自民党史4 | 経済的繁栄に向けて |
現在、草稿段階。
第4代 | 池田 勇人(池田総裁時代) | 昭和35年 7月14日〜昭和39年12月 1日 | ||
第5代 | 佐藤 栄作(佐藤総裁時代) | 昭和39年12月 1日〜昭和47年 7月 5日 | ||
第6代 | 田中 角栄(田中総裁時代) | 昭和47年 7月 5日〜昭和49年12月 4日 |
【ポスト岸の後継争い】 |
【池田総裁時代】 | |
(総評)所得倍増計画による経済の高度成長路線を敷いた。東京オリンピックも成功させ、日本の国威を発揚した。 | |
岸内閣退陣のあとをうけて、1960(昭和35).7.14日、池田勇人氏が第4代総裁に選ばれ、7.19日、池田内閣が登場した。その政治史的意味は、官僚派の権力再掌握であることと、池田が吉田学校左派系であることにより史上稀なる善政を敷いたことにある。池田内閣の「史上稀なる善政」に付き着目されることが少ないが、池田―田中―大平―鈴木系譜の政治の総合的評価を含めて今後の政治的考察一級課題となるように思われる。 池田内閣は、官房長官・大平正芳、幹事長・益谷秀次(池田派)、総務会長・保利茂(佐藤派)、政調会長・椎名悦三郎(岸派)の布陣で出発した。この内閣の出現とともに、世界の歴史にも類例をみない「経済的繁栄の時代」が幕をあけることになった。 12.8日、第二次池田内閣成立。池田内閣は、池田・岸・佐藤の三派を主流とする体制となった。河野派、三木派からの入閣はなかった。官房長官・大平正芳、幹事長・益谷秀次、副幹事長・鈴木善幸、総務会長・保利茂(佐藤派)、政調会長・福田赳夫(福田派)の布陣で、外相・小坂善太郎、蔵相・水田三喜男、厚相・古井喜実、通産相・椎名悦三郎らが登用された。 1961.6.20日、ワシントン.ホワイトハウスで池田.ケネディー会談。6.21日、ヨット会談。「アジアにおいて戦略的に重要な地位を占め、経済的にも力をつけてきた日本が、一人前の国としての自覚と責任を持ち、安定した親米、反共勢力に成長することが重要」であり、「日本の西側同盟への組み込み」の再確認の意味があった。この時日米の提携を強化するための閣僚級の「日米合同委員会」の設立が決められる等日米パートナーシップの大きな前進となった。
1961.7月、第二次池田改造内閣成立。官房長官・黒金泰美、前尾(池田派)幹事長、赤城宗徳(川島派)総務会長、田中角栄政務調査会長らの布陣であった。田中角栄はこの時43歳の若さで、初の党三役入りであった。「前尾、赤城というのは、素晴らしい頭脳の持ち主だが、口下手でね。僕がエンジンをかけたり、ホースを引っ張り、筒口を持って火の中へ飛び込むことになりそうだ」(私邸で)の弁を残している。鉄道建設審議会委員ならびに小委員長兼任。 福田が外され、田中が座った。 1964.7月、第三次池田内閣発足。官房長官・黒金泰美、三木武夫(三木派)幹事長、中村梅吉(河野派)総務会長、周東英雄(佐藤派)政調会長らの布陣。 この頃高度経済成長路線に反対する「党風刷新連盟」が福田らを中心に始まった。 64年7月、自民党総裁の改選期に入り、池田三選の是非をめぐって党内が割れた。佐藤派内は保利と福田が阻止に動き、池田系に位置する田中は大平と組んで池田三選−禅譲で佐藤の構想で対抗した。池田・佐藤の密議も交わされたが「酒乱の電話」でご破算となった。「佐藤君に、君達からも云っておけ!公選では、百票は引き離してみせるからな。負けた後で吠え面かくなよ、とな」と、池田が夜回りにきた記者に云ったことが伝えられている。 1964(昭和39).7.18日、第三次池田内閣の第二次改造。官房長官・鈴木善幸、川島副総裁、三木幹事長の布陣で、外相・椎名悦三郎、大蔵・田中角栄留任、文相・愛知揆一、労相・石田博英らが登用された。 1964(昭和39).10月18日、東京オリンピック(第18回オリンピック東京大会)が開催された。アジア初の大会であり、参加国94カ国、参加選手5586名を数え、施設、運営にわたってわが国の技術と能力を最高度に発揮し、世界に類を見ない奇跡の経済復興を外国に知らしめ日本の威信を著しく高め成功した。