ファシズム考

 (最新見直し2007.5.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ファシズム考をしておく。

 2007.5.20日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評bP195  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年12月 7日
 れんだいこのファシズム考

 これもいつか書きたかったことである。これを発表し批評を請いたい。

 左派圏用語で批判的に使用されている「ファシズム&ファシスト」について正確な認識をしておく必要を感じたので、ここで整理しておく。結論から申せば、左翼が条件反射的に批判しているような意味で言うのなら、正しくは「ネオシオニズム&シオニスト」と云うべきではなかろうか。本来、ネオシオニズム批判として俎上に乗せねばならぬものをファシズム批判にすり替えている気がしてならない。

 統一戦線なる用語でも考察したが、本来は共同戦線と云うべきである。敢えて統一戦線なる用語を使うところが胡散臭い。ファシズム批判の構図も然りである。ネオシオニズム・テキストに相当深く汚染されている故ではなかろうかと思っている。れんだいこの気づきでは、我々は早くこの汚染から脱却せねばならないと思っている。

 そもそも知るが良い。ファシズムの語源は古代ローマの執政官の「束桿」(そくかん、fasces、ファスケス。斧の回りに短杖を束ねたもの)から発している。 当時、執政官は、権威の象徴として儀式用に束桿を使用していた。束桿は束ねられていることから「fascio(「団結」」という意味を持つ。従って、ファシズムは、古代ローマ政治の再生という意味であり、ファシストとは結束した同盟者の集まりという意味になる。これが原義である。これを日本で言えば、縄文日本の伝統に帰れ運動とでも云うものではなかろうか。日本の方は戦闘的なものにはならないけれども。1919年、ムッソリーニがイタリアのミラノで「戦闘ファッシ」を結成し、古代ローマの執政官政治を模範とする運動を組織した。1921年、ムッソリーニがファシスト党((Fascist) を結成した。これにより一連の主義、主張、運動をファシズムと呼ぶようになった。

 ここで気づくべきは、これによれば、当事者が自ら命名した用語であるからして、ファシズムは本来は誉れの呼称であり、今日的な誰しも嫌悪する意味は付与されていないということであろう。ファシズムの元々の意味は、古代ローマ時代のローマ人による主体的な政治を偲び学ぶ復権させようとするものであり、当時の時代状況に於いては意味のあることであった。

 では、ファシズム&ファシストが何ゆえに嫌悪用語として使われるようになったのだろうか。考えられることは、戦勝国側の洗脳教育の賜物ということであろう。彼らは、ファシスト党の一党独裁的全体主義、国粋主義、排外主義的政治理念及びその活動に対して、戦勝国特権として、「知らしむべからず、よらしむべし」方式で、時代状況と切り離してひたすら嫌悪的意味の代名詞としてレッテルを貼り、これに条件反射するように洗脳教育していったのではなかろうか。「知らしむべからず、よらしむべし」にする必要は、かの時代状況を隠蔽する為である。なぜならこれを明らかにすると、底流に伏在していた「西欧世界を席巻しつつあった国際ユダ屋支配に対する抵抗運動」的動機に触れざるを得ないことになるからである。

 尤も、指導者に対する絶対服従、個人崇拝、反対者に対する過酷な弾圧は存在したようである。これはナチス党然り、日本の軍部独裁然りである。しかしながらそれも、当時に於ける国際ユダ屋の世界支配に対抗せんが為の必要悪的統制主義に陥った為と考えられる。この部分を全く顧慮せず、戦後になって戦勝国側がチャップリン式にファシズム&ファシストを描き出し、嫌悪用語として流布させていったものと思われる。れんだいこは、かく理解しているので、左派圏が常用するような意味ではファシズム&ファシストなる用語を使わない。

 もっと云えば、左派圏用語で多用されているファシズム批判は、それを云うならネオシオニズムに当てはめた方がより正確ではなかろうかと思っている。何ゆえにネオシオニズム批判に向かわずにファシズム批判に耽るのか。ここを問わねばならない。上述したようにファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果の批判に過ぎない。

 れんだいこはむしろ従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思っている。その秘密結社ぶりにつき多少確認したつもりだが、長い歴史を持つ悪魔性のものである。諸国民と協和しようとする思想は微塵もない。支配するかされるかを全ての基準にした闘争史のみが透けて見えてくる。こういうものに親和する者のお里が知れよう。

 あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を、打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論法を得意としている。これにより、その悪を叩く側が善人になり、叩かれる側が悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダードと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきでなかろうか。

 この論法の気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニスト以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのが連中である。実に狡知に長けた煮ても焼いても食えない手に負えない我さえ良ければ知を集積させた曲者である。

【ファシズム考その2】

 「ウィキペディア・ファシズム」は、次のように規定している。

 ファシズム(英: fascism、伊:fascismo)とは、狭義にはイタリアの政治家ムッソリーニが自身の思想に付した名称、およびファシスト党による1922年から1942年までの政治体制をさす。広義には、第一次世界大戦後にドイツ・日本・スペイン・南米・東欧などで見られた全体主義もしくは権威主義の体制、およびそれらの一党独裁政治や政治的自由活動の抑圧行為等を包括的に指す。


 これにつき、れんだいこは次のように思う。上記の解説では、何ゆえにファシズムが勃興したのかが見えてこない。ファシズム、ナチズムに言及する場合、当時の社会状況抜きには語れない。事実は、ムッソリーニのファシスト党は、ヒトラーのナチス党も然りであるが、第一次世界大戦後における歴史状況に深く関係している。第一次世界大戦後、戦前危惧されていた通り、国際金融資本即ち現代パリサイ派とも云うべきネオシオニズムユダヤ即ちロスチャイルド派が戦勝者となり、大挙して社会進出してくることになった。彼らの得手とする格差社会が広がり、「シオン長老の議定書」に基づく世界支配が進んだ。

 他方、同時並行してマルキシズムを主流とする社会主義運動が活性化し、特に第一次世界大戦過程で発生したロシア10月革命を起点にしてロシア・ポルシェヴィキ派の世界支配即ちコミンテルン運動が進んだ。且つ、ロスチャイルド派の世界支配運動とコミンテルン運動は地下水脈で呼応していた。つまり、西欧諸国は、伝統的主権国家としての地位を表から裏から揺さぶられていた。

