宮崎滔天の履歴(プロフィール)

 (最新見直し2011.06.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「宮崎四兄弟(八郎、民蔵、彌蔵、滔天)」も史的に総括されていなければならない。れんだいこは、「光と陰」の両面から考察してみたい。

 その光の部分とは、「宮崎四兄弟」に濃厚に見られるのは幕末志士活動的革命運動の継承性である。長男・宮崎八郎は西南の役で西郷軍に馳せ参じ、「西郷に天下を取らせてまた謀反する」ことを夢見て散った。それは、明治維新政府の否定であり、更なる革命の永続性の志向であったように思われる。

 次男・民蔵は、社会体制の根幹病弊を封建的あるいは資本主義的土地所有制に認め、その非を告発し闘った。これも革命運動の範疇に入るであろう。しかし、1910(明治43)年の大逆事件以降の逆風により日本左派運動は逼塞する。民蔵は、孫文らの新生中国運動に夢を託し大陸へ渡る。そしてその革命事業を支援し続ける。

 三男・宮崎彌蔵も又孫文の新生中国運動に共鳴、支援しつつ、1896(明治29)年、横浜で無情の病に倒れ没す。

 その活動を直接的に受け継いだのが四男・宮崎滔天であった。滔天は、孫文との歴史的邂逅以来その生涯に渡って孫文を物心共に支援し、終生の友誼を構築する。この史実は、貴重な日中友好史として見直されるに値しよう。

 その陰の部分とは、宮崎四兄弟の革命性が、特に大陸に夢をはせていくことになる大アジア主義思想が、当時の日帝イデオロギーに掠め取られ、軍部の大陸進出−侵略の露払い役尖兵として転じていった悲劇性にあろう。これについては後日考察する。

 この両面を持つ宮崎四兄弟の思想と行動をどう評すべきか。

 2004.8.21日 れんだいこ拝


【宮崎滔天の履歴】
 孫文を物心両面で助け、その中国革命に献身した革命家・大陸浪人の一人、任侠家。「中国革命やフィリピン独立などを助けた滔天」
 1870(明治3).12.3〜1922(大正11).12.6日、熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)の素封家・宮崎家の政賢の8人の子供の4男として生まれる。本名は宮崎虎蔵。肥後荒尾は民権家を輩出した地であり、その影響を受けた。

 宮崎家は日本の伝統的な農村共同体の指導者階層に位置する地方随一の素封家であった。その宮崎家にこの時期「宮崎四兄弟」が誕生する(宮崎兄弟については、「宮崎兄弟の生涯」参照。別章で考察する)。この時代における「宮崎四兄弟」の義侠活動は異彩を放っている。

 滔天は15歳で、自由民権思想の影響を受け徳富蘇峰主宰の大江義塾に入る。後、同人社、東京専門学校(現早稲田大学)、熊本英学校、長崎のミッション=スクール「カブリ校」などで学び多彩な遍歴をもつ。この間、宮崎兄弟の影響もあってと思われるが、幕末志士活動、自由民権運動的気運を濃厚に持ち続け、国士的気分を胚胎する。

 1890(明治23)年、講道館柔道の四天王の一人、 会津出身の西郷四郎が「支那渡航意見書」を残して講道館を去る。中国大陸への夢捨て難く、講道館を去ったと云われている。何時の頃からか定かでないが、滔天と交流を始めている。滔天はこの種の人脈に恵まれている。

 1891(明治24)年、滔天はアメリカ留学を企てる。兄・彌蔵の諌止と彼の「革命的アジア主義」によるアジア解放構想を告げられ、同志となる。この年、中国革命を志し上海へ渡る。

 1894(明治27)年、タイへ渡る。

 1895(明治28)年、孫文(孫中山、1866〜1925、中国・広東省生まれ)が、日本の明治維新をモデルに漢民族による近代的独立国家を作ろうと、清朝打倒の革命運動を起す。この時、広東で「滅満興漢」を掲げて最初の武装蜂起を行った。しかし、失敗し、亡命生活を送ることになる。日本、ハワイなどを経て、翌年、英国に行った。ロンドンで清国公使館に拘禁され、医学校時代の英国人の恩師らの尽力で救出され、再び日本に政治亡命する。

