| ヒトラーの禁煙政策、ガン予防政策考 |

更新日/2016.10.12日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考をものしておく。 2010.1.4日 れんだいこ拝 |
| 【ヒトラーの禁煙政策、ガン予防政策の評し方考】 |
| 「ナチは歴史上、最悪の政権だった」っていう設定で議論されているが、世界で最初に禁煙運動を始めた歴史的地位を持つヒットラー&ナチスの反タバコ政策からは別の面貌が浮かんでこないだろうか。そもそもヒトラー政権の禁煙政策が案外知られておらず、仮にこれに触れる者が居ても、ヒトラーを狂人と見立てる観点、ヒットラー&ナチスの反タバコ政策は優生思想に結びついたものであり、精神病患者の安楽死に始まり最後はユダヤ人の大虐殺に行き着いたなる観点に曇らされており、ヒトラーの禁煙政策そのものの意義を捉え損ねている。つまり、真っ当な評価ができていない。そういう意味で、ここで、ヒトラーの禁煙政策を然るべき評価基準の下に採り上げておくことにする。 |
| 【プロクター著「健康帝国ナチス(The Nazi War on Cancer)」考】 | ||||||
| 「★阿修羅♪ > 歴史02」の スットン教氏の2009.12.29日付け投稿 「健康帝国ナチス (単行本) ロバート・N. プロクター著 草思社 (2003/09)」を参照する。 ヒトラーは、ネオシオニズム的な文明そのものに対して根本的に否定していた。頭脳に対し悪い影響を与えるとしてタバコ、酒、肉食を控える等、厳格な生活をしていた。次のように述べている。
「ヒトラーの禁煙政策」に触れた著書としてロバート・N. プロクター著「健康帝国ナチス(The Nazi War on Cancer)」(宮崎尊訳、草思社、2003.9)がある。ナチスが世界で最も積極的に癌と戦う政策をとっていたことがほとんど知られていない。本書は、この事実を詳細に伝える示唆に富む書である。次のように述べている。
但し、プロクターは、こう語りながらも、その通俗的なヒトラー及びナチス観の歪みから、これを「ファシズムの裏面」と評している。この観点から、「人の道に外れた政権が倫理的に正しい科学研究を推進し、成果をあげることができるのか」と、わざわざ問題を難しく立てている。そして、次のように述べている。
れんだいこに云わせれば、非常に屈折した物言いをいていることになる。あるいは「奴隷の言葉」で意図的にこう表現したのかも知れない。それなら許せる。これを評する論者の評は次のようなものである。
総論として、「ヒトラーの禁煙政策」に堂々と触れたことに意義を認めるべきかも知れない。次のようにも述べている。
堤堯(ジャーナリスト)氏の「ヒトラーはタバコを吸わない」が、文藝春秋(07年10月号)の養老孟司×山崎正和対談「変な国・日本の禁煙原理主義」に於ける養老氏の次のような発言を紹介している。養老氏はナチスの禁煙運動を嘲笑する立場から論じているのだが、採用できる観点のところのみ抜粋引用しておく。
2010.1.4日 れんだいこ拝 |
| 【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】 | ||||||||||||||||||||||
これに触発され、「ウィキペディア/ナチス・ドイツの反タバコ運動」を参照し、史実的なところを転載しておく。
1930年代の終わりと第二次大戦初期にナチスは反タバコ政策をさらに施行し、喫煙率は減少した。国防軍内での反タバコ方策実施の結果として、1939年から1945年の間兵士の総タバコ消費量は減少した。1944年に実施された調査によれば、国防軍内における喫煙者数は増加したが、平均タバコ消費量は開戦直前に比べ23.4%減少した。一日あたり30本以上タバコを吸う喫煙者は、4.4%から0.3%に減少した。 ただしナチの反タバコ政策には矛盾もはらんでいた。例えば、「国民の健康」(Volksgesundheit)および「健康の義務」(Gesundheitspflicht)政策を実施しながら、それと同時にナチスが〔喫煙する〕「資格のある」グループとみなした人々(前線の兵士、ヒトラーユーゲントのメンバーなど)へのタバコの支給も行われた。他方では、「資格のない」あるいは虐げられたグループ(ユダヤ人や戦争捕虜)はタバコの入手が認められなかった。 反ユダヤ主義および人種差別主義との関連国民の健康への懸念は別として、ナチスはイデオロギーによる大きな影響を受け、この運動は特に人種改良および肉体的純潔の概念の影響を受けた。ナチ党指導部は、喫煙は支配民族にとって不適切であり、タバコの消費は「民族の堕落」に等しいと考えた。ナチスはタバコを「遺伝子の毒」とみなした。人種改良主義者は喫煙に反対し、「ドイツ人生殖質」が汚染されることを恐れた。ナチの反タバコ活動家は、しばしばタバコを「アフリカ人変質者の悪習」と表現しようとした。 ナチスはユダヤ人にタバコとその悪影響を持ち込んだ責任があると主張した。ドイツのセブンスデー・アドベンチスト教会は、喫煙はユダヤ人によって広められた不健康な悪習だと発表した。『Nordische Welt』(北欧世界)の編集者ヨハン・フォン・レールスは、1941年、「タバコの危険性に関する科学研究所」の開所式において、「ユダヤ資本主義」には喫煙をヨーロッパ中に広めた責任があると公言した。彼は、最初にドイツ国土にタバコを持ち込んだのはユダヤ人であり、ヨーロッパにおける主要なタバコ草陸揚げ拠点であるアムステルダムのタバコ業界を牛耳っているのだと語った。 