自民党史5 ハト派とタカ派の死闘戦時代

第7代 三木 武夫(三木総裁時代 昭和49年12月 4日〜昭和51年12月23日
第8代 福田 赳夫(福田総裁時代 昭和51年12月23日〜昭和53年12月 1日
第9代 大平 正芳(大平総裁時代 昭和53年12月 1日〜昭和55年 6月12日
第10代 鈴木 善幸(鈴木総裁時代 昭和55年 7月15日〜昭和57年11月25日


【ポスト田中の後継争い】
 田中内閣のあわただしい退陣表明後、後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役として副総裁の椎名悦三郎(76歳)が乗り出し、一時「椎名暫定政権」が浮上したが、「行司がまわしを締めた」と批判され、椎名は調整役に徹することになった。

 12.1日、次期総裁を話し合うために、後継候補の椎名悦三郎、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘の5名が自民党本部総裁室に集まった。会議が始まるや、椎名が「もう議論は出尽くした」と云い、「国家、国民のため神に祈る気持ちで考え抜きました。新総裁にはこの際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ご推挙申し上げます」と、「三角大福」を前に声明文を読み上げた。かくて、椎名の裁定で三木が指名された。三木は、「青天の霹靂だ。予想だにしなかった」と述べ受諾した。これを「椎名裁定」と世に云う。


 12.4日、自民党両院議員総会、三木武夫を第7代自民党総裁に選出した。

【三木総裁時代】
(総評)
 12.9日、「クリーン内閣」と云われた三木内閣が発足した。その政治史的意味は、田中角栄に続いて党人派の権力掌握であることと、バルカン政治家と云われる様に本質タカ派政治に依拠しながらハト派的言辞を多用するヌエ的政治手法にあった。

 三木内閣は、中曽根幹事長の布陣で、大臣として文相・永井道雄らが登用された。国務大臣の民間からの起用は22年ぶりであった。


 
三木内閣は、「対話と協調」を基本姿勢に、「清潔で偽りのない政治」、「インフレ下における社会的公正の確保」、「不況の克服」、「党近代化」の実現などを政治目標に掲げて出発した。

 時あたかも、三木内閣発足の翌年昭和50年は、戦後満30年、自民党にとっても、結党後、20周年を迎えた記念すべき年となったが、三木内閣の内外の環境にはきわめて厳しいものがあった。世界経済は戦後最も深刻なインフレ不況のどん底にあり、当然わが国もまた、その荒波をもろにうけて、かってないインフレ不況と空前の財政難に当面し、それからの脱出が、最大かつ緊急の政治課題とされていた時期であった。

 しかも、多党化時代を迎えながら、野党各党には、なお「責任野党」としての自覚はなく、野党間の主導権争いによる党利党略が先行して、とくに与野党伯仲となった参議院での行動は複雑怪奇をきわめた。三木首相の「対話と協調」の政治姿勢は通用せず、三木内閣および政権与党の自民党の政治運営には容易ならぬものがあった。

 まず内政面でみると、三木内閣の二年間を貫いて、「政治浄化」と「社会的公正の実現」こそが、終始変わらぬ基本的な政治基調でした。この政治理念の達成のため、三木首相は、50年の第75回通常国会に、衆議院選挙区定数の合理化と公営選挙の拡大、行きすぎた物量選挙の規制強化を含む「公職選挙法の改正」、企業、労働団体等の政治献金の規制強化を内容とする「政治資金規正法の改正」、自由経済体制の中での秩序維持と、企業活動の倫理確立をめざす「独占禁止法の改正」の三重要法案を提案して、その成立を期した。

 ところが、これら重要法案の審議は、衆議院ではきわめて順調に進んだにもかかわらず、与野党伯仲の参議院段階になって、公職選挙法改正案の中に含まれていたビラ規制強化に反対する共産、公明両党が暴力的議事妨害を続けたあおりをくって、独占禁止法改正案をはじめ、国民生活関連の各種重要法案、条約承認案件は軒並み審議未了の憂き目をみた。

 それでも、三木首相が理想とする公明清潔な政治を実現するため、野党の強い反対を押しきって公職選挙法と政治資金規正法の画期的な大改正をなしとげたことは、三木内閣時代を象徴する業績となった。

 さらに、苦しい財政事情のもとで、インフレ下の社会的公正を確保しようという三木首相の強い要望から、福祉年金の六割引き上げ、恩給、遺族年金の三八%引き上げなどの「福祉優先の政治」を貫きました。またマイ・ホーム建設のための宅地取得難もまた、社会的不公正の一つであるとの認識のもとに、庶民に安くて良質の土地を、長期低利の年賦償還方式で大量に供給することを目ざした「宅地開発公団」の新設や、住宅難に苦しむ大都市での大規模な宅地供給と住宅街整備のための「大都市における住宅地等供給促進法」の制定なども、いかにも三木内閣らしい実績として見逃すことはできません。

 さらに三木首相は、このような三木政治の政策目標を集大成した長期ビジョンとして、同年七月、「生涯設計(ライフ・サイクル)計画」をまとめ、自由民主党内にも特別委員会を設置して、その具体化に意欲を燃やしました。この計画は、高度経済成長から安定成長時代に移行した経済社会において、「すべての人の生涯を通じての生きがいのある安定した生活」の実現をめざす画期的な構想でしたが、財政事情の悪化などから日の目をみなかったのは、きわめて残念なことでした。

 こうして、「社会的公正の実現」や「福祉優先」に意欲を燃やした三木内閣でしたが、この内閣に課せられたもう一つの重大な政策課題は、「不況の克服」です。田中前内閣いらいの総需要抑制政策は、予期以上の実効をあげ、五十年度末には、消費者物価上昇率を八・六%に押さえこむことに成功し、さしもの狂乱物価も沈静の方向に進んだのですが、不況を背景に深刻な雇用不安に発展したのです。

