ヒトラーの禁煙政策、ガン予防政策考

 更新日/2016.10.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考をものしておく。

 2010.1.4日 れんだいこ拝


【ヒトラーの禁煙政策、ガン予防政策の評し方考】
 「ナチは歴史上、最悪の政権だった」っていう設定で議論されているが、世界で最初に禁煙運動を始めた歴史的地位を持つヒットラー&ナチスの反タバコ政策からは別の面貌が浮かんでこないだろうか。そもそもヒトラー政権の禁煙政策が案外知られておらず、仮にこれに触れる者が居ても、ヒトラーを狂人と見立てる観点、ヒットラー&ナチスの反タバコ政策は優生思想に結びついたものであり、精神病患者の安楽死に始まり最後はユダヤ人の大虐殺に行き着いたなる観点に曇らされており、ヒトラーの禁煙政策そのものの意義を捉え損ねている。つまり、真っ当な評価ができていない。そういう意味で、ここで、ヒトラーの禁煙政策を然るべき評価基準の下に採り上げておくことにする。

【プロクター著「健康帝国ナチス(The Nazi War on Cancer)」考】
 「★阿修羅♪ > 歴史02」の スットン教氏の2009.12.29日付け投稿 「健康帝国ナチス (単行本) ロバート・N. プロクター著 草思社 (2003/09)」を参照する。

 ヒトラーは、ネオシオニズム的な文明そのものに対して根本的に否定していた。頭脳に対し悪い影響を与えるとしてタバコ、酒、肉食を控える等、厳格な生活をしていた。次のように述べている。
 「現代文化の頽廃の多くは、下腹からきている。便秘、肉汁中毒、アルコール銘ていである。肉類、アルコール、不潔な喫煙を控えているのは健康上の理由からだけではなく、心の奥底からの信念による。しかし世間はそこまで成熟していない」。

 「ヒトラーの禁煙政策」に触れた著書としてロバート・N. プロクター著「健康帝国ナチス(The Nazi War on Cancer)」(宮崎尊訳、草思社、2003.9)がある。ナチスが世界で最も積極的に癌と戦う政策をとっていたことがほとんど知られていない。本書は、この事実を詳細に伝える示唆に富む書である。次のように述べている。
 概略「ナチスは、民族の健康を守ることにきわめて強い関心を持っていた。癌は増大する脅威とみなされ、おそらくアドルフ・ヒトラーの頭の中でも特別な意味を持っていた。彼の母親クララは1907年に乳癌で死亡している。ナチスの医師たちは多くの領域で癌と戦った。環境や職場における危険を排除し(アスベストの使用を制限)、食品の安全基準を定め(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。男性はマイカーのエンジン点検と同程度の頻度で腸の検査を受ける方がいいとした。世界で最も洗練されたタバコに関する疫学をもとに、ナチスの医師達はとくにタバコの害を熱心に訴えた。彼らはだれよりも早く喫煙を肺癌と結びつけた。ヒトラー自身も熱心な禁煙推進派であった」。

 但し、プロクターは、こう語りながらも、その通俗的なヒトラー及びナチス観の歪みから、これを「ファシズムの裏面」と評している。この観点から、「人の道に外れた政権が倫理的に正しい科学研究を推進し、成果をあげることができるのか」と、わざわざ問題を難しく立てている。そして、次のように述べている。
 「ナチスの公衆衛生当局者が、アスベストに起因する肺癌の発生を懸念していたことを知ると、われわれは歴史を違う目で見るようになるだろうか。私はそうだと思う。ナチズムはわれわれが一般に想像する以上に複雑な現象であり、魅力的で、許容できる部分もあったことがわかる」。

 れんだいこに云わせれば、非常に屈折した物言いをいていることになる。あるいは「奴隷の言葉」で意図的にこう表現したのかも知れない。それなら許せる。これを評する論者の評は次のようなものである。
 「プロクターはナチズムの擁護者ではない。以前の作品『Racial Hygiene』では、ナチの残虐行為を厳しく糾弾している。しかし彼は明らかに、ファシスト政権が生み出した科学とホロコースト研究を取り巻く複雑な倫理的問題に踏み込もうとしている。彼の信頼すべき文章は、徹底的な調査、すぐれた例証、数十ものイラストのおかげで、より完全なものになった。『The Nazi War on Cancer』は、ホロコーストと医学の歴史に関する研究をさらに豊かにするすぐれた作品だ」(C.B. Delaney, Amazon.com)。

 総論として、「ヒトラーの禁煙政策」に堂々と触れたことに意義を認めるべきかも知れない。次のようにも述べている。
 概略「枢軸国側のヒトラー、ムッソリーニ、フランコが揃いも揃ってタバコ嫌いだったのに対して、連合国側のチャーチル、スターリン、ルーズベルトがヘビー・スモーカーだったことはよく知られている。ベジタリアンでもあったヒトラーの健康志向は強く、………禁煙運動にも熱心であった。それをナチスは綱領にも取り込み、1939年に『義務としての健康』という国家スローガンを正式に採用。ユダヤ人排斥運動と並んで『当時類を見ないほど本格的な』環境保護運動と禁煙運動を展開した。………ホロコーストと健康志向は『ナチスの優生学』という同じコインの両面で、人間を健康な兵力または労働力、女性は出産力としてのみ評価するという冷徹なプラグマチズムに貫かれている。だから身障者の抹殺や劣った遺伝子保護者の断種、『生きる価値のない生命の全面排除』に容易に繋がるものだった」。

