自民党史6 | タカ派完勝とその後の経緯 |
第11代 | 中曽根 康弘(中曽根総裁時代) | 昭和57年11月25日〜昭和62年10月31日 | ||
第12代 | 竹下 登(竹下総裁時代) | 昭和62年10月31日〜平成元年 6月 2日 | ||
第13代 | 宇野 宗佑(宇野総裁時代) | 平成 元年 6月 2日〜平成元年 8月 8日 |
「自民党の歩み」より。全面的に書き換え予定
【ポスト鈴木の後継争い】 |
鈴木内閣退陣のあと、4年ぶりに全党員・党友の参加による総裁選挙が行われた結果、中曾根康弘氏が第11代総裁に選ばれた。 |
【中曾根総裁時代】 |
(総評) |
清新気鋭の中曾根新内閣が登場した。中曾根首相は、新政権の発足に当たり、「思いやりと責任」、「直接国民に話しかけるわかり易い政治」を基本姿勢に、「内外における平和の維持と民主主義の健全な発展」、「たくましい福祉と文化の国日本の創造」を政治目標に掲げて、国民の協力を要請した。 政策的には、外交面で、世界に開かれた日本の見地に立って、「自由貿易の維持強化のための市場開放対策のいっそうの推進」、「世界経済の活性化と着実な拡大への貢献」、「世界の平和維持のための米国、ASEAN(東南アジア諸国連合)はじめ近接するアジア諸国、西欧諸国など自由主義諸国との連帯強化」、「軍縮の推進と総合安全保障体制の拡充」等の諸政策の実行を公約した。 内政面では、鈴木前内閣以来の方針を継承して、「行財政改革の推進」を最重要課題に取り上げるとともに、「国鉄の再建」、「創造的な新技術の研究・開発とその導入」、「生産性の向上を基本とする農林水産業の体質強化と中小企業の近代化」、「国土緑化対策の推進」、「がん研究対策の強化」、「住宅・都市再開発対策の整備」、「非行青少年対策の充実」等を重点政策に掲げた。 中曾根首相が、このような基本姿勢と政治目標、重点政策等を打ち出した背景には、中曽根首相独自とも云うべき時代認識と政治哲学が色こく反映していた。すなわち、まず国際的には、戦後長きにわたり、戦後世界の平和と繁栄を支えてきた政治、軍事、経済に関する基本秩序が、いまや自由世界第二位の経済大国として、米国、西欧諸国など先進民主主義各国とともに、新たなる平和、経済秩序の再構築のための重大な責任を担うに充分でないという認識であった。世に「大国責任論」と云われている。また国内的にも、低成長時代への移行と急速な高齢化社会の到来などにそなえて、従来の基本的な制度や仕組みの見直しを行う必要があると判断し、大胆に行財政改革を指針させた。中曾根首相が、就任後初の施政方針演説の中で、「わが国はいま、戦後史の大きな転換点に立っている」と述べて、既成の価値観にとらわれず戦後政治の総決算を行い、時代の変化に即応した新構想のもとに、適切な内外政策を強力に推進する決意を表明したのは、その現われだった。 外交面では、58.1月早々、日韓国交正常化後、わが国の首相としては実質的に初めて韓国を公式訪問。全斗煥大統領と会談して、多年の懸案となっていた経済協力問題について総額40億ドルとすることで一挙に解決するとともに、「新しい次元に立った日韓関係」をうたった共同声明を発表、今後幅広い国民的基盤に基づいた両国関係を発展させていくことで合意した。 引き続いて同月中旬、こんどは米国を訪問してレーガン大統領と会談、国際情勢全般と両国間に存在する諸問題について意見を交換して、日米親善友好関係の基盤を固めた。とくにこの中で中曾根首相が、「日米両国は太平洋をはさむ運命共同体である」と述べるとともに、今後わが国が、平和と安全のために積極的に責任を分かちあう決意を表明し、両国間の信頼の絆をさらに確固としたものにすることに成功した。これにより、鈴木内閣時代の軋轢を解消し、日米関係強化の路線を強力に推進させることになった。 同年四月末、近接するアジア太平洋地域との外交を重視し、ASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国とブルネイ訪問の途につき、世界不況の影響をうけていくたの経済的苦境に立つASEAN各国の首脳と会談、歴代内閣が公約してきた経済協力その他の諸案件の着実な処理を約束するとともに、「ASEANの繁栄なくして日本の繁栄なし」と述べて、各国に多大の感銘を与えた。 