 このため三木内閣および自民党は、それまでの総需要抑制政策から一転して、財政主導型の総需要創出政策に転換することとして、50年度大型補正予算を編成し、引き続き51年度予算の編成においても、公債依存度30%という大胆な公債政策の活用によって、総額24兆2900億円という空前の大型積極予算を組み、景気の早期回復を目ざした。

 ところが、1976(昭和51).2月、いわゆる「ロッキード事件」が突発した。我が国の政界を揺るがす戦後最大の疑獄事件となったが、三木首相は徹底解明を旗印に内閣の命運を賭けていった。事件の矛先が自民党最大派閥且つ前首相田中角栄に照準が合わされるに連れ、与野党ともどもの党利・党略的な動きが強まった。政争は予算案や法案審議に影響を及ぼし、審議が約50日間放棄されるなど予算案成立は年度開始後40日間もずれこんだ。それのみか予算と一体不可分の財政特例法案や、国鉄運賃、電信電話料金改正法案の成立も半年遅れた。この結果、せっかくの景気回復予算も、その効果を十分発揮できず、景気は中だるみのまま、51年を終わらざるを得なかった。

 外交面では、三木首相は50.8月に訪米し、フォード大統領と会談して、韓国の安全問題や日米安保体制の堅持などで合意し、「新しい日米相互協力時代」の幕を開いた。また、同年11月にはフランスのランブイエ、翌51.6月にはプエルトリコの首都サンファンと、二度にわたり先進国首脳会議に出席して、国際通貨の安定、自由貿易の拡大、エネルギー問題、南北問題の解決等の面で積極的な提言を行うなど、活躍している。

 一方、党活動においては、「政治資金規正法」の改正にともない、党財政の確立をはかるため、党役員・閣僚をあげて、全国各地で会費制による「政経文化パーティー」の開催を開始し、大きな効果をあげることができました。この政経文化パーティーは、その後も引き続き実施され、とくに党の地方支部の財政に大きな寄与をもたらしました。

 しかしながら、ロッキード事件を契機として、政情は不安定化し、また党内的にも、国会運営に対する対応の仕方や、景気回復予算および財政関係法案の成立遅延などをめぐって、三木内閣および党執行部に対する批判が次第に強まりました。さらに51.6月には、党所属の六名の国会議員が離党し、「新自由クラブ」を結成するにいたった。

 このような政情の動揺を続けたあげく、51.12月、任期満了による総選挙が行われましたが、ロッキード事件に対する国民の批判は厳しく、自由民主党は、保守系無所属当選者を含めて、過半数をわずかに上回る261議席を獲得できたにとどまりました。このような総選挙の結果は、三木内閣および自由民主党にとって、大きく期待に反するものであったため、責任を痛感した三木首相は、自由民主党再生への願いをこめつつ、12.17日、総理・総裁の座を退きました。

 しかし、三木首相は退陣に際して、自らが在任期間中に果たし得なかった「党近代化」について、(1)・進歩的国民政党という立党の原点への回帰、(2)・金権体質と派閥抗争の一掃、(3)・全党員参加による新しい総裁公選制度の実施の三項目からなる「党再生への提言」を残し、後事を次期総裁に託したのでしたが、この三木提言こそ、このあと実現された党改革の出発点となったもので、その意味でこの提言は、三木内閣時代の掉尾を飾るにふさわしい輝かしい事績だったといえる。

【ポスト三木の後継争い】

【福田総裁時代】
(総評)
 三木内閣退陣のあとをうけて、昭和51.12.23日、福田赳夫氏が第八代総裁に就任し、党再生と不況脱出への衆望を担って、福田新内閣が登場した。その政治史的意味は、官僚派の権力掌握であることと、岸の系譜に属するタカ派系であり、いわば戦前型保守本流の権力再掌握として見て取ることができる。

 福田内閣時代の二年間は、国内的には、衆・参両院において与野党議席の伯仲時代を迎えて、国政運営はますます複雑困難の度を加え、また国際的にも、資源有限時代の到来と世界的不況の深刻化を背景に、資源獲得や通商面での国際摩擦が激化するなど、内外ともに、かってない多事多難な時期でした。一方、自由民主党としても、51年末総選挙で、国民の厳しい審判をうけたあとをうけて、立党以来かってない危機意識を抱き、福田総裁以下挙党一致、党改革に取り組んだ時期でもありました。

 こうした内外情勢に対処するため、「協調と連帯」を基本姿勢に、内政では「景気の浮揚」と「雇用の安定」、外交では「世界の中の日本」の理念に立った積極的な国際協調、党再生のためには「出直し的改革」の目標を掲げて、その達成に力強く前進を続けたのでした。

 このうち、まず内政面で福田時代をいろどる特色は、何といっても、景気の早期回復と雇用不安の解消をめざした超積極財政の強力な推進と、歴代内閣の残した重要懸案処理にかけた非常な情熱でした。このため福田首相は、三木前内閣時代にロッキード事件という不幸な事件によって、政治が停滞した反省の上に立ち、就任直後から党内外に「さあ働こう」と呼びかけて、きわめて意欲的に政治に取り組んだのです。

 とくに景気対策については、「経済の福田」の面目にかけて、早期景気浮揚と雇用安定を重視するため、五十二年度は公債依存度三〇%、五十三年度は実質三七%という臨時・異例の大胆な公債政策にあえて踏み切り、実質経済成長率でそれぞれ六・七%、七%成長を目ざす財政主導型の超積極大型予算を組み、また財政投融資計画も大幅に拡大しました。そして公共投資を思いきって拡大し、二十八兆五千億円の新道路五カ年計画の発足、住宅政策の画期的拡充、各種公共事業の進行速度の繰り上げ、これらの予算の前倒し執行等あらゆる手段を駆使して、景気浮揚のための努力を傾注しました。

