中曽根逝去考その1

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).12.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、中曽根康弘を確認しておく。

 2004.8.9日 れんだいこ拝


【田中良紹の中曽根逝去考】
 ジャーナリスト田中良紹の2019.11.30日付けブログ「中曽根康弘と田中角栄―その裏面史」参照。
 2019.11月29日、中曽根康弘元総理が東京都内の病院で逝去(享年101歳)。1947年に衆議院選挙で初当選して以来連続20回の当選を重ね、科学技術庁長官、防衛庁長官、通産大臣、自民党幹事長などを歴任。

 1982年に「戦後政治の総決算」を掲げて内閣総理大臣となり、97年には最高位の勲章である大勲位菊花大綬章を受賞した。臨時行政改革推進審議会の会長に土光敏夫氏を充て、国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現した。86年には戦後2回目となる衆参同日選をしかけて大勝した。米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相と同時代の政治家として世界的な「民営化」の流れに乗り、国鉄や電電公社を民営化したのを始め、「ロン・ヤス関係」によって日米同盟強化を図った。
外交面ではとりわけ当時の米大統領レーガン氏と懇意になり、「ロン・ヤス」と呼び合う強固な関係を築いた。日の出山荘(東京西多摩の日の出町にある中曽根氏の別荘)に大統領を招いて、首脳会談を行なったことも注目された。中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になった。冷戦下でソ連の脅威が増す中で「海空防衛の重視」を掲げ、防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠を撤廃した。

 ロッキード事件で逮捕され、有罪判決を受けた田中角栄元総理と中曽根の二人は47年の初当選同期。生年も同じ1918(大正7)年生まれで、5.4日に生まれた田中氏が同月27日に生まれた中曽根氏よりわずかに年長だ。

 中曽根総理に38年間仕えた上和田義彦秘書。

 ロッキード事件。1976年に米上院の多国籍企業小委員会が暴露したロッキード・スキャンダルは、米国の軍需産業であるロッキード社が世界各国に秘密代理人を置き、秘密代理人を通じて各国政治家に賄賂を贈り、ロッキード社の航空機を買わせていたという疑惑である。その中で日本の秘密代理人として名指しされたのが児玉誉士夫だった。今では米国の公文書公開によって児玉がCIAの協力者であったことが判明しているが、当時は右翼民族派がなぜ米国企業の秘密代理人なのかが大きな疑問であった。ロッキード社から児玉を通して政治家に22億円の金が流れたとされたが、それは防衛庁が購入した対潜哨戒機P3Cの売込みのためだと言われる。しかし事件が発覚すると児玉は病で入院し、ロッキード社との通訳を務めた福田太郎も急死する。そのため児玉ルートの賄賂工作を東京地検特捜部が解明することはなかった。

 児玉と最も近い政治家が中曽根氏だった。児玉の秘書である太刀川恒夫氏は中曽根氏の秘書も務めていた。そして中曽根氏は防衛庁長官時代に対潜哨戒機の国産化を主張していたが、国産化は撤回されて日本政府はロッキード社製のP3Cを100機購入することになる。

 ロッキード社が国産化論者の中曽根氏をターゲットに児玉を通して賄賂を流した可能性はないか。しかし特捜部に突然逮捕されたのは田中角栄前総理で、国民は「総理の犯罪」に大衝撃を受けた。容疑は全日空にトライスターを購入するよう働きかけ、5億円の賄賂を商社丸紅から受け取ったというものである。

 それまで社会部が原稿を書いてきたロッキード事件は、その日から政治部が書くようになり、田中の金権政治がやり玉に挙げられた。しかし捜査を指揮した法務大臣は中曽根派の稲葉修氏であり、中曽根氏は三木内閣を支える自民党幹事長、そして三木総理は田中角栄にとって最大の政敵であった。捜査は田中派の橋本登美三郎と中曽根派の佐藤孝行の二人の議員を起訴して終わり、佐藤氏は有罪判決を受け入れたが、角栄氏は一貫して無罪を主張し、徹底抗戦の構えに出た。

 私は一審判決が出る直前に「田中角栄の最後を見届けたい」と政治部に転じ、中曽根氏が総理を務める官邸担当の記者となった。

 一審で東京地裁は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡す。一方、角栄氏は無罪を主張して徹底抗戦を宣言する。国民や野党の中から「議員を辞めろ」の声が上がり、中曽根総理が直接角栄氏に議員辞職を要請することになった。ホテルで行われた二人だけの会談は1時間半に及び、二人で手を取り合って泣いたと言われる。何が話し合われたのかもはや知るすべはないが、角栄は議員辞職をせず自重自戒と称して政治活動を自粛することになった。