オリンピック開催へ向けての首都高速道路網、地下鉄網の建設整備、水源の確保、都市施設、生活環境施設の整備等、首都東京の根本的大改造や、東海道新幹線が建設されており、池田内閣の高度経済成長政策による経済的繁栄を、何よりもあざやかに象徴する世紀の大祭典となった。 その一方で、党近代化へのさまざまな努力を続けたことも、池田内閣時代の一つの特色です。近代的な国民政党をめざす「党組織調査会」の設置、党組織と財政の母体となるべき「財団法人・国民協会」の結成などがそれで、37.10月の三木武夫氏を会長とする組織調査会による「党近代化に関する最終答申」は、これらの努力を示す貴重な成果でした。 こうして内外政治にわたって、輝かしい功績をあげ、自由民主党政治の歴史的な発展に貢献した池田内閣であったが、「東京オリンピック」の開会の頃病魔におかされるところとなり、華やかな閉会式の翌25日さわやかな「退陣声明」を表明、幕をおろした。翌26日の衆参両院議員総会で、川島正次郎副総裁と三木武夫幹事長が後継者の選考に入ることが了承された。後継候補は、佐藤と河野一郎、藤山愛一郎の3人となったが、調整は手間取った。11.4日、「河野・藤山盟約書」が出来上がった。以降、大平−田中コンビの裏工作が進み、大平が絶妙の根回しにより佐藤後継を演出していくことになった。 |
池田政権は、戦後保守本流と云われたハト派政治の第一期黄金時代を現出させた。これを解析しておく。その政治を特色づけたものは、1・「寛容と忍耐」の精神にもとづく”話し合いの政治”と”党近代化”、2・「所得倍増計画」に象徴される輝かしい高度経済成長政策の積極的な推進、3・国際的な開放経済体制への移行であった。これは、安保騒動によって国内的には社会不安が生起し、また対外的にも、国際信用のうえに影響するところ少なくなかったことを反省したところから生まれたものと思われる。 1について述べれば、池田政権時代、努めて野党との話し合いによる円滑な議会運営に徹した。この結果、池田内閣時代の四年三カ月は、与野党対決といった局面はあまりなく、政局がきわめて安定した時代となった。2については、国内の豊富で質の高い労働力とすぐれた技術革新、国際的には廉価で安定的な資源供給に恵まれ、国民のバイタリティーは内外にあふれて、まさに「黄金の60年代」にふさわしい時代となった。「国民所得倍増計画」は、岸内閣時代の新長期経済計画よりさらに長期的展望のもとに、国民総生産を十年間で二倍以上、国民の生活水準を西欧先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、これによって国民多年の宿願であった完全雇用を達成するだけでなく、国民各層間の所得格差の是正をはかることをめざした。さらに減税、社会保障、公共投資を三本柱として経済成長を推進した結果、民間経済の潜在的エネルギーを巧みに引き出して、”世界の奇跡”といわれる高度の経済成長を遂げることになった。同計画では、当初の三年間は年率9%の成長を想定していたのに、現実には10%以上という予想を上回る大幅な成長をとげ、国民所得は十年間で倍増する想定だったところ、わずか4年余で目標を達成するというめざましい成長ぶりをみせた。この結果、国民生活は豊かになり、民心は安定し、岸内閣時代のような険しい政治的対決といった様相はまったく姿を消した。 このような政治的安定と政策的成功を背景に、自由民主党に対する国民の支持は高まり、35.11月の総選挙では、繰り上げ当選者を加えると301議席という戦後最高の議席を獲得し、37.7月の参議院議員選挙でも、全国区21、地方区48の合計69議席という圧倒的勝利を得た。 衆・参両院にわたるこうした強力な布陣を背景に、内政、外交の両面で、池田内閣は輝かしい業績をあげた。内政面では、高度成長の基盤のうえに、国および地方の財政は大幅に拡大し、一方で年々大幅な減税を続けながら、他方では各種の重要政策の積極的推進を可能にした。 