アメリカ移民史

 (最新見直し2005.6.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)



 16世紀、 ルターに始まる改革と反改革の影響はイギリスにも及び、やがて、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)を折衷した独自の「イギリス国教会」が成立した。エリザベス1世の統治下で、イギリス国教会政策が進められていった。これに対し、新旧いずれからも強い不満と批判が寄せられ、プロテスタントの系各派のカルビン派の立場から、国教会の徹底改革を唱えた「ピューリタン(清教徒)」(ピューリタン Puritan) と呼ばれる人々が生まれた。

 国教会を純化(ピューリファイ)するよう求めたところから「ピューリタン」と呼ばれるようになった。彼らは、カトリック教会の権威主義と世俗化、聖職者の腐敗や堕落を批判し続けた。イギリス国教会の「宗教改革」は中途半端であり、どちらも堕落した宗教の姿としか映らなかった。そこで彼らは、真剣に国教会を糾弾し、「宗教改革」を未完成のまま終わらせては断じてならないと立ち上がった。

 これに対し、イギリス王権は、様々な形で圧力・迫害を加え続けた。彼らはセパラティスト派(分離派)とも云われ、異端視され弾圧を受けた。秘密集会を持っていたが、見つかれば投獄・むち打ち刑に処せられた。当時の記録には次のように記されている。
 概要「清教徒たちは四方八方から追いたてられ、迫害された。ある者は連れていかれて牢にたたき込まれ、またある者は、家を包囲されて、夜となく昼となく監視され、その手から逃れることはほとんどできなかった。そしてたいていの者は、住みなれた家と土地を残し、生計のすべてをすてて、やむなく立ち去らねばならなかった」(「アメリカ古典文庫15ピューリタニズム」、大下尚一訳、研究社出版)。
 
 彼らの一部が迫害から逃れるために宗教寛容政策を取っていたオランダのアムステルダムへ向かった。そこでは宗教の自由を満喫できるはずであったが、元々田舎での農耕生活に馴染んでいた為アムステルダムの都会生活になじめなかった。そこで、大学があり落ち着いたライデンの町へと向った。ライデンでの生活は1609年から12年間に及ぶが、アメリカ植民地の話を耳にし新大陸への移住を決意する。こうして、3度目の移住先としてアメリカに向うことになった。一旦イギリスに戻り、ヴァージニア植民地に定住する許可を得て、いよいよ自由の新天地・アメリカをめざすことになった。(「清教徒たちは何故アメリカにやって来たか」参照)

 1620.9.16日、ウィリアム・ブラッドフォードとウィリアム・ブルースター率いる後に「巡礼の始祖」(ピルグリム・ファーザーズ)と呼ばれる清教徒(ピューリタン)41名を交えた102名(うち29名が女性)がメイフラワー号に乗って北アメリカのヴァージニア植民地(現在のニューヨーク市のあたり)のハドソン川河口あたりを目指して出発した。

 メイフラワーとは"五月の花"の意味で、全長27.5m、180tで、前身はスウィート=シップと呼ばれるぶどう酒運搬用の貨物船で、フランスのボルドーからイギリスのロンドンへ赤ワインの樽を運んでいた。3本マストの帆船(エンジンではなく、帆をかけ、風で進む船)で、船の前方と後方には、キャスルと呼ばれる平たい家が建てられていた。死と隣り合わせの、命がけの航海であったことは確かで、イギリスからアメリカまでの大西洋4400kmを66日間かけて横断することになる。船客102名の中に、妊娠中の女性が3名おり、そのうち2名が新天地で下船前にそれぞれ男子を出産した。また航海中に乗員1名、船客1名が亡くなったことが記録されている。