 角栄は中曽根総理に解散・総選挙を迫る。中曽根総理は渋ったが、党内最大派閥を擁する角栄氏に抵抗できない。年末に行われた総選挙で、自民党は過半数を割る大惨敗だったが、角栄氏は史上最高の票を獲得して甦った。

 この選挙直後に私は田中派担当記者となった。そして角栄氏の早坂茂三秘書から私邸に籠っている角栄氏の「話の聞き役」をやってくれと頼まれ、月に一度目白の私邸で角栄氏の話を聞くことになった。有罪判決を受けながら選挙で甦った角栄氏は次第に政治力を強めていく。「中曽根は絶対に俺の言うことを聞く」という自信にあふれていた。

 そして奇妙なことにロッキード事件で有罪判決を受けた佐藤孝行氏の中曽根派内における力も増していった。派閥の大臣推薦枠の筆頭は必ず佐藤氏である。まるで中曽根総理は佐藤氏に「借り」があるように見えた。その頃、中曽根総理の首席秘書官を務める上和田氏から突然呼び出しを受け、絶対に他の政治部記者に見られないところで秘かに情報交換したいと言われた。

 「中曽根内閣は角栄の支えがなければ1日も持たない。それで角栄の心中を知ると思える6人に人を張り付けている。ところが6人がみな違うことを言う。角栄は誰にも本心を明かさない。だから君の知っていることを教えてくれ。俺も中曽根の考えを君に教える」と上和田氏は言う。

 それから週に一度総理秘書官と秘かに会うことになった。38年間秘書として中曽根氏に仕えた上和田氏の話には味わいがある。「田中は天才だ」と上和田氏は言った。「ところが田中は天才と言われることを嫌う。努力して這い上がって来たと言われたい。中曽根は天才でなく秀才だ。努力して総理になった。ところが本人は天才と言われたい。秀才と言われると不機嫌になる。二人は何から何まで対照的だ」。

 角栄氏は中曽根総理のことを「富士山」と言った。富士山は遠くから見ると本当に美しい。ところが登ってみるとゴミだらけだと言うのである。そして有罪判決後に米国のキッシンジャー元国務長官が目白の私邸を訪れた時、「中曽根は中将クラスで大将の器ではない」と言った。

 角栄氏は「米国の虎の尾を踏んでロッキード事件に巻き込まれた」という説がある。中曽根氏がジャーナリストの田原総一朗氏にそう語ったためその説が広く流布された。独自の資源外交をやったことで米国に睨まれたというのである。しかしロッキード事件は世界各国で起き日本を狙い撃ちにしたものではない。共通しているのは反共主義者が秘密代理人であることだ。

 そして各国では誰も逮捕されてはいない。日本だけは三木総理が捜査資料を米国に要求し、東京地検特捜部の検事が米国で司法免責の上で得られた供述を基に角栄氏を逮捕した。角栄氏が死んだ後で最高裁はこの供述調書の証拠能力を否定している。

 中曽根嫌いが大同団結して田中派の二階堂進氏を総理に担ぎ、中曽根再選を阻もうとしたことがある。二階堂氏は「中曽根は必ずあなたを裏切る」と言って角栄氏に翻意を促したが、角栄氏は中曽根再選を押し通した。田中派の金丸信、竹下登のグループが中曽根再選の側に付き、きわどい情勢で再選が果たされると、角栄氏は中曽根政権の長期化を考える。それが衆参ダブル選挙を打って自民党を大勝させ、その功績によって党則を変え、3期6年の政権運営を可能にして最高位の勲章である大勲位を受賞させる構想である。私の取材メモにその発言が書いてある。

 しかし二階堂氏が角栄氏に逆らったことが公になると、中曽根氏は素早く角栄氏から金丸、竹下グループに乗り換えた。金丸氏を幹事長に据え、竹下氏に総理の座を譲ると思わせて田中派を分断していく。金丸、竹下グループが「創政会」を結成したことで角栄氏の酒量が増え、ついに病に倒れて角栄氏は政界を去ることになった。

 そこで中曽根氏は角栄氏が構想した衆参ダブル選挙を自力でやる。この時も自民党内には誰も賛成者がいなかった。すると竹下氏のスキャンダルが写真週刊誌に報道され、竹下氏がダブル選挙容認に傾く。金丸幹事長は言を左右にしていたが、それほどの大勝にならないとの読みから最後はダブル選挙に賛成した。

 ところが選挙結果は304議席の大勝利だった。3期6年の党則改正が浮上しそうになると、間髪を入れずに金丸幹事長が「世代交代」を理由に辞任した。これで中曽根氏の野望は1年間だけの任期延長に抑えられ、竹下氏への政権移譲が現実化した。

