の短いFi156連絡機2機で強行着陸。 スコルッエニーらはホテルに突入するとカラビニエリをなぎ倒しながら部屋に入り、ムソリーニに「総統閣下の命令でお迎えにあがりました」と敬礼した。ムソリーニはスコルッエニーを抱きしめると「友である総統が私を見捨てないことはわかっていた」と感謝を述べた。急襲にあっけにとられたカラビニエリ達は簡単に武器を捨て、ムソリーニの救出に成功する。ムソリーニとスコルツェニーは連絡機で脱出し、残りの兵はケーブルカーで下山した、作戦後には両軍の兵士が共に記念写真を撮るほど余裕を見せるあざやかな作戦だった。ヒトラーは功績に対して騎士十字章を与え、スコルツェニーを少佐に昇進させた。スコルツェニーはこの後も数々の特殊作戦を指揮し「ヨーロッパで最も危険な男」の異名をとる。13日ミュンヘンでヒトラーに会ったムソリーニは堅く抱擁した。
9.15日、ファシスト共和政府樹立 (首相:ムッソリーニ)。ヒトラーは、後にガンと分る胃痛に憔悴して気力を失っていたムソリーニを「イタリア社会共和国」(RSI)の首班につけさせ、ドイツ占領下のイタリア北部ガルダ湖畔サロに政府を置いた。「我はふたたびファシスト・イタリアの指揮に就いた」と演説したが、もはや何も実権はなく完全にヒトラーの傀儡であった。
9.15日、日独共同宣言。
10.13日、バドリオ政権はドイツに宣戦し、ヒトラーはドイツ軍に逮捕された元外相チアノらを反逆罪で処刑するようムソリーニに指示。占領下のローマで反ファシストの抵抗組織が「国民解放委員会」を結成。両政権のイタリア人は敵味方に別れて血を流すことになり、市民にもパルチザン活動でドイツ軍を攻撃する者も多かった。当然ドイツ軍は「裏切り者」を厳しく取り締まり多数が逮捕、処刑され、強制労働に送られた。ドイツ軍南西軍集団(アルベルト・ケッセルリンク大将)は上陸した連合軍に対し、モンテ・カシーノ付近に防衛線「グスタフ・ライン」、フィレンツェ付近に「ゴシック・ライン」を構築して頑強に抵抗、大きな損害を与える。ロンメルはケッセルリンクと共に作戦指揮に当たっている。チャーチルはイタリアを「柔らかい下腹」と見ていたが山地の多いイタリアでの連合軍の進撃は遅れた、山岳地形のモンテ・カシーノでは精鋭の降下猟兵が数度の攻撃を撃退していた。連合軍は山頂にある聖ベネディクト修道院を爆撃で破壊した。
1944(昭和19)年、ヒトラー55歳の時 |
1.20日、ソ連軍、レニングラード解放。
【連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)】 |
6.6日、連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)。 東側でのソ連軍の猛攻に遭遇している一方でドイツは、西側からアメリカ軍を主力とした連合国軍が反攻作戦にさらされる。その本格的な反撃が1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦であった。さらに1943年に降伏していたイタリアなど地中海方面からも連合国軍は上陸、ナチスドイツは3方面から完全に包囲され、その敗北は決定的なものとなる。 |
6.4日、ロンメルはヒトラーと会見するためフランスを離れた。6.6日、連合軍はノルマンディの海岸に3個師団の空挺部隊に続いて5カ所に上陸してきた。ロンメルは急ぎ同日深夜フランスの司令部に戻った。上陸した連合軍に強力な反撃が出来る装甲師団は第21装甲師団のみだった。フランスにいた空軍部隊は、連合軍の空爆が激しくなったドイツ本土防衛のため6.4日に移動したところだった。ドイツ軍の対敵諜報部は英BBC放送でベルレーヌの詩の第2句が放送された48時間以内に上陸作戦が行われる事を掴んでいたが、ディエップ型の奇襲なのか本格的反攻なのか軍首脳の判断が分かれ、また情報自体が諜略かもしれないと判断し、第2句を傍受したものの軍を待機状態にしただけだった。ロンメル自身も情報の混乱から陽動作戦か本格反攻か判断に迷った。海岸を守るドイツ兵はこれが反攻であることが分かっていた。前面には海が見えなくなるほどの艦船がいたのである。各種艦船2千727隻、そして上陸用舟艇2千500隻以上が殺到していた。