 メイフラワー号がイギリスを出発してから2ヶ月経過した頃の11.21日、リーダー達が部屋に集まり、船内生活の団結と規律、新天地での開拓指針を協議し、「メイフラワー誓約」(「メイフラワーコンパクト」)と云われる契約書を作成した。契約は、互いに協力して公正と平等を重んじ、法に基づいて理想社会を建設する精神を称揚し、使用人と主人、又は人民と君主ではなくて同じ目的を持った人々の集団と各個人の間にて結ばれ、神がその立会い者であるとする社会契約説に基づく連判状になっていた。41家族の主(あるじ)がサインをした。

 メイフラワー号は、11.19日にコッド岬、11.21日、現在のマサテューセッツ州プロヴィンスタウンの地に入港して修理・補給を行ったのち12.26日、現在のマサチューセッツ州プリマスのマサチューセッツ湾(ケープコッド湾)沿岸に到達した。最初に上陸した新天地にニュー・プリモス(プリマス、New Plymouth)の名がつけられ、後にPlymouth Colonyとよばれるようになった。メイフラワー号は1621.4.15日、帰国の途につきロンドンに戻ったが、その後2年以内に廃船とされた。  

 移民団のリーダーの一人で、当時三十歳であったウィリアム・ブラッドフォードは次のようにつづっている。
 「かくも大海原を押し渡り、幾多の苦難を乗り越え来たるに、出迎える友もなく、波風に打たれし身体をいたわり休める宿もなく、よるべき家も、ましてや町もなく・・・、見渡す限りは恐ろしく淋しき荒野にて、(中略)・・・夏は去り、万物はすざまじき形相にて立ちはだかりき、・・・」(関元著「アメリカの原像」毎日新聞社)。 

 彼等がアメリカで一番最初に定住に成功したのが、 ボストンから車で1時間ほどの位置にあるプリマスであり、ここがアメリカ建国の発祥の地となった。彼らは、ヴァージニア会社から3万2千ヘクタールの土地をはじめとして重要な漁業権、インディアンとの交易許可、そして広範な権限を持つ自主管理体制をつくる権利を獲得した。ピュータンでない人々66名が同行して入植者全体は41家族からなる。指導者の1人ウィリアム・ブラッドフォードは後に『プリマス植民地』の中で初めて彼等を巡礼者(ピリグリム)と呼んだ。

 住む家もなかった清教徒たちは日曜日以外は毎日家を作るなどの作業に従事していたが、長い船旅の後の疲れ、新鮮な食料の不足に加え、ニューイングランド地方の冬の寒さに体を弱らせ、約半数の人たちが最初の冬を越せなかった。生き残ったのはわずか50名、23世帯だけとなってしまった。そのなかでも健康な人間は6、7名しかいなかった。

 だが、ピューリタンは屈しなかった。しかし彼らは、献身的に支えあい励まし合った。厳しい環境にひるまず、イギリスで達成できなかった理想社会建設への情熱に燃えていた。彼らはひたすら働き、努力を重ね、苦境を乗り越えた。自由の天地アメリカに、我が理想の都を建設したいピューリタンは確固たる信念に生涯をかけ、命をも惜しまなかった。教義の高低浅深はともあれ、彼らなりの「精神の戦い」は、今なお確かな足跡を残している。彼らが、アメリカ建設の祖として歴史にその名をとどめることになった。

1621年の春、一人のインディアンがやって来た。彼の名前はスクアント。スクアントは探検に来たハント船長に捕らえられ、奴隷としてヨーロッパに売られたが逃げて戻ってきたと過去を持っていた。そのために英語を話すことができ、スクアントと清教徒の交流が始まった。スクアントは、プリマス周辺に住むインディアン、ワンパノアーグ族の大酋長・マササイトを紹介した。1621.5.21日、マササイトと清教徒は平和条約を結び、生活交流が始まった。彼らはトウモロコシの栽培やタラの漁を始め生活の知恵を学んだ。

 (「アメリカ建国神話となったイギリス人清教徒巡礼 メイフラワー号」、「メイフラワー号・プリマス開拓村」その他参照)