 しかし中曽根氏はしたたかである。総裁選挙をやれば大派閥の竹下派が勝つことになるが、選挙ではなく「禅譲」すると言って、安倍、宮沢氏にも総理の目があると思わせ、3人を競わせて自分への忠誠心を試すのである。私自身は「数の論理」で竹下総理誕生と思っていたが、新聞やテレビは最後まで「安倍総理誕生」を報道し続けた。

 それは中曽根派の実力者、ロッキード事件で唯一有罪判決が確定した佐藤孝行氏が通信社にしゃべった情報が駆け巡った結果である。誰が佐藤氏にそれを言わせたか。私は自民党の反対派を切り崩してダブル選挙を実現したのに続き、中曽根氏の政治術の見事さを見せつけられた思いがした。

 上和田氏はダブル選挙の半年前に私にこう言った。「中曽根はダブル選挙を必ずやる。自民党全体が反対してもやる。中曽根は金丸さんとは違って善人でない。他人の傷口に塩をすり込むことのできる男だ。そして叩けばホコリの出る奴が大好きだ。しかし政治家としては凄い男だ。どうやってダブル選挙に持ち込むかよーく見ておけ」。

 金丸氏からはこんな話を聞いた。「そもそも田中派は中曽根を総理にすることに反対だった。ところが田中のオヤジがどうしても中曽根だと言う。後藤田が何であんなおんぼろ神輿を担ぐのかと言ったら、オヤジがおんぼろだから担ぐんだと言った。そこで俺がオヤジの言うことが聞けない奴は派閥を出ろと言ったらみんな収まった。俺は大の中曽根嫌いで通っていた。その俺が賛成したのだから中曽根は恩義を感じたのだろう。総理になった時に料亭に呼ばれた。中曽根は畳に手をつき深々と頭を下げてあなたを将来幹事長にすると言った」。

 中曽根は角栄のおかげで総理になれたが、その時から田中派の分裂につながる一手を打っていた。

 中曽根再選を巡って自民党内を震撼させた「二階堂擁立劇」になると、金丸氏は中曽根再選に動いた。

 2010年、朝日新聞が「ロッキード事件発覚時に中曽根幹事長が米国にモミケシを要請していた」という記事を掲載した。ロッキード事件が発覚したのは76年の2月4日、18日には三木総理が米国に関係資料の提供を要請していた。その夜、中曽根氏は駐日米国大使に政府高官の名前の「モミケシ」を国務省に伝えてくれと要請していた。その公文書は2008年に秘密指定が解除されていた。偶然かもしれないが、米国は日本に政権交代が起きようとする時期に自民党の恥部ともいえる情報を公開した。

 そして米国には公文書が存在するが、日本にはそれに対応する情報が存在するのかどうかも分からない情けない状態にある。沖縄返還密約でも米国には情報があるが日本では情報が隠蔽され、それを暴露した記者は逮捕・起訴される運命に陥った。

 私にはどうしてもロッキード事件で田中角栄元総理を逮捕したところから、日本政治の歪みが大きくなり、国民には「タテマエ」だらけの情報しか与えられていない気がする。日本はいつになったらまともな情報国家になれるのだろうか。

 1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。89年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■「田中塾のお知らせ」12月17日(火)19時~21時 場所:東京都大田区上池台1-21-5スナック「兎」(03-3727-2806) 東急池上線長原駅から徒歩5分■参加費:1500円 ■申込先:agoto@K6.dion.ne.jpに住所氏名明記で

【八木啓代の中曽根逝去考】
 「八木啓代のひとりごと」の「中曽根元首相の訃報に思い出すこと 」。
 ロッキード事件というと、田中角栄の5億円の贈賄、というイメージがあるが、実際にはロッキード社の対日工作資金は、約30億円。田中角栄より、むしろ、当時の政界のフィクサーだった児玉誉士夫を通じて流れたカネの方が遙かに莫大だった。そして、児玉と中曽根は昵懇だった。
 https://www.news-postseven.com/archives/20160802_434677.html/2

 にもかかわらず、検察が児玉・中曽根ルートではなく、田中角栄を逮捕する方向に行ったのは、重要証人であった児玉が突然、重度の「意識障害」に陥り、国会喚問が不可能になったからだった。このとき、児玉の主治医だった喜多村孝一が「脳梗塞」であるという診断書を作り、それを疑った国会医師団が児玉邸で事実を確認することになると、それに先回りして、児玉に薬物を注射し、昏睡状態にした事実には、具体的な証言もある。

―― 天野さんは『新潮45』(2001年4月号)に「児玉誉士夫の『喚問回避』に手を汚した東京女子医大」という手記を寄せられています。その中で、児玉誉士夫は重症脳梗塞による意識障害のために国会の証人喚問に応じられないとされたが、児玉の意識障害の原因は、児玉の主治医だった東京女子医大教授の喜多村孝一が薬物を注射したことだと暴露されています。この点について改めて教えていただけますか。