 1896(明治29)年、兄・彌蔵が横浜で没した後、彌蔵の同志であった陳少白を通じて寅蔵は中国の革命家、孫文と初対面を果たすことになる。

 1897(明治30)年、横浜で孫文(1866年〜1925年)と知り合い、その革命運動を応援するようになる。滔天が孫文と初めて出会った時の情景が次のように伝えられている。

 概要「革命家と言うからにはさぞや大陸風の豪傑らしい男が出てくるものと思っていたところ、洋風の紳士然とした華奢(きゃしゃ)な小男が出て来たので拍子抜けしてしまった。が、ひとたびその話を聞いてみると、孫文の革命にかけた情熱、気迫に圧倒され、スケールの大きさにさしもの滔天も驚いてしまった」。

 滔天は、孫文の「中国の革命は、欧米列強の植民地になっているアジアの解放につながる」、「 四億の民を救い,アジア人の屈辱をそそぎ,世界の人道を回復するには,まずわが国の革命を成就させなければならない」という訴え、思想に傾倒し、熱烈な支援者になっていった。この初対面以降、日本人同志として孫文に革命の夢をたくし、生涯を革命にかけることになる。

 この頃、頭山満(とうやまみつる)も孫文と初めて会っている。会談の場所なども伝わっていないが、頭山は後にこう語っている。

 「救国愛民の革命の志は熱烈なものであった。かれは天下の財を集めて、これを天下に散ずるすぐれた能力のある人物であった。自分は四百余州(中国の意味)を統治しうる英雄と信じた」(葦津珍彦著「大アジア主義と頭山満)。

 犬養毅の依頼で、亡命中の孫文を生家にかくまう。秋、宮崎家に孫文を招き、革命に向けての熱い思いと固い友情を育んでいった。孫文は10日ほど滞在した。この時、「君は兵を挙げよ。我は財を挙げて支援す」との盟約が結ばれた、とのことである。

 日本に亡命した孫文を支援したのが政治家・犬養毅(いぬかいつよし)、宮崎滔天、玄洋社(頭山満、平岡浩太郎、末永節、萱野長知ら)や一部の炭鉱経営者らであった。孫文の東京での住まいは犬養が斡旋し、早稲田鶴巻町(現・新宿区早稲田鶴巻町)に敷地約2000平方メートルの広大な借家を提供した。その費用、生活費は頭山を通じて平岡が提供したと伝えられている。

 この時期既に宮崎滔天と頭山満の関係が認められる。察するに、滔天の「革命的アジア主義」と頭山の「大アジア主義」の交通が為されたものと思われる。主客は分からないが、滔天−頭山−孫文のトライアングル関係を考察する必要があるように思われる。 

 1898(明治31).6.12日、フィリピン人エミリオ・アギナルドがカビテ町の生家でフィリピン独立を宣言する。

 1899(明治32)年、金玉均と交わり、孫文とともにアギナルドらのアメリカからのフィリピン独立運動を援助した。アギナルドの幕僚ポンセは梅屋庄吉が書いた紹介状を持って日本を訪れ、孫文に面会して独立支援を要請。宮崎滔天、平山周、原禎、犬養毅らが協力し支援に乗り出している。

 1900(明治33)年、孫文が恵州で挙兵を計画する。孫文の恵州蜂起を支援し、滔天をはじめとする日本人の「大陸浪人」が多数参加した。しかし、あえなく失敗する。 恵州蜂起失敗後、滔天は、共に決起した日本人同志の戦死、革命運動に関係した日本人間の対立により挫折感に打ちのめされ、一時活動から身を引く。「政商背任事件に連座して革命運動から退く」ともある。

 その後の滔天は突然、浪花節語りを志して、「浪花節中興の祖」と呼ぱれる桃中軒雲右衛門の弟子になる。この転身の原困は判明していないが、孫文ら革命派への資金援助のため生活に困窮したとも、 大陸浪人間の軋轢(あつれき)のためともいわれる。桃中軒牛右衛門と名乗り、浪曲師(ろうきょくし)として自作の「落花の歌」を唄い、全国を巡業してまわる。

 頭山は「人がやかましく言うだろう。彼らの止めるのも賛成、君がきかずにやるのも賛成」と言い、幟(のぼり)幕を贈る心遣いを見せた。福岡公演では玄洋社社員らが応援し、好評だったという。滔天は、それまでの人生を振り返った「三十三年之夢」で、困った時、頭山が金を用立ててくれたり、励ましてくれたりしたことを記している。頭山は「雲翁」と呼ばれ、表立って動くことは少なくなっていたが、滔天は最も頼りにしていたのだろう。

