自民党史3 国家的自立へ向けて

初代 鳩山 一郎(鳩山総裁時代 昭和31年 4月 5日〜昭和31年12月14日
第2代 石橋 湛山(石橋総裁時代 昭和31年12月14日〜昭和32年 3月21日
第3代 岸  信介(岸総裁時代 昭和32年 3月21日〜昭和35年 7月14日


【鳩山総裁時代後期】
(総評)日ソ国交回復。
 1955(昭和30)11.22日、第三次鳩山内閣が成立した。官房長官・根本竜太郎、副長官・松本滝蔵、田中栄一、幹事長岸(岸派)、総務会長石井光次郎(石井派)、政調会長水田三喜男(大野派)の布陣で、主要閣僚は留任した。科学技術庁長官に正力松太郎らが新たに加わった。この時日ソ国交回復が為されることになる。

 民主・自由両党の合同による新党結成から約4カ月間、自民党は、総裁代行委員制のもとで地方の党組織の確立に全力をあげ、都道府県支部連合会の結成を完了したので、1956(昭和31).4.5日、第二回臨時党大会を開いて、国会議員に地方代議員を加えた総裁選挙を行い、初代総裁に鳩山一郎氏を選出した。

 これを契機として、大衆政治家としての鳩山新総裁と、自民党に対する国民の期待の高まりがまさに爆発的なものになった。同年7月の参議院選挙では、このような国民的人気を背景に、鳩山首相は、不自由な身体をおして全国遊説し、「友愛精神」の政治理念と、日ソ国交回復、独立体制の整備、経済自立の達成などの政策目標を訴えて、いわゆる”鳩山ブーム”を巻き起こした。その結果、自民党は、非公認当選者を加えて全国区、地方区合計で64議席を獲得、社会党を圧倒した。

 また政策面でも、鳩山内閣は、独立体制整備と経済自立の達成をめざして、「憲法調査会法」、「国防会議構成法」、「新教育委員会法」、「日本道路公団法」、「科学技術庁設置法」、「首都圏整備法」、「新市町村建設促進法」等の立法化を行い、内政面でのめざましい充実をはかったほか、外交的にも、フィリピンとの賠償協定を締結して戦後処理をさらに一歩前進させた。


 鳩山内閣時代の不滅の業績は、戦後の長い外交懸案だった日ソ国交の正常化である。鳩山首相の指示を受けて日ソ国交回復交渉が進められていった。1956(昭和31)4月下旬、外相・河野一郎が24名の全権団を率いて対ソ連交渉に出かけた(「河野全権団の対ソ外交」)。交渉の相手はイシコフ漁業相が団長、副団長はモイセーエフ、ソルダテンコ。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。党第一書記フルシチョフもいたと伝えられている。

 この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。5.9日、日ソ漁業協定妥結、調印は5.15日。日ソ復交への道が開かれた。5.26日、河野一行は帰国した。

 この日ソ国交回復交渉を廻って党内が割れた。自民党内の主流派(鳩山.石橋.河野派)は日ソ国交促進論、岸派と石井派は慎重論、反主流派は二つに分かれていて、旧改進党系(松村.三木武夫.北村徳太郎)は即時復交論、吉田系池田派は絶対反対論を唱えていた。

 日ソ交渉は、5月の河野農相のモスクワ入りで本格化し、8月には重光外相を主席とする全権団を派遣していたが、領土問題で行き詰まっていた。この経過を踏まえて、鳩山は、領土問題を棚上げして、平和条約でなく戦争終結宣言で日ソ間の国交回復を期するという「鳩山方式」の意向を固めていった。

 この問題解決を政権担当いらいの悲願としてきた鳩山首相はこの当時病躯に襲われていたが、10.7日、鳩山全権団(鳩山夫妻、河野農相、松本滝蔵官房副長官ら)が羽田を出発、鳩山は空港で「至誠天に通ず」と述べている。これが鳩山の引退花道となった。10.12日、モスクワ空港でブルガーリン首相らに出迎えられた。この時のフルシチョフの宴会発言が鳩山によって次のように明かされている。

 「日露戦争では我々が日本に負けた。しかし、あの時は革命前の腐りきった軍隊だから負けるのが当たり前だった。ところが今度はどうだ。ノモンハンでも張鼓峰でも、君達の兵隊は、そこに座っているジューコフの軍隊に全滅にされたではないか」。

 つまり、ソ連側は、戦争で勝ったのだから千島を取るのは当たり前だ、それが証拠に日露戦争では、戦勝国の日本が領土を取ったではないか。領土問題は、直前の戦争の帰結に従うのが歴史の通則であるとして、戦争に負けた方が返せというのは虫がよすぎようとなじっていることになると述べていることになる。