天野 順を追ってお話ししましょう。昭和51年2月5日、朝日新聞の報道により、米国のロッキード社が児玉誉士夫に21億円もの不正な政治献金を行っていたことが明らかになりました。このお金は児玉を通じて政界にも流れた疑いがありました。そこで、国会はロッキード事件の真相を解明するために、児玉の証人喚問を決定したのです。

 ところが、この証人喚問は実現しませんでした。それは、児玉の主治医である喜多村孝一が国会に、「児玉誉士夫は脳血栓による脳梗塞の急性悪化状態にある」という診断書を提出したからです。

 しかし、その数日前には、児玉はゴルフをしており、ゴルフ場内のレストランで支払いレシートが見つかったと言われていました。もしこれが事実であれば、喜多村の診断書は嘘ということになります。国会はその真偽を確かめるべく、独自に医師団を結成し、児玉邸に派遣することにしました。

 ところが、国会医師団の診断結果は驚くべきものでした。児玉は実際に重症の意識障害下にあり、証人喚問は不可能ということになったのです。つまり、喜多村の診断書の内容は正しいということになりました。

 しかし、これには裏がありました。国会医師団が児玉邸に行ったのは2月16日の午後10時頃です。実はその数時間前に、喜多村が先回りして児玉邸に赴き、児玉にフェノバールとセルシンを注射していたのです。

 フェノバールは強力な睡眠剤であり、どうしても眠れない患者や、てんかん発作が起きた患者などに使用する薬です。また、全身麻酔をかかりやすくするための前投薬としても使用されます。セルシンも同じく強力な睡眠剤で、患者が興奮状態で手に負えない場合などに使用されます。これらを同時に使用すれば、昏睡状態が生じ、数時間は当然口も利けなくなります。

 これらの注射によって生じる昏睡状態は、重症脳梗塞による意識障害と酷似しています。もちろん血液や尿を採取すれば、薬物の存在を確認することはできます。しかし、国会医師団はまさか児玉にこのような注射が意図的に打たれているとは思わなかったのでしょう。それ故、彼らが児玉の症状がこのような注射によるものだと見抜けなかったとしても無理はありません。

―― 天野さんはどのようにして喜多村が注射を打ったことを知ったのですか。

天野 喜多村本人が私にそう言ったからです。2月16日の午前中、私は東京女子医大の脳神経センター外来室で患者を診ていました。午前の診療を終え、これから昼食だという時に、私の外来診察室2番に隣接した外来診察室1番の喜多村の診察室から、喜多村の大きな声が聞こえてきました。喜多村は何やらただならぬ様子で往診の準備をしているようでした。

 私が「何をされるのですか」と尋ねたところ、喜多村は「これから児玉様のお宅へ行ってくる」と言いました。喜多村は児玉を呼ぶ際、必ず「児玉様」と呼んでいました。

 しかし、報道では、近く国会医師団が児玉邸に派遣されると言われていました。「国会医師団が児玉邸に派遣されると言われているのに、何のために行くのですか」と問うと、「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、フェノバールとセルシンを打ちにいく」と言うのです。……
 

 中曽根が逮捕されることもなく、後に大勲位まで受けられたのは、この医師の「功績」が大きいと言っていいだろう。むろん、この喜多村医師は、この児玉昏睡事件の後、中曽根の主治医となっている。あらためてよく思い出しておこう。 日本の原子力政策と新自由主義を全力で推進してきたのは、そういう人物だった。 そして、その人物を手本としている劣化コピーが、現在の首相なのだと。

【本澤二郎の中曽根逝去考】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK268 > 」の赤かぶ氏の2019 年 12 月 16 日付投稿「ロ事件の真相<本澤二郎の「日本の風景」(3526)<軍用機P3C(対潜哨戒機)国産阻止の中曽根康弘事件>」。
  ロ事件の真相<本澤二郎の「日本の風景」(3526)
 https://ameblo.jp/honji-789/entry-12560154946.html
 2019-12-16 15:31:49 honji-789のブログ

 <軍用機P3C(対潜哨戒機)国産阻止の中曽根康弘事件>

 戦後最大の疑獄事件となったロッキード事件は、結論を先に言うと、それは確定したような田中角栄事件というよりも、金額的犯罪的に見て、それは中曽根康弘事件そのものだった。岸信介内閣以降、軍事利権を独占してきた右翼のドン・児玉誉士夫と、自民党きっての防衛族議員に対する、ロ社の秘密工作資金だった。中曽根の死を機会に改めて指摘する史的使命を帯びている。