経済関係では、「農業基本法」、「中小企業基本法」、「沿岸漁業振興法」、「林業基本法」の歴史的な四大産業基本法を制定して、農林漁業政策と中小企業対策の進路と施策の基本を確立した。また、「新河川法」、「新産業都市建設促進法」その他の重要立法を行って、国土の開発保全と地域格差の是正をはかり、民生安定および文教振興の面でも、「児童扶養手当法」、「老人福祉法」、「母子福祉法」、「義務教育諸学校教科書無償措置法」の制定、「国民皆保険」の実現など、めざましい成果をあげた。 さらに外交面では、36年から3年間にわたり、毎年、欧米諸国および東南アジア各国を歴訪し、ケネディ米大統領をはじめ各国首脳と会談し、相互理解と親善友好関係の増進に貢献しました。また36年には、東京で韓国の朴最高会議議長と会談し、日韓国交正常化の早期妥結への道を開いた。 池田内閣時代の国際経済政策で画期的な意義をもつのは、開放経済体制への大胆な移行であった。日本経済は戦後長い間、国内産業の保護育成のため、貿易為替管理制度によって国際自由貿易の荒波をさけてきたが、反面それは、わが国産業の国際競争力の成長を弱め、自由貿易の増進を妨げ、わが国経済のより大きな発展を阻害する要因ともなっていた。そこで岸内閣当時、42%にすぎなかった自由化率を、39年には93%にまで高めるとともに、為替制限の廃止と差別的な通貨措置の撤廃をうけいれたIMF(国際通貨基金)八条国への移行と、OECD(経済協力開発機構)加盟を断行し、ほぼ完全な開放経済体制に入った。これは国際的な自由貿易体制への積極的な参加と、その後の日本経済の飛躍的な拡大のために、まさに歴史的な決断だった。そうした努力の成果として、39.9月には、世界102カ国代表の参加のもとに、IMFおよび世界銀行の年次総会が、東京で開かれたことも特筆すべきことであった。 |
池田勇人(いけだ・はやと) 1899年12月3日、広島県生まれ。1925年、京都大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。1929年、宇都宮税務署長となるも病に倒れる。5年間の闘病生活の間、1931年に大蔵省を退職。病気回復後は日立製作所への就職が決まったが、1934年に大蔵省に復職。税務署長、税務監察局直税局長を経て、本省の主税局に戻る。その後、主税局経理課長、主税局国税課長、東京財務局長を経て、主税局長となり終戦を迎える。
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【ポスト池田の後継争い】 |
11.9日、東京オリンピックが幕を閉じて二週間後、池田首相は、川島正次郎、三木武夫、鈴木善幸、大平正芳の4名を入院先の国立がんセンターの病室に呼び、佐藤を後継首相に指名した。 |
【佐藤総裁時代】 |
(総論)沖縄施政権の返還。 |
1964(昭和39).11.9日、佐藤榮作氏が第5代総裁に就任し、第一次佐藤内閣発足、佐藤内閣時代が幕をあけた。その政治史的意味は、池田に続く官僚派首相であることと、吉田学校右派系であることによる国家主義的政治を断行したことにある。 佐藤は、官房長官を池田派の鈴木善幸から自派の橋本登美三郎に取り替えただけで、第48回通常国会に向かった。 佐藤内閣は、政治姿勢としては「寛容と調和」、政策的には「人間尊重と社会開発」を基本的目標に、7年8カ月にわたって政権を担当し、わが国政権史上最長記録を樹立するのですが、その間、戦後四半世紀にわたり民族的な悲願だった「沖縄の祖国復帰」という歴史的大偉業の達成をはじめ、幾多のめざましい政治的業績を残しました。 佐藤内閣時代の特色は、まず国内的には、池田時代に引き続き高度経済成長時代を切り盛りし、自由世界第二位の「経済大国」に発展させていった一連の政策にある。他方、産業の発展に伴う公害、環境破壊の発生や、都市集中に伴う新たな過密、過疎問題の発生や、国民の価値観の多様化、「多党化時代」の本格的到来等に対して、新しい政治的な対応を迫られた時代となった。