 この時代的危機に感応して生まれたのがイタリアでのムッソリーニ率いるファシスト党であり、ドイツでのヒトラー率いるナチス党であった。両者は妙なことに共に、在地型の社会主義運動を志向していた。実際、ムッソリーニは元社会党員である。ヒトラーも社会主義に造詣が深く、自ら国家社会主義と名付けている。その意味は、ロスチャイルド派とコミンテルン派の国際主義的世界支配に対抗するということであり、国家的主権を護るということから必然的に祖国主義、民族主義に立脚していた。且つ、政治に大衆を動員すると云う意味で国家社会主義運動と位置づけていた。ファシズム、ナチズムの特質がここに認められる。


 そういう訳で、イタリアのファシスト党は、労働組合総同盟を結成し、政権獲得後は職能代表制によってイタリア労働組合評議会(現・国民労働者組合同盟)を設立した。これはファシズム自体がサンディカリスムに影響を受けていたからであり、ムッソリーニの政治は組合主義とも定義されている。

 してみれば、ファシズム、ナチズムを極右の政治思想とみなすのは適切ではない。「戦闘者ファッショ」になるまでの「革命的参戦ファッショ」、「国際主義参戦ファッショ」は明確に左翼に属しており、この時期のムッソリーニは左翼勢力の一員であるという立場を暫く維持している。何よりもムッソリーニは、左翼思想家のジョルジュ・ソレルを「ファシズムの精神的な父」と位置付けたこと、ソレルが亡くなった時にはヨシフ・スターリンとムッソリーニが追悼したことが象徴しているように、ファシズムは左翼に傾斜している要素が濃厚に見受けられる。

 また、ヒトラー自身が「わが闘争」で、「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ」と述べてる通り、ナチスにも左翼の影響が多く見られる。政治将校や強制収容所などといった組織だけでなく、例えば、ゲッベルスの下でナチスはプラカード、集団行進、シュプレヒコール、戸別訪問、楽団、膨大な量のビラ・ポスターの配布などといった共産党のプロパガンダ活動を模倣し、共産主義者のヴィリ・ブレーデルの詩を焼き直して党歌「旗を高く掲げよ」を作った。ゲッベルス自身も「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる」と公言している。

 ファシズム、ナチズムにはもう一つの共通した特徴がある。両者とも政権党になるや、議会制民主主義を否定し、独裁的な政治形態へ移行したことである。ファシズム体制の下で、人民大衆派、国家又は民族の発展を最高の目的とし、個人はこれに従属し、奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)を盛んに喧伝した。これによって個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先された。

 1925.10.28日、ムッソリーニの演説に登場する以下の言葉はファシストの行動原理を端的に示している。

 "Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato" (すべてを国家のもとに。国家の外にいるもの・国家に反するものがいてはならない)。

【ファシズムの定義考】
 「★孫崎享氏の視点ー<2013/12/06>★ 」の「ファシストの定義を見て欲しい。驚くほど安倍政権に近い。日本危機的」がファシストの定義を開陳している。その関連部分を転載する。
 便宜上とりあえず、ウィキペヂアの「ファシズム」の項を見てみよう。それぞれれんだいこコメントをつける。
@  ファシストは国家の価値や、政治や経済などの体制を、コーポラティズムの観点に従って組織しようと努める。(れんだいこボソボソ これが悪いとい訳ではなかろう。)
A  国家が、国家の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ。(れんだいこボソボソ これはどの国も同じだろう。)
B  強力なリーダーシップと単一の集団的なアイデンティティを必要とする有機体的な共同体であると信じる。(れんだいこボソボソ 非常事態となればどの国もそうなるのが倣いだろう。)
C  彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。(れんだいこボソボソ 非常事態下においてはそのようにならざるを得ない面もあろう。これを平和時の論理論法で測るのは不正だろう。)
D  彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。(れんだいこボソボソ これも非常事態特有の現象と捉えれば話半分に割り引かねばなるまい。)
E  また、一党制の国家の創設を主張する。(れんだいこボソボソ これはスターリニズム式捻じ曲げ共産制下の事態に生起したことであってドイツ、イタリア、日本では多党制だったのではないのか。)
F  つまり、議会制民主主義制度、及び議会制民主主義思想に対して拒否反応を示す。それゆえに、議会制民主主義によって制定された法制度等に対して全面的に価値を認めない基本的な立場をとる。(れんだいこボソボソ 議会制民主主義の内実によるだろうが、云われているほど議会制民主主義を反故にしたのではなく、むしろ手玉に取ったのではないのか。)
G  ファシストは、ファシストの国家の一部とはみなされず、かつ同化を拒否するか同化できない、文化的または民族的な集団による自治を拒絶し抵抗する。彼らはそのような自治を創設する試みは、国家への侮辱や脅威とみなす。(れんだいこボソボソ これも云われているほどではない。むしろこれを強行したのはスターリニズム式捻じ曲げ共産制下の体制の方だったのではなかろうか。)
H  ファシストの政府は、ファシストの国家やファシスト運動への反対を禁止し抑圧する。(れんだいこボソボソ これも云われているほどではない。スターリニズム式捻じ曲げ共産制下の体制の方が酷かったのではないのか。)
I  彼らは暴力と戦争を、国家の再生や精神や活力を創造する行動であるとみる。(れんだいこボソボソ 聖戦意識の称揚の見地から扇動されたものであろう。)
J  ファシズムは平等主義や物質主義や合理主義の概念を拒絶し、行動や規律や階層的組織や精神や意志を支持する。(れんだいこボソボソ これも戦時下の聖戦意識の昂揚を狙ってのものであろう。)
K  つまり自己の目的を絶対正義とするから、「目的のためには手段は選ばず。」というような論法をとる。(れんだいこボソボソ ここが明らかな詐術である。これこそネオシオニズム&ネオシオニストのお家芸だろうが。)
L  権威を嵩にきて合理的論拠(具体的証拠)もなしに威圧するような高飛車な論法で相手を事実認識させ(固定観念を植え付け)ようとしたり、聴衆を扇動するようなことが多い。(れんだいこボソボソ こういう批判をしたら互いにキリがなくなろう。)
M  合理主義に価値観を認めないがゆえ、その論理展開での基本的な正邪善悪の倫理的価値基準において「ダブルスタンダード」(例:民族宗教の倫理価値基準と唯物史観社会主義の倫理価値基準の同時並行的な利用)に代表されるような、全く矛盾する価値基準の教義などを利用、引用することが多い。(れんだいこボソボソ ここも詐術である。これこそネオシオニズム&ネオシオニストのお家芸だろうが。)
N  彼らは、排他的で経済的な階級をベースとした運動であるという理由で自由主義やマルクス主義に反対する。(れんだいこボソボソ ここも詐術である。自由主義やマルクス主義と敵対したが、その当時の自由主義やマルクス主義がネオシオニズムと呼応していたがゆえにと云う面もあろう。)
O  ファシストは彼らのイデオロギーを、経済的な階級闘争を終了させて国家的な団結を確実にする、経済的に超階級的な運動として提示する。(れんだいこボソボソ  ネオシオニズムと呼応していた自由主義やマルクス主義に対して、民族主義的国家主義的な理念で対抗していたと云う面を見落としてはなるまい。)
P  彼らは、経済的な階級には国家を適切に統治する能力は無く、経験豊かな軍人たちからなる優秀さを基礎としたエリート集団が、国家の生産力の組織化や国家独立の確実化などを通して支配するべきであると主張する。(れんだいこボソボソ これは何もファシズムだけが批判される内容ではなかろう。)
Q  ファシズムは保守主義を、社会秩序への支持という部分的な価値と把握するが、しかしその変革や近代化に対する典型的な反対には賛成しない。(れんだいこボソボソ ここは訳が悪いのかどうか何をどう言って批判しているのか分からない。)
R  また、自分自身を、強制的な変革を推進する国家管理された近代化を主張する一方で、多元主義や独立した主導権という社会秩序への脅威に反抗することによって、保守主義の利点と欠点を把握した解決方法であるとする。(れんだいこボソボソ ここも訳が悪いのかどうか何をどう言って批判しているのか分からない。)