このような意欲的な中曾根外交の展開の中で、ひときわ光彩を放ったのは、同年5月末、米国の古都ウィリアムズバーグで開かれた先進国首脳会議での中曾根首相の積極的な活躍であった。首脳会談の幕あけとともに、冒頭発言に立った中曾根首相は、この首脳会議が現在、世界をおおう先行き不透明感を払拭し、世界の期待にこたえるための共同行動の指針として、(1)西側先進諸国の連帯と協調による一枚岩の結束、(2)内外のバランスのとれた経済運営、幅広い構造調整の推進、自由貿易体制の堅持による世界経済のインフレなき持続的成長、(3)南北間の対話の促進と南側の自助努力に対する支援の推進、(4)東西経済関係についての協調的行動の四項目を提案して、会議全体のリード役の役割を果たした。また米ソ間の中距離核戦力交渉(INF)について、「グローバルな視点に立った解決」を提唱、各国首脳の同意を得た。これは、ソ連のSS20の脅威に対し、自由主義陣営全体の協力で阻止する基盤を固めたものとして特筆すべき中曽根型成果だったといえよう。 外交努力と相まって、自由貿易体制の維持強化のための国際責任履行の一環として、精力的に一連の市場開放政策を進めた。すなわち、58年1月、農産品47品目、工業品28品目の合計75品目の関税引き下げを中心とする包括的市場開放政策を決定したほか、さらに従来、関税引き下げ中心だった市場開放策から一歩進めて、輸入検査、規格・基準など、わが国の社会風土に根ざした非関税障壁を一掃し、内外無差別の原則を打ち出した「市場開放促進法」を制定するという勇断をふるったことは、中曾根内閣の画期的な業績の一つに数えられる。 内政面では、中曾根内閣の最重要課題に掲げた行財政改革を積極的に推進した。財政改革の面では、56、57両年度にわたる大幅な歳入の減少によって、事実上、赤字特例公債依存の59年度脱却は不可能になったものの、昭和58年度予算の編成に当たって中曾根首相は、「増税なき財政再建」の既定方針を毅然として貫き、全く前例のない5%のマイナス・シーリングの基本方針のもとに歳出の削減につとめ、一般会計予算の歳出規模は対前年度比わずか1.8%という、わが国財政史上かつてない超緊縮予算を組んだ。 また行政改革の面では、鈴木前内閣以来引き続いていた臨時行政調査会の作業は、58.2月の行政改革推進体制の在り方に関する第四次答申、同年3月の最終答申をもってその任務を完了した。これをうけて同年5月、その具体化の方策と実施の優先順位および目標時期等を盛りこんだ「行政改革大綱」を決定する一方、同年春の第98通常国会では、「臨時行政改革推進審議会設置法」、国鉄再建のための「日本国有鉄道経営再建臨時措置法」を制定させたほか、公的年金一元化のための各種立法措置を急ぐなど、着々と臨調答申を尊重した行政改革を推進した。 58年は”選挙の年”となった。4月には第10回統一地方選挙があり、自由民主党は好成績をおさめた。続く6月の第13回参議院通常選挙では、選挙法の改正により、これまでの全国区制を改め、拘束名簿式比例代表制による政党名投票が採用された。その結果、自民党は安定多数をさらに強固なものにすることができた。しかし、12月に行われた第37回衆議院議員総選挙では、史上最低の67.94%という投票率の影響もあって、解散議席を35名減らし、衆議院の単独過半数を下回る敗北を喫した。その後、新自由クラブとの政策的合意による院内会派「自由民主党・新自由国民連合」を結成し、267議席の安定多数となり政局の運営を行うことになった。総選挙後の特別国会では、冒頭において、中曾根総裁が再び内閣首班に指名され、即日、第二次中曾根内閣が発足した。 この頃、国内的には、戦後史上でも特筆されるような引き続く物価安定の中で、経済は新しい発展の力を見せ始めた。同時に、肥大化した行政の制度・機構を抜本的に改革し、効率的近代的行政体系を確立するため、59.7月に「総務庁」を設置し、さらに国の地方出先機関を整理し、医療保険制度を改革し、専売公社、電電公社の改革も実行に移しました。この行政改革と財政改革という日本の二大基本的改革に加えて、中曾根首相は、国民的輪を広げ、大きな国民の力を背景にした教育改革も新たにスタートさせた。 