ユタに上陸した米第7軍セオドア・ルーズベルト代将(26代米大統領の息子)はかまわず内陸に前進した。ソード、ジュノー、ゴールドの海岸に上陸したイギリス、カナダ軍はオマハほどの抵抗を受けず内陸に進んだが、作戦初日に陥すはずだった主要目標カーンの占領は時間がかった。ドイツ軍の装甲師団の移動にはヒトラーの許可が必要だったが、ルントシュテット元帥からの要請にヨードルは就寝していたヒトラーを起こす事を拒否した。就寝から覚めたヒトラーは許可を与えたが貴重な時間は失われていた。カーン南西に待機していたドイツ軍第21装甲師団は最初空挺部隊を攻撃するつもりでオルヌ川の東に向かったが、命令が変更され海岸の敵を攻撃するため引き返しカーンへ向かい、ジュノーとゴールド海岸の中間のイギリス軍を攻撃した。しかし協働の歩兵部隊との連絡がつかず、待機する内に時間を浪費。第22装甲連隊の戦車は攻撃に移るが連合軍の対戦車陣地から猛烈な射撃を受け停止する。翌日以降も戦車教導師団、第12SS装甲師団の反撃が行われたが激しい航空攻撃と度重なる目的地変更から敵の前進を遅らす程度の抵抗にとどまった。
連合軍はDデイ初日で約2500人の戦死者を出したが、水際で上陸軍を叩き潰すロンメルの戦略は挫折した。6.11日、オハマとユタ両海岸の連携がなり、同日ドイツ西部方面戦車司令部が爆撃され壊滅。6.16日、カーンを攻撃した連合軍は艦砲射撃を加え、第12SS装甲師団長フリッツ・ヴィット大佐が戦死。6.27日、シェルブールが陥落した。ヒトラーは激怒し、第7軍司令官フリートリヒ・ドルマン大将は軍法会議を恐れ自殺した。
6月、ノルマンディ戦の最中、ジェット戦闘機Me262が実戦投入された、しかしこの時はヒトラーの命令によって爆撃機として使われたため、実力を発揮できなかった。44年の夏ごろには戦闘機隊が編成され、あらゆる連合軍レシプロ戦闘機を速度差で圧倒し終戦まで戦い続けた。しかし燃料不足と生産工場の爆撃などで数が少なく、熟練の搭乗員も既に多くが戦死し戦局を変えることは出来なかった。
ほぼ同じ6月にはパルス・ジェットのV1ロケット(Fi103、無人飛行爆弾)が投入されたがV1は戦闘機や対空砲火で撃墜でき、地上からの発射には固定式ランチャーを必要としたが、目立つランチャーは連合軍の空爆で破壊され、あまり脅威にはならなかった。9月6日にパリに向けて、次いで8日にはイギリスへ発射されたV2(A4)ロケットは1トンの弾頭を積み成層圏を飛翔するため発射されると迎撃することができず、発射台は移動式で発見は困難だった。V2は45年3月までに3300発が発射され、イギリスのロンドンなどには最盛期で1日30発が発射され、ロンドンには総計約500発が命中した。V兵器のVはドイツ語の報復(Vergeltung)で、連合軍の無差別爆撃に対する報復を意味する。V2の開発責任者は陸軍兵器局のワルター・ドルンベルガーで、彼の部下には戦後アメリカに渡りアポロ計画を主導するフォン・ブラウンがいた。アメリカ軍のアイゼンハワー元帥は後に「V2があと半年早く完成されていたら、大陸反攻はできなかったかもしれない」と回顧録に記したという。
6.15日、ドイツ軍、V1ロケットでロンドン爆撃開始。
1943年のクルスクの戦いを境にソ連が次第に優勢となり、1944.6月の米英加軍のフランスのノルマンディー上陸作戦成功により、二正面作戦を強いられたドイツは次第に崩壊していく。
大戦末期のヒトラーの生活は「狼の巣」と名づけた総統地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発によるフリードリヒ大王のような奇跡の大逆転に望みをつなぐ日々となった。
東部戦線においてもドイツ軍は崩壊しつつあった。スターリンの元には空前の大兵力が準備されていた。白ロシア方面166個師団はドイツ軍の2倍、戦車は4.3倍であった。
6.22日から28日にかけてソ連軍は「バグラチオン」作戦を開始、4つの前線を突破し7.3日、ミンスクを奪回した。7.25日、ウクライナのリボフを奪回し、ウクライナと白ロシアからドイツ軍をたたき出した。7.18日にはポーランドに入り7.27日、ルブリンを占領。翌日には独ソ不可侵条約の国境だったブレスト・リトフスクに達し独ソ戦開始の地点までドイツ軍を押し戻した。
