別章【ドイツ政治史の研究】 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和元年/栄和2).3.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、ドイツ政治史を確認しておく。 2015.04.18日 れんだいこ拝 |
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別章【ヒトラー及びナチズム考】 | |
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(私論.私見)
ここで突然、話を120年以上前にさかのぼることにしたい。それは1871年8月15日のことだった。
一人の男が一通の秘密の書簡を送った。宛先はイタリア。宛名の欄には、こう書かれていたージュゼッペ・マッチーニ。
彼はガリバルディとともに、イタリアを統一した人物として知られる。前に紹介したように、ガリバルディはフリーメーソンであり、同じく戦友マッチーニもそうだった。しかもマッチーニは、メーソンの中枢機関『イルミナティ』の”権力政治部門”の最高権力の座についていた。EC(欧州共同体)を提唱したクーデン・ホーフ・カレルギーが、彼からメーソン思想と、実践方法の影響を受け、師と仰いでいたほどの人物であり、のちに「イタリア建国の父」とさえ呼ばれた。
そのマッチーニに秘密の書簡を送った男、彼もまたフリーメーソンの大物であった。
男の名は、アルバート・パイク(1809~1891)。1857年に米国のサウスカロライナ州チャールストンでメーソンの最高位33階級になるや、AASR(古代客認スコットランド典礼)と米国イルナミティの全権責任者(グランド・マスター)にまで登り詰めた。のちに人は彼を「メーソンの教皇」と呼ぶ。そのメーソンの教皇が、マッチーニに送った秘密の書簡ーー。そこには恐るべきことが書かれていた。
第1次世界大戦が始まったのは1914年。この書簡が書かれたのは、なんと其の43年前。つまり当時パイクは、すでに第1次世界大戦を計画し、帝政ロシアの破壊を予告していたのだ。
20世紀初頭、ヨーロッパ列国は植民地をめぐって激しく対立していた。イギリスを中心とするロシア、フランスの「三国協商」と、これに対抗するドイツ中心のオーストリア、イタリアの「三国同盟」が勢力圏争いを展開していたのである。
その舞台となったのが「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島。南に進出しようとするロシアと、ここに勢力を広げようとするドイツ・オーストリアが火花を散らし、まさに一触即発の事態となっていた。
そのような状況下の1914年6月。ついに恐れていたことが起こった。
オーストリアの皇太子がサラエボでセルビアの一青年に射殺されたのだ。これがきっかけで、、オーストリアはセルビアに宣戦布告。セルビアの後押しをしていたロシアもオーストリアに宣戦。さらにドイツ、フランス、イギリスが参戦して、世界大戦へと拡大していった。最終的にトルコ、ブルガリア、日本、アメリカをも巻き込んだ第1次世界大戦は、1918年ドイツの降伏によって終結した。
歴史は、確かにパイクの書簡の通りに動いた。
1871年のパリ・コミューンは、アナキストの思想と運動の発展に、大きな役割を果たした。バクーニンは当時、次のようにコメントしている。
『革命的社会主義(すなわち、アナキズム)は、パリ・コミューンにおいて初めて点火され、実際に可能であることが証明された。』[Bakunin
on Anarchism, p.263]
パリ・コミューンは、普仏戦争でフランスがプロシャに敗北した後に作られた。フランス政府は、パリ国民衛兵の大砲が市民の手に落ちるのを恐れ、それを取り返そうと軍隊を派遣した。ところが兵士たちは、野次を浴びせる群衆に発砲することを拒否し、銃口を上官に向けたのである。3月18日、こうしてコミューンが始まった。
パリ国民衛兵が呼びかけた自由選挙で、パリ市民はコミューン評議会を選出した。評議会ではジャコバン派と共和派が多数を占め、社会主義者(その多くはブランキスト--権力主義的社会主義者であったが、プルードンを支持するアナキストもいた)は少数であった。
評議会はパリの自治を宣言し、フランスをコミューン(つまり共同体)の連邦として再生させようとした。コミューンの内部では、選出された評議員はリコール可能で、報酬は労働者の平均賃金と同じである。その上、評議員たちには、選出した市民の所に戻り、報告する義務があった。
この運動がなぜアナキストの想像力をとらえたかは、はっきりしている。それは、アナキストの思想に非常によく似ているからだ。実際、パリ・コミューンで採られた方法は、バクーニンが予言した革命にいろいろな点でよく似ていたのである。大都市が自治を宣言し・組織する。それに導かれて他の所もそれに続く。そして、全地球に波及する。(Bakunin