59.10月、党総裁選挙では、中曾根総裁ただ一人が立候補の届け出をし、選挙を行うことなく再選された。 昭和60年は、時あたかも、昭和20年の終戦より40年、立党30年、明治18年の内閣制度創設より百年、歴史の流れにおける大きな節目というべき年であった。党においては、全国で364万5843人という党史上最高の党員数を記録した。また自由国民会議の会員である党友も、49万7324人となり、党員・党友あわせて実に410数万人という大きな組織に成長した。ここに自民党は、党員による強力な基盤を固めたす。11.15日、自由民主党は立党三十周年を迎えま。内に国民生活を向上させ、外に国際社会で重要な地位を築き上げた先達の輝しい偉業を讃え、これからも建設的で21世紀に向かって先導的な政策を打ち出していくための「特別宣言」「新政策綱領」を採択した。 この年、世界の歴史も記憶に値する動きを見せた。西側のINF配備開始をきっかけに米ソ軍縮交渉が再開され、ソ連では新たにゴルバチョフ書記長が就任して軍縮・平和共存路線を打ち出し、東西対立緩和の兆しが見られた。中曾根首相はチェルネンコ前書記長の葬儀に出席のため訪ソした際、ゴルバチョフ書記長と会談して領土問題の解決を強く訴え、ソ連側も日ソ関係の安定化に同意した。また、中国でも指導部が若返って改革・開放の路線が強まり、朝鮮半島でも南北対話が活発化した。国際経済面では、先進国間の経済摩擦が深刻化して保護主義が台頭し、開発途上国では累積債務の増大が世界経済の発展に不安定要因をもたらすことが懸念されるようになった。とくに日米間では、貿易不均衡が大きく問題化したので、中曾根内閣は、新たな市場開放策として「アクション・プログラム」を決定し、五月に行われたボン・サミットでも、中曾根首相は、新ラウンドの早期開始を力強く主張した。 さらに、中曾根首相は、秋の国連創設四十周年記念会期に出席し、記念演説を行って、平和と軍縮の推進、自由貿易と開発途上国への協力、世界の文化・文明の発展に協力するわが国の基本方針を明らかにした。また、この期に、六年半ぶりの米ソ首脳会談を控えたレーガン米大統領の提唱で「緊急サミット」が行われ、西側各国の結束と連帯が決議されたが、中曾根首相は、軍縮の問題は世界的規模で解決されるべきで、アジアが犠牲になってはならないことを強調し、各国の合意を得ることができた。戦後四十年、かつての敗戦国・日本はもはや紛うことなく、世界の重要な指導国の一つと見られるにいたった。 なお、この年12月には、内閣制度創始百周年記念式典が開催され、天皇陛下が初めて首相官邸に赴かれて、これに臨席された。 昭和61年、5月に二度目の東京サミット、夏に衆議院議員選挙、そして秋には中曾根総裁の任期切れに伴う総裁選挙が予定されており、しかも、解散・総選挙含みというのが、この年頭の政局見通しであった。中曾根首相は、一月にはカナダを、四月には米国を訪れて、土台づくりを行い、東京サミットを成功に導いた。ここで発表された「東京経済宣言」では、インフレなき成長の持続ほか、政策協調の必要が強く打ち出され、参加国の固い結束がはかられた。 選挙がらみの政局のなかで解決を迫られていたのは、衆議院の定数是正の問題であった。これはすでに昭和五十八年の総選挙の時点で、議員一人当たりの有権者数の格差が最大四・四倍に達していたため最高裁がその是正を求めていた。自由民主党は、前年の国会に六選挙区で増員、六選挙区で減員のいわゆる六増六減案を提出したが、野党の同意を得られずに成立を断念したという経緯があり、これをクリアしないかぎり、かりに総選挙を行っても、違法とされかねないという苦しい局面に立たされていた。そこで自由民主党は、一票の格差を三倍以内に改める八増七減案を提出、第百四回通常国会でこれを成立させた。 六月二日、臨時国会解散と同時に国会は解散、衆議院選挙は参議院選挙と同日選挙で行われることとなり、自由民主党はこれを「二十一世紀を目ざす日本の軌道を設定する選挙」と位置づけて、戦いに突入した。中曾根首相は遊説のなかで、「国民や党員が反対する大型間接税と称するものをやる考えはない」と明言し、行革の推進、社会資本整備の促進、教育改革の推進等を訴えました。