(私論.私見)
 確認したように、ファシズムをファシズムゆえに批判すべき特段の論拠はない。イメージ先行のファシズム批判が作られ、これに条件反射するように教育されている結果のファシズム批判に過ぎないと読む。にれんだいこはむしろファシズムの定義を変えねばならないと思う。従来のファシズム定義はネオシオニズムにこそ当てはまると思うからである。あれこれ思えば、ネオシオニズム&ネオシオニストは手の込んだ批判をすることが分かる。即ち、手前らが常用する悪を打倒したい相手側の悪であるとして喧伝し叩くと云う変則論理論法を得意としている。これにより、その悪を叩くネオシオニズム&ネオシオニスト側が善人になり、叩かれる側が仮に善人であっても悪人として裁かれることになる。これはダブルスタンダーと云うよりイビル(evil)スタンダードとすべきではんかろうか。これの気持ち悪いことは、ネオシオニズム&ネオシオニストは手前らの行為を悪と承知している故に相手になすくって批判していることにある。「手前らの悪の行為を悪と承知している故に相手になすくって批判する」などと云う芸をネオシオニズム&ネオシオニス以外に為し得る者がいるだろうか。これを平然と為し得るのがネオシオニズム&ネオシオニストであるということを知らねばならぬと思う。

 2013.12.7日 れんだいこ拝

【イタリアファシスト党の形成過程考】
 イタリアに於けるファシスト党の形成過程は次の通りである。世界史ノート」の「4 ファシズムの台頭」を参照(忽ちは転載)する。

 (イタリアファシズム)

 イタリアは第一次世界大戦の戦勝国であったが、パリ講和会議では「回復されざるイタリア」の獲得が認められただけでフィウメ市の併合などは拒否され、ヴェルサイユ体制に不満を持っていた。そのため、1919年9月には詩人・小説家で愛国者であったダヌンツィオ(1863−1938)が復員軍人などの義勇兵を率いてフィウメを占領するという出来事が起こった(1920.12撤退)。

 もともと資源が乏しく、経済基盤が弱かったイタリアは戦費のほとんどを外債でまかなったため、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥った。また産業も不振に陥り、失業者が増大し、食料その他の生活必需品が不足して激しいインフレーションにみまわれた。そのため1919年から20年にかけて都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなど社会不安が増大し、1919年11月に行われた総選挙では社会党が第1党となった。

 1920年になると労働者のストライキが激化し、9月には北イタリアの労働者が社会党左派(1921年に共産党を結成)の指導のもとで工場を占拠し、農民も各地で地主の土地を占拠したので、革命前夜を思わせる状況になった。しかし、労働者は賃上げその他の条件で政府の妥協案を受け入れて工場占拠を解いたので以後労働運動は衰退に向かった。その一方で、この出来事をきっかけとして勢力を拡大したのがムッソリーニの率いるファシスト党であった。

 ムッソリーニ(1883−1945)は北イタリアで鍛冶屋の子として生まれた。師範学校を卒業後、スイス各地を転々とする間に社会主義者と接触し、1908年頃、帰国しイタリア社会党に入党した。彼は巧みな弁舌で知られ、1912年、社会党の機関誌「アヴァンティ(前進)」の編集長となった。1914年、第一次世界大戦が勃発すると参戦を主張して党から除名され、以後反社会主義運動にはしった。1919年3月、ミラノで「戦闘者ファッショ」を結成し、同年11月の総選挙に立候補したが4千数百票を獲得しただけで落選した。なおファッショとは古代ローマの官吏がたずさえた一束の棒で団結・結束を意味し、ファシズムの語源となった。 戦闘者ファッショは、1920年の北イタリアのストライキで労働者による工場占拠が行われると、社会党員や労働者を暴力で攻撃し、労働運動を暴力で鎮圧した。

 戦闘者ファッショは共産主義の進出を恐れる資本家・地主・軍部などの支持を受けて勢力を拡大し、1921年5月の総選挙では31名を当選させ、同年11月、戦闘者ファッショはファシスト党(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組された。この頃には党員数も約30万人に達していた。ファシスト党は戦闘団(黒シャツ隊と呼ばれた)の軍隊化を進め、暴力的な性格をますます強めていった。

