菅義偉考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).9.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「菅義偉考」をものしておく。 2019(平成31).5.8日 れんだいこ拝 |
【菅義偉考】 |
2020.9.4日、「自民党の悪いところは全て見た」政治家・菅義偉 異例のロングインタビュー【緊急公開】 安倍総理の突然の辞任を受けて、「次の総理」の最有力候補に急浮上した菅義偉官房長官についての評価はさまざまであるが、「官僚を掌握する力、実務に長けている」といったところが概ねよく伝えられるところである。しかし、言うまでもなく、こうした評価が広く知られるようになったのは第2次安倍政権で官房長官に就いてから。 官房長官ではなく「政治家・菅義偉」あるいは「人間・菅義偉」とはいかなる人物なのか。 ここで掲載するのは、それを知るうえで格好のノンフィクションである。取材が行われたのは麻生政権末期。政権支持率は低迷し、民主党への政権交代が現実味を帯びていた時期で、菅氏の肩書は自民党選挙対策副委員長だった。 この時期、菅氏にロングインタビューを行ったのがノンフィクション作家の豊田正義氏。政府の要職にいなかったこともあってか、菅氏としてはかなり珍しく生い立ちや自身の考えについて率直に語っている。青春時代については、工場での仕事に明るい展望を抱くことはできず、「ここで一生を終わるのかと暗澹とした気持ちになった」「あまり思い出したくない」と振り返る。番記者にすらプライベートについてあまり語らないという菅氏の人物像を知るうえで必読のテキストと言えるだろう。(以下、豊田正義「根性を忘れた日本人へ 世襲禁止を目指す“反骨漢”衆議院議員・菅義偉」〈『新潮45』2009年5月号収録〉より) *** “家出”同然で東京へ 桜のつぼみがふくらみ始めた、3月下旬の早朝、菅義偉は黄色いブルゾンに身を包み、相鉄線西横浜駅前にいた。事務所スタッフとボランティアの10人ほどが、通勤途中の市民に菅の活動を知らせるパンフレットを配る。菅は、マイクを握り朝の挨拶と政策を短いフレーズで訴え続けていた。 現在自民党選挙対策副委員長を務める菅義偉、60歳。世襲でも、官僚出身でもない「たたきあげ」の代議士である菅の、国会議員に初当選した13年前からの毎朝の日課が街頭演説である。 麻生内閣誕生直後から、常に解散総選挙の時期が注目されてきた。菅は選対副委員長として現在最もその動向が注目されている政治家のひとりだ。そのため、朝の街頭演説には多いときで20人近くの記者が集まる。 今年3月22日、菅は秋田県湯沢市に講演に訪れていた。神奈川2区を地盤にする菅だが、故郷はここ、秋田県湯沢市秋ノ宮だ。秋田藩の時代からの財政をささえた院内銀山のお膝元で1948年の冬に生まれた。父は米を作る農家、姉2人、弟1人の4人姉弟だ。 菅は読書が好きな少年で、歴史小説を夢中になって読んだ。特に好きな人物は織田信長。天下取りのドラマに胸を躍らせた。 成績は優秀で、小学校3年から中学卒業まで級長を務めた。 「秋ノ宮は貧しい農村でした。中学の同級生は120人いて、約半数が中卒後に集団就職で上京しました。残り60人のうち30人が家業の農家を継ぐ。高校へ行くのは30人程度でしたね」 。湯沢高校に入学してからは、バスで通学していたが、毎年11月にもなると深い雪に閉ざされ、交通が寸断される。菅は、冬になると実家をでて高校のそばに下宿を借り、そこから通学した。村は、男たちが出稼ぎのため東京に出て行き閑散としていた。冬は家族がばらばらになる季節だった。高校までは何とか出させてもらったが、かといって家業の農家を継ぐのは気がすすまなかった。「どうせいつかは死ぬわけですから、一度の人生思いっきり生きてみたいと。学校で就職を世話してもらって家出同然に東京へ出てきたんです」。 「テレビには出たくない」 最初の就職先は、東武東上線沿線にあるダンボール工場だった。「東京に出さえすれば、将来の展望が開けると考えていました。自分にとって東京は希望そのものだったし、地方の若者は皆同じように考えていたと思う」。荷運びなどの肉体労働をしながら、ただ日々を食いつぶすような毎日に、やがて菅は疑問を覚えるようになった。「ここで一生を終わるのかと思うと暗澹とした気持ちになった。現在のフリーター・派遣労働者問題にも通じると思うんですが、将来設計が立てられないところにいると、意欲を失ってしまうでしょう。あのころはあまり思い出したくない青春時代という感じ。とにかくこのままここにいるのだけはいやだと強く思った」。「大学に入って人生を変えよう」、そう決意して、ダンボール工場を辞めた菅は、築地市場で台車運びなどのアルバイトをして入学金を貯め、夜は受験勉強を続けた。2年後に、私学の中で一番学費が安かった法政大学法学部に入学。20歳の時のことだ。「学生運動全盛期で、授業のロックアウトが非常に多かった。学費を払うのがもったいないと思ったね、法律の勉強はほとんどできなかったし(笑)」。昼間部に入学した菅は、貯金とアルバイトで、学費と生活費を捻出していた。