岸田首相の政治履歴その1考

 更新日/2019(平成31).5.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「岸田首相の政治履歴その1考」をものしておく。

 2019(平成31).5.8日 れんだいこ拝


 少年期の米国在住時代、白人の女の子に手をつなぐのを拒まれた差別体験が原点にあるとか。 「幼い頃で大変強い印象があった。世の中に理不尽なことがあると。成長する中、正義感を強く持つことに大きな影響を与えた」。政治家を輩出してきた早稲田大で学んだ。すぐに政界を意識した。「いや、自分の目標を探し続けたが、なかなか見つからなかった。政治家を志したわけではなかった」。芸術家にも憧れた。「夏目漱石のような文豪に憧れた。(芥川賞作家の)庄司薫さんの作品もよく読んだ。一人旅もした。物事を考えるには良かった」。学生、銀行員時代に衆院議員だった父、文武氏(故人)の熾烈(しれつ)な選挙を手伝った。「民主主義の基本である選挙を経験し、いろんな人間がいるんだなと。年齢や性別、職業に関係なく皆が持つ1票を入れてもらうため、どんな努力をするべきなのか考える貴重な経験だった。それが政治家への道に影響した」。被爆地、広島の政治家として核兵器廃絶への思いは。「被爆地における被爆体験というのは決して政治でもイデオロギーでもない。核のない世界を目指す思いは、被爆地においては広く当たり前のことだ、とつらい体験を語る人たちを見て改めて感じる」。
酒豪で有名だが、最高でどのくらい飲める。
「30、40代の頃は年に何回か記憶がなくなるまで飲みました。朝起きたら家に帰っている。どう家に帰ったのかすごい不安になりました。最近は控えてます」。
好きなミュージシャンは。
「カラオケでよく歌うのはサザンオールスターズです」
歴代で一番好きな野球選手は。
「小さい頃から地元広島の広島東洋カープのファンです。衣笠祥雄さんのサードを守る躍動感とバッティングが印象に残ってます」。
奥さまの手作り料理は何が好きですか。
「妻が作った料理を食べるときは必ず『おいしいおいしい』って言うのを心掛けています。中でも本当においしいと思うのはやはりお好み焼きです」。
 岸田氏はマツダの役員秘書と見合い結婚。岸田氏は公開討論会で休日の過ごし方を聞かれると「最近はできるだけ妻と過ごすようにしている」などと、愛妻家ぶりを告白した。ファーストレディの可能性もある愛妻の裕子さんは、広島県の三次市出身で、広島女学院から東京女子大に進学した後、1986年マツダに入社。マツダでは、当時副社長だった和田淑弘・元社長らの役員秘書を務めていたが、88年秋に岸田氏と見合い結婚したという。裕子さんの入社時はロータリーエンジンの開発に情熱を燃やした山本健一氏が社長だったが、87年には通産省(現経産省)出身の古田徳昌氏が就任。岸田氏の父親で元衆議院議員の文武氏も中小企業庁長官などを歴任した通産官僚の出身で、入省年次では古田氏は4年後輩になる。古田氏は19年9月に亡くなったが、そのお別れの会がその年の11月、広島市のリーガロイヤルホテル広島で開かれた。宴会場の隣では岸田氏の後援会による「励ます会」が同時に行われていたのも何かの縁なのか?
 岸田を支える妻の裕子(ゆうこ)さん(57)が次期ファーストレディーとなる。岸田より7歳年下で、選挙区の広島県出身。実家は県内の旧家で、1988年にお見合い結婚した。県で屈指の進学校である広島女学院高から東京女子大に進み、英語が堪能な国際派。岸田が外相時代の2016年には、G7広島外相会合も経験。英国、フランス、イタリア、カナダの外相夫人を平和記念公園に案内したり、各国の駐日大使夫人とのお茶会を主催するなど、外交面でのサポートはバッチリだ。私生活では3人の息子を持つ。岸田と2人の息子が東京で同居しており、裕子さんは地盤の広島と行き来する生活。これまでメディアにはあまり出演しなかったが、昨年の自民党総裁選では議員宿舎での岸田の夕食風景などを公開。庶民的なメニューやエプロン姿で食事を見守る光景が話題になった。