on Anarchismの"Letters to Albert
Richards"参照)
パリ・コミューンは、ボトム・アップによる組織化という、新しい社会の創造プロセスを開始したのだ。
ルイズ・ミッシェル、ルクリュ兄弟、それにユージン・バーリン(後に弾圧で殺された)をはじめ、多くのアナキストがコミューンで重要な役割を演じた。協同組合による作業場の再開など「コミューンによる改革」が始まると、アナキストは、彼らの協同労働の理念が実現していくのを見ることができた。コミューンが呼びかけた連邦と自治の中に、彼らは『未来の社会組織を見出した。労働者の自由な組合や連邦によって、下からボトムアップで組織を作り始め、それがコミューンに至る。やがてそれは、地域、国家、最終的には全世界への連邦へと至るのである。』[Bakunin, 前掲書, p.270]
しかし、パリ・コミューンは、アナキストにとって十分なものとは言えなかった。コミューンは、内部における国家を否定しなかった。外部においては否定していたのだが。コミューン支持者たちは、ジャコバン的方法(バクーニンによる辛辣な言い方)によって組織されていた。ピョートル・クロポトキンが指摘しているように、コミューンは国家や共和政府を壊そうとはしなかったし、コミューン内部では、コミューンの独立と自由な連邦を宣言することによって組織を簡単なものから高度なものにもっていこうとはしなかったのである。[Fighting the Revolution, P.16] さらに、経済改革の試みは不十分で、全ての労働現場を協同組織に改組することも、協同組織が互いの経済活動を助けるような調整もなされなかったのである。だが、パリはフランス軍にずっと包囲されていたのだから、コミューン支持者たちがそこまで考えられなかったとしても無理はない。
コミューン内部では、国家は廃止されなかった。1789年から93年革命時のパリ市民たち(クロポトキンの「大フランス革命」参照)がそうしたようにはしなかったのである。パリ・コミューンは、共和政府を維持したため、それに苦しめられることになった。『人々は、自分たちが活動するかわりに統治者たちを信用し、彼らがイニシアティブを取るのに任せた』[Kropotkin, Revolutionary Pamphlets, P.19]、そして『評議会は、革命の最大の障害物になってしまった。』[Bakunin, 前掲書, P.241]
評議会は、彼らを選んだ人民からどんどん離れ、孤立していった。さらにますます混迷することになったのである。混迷が深まるにつれ、権力主義的傾向が台頭してきた。多数を占めるジャコバン派は、「革命」を(テロによって)「防衛」する公安委員会の創設を主張した。少数のリバータリアン社会主義者はその委員会に反対し、幸運なことに、それはパリ市民たちからも無視された。市民たちは、資本主義の文明と「自由」の名のもとに攻撃をしかけてくるフランス軍と戦っていたからである。5月1日、政府軍はパリ市に突入、7日間、壮烈な市街戦が続いた。歩兵部隊やブルジョワジーの武装自警団が街路をうろつき回り、殺戮の限りを尽くした。市街戦で25,000名以上の人々が殺され、降伏後にも多数が処刑されたのである。死体は大きな穴に放り込まれた。
アナキストにとって、パリ・コミューンの教訓は3つある。第一は、非中央集権的な共同体(コミュニティ)の連邦は、自由な社会に必須の政治形態であるということ。第二は、コミューンより上位の政府が必要ないのと同様、コミューン内部の政府も必要ないということ。{Peter Kropotkin, Fighting the Revolution, P.19] これは、アナキストのコミュニティは、住民と労働現場の集団が互いに自由に協力する連邦方式に基づくことを意味している。第三は、政治革命や経済革命を、社会革命へと統合していくことが、決定的に重要なことである。『彼らは、コミューンの強化を第一にしようとして、社会革命を後回しにした。ところが、コミューンを強化する唯一の方法こそ、他ならぬ社会革命だったのである!』[Peter Kropotkin, 前掲書、P.19]
ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。ベートーヴェンはこの交響曲をナポレオンに捧げるつもりで作曲したと伝えられている。それは、フランス革命の自由・平等・博愛という三色旗の精神に感動し、ナポレオンがその継承者であるとして感動していたからである。ただが、革命児ナポレオン・ボナパルトが皇帝に豹変したのに幻滅して、献呈をとりやめた。
正統の哲学・解題①なぜバークはフランス革命を批判したか?