 この頃、自叙伝「三十三年之夢」を出版、同書の中で孫文の革命運動を紹介する。このことが思いも寄らない歴史の流れを作り出すことになる。「三十三年之夢」は、滔天の生誕から浪花節語りになるまでを描いた自叙伝であったが、この本の中で孫文について書かれた部分が「孫逸仙」という題で漢訳されることになる。これにより中国大衆に「革命家 孫逸仙」の名が知れわたり、革命を志す者たちが孫文のもとに集結し始めることになった。

 1905(明治38).7月、滔天は、萱野長知、内田良平らと共に在日中国人の政治活動の大同団結に立ち働く。孫文派の興中会、黄興・宋教仁派の華興会、「国学大師」と呼ぱれる 学者の章炳麟派の光復会の三派を糾合することに成功する。

 8月、東京で、留学生を中心に「中国革命同盟会」を結成することに成功する。総理には孫文が選出された。これにより、それまで別々の行動をしていた革命諸派は一本化され、時代の流れは加速してゆく。同会機関誌「民報」の発行名義所は、宮崎滔天の自宅になっている。

 しかし、 中国革命同盟会は内紛絶えず、1907(明治40).3月、孫文が日本政府から餞別を受け離日した頃から、修復不能状態にまでなる。金銭問題から端を発してはいるが、孫文の独裁的会運営への不満と、革命戦略の違いから溝を深めていくことになった。中国革命同盟会は、孫文の南方同盟会と譚・宋派の中部同盟会に事実上分裂していく。

 「革命戦略の違い」は、次のようなところにあった(「北一輝が抱いたアジアへの夢」参照)。

 孫文を指導者とする興中会の革命戦略は、海外華僑、日本軍部を利用し辺境革命から始めて次第に政治権力を奪う、というものであった。興中会には、孫文、胡漢民、廖仲?ト、汪兆銘らがいた。

 宋教仁、譚人鳳派を指導者とする華興会の革命戦略は、「外邦の武器を持たず、外人の援助を仰がざる、革命の鮮血道を行く」ことを良しとしていた。拠点を、日本の明治維新期の京都に匹敵する全支那世論の神経中枢たる上海に置き、「叛逆の剣を統治者の腰間から盗む」中央革命を目指していた。軍隊工作に全力を傾注し、合体蜂起を策し、国家的統一を失わず、中央政権を奪取せんとしていた。

 華興会は、興中会の革命戦略に対し、概要「外国勢力への過度の依存は、起義成った後、外国から干渉を招く恐れあり」と危惧していた。孫派と宋派の中間で彌縫策を巡らせた黄興らであった。黄興は、日本に留学して軍事学を修め、後の中華民国臨時政府では陸軍総長となり、「孫文の右腕」として活躍する。

 興中会の革命戦略は、「地道な革命勢力の養成とその組織化に力を注がず、他力本願に過ぎ、僥倖頼みで蜂起が繰り返され犠牲者を増やし続けていた。維新前夜、竜馬や松陰や晋作が斃された様に、支那でも幾多の志士が累々と屍を晒した」。

 1906(明治39)年、東京で萱野長知などと月刊新聞「革命評論」刊行。同人には、平山周、萱野長知、清藤幸七郎などがいた。「中国革命同盟会」の日本人部機関紙としての性格を持った同人誌であった。やがて、孫文は辛亥革命に成功するが、その裏には宮崎滔天のような多くの日本人の協力があった。

 1911(明治44).10.10日、武昌で革命派の挙兵が起こる。「辛亥革命(しんがいかくめい)」の勃発である。指導者の孫文は、秦漢王朝から約二千年続いた専制の帝政を廃止し中国を人民の国家に導いた。革命活動17年、孫文、46歳のときであった。

 この挙兵に、玄洋社の末永節が日本人として一番乗りで駆(か)けつけている。滔天も革命同志を助けるため中国に渡った。デンバー号上での孫文との感激の対面、まさにそれは一場のドラマだった。 この時、28歳の「北一輝」も参画している。「北一輝が抱いたアジアへの夢」によれば、10.19日、宋教仁から日本の内田良平に「北君イツ発ツカ返待ツ」との電報が届き、10.26日、北は新橋駅を発ち、10.31日、上海に到着している。