【岸田首相の政治履歴その1考】

 自民党総裁選でアピールした「聞く力」の原点は、若手時代にさかのぼる。

 父が亡くなった翌年、35歳で地盤を継いで臨んだ93年の衆院選で初当選。祖父から続く3代目の国会議員となった。

 毎週末、広島市に戻ると、目抜き通りの交差点に置いたビールケースの上でマイクを握った。路面電車の中からも視線を集め、タクシー運転手は「また岸田が立っとる」と話題にした。

 「あいつは偉くなるぜ」。後援会長の伊藤学人さん(72)は当時、同じ派閥の先輩だった麻生太郎副総理兼財務相がその姿を見てつぶやいたのを覚えている。

 閣僚になってもできる限り地元に戻った。15人ほどの親子が集う催しが公園であると知るや、「顔を出すのは当たり前だ」と秘書を諭し、駆け付けて握手して回った。「凡事徹底」で9回連続の当選を重ねた。

「敵をつくらない」堅実に要職歴任

 早くに権力闘争の恐ろしさを肌で知り、永田町きっての“慎重居士”になった。

 2000年の「加藤の乱」。池田勇人元首相から続く名門派閥・宏池会の“プリンス”だった加藤紘一氏が主導したが土壇場で尻込み。「なぜやめるんですか」。岸田氏らが血気盛んに迫っても覆らなかった。

 加藤氏は総裁の芽を断たれた。「絶対に負け戦はしてはいけない」。心に刻んだ岸田氏。「敵をつくらない」とされる性分で堅実に要職を歴任していく。

 12年には派閥を率いた。第2次安倍政権で外相や政調会長も担うと「ポスト安倍」の最右翼に浮上。しかし、「与えられた役割を全力でこなし、首相は目指してこなかった」(岸田氏周辺)。安倍晋三氏の顔色をうかがう「禅譲路線」に、「優柔不断」「戦えない男」の評価がまとわりついた。

 長年の後見役である元広島県議会議長の林正夫さん(80)に岸田氏は「政治の世界に禅譲なんて絶対にないんです」。脱皮を模索しているようだった。

 雌伏の末にようやくつかんだ総裁の座。「政治にとっては決断力が大変重要だ」。記者会見で自らに言い聞かせるように表情を引き締めた。

 (大坪拓也)

 「菅は裏で岸田を『発信力がないので選挙で勝てない』『何がやりたいのか全くわからない』とこき下ろしてきた」(文藝春秋2020年5月号の赤坂太郎コラム)。  官房長官時代の菅義偉による、岸田文雄の人物評だ。「当たらない」を繰り返して説明責任を果たさず、安倍一強の権勢を笠に着るうちに指導者になれると勘違いして総理大臣になってしまった菅が、よく人のことを言ったものである。そんな岸田であるが、前回(昨年9月)に続いて、今月に予定される自民党総裁選への出馬を表明。するとどういうわけか、党役員の任期制を打ち出し、それが「二階おろし」につながっていくなど、これまでのボンクラなイメージとは様相を異にしている。   はたして岸田文雄とは、どんな人となりの政治家なのか。 


 「加藤の乱」でトラウマ…岸田が学んだ処世術

 岸田は広島市を選挙区にする、祖父の代からの世襲議員である。1993年の総選挙で初当選、同期には安倍晋三、野田聖子、先日横浜市長選に落選した小此木八郎らがいる。そのよしみもあってか、安倍は首相時代、「後継の本命は岸田さん」としていると言われ続けていた。 たとえば2019年、同期当選の集まりで、安倍が「次の総裁選には出ない。次は岸田さんも候補だね」と話を差し向けた。しかし岸田は無言のままでいて、代わりに野田聖子が「私もいる」と口を挟んだという(文藝春秋2019年4月号の赤坂太郎コラム)。遠慮がちでいること、これが岸田の永田町での処世術だったのだろう。岸田は「加藤の乱」(2000年)の敗軍の兵であった。不人気を極めた森内閣当時、派閥「宏池会」の会長・加藤紘一はネット世論に踊らされるうちに、野党と共闘して内閣不信任案の可決を目指す動きを見せるが、自民党主流派の切り崩しにあい、無残な結果に終わる。加藤はじっと順番待ちしていればいずれ総理になったであろうが、自ら仕掛けた政局で政治生命を失った。 だから、目立てば嫉妬を買い、派手に動けば潰される、この永田町の摂理を岸田は骨身にしみるように知っている。 