15日間に25個師団を失ったドイツ中央軍集団は壊滅状態となり鉄道、産業施設を破壊しながら敗走する。
7.2日、ルントシュテットはカーンの放棄と艦砲射撃の射程外への後退を求めたがヒトラーは彼を解任した(後任フォン・クルーゲ元帥)。パリへの道を開くカーン攻略はドイツ軍の抵抗で大きな損害を出したが、7月9日ほぼ制圧された。
【ヒトラー暗殺事件その三】 |
7.20日、東プロイセンのラシュテンブルクにある総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」でヒトラー臨席の会議が開かれた。通常会議は午後1時に始まったが、この日はヒトラーがムソリーニと会見するため30分早められた。国内軍司令官フリードリヒ・フロム大将の参謀長フォン・シュタウフェンベルク大佐は報告を行うため出席していた。彼の鞄にはイギリス軍がレジスタンに送った物を捕獲した爆弾が仕掛けられていた。この爆弾は時限式で薬品が金属を腐食させる作用で点火される物で、時計式と違い音がしないためこの暗殺にはうってつけの物だった。シュタウフェンベルクは別室で薬品の入ったアンプルをつぶし点火装置をセットし、鞄をテーブル中央で報告を受けていたヒトラー右側のテーブルの下に置いた。爆弾は2つ用意されたがセットしたのは1つだった。シュタウフェンベルクは「電話をかけてくる」と会議室を出て通信室に入り短い電話をすると外に出た。会議では次に報告を行うのはシュタウフェンベルクの番になっていた。カイテルが彼の所在を尋ねた時、12時42分爆弾が炸裂した。テーブルが吹き飛び、天井が抜け梁が落ち中にいた24人のうち速記者が即死し、足を吹き飛ばされたハインツ・ブラント大佐が2日後に死亡、最終的に6名が死亡した。しかしヒトラーは右腕の打撲、足のやけど、鼓膜が破け落ちてきた梁で背中に裂傷を負い、脳震盪で一時的に動けなくなったものの命に別状はなくカイテルに連れ出された。シュタウフェンベルクが置いた鞄は、ヒトラーの隣にいたブラント大佐が樫テーブルの脚の陰に置き直したため、爆風が遮られたのであった。また建物が平屋で天井が抜け爆風が外へ抜けた事も幸いした、地下壕であったら爆弾の衝撃はより強くなっていただろう。 クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクによる暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡・負傷したがヒトラーは奇跡的に無傷だった。 ヒトラー暗殺計画失敗。ドイツ国防軍の士官によってクーデターが計画された。計画の首謀者は陸軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク。ルートヴィヒ・ベック大将、エーリッヒ・フェルギーベル中将、ヘニング・フォン・トレスコウ少将を始めとする多くの将官、元ライプチヒ市長カール・ゲルドレール、アルフレッド・デルプ神父が参加し、エルヴィン・フォン・ウィッツレーベン元帥やギュンター・フォン・クルーゲ元帥も含まれていた。 ヴァルキューレ作戦と名付けられたこの計画は東プロシア、ラステンブルクの司令部「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」で、シュタウフェンベルクがヒトラーの座席付近に時限爆弾を仕掛け殺害し、次にベルリンで蜂起軍を指揮する予定だった。新政府の布陣はベックが国家元首、ゲルドレールが首相に就任予定であった。多くの将官がこのヒトラー暗殺計画を察知していながら、沈黙していたとされる。 シュタウフェンベルクとヴェルナー・フォン・ハエフテン少尉によって爆弾は予定通り仕掛けられたが、予期せぬ状況で失敗した。当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の会合は地上で行われた。さらにシュタウフェンベルクは二個の爆弾のうち一個しか仕掛けることが出来なかった。また、爆弾の入ったアタッシュケースが邪魔だと言うことで移動させられた上に会議用テーブルが遮蔽物となり、四人が死んだがヒトラーは爆風から守られ奇跡的に生き残った。 