 堤堯(ジャーナリスト)氏のヒトラーはタバコを吸わない」が、文藝春秋(07年10月号)の養老孟司×山崎正和対談「変な国・日本の禁煙原理主義」に於ける養老氏の次のような発言を紹介している。養老氏はナチスの禁煙運動を嘲笑する立場から論じているのだが、採用できる観点のところのみ抜粋引用しておく。
 「あまり知られていないことですが、実は歴史上、社会的な禁煙運動を初めて行なったのはナチス・ドイツなんです。チャーチルとルーズヴェルトはタバコ飲みでしたが、ヒトラー、ムッソリーニはタバコを吸わなかった。ナチス時代のドイツ医学は、国民の健康維持について、先駆的な業績をいくつも挙げています。癌研究は組織化され、集団検診や患者登録制度の仕組みが確立された。その中で『肺癌の原因はタバコだ』という研究が発表され、禁煙運動が推進された」。

 2010.1.4日 れんだいこ拝

【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】
 これに触発され、「ウィキペディア/ナチス・ドイツの反タバコ運動」を参照し、史実的なところを転載しておく。
 ナチス・ドイツの反タバコ運動とは、ドイツ人医師が初めて喫煙と肺癌との関連性を確認して以降、現代医学に準ずる研究として十分に認められるやり方でタバコの害を発見したことを受けてナチス・ドイツ政権が喫煙に対する反対運動を開始したものである。ナチス政権のこの反タバコ運動は近代史における最初の公共禁煙キャンペーンと云われ、反タバコ運動は20世紀初頭から多くの国々に広がったが、ナチス政府から支援をうけたドイツ以外では大きな成功をおさめることはなかった。このドイツでの禁煙運動は1930年代および1940年代初頭における世界でもっとも強力なもので、ナチ党指導部は喫煙を(一部は公然と)非難した。喫煙とその健康に及ぼす影響に関する研究はナチスの指導のもとで進められ、それは当時この類ではもっとも重要なものだった。アドルフ・ヒトラーのタバコ嫌いとナチスの多産政策が禁煙運動を支援する誘因となり、それは人種差別や反ユダヤ主義と関係していた。ナチスの反タバコキャンペーンでは、トラムやバス、市街電車内での禁煙条例、衛生教育の促進、国防軍におけるタバコの配給制限、兵士への衛生講義の開催、およびタバコ税の増税などが行われた。また、たばこ広告や公共の場での喫煙の制限、レストランや喫茶店での規制も課された。反タバコ運動はナチス体制初期には充分な効果があがらず、1933年から1939年にかけてはタバコの消費量は増加したが、1939年から1945年にかけて軍関係者の喫煙は減少した。20世紀の終わりに至っても、戦後のドイツにおける禁煙運動は、ナチスの禁煙キャンペーンほどの影響力を持つに至っていない。
 前兆

 ドイツでは1900年代初頭から嫌煙感情が存在した。嫌煙家は国内初の反タバコグループ「Deutscher Tabakgegnerverein zum Schutze der Nichtraucher」(非喫煙者保護のためのドイツ人タバコ反対派協会)を組織した。1904年に創設されたこの組織は短期間だけ存在した。次の反タバコ組織「Bund Deutscher Tabakgegner」(ドイツ人タバコ反対派同盟)は、1910年にボヘミアのトラウテナウで創設された。別の禁煙組織が1912年にハノーファーとドレスデンで設立された。第一次世界大戦後にチェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国から独立すると、1920年に「Bund Deutscher Tabakgegner in der Tschechoslowakei」(チェコスロバキア・ドイツ人タバコ反対派同盟)がプラハで、グラーツでは「Bund Deutscher Tabakgegner in Deutschösterreich」(ドイツ・オーストリア・ドイツ人タバコ反対派同盟)が設立された。これらのグループは禁煙を奨励する刊行物を出版した。最初のドイツ語での刊行物『Der Tabakgegner』(タバコ反対者)は1912年から1932年にかけてボヘミアの組織から発行された。次いで『Deutsche Tabakgegner』(ドイツのタバコ反対者)が1919年から1935年にかけてドレスデンで発行された。反タバコ組織はアルコール飲料の摂取にも反対した。

 理由 
 ヒトラーの喫煙に対する姿勢

 アドルフ・ヒトラーは元々はヘビースモーカーだった — 一日25から40本の紙巻きたばこを吸っていた — が、それは金の無駄遣いだと考えやめた。後年、ヒトラーは喫煙を「退廃的」、「レッドマンのホワイトマンに対する怒り、強い酒を持ち込んだことへの仕返し」だとみなし、「多くの優れた人々がタバコの害に無感覚である」ことを嘆いた。彼はエヴァ・ブラウンとマルティン・ボルマンがタバコを吸うことに不満であり、ヘルマン・ゲーリングが公共の場で喫煙することを懸念した。彼は葉巻を吸っているゲーリングの姿を描写した彫像が発注されたときに激怒した。他にもヒトラーの秘書であったクリスタ・シュレーダー等も喫煙者であったが、側近者はヒトラーの居るところでは喫煙しないように心がけていた。ヒトラーはしばしば禁煙を主張した初めての国家指導者だと思われているが、イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)が300年の差をつけている。また理由の科学的・非科学的を問わずヒトラー以前にヨーロッパ諸国、アラブ諸国で禁煙政策がとられた。日本でも徳川家康による禁煙令が出された。