第二次世界大戦後ヒトラーは、ベルリンの戦いの末期に総統地下壕で自殺を遂げたが、秘書の一人ゲルダ・クリスティアンの回想によると自殺直後の地下壕は虚無的な雰囲気に包まれると同時にそれまでヒトラーに遠慮していた人々が大っぴらにタバコを吸い始めたと言われている。第二次世界大戦が終了し、ナチス・ドイツが崩壊した後、アメリカのタバコ製造会社が速やかにドイツの闇市場に進出した。タバコの密輸が一般化し、ナチス禁煙キャンペーンの指導者らは暗殺された。1949年、アメリカでおよそ4億本の紙巻きたばこが製造され、毎月ドイツに不法に持ち込まれた。1954年、20億本のスイスタバコがドイツとイタリアに密輸された。 マーシャル・プランの一環として、アメリカはドイツに無料のタバコを送った。1948年にドイツに送られたタバコの量は24,000トンにのぼり、1949年には69,000トンになった。アメリカ合衆国連邦政府は、この計画に7千万ドルを使い、利益に飢えていたアメリカのタバコ製造会社を大喜びさせた。戦後ドイツにおける一人当たりの年間タバコ消費量は1950年の460本から1953年の1,523本へと着実に増加した。 一方でタバコの消費が回復すると同時に、タバコ会社による「禁煙=ファシズム」という印象操作にも等しいネガティブ・キャンペーンによって、禁煙や嫌煙運動は打撃を受けることになった]。20世紀末になっても、ドイツにおける反タバコキャンペーンは(ナチスの絶頂期だった)1939年~1941年の水準にまで届かず、ドイツのタバコと健康の研究は、ロバート・N・プロクターをして「沈黙した」と言いわしめた。 |
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| 【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】 | |
「★阿修羅♪ > 議論22 」のへなちょこ 氏の2005 年 10 月 12 日付投稿「健康帝国ナチス(煙草の議論は本筋からはなれるのだが・・・)」を転載しておく。
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| 【ヒットラー&ナチスの反タバコ政策考】 | |
「健康帝国ナチス」、「ナチ/ヒトラー」を転載しておく。
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| 【世界の禁煙政策史】 |
| 1604年、イングランド王ジェームズ1世が、当時すでに国中に普及していた喫煙の風習を卑しい異教徒の野蛮で不潔な習慣の恥知らずな物真似として非難し、タバコは国民を怠惰にしタバコのための無益な散財が国力を損なっていると嘆き、タバコ万能薬説にも異論を唱えた。ただし王は、喫煙を禁止するのではなく、タバコの輸入関税を一挙に40倍に引上げ王室財政に寄与させる方策を採った。これが、最初のたばこ禁令になる。キリスト教聖職者たちの中には当初からタバコの使用に批判的な者もいたが、広めたのも宣教師達であった。1609(慶長14)年、日本でタバコ禁令が出されている。1619年、インドで、ムガール帝国の皇帝ジャハーンギールがタバコを吸う者は唇をそぎ落とすという命令を出した。1629年、ペルシャのアッバース1世が40頭のラクダにタバコを積んでインドから到着した商人の鼻と耳を切り落とし、タバコを全て焼却したと、時のイギリス大使官員が報告している。1633年、ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝が、実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されてタバコを全面禁止とし、違反者の鼻孔を切り裂くなどした。1655年、後を継いだアレクセイ皇帝は死刑を導入した。異文化に対する拒絶反応は、1637(崇禎10)年、明代末期の中国で最初のタバコ禁煙令が出されている。イスラム主義国で最も強烈に現れ、迫害の時代の刑罰は想像を絶するものとなった。トルコでは喫煙の風習が伝わると間もなくアフメット一世が、タバコはキリスト教の悪魔によってもたらされたものでコーランの教えに反するとして弾圧を開始した。最も厳しかったのはその子のムラト4世の時代で、違反者は容赦なく処刑され、彼の治世の最後の5年間(1635-40)だけでも約2万5千人がその犠牲になったといわれている。1642年、ローマ教皇ウルバヌス8世が、セビリア司教座大聖堂でタバコを用いた者は直ちに破門するとの教書を出した。1650年、インノケンチウス10世が、サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止した。 しかしながら、タバコ習慣を根絶やしにすることには成功せず、民衆とたばこの結び付きはいよいよ強固になり、やがて禁令も消滅して行った。 |
| 【貝原益軒「養生訓」のタバコ有害論】 | ||
江戸時代初期の医師、貝原益軒は自書養生訓でこう申している。1712(正徳2)年、貝原益軒が著した「養生訓」では、「巻第四 飲茶 附 煙草」において、「煙草は性毒あり」、「煙をふくみて眩ひ倒るゝ事あり」、「病をなす事あり」、「習へばくせになり、むさぼりて後には止めがたし」等の記述がある。
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(私論.私見)