 10.13日から交渉が開始されたが、ソ連側はブルガ−リン首相、ミコヤン副首相以下最高の顔ぶれが登場し、並々ならぬ待遇を見せている。実際の交渉はフルシチョフ党第一書記がしきった。日ソ交渉は、南千島の領土権をめぐって難航を続けることになった。

 10.19日、クレムリン宮殿でブルガーニン首相との間に「日ソ国交回復に関する日ソ共同宣言」、「貿易発展、最恵国待遇相互供与議定書」の調印をみるに至る。領土問題は、概要「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する。但し、現実には日ソ間の平和条約締結後に歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すものとする」と明記された。

 これはまさに、吉田内閣時代における平和条約と日米安保条約の締結に並ぶ、戦後日本外交史上の二大イベントの一つであり、身命を賭してこの歴史的偉業を達成した鳩山首相の功績は、戦後の日本政治史に不朽の事績として刻みこまれている。また同年12月、わが国の国連加盟が実現したことも、鳩山時代を飾る輝かしい外交的成果となった。

 政治生命を賭けた「保守合同」と、「日ソ国交回復」の二大宿願を果たした鳩山首相は、心中深く期するところがあり、日ソ交渉を終えて帰国後ただちに、総理・総裁引退の声明を発表した。そして同年12月の第25五回臨時国会で、日ソ共同宣言など4議案が承認され、批准書を交換して正式に国交が回復されるのを待って、たんたんとして政権の座を去った。 


【ポスト鳩山の後継争い】
 12.20日、第三次鳩山内閣退陣。「明鏡止水」の弁を残しての引退となった。しかし、後継争いは激化し、鳩山退陣後の政局で、自民党内は岸信介と石橋湛山と石井光次郎の三者が争う。岸を擁立したのは、岸派、佐藤派、河野派、大麻派。川島正次郎を筆頭に、赤城宗徳、椎名悦三郎、南条徳男、福田赳夫らが参謀となった。石橋を擁立したのは、改進系革新派の石橋派、三木派、石田博英が指揮をとった。石井を擁立したのは、旧緒方派、石井派、池田派。

 事情は複雑であった。岸は反吉田運動を展開していたが、岸は佐藤の実兄であったこともあって佐藤派は岸を支持した。石井は「反吉田」運動の急先鋒に立っていたが、旧緒方派と池田派は石井を支持した。ここに吉田学校の日本柱の池田と佐藤がはじめて対立する動きを見せたことになる。この政争過程で吉田派は池田派と佐藤派に分裂した。
 

 
12.14日、鳩山内閣退陣の後を受けて自民党総裁選が戦われた。第一回公選結果は、岸223票、石橋151票、石井137票、いずれも過半数とならず決選投票に持ち込まれた。誰もが岸総裁実現と思いきや、石井グループが石橋支持に回り石橋258票、岸251票となり、石橋が7票差という歴史的僅差で岸を破った。こうして石橋湛山氏が第二代自民党総裁に選出された。

【石橋総裁時代】
(総評)短命となりこれという業績は無いが引き際の潔さで範を示した。

 12.20日、第26回通常国会が召集され、午後4時から両院で首班指名選挙が行われ、石橋湛山候補が第55代内閣総理大臣に指名された。政治史的意味は、やはり党人派であったことにある。石橋新総裁としては、(1)・派閥にとらわれぬ適材選別主義をとり、党内融合をはかる、(2)・積極経済政策を推進するため、経済閣僚の人選を重視する、(3)・幹事長、官房長官は意中の人物をあてる、という人事方針に立ったが、総裁公選のしこりで組閣や党人事が極めて難航した。

 結局、首班指名三日後の12.23非午前、石橋首相一人のみについて親任式が行われ、他の閣僚は、石橋首相の臨時代理または事務取扱というかたちの極めて異例なものとなった。その日の午後、ようやく組閣は終わり、夜になって閣僚の認証式が行われた。しかし、参議院自由民主党からの要望によって閣僚三名を割り振ることは決まったものの、参議院側が防衛庁長官に野村吉三郎元海軍大将を推してきたため、憲法の「文民」条項とのからみから参議院の入閣者が確定できず、石橋内閣は、二、三のポストを首相兼任のかたちで発足した。専任の小滝彬防衛庁長官が決まったのは、翌年2月に入ってからという異例となった。