 1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーニは政権奪取を宣言し、28日には黒シャツ隊がローマに向かって進撃を開始した(ローマ進軍)。ファクタ首相は国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世(位1900〜46)に戒厳令の発布を求めたが、国王はこれを拒否し、逆にムッソリーニに組閣を命じた。 黒シャツ隊はローマを占領し、ムッソリーニもミラノから寝台車でローマに到着し、同月末にムッソリーニ政権(ファシスト政権)が成立した。

 政権を握ったムッソリーニは、1923年、ファシスト大評議会を設立し、翌1924年の総選挙でファシスト党は暴力を使った選挙運動によって総投票数の65%・375議席を獲得して議会の絶対多数を握った。ムッソリーニはローマ帝国の再現を唱えて対外拡張政策を進め、1924年1月にはユーゴとの直接交渉によってフィウメを併合した。フィウメはダヌンツィオが義勇兵を率いて一時占領し、1920年11月のラパロ条約(1920.11)によって独立市とされていたがムッソリーニによって再度併合された。1926年11月にはファシスト党以外の全政党を解散させ、ファシスト党一党独裁制を確立した。この年、アルバニアを事実上の保護国とした。 1928年12月にはファシスト党の最高機関であったファシスト大評議会が正式に国家の最高機関となり、ファシズム体制が完成した。

 1929年2月、カトリック教徒がほとんどを占める国民の支持を得るためにローマ教皇庁とラテラン条約(ラテラノ条約、ラテラン協定)を結んだ。ローマ教皇庁とイタリア王国とは、1870年にイタリア王国がローマ教皇庁を併合して以来、ローマ教皇は「ヴァチカンの囚人」と称し、両者は国交断絶状態にあった。ムッソリーニはラテラン条約を結んでローマ教皇と和解し、ヴァチカン市国の独立とカトリックがイタリア唯一の宗教であることを認め、ローマ教皇はムッソリーニ政権を承認したヴァチカン市国はローマ市の一角にある教皇庁の所在地域で、面積0.44平方km・人口1277人(1994)の世界最小の独立国家である。

 ムッソリーニがイタリア国内でファシズム体制を完成させてまもなく、世界恐慌の影響がイタリアにも及んだ。ムッソリーニは統制経済を強め、失業者の救済を兼ねた大土木事業を起こして工業の発展を図るとともに食糧の増産にも努めた。しかし、その一方で資源に乏しいイタリア国内の経済危機を打開するため、また経済危機から国民の目をそらせるために1935年10月にはエチオピア侵入を開始した。イタリア軍が侵入を開始してから4日後に国際連盟理事会はイタリアを侵略国とみなし、8日後に国際連盟総会はイタリアへの経済制裁を決議した。しかし、この経済制裁は肝心の石油が禁輸リストから外されるなど不徹底で効果はなかった。エチオピア軍は勇敢に抵抗したが、近代兵器で武装したイタリア軍は破竹の進撃を続け、イタリアは1936年5月、エチオピアを併合した。

 このイタリアによるエチオピア侵入は国際連盟の権威を失墜させるとともに、ファシスト=イタリアとナチス=ドイツを接近させ、1936年10月にベルリン=ローマ枢軸が成立した。

 ドイツに於けるナチス党の形成過程は次の通りである。

 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その1)

 1920年代後半にやっと安定を取り戻したドイツは世界恐慌によって深刻な打撃を受け、国民生活は混乱し、議会政治は危機に陥った。こうした状況の中で急速に勢力を伸ばしたナチスは、1933年1月、ついに政権を獲得し、ヒトラー内閣が成立した。

 ヒトラー(1889−1945)はオーストリアのブラウナウで下級税関官吏の子として生まれた。実科学校を中退した彼は画家を志してウィーンに出て美術学校を受験したが失敗した(1907)。翌年も受験に失敗したヒトラーはウィーンで自分で書いた絵を売ったり、日雇い労働者をしながら食べるものにも事欠くような困窮の生活を送った。その後、一時ミュンヘンにも移り住んだが(1913)、1914年8月に第一次世界大戦が起こると、ただちにバイエルン連隊に志願兵として入隊した。

 フランドル戦線に派遣されたヒトラーは勇敢に戦い、2度負傷し、陸軍病院で敗戦を迎え、まもなく退院してバイエルンの連隊に戻った。そして軍の政治工作員となったヒトラーはドイツ労働者党という小さな右翼政治団体の調査を命じられて入党した(1919.9)。そして巧みな煽動演説と精力的な活動によって頭角をあらわし、まもなく党の指導者となった(1921.7)。

 この間、1920年2月には「25カ条の綱領」が発表され、党名もドイツ労働者党から国家(国民)社会主義ドイツ労働者党(通称のナチスは政敵からの呼称)に改称された。「25カ条の綱領」の主な内容は以下の通りである。
 1 われわれは、諸国民の民族自決権の原則にのっとり、大ドイツ国を樹立するため全ドイツ人が統合することを要求する。
 2 われわれは、他国民に対するドイツ民族の平等権を要求し、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン平和条約の破棄を要求する。
 3 われわれは、わが国民を養い、過剰人口を移住せしめるために、土地および領土(植民地)を要求する。
 4 ドイツ民族同胞たるもののみが、ドイツ国公民たりうる。ドイツ人の血統を持つもののみが宗派のいかんを問わず、ドイツ民族同胞たりうる。したがってすべてのユダヤ人はドイツ民族同胞たり得ない。
 8 非ドイツ人のこれ以上の流入は阻止されねばならない。われわれは、1914年8月2日以降ドイツ国に流入したすべての非ドイツ人を、即時強制的に国外へ退去せしめることを要求する。
 22 われわれは、傭兵軍隊の廃止と、国民軍の建設を要求する。
 25 以上すべての要求を貫徹するため、われわれは、ドイツ国に強力な中央権力を創設することを要求する。・・・。(山川出版社、世界史史料・名言集より)

 このように大ドイツの建設・ヴェルサイユ条約の破棄・領土の要求・ユダヤ人の迫害など後にヒトラーが実現に努力した国粋主義的な政策が掲げられている。また11〜17には不労所得の廃止・戦時利得の没収・トラストの国有化・養老制度の拡張・土地改革などの社会主義的な政策も掲げられているが、これらは党勢拡大のための具にすぎず、その後ヒトラーによって無視された。