森喜朗は「(岸田は)恥ずかしがり屋のところがある。でも…」

 そういえば森喜朗は、岸田について「ハッキリ言えば、恥ずかしがり屋のところがある。なかなか自分を出そうとしない」と評している。口下手な政治家(菅)もどうかと思うが、恥ずかしがり屋も政治家としてどうなのだろうか。それはそれとして森は、岸田本人や岸田が率いる派閥(宏池会)についてこう続ける。「この人には立派になってもらいたい、育ててあげたいという気持ちがあるんです」、「宏池会には優秀な人材が多い。その皆さんを表舞台に立てるようにしてあげることが、私の政治信条なんだ」(文藝春秋2020年3月号)。森の世話焼きによる人の支配の政治、つまり東京オリンピックが象徴するこの20年が凝縮したような言葉である。院政を敷こうとする者(安倍)や長老としての力を保とうとする者(森)にとって、闘争によって権力を得ようとはせずに、口を開けてエサを待つ鯉(広島だけに)は手なずけやすいのだろう。前回の総裁選では、岸田は石破茂つぶしに利用された。得票数の発表時、菅陣営から「施し票」で得票が石破を上回り2位になると、岸田は「よしっ!」とつぶやいたという(注1)。そんな半端者だった岸田が今
今回は「二階おろし」のきっかけをつくるなど、発信力の発揮どころか、政局的な動きまで見せるようになっている。   いったい岸田に何があったのか。その予兆は、昨年の総裁選に見て取れる。 

「私の弱点が『発信力』にあることも自覚しています」

 前回の総裁選前に文藝春秋に掲載されたインタビュー記事は「リーダーには『聞く力』が必要だ」と題され、自ら発信しない様への言い訳のようなタイトルであった。またアベノマスクについて「私もこの布マスクを普段から着用していますが、市販の不織布マスクと比べても機能的に劣っているとは思いません」と断言し、安倍にへつらう素振りを見せていた(文藝春秋2020年7月号)。それが総裁選の最中に発売された同誌のインタビューでは「私の弱点が『発信力』にあることも自覚しています」(文藝春秋2020年10月号)と自ら述べ、また「アベノミクスの格差を正す」と題して、安倍政権の成長戦略は不十分であり、中間層への手当を行うなど格差解消の必要を説いている。さらに候補者討論会のなかで岸田は、「総裁選に挑戦する中で、個人として自由に発言できることに気づいた」「これからは立場ではなく、政治家として、自分自身としてどう発信するかをしっかり考えていきたい」と述べるにいたる(注2)。もっと早く気づけばいいのにと思うところだが、岸田にとっての前回の総裁選は、“自分探し”あるいは“自己啓発“の機会であったかのようだ。
 

「東大に三回落ちた。私は決して線の細いエリートではない」

 発信に目覚めた岸田は何を語ったのか。前掲10月号のインタビューでは、上記のように安倍政治の罪の部分を論じると同時に、誰しもが思う岸田の弱点を自ら潰していく。たとえば「権謀術数が渦巻く中」も歩み、「加藤の乱」も経験して権力闘争とは無縁でないと、20年前の話でもって永田町的なマッチョぶりをアピールしている。また東京生まれの世襲議員であることから、ひ弱なボンボンと思われていることを意識してのことだろう、岸田は苦労や挫折の経験として、大学受験の失敗を語る。  「私は決して線の細いエリートではありません。母校の開成高校は東大に進む生徒が多い中、私は東大受験に三回失敗するなど悔しい思いもしました。結局、早稲田と慶應の両方に受かりましたが」と言い、早大に進んで、バンカラな気風の中で自分を見つめ直すことができたと続けている。はたして、ここに共感性はあるだろうか。「保育園落ちた日本死ね」ならぬ、「東大落ちた?だから何」である。たとえば同じく「加藤の乱」の敗軍の兵である谷垣禎一も政治家の家に生まれた。こちらは麻布高校から東大法学部に入るのだが、山登りに熱中したため卒業に8年かかり、その後司法試験浪人を重ねて、社会人になるのは37歳のときであった。そんな浪人時代を振り返り、谷垣はこう語る。「午前中はずっと寝てて、正午過ぎに『俺は一体何してんだろう』と思いながら布団から出て、人生考え込んじゃった時があったよ」(石井妙子『 日本の血脈 』文春文庫)。弱さも人の魅力になる。それを体現したのが谷垣であった。対して岸田は弱さを打ち消そうとする自分語りによって、かえって弱くてつまらない自画像を浮かび上がらせているように感じられる。