 ヒトラーは軍関係者の喫煙の自由に反対し、第二次世界大戦中の1942年3月2日に「それは過ちであり、開戦当時からの軍の指導者達に見ることが出来る」と語った。また、「兵士はタバコなしでは生きていけないというのは正しくない」とも言った。彼は戦争が終わったら軍でのタバコの使用を止めさせると約束した。ヒトラーは個人的に身近な友人にタバコを吸わないよう勧め、禁煙した場合に褒美を与えた。しかし、ヒトラーの個人的なタバコ嫌いは禁煙キャンペーンを後押しするいくつかの要素の一つに過ぎなかった。

 多産政策

 ナチスの多産政策は反タバコキャンペーンを奨励する大きな要因だった。喫煙する女性は早老であり身体的魅力に欠けると考えられ、そのような女性はドイツの家庭において妻や母になるには不適当だとみなされた。人種政策局のヴェルナー・フッティクは、喫煙する母親の母乳にはニコチンが含まれると主張し、それは後世の研究により証明された。第三帝国時代の著名な医師マルティン・ステームラーは、妊娠中の女性が喫煙すると高い割合で死産や流産になると述べた。この意見は著名な女性人種改良主義者アグネス・ブラームにも支持され、1936年に出版された彼女の著書でも同じ見解が述べられた。ナチ党指導部はドイツの女性にできるだけ出産させたかったためこれに懸念を抱いた。1943年にドイツで出版された婦人科学雑誌の記事では、一日に3本以上タバコを吸う女性は、吸わない女性に比べ妊娠しない傾向があるとの見解を示した。

 研究

 ナチ政権下のドイツにおける人の健康に対するタバコの影響に関する調査研究は、他の国々のそれよりもずっと進展した。タバコと肺癌の関連性はナチス・ドイツにおいて初めて証明されたのであり、1950年代にアメリカおよびイギリスの科学者による発見が初めてであるという説は正しくない。受動喫煙("Passivrauchen")という言葉を作り出したのもナチス・ドイツである。ナチスによって立ち上げられた研究プロジェクトは、喫煙が健康に多くの悪影響を及ぼすことを解明した。ナチス・ドイツは喫煙の有害性に関する疫学研究を支援した。ヒトラーはイェーナ大学のカール・アステルが所長を努める「タバコの危険性に関する科学研究所」(Wissenschaftliches Institut zur Erforschung der Tabakgefahren)に個人的な資金援助を行った。 1941年に創設されたこの機関はナチス・ドイツにおけるもっとも影響力のある反タバコ研究所だった。

 フランツ・H. ミュラーは1939年に、E. シャイラーは1943年に、初めて喫煙者における肺癌研究に疫学的手法の症例対照を採用した。1939年、ミュラーはドイツの信用ある癌雑誌上で、喫煙者の癌有病率が高いと言う研究結果を発表した。「実験疫学の忘れられた父」と称されるミュラーは、国家社会主義自動車軍団(NSKK)およびナチ党(NSDAP)のメンバーだった。

 ミュラーの1939年の医学学位論文は、世界で初めてのタバコと肺癌の関連性についての対照疫学研究だった。肺癌罹患率の増加や多くの原因が粉塵、車の排気ガス、結核、X線、およびの工場から排出された汚染物質などであるとしたこととは別に、ミュラーの論文は、タバコの煙の重要性をよりいっそう表立たせた。

 ドイツの医師は、喫煙は心疾患の原因であると気づいており、喫煙がもっとも深刻な結果をもたらすと考えていた。ニコチンの摂取は時々心筋梗塞が国内で増加していることの原因とみなされた。第二次世界大戦末期、研究者は東部戦線でかなりの数の軍関係者が冠状動脈性心不全になっているのは、ニコチンがその要因だと考えた。陸軍の病理学者は前線で心不全になり死亡した32名の若い兵士を調査し、1944年、彼らのすべてが「熱狂的愛煙家」であったと報告書に記録し、また病理学者フランツ・ブフナーの、「タバコは冠状動脈の最大の害毒である」との意見を引用した。

 方策

 ナチスはドイツの一般民衆が喫煙しないよう説得するためにいくつかの広報戦術を利用した。『Gesundes Volk』(健康な国民)、『Volksgesundheit』(国民の健康)、あるいは『Gesundes Leben』(健康な人生)といったよく知られた健康雑誌が記事で喫煙の影響について警告し、タバコの悪影響について書かれたポスターが貼られた。喫煙に反対するメッセージが、しばしばヒトラー・ユーゲントやドイツ女子同盟の協力を得て職場の人々に送られた。ナチスによる禁煙キャンペーンには衛生教育も含まれていた。1939年6月、アルコールおよびタバコの危険対策局が編成され、「Reichsstelle für Rauschgiftbekämpfung」(麻薬対策局)も反タバコキャンペーンを支援した。非喫煙者を擁護する記事が雑誌『Die Genussgifte』(快楽の害毒)、『Auf der Wacht』(護衛のもとで)、および『Reine Luft』(きれいな空気)などに掲載された。これら雑誌の中で、『Reine Luft』が反タバコ運動の中心となっていた。カール・アステルのイェーナ大学タバコの危険性に関する科学研究所は『Reine Luft』を購読し、数百部再版して配布した。