 対潜哨戒機P3C国産派の第一人者の中曽根を封じ込めるためのもので、ロ社は20余億円を児玉経由で、中曽根工作資金として投入したものだ。いまもP3Cは、日本の空を飛んでいる。

 この事件の表向きの功労者は、東京地検特捜部の堀田という検事である。実際は、事件の真相を捻じ曲げて点数を稼いだもので、日本の法務検察の不公正な犯罪的捜査を露呈したものでもあった。

 <ロッキード社20余億円の児玉誉士夫を眠らせた主治医と愛人>

 戦争中の中曽根は、海軍主計中尉という立場で、侵略地で現地の女性を捕獲して、日本兵の性的処理のための慰安所を作った。「このことで感謝された」と戦後の著書でとくとくと記述しているように、侵略戦争に対する反省の意識が低すぎたことで知られている。

 国会議員になってからの彼は、改憲軍拡と原発推進に執念をたぎらせた。防衛族議員になるや、武器弾薬の国産に三菱など財閥と協力して奔走するのだが、その一つがP3Cの国産化だった。

 ロ社が驚いて中曽根懐柔に走った。中曽根と連携していた児玉に工作資金を流し込んで見事成功させている。

 当時の中曽根危機は、児玉への国会喚問だった。国士を自認する児玉が口を開けば、中曽根は一巻の終わりと思われた。彼は病気を理由に逃げようとしたが、国会は児玉邸への出張尋問で切り抜ける計画を立てた。

 この児玉邸に一歩早く足を運んで、児玉に怪しげな注射を打ったのが、主治医だった。児玉の口封じは、見事に成功して、中曽根は危機を免れた。

 この大学教授の主治医には、意外な一面があった。飲み屋の女性に手を付けて、やくざに追われていた。救ったのが児玉だった。この児玉を「先生」と呼んでいた中曽根が、間に入っていたのかどうか?

 危機一髪、児玉邸に主治医を行かせた人物は誰だったのか?

 <ナベツネはすべてを知っている!>

 誰か中曽根と児玉双方の盟友という読売新聞のナベツネの口を開かせれば、この当時のいきさつも明らかとなろう。

 筆者は、ナベツネが政治部長になる前の政治部長だった多田実と親しかったことから、ごく自然にナベツネの様子を聞く機会があった。むろん、ナベツネを読売に入社させた宇都宮徳馬や、読売OBの元衆院議長の伊藤宗一郎から、ナベツネの活躍を聞かされていたが、一番の驚きは、自己の出世に児玉の右翼暴力団を利用していた、という話である。

 これは政治屋が暴力団を使うという話よりも強烈だった。

 中曽根・児玉・ナベツネがグルになって、危ない橋を渡っていたことは、すでに本などでも明らかにされている。

 ロ事件の全容を知るのは、読売のナベツネなのである。

<民間機5億円の角栄事件にすり替えた東京地検の堀田検事の不正>

 東京地検特捜部の当時の堀田検事は、いまどうしているだろうか。一時は福祉方面で活躍していたようだが、彼は法務検察の不公正な捜査を、事情通に暴露したことになろう。

 ワシントンの議会でのロ社幹部の証言が発端となっての飛行機売り込み工作の最大のものは、軍用機のP3C工作に対するものだった。児玉ー中曽根ルートである。この最大の軍用機汚職事件に手をつけなかった罪は、計り知れないものがある。

 堀田・東京地検特捜部は、民間機の5億円工作事件にのみ的を絞った。自民党運輸族と当時の首相・田中角栄に集中したことである。肝心の本丸を回避した。右翼暴力団と改憲派の戦前派にかすろうとしなかった。その罪は万死に値しよう。

 元法務大臣の中村正三郎は、筆者の問いかけに対して「何を捜査するか、しないかは、すべて検察が判断している。検察が生殺与奪の権限を独占している」と打ち明けたものだ。

 日本の法務検察に正義は存在しない。堀田の見解を聞きたい。法務検察の大改革が急務といえる。

 <三木武夫首相と稲葉修法相の大芝居だった>

 三木武夫について、ジャーナリストの評判は悪くない。彼の平和主義ゆえであるが、ロ事件の捜査に関する限り、彼は首相として稲葉法相に対して、公正な捜査をするよう指示することができた。稲葉は検事総長に「片手落ちの捜査は許されない」という訴訟指揮ができた。

 この点で、三木も稲葉も致命的な政治判断をしたことになる。

 当時の自民党幹事長は中曽根である。稲葉の親分である。中曽根逮捕となれば、総裁である三木の責任は避けられない。三木も稲葉も自己保身に徹したものだと、あえて断罪したい。