ロックアウトばかりで授業がないとはいえ、大学とアルバイトを両立するのは困難だった。「夜間部に転部したい」と学生課に相談に行った菅に、大学職員は「もったいない。あとで後悔するから、がんばりなさい」と慰留したという。菅は根性で学業と仕事を両立し、4年で卒業した。青年期の話をするときの菅の口は重い。「田舎の人間だから、口下手ですしね」と言う。いまや政治の世界では珍しい苦労人で、それを売りにすることもできるのだが、「テレビに出るのは嫌い。討論番組は絶対出たくない。雑誌にもあんまり載りたくない」と言う。実際、菅番の記者たちも「プライベートの話はほとんど聞いたことがないし、聞いても、あまり答えてくれない」というほどだ。 運命の市議選立候補 「自分の人生の一番の勝負所だったと思う。このとき、失うかもしれないものを顧みて、勝負に出なかったら、今の私はなかったと思う」と菅は言う。それは横浜市議への立候補だった。その当時、中曽根内閣が打ち出した売上税構想が、国民からの大反発を受けており、自民党に逆風が吹いていた。 横浜市議選でも波乱が予想され、長年自民党の公認を受けてきた77歳(当時)の長老市議が引退を表明。長老市議は自分の息子を後継に据えることを発表した。そうすることで自民党の若返りを狙ったのだ。しかし、菅と同年齢のその息子は、候補者としてのお披露目をする直前に、風呂場で倒れ、突然死してしまう。 公認候補がいなくなった自民党は、急遽候補者探しを始め、小此木事務所で頭角を現し、地元支持者の信頼も篤かった菅に、白羽の矢を立てたのだった。 菅は長老市議の息子の突然の不幸をいたましく思ったが、これも運命だと感じ、立候補する決意を固めた。ところが、菅が出馬表明をした直後に、77歳の市議が引退を撤回して「もう1期やる」と言い始めた。 「皆が私を降ろしにかかり、小此木先生も『今回は止めておけ』と。しかし、子供のころから歴史小説を読み漁ってきた私は、こういう波乱の時こそ、自分の運命が開ける前兆だと感じ取ったんです。だから、もう誰が反対しようが出ようと決心した」 。しかし菅には家庭という守るものがあった。「誰もが落選する可能性が高いと思っていたから、気持ちは相当揺れましたね。当時息子は3歳、1歳、1カ月でした。落選したら当然無職です。妻は何も言いませんでした。言っても聞く男じゃないと思っていたのでしょうけれど(笑)」。 自民党の悪いところはすべて見た 無所属で立候補すると腹を決め、小此木事務所に辞表を提出した。1988年4月の投票日のちょうど1年前に、菅は選挙区の西区に引越しをし、たった一人で準備を始めた。後援会作りも難航した。地元の有力者は、長老市議を恐れて、誰も菅を応援しようとしなかったからだ。選挙区内で後援会長を見つけられなかった菅は、秘書時代に付き合いのあった隣の選挙区の会社社長に後援会長を引き受けてもらった。「当時、私の選挙区の市議は皆60代以上で高齢化していたから、30代という若さはそれだけで武器になると確信していた。そこに勝機をみて、若さを前面に押し出そうと。あとは、『おれは運がいいんだ』と、いま思えば根拠はなかったけれどそれを信じました」。菅は選挙区をくまなく回った。選挙区の西区には、箱根駅伝のルートの一部が存在する。駅伝大会の日には、沿道で応援する人々に挨拶をしながら、何キロも歩いた。毎日300軒を訪問して歩く傍ら、選挙区内に3軒あった葬儀屋に日参して選挙区内の葬儀の情報を集め、弔問にも欠かさず訪れた。そして半年が過ぎたある日、長老議員は再び決意を翻し、市議選の立候補を取りやめると発表した。「この日が10月10日。偶然大安吉日だったんです。これはますます風向きが良くなったと思った。しかし、自民党は公認選びが二転三転して、混乱を極めていたわけです。無所属で出る私に、混乱の責任をとって立候補を取りやめろと迫ってきた人もいました。自民党の悪いところ嫌なところはこのときすべて見ました」。秘書時代の11年間を尽くしてきた自民党からの冷たい仕打ちに耐え、菅は選挙運動をやりぬいた。そして、投票日の直前になって、土壇場で自民党は菅を公認候補としたのだった。選挙の結果は8813票を獲得し、2位当選。菅の選対事務所には大勢の支持者が集まった。万歳をする前に、後援会長は「この中で菅さんが当選すると思っていた人は誰もいないでしょう」と言って、皆を笑わせた。「結果的にまったくしがらみがない状態で市議会に入れたので、恐いものはなかったです。言いたいことを言えました」 。2期目の選挙では得票を5割も伸ばし、自民党横浜市議の若手のリーダー格になった。菅は次第に、国政への進出を考えるようになる。国に財源や権限が握られている中央集権体制に強く疑問を抱いたからだ。 |
「菅首相が、政界入りしてじかに接した歴代首相の中で特に範としているのは、中曽根元首相だという。菅首相夫人の伸子さんが、著書でそう明かしている」 ――5月2日付 編集手帳 2011年5月2日01時14分 読売新聞―― http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20110501-OYT1T00725.htm |
(私論.私見)