 12.2日、革命派が南京を落とし、いよいよ臨時政府の樹立が日程に上る。この時期、孫文は世界遊説に出かけ、母国・中国は元より日本にすらいなかった。孫文が蜂起の成功を知るのは、アメリカに於いて、それも新聞からであった。

 12.25日、孫文帰国。張繼の調停で、孫文・宋教仁との和解為る。

 革命政権の中華民国臨時政府(南京臨時政府)が発足し、1912(明治45).1.1日、孫文が中華民国臨時大総統に就任する。

 以下、「北一輝が抱いたアジアへの夢」を参照する。臨時革命政府では、北京を中心に勢力を維持する北方軍閥・袁世凱との決着が課題だった。革命派は、外国とりわけ日・英・露三カ国からの干渉に神経を尖らせた。満清朝廷温存に繋がる立憲君主制の強要や、袁・孫妥協の斡旋、ロシアによる蒙古蚕食への日本の黙認、そして切迫する財政状況、亡国的借款など。

 北はこの時日本政府に対し、「革命とは亡国と興国との過度に架する冒険なる丸木橋なり」として、アジアの盟主たるべき日本が、白人列強の走狗となり、旧権力の温存に加担することを戒めるよう諌めている。「王者の如き善意なる傍観好意的中立」を望んでいたことになるが、支那軽蔑観に目を覆われた者たちに届くことはなかった。

 辛亥革命の前には大きな壁が立ちはだかっていた。日帝を含め諸列強が圧カを強め始めた。1912(明治45).2.13日、武昌蜂起から4ヶ月、袁世凱との南北和議が成立する。孫文は「臨時大総統」の座を袁世凱(えんせいがい)に譲り、袁世凱帝制が復活する。第一革命はかくして失敗に終った。宋教仁に日本の非を指摘された北は、「日本人たる不肖の忍ぶ能はざる所なりき」と慨嘆した。

 宋教仁は、袁世凱に請われ農林総長として入閣した。宋は強大な軍事力を擁する袁を恐れてはいなかった。革命を起こしたのは宋一派であり、臨時革命政府組織大綱21条は宋の意が色濃く反映され、3.12日、「中華民国臨時約法」として袁世凱により公布された。議会の開設が出来れば、多数を獲得し責任内閣を作り大総統・袁を牽制出来ると読んだ。

 宋教仁は孫文と共に国民党を組織し、1913(大正2).2月、選挙に臨んだ。結果は目論見通り、宋の擁した国民党が圧倒的第一党となり、実権を握る宋が最大実力者となった。

 3.20日、窮地に追い込まれた袁世凱らは上海停車場で宋を暗殺した。宋は滝の如く流れる血潮を押さえながら「南北統一は余の素志なり。小故を以って相争い国家を誤る勿れ」と遺言した。宋の死は革命党の脳髄が砕けたに等しかった。

 北伐討袁の旗挙がり、第二革命が勃発、内乱が繰り返され、群雄割拠、列強の介入を許す混乱へと繋がっていった。北の嘆きは尋常でなかった。真犯人を探し出さずば「革命に生き、彗星の如く消えた友」に顔向けできない。また成仏出来るはずもない。許さじと奔走する北もまた、日本にとっては紛争を呼ぶ爆裂弾であり邪魔な存在に過ぎなかった。(以上)

 大総統・袁世凱は宮崎滔天に対し、革命成立の功として中国米輸出権を与えようとしたが、あくまで孫文を支持する滔天はこれを拒否した。滔天は孫文、黄興を支援し続ける。そして、孫文は滔天の私心のない義侠を信頼し続けた。こうして、両者とも終生、友誼関係を貫いた。

 1913(大正2).2.13日から3.28日までの44日間、袁世凱に地位を譲った孫文が来日する。孫文は前・国家元首の栄光に包まれ、日本政府の賓客として歓迎される。この時、福岡へ来て、革命を支援してきた玄洋社や炭鉱経営者に感謝の気持ちを述(の)べている。このとき孫文は明治専門学校(現九州工業大学)、九州大学、三井工業学校(三池工業高校の前身)で学生たちに演説をしている。

 1922(大正11).12.6日、東京で病没(享年52歳)。滔天が死んだ二日後、孫文から次のような電報が届いた。「トウテンメイケイ(盟兄)ノシヲカナシム ソンイツセン」。