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/252.html
「空耳」での、中川八洋『正統の哲学、異端の思想』をめぐる一連の議論にたいする自分のコメントの責任を取りまして、またあっしらさんの提案を受ける形で、いくつかの問題提起をしたいと思います。ことの発端になった同著の解説というよりは、同著の依拠した思想家の考えを、いくつか考えてみたいと思います。
まずは、イギリスの政治家・政治哲学者バークを取り上げたいと思います。彼は、フランス革命が勃発するまでは、どちらかといえばイギリスにおいては「反体制」的な人であった。アイルランドの自治を推進して政府と対立したり、インド総督へースティングスの不正を議会で追求したり、果てはアメリカ独立革命をも支持した。その彼が、しかしフランス革命に対しては、完全として否を唱えた。この世を去るそのときまで、フランス革命政府の打倒を訴えた。
では、なぜバークはフランス革命を批判したのか?バークは決して政治における改革を拒否するような頑迷な保守主義者ではない。改めるべきものは慎重にこれを修繕することをいとわない。しかし、明らかにフランス革命はそうした「改革」の枠を超えており、単なる「法の破壊」にしかならないとバークは見通していたのである。事実、フランス革命は何か成果を挙げただろうか?「革命は穏健派によって始められ、やがて急進派に移り、最後はひどい反動になって帰ってくる」という形式を歩んだだけではなかろうか。
バークは、イギリス人が長い歴史を経て育んできた「自由」な風土を愛していた。そうしたイギリスの伝統に即した「法」秩序が、イギリス人を国家の圧制からも守っていたのであり、フランスにおいて古き「法」秩序が破壊されるならば、そして国王であれ貴族であれ民衆であれ、彼らが法に拘束されない「権力」を掌握するなら、もはやそこに「真の自由」はないとバークは確信したのである。事実また、フランス革命はそうなった。
果たして、フランス革命が近代民主制に果たした貢献などあるだろうか?
参考文献:エドマンド・バーク、『フランス革命についての省察』(上・下)、岩波文庫。 エドマンド・バーク、『フランス革命についての省察ほか』(上・下)、中公クラシックス。
Re: 正統の哲学・解題①なぜバークはフランス革命を批判したか?
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/263.html
(回答先: 正統の哲学・解題①なぜバークはフランス革命を批判したか? 投稿者 竹林の一愚人 日時 2004 年 6 月 16 日 14:42:50)
竹林の一愚人さん、どうもです。
要望にお応えいただきありがとうございます。
まず、バークの『フランス革命についての省察』は引用という間接的なかたちでしか知らないことをお断りさせていただきます。
>果たして、フランス革命が近代民主制に果たした貢献などあるだろうか?