 健康に対するタバコの悪影響が認識された後、いくつかの禁煙法が成立した。1930年代後半になると、ますます反タバコ法がナチスによって施行されるようになった。1938年、ドイツ空軍およびライヒスポスト(国営郵便電信事業)に喫煙禁止が課された。喫煙は医療機関だけでなく、一部の官公庁や介護施設においても禁止され、助産師は仕事中の喫煙を制限された。1939年、ナチ党は党施設内での喫煙を全面禁止し、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは警察関係者および親衛隊将校の勤務中の喫煙を制限した。喫煙は学校でも禁止された。

 1941年、ドイツの16の都市でトラム車内での喫煙が禁止された。防空壕内も禁煙とされたが、いくつかのシェルターは喫煙室を用意していた。特別治療施設では女性の喫煙を防ぐ措置がとられた。ドイツ医師会会長は「ドイツの女性はタバコを吸わない」と宣言した。

 第二次大戦中、妊婦、25歳以下、および55歳以上の女性にはタバコの配給券が支給されなかった。サービス業および食品小売業の、女性へのタバコ製品の販売制限が課された。女性向けの反タバコ映画が一般公開され、喫煙の問題と影響について論じた社説が新聞に掲載された。これらの事柄に関して徹底的な方策が取られ、国家社会主義経営細胞組織(NSBO)の一地方局は、公共の場で喫煙した女性は除名すると発表した。反タバコキャンペーンの次のステップは1943年7月に現れ、18歳以下の公共の場での喫煙が禁止された。翌年、ヒトラーは女性の乗客が受動喫煙の被害者になることを恐れ、個人的に主導してバスや市街電車内での喫煙を違法とさせた。

 タバコ製品の広告制限にも制限を課し、1941年12月7日に法が制定され、広告協議会会長のハインリヒ・フンケはそれに署名した。喫煙が無害であるかのような、あるいは男らしさの象徴であるかのような広告は禁止された。反タバコ活動家をからかうようなことも禁止され、線路、農村地域、スタジアム、および競争路での広告ポスターの使用は現状維持とされた。ラウドスピーカーおよび郵便による宣伝もまた禁止された。

 喫煙制限は国防軍にも導入された。タバコの配給は兵士一人当たり1日6本に制限された。余ったタバコはしばしば、特に膠着している戦場において兵士間で売買されたが、これらは各兵士1か月あたり50本までに制限された。ヒトラーユーゲントのメンバーで構成された第12SS装甲師団所属の十代の兵士達は、タバコの代わりにキャンディを支給された。国防軍婦人補助要員のタバコの入手は許されなかった。軍関係者に喫煙を止めるよう促す衛生講義が用意された。1941年11月3日、タバコ税を小売価格の約80-95%に引き上げる条例が布告された。これはナチ政権崩壊後25年以上経った時点でももっとも高い上昇だった。

 有効性

 当初反タバコ運動は小規模でその影響力は極めて小さく、初期の禁煙キャンペーンは失敗したと考えられている。1933年から1937年にかけてドイツでのタバコ消費量は急増し、国内の喫煙率の上昇は隣国のフランスより高かった。1932年から1939年の間のフランスでの一人当たりの紙巻きたばこ消費量が年間570本から630本に増えたのに対し、ドイツでは570本から900本に増えた。

 ドイツのタバコ製造会社は反タバコキャンペーンを弱体化させるための企てをいくつか行った。彼らは雑誌を創刊し反タバコ運動を「狂信的」、「非科学的」として伝えた。タバコ業界も政府の女性の喫煙を止めるためのキャンペーンに反対し、広告にタバコを吸うモデルを起用しようとした。またタバコと女性が描かれたファッションイラストレーションが『Beyers Mode für Alle』のような有名な出版物に掲載された。ヒット曲『リリー・マルレーン』のカバーアートには歌手ララ・アンデルセンがタバコを持つ姿が採用されている。政府の取締りをよそに、ナチス高級官僚の妻を含む多くの女性が日常的にタバコを吸った。例として、マグダ・ゲッベルスは記者から取材を受けている最中でもタバコを吸っていた。

ドイツとアメリカの一人当たりの
紙巻きたばこ年間消費量
1930 1935 1940 1944
ドイツ 490 510 1,022 743
アメリカ 1,485 1,564 1,976 3,039

 1930年代の終わりと第二次大戦初期にナチスは反タバコ政策をさらに施行し、喫煙率は減少した。国防軍内での反タバコ方策実施の結果として、1939年から1945年の間兵士の総タバコ消費量は減少した。1944年に実施された調査によれば、国防軍内における喫煙者数は増加したが、平均タバコ消費量は開戦直前に比べ23.4%減少した。一日あたり30本以上タバコを吸う喫煙者は、4.4%から0.3%に減少した。

 ただしナチの反タバコ政策には矛盾もはらんでいた。例えば、「国民の健康」(Volksgesundheit)および「健康の義務」(Gesundheitspflicht)政策を実施しながら、それと同時にナチスが〔喫煙する〕「資格のある」グループとみなした人々(前線の兵士、ヒトラーユーゲントのメンバーなど)へのタバコの支給も行われた。他方では、「資格のない」あるいは虐げられたグループ(ユダヤ人や戦争捕虜)はタバコの入手が認められなかった。