七月六日の投票の結果、自由民主党は、追加公認を加えて、衆議院において三百四議席、参議院においては七十四議席を獲得するという目ざましい勝利をおさめた。これは両院ともに、立党以来最高の当選者です。開票三日後に首相官邸を訪れた岸元首相は、「この大勝はまさに保守合同の成果と言うべく喜びに堪えない」と述べました。 こうして第三次中曾根内閣が発足しましたが、中曾根総裁のめざましい指導下にかちとられた選挙結果をうけて、九月の党大会に代わる両院議員総会で、中曾根総裁の党総裁としての任期を、翌年十月三十日まで一年間延長することが決定されたのです。 なお、この年、昭和六十一年四月には天皇陛下ご在位六十年記念式典が盛大に挙行されました。 昭和六十二年は、前年十二月に党税制調査会がまとめた税制改革案をめぐる攻防で開けた。この案は、所得・住民・法人税の減税と新型間接税である「売上税」を組み合わせたものであったが、野党は、「大型間接税を行わない」との中曾根首相の約束に反するものとしてこれを攻撃し、国会は冒頭から荒れ模様となって、予算審議は難航した。野党攻勢に拍車をかけたのは、三月の参議院岩手選挙区補欠選挙における社会党候補の勝利と、四月の統一地方選挙における自由民主党の不振であった。党執行部の方針に批判的な声が出はじめ、予算は議長の調停でようやく通過したものの、売上税は廃案になった。 もう一方、政府が対応に追われたのは、日米経済摩擦の深刻化であった。この年、日本の貿易黒字が千億ドル以上、対米黒字も五百億ドル以上と、いずれも史上最高を記録するようになったのがその原因であった。レーガン米大統領は二月に包括貿易法案を議会に提出し、三月には日本が日米半導体協定に違反しているとして、一九七四年通商法三〇一条にもとづく対日制裁措置を発表し、四月には日本の内需拡大政策の推進を強く求めた。このため、中曾根首相は訪米して大統領と話し合い、制裁措置の早期解除の約束を取りつけるとともに、構造調整のための総額六兆円強におよぶ緊急経済対策を決定し、百九回臨時国会で成立した補正予算でこれを裏付けた。その政策効果はめざましいものがあり、その後の日本経済の本格的な構造転換を方向づけた。 中曾根首相は、内においては、「戦後政治の総決算」を目ざして、行財政改革、税制改革、教育改革に大胆に取り組み、外に向かっては、「国際国家・日本」を合言葉に、政治的には西側陣営の一員としての立場を確立し、経済的には自由貿易体制の擁護につとめ、開発途上国の支援に力を入れるなど、わが国の国際的地位を大きく向上させました。その首相在任期間は千八百六日、戦後では佐藤、吉田両政権に次ぐ長期政権でした。 |
【ポスト中曽根の後継争い】 |
夏から秋にかけて、政局は秋の党総裁選挙に集中しました。いわゆるニューリーダーと呼ばれる竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一蔵相が候補者と目されましたが、それに加えて、二階堂進前副総裁が出馬の意思を表明した。党則上は、四名以上立候補の場合、党員・党友による予備選挙を行う規定になっていたので、予備選必至と思われまたが、告示前日に二階堂前副総裁が立候補辞退を声明し、本選挙は、党所属国会議員による本選挙のみで行われることとなった。 政権構想としては、竹下候補が「世界にひらく『文化経済国家』の創造」のため”ふるさと創生”を実現することを上げ、宮沢候補が「『二十一世紀国家』の建設」をめざして”生活大国”を唱え、さらに安倍候補は「新しい日本の創造」を掲げて”ニューグロウス”と”創造的外交”を訴えた。 10.30日に予定されていた本選挙は20日に繰り上げられ、その間に三者間で一本化の話し合いが進み、最後に竹下指名の中曾根裁定が実現して、10.31日、党臨時大会で、竹下候補の後継総裁が確定した。 |
【竹下総裁時代】 |
(総評) |