 ナチスが一躍注目を集めるようになったのは、1923年11月のミュンヘン一揆によってであった。1923年、フランス・ベルギーによるルール占領によって1兆倍に及ぶ破局的なインフレーションが起こり、政治不安が激化した。同年11月、ナチスはヴァイマル政府の打倒と政権獲得を目ざしてクーデターを企てた(ミュンヘン一揆)。 しかし、このミュンヘン一揆は国防軍によって鎮圧され、ヒトラーは逮捕され、翌年の裁判で有罪となり、9ヶ月間投獄された。この間、獄中で口述筆記されたのが有名な『わが闘争』(1925年に上巻、27年に下巻が出版された)で、ナチスのバイブルとなった。

 出獄後、ヒトラーは戦術を転換し、選挙による合法的な政権獲得を目ざした。しかし、当時のドイツは政治・経済・社会が安定期に向かっていたので、ナチスの勢力はほとんど伸びず、1928年5月の選挙では総投票数の2.6%・12議席を獲得したにすぎなかった。1929年に始まった世界恐慌がドイツに及ぶと、アメリカ資本に依存していたドイツ経済はたちまち破綻の危機に瀕した。企業の倒産が相次ぎ、工業生産は半減し(1929年を100とする工業生産高の指数は1932年には53.3となった)、失業者数は600万人を超えた。

 こうした状況の中で、ナチスの唱える現状打破、特にヴェルサイユ体制破棄の主張はドイツ人の心をとらえた。ナチスは巧みな宣伝によって従来の政党に失望した中産階級の支持を得、1930年9月の選挙では総投票数の18.3%を獲得し、議席数を12から一挙に107議席に伸ばし、社会民主党(143議席)に次ぐ第2党に躍進した。その一方でこの選挙では労働者に支持された共産党も54(1928)から77へと議席数を増加させた。

 共産党の進出を恐れた資本家(特に金融資本家と重工業資本家)とユンカー(大地主)はナチス支持に傾き、ナチスに財政援助を行った。さらに軍部もナチスを支持したので、1932年7月の選挙ではナチスは総投票数の37.4%・230議席を獲得し、ついに第1党となった。ヒトラーは入閣を求められたが組閣を求めてこれを拒絶した(1932.8)。

 1932年11月の選挙でもナチスは第1党であったが196と議席を減らし、一方共産党は100席(11932年7月選挙では89議席)と議席をさらに増やした。共産党の進出に脅威を感じた資本家やユンカーはますますナチス支持を強め、内閣を総辞職に追い込んだのでヒンデンブルク大統領はヒトラーに組閣を許し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が成立した。

 しかし、この時のヒトラー内閣は連立内閣で過半数に達してなかったので、ヒトラーはただちに議会を解散し、1933年3月の選挙では総投票数の43.9%・288議席という圧倒的多数を獲得した。 この選挙では、ナチスは豊富な資金を用いて大々的な宣伝を行う一方で、暴力で反対党の選挙運動を妨害するなど未曾有のテロと脅迫を行った。 特に1932年2月27日夜、国会議事堂放火事件が起こると、放火犯人として前オランダ共産党員のルッベらを逮捕し、これを共産党の陰謀として共産党を弾圧した。この事件については不明な点も多いが、ゲーリングらナチス首脳が計画した放火説が有力である。ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由などの基本権を停止し、また共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕した。

 こうして3月5日の選挙では288議席を獲得した。しかし、与党の国家人民党の52議席を加えても3分の2(憲法改正に必要な数)に達しなかったので、共産党の81名の当選を無効とし、1933年3月24日には全権委任法(授権法)を成立させた。全権委任法は、以後4年間国会や大統領の承認なしに政府の立法権を認めるという内容で、これによってヒトラーの独裁体制が確立された。

 独裁権を握ったヒトラーは、労働組合を禁止し(1933.5)、同年7月までにはナチス以外の全政党を解散させ、ナチスの一党独裁体制を確立した。ヒトラーは、1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、総統(フューラー)に就任し、大統領・首相・党首の全権を握り、名実ともに独裁者となった。

 ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊(その2)

 ナチス支配下のドイツは第三帝国(1933〜45)と呼ばれる。第三帝国とは、第一帝国(神聖ローマ帝国)・第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三の帝国の意味である。

 ナチスは全体主義の思想のもとで民主主義を否定し、個人の自由・基本的人権は認めず、国民生活全体を厳しく統制した。特に反対派やユダヤ人に対しては突撃隊(SA、エス=アー)・親衛隊(SS、エス=エス)・秘密警察(ゲシュタポ)を利用して徹底して弾圧した。

 突撃隊は、1921年に創設されたナチスの直接行動隊で、初めはナチスの集会の防衛を任務としたが、やがて反対派に対するデモと暴力の行使を主任務とした。1926年以後は大衆組織として急速に勢力を拡大し、1933年頃には250万人を擁して国防軍と並ぶ強大な組織となり、国防軍と対立した。国防軍の支持を必要としたヒトラーは、1934年6月に突撃隊の幹部を粛清したので、以後は親衛隊が強力になった。

 親衛隊はヒトラー個人の身辺警護隊として1925年に創設された。1934年に突撃隊から独立し、最新の武器で武装し、占領地支配や強制収容所の運営を行い、後には秘密警察の役割も担った。

 ゲシュタポは、1933〜34年に設立された国家秘密警察で、あらゆる手段を用いて反ナチス分子やユダヤ人を徹底的に弾圧し、ナチスの恐怖政治のシンボルとなった。

 ヒトラーは19世紀にヨーロッパで高まった反ユダヤ人的人種論をもとに、ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、その反対にユダヤ人は劣等民族で絶滅されるべき存在であるという極端な人種論を唱え、ユダヤ人を迫害した。 1933年にはユダヤ人商店に対するボイコットやユダヤ人の公職からの追放を行い、1935年にはユダヤ人と4分の1以上ユダヤ人の血が混じっている混血者から市民権を剥奪し、ユダヤ人と非ユダヤ人との結婚を禁止した。そうした中で、1938年にはユダヤ人の商店の打ちこわしや虐殺が行われ、1942年にはユダヤ人絶滅政策が決定された。そして政治犯やユダヤ人を収容して強制労働を行わせ、あるいは大量虐殺を行うために強制収容所が各地に建設され、ユダヤ人の強制連行・大量虐殺が行われた。