シュタウフェンベルクとハエフテンはベンドラー街にある国防省の共謀者に会うためにベルリンに飛んだ。シュタウフェンベルクはベルリンでヒトラーの生存を知り作戦の失敗を悟った。蜂起軍を指揮する予定だったフリードリヒ・オルブリヒト将軍はヒトラーの死に確証が持てなかったため行動しなかった。 軽傷で済んだヒトラーは、その日の深夜ラジオで演説し、暗殺者と黒幕の粛清に乗り出すことを宣言した。シュタウフェンベルク大佐、オルブリヒト将軍、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐およびハエフテン少尉は、ベルリンの国防省の中庭で銃殺された。ベック大将は自決した。現在ベルリンの国防省跡には彼ら五人の名を刻んだ記念碑が建っている。エルヴィン・ロンメル元帥も計画への関与を疑われ、自殺を強要された。ヒトラーは4000名に及ぶ計画への関係者を処刑し、そのうちの何名かはベルリンのプレッツェンジー刑務所でピアノ線で吊された。トレスコウ少将を含む6名が自殺した。マンシュタイン元帥は余暇に出ていたため、難を逃れた。彼の副官がトレスコウ少将の従兄弟であり、計画のほぼ全容を知り得ていたからである。この暗殺未遂に対するヒトラーの復讐は、大戦終結直前の1945.4月まで続けられた。
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犯人は直ちには分からなかったが、通信室の伍長がシュタウフェンベルクの電話が短かったことを不審に思い、さらにシュタウフェンベルクが大本営にいないことが分かった。シュタウフェンベルクは爆音を聞いて成功を確信し、そのまま飛行機でベルリンにクーデター実行のため向かっていた。ところがヒトラーは生きていた。さらに爆破後大本営の電話を遮断するはずだった暗殺グループの一員で通信総監エーリヒ・フェルギーベル中将は、なぜか回線の遮断を行わなかった。 暗殺グループの中心は東部戦線にいた中央軍団参謀長フォン・トレシュコウと、ベルリンの国防軍副司令官フリートリヒ・オルブリヒト中将だったが、彼らはヒトラーの死が確認されるまでクーデター計画の実行をためらい、時機をのがしてしまう。ベルリンではヒトラーが党の反乱者に暗殺されたとし、戒厳令を布告し政府高官を逮捕。反乱軍を鎮圧するとして「ワルキューレ作戦」を発動し部隊を動員する計画だったが、シュタウフェンベルクがベルリンに来てみると計画は全く進んでいなかった。シュタウフェンベルクの話を聞いたオルブリヒトはヒトラーは死んだものと思い、陸軍を動員することを国内軍フロムに進言する。フロムはヒトラーの死を疑いカイテルに電話で確かめた、カイテルはヒトラーの生存を明かす。オルブリヒトはフロムを逮捕して軍にNSDAPと政府の制圧を命令するが、大本営との通信は保たれており、ヒトラーの健在は知られてしまっていた。ベルリン警護大隊エルンスト・レーマー少佐は上官のフォン・ハーゼ少将から拠点の占拠を命じられたが、そこにいた政治委員のハンス・ハーゲは命令は怪しいと感じゲッベルスに電話した。ゲッベルスは驚きレーマーを呼んだ、ヒトラーが死んだと思ったレーマーは自分の上官がクーデター派なのか分からず判断に迷ったが、ゲッベルスは電話で直接ヒトラーと話させヒトラーの生存を教えた。ヒトラーはレーマーに反乱鎮圧を命じる。ラジオはヒトラー生存を伝えクーデター派は失敗を思い知る。警護大隊は国内軍司令部を包囲した、司令部内のヒトラー派の将校は武器を手にオルブリヒトの部屋に突入し、シュタウフェンベルクとオルブリヒト、元参謀総長フォン・ベック元帥らクーデターグループ6人を捕らえた。将校らはクーデターグループに逮捕されていたフロムに状況を説明し、処置を求めた。フロムは直ちに6人を反逆罪で即決軍法会議にかけることにした、ベックは自殺を図る。実はフロムは積極的に関わらなかったが、クーデターグループに肯定的な言質を与えたことがあり、早く彼らの口を封じないと彼自身が危なかった。フロムは警護大隊に彼らの銃殺を命じ、21日午前0時15分中庭で処刑が行われた。シュタウフェンベルクは「神聖なるドイツ万歳」と叫び倒れた。東部戦線にいたトレシュコウはクーデターの失敗を知り、戦死を装い手榴弾で自殺を遂げた。トレシュコウは今回の事件以前にも暗殺を計画し、43年3月ヒトラーの乗機に爆弾を仕掛けるなどしたが、ついにヒトラーを倒すことが出来なかった。 |