 このような福田経済政策の成果は着々あがり、経済成長は先進国中第一位を占め、貿易は驚異的に増進し、物価は主要国の中で最も安定し、五十三年の消費者物価の上昇率は、三・八%と十五年来の最低にとどまったのです。

 その間、予想外の輸出の伸びと経常国際収支の黒字の大幅増大にともなって、国際通商摩擦が拡大し、また輸出の急増とアメリカの貿易赤字の増大は急激な円高を招き、経済成長率は目標に達しなかったものの、引き続く超積極政策によって、五十三年度後半から内需は見通し以上に拡大し、企業収益も好転するなど、石油危機いらい五年ぶりに、日本経済が回復基調に向かったのは、物価安定とともに、福田内閣時代を飾る偉大な功績です。

 これ以外にも、三木前内閣いらいの懸案だった独占禁止法の改正に決着をつけ、また厚生年金、福祉年金、拠出制国民年金、恩給・遺族年金等の各種年金の引き上げ、二百カイリ時代の到来に対応した「十二カイリ領海法」および「二百カイリ漁業水域法」の制定、大企業と中小企業の事業分野を調整するための「中小企業事業分野調整法」の制定など、画期的な施策を進めたほか、五年越しの懸案だった「日韓大陸だな協定」の批准および同関連国内法案の成立、十三年越しの懸案だった「成田新国際空港」の開港等、後世に残る数々の成果を挙げました。

 次いで外交面でも、福田内閣時代の成果にはめざましいものがありました。福田首相は、世界が資源有限時代に入ったいま、人類の行動原理は「協調と連帯」以外にないとの認識のもとに、積極的な首脳外交の展開に乗り出しました。五十二年三月にはワシントンでの日米首脳会談、同年五月にはロンドン、翌五十三年七月にはボンでそれぞれ先進国首脳会議に出席して、自由世界第二位の「経済大国」として、また石油ショック後、先進国の中で最高の経済成長を続けている日本として、世界の景気回復の先導役の責務を果たそうという意欲を率直に表明して、各国に多大の感銘を与えたのです。

 さらに五十二年八月、ASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国とビルマを訪問した際には、マニラで「日本と東南アジア諸国が物的相互依存関係だけでなく、心と心のふれあいによる物心一体の友好協力の確立と、アジアの建設、安定、繁栄に貢献する」ことをうたった”福田ドクトリン”を発表したことは、今後のわが国のアジア外交の目標を設定した点で画期的なものだったのです。

 また、本格的な二百カイリ時代の到来と、厳しい国際漁業環境を背景に行われた日ソ漁業交渉の妥結と、漁業暫定協定の調印も、歴史的事績として見逃せません。しかし、福田時代を画する最大の外交的業績は、何といっても五十三年八月の日中平和友好条約の調印でした。同年十月には、トウショウヘイ・中国副首相がみずから来日して批准書の交換が行われ、これをもって、日中間の最大懸案は日中共同声明後、六年越しで最終的に解決されたわけです。この条約締結が、日中両国の友好と繁栄のみならず、アジアの安定、世界の平和確保という国際政治全体に占める重要性からみて、これはまさに歴史的成果だったといわねばなりません。

 こうして福田内閣は、内政、外交にわたり数々の偉業を達成したのでしたが、総裁として自由民主党の再建に果たした輝かしい業績は、自由民主党史を飾る偉大な功績でした。

 そのまず第一は、五十二年七月の参議院選挙の勝利を頂点とする各種選挙での圧倒的勝利です。福田内閣および自由民主党は、五十一年末総選挙での敗北以後、かつてない危機感をもち、全党をあげて党改革を断行する一方、派閥解消の一環として、従来各派閥が主催していた青年研修会に代えて、党主催による「全国夏季研修会」を開催しました。

 これらの努力は見事に実り、参議院選挙では、「与野党逆転必至」の大方の予測をくつがえして、改選議席六十五を上回る六十六議席を獲得し、政局安定へ向けて大きく前進したのでした。また各種地方選挙でも、多くの革新自治体から首長を奪還し、五十二年は七県の知事選挙で全勝、市長選挙では百八勝十九敗、続く五十三年にも、知事選挙で九勝一敗、市長選挙で百六十一勝三十一敗とめざましい成績をおさめました。なかんずく、長期にわたり革新の牙城だった京都、沖縄で首長の座の奪還に成功したのは、まさに特筆すべき成果です。

 第二は、福田総裁の悲願だった「党改革」の画期的前進です。五十一年末総選挙の結果に象徴される政治不信の異常な高まりと、党勢の長期停滞に対して、かつてない厳しい自己反省を行い、五十二年一月の党大会および四月の臨時党大会で、党改革について真剣な討議を重ねた末、「開かれた国民政党」への脱皮を目ざして、(1)全党員・党友参加による総裁選挙の断行、(2)党の組織力と財政基盤強化のための自由国民会議の結成、(3)派閥の弊害除去と広報活動の強化充実 などの具体的な党改革案を決定、その実行を国民に公約しました。

 以後二年間、福田総裁以下党をあげて、この公約達成に向かって一路前進し、ついに五十三年十一月、全国百五十万党員・党友の参加による総裁予備選挙という、わが国政党史上かつていかなる政党もなし得なかった一大壮挙の実現に挑戦し、見事にこれを達成したのでした。

 この結果、国民の自由民主党に対する信頼と期待は高まり、五十三年十二月末現在で、党員数は百四十万五千九百九十五名、党友である自由国民会議の会員数は十九万百六十五名に達し、党を支える下部組織は、結党以来二十三年におよぶ党の歴史を通じて空前の飛躍的充実をみるにいたり、自由民主党は、「開かれた国民政党」の理想に向かって、画期的な前進をとげました。