1987(昭和62).11月末、第12代総裁に選ばれた竹下新首相が、111回臨時国会の冒頭で、初の所信表明を行い、心の豊かさを志向する「ふるさと創生」を基調に、政治姿勢として「誠実な実行」を表明するとともに、「世界に貢献する日本」を目指して、内政と外交の一体化を称え、市場の自由化や経済構造調整にともなう諸改革を断行する決意を明らかにした。新首相はさらに、「所得、消費、資産のあいだで均衡のとれた安定的な税体系の構築につとめる」と述べて、税制改革への強い意欲を示しましたが、翌昭和六十三年一月の施政方針演説では、税制改革を「今後の高齢化社会の到来、経済・社会の国際化を考えると、最重要問題の一つ」であると位置づけた。 野党はこれに対して、「大型間接税を導入しない、という中曾根前首相の約束に違反する」と言って猛反発した。しかし、竹下政権は、売上税廃案を決めた議長裁定が「直間比率の見直しも実現する」としていることを根拠として新税源確保に向かった。但し、新間接税の策定に当たっては、逆進性、不公平感、過重負担、安易な税率引上げ、事務負担増、インフレ等、間接税導入に当たって懸念される六つの問題点の解消に努力すると述べて、「国民の納得のできる」税制改革とすることを強調した。 竹下首相は、「世界に貢献する日本」の精神にふさわしく、初の外遊の対象として、62年暮にマニラで開かれたアセアン首脳会議への出席を選び、日本の国際的責任とアセアンの発展を踏まえた「平和と繁栄へのニュー・パートナーシップ」をうたいあげ、「アセアン・日本開発ファンド」の供与と、「日本・アセアン総合交流計画」を提唱した。 63.1月、双子の赤字の悩みから日本への批判が高まる米国を訪問し、レーガン大統領とのあいだで、世界における日米関係の重要性を再確認し合ったが、とくに為替市場におけるドルの買い支えや在日米軍経費の負担増の申し出については、大統領から「心からの感謝」の意が表明された。 この年は、米ソ間の緊張緩和が本格的となり、イラン・イラク戦争が停戦し、ソ連軍のアフガニスタン撤退が開始されるなど、世界が平和に向けて歩み出した年となった。そうしたなかで、竹下首相は、2月に盧泰愚大統領就任式出席のために韓国を訪問、4月に英国をはじめ西欧四ヵ国を訪問、5月に国連軍縮特別総会出席のために訪米、並びに欧州四ヵ国とECを訪問、6月にはトロント・サミット出席のためにカナダを訪問、7月に豪州二百年祭記念行事出席、8月には日中平和友好条約締結十周年にちなんで中国を訪問、さらに9月にはソウル・オリンピック開会式出席のため訪韓など、たてつづけに外交日程をこなした。首相のこの一年間の外遊は、述べ59日間、9回におよんでいる。 こうしたなかで、竹下首相は、わが国の外交姿勢について、「平和のための協力の推進」と「国際文化交流の強化」と「政府開発援助(ODA)の拡充強化」という三つの柱からなる「国際協力構想」を打ち出した。首相は、今後の国際社会の発展にとって各国間の相互理解の促進がとくに重要と考えており、わが国が文化交流という面からこれに力を入れる決意を示した。 しかし、国際経済面におけるわが国の影響力の増大にともなって、各国の日本に対する市場開放や開発途上国援助についての要請は急速に高まった。なかでも、農産物輸入自由化、公共工事への外国企業参入問題等は、わが国の産業経済に大きな影響を与えるものであり、政府は対応に苦慮しました。前年に起こった日本企業のココム違反事件等が対日批判に拍車をかけた。 国内政策面で最も努力が払われたのは、税制改革の推進であった。自由民主党が六月に決定した「税制の抜本改革大綱」の主な内容は、(1)所得税、住民税等の引き下げ、(2)法人税の引き下げ、(3)相続税の引き下げ、(4)資産課税の適正化、(5)間接税の改組・見直しと消費税(税率三%)の創設からなっており、サラリーマン中堅層に対する思い切った減税と新税創設の組み合わせであった。「大綱」の決定をうけて、自由民主党の中央・地方各組織は、国民各界各層の理解と協力を得るため、広報宣伝、研修会、講演会等の幅広い活動を展開した。九月からは、竹下総裁自らが全国各地で税制改革懇談会、いわゆる「辻立ち」を行い、国民に税制改革の必要性を訴えた。 国会には、七月の百十三回臨時国会に、「税制改革六法案」が提出されたが、折からリクルート問題が浮上したため、野党は証人喚問等を強く要求し、この問題の解明が行われない以上審議には応じられないと、態度を硬化させた。