 三木は最高の地位を利用して、自民党最大の軍用利権にメスを入れる好機を失ってしまった。

 <ロ資金20億円など遺産相続の行く方に注目>

 ロッキード事件は、戦後の保守政治の最大の汚点である。同時に、法務検察の、取り返しのつかない犯罪捜査の象徴となったものである。

 最近の首相犯罪は、モリカケからTBS山口強姦魔救済事件、そして続く河井法相や菅原経済産業省の公選法違反事件など。そして「桜を見る会」における、公費を悪用した公選法・政治資金規正法の違反事件が、法務検察の捜査を待ち構えている。

 ところが、検事総長以下の法務検察は、いまだに春の桜を夢枕にして休んでいる。国民に奉仕するという国家公務員法違反である。

 新聞テレビも野党も、これに文句ひとつ言っていない。

 他方で、中曽根康弘の遺産相続の行く方にも、国税庁の関心が移っている。岸信介や佐藤栄作、小泉純一郎ら長期政権内閣組織者、はたまた加えて、原発と武器利権が渦巻いている中曽根康弘である。どのように金を隠しているのか、いたのか。

 秘密の口座は、どこなのか。国税庁は責任を果たす義務を負っている。

 ロッキード事件は、まだ終わっていない。国民は、ロ社の20億円の行方を知りたい。

2019年12月12月16日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)


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中曽根元首相の訃報に思い出すこと(八木啓代のひとりごと)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/748.html

コメント
2. 2019年12月16日 20:16:04 : O4pUfLwvsA : T1BlbkkwdDkuVEk=[528] 報告
 堀田という検事についてはあきれ果てて言葉もなかった。当時大活躍のメデイア報道があり堀田氏は時の人となった。しかしその後どうなったか。堀田氏のその後について福祉業界に関わったとの話があった以降まったく情報はない。堀田などどうなろうと関心はない。問題はこういう報道の状況だ。あの頃「検察」について我々はまだ信頼感をもっていた。我々は本当に馬鹿だった。田中角栄が本当に何か変なことをしたのだろうと思ったのだ、我々は本当に馬鹿だった。堀田(元)検事は何をしたのか。みずからに恥じる行動をしたのではないかと私は思う。だからこそ「福祉」業界に走ったのだ。恥知らずの馬鹿検事。日本の検事は皆、今も今現在も全員まったく同じだ。

 「検察」とは、外国勢力の下部組織であり、外国勢力の意向にそって日本を左右するための組織として作られたものだ。だから現在のような状態があっても不思議ではない。「検察」は日本国民のためには絶対に働かない。売国の人非人たちが「検察」だ。人非人というのは、彼らは強権をもって無垢の人を生涯閉じ込める権力を持っているからである。公正な裁判なくそういうことができる。だから人非人だろ?その、売国人連中の人選を行うのが「内閣人事局」ですね。皆様ご存じ。この組織ができてこのかた、検察・裁判所・その他その他のすべての人事が馬鹿晋三らによって決められるようになりました。まったくありがたいですワ。まともな人は全部くび。馬鹿だけが残る。だから強姦しようが何しようが検察・裁判所は安倍内閣の(つまり宗主組織の)いいなり。ま、当然こうなります。何でもできる、何やっても規制はないとなりゃ、こうなる。堀田(元)検事など、吹けば飛ぶような存在だ。気の毒だが最低のやつだと私は思うよ。嘘を行動にして自分の人生を腐ったゴミにしてしまった。




 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK267 」のバロック氏の2019 年 12 月 01日付投稿「中曽根康弘が墓場に持って行った秘密を告げる「LA INTERNATIONAL」誌の座談会と大勲位の死因の謎」。
 昭和の妖怪の中曽根康弘が死んだ。その生涯は暗黒に包まれた売国政治の元凶で、日本を亡国に導いた張本人だったとも言われている。
https://www.youtube.com/watch?v=7WEpKWsnmEA
この中曽根が墓場まで持って行った話の一つが、「LA INTERNATIONAL」誌の「第一線記者座談」に記録されていた、「告発された中曽根政治の楽屋裏の真相を再検討する」という記事にある最後の部分がそれだ。