 しかも忘れ得ないのは、以上のように内政、外交面でいくたの輝かしい業績をあげ、党改革と党勢回復の面でも歴史的な功績をあげた福田総裁が、党員・党友参加による総裁候補決定選挙の結果、十一月二十七日、一位に大平正芳氏が選ばれたことが確定すると同時に、ただちに愛党の至情から、総裁決定選挙への出馬辞退の意思を表明し、二年間にわたる総理・総裁の座を自らおりたことでした。

 この福田総裁のさわやかな出処進退は、福田内閣時代の不滅の業績とともに、長く後世の歴史に残るでありましょう。

【ポスト福田の後継争い】

【大平総裁時代】
(総評)
 福田内閣退陣のあと、自由民主党史上、画期的な全党員・党友参加による総裁予備選挙の洗礼をうけて、昭和53.12.1日、大平正芳氏が第9代総裁に選任され、党内外の多大な期待を担って大平新内閣が登場しました。その政治史的意味は、吉田学校内左派の流れであり、田中角栄の盟友として戦後型保守本流路線を再構築することにあった。

 新政権の発足に際して、ますます厳しさを加える内外情勢と、多難な政治運営の実情をふまえて、「信頼と合意の政治」「国民と苦楽を共にする政治」を基本姿勢に掲げて国民の協力を要請したのでした。

 さらに政策目標としては、まず内政では、家庭基盤の充実を基本とする「日本型福祉社会の建設」、都市の活力と田園のゆとりの結合をめざす「田園都市国家構想の推進」を二本柱にすえ、また外交では、日米安保体制の堅持に加えて、質の高い自衛力の保持と経済協力、人づくり協力、文化外交の積極的展開等、多角的な外交努力を複合させた「総合安全保障戦略の推進」、開かれたゆるやかな地域連帯としての「環太平洋連帯の樹立」を打ち出すなど、その斬新な発想は多くの注目を集めました。

 このような新しい政策発想の基本には、大平首相独自の、深い洞察力に満ちた時代認識と、哲学味豊かな政治観が、色こく滲み出ていたのを見逃すことはできません。すなわち、国内的には、高度成長によって豊かな物的繁栄を達成したわが国は、すでに経済中心の時代を終え、今後は生活の質的充実を目ざすべき「文化重視の時代」が到来していること、また国際的にも、資源制約と相互依存体制の進行により、共同体としての「地球社会」の自覚なしには、もはや人類の生存も困難になってきていること などの透徹した時代認識がそれでした。

 そして、他ならぬこのような香り高い政治哲学を基軸にすえて、内外政治の激動に対処し、わが国と国民生活の「たしかな未来」への礎石を築こうと、渾身の努力を続けたことが、大平政治をいろどる最大の特色だったといえるでしょう。

 しかしながら、大平内閣時代の一年七カ月は、わが国をめぐる内外情勢が、戦後かつてない規模と内容で激変し、内政も外交も、歴史的大転換期の困難きわまりない選択に迫られた苦難の時期でありました。

 まず国内情勢では、第一次石油危機の深刻な不況はようやく乗りきったものの、その後遺症としての財政の不健全化が残り、五十四年度予算の公債依存度は三九・六%に達し、財政事情はもはやこれ以上の放置を許されぬまでに悪化していました。加えて、引き続く第二次石油危機の到来は、エネルギー制約の長期化と深刻化を告げ、日本経済と国民生活の将来に大きな不安を投げかけるにいたりました。

 また国際情勢でも、世界政治における米国の地位低下を背景にイラン革命、国際世論を無視したソ連のアフガニスタンへの武力介入、北方領土における軍事力増強等の事件が相次いで起こり、にわかに国際緊張が高まったのです。この結果、わが国は、自国の安全確保のためのみならず、国際平和秩序の維持のためにも、自由民主主義陣営の主要国の一員としての新たな自主的対応と、世界政治への積極的参加を強く求められる状況となったのでした。

 こうした非常事態に対処して、大平内閣は、時々刻々の情勢変化に迅速かつ的確に対応し、みごとに転換期乗りきりの重責を果たす一方、内政、外交の各面にわたりめざましい成果をあげました。しかもその施策の内容が、当面する「国民生活の防衛」に全力を傾注するかたわら、中・長期的視野に立った「たしかな未来」を築くための諸施策を、着実に推進した点に大平時代の特色があったといえましょう。

 このうち、内政面で大平時代を飾る具体的施策としては、まず第一に、雇用対策の画期的前進と福祉政策を挙げねばなりません。

 大平内閣の発足当時、景気は着実に上昇過程にあったものの、その半面、構造不況産業を中心になお百二十万人前後の完全失業者があり、雇用不安の解消は最優先の急務でした。このため、五十四年に雇用対策を最重点政策として取りあげ、総額一兆七千億円の予算を投じて、その飛躍的充実をはかったのです。

 この雇用対策は、内容的にも、中高年齢者を中心に新規の雇用創出十万人、定年延長による失業の防止九万人、失業給付金の支給期間の延長による失業者の生活安定百六十三万人という画期的なものでした。その効果は大きく、翌五十五年には景気回復による雇用増と相まって、雇用情勢は急速に改善されました。

 さらに、苦しい財政事情の中で、五十五年から厚生年金、国民年金、福祉年金等の増額をはかったことも見逃せません。この結果、厚生年金の標準的支給月額は十三万六千円(三十年加入)となり、まさに世界の最高レベルをいく福祉水準を達成したのです。これら雇用対策および福祉政策におけるめざましい成果は、「国民生活の防衛」「日本型福祉社会の建設」を目ざした大平時代の輝かしい業績として、高く評価されるべきものでした。