大いなる皮肉を込めてではありますが、フランス革命は近代民主制に大きな貢献をしたと考えています。
最大の貢献は、人々を“抽象的な一国民”として位置付けたことだと思っています。
古代アテネや古代ローマの共和的民主政は市民―奴隷(非市民)という生々しい現実構造のなかで確立されたものですから、そこで政治に関わった市民は、大土地所有者(=奴隷所有者)や自営農民であって、“抽象的な一国民”ではありません。
フランス革命は、奴隷(自己の生存に最低限必要な物的手段を非所有)をも“国民”として政治に参加させる政治体制を確立したことが最大の貢献です。
ざっと世界を見渡してみればわかるように、そのようなフランス革命が確立した政治体制がもっとも“民主的”なものとして評価され、実際にも採用されています。
アイルランド人のバークが賞賛した英国も、立憲君主制とは言え、現在の民主制はそれほどフランスから離れたものではありません。
(議院内閣制と大統領制を差異性としてどこまで評価するかという問題は残ります)
奴隷が奴隷であることを失念し国民として生きている現実、これほど、政治的支配者にとって好都合な現実はないと私は考えています。
(日本でよく見られることですが、将来役員にもなれそうになりサラリーマンが経営書を読み、会社の利益を云々している姿を思い浮かべていただければ重なるものがあると思っています)
>明らかにフランス革命はそうした「改革」の枠を超えており、単なる「法の破壊」に
>しかならないとバークは見通していたのである。
この部分は、法とは何か、法は何に由来するのかといった近代政治哲学の永遠のテーマになるので簡単に書かせていただきます。
人がつくる実定法が権力機構によって尊重されているのならそれが法だという観点に立てば、「法の破壊」は旧権力機構の実定法を破壊したに過ぎず、新しい実定法をつくったと言えます。
新しい実定法の内容がある人にとって気に入るものか気に入らないものかは「思想」の問題ということになります。
ただし、法の短期間での全面的な改定は、社会を混乱を陥らせることになるという“保守主義”的理解は納得の範囲にあります。
ハイエクの言う“自生的秩序”と整合性の取れない“法”が施行されることで生じる混乱は大いなる悲劇です。(そのために、虐殺を含む強制力の行使も横行することになります)
> バークは、イギリス人が長い歴史を経て育んできた「自由」な風土を愛していた。
>そうしたイギリスの伝統に即した「法」秩序が、イギリス人を国家の圧制からも守っ
>ていたのであり、フランスにおいて古き「法」秩序が破壊されるならば、そして国王
>であれ貴族であれ民衆であれ、彼らが法に拘束されない「権力」を掌握するなら、も
>はやそこに「真の自由」はないとバークは確信したのである。事実また、フランス革
>命はそうなった。
オルテガは、「大衆の反乱」でフランス革命にふれ、堕落した貴族層を罵倒しながらも、革命政府は“社会”を一顧だにしなかったのに対し、国王や貴族層は“社会”のことをいつも気にかけていたといった趣旨を書いています。
(これについては、自分たちが心地よく生きていく支えが“社会”なのだから、金づるのご機嫌伺うのと同じで当たり前だと応えておきます。ただ、だからこそ漸進的改良は可能だと反論は受け容れます(笑))
「自由」とは何か?という、これまた深遠なテーマに関わる点もありますが、「自由であるためには、生存できる最低限の物的手段を排他的に保有していることが最低限の条件である」としておきます。
(バークの時代の英国・アイルランドにそのような自由な条件を手にしていた人がどれほどいたのかという問題提起です)
>事実、フランス革命は何か成果を挙げただろうか?「革命は穏健派によって始められ、
>やがて急進派に移り、最後はひどい反動になって帰ってくる」という形式を歩んだだ
>けではなかろうか。
「革命」という言葉が、「天“命”が“革”(あらた)まる」という中国語に由来する訳語であることが混乱の一つの要因だと思っています。
(本来の「革命」は、社会国家構造の根底的な変更ではなく、天命で就いているはずの皇帝(最高権力者)が天の支持を失ったことによる権力者交替を意味する)
なぜ、このようなことを持ち出したかというと、「革命は穏健派によって始められ、
やがて急進派に移り、最後はひどい反動になって帰ってくる」という洞察がそれに関わっていると考えるからです。
“自生的秩序”でも“天命”でもいいのですが、それを超えた急進的変更は、それ(“自生的秩序”)によって引き戻されてしまうという歴史が「反動」を指しているのだと思っています。
フランスは、王政復古の動きもありましたが、大統領を国王とする国益主義国家で落ち着きをみました。(フランスは今でも偉大な農民国家です)
ロシア革命後のソ連は、「共産党官僚専制ロシア帝国」に落ち着き所を見出すことになりました。(今では、「大統領を皇帝とするロシア帝国」とさらに“反動”的な落ち着き所を模索しているようです)
フランス革命は、「思想」を権力的にでも現実化させようとした思想に悪の根源があると思っています。(権力と一体化した啓蒙主義です)
そして、それは、ロシア・ボルシェヴィキ革命にも通じるものです。(権力で実現しようとした共産主義)
さらに言えば、革命の旗振りをした人たちはともかく、実働部隊として革命を担った人々はあふれんばかりの善意に衝き動かされていたことが、最大の悲劇であり何よりの教訓だと思っています。