また国際的にも、「激動の70年代」に際会し、ベトナム戦争の長期化による米国の威信の低下と国際情勢の流動化、世界の各国が予測もしなかったニクソン米大統領の訪中声明、ドルの衰弱を背景としたドル防衛の非常措置の発表等、相次ぐ”ニクソン・ショック”に見舞われるなど、さまざまの外交的試練に直面せざるを得ない時期でもあった。 佐藤内閣時代は、こうしたあらゆる困難を克服し、自民党の単独与党政治のより力強い前進を達成した。佐藤内閣はまず、戦後歴代内閣が未処理のまま懸案となっていた諸問題の解決に取り組み、発足後わずか1年数カ月でこれらを全部を片づけた。すなわち、敗戦後の農地改革で犠牲となった人びとに補償するための農地被買収者等の報償法の制定、ILO(国際労働機構)87号条約の批准と関係国内法の改正、日韓国交正常化等がそれである。このうち特に、日韓基本条約の調印、請求権問題の決着を含む日韓国交正常化問題の一括解決は、足かけ15年にもわたって未解決のまま残されていた重要な戦後処理であり、その歴史的な意義は、きわめて大きい。 次いで佐藤内閣が直面した試練は、「40年不況」の克服であった。このため佐藤内閣および自民党は、41年度予算の編成にあたって、それまで戦後一貫して堅持してきた超均衡財政主義からの大胆な転換をはかり、本格的な公債政策を導入して、社会開発、社会資本の拡充を中心に、対前年度比で18%増の積極予算を組み、大幅減税とあわせて景気のすみやかな回復をめざした。 この財政経済政策は見事に成功し、予想以上に早く景気は好転して再び成長軌道に戻ったのみか、以後48年まで持続的な高度成長を可能にし、自由世界第二位の「経済大国」といわれる繁栄への道を切りひらいた。その意味で、政策的決断は、歴史的な選択として高く評価されるべきものだったといえる。 こうして、政権初期の試練を克服した佐藤内閣は、いよいよ佐藤政治の本格的な展開に取り組み始める。まず内政面でみると、池田内閣時代には経済関係の立法および諸制度の整備に重点が置かれたのに対して、佐藤内閣時代は、急速な経済成長によるひずみ現象として発生した公害や、環境破壊から国民を守るための、「人間尊重」や「社会開発」的な政策が重視されたのが最大の特色となった。 1968(昭和43)年の「大気汚染防止法」、「騒音規制法」等の重要公害防止立法、「都市計画法」、「清掃施設整備法」等の生活環境重要立法を手はじめに、1970(昭和45)年7月には、総理府に「公害対策本部」の設置を閣議決定したのも、そうした一連の政策態度の現われであった。 そのピークに立つのが、同年11月の第64臨時国会で、この国会全体を”公害対策国会”として位置づけ、14件にのぼる重要な公害対策関係法を成立させた。その結果、国民の健康にかかわる公害を生じさせた事業活動に対する処罰規定とか、公害防止に要する費用の事業者負担の原則の確立など、わが国の公害対策制度を世界にも例を見ないほど整備充実させたことは、その所管官庁としての「環境庁」の設置(46年7月)とともに、佐藤内閣時代の画期的な功績として、後世に残るものとなっている。 また、45年3月から半年にわたって大阪で開催された「日本万国博覧会」も、佐藤長期政権の施政の総合的シンボルとして見逃すことができない。「人類の進歩と調和」を基本テーマとして開かれたこの博覧会は、参加国77カ国、パビリオン116館、入場者数6421万人という空前の成果をあげた世紀の大祭典となり、その後の人類社会の進むべき道を探究した世界史的意義と、国際間の相互理解と友好増進に寄与した国際的成果は国際的にも高く評価された。 だが、翌46.8月には、「激動の70年代」の到来を告げる”ニクソン・ショック”の第一波がわが国を覆い、佐藤内閣は再び大きな試練に直面することとなった。金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の徴収を中心とするニクソン米大統領の新経済政策の発表を契機として、国際通貨は一ドル360円の固定相場制から事実上の変動相場制の時代へ移行し、同年12月には、一ドル308円という円レートの切り上げが実施された。