 「長嶋の辞任事件の秘密」からの引用。
 「――長嶋邸に住む中曽根元首――。
A  話題が尽きないが、仕上げの意味で中曽根と長嶋の妙な関係に行こう。Dさんは、その問題をかなり追って取材していたようだが・・・
D  長嶋がかつてなぜ巨人軍の監督を辞めさせられたかについては、彼が選手に美青年を集めたがる趣味とか、選手の起用にえこ贔屓があったからで、この話は先輩が読売のトップからじかに聞いてきた。そこで調べたら、長嶋はゲイバーが好きで彼のまわりに、青江のママを始めゲイが良く集まるし、ゲイを集めてパーティをしていたことが分かった。だが読売は巨人軍の記事のお陰で、売り上げを維持していたから、これがスキャンダルになったら販売部数が落ちて大変だ。だから、あらゆる手段を使ってスキャンダル化を抑えており、命がけでやっても記事に書けなかったんだ。
C  だから、長嶋の巨人軍への復帰には、事情を知っている者は反対したが、別の意味で川上も猛反対してたんだ。
E  長嶋が監督として巨人のユニフォームを着ることが出来たのは、ナベツネ(渡辺現社長)が読売の社長になって独裁的な権力を手にしたのと、読売の販売部数が激減していたせいであり、巨人軍を強くして巨人軍のファンを繋ぎ止めなければならない。読売名物の3Nといってナベツネ、ナガシマ、ナカソネの三人のことだ。読売は日本一の発行部数を維持する路線を取っても、渡辺社長がTBSと訴訟をやっていたが、命取りになりかねないので和解したよ。
A  TBSが頑張ってナベツネの立場は弱まっていたし、そこに長嶋と中曽根の妙な関係とくれば、これは読売にとって弱り目にたたり目になりかねない。 
B  福島の小針王国問題に、徹底的に取り組んでいたあるジャーナリストは、中曽根内閣ができる前の段階で、中曽根と長嶋の関係はホモだと言っていたよ。ある時なんか、新宿の飲み屋に呼んでくれたんだが、異様な関係を目撃した長島のお手伝いさんを見つけ出し、長嶋と中曽根の特殊な関係について聞き出したとかで、特ダネのために祝杯を挙げたことがあった。
C  そのへんに中曽根が長嶋の邸を借りた秘密があったとすれば、何だか謎が解けそうな感じがする。中曽根は目白に風の自宅を持っていたのに、なぜ長嶋の家を借りたのかが説明つく。
B  中曽根邸の方がJRの目白駅に近い場所にあるし、目白なら田中角栄の屋敷に近くて格好もいい。だのになぜわざわざ長嶋の家を借りたのかだが、そのアリバイ作りだったのだろうか。
D  もう一つ気になることは最近のエイズキャンペーンなんで、どうも中曽根のホモ人脈が駆り出されていて、たとえ有志が自発的にやってるにしても奇妙な感じなんだ。
A  ミスター・ジャイアンツも、長嶋スマイルで協力しているしね。
E  中曽根の眼付きの嫌いな人が多いのは有名だが、長嶋スマイルは気持ちが悪くなる人と快感を感じる人がいて、長嶋スマイルはホモっ気のある人にはたまらないらしい。ホモの目付きは然るべき人が見ると、一目で分かるそうだ。あの種の微笑や男のピアスは、ホモの秘密のサインだというね。
D  それでエイズ予防のキャンペーンの話になるんだが、このキャンペーンのリーダー役を務めていた神谷一雄という人は山王経済研究所の代表幹事で、中曽根の陰の金庫番と言われていた。彼は食品流通のデベロッパーの松久グループの総帥だし、鹿島建設の石川六郎会長の信任が厚くて、ヨーロッパ旅行にお供したお陰もあって、東京商工会議所のエイズ問題懇談会の座長だ。山王経済研究会という中曽根の後援会団体で、政治資金作りを専らやって来たグループなのに、エイズ問題まで手を出さざるをえなくなったというのは、中曽根がエイズ反応に陽性らしい、という噂がたったからだ。
D  その話が伝わった後で、情報の出所がうちじゃないかということで、エイズ研究所で大騒ぎしたという情報があったよ。松久グループ神谷と中曽根との付き合いは、山王経済研究会の発足以来だし、奇妙な死因のミネベアの高橋社長とも親しかった上に、山王クラブという秘密組織の世話役なんで気になるんだ。それになぜ中曽根の取り巻き連中が総動員のかたちで、エイズ問題にとりわけ熱心なのかが不思議だな。
B  疑い出せばキリがないのが、政治と財界の関係だよ。
C  中曽根とエイズの組み合わせというのも、タメにする外国の謀略情報じゃないのか。
D  さあどうかな。でも調べる価値はあるんじゃないの。
A  エイズがらみの恐ろしい話になってしまったが、後は皆さんに徹底的に取材してもらうことをお願いして、またの機会の再会を楽しみに、座談会を終わりにしましょう」。

【櫻井ジャーナルの中曽根逝去考】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK267」の赤かぶ氏の2019 年 12 月 01日付投稿「中曽根康弘とキッシンジャー(櫻井ジャーナル)」。
 中曽根康弘とキッシンジャー
 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201911300000/
 2019.11.30 櫻井ジャーナル