 ピリグリムのアメリカ移住は続いた。それを支える何人かのスポンサーが居た。その代表格がウォリック伯・サー・ロバート・リッチであった。リッチは、ピューリタンで知られるケンブリッジのエマニュエル・カレッジの卒業生であり信仰心が強かった。志しを同じくする上流階級の人々と共にリッチはイギリスを改革したいと思っていた。1612年に25歳でヴァージニア会社に加わり後にはピューリタン革命の時、議会軍の海軍司令長官となった。リッチは次第にイギリスの改革よりも次善の改革としてアメリカ大陸での理想的な植民地を開拓しようと思うようになった。リッチは、1920年代を通じて信仰心深い入植者の集団つくりに立ち上がる。主にイギリス西部地方、イーストアングリア及びエセックス、そして厳格なプロテスタンティズムが最も強かったロンドンからアメリカでの冒険を引き受けようという人々を集めた。

 1623年、リッチは、イギリス南部ドーセットの男女の集団にニューイングランドへ行く様勧めた。彼等はアン岬に上陸後、1626年、ノムケッグ植民地を創る。これが二度目の移住となった。ドーセットの牧師でこの遠征隊の組織化を手伝ったジョン・ホワイトは、「様々な危険、障害を冒してでも民を冒険に向かわせる唯一最大の理由は宗教」だと主張し、「植民地建設において最も優れた望ましい目的は宗教の普及」と説いた。この事業が成功した事により1628年に3回目のピューリタン移住が挙行されセーレム植民地が創られた。

 1629.3.4日、これらの航海を組織していた人々が国王の特許状のもとにマサチューセッツ湾会社を創ったがこの会社は完全に大西洋の向こうへ会社自体を移転する権限を持っていた。即座に350名と大量の食糧、道具類、武器を積め込んだ6隻の船が派遣される。

 1630年、700名の入植者を乗せて大船団が出発した。これが一連の大船団のハシリで1630年代の終わりまでには合計200隻を数える船が二万人のイギリス人男女をニューイングランドへと運んだ。それまでのイギリス史においては最大の外国移住となった。

こうした初期の船団の中で、新しい行動様式を創ったという点で最も重要なのは、1630年にジョン・ウィンスロップが率いたものである。ウィンスロップはピューリタンの移住については傑出した人物であり、アメリカ最初の“偉人”である。

 これまでの植民が失敗に終わったのは、『現世的で宗教的でなかった。』為だったとウィンスロップは論ずる。改革された宗教の名のモトに指揮される事業でないと見込みが無いという事である。1629年7月末ウィンスロップは 前出のマサチューセッツ湾会社に加入した懸案の新植民地は自治を行いイギリスの後援者達に対する責任を負わないと決定された時である。特許状によれば会社は1年に4回の総会を開催する権限を持ち、そこで法律を制定し新しい自由民、または構成員を選び、総督、副総督、及び18人の役員を選出し布告を行い『政府及び行政の形式や儀式』を定め、植民地全住民を『イギリスの法律に反する』事の無い範疇で『矯正し罰を与え許し、また統治』する。植民地が自治を行うという決定が決め手となってウィンスロップはグロトンにあった地所を売却し全財産をこの事業につぎ込んだ。 その決断力と手際のよさに関係者は目を見張り10月にはウィンスロップを総督に選出する。 

 プリスマロックに上陸した最初のピリグリムファーザーズは分離主義者だった。イギリス本土の教会は堕落して命運が尽きていると考えそこから逃げたいと主って世捨て人の気持ちでアメリカにやって来た.。邪悪な世界をあとにして荒野に自分達の救いを求めたのだった。しかしウィンスロップは全く違う考えを持っていた。イングランド教会から離れたいと思っていない。この教会はまだ立ち直る事は出来るが、ただ本国では弱っている為ニューイングランドでしかその行動を起こせないと考えた。