 第二には、本格的な石油制約時代の到来にそなえて、エネルギー供給の長期安定をはかるため、エネルギー対策の飛躍的前進をはかった施策でした。

 第一次、第二次石油危機を体験した大平内閣および自由民主党は、深刻化しつつある石油制約を克服し、国民経済と国民生活を維持、充実できるだけのエネルギー供給を長期かつ安定的に確保することこそ、最重要の政治課題であるとの認識に立って、五十五年に画期的なエネルギー対策を講じたのです。

 この対策は、たんに予算面で前年度比三〇・九%増の七千四百億円と、大幅に増額しただけにとどまりません。長期的なエネルギー需給の見とおしに基づき、石油代替エネルギーの開発・利用を進めるため、その必要資金の長期的、安定的確保の道を開いたこと、「新エネルギー総合開発機構」を創設し、その中核的推進母体をつくったこと等の点で、今後のわが国の中・長期的なエネルギー対策に、歴史的な意義をもつ対策だったのです。まさに、八〇年代の初頭を飾るにふさわしい重要な礎石だったといえましょう。

 このほか、首相在任中、財政再建にかけた大平首相の燃えるような情熱とあくなき努力もまた、責任感あふれる政治指導者の行動として多大の感銘を残すものでした。

 大平首相は、首相就任の直後から、財政再建への軌道をしき、わが国と国民生活の「たしかな未来」への道を切りひらくことこそが、自らの政権に課せられた最大の政治使命であるとの自覚に徹していました。このため、五十四年に日本経済が、本格的な景気の上昇軌道に乗ったのを見さだめると、同年十月の総選挙では、大胆にも「新たな負担」の是非を国民に問い、また五十五年度予算では、徹底的な歳入・歳出の見直し等によって、公債発行額を一兆円減額し、財政の公債依存度を三三・五%に引き下げるなど、懸命の努力を続けたのでした。

 こうした大平首相の悲願は、その非運の死によって第一歩を踏み出しただけに終わりましたが、そのあくなき努力によって、財政再建の必要性については、与野党を問わず広く国民的合意が形成されるにいたったのは、大平首相の偉大な功績だったといわねばなりません。

 次いで外交に目を転じますと、何といっても特筆すべき業績としては、五十四年六月、東京で開かれた先進国首脳会議(「東京サミット」)の画期的成功でありました。大平内閣および自由民主党は、アジアで初めて開かれたこの首脳会議を成功させるため全力を尽くしましたが、とくに大平首相は、議長として会議全体をリードし、歴史的な「東京宣言」をまとめあげて、見事な外交的成果をおさめました。

 とりわけ、この「東京宣言」は、石油輸出国の限界のない値上げ攻勢と生産抑制戦略に対抗するため、主要消費国である先進七カ国が歩調をそろえて、一九七九年と、八〇年から八五年の国別の具体的な年間輸入量を設定して石油消費の節約を誓いあったこと、代替エネルギーの開発の具体策を打ち出したこと等の諸点で、先進国首脳会議の歴史を通じても画期的なものと高く評価されたのでした。

 このほか大平首相は、五十四年から五十五年にかけて米国、中国、豪州、ニュージーランド、メキシコ、カナダ、ユーゴスラビア、西独の各国を歴訪し、文字どおり東奔西走、緊迫化する国際情勢に対処して活発な首脳外交を展開しましたが、その間、カーター米大統領、華国鋒・中国首相の来日を実現し、両国との友好親善関係の強化に大きく貢献したことも見逃せません。

 しかし、大平時代の外交で最も注目すべき功績は、イラン革命にともなう米大使館不法占拠事件、アフガニスタンへのソ連の武力介入問題等、にわかに高まった国際緊張材料に対する毅然たる政策選択でありました。これら国際社会の基本秩序を脅かす不法行為に対しては、「それがたとえわが国にとって犠牲をともなうものであっても、避けてはならない」との大平首相の不動の信念のもとに、ココムの輸出規制の強化等の経済制裁、モスクワ五輪不参加などを、他国に先がけて率先して実行したのがそれであります。

 その背景には、世界政治における米国の地位低下を基因とする国際緊張激化という新事態に対応し、米国、西欧、日本を中心とする「同盟関係」の協調・連帯をいっそう強化することによって対処しようという、不退転の決意があったからに他なりません。

 この勇気ある決断こそ、まさに他の治政の何よりもまして、大平政治の真価を示したものであり、日本外交に新時代を画するものだったといえましょう。

 こうして大平内閣は、内政、外交にわたり、いくたの輝かしい業績を残し、歴史的大転換期の政権の使命を見事に達成したのでしたが、総裁として、自由民主党再興に果たした偉大な功績もまた、結党二十五年におよぶわが党の歴史に、不滅の金字塔を樹立するものでありました。

 そのまず第一は、党組織の飛躍的拡充です。自由民主党は、福田前総裁時代の百五十万党員・党友の獲得に引き続き、大平時代には”一人が一人の党員・党友を獲得する”ことを目標に、「三百万党員獲得運動」「組織整備三カ年計画」「党員研修三カ年計画」など、党下部組織の量的・質的拡充に党をあげて取り組みました。その結果、五十五年一月には、登録党員数は三百十万六千七百三名、党友たる自由国民会議の会員数は十万七千七十三名に達し、わが党を支える裾野は空前の広がりを示すにいたりました。

 第二は、このような党組織拡充の波に乗っためざましい党勢の躍進でした。

 まず五十四年四月の統一地方選挙では、画期的な拡大を示した党員・党友組織が、「一人で十票」の得票を目標に着実に票を獲得するなど、挙党体制をもって戦った結果、長期にわたって革新の牙城であった東京、大阪の首長の座を奪還したのをはじめ、各地の知事選で十五勝零敗という圧倒的勝利をおさめました。