自由民主党は、リクルート問題と税制審議は切り離して行い、国民の理解を得るために与野党で話し合いを深めるべきだと主張したが、野党はこれを受け入れず、議事妨害や採決の欠席などの行為を重ねたので、国会は何度も空転し、実質的な審議はほとんどできなかった。国会は二度延長され、会期は十二月二十八日まで百六十三日にわたったが、これは臨時国会としては史上空前の最長国会となった。 結局、衆議院予算委員会で、野党欠席のまま税制改革六法案の自由民主党単独採決のやむなきにいたり、本会議では修正問題で公明、民社との合意が見られたため、社共欠席のみで可決された。社共等の反対勢力は、参議院でも内閣不信任案や議運委員長解任決議案や各種問責決議案、さらには牛歩戦術などで抵抗したが、自由民主党は賛成多数でこれを成立させた。 シャウプ税制以来、実に38年、自由民主党が大平内閣以来、十余年の歳月をかけて全力を投じた抜本的税制改革がついに断行された。「この間、野党諸党が審議に応ずることなく、国民の税制に対する理解を妨げたことは、議会民主主義政治に背くものとして誠に遺憾であり、強く非難せざるをえません」。 昭和63年、国政レベルの選挙として大阪、佐賀、福島の参議院議員補欠選挙があり、大阪では敗れたものの、その他の二つでは勝利しました。特に福島での圧倒的な勝利は、その後の税制改革関連法案成立に向けて、大きな弾みをつけることになった。また十県で行われた知事選挙では、一県を除いて、すべて自由民主党系候補が当選し、129市の市長選挙でも、実に124市において勝利をおさめた。この背景には、この年8月末の集計で、党員数が499万8829名、党友数77万8127名に達するほどの党勢拡大の努力があった。これは過去最高をはるかに上回り、全国有権者数の五・六二%に達している。 1989(昭和64).1.7日、前年秋から病いに伏していた天皇陛下が崩御しれた。天皇陛下崩御に伴い、皇太子明仁親王殿下が皇位をご継承になり、元号も「平成」と改められた。2.24日、昭和天皇大喪の礼が、164ヵ国、218国際機関の代表を含め約9800名参列のもとに、古式に則って執り行われた。 平成元年は、自由民主党にとってきわめて厳しい年となった。この年は、夏に重大な参議院選挙を控えていたにもかかわらず、前年来のリクルート事件の火の手がいっそう広がり、閣僚や政府高官、自由民主党の幹部や重要人物が関与していたことがわかって、国民の政治不信が一気に高まった。この事件は野党幹部まで巻きこんだが政権政党である自由民主党に批判が集中した。しかも、税制改革関係法案の成立が前年の暮ぎりぎりまでかかったため、平成元年度予算の編成が遅れ、百十四回通常国会の再開は二月にずれこんで、予算が年度内に成立することは困難と見られた。国会は重要人物に対する野党の証人喚問要求でしばしば空転し、予算審議は遅々として進みませんでした。この間に行われた参議院福岡選挙区補欠選挙で、自由民主党候補が社会党候補に大敗した。 問題の深刻さを憂えていた竹下総裁は、すでに前年のうちに、党執行部に対して政治改革の具体策づくりを指示し、これを受けて党内に設置された「政治改革委員会」は、税制改革に続く新たな政治目標として抜本的な政治改革への取り組みを開始した。この委員会は、党内外の意見を広く聴取して、「金のかからない選挙制度の実現」、「政治資金規正法の再検討」、「衆議院の定数是正」などを柱とする改革に乗り出し、三月には「政治改革大綱答申案」の起草委員会を設けて、答申の作成に取りかかった。また、竹下首相は、これと並んで、首相の私的諮問機関として「政治改革に関する有識者会議」を設置し、五〜六月までに一応の考え方を示すことを要請した。 首相は、通常国会冒頭の施政方針演説で、政治改革を「内閣にとって最優先の課題である」と位置づけ、政治不信の解消に取り組んだが、党内にも強い危機感があふれ、政治の浄化を目ざす各種のグループが結成されて、さまざまな発言や提言を行った。 こうした努力にもかかわらず、リクルート問題はついに党中枢を襲うにいたり、4.25日、竹下首相は、政治不信の責任を取って、退陣の意思を表明しました。この直後、予算はなんとか衆議院を通過したものの、もはや参議院選挙は目前であり、通常の手続きで後継総裁を選出できないことは明らかであった。