 したがってニューイングランドの植民地は教会と国家の先駆けとして宗教的にも世俗的にも理想となる社会を作り上げそれを洗礼として旧世界をも改心させ救わなければいけないという考えを持っていた。『我々は丘の上の町だと考えなくてはいけない。世界中の目が我々に注がれている』 。ウィンスロップの率いた補給隊はニューイングランド史の転向点だった。彼はこの船団で1000人以上の入植者を選びボストン港周辺の6つの町に定住させる。

 中心地となったボストンには町政庁舎を建てミスティック川沿いテンヒルズに24ヘクタールの農場を取得した事をはじめ、他にも土地を手に入れプレッシング・オブ・ザ・ベイ号という船を建造して沿岸交易に使った。こうして1630年代を通じて更に多くの船が到着して失われたものを補って人口を増加させ新たな町や植民地が形成させていく。

 マサチューセッツをアメリカ民主主義の源流とされていたが実際にはピューリタンの指導者の間では支配する者と支配される者はおのずと異なるとみる権威主義的な見方が強かった。 マサチューセッツの非分離派は回心の経験を持つ信徒の連帯を重視して会宗派の教会を作り自由民の資格もその教会員に限定して宗教上の目的を優先する神政政治が実施されていた。

 それゆえ会宗派による統治には二重の意味で挑戦がなされた。第一は宗教的なもので1631年に移住してきたケンブリッジ出身の牧師ロジャー・ウィリアムズがイギリス国教会から分離しようとしない会宗派を批判した。その上ウィリアムズはインディアンから土地を購入していない事にも疑問を投げウィンスロップら指導者の頭痛の種となりやがて追放される事になる。


 (「アメリカ建国神話となったイギリス人清教徒巡礼 メイフラワー号」参照)
ロジャー・ウィリアムス
分離派の1人である彼は1631年にマサチューセッツ湾植民地に移住しセーラムで主任牧師補となった。ウィリアムスは間もなく当時においては常軌を逸したとしたとしか思えない事を言い始めた。それは、イギリス国王にはインディアンが所有する土地を下付けする権限は無いという事、教会と国家ははっきりと分離されるべきだという事、ピューリタンは自らの信仰を他の人々に強制してはいけない事だった。ウィリアムスは1635年にマサチューセッツから追放されナラガンセット湾にプロビデンスというタウンを建設した。彼の信念に基づき後のロードアイランド植民地を構成する事にになるプロビデンスとその他のタウンはユダヤ教を含めて全ての宗派を受け入れる方針をとった。

ウィリアムズが純真な正義感を奔放に飛翔させたのに対し1634年に移住したアン・ハチンソンは会宗派の教義の核心に鋭く挑みかかった。才気煥発なハチンソンの主張する反律法主義は全能の神のみが人の救いを決定するとみる、ジャン・カルヴァンの『予定説』を極端に推し進めて人間の地上での行いは全能の神に何ら関係無いと解釈するモノであった。 この主張はマサチューセッツの政府と教会の道徳的な基盤を根底から揺るがす危険をはらんでいた。 ハチンソンの主張を不吉と予感したウィンスロップら指導者は1637年ハチンソンを総会に召還し審問した上で追放処分とした。

アン・ハチンソン
Anne Hutchinson
(1591 - 1643)