 この余勢をかって、大平内閣および自由民主党は、政局安定をめざして同年十月、解散・総選挙に打って出たのですが、不幸にして投票日当日の悪天候と投票率の異常な低下、選挙運動期間中に続発した官公庁、各種公的機関の綱紀弛緩の表面化などの悪条件が重なったことが起因して、獲得議席は二百四十八、保守系無所属の追加公認を加えても二百五十八議席という、不本意な結果に終わったのでした。

 しかしながら、政局安定の悲願に燃える大平首相は、これに屈することなく翌五十五年五月、たまたま社会党の党利・党略的な大平内閣不信任案が提出された機会をとらえて、「衆・参両院同日選挙」の実施という非常手段に訴えて、国民の信を問う勇断を下したのでした。そして、自らこの歴史的な政治決戦の陣頭に立ち、「不安定な野党連合政権か安定した自民党政権か」の選択を国民に迫って、国政安定への熱情をほとばしらせました。

 だが、非運にも戦いなかばにして病に倒れ、六月十二日未明、勝利の日を見ることなく急逝したのでした。しかし大平首相は、死の瞬間まで、自由民主党の圧勝と政局の安定を願い続け、二度にわたり病床から、全党員・党友の決起を訴えるメッセージを発表するなど、不屈の闘志を燃やし続けたのです。このような大平首相の燃えるような愛党心と、国政安定にかけた情熱は、党員・党友のみならず広く国民一般の胸を打ち、わが党の選挙体制は、かつてない結束と盛り上がりぶりを示したのでした。かくて開票の結果は、衆議院二百八十四議席、参議院六十九議席という文字どおりの圧勝となり、その後の保守系無所属の追加公認と参議院の非改選議員を加えた現有議席では、衆議院二百八十六議席、参議院百三十六議席と、衆・参両院にわたり安定過半数の体制を確立できたのです。

 かくして大平時代は終わりましたが、自民党再興と政局安定に果たした偉大な功績は、不滅の光芒を放つとともに、政治指導者として歴史的大転換期の苦悩を一身に担い、国政に殉じたその壮烈な生きざまは、わが国戦後政治史に深く刻みこまれることでありましょう。

【ポスト大平の後継争い】
 1980(昭和55).6月、衆参同日選挙のさなかの大平首相急逝が、鈴木善幸に宏池会を引き継がせ、更に首相へと押し上げていくことになる。選挙は急逝した大平首相への同情もあり自民党が大勝した。選挙後ただちに後継総裁問題に突入したが、衆参両院選挙の圧勝により大平政権系譜の跡目相続を順当とするとの意見が党内大勢を占め、話し合いによる円満な後継者の選出が妥当との党議が固まった。田中六助が奔走し、田中角栄、岸信介、福田武夫ら元首相の了解を取り付け、その結果、7.15日、衆参両院議員総会で、西村副総裁の指名をうけて宏池会会長・鈴木善幸氏が第70代総裁に選ばれ、鈴木内閣が誕生した。

 しかし、鈴木善幸の知名度は低く、海外から「ゼンコーWHO?」と云われた、とある。前尾繁三郎氏は、「幕が開かないうちに芝居が終わった」と語った。

【鈴木善幸(すずき・ぜんこう)のプロフィール】
 1911.1.11日、岩手県山田町の網元の家の長男として生まれた。2004.7.19日、93歳で逝去する。

 1935年、農水省水産講習所(現東京海洋大)を卒業した。漁業組合運動に身を投じ、47.4月の総選挙に社会党公認で出馬し初当選。社会革新党をへて吉田茂元首相の率いる民主自由党(民自党)に移り、以後、連続16回当選を果たした。

 その間、52年に自治政務次官、60年には第1次池田内閣に初入閣して郵政相。64年、第3次池田内閣の官房長官に就任。病気退陣した池田氏から佐藤栄作氏へのバトンタッチに裏方の一人として尽力した。

 その後も佐藤内閣で厚相(第2、3次)を務めた。福田内閣で農相を務め日ソ漁業交渉を仕上げた。党務では、68年から9期にわたって自民党総務会長を務め、党内の「まとめ役」となった。官僚出身者の多い「宏池会」にあって、党人派として他派とのパイプ役を積極的に果たし、大平内閣の実現に力を注いだ。


【鈴木政権時代】(80年から2年4か月

 いわゆる80年代問題ともいうべき歴史的転換期の困難きわまる諸問題が内外に相次いで生起した苦難の時期を処した。戦後政治史の流れの中で、大平政権から次の中曽根政権への繋ぎ政権となった。

 当時の局面に於いて、「一番無難な人物」として鈴木善幸が、議員総会満場一致で自民党総裁に選ばれ、第70代内閣総理大臣になった。鈴木は後に、「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と漏らしている(升味準之輔著「日本政治史4」)。

 鈴木首相は、生粋の党人出身政治家らしく、新内閣の発足に当たり、「自民党40日抗争」で深刻な亀裂の入った党内の融和を目指し、「和の政治」、「全員野球」を政治運営の基本姿勢に掲げた。

 内政面では、大平政権の行政改革・財政再建路線を踏襲し、「財政の再建」(「増税なき財政再建」、「84年度までの赤字国債脱却」)、「行政改革の断行」を最重点政策とし、他にも「政治倫理の確立と行政綱紀の粛正」、「総合安全保障政策の展開」、「エネルギー政策の積極的推進」、「活力ある高齢化社会の建設」などを取り上げ、これらの実行を通じて、「21世紀への基盤固め」を行うことを新政権の使命として出発した。

 70年代から80年代への時代の転換期に辺り、行財政改革は緊急かつ不可欠の課題となっていた。とりわけ70年代不況で乱発された国債による財政状況が悪化しつつあり、公債発行残高は累増の一途をたどり、財政の再建は、一刻の猶予も許されぬ急務となっていた。このため鈴木首相は、「いまや抜本的な行政改革の推進と財政再建の達成なしには、1980年代の行財政運営の基盤を確立することはできない」として「21世紀を切りひらく行財政改革の断行」を掲げた。「増税なき財政再建」、「赤字特例公債依存体質からの1984(昭和59)年度脱却」の二大目標を自らに課し、その達成を目ざして最大限の努力を傾注した。