金・ドル交換停止自体が、国際的な基軸通貨であるドルの地位を弱め、これを基盤としたIMF体制を揺るがす国際的な重大事件であった。ことに円レートの切り上げは、対米輸出が輸出総額の3分の1を占め、輸出契約のほとんどがドル建てとなっている日本経済に大きな打撃を与えるものであった。 このため自民党は、同年9月には、総裁直属機関として、「中小企業ドル対策本部」を設置して、ただちに対策の調査立案に着手し、為替管理の緩和、金融上の緊急措置、税制上の特別措置等を内容とする緊急対策要綱を作成し、政府にその実施方を申し入れた。同年秋の第67回臨時国会で成立をみた「国際経済上の調整措置の実施に伴う中小企業に対する臨時措置法」と、大型補正予算は、こうしたドル・ショックによる不況克服のための緊急措置であった。これらの積極的諸対策が着実に実効をあげ、わが国経済は、再び急速な回復過程をたどることができた。 こうして、内政面でも大きな功績をあげた佐藤内閣でしたが、外交的成果にも歴史的な治績を残している。日韓国交正常化を皮切りに、40年には、ベトナム問題を中心にアジア問題が世界政治の注目をあびる中で、国連安保理事会の非常任理事国となり、また経済的な実力の高まりにつれて、わが国の国際的地位は急速に向上した。 こうした情勢変化を背景に、佐藤首相は、前後5回にわたる訪米、東南アジア諸国、太洋州各国の歴訪を重ねて、発展途上国への経済技術協力の拡充強化につとめつつ、45年には日米安保条約の自動継続を決めた。しかし佐藤内閣の外交上の不滅の功績は、何といっても戦後20年余にわたる国民の悲願であった沖縄・小笠原の祖国復帰を実現したことである。戦争で失われた領土を、平和な外交交渉によって回復するということは、世界の歴史にも例をみないことであるが、佐藤内閣はそれを立派になしとげた。 佐藤首相は、就任と同時にこれを最大の使命とし、首相としては初めて沖縄を訪問したとき、「沖縄の祖国復帰なしには戦後は終わらない」と内外に宣言し、その後ジョンソン、ニクソン両米大統領と膝突きあわせて交渉すること数回、43年の小笠原諸島の復帰に続き、ついに47年5月には沖縄の祖国復帰が実現された。これは、佐藤首相が7年8カ月という長期政権担当中、誠意と精魂を傾けて粘り強く交渉を重ねた成果であり、まさに、佐藤内閣時代を飾る不滅の業績として、長く歴史に刻まれる治績となっている。 このほか「自由を愛し、平和に徹する」を基本姿勢としていた佐藤首相は、45年10月、国連創設25周年記念総会に出席して、日本の首相として初の国連演説を行い、非核三原則をはじめ「平和国家」としてのわが国の基本理念を広く世界に訴え、多大の感銘を与えたことも特筆すべき出来事である。 一方、自由民主党の党勢の面からみると、35年の民社党結成、37年の公明党結成による本格的な「多党化時代」の到来で、退潮兆しも見せ始めている。すなわち、42年の統一地方選挙で、東京都知事選挙で惜敗したのをはじめ、都道府県会議員選挙の得票率でも、多党化の影響を受け、38年の50.7%から48.5%へと、低下を余儀なくされた。さらに翌43.7月の参議院議員選挙では、全国区21名、地方区51名の計72名という圧倒的多数の当選者を確保したものの、大都市部での得票率の退潮が明らかとなった。 このため自民党は、都市における政策の抜本的な改革をはかるため、「都市政策大綱」を決定して、画期的な都市改造再建政策を打ち出すとともに、組織活動の面でも、組織委員会の中に都市対策部を新設して、活発な組織活動の展開に乗り出すことになった。こうした意欲的な努力の結果、翌44.7月の東京都議会議員選挙では、改選前の35議席から一挙に54議席に増大し、圧倒的な第一党の地位に復元することに成功した。また同年12月の総選挙では、社会党が140議席から一挙に90議席に転落したのに対し、自民党は、303議席を占めて大勝し、自民党政治の基盤をますます安定させることに成功した。 かくして、池田内閣とともに「自民党全盛期」の政治を担当し、数々の偉業を達成した佐藤内閣であったが、最大の政治目標だった沖縄復帰の歴史的記念式典を終えた後、第68通常国会の閉会を待って、47.6.17日、佐藤首相は総理・総裁辞任の意思を表明し、7年8カ月という記録的な長期政権の座を去った。 |