ヒトラーは暗殺未遂事件の昼すぎに予定通りにムソリーニと会談。「私は、数時間前かつてない幸運を経験しました」と話し、ムソリーニを爆発現場に案内し、ズタズタになった彼のズボンを見せた。ヒトラーは死を免れたのは神が使命を果たすのを求める啓示だと語った。「われわれの状況は芳しくないが、今日ここで起きた事は新たな勇気をあたえる」と気力のないムソリーニを鼓舞した。しかし、2人の盟友の会談はこの日が最後になった。
7.21日、ヒトラーは、ラジオ演説で陰謀を非難し、「わたしは、わたし自身にとっては恐ろしくもないが、ドイツ国民には悲惨な結果をもたらすであろう運命を免れた、わたしはそこに、今後も自分の仕事を続けなければならないという神意のしるしを見る」と国民に呼びかけた。
ヒトラーはこの事件を契機に国防軍に対して猜疑心を強め、SS隊員に会見する高級将官たちの拳銃を預からせ、鞄の中を調べさせた。暗殺グループはもとより多少でも関わった者に対するヒトラーの報復は凄まじかった「恥知らずな裏切り者に対しては情け容赦のない処置が下される」(総統司令部)。多くの逮捕者は国家・総統に対する犯罪を裁く「国民裁判所」で死刑判決を受けた。裁判長を務めたローラント・フライスラーが見せしめを意図して被告を法廷で口汚なく罵り、延々と演説をする様は記録映画に残されている。元国防軍防諜部ヴィルヘルム・カナリス提督、同中央事務所長オスター・ハンス。クーデター成功時には国防軍司令官に就く予定だった陸軍元帥エルヴィン・ヴィッレーベン。元ライプチヒ市長カール・デルゲラーらが逮捕、処刑された。逮捕者は600人以上に及び、軍関係者は元帥3人を含め65人が自殺、処刑された。
報復は国民的英雄ロンメル元帥にまで死をもたらした。ロンメルはヒトラーに早期戦争終結を進言したが、軍人としての忠誠心からヒトラーを殺害してまで戦争を終わらせるつもりはなく、陰謀には加わっていない。しかし反ヒトラーグループはロンメルを当てにしていた。ロンメルの参謀長だったハンス・シュパイデル中将にはベック、グィッレーベン、クルーゲらが接触していた。逮捕された反ヒトラーのフランス軍政長官カール・シュテルプナーゲルの副官ホーファッカー中佐は、ロンメルが私を当てにしてよろしいと語ったとゲシュタポに供述した。シュテルプナーゲルも自殺を図りうわ言の中でロンメルの名を口にした。ヒトラーはロンメルを殺す決意を固めた。
シュパイデルも9月7日逮捕されロンメルもいよいよ自身の運命を悟った。10月14日ヒトラーから派遣されたエルンスト・マイゼル、ヴィルヘルム・ブルクドルフ両将軍がヘルリンゲンの自宅で療養中のロンメルを訪問した。7月に受けたロンメルの負傷はかなり回復していた。2人はヒトラーからのロンメルに裁判か自決を選べという伝言を伝えた。自決を選べば家族の安全とロンメルの名誉は保証するというものだった、裁判を受けても死刑の判決しかないと知っていたロンメルは自決を選択した。2人は毒薬を持参していた。ロンメルは高射砲連隊から休暇で自宅に帰っていた16歳の息子マンフレートと副官のアルディンガーを呼び、「わたしは15分後には死んでいるだろう」とヒトラーの要求と自殺を選んだことを伝え、アフリカ軍団の外套を着ると、元帥杖を手にして2人の将軍と共に迎えの車に乗り込んだ。車がウルムの病院に来たときロンメルは既に死んでおり、医長は検視を拒否された。車の中で起きたことは分からないが、おそらくロンメルは毒薬をあおりたちまち死亡したのだろう。マイゼルはすこしの間彼と運転手はブルクドルフに車から出され、戻った時にはロンメルが死んでいたと戦後供述したが、ブルクドルフはベルリンの総統官邸でヒトラーと死んでいる。ロンメルの自宅周辺には彼らが抵抗した場合に備えてSSの部隊が配置されていた。ロンメルの死は7月の負傷による塞栓と発表され、18日ウルムで国葬が行われ、暗殺未遂事件との関連は一切公表されなかった。ロンメルの国葬でヒトラーの弔辞を代読したルントシュテット元帥が差し出した腕を、ロンメル夫人ルシーは拒んだ。