このため、後継問題は党四役に一任された。以後、6.2日の党大会に代わる両院議員総会で宇野宗佑外相が後継に決定するまでの過程は、全党にとって苦しみに満ちたものとなった。 しかし、その間にも急がなければならなかったのは、国民に対する政治改革の姿勢の明確化であった。四月末の「政治改革に関する有識者会議」の提言に次いで、五月下旬には、党政治改革委員会が、政治倫理に貫かれた公正、公明な政治の実現と現行中選挙区制の抜本改革を柱とする「政治改革大綱」を決定した。続いて自由民主党は、党所属議員が起訴された事実を厳粛に受けとめて、「リクルート問題に関するわが党の措置」を決め、この問題に関係する議員に、司法上の責任の有無にかかわりなく、良識にもとづいて自ら対処することを求めた。 竹下政権の最大の業績は、長年の懸案であった直間比率の是正を中心とする税制の抜本的改革を成し遂げたことであった。”ふるさと創生”を称え、地方の活性化に力を尽くし、自主的な地域づくりを支援するため、全市町村に一律一億円の地方交付税を配分した。国際社会の要請にこたえて、「国際協力構想」を打ち出し、退陣の意思の表明後も、アセアン五ヵ国を訪問するなど、その誠実な実践につとめた。 |
【ポスト竹下の後継争い】 |
【宇野総裁時代】 |
(総評) |
第13代宇野宗佑総裁は、自民党三十数年の長期政権のなかでも特異な総裁となった。総裁選出までの過程もさることながら、その後の経過はさらに厳しいものがあった。なによりも参議院選挙が一ヵ月半の後に迫っており、それまでに、政治改革に一応の目途をつけ、選挙に臨む体制づくりを行う必要があった。国会では、予算は五月末に、三十五年ぶりの自然成立をしたものの、予算関連法案ほか重要法案の成立をはかるために、参議院選挙の告示ぎりぎりまで延会しなければならなかた。宇野首相就任と時期を同じくして、中国では天安門事件という流血の惨事が起こり、選挙前の七月中旬に開催されるパリのアルシュ・サミットで、隣国で関係の深い日本がどう対応するかが注目された。 こういう情勢のなか、宇野首相は六月五日の所信表明演説で、竹下前内閣の推進してきた内外政策を継承する意思を明らかにし、「政府はスリムに、国民は豊かに」という基本的考え方のもとに、この内閣を「改革前進内閣」と名付けたいと述べた。しかし、参議院選挙の動向を占うとされた六月末の参議院新潟選挙区補欠選挙では、自民党候補が社会党の新人女性候補に大差で敗れ、自由民主党に対する逆風がますます厳しくなっていることを窺わせた。さらに、参議院選挙公示直前の東京都議会議員選挙では、消費税が最大の焦点となり、開票の結果、自民党は二十議席を失い、社会党は議席を三倍に伸ばした。 宇野首相は、妻子も含めた閣僚および政務次官の資産公開等を行うほか、六月中旬には、「政治改革推進本部」を設置して、政治倫理、国会改革、党改革、選挙制度、政治資金、企画等の委員会を発足させるなど、政治改革の実践に取り組む一方、アルシュ・サミットでは、日本は第三次円借款の協議凍結等で西側の制裁措置には同調するものの、中国を国際的孤立に追いこむことのないようにというわが国独自の主張をするなどの外交努力を行った。 しかし、七月の第十五回参議院議員選挙では、いわゆる三点セット、すなわちリクルート問題、消費税問題、農産物自由化問題が大きな争点となり、自由民主党は、全国いたるところでかつてない苦戦を強いられ、予想を超えた敗北を喫した。当選者は比例区・地方区あわせてわずか三十六議席と改選議席の六十九議席を大幅に下回ったのに対して、社会党は改選議席の二倍を越す四十六議席を獲得した。その結果、自由民主党は非改選議席とあわせても、過半数を大きく割り込み、参議院で与野党勢力が逆転するという立党以来最大の危機を迎えた。選挙の翌日、宇野総裁は、「敗戦の一切の責任は私にある」と述べて、退陣の意思を表明した。 宇野首相退陣を受け、党執行部は、八月八日に党大会に代わる両院議員総会を開き、投票による後継総裁の選任を行うことを決しました。この総会で、後継総裁が決定するまで、宇野総裁の任期は67日、自民党史においては、石橋総裁と並ぶ短命で非運の政権となった。 |
(私論.私見)