 反ユダヤ主義および人種差別主義との関連

 国民の健康への懸念は別として、ナチスはイデオロギーによる大きな影響を受け、この運動は特に人種改良および肉体的純潔の概念の影響を受けた。ナチ党指導部は、喫煙は支配民族にとって不適切であり、タバコの消費は「民族の堕落」に等しいと考えた。ナチスはタバコを「遺伝子の毒」とみなした。人種改良主義者は喫煙に反対し、「ドイツ人生殖質」が汚染されることを恐れた。ナチの反タバコ活動家は、しばしばタバコを「アフリカ人変質者の悪習」と表現しようとした。

 ナチスはユダヤ人にタバコとその悪影響を持ち込んだ責任があると主張した。ドイツのセブンスデー・アドベンチスト教会は、喫煙はユダヤ人によって広められた不健康な悪習だと発表した。『Nordische Welt』(北欧世界)の編集者ヨハン・フォン・レールスは、1941年、「タバコの危険性に関する科学研究所」の開所式において、「ユダヤ資本主義」には喫煙をヨーロッパ中に広めた責任があると公言した。彼は、最初にドイツ国土にタバコを持ち込んだのはユダヤ人であり、ヨーロッパにおける主要なタバコ草陸揚げ拠点であるアムステルダムのタバコ業界を牛耳っているのだと語った。

 第二次世界大戦後

 ヒトラーは、ベルリンの戦いの末期に総統地下壕で自殺を遂げたが、秘書の一人ゲルダ・クリスティアンの回想によると自殺直後の地下壕は虚無的な雰囲気に包まれると同時にそれまでヒトラーに遠慮していた人々が大っぴらにタバコを吸い始めたと言われている。第二次世界大戦が終了し、ナチス・ドイツが崩壊した後、アメリカのタバコ製造会社が速やかにドイツの闇市場に進出した。タバコの密輸が一般化し、ナチス禁煙キャンペーンの指導者らは暗殺された。1949年、アメリカでおよそ4億本の紙巻きたばこが製造され、毎月ドイツに不法に持ち込まれた。1954年、20億本のスイスタバコがドイツとイタリアに密輸された。

 マーシャル・プランの一環として、アメリカはドイツに無料のタバコを送った。1948年にドイツに送られたタバコの量は24,000トンにのぼり、1949年には69,000トンになった。アメリカ合衆国連邦政府は、この計画に7千万ドルを使い、利益に飢えていたアメリカのタバコ製造会社を大喜びさせた。戦後ドイツにおける一人当たりの年間タバコ消費量は1950年の460本から1953年の1,523本へと着実に増加した。

 一方でタバコの消費が回復すると同時に、タバコ会社による「禁煙=ファシズム」という印象操作にも等しいネガティブ・キャンペーンによって、禁煙や嫌煙運動は打撃を受けることになった]。20世紀末になっても、ドイツにおける反タバコキャンペーンは(ナチスの絶頂期だった)1939年~1941年の水準にまで届かず、ドイツのタバコと健康の研究は、ロバート・N・プロクターをして「沈黙した」と言いわしめた。


【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】
 「★阿修羅♪ > 議論22 」のへなちょこ 氏の2005 年 10 月 12 日付投稿「健康帝国ナチス(煙草の議論は本筋からはなれるのだが・・・)」を転載しておく。
 人類の宿敵“がん”を撲滅するため、世界各国はいま対策に追われている。有害化学物質の使用を禁じ、排気ガスを規制、身のまわりからもタバコや食品添加物を排除しようとやっきになっている。ところが、既に70年前にそれを実行し、国をあげて熱烈にがん撲滅に取り組んでいた国がある。ナチス・ドイツだ。 驚くべきことに当時のドイツでは、既にがんの原因として放射性物質、タール煤煙、アスベスト、アニリン染料などを突き止めていた。タバコが肺がんの主因であることを世界で初めて証明したのも、ドイツの疫学者たちだ。 世界有数の合成染料生産国だったため、アニリン染料による膀胱がんが多発し、タールやアスベスト、ラジウムを扱う職場でもがんが増えていたので、既にがんは職業病だとの認識もあった。

 世界に先駆けて国立の「がん研究・がん撲滅中央委員会」ができたのはナチス政権樹立の前だが、国の重要な産業を脅かすがんは、「健康は義務である」を国家スローガンにし、優秀なゲルマン民族の繁栄を願ったナチス政府にとっても「国家最大の敵」だった。従って、ナチス政府のがん撲滅運動は徹底しており、1930年代には早くも各地で集団検診を実施して、早期発見の大キャンペーンを行っている。特に優秀な子孫を産むべき女性の検診には力を入れ、がんの精密検診を受ける女性は年間何十万人にも上った。

 また肺がんの原因とみなされたタバコについては、世界で類をみないタバコ撲滅運動を展開し、反アルコール、食生活改善の運動も国が音頭をとった。ナチス党員のパン屋は全粒パンを焼くことを義務づけられたし、バターに使われていた食用色素“ジメチルアミノアゾベンゼン”の使用も禁止された。