 また岸田は昨秋、書籍2冊を刊行している。『 岸田ビジョン 』(講談社)は安倍首相の任期が切れる2021年に向けての自己発信のための書物であったろう。ところが発売直前に安倍が辞意を表明し、総裁選の最中の出版となってしまう。おまけに「岸田ビジョン」を謳いながらも、言うほどビジョンは示されていない。 

 著書からわかった、唯一の「芯」 

 もう1冊は『 核兵器のない世界へ 』(日経BP)である。これは原爆投下から75年目にあたる2020年に刊行したいとの思いで著したもの。ここで岸田は「核軍縮」「平和国家」を論じる。こうした平和や理想を説く者を「お花畑」と揶揄し「サヨク」扱いする、すなわち国際政治の複雑さを前に理想を空疎なものとして冷笑するのが当世だ。しかし岸田はそうした理想を「現実政治」の中で取り組む姿勢を見せる。これは広島をルーツとする家系に生まれ、外務大臣として戦後初となる米国大統領の広島訪問を実現させ、また「吉田ドクトリン」の吉田茂の系譜に連なる派閥に属してきた岸田の、そうした自らの背景に深く根ざした政治キャリアの到達点であるように読める。しかし、だ。今年8月の原爆記念日に行われた広島での平和記念式典で、菅は「原稿がノリでくっついた」という理由で、あいさつの一部を読み飛ばした。それは「核兵器のない世界の実現」「核兵器の非人道性」について語る箇所であった。期せずしてそれは、岸田が自著に思いを込めて綴る、「『核なき世界』ではなく、『核兵器のない世界』という言葉に拘っている大きな理由は核兵器が持つ『非人道性』を確実に世界に対して訴えたいからなのです」と重なる部分でもあった。だからといって岸田は、菅が読み飛ばしたことについて物申すことはなかった。これでは記者に自分で書いた本の主張(「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然」等)を読み上げられ、「これを本に記していた政治家は誰かわかるか」と聞かれて、「知らない」と平然と答えた菅(注3)と同類ではないか。 出馬表明後の岸田は、憲法改正への意欲を示し、夫婦別姓についても慎重な姿勢を見せるなど、自民党のツボを押さえるための発信に抜かりはない。ところが岸田は今年3月に発足した夫婦別姓を推進するための議員連盟の呼びかけ人でもあった。 このように国民に向けた理念・主張をあっさりと引っ込めてしまうあたり、岸田は菅を永田町の優等生キャラにしただけなのかもしれない。
岸田が会長を務める宏池会は、今も名前が残るという意味では最古参の派閥だ。池田勇人に始まり、大平正芳、鈴木善幸、宮澤喜一と4人の総理を輩出した。一方で「お公家集団」と呼ばれ、政策に強いが権力闘争には弱い。例えば、政界のプリンスと呼ばれた第6代会長の加藤紘一。2000年の加藤の乱で森政権に反旗を翻したが、当時の森総理や野中広務幹事長という党人政治家に鎮圧され、総理になる道を断たれた。

 2020年9月8日掲載週刊新潮WEB取材班「岸田文雄」を青山の料理屋に呼びつけた「古賀誠」長男とロールスロイス

 大学卒業後、父親の私設秘書になった

 「宏池会」のボスとして総裁選を闘う岸田文雄政調会長。それ以前にボスとして君臨したのが古賀誠元幹事長だった。今もなお派閥に隠然たる影響力を及ぼす古賀氏だが、その長男は頭痛のタネだったという。ロールスロイスの後部座席に乗って移動する長男が、外相を務めていた岸田氏を青山の料理屋に呼びつけたこともあった。