【ポスト佐藤の後継争い】 |
【田中総裁時代】 |
(総評)日中国交回復。 |
佐藤長期安定政権のあとをついで、1972(昭和47).7.5日、田中角榮氏が歴代総裁中最も若い54歳で第6代総裁に選任され、田中新内閣がスタートした。その政治史的意味は、久方ぶりの党人派政治家の首相であることと、池田首相に続く吉田学校左派系の登場であったことにある。 田中首相は、「決断と実行の政治」を政治運営の基本スローガンに掲げた。それは前首相佐藤的官僚政治に対する明確なアンチの表明であり自負であった。国内政策的には、急激な高度成長によってもたらされた過密・過疎、公害、環境破壊等を克服して、日本全国をつり合いのとれた、豊かな国土にすることを目ざした「日本列島改造論」という大構想を国民に提示して、きわめて意欲的に田中政治の展開に取り組んでいくことになった。 その田中内閣が第一に着手した重要政治課題は、日中国交正常化問題であった。日中正常化は、サンフランシスコ平和条約、日ソ共同宣言、日韓国交正常化、沖縄祖国復帰などに続く最も困難で、しかも戦後最大の外交課題となっていた。佐藤内閣時代に1971(昭和46).10月の中国の国連加盟、台湾中華民国政府の国連離脱、1972(昭和47).2月のニクソン米大統領の訪中実現という新事態が生まれていたが、為す術を持たなかった。田中内閣は、戦後日本外交の歴史的大転換を目ざす画期的な大事業と捉え、打開へ向かった。 田中首相は、8月にハワイでニクソン米大統領と、翌9月にはヒース英首相と東京で会談して、それぞれ日中復交について意見を交換するなど事前調整の布石を着々と進め、9.25日、大平外相とともに北京を訪問して、毛沢東主席、周恩来首相と会談を重ねたすえ、同月29日、日中共同声明の調印にこぎつけ、満州事変いらい40年余にわたる日中間の不幸な関係に終止符を打った。田中政権のこの偉業は戦後史上の快挙の一つであろう。 しかし、その後2年5カ月にわたった田中内閣の時代は、内外ともに「激動の70年代」の大波をもろにかぶり、その政治経済運営は、まことに多事多難な試練の時代となった。まず内政面では、高度経済成長政策が生み出したインフレとの闘いが待った無しの局面に至っていた。46年以来のドル・ショック対策としての大幅金融緩和と、財政規模の積極的拡大は、輸出の予想以上の好調と景気の活況、大幅賃上げ等と相まって過剰流動性を生じ、これに将来の好況を見こしての仮需要も加わって、総需要を急増させていた。「日本列島改造論」の掛け声はこれを増幅する役目を果たした。 これらが引き金となって物価が急騰し、土地投機による地価の急上昇とあわせて、物価問題が最大の政治問題となってきた。このため48年、「買占め売惜しみ防止法」を制定する一方、公共事業の繰り延べ、数次にわたる公定歩合の引き上げ等による厳しい総需要抑制政策に転じた。一連の物価抑制策が、ようやく効を奏しようとした矢先の同年10月、突如として第四次中東戦争が突発し、石油危機に発展した。その結果、世界経済全体が大混乱に陥り、わが国でも、先行き不安による思惑買いの横行、生活物資の買占め、売惜しみ、狂乱物価といった経済混乱、社会不安が襲った。 田中内閣は果断に処し、同年12月、「石油需給適正化法」、「国民生活安定緊急措置法」の緊急立法を行い、石油需給の国家的規制と、重要生活物資の価格の法的規制に乗り出すとともに、引き続き徹底した緊縮政策を実施した。これらの諸措置は、自民党が基本政策とする自由経済体制に、臨時・緊急かつ必要最小限とはいえ、統制経済的な手法をとりいれたものであり、自由経済を原則としつつも、これに「社会的公正」の確保を優先させた点で歴史的な意義をもつものであった。 