 ナチスの指導者たち自身の健康志向も強かった。ヒトラーの菜食主義は有名だが、親衛隊長官ヒムラー、副総統ヘスもベジタリアンで、当時のドイツでは菜食主義は一大流行だった。チャーチルやスターリンは愛煙家だったが、ヒトラーはアルコールもタバコもたしなまず、愛人エファー・ブラウンがタバコを吸うのを許さなかったといわれる。

 この徹底した国民健康向上計画は、ナチス・ドイツというファシズム国家だからこそ国家プロジェクトとして強力に推し進めることができたといえる。そして第三帝国下でのドイツは、ナチス指導者たちの夢をのせて健康ユートピア実現のための壮大な実験の場となった。だがユートピア構想が、いつの間にか純血主義というパラノイアへとつながっていく。がんという異物の排除が、「社会の異物」ユダヤ人の排除へとつながっていくレトリックは狂気としかいいようがない。その結果もたらされた集団殺りく、人体実験、断種といった暴挙の衝撃があまりに大きすぎたため、1つの国が国をあげてがんと戦ってきた事実が語られないまま、長い時間が過ぎてしまった。この本で明らかにされる先駆的で壮大ながんとの闘いは驚異的でさえあるが、ファシズムの暴虐と結びついたものについて、私たちはあえて目をそらしていたのではないだろうか。
 
 ナチスというファシズムにもいろいろな側面がある。ホロコーストの残虐性と、壮大ながん戦争を推し進めて国民を救おうという使命感は共存できるのである。当時のドイツの医学だってナチスのためにあったのではないが、もちろん無関係でもなかった。科学史を専門とする著者は、常に「時の社会情勢や政治体制と切り離された科学研究はありえない」とする視点でテーマを見てきた。歴史や物事にはいろいろな側面があり、それから目をそらさないことの意味も教えられる本だ。(松田 博市)


【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】
 健康帝国ナチス」、「ナチ/ヒトラー」を転載しておく。
 ロバート・N. プロクター著の「健康帝国ナチス」を読破しました。先日、不覚にも風邪をひいてしまい、病院へ行ってきました。風邪で病院に行ったのは小学生以来でしたが、大きな怪我や病気もしたことないヴィトゲンシュタインも、認めたくはなくとも立派な中年なので健康には気を使うようになってきました。そんなことで数年前からチェックしていた、2003年発刊でちょっとトボけたようなタイトルの373ページの本書を選んでみましたが、原題は「ナチスのガン戦争」という感じでしょうか? 去年の7月に「ナチスの発明」という、気軽な本を読んだ際に、ナチスが「ガン対策」にも取り組んでいた・・というのを知りましたし、その4ヵ月後に読んだ「アドルフ・ヒトラー」でも、最愛の母、クララが乳ガンで死去し、嘆き悲しむヒトラー少年の話もありましたから、下準備は完了しています。

 本書ではまず、20世紀初頭のドイツが豊かな工業先進国であると同時に、ガンの発生率が急増。1900年には世界に先駆けて国立のガン対策機関が設けられますが、1928年には結核を抜いて死亡原因の第2位となり、1930年代には毎年、ドイツのガンによる死亡数は10万人、ガン患者は50万人を数えた・・という歴史を紹介。

 ナチス政権になるとシュトライヒャーや、党衛生指導者レオナルド・コンティらが提唱したガン撲滅運動プロパガンダが広まり、その中心となるのは「早期発見」です。これは手遅れのガン治療よりも、予防に重点を置いたもので、特に女性の子宮ガンや乳ガンの治療の可能性を高くするため、大々的な宣伝活動をしつつ、診察所や病院での大量検査、そしてガンと診断されればすぐに入院させて、無料で治療を施す・・という徹底ぶりです。いかにも女性を大事にするナチス政府とヒトラーの政策のような感じがしますね。

 しかし同時にナチスの政策でも最も有名なユダヤ人排除も進みます。ベルリンのガン研究所の研究者13人中、12人が職を失っている・・と、この分野でユダヤ人の研究者や医者がいかに多かったかがわかろうというものです。

 ナチ党の幹部はというと、副総裁のヘスは同毒療法の信者で、自然医療も尽力。ヒトラーとの昼食会に自分専用の料理を持ち込んで、大いにヒンシュクを買ったり、同じく自然療法信奉者のヒムラーは、ダッハウ強制収容所に温室を作り、さまざまな種類の薬草や香草類を栽培し、土着療法の実験を援助し続けます。人体の「生体熱」の効果を証明しようと、氷のように冷たい海に落ちたパイロットを想定して、凍死寸前にした人間を女性被収容者に無理やり全裸で抱かせる・・といった強制収容所での悪名高い実験についても説明しています。

 しかし本書ではこのヒムラーの実験をオカルト的に面白おかしく紹介しているわけではなく、「全裸で抱かせる」のは別として、摂氏10度の海上で3時間たった場合、生存の可能性があって、救出の努力に値するかどうかの軍事衛生学的回答を軍が得ようとしたものであるとしています。

 中盤は原題のとおり、ガンに対する話が中心です。1943年、早くもアスベストに起因する肺ガンを労災と認定して保障対象としたナチス。そしてそのようなナチス・ドイツに関する研究はすべて無視しようとする戦後の西側諸国の風潮やナチス後遺症にも言及します。