8.1日、ソ連軍が迫ったのを知ったワルシャワの市民抵抗組織「郷土軍」は亡命ロンドン政府の指令で、自力でワルシャワを解放しようと武装蜂起する。モスクワ放送は市民に蜂起を呼びかけていた。ところがソ連軍はワルシャワ前面のヴィスツラ川で進撃を止めてしまった。「郷土軍」の市民はドイツ軍に勇敢に抵抗したが、ドイツ軍は600ミリ臼砲、装甲師団を投入してワルシャワを破壊する。スターリンは西側諸国寄りの「郷土軍」が自力でワルシャワを解放することによって発言力を得ることを拒否し、ドイツ軍に鎮圧されるのに任せたのである。すでに親ソ連の「ルブリン政権」が戦後のポーランドをソ連の衛星国化するため用意されていた。スターリンは西側連合国が「郷土軍」に物資の空中投下を求めた時も飛行場の使用さえ拒否した。「郷土軍」は追いつめられ地下水道に逃れて戦った、ワルシャワに投入されたSS第36武装擲弾兵師団は、問題のある兵士を集めた懲罰部隊で暴虐の限りをつくした。10.2日、8週間の抵抗の後「郷土軍」は降伏する。この戦闘でワルシャワ市民は25万の死者を出した。ヒトラーはワルシャワの徹底的な破壊を命じる。
8.1日、アメリカ第3軍(ジョージ・パットン中将)がブルターニュ半島の攻略に出撃、ヒトラーは反撃を命じかき集めた4装甲師団を投入するが作戦は連合軍に察知され、ドイツ軍は一時モルタンを奪回したものの反撃に失敗する。
8.15日、連合軍は、ほとんど抵抗を受けずに南フランスのカンヌ、ツーロン地区に上陸。
8.16日、ドイツ第7軍と第5装甲軍15万はファレーズに包囲され猛烈な爆撃、砲撃で大損害を蒙り、脱出した部隊も大半の装備を失っていた。ドイツB軍集団はノルマンディで40万の死傷者と20万の捕虜を出した。
8.19日、西部戦線で、アメリカ軍がセーヌ河を渡河。パリのレジスタンスは蜂起する。この時点でアメリカ軍にはパリ占領の予定はなかったが、この蜂起によってパリを急ぎ占領することにし、自由フランス第2機甲師団と米第4歩兵師団がパリへ向かった。
8.23日、ソ連軍が迫ったルーマニアでクーデターが起き、ドイツに宣戦。
8.24日、連合軍はパリに突入、ホテル・リッツに総司令部を置いていたドイツ軍守備隊司令官フォン・コルティッツ中将は、部隊をノルマンディ戦線に転出されて兵力がなく、ヒトラーのパリ破壊命令も無視した。コルティッツは25日午後降伏する。もっとも停戦は厳格に守られず小競り合いが起きた。
またフランス人同士の抵抗組織の勢力争いから戦闘が起きた。蜂起したレジスタンスは共産党が中心で、ドゴールの自由フランスはまだ権力を確立していなかった。レジスタンスや市民は対独協力者を殺害し、ドイツ人の子供を持つ女性の髪を切り、通りを引き廻しさらし物にした。
8.31日、ソ連軍はブカレストに侵攻、ルーマニアのプロエスティ油田を喪失したドイツ軍は燃料の枯渇に見舞われた。8月26日ブルガリアはソ連に宣戦しておらず同盟から脱退しドイツ軍を自国から追放したが、ソ連に宣戦されると直ちに降伏し、10月にドイツに宣戦。8月29日にはスロバキアで反ドイツの蜂起が発生、2カ月に渡って抵抗を続けた。
9.2日、フィンランドがソ連と停戦し、大統領になったマンネルヘイム元帥はソ連軍による占領を免れる代わりに、国土からのドイツ軍の排除を要求され、ドイツ軍と戦闘状態に入った。
9.17日、モントゴメリーのイギリス軍はオランダで「マーケット・ガーデン」作戦を開始。2日間でオランダの河川の主要な5つの橋ソン、フェーヘル、フラーフェ、ナイメーヘン、アルンヘムを確保し100キロを突破、ライン河に迫る作戦だった。
米第82、101空挺師団が4つ目までの目標に降下したがソンの橋は破壊されてしまい、次の2つの橋は確保したがナイメーヘンの確保はドイツ軍の抵抗で20日までかかったが、地上軍イギリス第30軍団との連絡に成功した。
9.17日、イギリス第1空挺師団は前進する機械化部隊の100キロ前方、最も遠い5つ目の目標アルンヘムに降下して橋の北側半分を確保し地上軍の到来を待ったが、降下地点にはドイツ軍SS第9、10装甲師団が集結していた。軽装備の空挺部隊は包囲され、ドイツ軍の激しい抵抗で進撃が遅れた第30軍団の到着まで持ちこたえられず25日降伏し、9.20日、作戦は中止され連合軍の急進撃は一息ついた。弱体化したとは言え、強力な重戦車を持つドイツ装甲師団は米英機械化部隊にとっても手強い相手だった。