 有名なアウシュビッツの強制収容所(現在のポーランド国内にあった)は1940年に建設された最大規模の強制収容所で、ここだけでも250万人のユダヤ人を含む400万人以上が虐殺されたといわれている。第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では約500万人(1942年頃の全ヨーロッパのユダヤ人は約1100万人といわれている)のユダヤ人が虐殺されたといわれている。

 1932年を底として次第に回復しつつあったドイツ経済は、ナチスの支配下で復興に向かった。ナチスはアウトバーン(ドイツの高速自動車道路網)・土地改良工事・飛行場の建設などの大規模な土木事業に着手して失業者を吸収したので、失業者は1933年初めの約600万人から1935年初めには約300万人に減少した。 1936年に開始された四カ年計画は「バターより大砲を」の軍需産業優先の軍備拡張計画であったが、これによって失業者数は1939年初めには約30万人に激減した。

 国内でファシズム体制を確立したナチスは対外的にも強硬な態度をとり、ヴェルサイユ体制の打破に乗りだした。 1933年1月に政権を獲得したヒトラーは、ヴェルサイユ条約でのドイツの軍備制限の撤廃と軍備平等権を要求し、これが拒否されると、1933年10月に前年から開かれていたジュネーブ軍縮会議(1932〜34)と国際連盟からの脱退を宣言した(1933年3月には日本がすでに脱退していた)。

 そして1935年1月には住民投票によってザール地方のドイツ復帰を果たした。ザール地方は石炭などの資源に富むヨーロッパ有数の工業地帯であったが、ヴェルサイユ条約では国際連盟の管理下におかれ(炭田の採掘権はフランスに譲渡されていた)、帰属は15年後の住民投票で決定することになっていたが、1935年1月に行われた住民投票では91%の支持率でドイツに復帰した。

 1935年3月16日、ヒトラーはヴェルサイユ条約の中の軍備制限条項を破棄し、徴兵制を復活し、軍隊を50万人に増強するという再軍備宣言を突然行い、ヨーロッパ中の国々を驚かせた。再軍備宣言では空軍の設立も宣言された。

 この再軍備宣言は全ヨーロッパに衝撃を与えた。イギリス・フランス・イタリアは同年4月にイタリアの都市ストレーザで会談を開き、ドイツの再軍備宣言を非難するとともに、ドイツの脅威に対して共同行動をとることを約束した(ストレーザ戦線)。 ドイツの再軍備宣言に最も衝撃を受けたのはフランスであった。フランスはナチス=ドイツの進出に対抗するためにソ連との間に仏ソ相互援助条約を結び(1935.5)、ソ連もチェコとソ連=チェコ相互援助条約を結んだ(1935.5)。しかし、1935年6月にはイギリスがドイツと英独海軍協定を結び、ドイツに対英35%の軍艦と45%の潜水艦の保有を認めたのでストレーザ戦線は崩壊した。英独海軍協定は国際連盟の理事国であったイギリス自らがヴェルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備宣言を公認するものであったのでヴェルサイユ条約は事実上崩壊した。

 さらにヒトラーは、翌1936年に、ヨーロッパがムッソリーニのエチオピア侵入(1935.10〜36.5)で騒然としている中でラインラント進駐を行った。 1936年3月7日、ヒトラーは前年の仏ソ相互援助条約の締結を理由にヴェルサイユ条約・ロカルノ条約(1925、ラインラントの非武装と相互不侵略を約束した条約)を破棄してラインラントに進駐した。この時のドイツ軍は大軍でなかったので、後にヒトラーは「ラインラント進駐後の48時間は、私の生涯でもっとも神経を痛めた時だ。もし当時フランスが兵を進めておれば、われわれはしっぽをまいて退却せざるを得なかったであろう。われわれが利用できる軍事力はひかえめな抵抗にも全く不十分だったからだ。」と語っている。 フランスはドイツのラインラント進駐に一時態度を硬化させたが、イギリスの同調が得られなかったために反撃をためらい、ドイツによるラインラント進駐を阻止することが出来なかった。ラインラント進駐によってロカルノ体制とヴェルサイユ体制は崩壊し、国際情勢はますます緊迫の度を強めていった。

 日本に於けるナチス党の形成過程は次の通りである。

 日本軍部の台頭と満州事変

 第一次世界大戦が終わった翌々年、日本は大戦景気の反動から戦後恐慌に襲われ、さらに関東大震災(1923.9)によって日本経済は大打撃を受けた。1927年3月には震災手形(関東大震災のために支払えなくなった手形)の処理をめぐって金融恐慌がおこり、銀行・会社の倒産が続出した。その直後に成立した田中内閣(1927.4〜29.7)は金融恐慌の処理にあたるとともに、対外的には中国に対して積極外交(強硬外交)を展開し、山東出兵(1927.5〜28.5)を行って済南事件(1928.5、日本軍と北伐軍の衝突事件)をおこした。しかし、田中内閣は張作霖爆殺事件(満州某重大事件、1928.6)の責任問題で退陣し、浜口内閣(1929.7〜31.4)が成立した。

 浜口内閣の成立からまもなく世界恐慌が始まった。浜口内閣はこの時期に金解禁(1930.1)を断行したため、大量の金流出・企業の倒産・失業者の増大を招き、日本経済は深刻な不況に陥った(昭和恐慌)。鉱工業生産は1926年を100とすると、1931年には75に落ちこみ、失業者は50万人近くに達し(帰農者を含めると300万人以上ともいわれている)、労働争議が多発した。また生糸・米の値段の暴落や北海道・東北の冷害・大凶作で農村の困窮が深刻化し、小作争議が激増し、欠食児童や娘の身売りなどが社会問題となった。浜口内閣(外相は幣原(しではら)喜重郎)は対外的には協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮条約に調印し、中国に対してもその主権を尊重し、内政に武力干渉することは避けて日本の権益の擁護をはかった。

 しかし、陸軍を主体とする軍部は、幣原外交を軟弱外交として非難し、これに強く反対した。特に政府が軍令部の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を調印したことは天皇の統帥権(とうすいけん、軍隊の指揮統率権)を犯すものだとして政府を激しく攻撃した。 こうした動きと結びついて、軍部内では世界恐慌による国内の危機を打開するために満州(当時の日本では中国東北地方をこう呼んでいた)・内蒙古全域を植民地とする、そのために満蒙問題を武力で解決するという動きが強まった。