 ここまで半分ほど読んで気がついた点は、ナチスの健康対策というものは1930年代と、戦争の始まった1940年代ではその考え方が大きく違うことです。1933年に政権を取ってからは、工場や採掘場で働くドイツ国民の健康を考えたものですが、開戦してからは、軍へ徴兵されたドイツ人労働者の代わりに、ポーランド人や政治犯、戦争捕虜などが強制労働でドイツ国内で働くことに・・。そうなると結局は、労働者の健康などは知ったことではなく、それどころかドイツ人の配給の半分・・という劣悪な状況で散々、働かされた挙句、病気にでもなろうものなら、強制収容所行き・・になってしまいます。

 また、化学工場でもアウシュヴィッツのI・G・ファルベン工場を例に挙げ、入院者は全体の5%と定めていることから、病人がそれを超えれば医師による「選別」が行われ、ビルケナウのガス室行き。。

 本書では所々でプロパガンダ・キャンペーンのポスターなどが出てくるのが楽しいですね。漂白した「化学製品」に過ぎない白パンではなく、国民の健康向上のため奨励された「全粒パン」や「健康診断」の促進に、「禁煙」・・。本書の表紙の中央も煙草と葉巻、パイプを蹴り出す当時のポスターが使用されています。ヒトラー・ユーゲントの手帳には「栄養摂取は個人の問題ではない!」と書かれ、この論理は宣伝ポスターでも繰り返されます。「お前の身体は総統のもの!」合成着色料や保存料を使わない自然食品、脂肪が少なく、繊維質の多いものを食べ、コーヒー、アルコール、煙草といった刺激物に、缶詰も極力控えるという国家スローガンです。

 ヒトラーが菜食主義者になった経緯も仮説を展開し、母、クララの乳ガンの思い出と彼がガンを恐れていたかも検証しますが、やっぱりココでもSS全国指導者ヒムラーのマニアックぶりが上を行っていますね。1940年8月にハイドリヒと協力して、SS隊員の肥満撲滅計画に着手し、SS隊員に禁酒、禁煙、菜食を要請したということですが、「この酷な要請がどれほど功を奏したかは不明である・・」。

 「ベルリン西部で最も食事が乏しく、不味いのはゲッベルス家であった」と紹介される宣伝大臣。食物にまったく頓着せず、好物のニシンと茹でたジャガイモをひたすら食べ続け、客にも平気でそれを出した。。。一方、ゲーリング・・といえば、まぁ、なんでも呑んで食って・・ですから、この政策と本書には、なんの関係もありません。

 アルコールについては1933年という早い時期から「アルコール撲滅作戦」が実行され、「国民労働の日」はアルコール抜きとされたそうです。アルコール飲料の広告も未成年者を対象にした図柄は禁止され、「衛生効果」や「食欲増進効果」といったキーワードもNG・・。

 悪名高い大酒呑みの労働戦線ロベルト・ライが職場でアルコールを飲む習慣を廃止しようと圧縮してブロック状にした紅茶を配布する「紅茶作戦」を大々的に開始。ノンアルコール・ビールの開発に、りんごジュースを飲みましょうキャンペーン・・。痛飲に喫煙を日々、規則正しく続けているヴィトゲンシュタインでもこの健康的なキャンペーンには便乗していました。つがる100%りんごジュースを朝の起きぬけにググっと一杯・・。10年以上は続けてますねぇ。

 後半は個人的に一番興味のあった煙草と肺ガン・・。ナチスの煙草撲滅政策と、禁煙ガム、禁煙薬、催眠術といった禁煙法も盛んに・・。1938年には空軍の基地内、役所に病院が禁煙となり、国内の列車には禁煙車が登場し、違反者には2ライヒスマルクの罰金が・・。う~む。。最近の日本のようですね。。ヒムラーも制服警官とSS将校の職務中の禁煙を告知したそうですが、本書では私服のゲシュタポは例外だったようだ・・と。

 こうなってくると煙草の広告もアルコールと同様に規制が厳しくなります。煙草を吸うことが男らしいという印象を与えるような図柄は禁止。スポーツ選手やパイロットなど、魅力的な仕事に就いている若い男性の図柄は禁止。女性向けの煙草広告も、もちろん禁止。

 ヒトラーの煙草嫌いは良く知られていて「エヴァ・ブラウン」にも書きましたが、「兵士が煙草なしでは生きていけないなどというのは誤りである」とし、戦争終結後には兵士への煙草配給を必ず廃止すると、軍隊への喫煙許可を後悔していたそうです。しかし戦局が長引くと、前線で煙草を吸う兵士たちは増えるいっぽうで、戦闘後に気持ちを落ち着かせるためのアルコールに、身体に悪いとされる保存料タップリの缶詰も必需品であり続けます。

 「反煙草キャンペーン」がこのように繰り広げられたものの、結局は煙草の消費には影響を及ぼさず・・だったことについて、その高額な煙草税が経済省を煙草擁護派にし、また国民の反ナチス的な感情もあったのでは、としていますが、そう思えば、中学2年生のときから、パートナーに始まって、マイルドセブン、そして今はケントの3㎎と、一日も休むことなく喫煙を続けているヴィトゲンシュタインももともとは、反社会的行動から始まっていますので、もし子供の喫煙が許可されていたら、煙草なんか吸っていなかったかもしれません。

 最後はメンゲレなどに代表されるナチスの医学犯罪にも触れます。1942年の秋に建設が開始された、第三帝国ガン研究所の話では、実はそれが「生物兵器製造施設」だったのではないか・・?