 マイナス・シーリングによる予算編成を行う。56年度一般会計予算では、赤字特例公債発行額を二兆円減額して、一般歳出の伸び率を4.3%増に引き下げたのに続き、57年度一般会計予算でも、前例のないゼロ・シーリング予算を編成して、公債発行額を1兆8300百億円減額し、一般歳出の伸び率をわずか1.8%増に抑制するという、実に四半世紀ぶりの超緊縮予算を組み、財政再建路線を大きく前進させた。

 このような行財政改革に賭けた鈴木首相のあくなき努力は、不幸にして56年度の税収が景気の予想外の低迷を反映して当初見積りより6兆1千億円も落ちこんだため、当初予算を2兆1千億円減額した57年度補正予算で、3兆9千億円の公債の追加発行を余儀なくされるという不運に見舞われた結果、赤字特例公債依存体質からの59年度脱却は事実上不可能となりましたが、それにしても「歳出削減−財政再建」路線を定着させ、58年度予算編成における5%のマイナス・シーリングのレールを敷いた功績は、きわめて大きかった。

 一方、行政改革に本格的に着手する。1981(昭和56).3月、土光敏夫経団連名誉会長(当時)を会長とする臨時行政調査会(第2次臨調)、政府・自由民主党行政改革推進本部を発足させ、文字どおり政府・与党一体となって、行財政改革の推進に乗り出した。以後、臨時行政調査会は、「増税なき財政再建」をかかげ、56.7月から58.3月まで五次にわたり答申、鈴木内閣では三次まで)を提出していくことになる。

 このほか、鈴木首相はまた、「金のかからぬ政治」の実現に取り組み、57.8月、多年の懸案であった参議院全国区制度を改革して、比例代表制を導入した公職選挙法の改正を断行したことは、わが国選挙史上画期的な出来事でした。 

 外政面で、西側の一員としての国際的責任の分担と対外通商摩擦の解消を目指し、首相自ら陣頭に立っての華々しい首脳外交の展開した。56.1月のASEAN(東南アジア諸国連合)5カ国歴訪を皮切りに、同年5月の米国、カナダ訪問、同6月の西欧8カ国歴訪、そして一息入れる間もなく翌7月には、カナダのオタワで開かれた先進国首脳会議出席、10月にはメキシコのカンクンで行われた南北サミット列席。明けて57.6月には、フランスのベルサイユで開かれた先進国首脳会議、引き続きニューヨークでの第2回国連軍縮特別総会出席、中南米歴訪、9月には中国訪問と、まさに文字どおり東奔西走、めざましい首脳外交を繰りひろげた。

 二度にわたるサミット出席、西欧八カ国訪問等を通じて、西側諸国は困難な国際情勢下にもかかわらず、「和の精神」をもって団結と協調を強め、国際情勢に対する共通の基本認識と基本戦略で対処する必要がある旨表明したことです。そして第三には、このためわが国は世界経済再活性化のための経済的諸協力、第三世界に対する政府開発援助の五カ年倍増目標の達成等により、国際的な政治・経済的役割を果たしていく旨、はっきりと国際公約した点でした。

 これらはいずれも、わが国が「平和国家」としての制約の範囲内で、西側陣営の一員としての国際的責任を進んで果たしていこうという決意を積極的に表明したもので、鈴木首相による首脳外交の輝かしい成果だったといえるでしょう。

 とりわけ、国連軍縮特別総会において、現在、世界が国民総生産の6%にのぼる軍事費を支出する一方で、開発途上国では悲惨な飢餓と貧困が絶えない実情を対比しつつ、「軍縮によってつくり出される人的・物的余力を社会不安と貧困の除去に向けるべきだ」と主張した鈴木首相の演説は、各国代表の大きな反響を呼び、演説終了後会場で首相に握手を求める人々の列が、一時会議の進行を中断させたほどで、まさに鈴木首相による首脳外交を飾るハイライトともいうべき光景となった。

 鈴木内閣は更に国際責任分担の柱として、三次にわたる画期的な市場開放政策を推進した。これは激化する国際通商摩擦に対処し、調和ある対外経済関係を形成することによって、自由貿易体制のよりいっそうの拡大を図ろうとしたもので、56.12月、まず第一弾として、東京ラウンドの合意に基づく関税の段階的引き下げ措置を、一率に例外なく二年分繰り上げ実施することとし、総計1653品目、平均10.4%の関税を引き下げた。

 次いで翌57.1月には、第二弾として、農産物47品目および工業品28品目の関税の撤廃ないし引き下げと輸入検査手続きの簡素化、さらに同年5月には、第三弾として、96品目の関税撤廃を含む215品目の関税大幅引き下げを断行した。これらはいずれも、鈴木首相の強いリーダーシップのもとに実施されたもので、広い国際的視野に立った首相の勇断は、高く評価されるべき決断だった。

 1981(昭和56).5月のレーガン米大統領との日米首脳会談で、「日米両国は民主主義および自由という共有する価値の上に築かれている同盟関係にある」ことを確認するとともに、「防衛問題における適切な役割分担が望ましい」等の合意内容を盛った共同声明を発表、よりいっそう緊密な友好親善関係を確立した。ワシントンでの記者会見で「シーレーン防衛」を約束し、日米共同研究に道を開いた。