9.25日、ヒトラーは、「民族動員令」を発令し、16歳から60歳の男子を「国民突撃隊(Volkssturm)」に動員した。ゲッベルスは国民を「総力戦」へと鼓舞する。連合軍の将兵には戦争はクリスマスまでに終わるといった、楽観的な雰囲気さえあったが、ヒトラーはまだ戦争を捨てていなかった。西側連合軍に大打撃を加え単独講和を結び、ソ連との戦いに戦力を集中する構想であった。そのためには西側連合軍に攻勢をかけなければならない。
10.11日、ソ連軍、ドイツ国境を突破。
10.13日、イギリス軍がギリシャのアテネに入城。
10.14日、ロンメル、服毒自殺。
10.15日、ハンガリーの指導者ホルティ提督がソ連との停戦を図ったが、ドイツ軍に察知されスコルツェニーらによって軟禁されソ連との停戦が阻止された。ユーゴスラビアではヨシプ・チトーの率いる共産パルチザンが自力で国土の大部分を解放していた。
11.28日、ようやくイギリス軍はアントワープに入った。
1944年12月、ドイツ軍は追い詰められていた。同年6月のノルマンディー上陸以降、連合軍はヨーロッパで快進撃を続け、ドイツ国境まであと一歩というところへ迫っていたが、その頃はもう何週間もヒトラーの軍と本格的な戦闘を交えていなかった。 ヒトラーは再びアルデンヌを突破、アントワープを占領しベルギー北の連合軍を分断包囲するという作戦を明らかにした。港まで到達すれば、崖っぷちにあったドイツ軍にとって一番必要な物資が手に入る。事実、戦車の燃料が底を尽きかけていた。作戦がうまく行って連合軍を包囲できれば、ドイツに有利な平和条約が引き出せると考えていた。モーデルやルントシュテットら将軍連はこの壮大な作戦に「この作戦にはよって立つべき脚がない」と反対したが「フリードリヒ大王はロスバッハとロイテンで2倍の敵を打ち破った、いかにしてか?大胆な攻撃によってだ。なぜ歴史から学ぼうとしないのだ」とヒトラーに押しきられる。当初31個師団が投入される予定だったが、戦況の悪化から20個師団が当初攻勢に出る事になった。このうち第2装甲師団とSS第1、2、6、12装甲師団、戦車教導師団は強力な戦車を揃えた虎の子の精鋭部隊である。 作戦は3個軍団で約80キロの前線を突破、第6SS装甲軍(ディートリッヒSS上級大将)は北部を攻撃しミューズ河を渡りアントワープまで約200キロ突進し、第5装甲軍(マントイフェル中将)は中央を進みアルデンヌを駆け抜けミューズ河からアントワープまでの側面を押さえる、第7軍(ブランデンベルガー大将)は歩兵主体で南部を進み第5装甲軍の側面を援護し連合軍の反撃を防ぐ。2日目にはミューズ河を渡り、7日目にはアントワープまで達する計画である。 |
12.16日午前5時30分、2千門による迫撃砲撃が開始され「ティーゲル」、「ケーニス・ティーゲル」を含む970両の戦車が進撃した。猛攻撃が90分間続いた。その次は機関銃掃射の嵐となった。この「ラインの守り」作戦は連合軍に感づかれることなく奇襲は成功した、この前線にいたアメリカ軍機甲1個、歩兵5個師団は戦闘で消耗した部隊が再編中か、装備こそ完全ながら実戦経験が皆無の新兵だった。ドイツ軍は40年の攻勢を再現すべく突進した。悪天候のためドイツ装甲師団最大の脅威、空からの連合軍機の攻撃からはしばらく逃れられる。 ヒトラーは作戦に当たりオットー・スコルツェニーらに特殊部隊の編成を命じていた、兵士は英語に堪能でアメリカ軍の軍服と装備で偽装し戦線後方に侵入し、橋など拠点を占拠し、偽の命令でアメリカ軍を混乱させる任務を帯びていた。攻撃はアメリカ軍司令部には最初「5件の軽度の侵入」と報告されアメリカ軍は本格攻勢への対応に遅れを取ったが、第7、10機甲師団を呼び寄せた。のちに2個空挺師団と第1、3軍を投入した。 |
12.17日、ドイツ第6装甲軍の攻撃はモンシャウ=ロスハイム間の米第99師団の前線に向けられたが、新米のアメリカ軍は善戦し、1日半もの間持ちこたえた。しかしロスハイム渓谷ではヨーヘン・パイパーSS中佐の戦闘団が突破に成功した。第5装甲軍の前進も順調でバストーニュに向かった。 |