 1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍(関東州(旅順・大連とその付属地域)と南満州鉄道の警備を主任務とする日本陸軍部隊)の一部将校たちは奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を自ら爆破し、これを張学良軍のしわざとして軍事行動を起こし(柳条湖事件)、翌朝までに奉天全市を占領した。この日本軍の行動に対して蒋介石は不抵抗政策を命じ、張学良がそれに従ったので、関東はまたたくまに長春・営口・吉林など満鉄沿線の主要都市を占領した。

 第2次若槻内閣(1931.4〜31.12)は不拡大方針を表明(1931.9.24)したが、関東軍はさらに満州全域に軍を進め、翌1932年2月にはハルビンを占領し、開戦以来約半年で熱河を除く満州全域をほぼ制圧した。そして1932年3月には満州国を建国した。これが満州事変(1931.9〜32.3)である。柳条湖事件は満州事変以後、日中戦争から太平洋戦争までの十五年戦争(1931.9〜45.8)の発端となった。

 中国国民政府は日本の軍事行動に対して不抵抗政策をとるとともに、国際連盟に提訴した(1931.9.21)。しかし、いわゆるリットン調査団が編成されたのは1931年末で、調査団は1932年2月から9月にかけて中国・日本を視察して10月に報告書を提出したが、その時にはすでに満州国が建国されていた。

 柳条湖事件に次いで、1932年1月には上海事変が勃発した。満州事変の勃発以来、排日運動が激化していた上海で日本人の日蓮宗僧侶が殺傷されるという事件(この事件も日本軍の謀略とされている)が起こると、日本軍は軍事行動を起こし、中国軍と激しい戦闘状態に入った。陸海軍の増援を得た日本軍は2月下旬から総攻撃を行い、激戦が続いたが、3月初めには中国軍が撤退したので戦闘はほぼ終わり、5月に停戦協定が結ばれた。

 日本は、列強の目が上海に注がれている間に満州国建設の計画を進めた。日本は、当時天津の日本租界の近くに蟄居していた清朝最後の宣統帝溥儀(1906〜67、清朝皇帝・位1908〜12、満州国皇帝・位1934〜45)を天津から連れ出し(1931.11)、1932年3月1日に溥儀を執政とする満州国の建国を宣言した。その後満州国は帝政となったので溥儀は満州国皇帝となった(1934.3)。

 日本は、1932年9月に満州国を承認し、日満議定書を結んだ。日満議定書で、満州国は日本がそれまで満蒙において持っていたすべての権益を承認し、日本の駐兵権を全国に拡大することを認めた。また満州国政府の重要なポストは日本人顧問・官吏が占めて実権を握ったので、満州国は完全に傀儡(かいらい)政権であり、事実上日本の植民地であった。

 この間、日本国内では1932年5月15日に、海軍青年将校と右翼が首相官邸などを襲って犬養首相(任1931.12〜32.5)を暗殺するという五・一五事件が起こった。五・一五事件によって政党政治は終わりをつげ、以後軍部の発言権がますます強くなった。

 1932年10月にはリットン調査団の報告書が発表された。報告書は、日本の満州における権益は保護されるべきであるとしながらも、満州事変を日本の侵略行為とし、満州国は満州人の自発的独立運動でないとして満州国を認めず、満州を中国の一部として強い自治権を持たせて国際連盟の管理下におくことを提案していた。

 日本はこれに対して国際連盟理事会でただちに反駁する一方で、翌1933年1月には山海関を占領し、次いで熱河省(省都は承徳、現在の河北省の北部)を満州国の一部だとして攻撃を開始し(1932.2)、国際連盟を刺激した。

 1933年2月24日、国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく日本軍の満州撤退勧告案が42対1(反対の1は日本)で採択されると、松岡洋右(ようすけ)日本代表は席をけって退場し、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩むことになった。

 日本は、国際連盟脱退後、1933年4月には長城を越えて華北に侵入して北京に迫った。中国は停戦を申し入れ、5月末に塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれた。これによって中国は満州国の存在を事実上承認し、また長城以南に非武装地域をつくることを約束した。

 日本は、1935年に入ると再び防共を名目として内蒙古・華北に進出し、非武装地域(河北省東部)に冀東(きとう)防共自治政府という傀儡政権を成立させ、国民政府からの分離・独立を宣言させた。


【トロツキーの「ファシズムとは何か」】
 ここで、トロツキーの「ファシズムとは何か」を転載しておく。

ファシズムとは何か(シャハトマンへの手紙) トロツキー/訳 西島栄

 【解説】
 この手紙は、ファシズムの本質について簡潔に述べたトロツキーの手紙で、マックス・シャハトマンに宛てたものである。当時、シャハトマンは、国際書記局の決定にもとづき、イギリスに赴いてイギリス左翼反対派の組織化に援助することになっていた。それゆえ、この手紙の内容は、シャハトマンがイギリスの同志たちと議論することを前提にした書き方になっている。

 この手紙の中でトロツキーは、ファシズム独裁とその他の独裁との違いを的確に描き出している。ファシズムは他の独裁と違って、大資本によって支援されながらも、下からの自然発生的な運動であり、小ブルジョアジー、ルンペン・プロレタリアート、さらには一部のプロレタリア大衆をも巻き込む。それは同時に、社会主義的デマゴギーをもふんだんに用いるが、それは下からの大衆運動を動員する上で不可欠だからである。また、トロツキーは、新しい中間階級(役人や上層ホワイトカラー層)がファシズムの基盤になる可能性についても、検討課題として提起している。

L.Trotsky, What is Fascism?, Writings of Leon Trotsky: Supplement(1929-33), Pathfinder, 1976.