 自民党の古賀誠元幹事長は、自民党が政権を奪還する2012年12月の解散総選挙に出馬せず、引退した。「古賀さんは長男に地盤を継がせたかったが、息子本人が断った。日頃の言動などについて評判が芳しくないというのは自分でも理解していたんでしょう」と、地元の自民党福岡県連の関係者。長男は大学卒業後、父親の私設秘書になった。在学中から東京・銀座などのクラブに出入りしていたが、頻繁に顔を出すようになったのは、1996年に父親が運輸相に就任してからだという。「飲み代は100万円単位で使っていましたが、支払いは自分でしなかったですね。請求書は建設会社や不動産会社に送ることになっている」と、クラブの関係者。「一度、支払いが滞ったので、事務所に取り立てに行きましたが、建設会社の方に送ってくれと言われました」。長男は2001年、コンサルタント会社を設立した。さる関係者によると、「その他にも複数の会社の名刺を持っていて、その住所が都心のタワマンの最上階とか、そんな感じでした。優に100万円とかする家賃をどうやって払っているのかは不思議でしたね」。「ある建設会社の社長に聞きましたが、頼みごとをすると、“何とかしてやる”と言って銀座に飲みに連れていかれるものの、頼みごとは実現しないことがほとんどだと……」。
 長男のいる料理屋へ岸田氏がやってきた

 07年に森喜朗元首相の媒酌で元モデルと結婚した。「私も結婚式に呼ばれました。来賓はみんな歯の浮くようなことばかり言っていましたが、野中広務さん(元自民党幹事長)だけは、“もう少し勉強した方がいい”などと、苦言を呈していたのが印象的でした」。 その後、長男の名前が思わぬ形で飛び出した案件があった。別の関係者はこう話す。「09年に航空会社のスターフライヤーの社長交代があった。前社長時代に不適切な金銭の支払いがあるという疑いで社内調査をしたところ、古賀さんの長男の会社に多額のコンサルタント料が支払われていることがわかりました」。指摘された額は約4000万円。「その目的や成果ははっきりしたものではなかったようですが、古賀誠さんの“運輸族”としての力を見せつけた一件でした」。「長男自身も国交省や管轄の業界には強く、関係者の連絡先がどっさり綺麗に纏まっている名簿もありましたね」。

 そんな長男と父親から派閥を受け継いだ岸田氏との取り合わせ……。2014年3月4日午後6時45分ごろ、安倍首相や麻生財務相もよく利用する青山の料理屋前にロールスロイスが停車。長男が降り立ち店内へ。午後9時20分ごろ、今度はSP付きのクルマから岸田氏が降りてくる。1時間弱して、長男の見送りを受けて岸田氏が帰る。店内でどんな話があったのか? 岸田事務所に聞くと、「公表された日程以外は回答していません」。長男の携帯に電話を入れると、会社の役員と称する男性が出た。「ウチの代表(長男)が岸田さんと食事をするとは思えません。岸田さんとは、大臣になってからパーティーで1回会ったかどうか、と言っていました」。

 総裁候補の一人である岸田文雄・前政調会長(64)。 目下、岸田派の領袖を務め、安倍、麻生両氏との関係も良好。議員票を手堅く集めそうで、党員票でリードとされる河野大臣への“対抗”と見られている。祖父、父も代議士を務めた3代目。“育ち”は良い。 「決して人の悪口は言わない。市議会議員に対しても、“先生”付けで呼ぶなど、人柄は抜群」(地元関係者) との指摘がある一方で、逆に「戦わない男」「つまらない男」と揶揄され続けてきたのも事実だ。 「安倍前総理からの“禅譲”を狙い、安倍政権下では総裁選出馬を避けてきた。完全オフレコの懇談でも“ノーコメント”を連発するので、面白みがない。このまま“良い人”で終わるのでは、と見られていたこともあった」(政治部記者)  




(私論.私見)