また、この間にあって、「福祉優先の政治」を貫いたことも、田中内閣時代の大きな特色である。すなわち、48年度に「福祉元年予算」を編成し、サラリーマン中心の大幅減税を行う一方、社会保障関係予算の28.3%という飛躍的増額による福祉年金の5割引き上げ、厚生年金の飛躍的増額、拠出制国民年金の5万円年金の実現を断行した。 次いで49年度予算でも、二兆円という大減税による国民負担の軽減とあわせて、社会保障関係予算を37.6%も伸ばして、福祉年金を前年に引き続き5割引き上げたほか、厚生年金等の物価スライド制の採用に踏みきるなど、年金制度の画期的前進を達成したのは、田中内閣時代の後世に残る治績となった。 しかし、その反面、「日本列島改造論」をシンボル的な政策として登場した田中内閣が、内外情勢の急変の結果とはいえ、公共事業の大幅縮減を余儀なくされている。「これは自ら提唱した大政策よりも、インフレに苦しむ国民生活の安定を優先させた田中首相の勇気ある決断として、高く評価すべきでしょう」とある。 それでも49年には、自然環境の保全と健康で文化的な生活環境の確保とともに、地価の安定をめざした「国土利用計画法」を制定し、また国土行政の総合中央官庁として「国土庁」を新設して、将来の発展への布石とした。 さらに、正しい教育の振興充実と、人格、能力ともにすぐれた人材を教員に確保すべきだという自由民主党の多年の宿願にこたえて、義務教育職員給与を一般公務員より25%引き上げることを内容とする「義務教育諸学校の教育職員の人材確保に関する特別措置法」をさだめたことも、画期的な文教政策であり、田中内閣の功績として見逃すことが出来ない。 次いで外交面でも、田中首相は、48年から49年1月にかけて米国、英国、フランス、西独など西欧三国、ソ連および東南アジア五カ国と、精力的に海外訪問を重ねて首脳外交を展開した。このうちとくにソ連訪問は、現職首相としては鳩山訪ソいらい17年ぶりのことで、ブレジネフ書記長と北方領土問題でねばり強い会談を行い、継続交渉の合意に達したのでした。このほか、同年4月には、日中航空協定に調印し、国交正常化以後の日中友好関係をさらに一歩前進させ、同11月には、日米修交百十年にして初めて、現職大統領としてのフォード米大統領の訪日を実現させて、日米親善強化に大きく貢献するなど、数々の歴史に残る外交的足跡を残した。 一方、自由民主党の党勢の面からみると、47年12月の総選挙では、最終的には284議席の絶対安定勢力は確保したのですが、社会党が90議席から118議席にまで復元しただけでなく、共産党にも14議席から38議席への躍進を許すなど、党の組織行動力と末端日常活動などの面で、いくたの反省材料を残した。しかし、翌48年7月の東京都議会選挙では、前回を上回る53議席を獲得して、「大都市での自民退潮」の予想をはね返し、次の躍進への基礎を固めた。 ところが、石油危機による狂乱物価、社会的混乱の最なかに行われた49年7月の参議院議員選挙では、改選議席数70に対して、当選は65議席にしか達せず、その結果、それまでの与野党議席差24名は7名に激減し、いわゆる「与野党伯仲時代」を迎えるに至った。 具体的な選挙結果の内容をみると、得票数では、投票率の高かったこともあって555万票増加し、また得票率でも44.4%を占め、前回より微増となったが、主として全国区での候補者の乱立など選挙作戦上の原因が響いて、この結果につながったものである。 いずれにせよ、この参議院選挙の結果が引き金となって、党内外から田中内閣や党執行部に対する批判が高まり、田中首相は同年11.26日、フォード米大統領来日の歴史的な国際行事の終了を待ち、自民党政治のより新しい展開を願って、潔く退陣の決意を表明した。 こうして田中首相は、内外情勢の激変等によって事志と違い、雄図なかばにして政権の座を余儀なくされることになったが、2年5カ月の田中内閣時代の意義は、日中国交正常化や福祉国家の基礎固めなど、わが国政治史に一頁を画するものがある。 |
(私論.私見)