 中曽根康弘は日本へ原子力や新自由主義を導入した政治家である。「右翼」と見なされているが、アメリカの支配層と深く結びついていた。

 東京帝国大学を卒業した後、中曽根は1941年に内務省へ入省したが、それから間もなくして海軍経理学校へ入学、海軍主計少佐として敗戦を迎えている。1945年10月に内務省へ戻り、翌年9月には警視庁警視に昇進するが、その年の12月に依願退職。1947年4月には衆議院議員選挙に出馬、当選して政界入りを果たした。

 政治家となった中曽根は河野一郎の配下に入り、そこで児玉誉士夫と知り合う。中曽根は児玉の子分になったと言う人もいる。その児玉は右翼の大物として知られていたが、ロッキード事件の際にCIAの手先だったことが判明している。この事件では中曽根の名前も出たが、検察は動かなかった。

 中曽根と児玉との関係を浮き上がらせる事件が1972年にあった。中曽根と旧制静岡高校からの友人だった東郷民安が創業した殖産住宅の株式が上場を巡るスキャンダルだ。この上場を利用して中曽根は一儲けを目論み、児玉が絡んでくる。このふたりが東郷を破滅へと導くことになった。

 その頃、中曽根は政治家の中でも「大物」になっていたが、彼が権力の階段を登り始めるのはMRA(道徳再武装運動)と関係するようになってからだ。この団体はCIAとの関係が深い疑似宗教団体で、岸信介や三井高維も参加。そこで中曽根はヘンリー・キッシンジャーを含むCFR(外交問題評議会)のメンバーと知り合い、1950年6月にはスイスで開かれるMRA世界大会へ出席している。

 ちなみに、その3年後、内閣調査室の初代室長だった村井順がMRAの大会へ出席するためにスイスへ向かっている。村井はボンでアレン・ダレスCIA長官と会い、できて間もない内閣調査室に関する助言を得ることになっていたと言われている。しかし、ボン空港に到着すると村井はイギリスの情報機関員と思われる人物につきまとわれ、ロンドンの税関では腹巻きの中に隠していた闇ドルを発見されてニュースになった。

 ところで、中曽根は1953年にキッシンジャーが責任者だった「ハーバード国際セミナー」というサマー・スクールに参加している。このセミナーはロックフェラー財団やフォード財団をスポンサーにしていたが、CIAともつながっていた。

 その当時、キッシンジャーはハーバード大学の大学院で学んでいた。1954年に博士号を取得、その翌年にネルソン・ロックフェラーがスポンサーについたキッシンジャーはCFRの核兵器・外交政策研究グループの責任者に選ばれる。

 キッシンジャーが支配層に取り立てられる切っ掛けは1942年にアメリカ陸軍でフリッツ・グスタフ・アントン・クレーマーという人物に目をかけられたことにある。ドライバー兼ドイツ語の通訳を探していた第82歩兵師団のアレキサンダー・ボーリング司令官にクレーマーはキッシンジャーを紹介した。

 ほどなくしてキッシンジャーは情報分隊(後の対敵諜報部/CIC)に配属され、1946年までそこに所属。そこでアレン・ダレスに誘われ、創設の準備段階だった極秘の破壊工作機関OPCで働くようになる。最初の仕事はハーバード大学で新組織のために働く外国人学生をリクルートすることだった。彼が「ハーバード国際セミナー」の責任者になった理由のひとつはそこにあるのだろう。

 一方、1954年3月に中曽根は国会に原子力予算を提出し、修正を経て予算案は4月に可決された。その背景には、1953年12月にドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」という宣言がある。

 中曽根は1982年から内閣総理大臣を務めることになった。1976年に逮捕された後も政界で大きな影響力を持っていた田中角栄の懐刀、後藤田正晴が内閣官房長官になったこともあり、マスコミは「田中曽根」と揶揄していたが、その実態は「岸影内閣」だとジャーナリストの山川暁夫は看破していた。後藤田は中曽根のブレーキ役だった。実際、後藤田の追い落としを狙ったと思われるスキャンダルが浮上している。

 首相になった中曽根が目論んだのは新自由主義の導入だった。私有化の促進と規制緩和だ。その象徴が国鉄の分割と私有化。最強の労働組合を潰すことだけでなく、国の運営を国家機関から私的権力へ移そうというわけだ。その後、支配層が目論んだ通りに日本の労働環境は急速に悪化、貧富の差が拡大していくのだが、同時に日本経済の地盤も崩れていく。それは社会の崩壊でもあった。その新自由主義的な政策を引き継いだのが小泉純一郎、菅直人、野田佳彦、安倍晋三たちだ。










(私論.私見)