 1925年、孫文は「革命いまだ成らず」の言葉を残して生涯を閉じる。

 著書に、半生記「三十三年の夢」、「狂人譚」、「支那革命軍談」等々。その他新聞・雑誌掲載論文が多数あり、「宮崎滔天全集」に収められている。

 評伝として、上村希美男氏の「龍のごとく 宮崎滔天伝」(2001年、葦書房)等がある。
 宮崎滔天の子息(長男)が宮崎龍介(1892−1971)で、東大在学中に新人会(社会改造運動団体)を結成し、「解放」の編集に当たる。新人会からは、政治家、学者のみならず、大宅壮一、中野重治などの文人も輩出している。のち弁護士開業。1921年、柳原白蓮と結婚する。亡くなる前まで日中友好協会の 役員を努める。


【「宮崎兄弟考」】(宮崎兄弟については、宮崎兄弟の生涯「荒尾市宮崎兄弟資料館」参照)
【宮崎 八郎 (1851〜1877)】
 自由民権に散った天性の革命児。「自由民権運動の八郎」
 1864(元冶元)年、父と長州征伐のため出陣の際元服。時習館に学び、明治3年上京遊学。しかし東京で感じたものは明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機意識であり、明治6年、左院に征韓の正当性を建白し、第二の維新のリーダー的存在となる。反権力の意思を積極的行動に傾けた時、見出した中江兆民訳のルソーの「民約論」に感銘し、明治8年、自由民権思想をかかげた植木学校を設立。あわてた県は僅か半年で閉校を命じた。

 1866年、「西郷に天下を取らせてまた謀反する」ため西郷隆盛と共に挙兵。民権党の同志たちと西南の役で協同隊を組織し戦うが、4.6日、八代萩原堤で戦死。時に27歳。熱く自由を語り、行動した八郎の死を多くの人が悼んだといわれている。自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる。
【宮崎 民蔵 (1865〜1928)】
 土地復権を生涯の使命とした哲人。「社会革新論者の民蔵」
 明治18年、上京して中江兆民の仏学塾に入った。程なく病の為に帰郷、農村の貧しさをみて小作制度などの土地制度に疑問を抱き、天造物である土地の所有は人類の基本的人権のひとつではないかと気づく。その後土地の平均再配分をわが使命とし、30年、欧米諸国を視察・遊説。識者と論じ4年後に帰国。

 35年、同志と共に土地復権同志会を組織したが、1910(明治43)年、大逆事件が起こり、国内での運動は中絶。45年、“平均地権”の思想を同じくする孫文の新生中国の誕生に夢を託し、大陸へ渡り辛亥革命後の孫文を支援した。孫文の死の床を見舞った後も、復権運動の資金獲得のため専心したが成功せず、志半ばにして病に倒れた。享年64歳。
 
 中国での民蔵は、中国人になりきろうと名前を中国名に変え、家族とも音信を絶って、中国の言語・習俗の研究に励んだと伝えられている。その思いは「アジア諸国解放論」にまとめられ、弟・滔天などに影響を与えた。
【宮崎 彌蔵 (1867〜1896)】
 理想の国を中国革命にみた思想家。「中国革命を理想とした弥蔵」

 明治18年、大阪・東京に遊学し、21年、熊本市藪の内に住み、病気療養の傍ら、民蔵、寅蔵、友人達と哲学、社会問題等を激しく論じ、その会合は「藪の内組」と呼ばれ、警戒された。彌蔵は、中国を本拠地とした革命によって理想の国を築くことを願った。そのため自ら中国人になりきり、横浜の中国商館で頭髪を剃り、名も管仲甫と称し中国の言語・習俗の研究に励んだ。

 明治29年、孫文一派の陳少白と出会い、宿願達成の端緒と狂喜したが、無情の病に倒れ、「大丈夫ノ真心コメシ梓弓放タデ死スルコトノクヤシキ」の辞世を残して年わずか30歳で長逝。



【宮崎滔天の言行録】(「33年の夢 宮崎滔天」東洋文庫)
 「人あるいは曰ふ、理想は理想なり、実行すべきにあらずと、余以為(おもえ)らく、理想は実行すべきなり、実行すべからざるものは夢想なりと」。

 「支那四億万の蒼生(注・庶民・国家)を救ひ、亜東黄種色(注・アジア黄色人種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(注・天下・世界)の人道を回復し擁護するの道、唯我国の革命を成就するにあり」。




(私論.私見)