ロジャー・ウィリアムスと同様ピューリタンと意見を異にしたのが(上写真参照)が、アン・マールベリー・ハッシンソンだった。マサチューセッツ湾植民地の正統派に対する挑戦者としては彼女の方が強烈だったという。彼女は熟練の助産婦としてボストンの女性から人気がありジョン・コトンの信奉者だった。コトンは恩恵の契約を重視する牧師だったがこの契約とはとるにたらない全く無力な人々に対して神から無償の贈り物として授かる救済を意味した。(それとは逆にマサチューセッツの聖職者達はピューリタンに神から救いを受ける準備として善行、自省、勤勉に励む事を力説した)1636年ハッチンソンはコトンの説教について話し合う為に自宅で女性達に集まりを持つようにした。これは間もなく男性も加わった。ハッシンソンはコトン以上に恩恵の契約を主張し神に選ばれし者は神と直接対話する事が可能であり、また救いを確かめる事も出来るとさえ信ずる様になった。このような考え方はピューリタンにとってこの上ない魅力となった。ハッチンソンはピューリタンに絶え間無い緊張状態に替えて救いの確かさをを示したのだった.。同時にこのような神への接近方法は教会組織の重要性を低下させる事になった。
ハッチンソンの考えはピューリタンの正当派によって非常に危険なモノだった。そのため1637年11月彼女はマサチューセッツの植民地代議会に召喚された。彼女はそこで植民地の牧師が救いは善行を通して得られると説いている事を批判した罪に問われた。彼女は自分を告発したものに対して鋭く反論し聖書の知識と才気をウィンスロップ本人に向けた。審問会で疲れた彼女は、うっかりした瞬間に神の「直接の啓示」によって」お告げがあったと口にしてしまった。この異端な発言によって彼女の追放は決定的なものになってしまった。彼女の家族は幾人かの忠実な信奉者と共にロードアイランドに追放されてしまった。
マサチューセッツ湾植民地の権力者達はハッチンソンが既存の秩序にとって2重の意味で危険である事に気付いていた。彼女は正統派の信仰を脅かすだけでなく伝統的な女性の役割を崩そうとしていた。ピューリタンでは神の前で誰もが平等でそこには女性も含まれていた。しかしそれと同時に女性はイブの罪によって永久に汚れた存在とされ男性に劣ると見なされてた。キリスト教徒は長い間聖ポールの言葉に従い女性は教会では沈黙を保ち夫に従順であらねばならないという教えを守ってきたがハッチンソンは、その両方に背いた事になっている。


 そのウィリアムズやハチンソンに比べてもマサチューセッツで厳しく弾圧されたのがクェーカー教徒だった。それは平信徒が「内なる光」を通じて神と交信し神の導きを受けるというクェーカー派の信仰が全能の神の教えをひたむきに従う事を旨とするピューリタンの厳格な教義とは相容れなかったからである。
1650年代にボストンに上陸しようとしたクェーカー教徒はただちに植民地外への退去を命じられ1658年から1661年まで3年間には4人が絞首刑に処された。
第二の政治的な挑戦はウィンスロップが自由民の資格を制限した事によりマサチューセッツ建設後間もなく生じる事になる。 ナサニエル・ウォードを中心にして植民地政府の運営を少数の指導者の裁量ではなくて法に基礎つけようとする作業もなされマグナ・カルタ(大憲章)を元にして政府機関の権限と個人の権利を明記した
『自由法典』の編纂が進められた。 1637年に総督であるジョン・ウィンスロップはそのような法令の編纂を時期尚早とみて激しく批判した。しかし総会は1641年に
『自由法典』の採択を決定した。それでもなお、会宗派の教会員でない事で参政権が認められていないイギリス国教徒らの不満は残り総会への請願や講義が公然とされ続けていた。

ロードアイランドとコネチカット
ニューイングランドの他の植民地も立憲主義の発展を独自に推進していた。
マサチューセッツを追放されたロジャー・ウィリアムズはボストンの南のプラヴィデンスに移住しロードアイランド植民地の構想を抱くにつれ異教徒のユダヤ教徒まで含めた信仰の自由を実現したいと考える様になった。 1644年には本国政府から特許状を取得して信仰の自由と政教分離を保証する自治領植民地を建設した。
 また、ピューリタンの牧師トマス・フッカーが中心となり1636年に建設したコネチカット植民地はフッカーの思想を反映して被治者の同意を原則とする基本法を1639年に制定した。コネチカット植民地も1662年チャールズ2世から特許状を与えられ同年ニューヘブン植民地を併合して自治領植民地として発展した。





(私論.私見)