12.18日から19日、アメリカ軍が緊急防衛線を築いたエルゼンボルン丘陵で雪の中激戦が展開されたが抜くことは出来なかった。シェネー・アイフェルでは孤立した米106師団の2個連隊8千から9千名が降伏した、太平洋戦線のバターン半島に次ぐ規模であった。ドイツ軍は敵の拠点が抵抗した場合、占領に時間を割くより孤立させ先に進む方針であった。急進撃を続けるパイパーは17日ホンズフェルトに突入していた、しかし燃料の不足が起きており、後続の補給部隊は来ていなかった。パイパーは軍法会議の危険を冒し予定のコースを外れてブリンゲンにある米軍の燃料集積所を襲い燃料を分捕ると、元のコースに戻って進撃を続けた。18日にはスタブローに達する、しかしトロワ・ポンの要衝の橋の確保に失敗する。午後には天候が回復し出撃が可能になった連合軍機の地上攻撃を受け、ストゥーモンに止まった。 スコルツェニーの特殊部隊「第150装甲旅団」は捕獲した米軍のM4「シャーマン」戦車やドイツ戦車を偽装して米戦車に似せた車両まで用意していたが、前線の突破が遅れるうちに進撃路の渋滞にはまってしまい、第1SS装甲師団に加わり通常の部隊として作戦に参加した。しかしスチラウ大尉率いる部隊は数台のジープがアメリカ軍に紛れ込む事に成功した。彼らは標識を変えたり、電話の切断などの軽度の破壊しか出来なかったが一隊が見破られて捕虜になり、任務を自白したためアメリカ軍に大きな心理的恐怖を与えた。アメリカ兵は認識票や命令書を信用せず、ワールドシリーズや漫画の主人公の質問を浴びせてからお互いを確認する騒ぎだった。この一隊はさらに連合軍最高司令官アイゼンハワー大将の殺害計画を自白(実際には計画されていなかった)したためフランスの司令部で、アイゼンハワーは強力な護衛下で軟禁状態となってしまった。サン・ヴィット防衛司令官ブルース・クラーク准将までもが特殊部隊に疑われMPに逮捕された。彼がシカゴ・カブスのリーグを間違えて答えたためである。 |
12.21日、バストーニュはアメリカ第101空挺師団の増援と共に第5装甲軍に包囲されてしまう、アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告を拒否する。 |
同日にはサン・ヴィットへの攻撃が開始され、12.23日、アメリカ軍はサン・ヴィットから脱出した。23日天候が回復し、連合軍機の攻撃が激しくなったが、第5装甲軍の第2装甲師団はミューズ河まで6キロのセルに達した。戦車教導師団、第9装甲師団の増援と燃料補給を受けてミューズ河を渡るはずであったが、増援も燃料も届かなかった。そこへ北からアメリカ軍第2機甲師団(ハーマン少将)が攻撃をかけてきた。 |
12.24日、クリスマスには連合軍の反撃が強化され、燃料の不足したドイツ軍は動きが取れなくなった。 |
12.26日、激戦の末、第2装甲師団は敗れドイツ軍はミューズ河を渡れなくなった。第2SS装甲師団はマネーまでしか進めなかった。南の第7軍にはアメリカ第3軍(パットン)が襲いかかってきたがドイツ軍の抵抗は激しく、持ちこたえていた。 |
12.26日、包囲されていたバストーニュにアメリカ第3軍が合流し、両軍の戦車が激戦を展開した。ドイツ軍重戦車「ティーゲル」「ケーニス・ティーゲル」はアメリカ軍M4「シャーマン」戦車を撃破したが、燃料不足と航空攻撃、アメリカ軍の物量に圧倒された。ドイツ軍先鋒部隊は連合軍の攻勢で突出部に取り残されつつあった。マントイフェルは撤退をヒトラーに求めたがヒトラーは例によって「死守命令」を繰り返した。しかしもはや勝敗はついていた。燃料が尽き、退路の橋を失ったパイパー戦闘団は23日車両を放棄し、徒歩で前線を突破し味方の前線まで帰りついた。 |
戦いは巣翌45年1.24日まで続いた。この戦いで、米軍には1万9000人の死者が出ている。ドイツ軍は、連合軍の戦線を一部突破したものの、それ以上前進することはなかった。ナチスの勢いは、連合軍の反撃で失速し、アントワープで手に入れたかった物資を得ることもできず、最後の力を使い果たした。バルジの戦いは、追い詰められて土壇場で巻き返しを狙ったヒトラーの最大の抵抗だった。ナチスの作戦はリスクの高い賭けで、これに破れたナチスの命運は尽きた。 |
この後は、「第二次世界大戦末期、第三帝国解体の経緯」
(私論.私見)