 しかし、財政再建を至上命題としていた鈴木首相は、レーガン政権の防衛負担の要求に対して消極的に対応し、この時の「日米同盟(alliance)関係」の意味にづけで「日米同盟には軍事的な意味は含まない」との解釈を示した。しかし、外務省は同盟には当然軍事的なものが含まれると解するとの見解を示し、首相と外務省(高島益郎外務次官)が対立、伊東正義外相(当時)と外務事務次官の辞任に発展した。

 鈴木首相は教科書問題にも直面する。文部省の歴史教科書の検定に対して中国、韓国が日本に抗議、決着まで1カ月以上もかかった。
結局、すったもんだの末、鈴木首相は中韓両国に妥協し、教科書の記述を両国の主張に応じた。

 任期満了を目前にして、党内の一部から総裁予備選挙を実施すべしとの強い主張が出るにおよんで、党内抗争に火がつくことを憂えた首相は、総裁再選が確実視されていたにもかかわらず、1982.10.12日、党総裁選で再選が確実視される中、「「新しい指導者の下、人心の一新をはかり、挙党体制を確立し、もってわが党に新たな生命力を与えることが、党総裁としての私のなしうる最後の仕事であると確信するにいたりました。退陣することで党内の結束と融和、人心の一新を求めたい」と電撃的に表明。総裁選への不出馬を表明、退陣した。

 財政再建を廻って赤字国債の追加発行に追い込まれ、「赤字国債脱却」などの公約実現が困難になるなど政策課題が行き詰まったことや、日米共同声明の解釈をめぐる81年5月の伊東正義外相辞任や、82年夏の教科書検定問題などで外交手腕にも疑問が投げかけられ、内政、外交面での行き詰まりが首相退陣の引き金になったと云われた。しかし、
今もって「Why?」である。

 退陣の記者会見で、次のように述べている。

 「自分が総裁の座を競いながら、党内の融和を説いても、どうも説得力がないのではないかと、この際、退陣を明らかにし、人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい、真の挙党体制を作りたい」(升味準之輔著『日本政治史4』より)」。

 こうして、自民党の挙党体制を念じて、彼は首相の座を降りた。

 その後、84年秋の総裁選で中曽根康弘氏の再選を阻止するため、竹入義勝・公明、佐々木良作・民社両委員長らとともに“二階堂(進氏)擁立劇“を画策。衆参同日選後の86年9月、派閥は宮沢喜一氏(当時蔵相)にゆだねた。

 89年10月、田中角栄元首相の政界引退から2週間後、突然「世代交代の大きな波は着実に進んでいると肌で感じている」と政界引退を表明、90年2月の総裁選に出馬せず、後任に長男俊一氏を充てた。

善幸逝くに思う。 れんだいこ 2004/07/20
 2004.7.19日、鈴木善幸元首相が93歳で逝去した。れんだいこはこれに言及しておく。(バタバタしている中でのことだから、善幸よこれぐらいで堪忍どすえ)

 善幸は、池田−大平派の番頭であり、角栄の大平と共に生涯にわたる政治的盟友であった。丁度善幸辺りまで戦後政権与党主流派を形成した「ハト派の最後の大物首相少し穏健な」と評するのが相応しい。

 興味深いことは、善幸は、47.4月の総選挙に社会党公認で出馬し初当選していることである。その後社会革新党を経て吉田茂元首相の率いる民主自由党(民自党)に移り、その後の1955年の自民党結成以来連続16回当選を果たしていくが、その政治履歴は「政権与党内のハト派系の貴重な人士にして、ハト派の左派性を証する生き字引的存在」であった善幸を物語っている。

 あまり注目されていないが、角栄が政界引退した後の角栄票がどこに流れたか追跡した調査があり、それによると何と主として社会党であったと判明している。それやこれやを思うと、自民党内ハト派の左派性にこそ注目したくなる。案外、社共の口先左翼の似非左翼ぶりに比して、戦後政治史に花開いた自民党内ハト派こそ土着系左派ではなかったか、という仮説をれんだいこは持っている。

 このことに気づかなかった日本左派運動の不見識、ポーズ的左派性こそ疑惑されねばならないのではなかろうか。この観点からは、戦後政治史の既成ものは全く役に立たない、ただ資料的価値があるばかりである。

 その善幸が首相に抜擢された時、海外から「ゼンコーWHO?」と云われた。その善幸が突如辞任表明した時、「ゼンコーWHY?」と云われた。マスコミは概ね善幸の煮え切らない政治を過小評価し、その後を継いだ中曽根を過大評価する。しかし、この見識そのものが大間違いではなかろうか。

 善幸は、80年代初頭の首相であり、70年代政治を清算し新時代に相応しい路線を敷こうとして奮闘した。この時、「自民党40日抗争」で深刻な亀裂の入った党内の融和を目指し、「和の政治」、「全員野球」を政治運営の基本姿勢に掲げた。それは、ハト派にして穏健派の善幸らしさであった。

 大平−善幸政権の時代、真剣に行革・財政再建に取り組んでいた。公債発行残高が累増の一途をたどり、財政の再建は、一刻の猶予も許されぬ急務であるとして、「増税なき財政再建」、「84年度までの赤字国債脱却」目標の「財政の再建」、土光第2次臨調による「行政改革の断行」に取り組んでいた。

 これらの努力を全てご破算にして更に財政悪化させたのが中曽根政治であり、その後の有象無象を経て現下の小泉政治である。中曽根−小泉の奴僕的親米パフォーマンス政治こそが日本を滅亡の危機に陥れているというのに、彼らを愛国者然とする提灯記事が後を絶たない。

 その筆頭株主ナベツネが牛耳ったプロ野球は衰退の一途をたどり更に事態を悪化させつつある。彼らに国政を任せば万事がこういう目にあうという好例ではなかろうか。

 れんだいこは、逝去した者の怨念が有るのかどうかは分からないが、さぞかし恨めしげに日本政治を憂いているだろうと忖度している。

 2004.7.20日 れんだいこ拝




(私論.私見)