 親愛なる同志シャハトマン(1) 

 今日はファシズムの問題について書きます。あなたがこの問題でイギリスの同志たちと討論していただければと思います。このようなやり方で、われわれは結論と一定の見解に到達することができるのです。

 ファシズムとは何でしょうか? この名称はイタリアに起源を発しています。これまでの(すなわち、イタリアのファシズムが出現する以前の)反革命的独裁のあらゆる形態はファシスト独裁だったのでしょうか?スペインにおけるかつてのプリモ・デ・リベラ(2)独裁は、コミンテルンによってファシスト独裁と呼ばれています。これは正しいでしょうか? われわれは、これは間違っていると考えます。

 イタリアのファシズム運動は広範な大衆の自然発生的な運動であり、下部からの新しい指導者たちをともなっていました。それは、もともとは、大資本家によって方向づけられ資金援助されていたとはいえ、平民的な運動でした。それは、小ブルジョアジー、ルンペン・プロレタリアート、そしてある程度まではプロレタリア大衆から発生しました。元社会主義者のムッソリーニは、この運動から成り上がってきた「たたき上げ」の男です。それに対しプリモ・デ・リベラは貴族でした。彼は、高い軍事的・官僚的ポストを占め、カタロニアの州知事でした。彼は自らのクーデターを、国家と軍隊の力を借りて行ないました。スペインとイタリアの独裁は、二つのまったく異なった独裁形態です。両者を区別することが必要です。ムッソリーニは、旧来の多くの軍事機構とファシスト民兵とを和解させることに、大いに苦労しました。このような問題はプリモ・デ・リベラにはありませんでした。ドイツの運動はイタリアの運動にきわめて類似しています。それは大衆運動であり、その指導者たちは社会主義的デマゴギーをふんだんに用いています。それは大衆運動を作り上げる上で必要不可欠なのです。

 ファシズムの真の基盤は小ブルジョアジーです。イタリアにおいて、それは広範な基礎を持っていました。町や都市の小ブルジョアジー、および農民です。ドイツにおいても同様に、ファシズムにとっての大きな基盤があります。しかしイギリスにはそのような基盤がありません。なぜなら、プロレタリアートが住民の圧倒的多数を占めているからです。農民あるいは農場主層は取るに足りない小部分にすぎません。

 新しい中間階級――国家の役人、企業の管理者層、等々――がこのような基盤を形成しうると言う人もいるかもしれませんし、それはある程度までは正しいと言えます。しかし、これは、今後分析しなければならない新しい問題です。それはあくまでも一つの仮説です。実際にどうなるかを分析することが必要です。ファシストの運動がどちらの基盤から成長するかを予測することが必要です。しかしこれは一つの展望にすぎず、現実の事態によって左右されます。イギリスにおいてはファシズムの運動は発展することはできないとか、モーズリー(3)あるいはそれ以外の誰かが独裁者になることはできない、などと断言するつもりは私にはありません。それは大いにありうることです。

 けれども、現在の時点でそれを切迫した危険性として語ることは、予測ではなく、単なる予言になってしまいます。ファシズムに関して何ごとかを予想するためには、この概念の定義をきちんとしておく必要があります。ファシズムとは何か? その基盤は何か、その形態は、その特徴は? その発展はどのような形で生じるのか?この目的は、イギリスの同志たちに、問題が単純ではないことを示すことです。問題を科学的かつマルクス主義的方法で提出しなければなりません。

 さて、もう一つの問題ですが、当然のことながら、あなたが左翼反対派の固有の諸問題について頭を悩ませていることは重要なことですが、それに負けず劣らず重要なのは、イギリス共産党、ILP(独立労働党)、労働党の内部で生じていることに真剣な注意を払うことです。最初の地震の振動が起これば、それは必然的に家の壁に大きなひびを入れるでしょう。そして、ボリシェヴィキ=レーニン主義者は労働運動の広範な部分のあいだで影響力を獲得することができるでしょう。したがって、われわれの小さな運動のみならず、この大きな組織体の中で生じているあらゆることにあなたの注意を向けなければならないのです。

 この手紙は非常に大雑把なものです。私はその内容を十分に検討していませんが、あなたなら、その中で表明されている思想の全般的意味を的確にとらえてくれるでしょう。

 エレン・ウイルキンソン(4)への手紙も同封しておきます。彼女は、あなたも覚えていると思いますが、元共産党員で、その後、労働党の国会議員になった人物です。彼女も、私がイギリスに入国する権利を獲得するために多少の尽力をしてくれました。彼女があなたにとって役に立つと思われたなら、私が同封した手紙は一定の役割を果たすでしょう。もしそうでなければ、その手紙は破棄していただいてかまいません。心からの挨拶を込めて、トロツキー 1931年11月15日(英語版『トロツキー著作集:補遺 1929-1933』所収新規、本邦初訳)

  訳注

(1)シャハトマン、マックス(1903-1972)……アメリカの左翼反対派および社会主義労働者党の創始者。1930年代初め、アメリカ共産主義者同盟内でJ・P・キャノンらの多数派に反対して少数派を率いる。両派の意見の相違が十分に明確でなく、膠着状態に陥り、組織の対外活動が打撃を受けることになった。意見の相違は、1933年にトロツキーの支援もあって克服され、その後数年間、米国における第4インターナショナル建設において指導的役割をはたす。だが、第2次世界大戦が始まった1939年には、小ブルジョア的圧力に屈して、マルクス主義の基本的政策と実践を修正しようとする闘争を指導。1940年に、ジェームズ・バーナムとともに社会主義労働者党からの分裂を指導。1958年に社会党に入党して、その右派指導者になる。

(2)プリモ・デ・リベラ、ミゲル(1870-1930)……スペインの軍人、独裁者。1923年、カタロニア軍管区総司令官のときに、国内の不安定化に乗じてクーデターを遂行。軍人から成る執政政府を樹立。1930年、世界恐慌下で財政政策に失敗して失脚。その息子、ホセ・アントニオは、ファシスト政党「フェランヘ党」を結成。

(3)モーズリー、オズワルド(1896-1980)……イギリスのファシスト政治家。1924年に保守党から労働党に移り、1929〜30年に労働党内閣に入閣。1931年に脱党して、「新党(New Party)」を結成し、それを1932年にイギリス・ファシスト連盟に改編。第2次世界大戦で解散を命じられる。戦後も、ネオ・ファシズム運動に従事。

(4)ウィルキンソン、エレン(1891-1947)……イギリス労働党左派、『トリビュート』誌創刊に関与。労働組合の結成や女性参政権獲得のために尽力。イギリス共産党の創設に参加。1923年に離党。1924〜31年、35〜47年に労働党の国会議員。1945〜47年にアトリー労働党内閣のもとで文部大臣。 







(私論.私見)