 そして現在でも広く使われている解剖学のテキストで、正確さとリアルさで評価の高い「ペルンコップ臨床局所解剖学アトラス」がナチスの犠牲者によるものではないか・・という問題。この反道徳的なものであると同時に医学的に価値のあるものをどうすべきか・・?出版禁止にするべきか、図書館の棚から撤去するべきか?あるいは犠牲者に献辞を記すべきか・・?
 
 思っていたより、とてもシッカリと書かれた一冊でした。最初から最後まで、著者が何度となく「ナチスを肯定するつもりはない」と書いているように「ナチス=悪」という前提を捨てて、その時代の、その政府で行なわれていたことを冷静に評価しようという姿勢は、とても好感が持てました。よく「SSモノ」で、様々な思惑が入り乱れて一枚岩の組織などではなかった・・という話がありますが、本書でも同様に、ナチス政府自体が一枚岩ではなく、なにかひとつの政策でも、それを推進しようとする組織と反対する組織が存在し、さらにはヒトラーを筆頭にゲッベルス、ゲーリング、ヘスにヒムラーなどの幹部の各々の考えにも振り回される、まさにカオスと呼ぶべき混沌とした政府のように感じました。ガンについての知識をつきましたし、本書のレビューも、こうして無事、書き終わりましたので、とりあえず、煙草で一服しながらビールでも呑みますか。

【世界の禁煙政策史】
 1604年、イングランド王ジェームズ1世が、当時すでに国中に普及していた喫煙の風習を卑しい異教徒の野蛮で不潔な習慣の恥知らずな物真似として非難し、タバコは国民を怠惰にしタバコのための無益な散財が国力を損なっていると嘆き、タバコ万能薬説にも異論を唱えた。ただし王は、喫煙を禁止するのではなく、タバコの輸入関税を一挙に40倍に引上げ王室財政に寄与させる方策を採った。これが、最初のたばこ禁令になる。キリスト教聖職者たちの中には当初からタバコの使用に批判的な者もいたが、広めたのも宣教師達であった。1609(慶長14)年、日本でタバコ禁令が出されている。1619年、インドで、ムガール帝国の皇帝ジャハーンギールがタバコを吸う者は唇をそぎ落とすという命令を出した。1629年、ペルシャのアッバース1世が40頭のラクダにタバコを積んでインドから到着した商人の鼻と耳を切り落とし、タバコを全て焼却したと、時のイギリス大使官員が報告している。1633年、ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝が、実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されてタバコを全面禁止とし、違反者の鼻孔を切り裂くなどした。1655年、後を継いだアレクセイ皇帝は死刑を導入した。異文化に対する拒絶反応は、1637(崇禎10)年、明代末期の中国で最初のタバコ禁煙令が出されている。イスラム主義国で最も強烈に現れ、迫害の時代の刑罰は想像を絶するものとなった。トルコでは喫煙の風習が伝わると間もなくアフメット一世が、タバコはキリスト教の悪魔によってもたらされたものでコーランの教えに反するとして弾圧を開始した。最も厳しかったのはその子のムラト4世の時代で、違反者は容赦なく処刑され、彼の治世の最後の5年間(1635-40)だけでも約2万5千人がその犠牲になったといわれている。1642年、ローマ教皇ウルバヌス8世が、セビリア司教座大聖堂でタバコを用いた者は直ちに破門するとの教書を出した。1650年、インノケンチウス10世が、サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止した。

 しかしながら、タバコ習慣を根絶やしにすることには成功せず、民衆とたばこの結び付きはいよいよ強固になり、やがて禁令も消滅して行った。

【貝原益軒「養生訓」のタバコ有害論】
 江戸時代初期の医師、貝原益軒は自書養生訓でこう申している。1712(正徳2)年、貝原益軒が著した「養生訓」では、「巻第四 飲茶 附 煙草」において、「煙草は性毒あり」、「煙をふくみて眩ひ倒るゝ事あり」、「病をなす事あり」、「習へばくせになり、むさぼりて後には止めがたし」等の記述がある。
 「烟草(タバコ)は毒性あり。烟(煙)をふくみて、眩い倒るる事あり。習へば大なる害なく、少は益ありといへ共、損多し。病をなす事あり。又、火災のうれひあり。習へば癖になり、むさぼりて後には止めがたし。事多くなり、いたつがはしく家僕を労す。初よりふくまざるにしかず。貧民は費(ついえ)多し。
 (現代語訳)
 たばこは天正・慶長年間の近年になって、他国から渡ってきた。淡婆姑は日本語ではなく、外国語である。近世の支那の書に多く書いてある。また烟草ともいう。朝鮮では南草という。日本ではこれを莨とうとするのは誤りである。煙草と莨とうとは別のものである。

 煙草の性は毒である。煙を飲んで目がまわり倒れることがある。習慣になってもそれほどの害はないが、少しは益もあるといわれるが、結果的に損失が多い。これにより病気になることもある。また火災の心配もある。習慣になると癖づき、中毒症状でむさぼるようになり、ついにやめられなくなる。こうなると、煩わしいことが多くなって、手前自身の小用を増す。最初から近づけないのがもっともよい。貧しい者には出費が多くなり負担を増すことになる。(「森下ジャアナル」参照)






(私論.私見)