 12.24日、内閣が組閣された(56.12.23〜翌年2.23日総辞職)。官房長官・石田博英(42歳)、幹事長・三木武夫(49歳、三木派)、総務会長に砂田民政(河野派)、政調会長塚田十一郎(石井派)の布陣で、大臣としては外相・岸、蔵相・池田(58歳)らが登用されていた。この時の記者会見で池田は「私はウソを申しません」と述べている。岸外相は、外務省畑出身以外の『素人大臣』外相任命であり、岸が最初の慣例破りとなった。

 石橋首相は、首相個人の経歴と庶民的な人柄から「平民宰相」と呼ばれ、「一千億減税・一千億施策」を柱とする積極経済政策と、政官界の綱紀粛正、福祉国家の建設、雇用の増大と生産増加、国会運営の正常化、世界平和の確立など「五つの誓い」を発表して、大衆的人気を集めて内閣支持率は高率に達した。

 ところが、翌1957(昭和32)年、新春早々からの全国遊説と、予算編成の激務が原因となって病に倒れ、同年2.22日、「私の政治的良心に従う」との辞任の書簡を発表して、政権担当いらいわずか9週間で、石橋内閣は総辞職のやむなきにいたった。しかし、このときの石橋首相の責任感にあふれた潔い態度は、ひとり政治家のみならず、一般国民にも深い感銘を与えた。

 65日間の石橋内閣 その実績としては、わずかに前半、全国遊説の先々で国民に訴えた抱負と、首相臨時代理の岸外相によって代読された施政方針演説が残されただけであるが、石橋首相はその潔い出処進退によって政治家のモラルのあり方を示し、これには野党も敬意を表し、世の中も石橋首相のために同情と賛辞を惜しまなかった。

【ポスト岸の後継争い】
 首相就任からわずか1ヶ月あまりの1957.1.25日石橋首相が老人性急性肺炎で倒れたことにより内閣が瓦解することとなった。1.31日、後継として岸外相を首相臨時代理に指名。2.4日、岸は、施政方針演説を代行した。2.22日、退陣表明。2.23日、石橋内閣総辞職。

【岸総裁時代】
(総評)
 2.25日の衆参両院本会議で岸が首相に任命された。こうして岸内閣が組閣された。三役、閣僚はそのまま引き継がれた。 

 その政治史的意味は、A級戦犯容疑者であった岸が首班となったことと戦前の官僚派政治家であったことにある。A級戦犯容疑者としての「巣鴨組」の政界進出者には重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。「戦時のことは十分反省して、今日では民主政治家として充分国民のために働く覚悟である」と声明している。

 この頃アメリカからは「防衛力の強化」が要望されていた。岸は、「対等の日米関係の構築」を目指すことになった。しかし、こうした意向を受けた岸の努力は、敗戦醒めやらぬ国民の反軍事感情と齟齬していくことになった。岸内閣は、日本の自主性や平等化等民族独立的要求を掲げる一方でサ体制の再編強化の道を推進した。

 この岸の功罪を巡って賛否がある。安保の改定は、それ自身は旧安保に対する改善であった。よく池田と比較してこうも言われる。池田を好む者は、彼のソツのあることを誉め、岸を嫌うものは彼のソツの無さを嫌う。「あばたもえくぼ」か「坊主にくけりゃ袈裟まで」か。

 岸内閣は3年4カ月続くことになる。岸内閣の功績として二つの側面から評価される。一つは見落とされがちであるが、この時代に自民党の政治的基盤が中央、地方を通じてがっちりと、日本の政治の中に定着していったことである。もう一つは、独立後の戦後日本の建設方向を明確に指針させ、新しい内外政治の本格的な推進に取り組んだことである。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。「このような自由民主政治の基礎固めと、内外政治の面で果たした新しい前進は、このあとに続く自由民主党政治の『栄光の時代』への礎石を築いたものとして、高く評価されるものだった」。

 首相就任直後の3月、第4回党大会で第3代総裁に選任されたとき、岸新総裁は、次のように就任の抱負を述べた。
 「自由民主党の伸びが、たんに議席の増加としてではなく、また選ぶものと選ばれるものの間が、因縁のきずなによって結ばれるものでもなく、選ぶもの一人ひとりに、自由民主党を支持する理由がはっきりするようになること、また農民、勤労者、婦人、青年の方々に、真に信頼を託しうる近代的な政党として理解されるよう、党風の刷新と組織の拡充が行なわれなければならない」。

 このような党近代化と、幅広い国民的な組織政党をめざそうという岸総裁の意欲的な指導のもとに、自民党は、同年9月から10月にかけて、党役員・閣僚を総動員して全国遊説を行い、自民党の政治理念と政策を国民に訴えるとともに、党勢拡張のため「五百万党員」の獲得運動を全国的に展開した。やがてこうした積極的な努力が実を結び、中央、地方を通じて、各種選挙での圧倒的な勝利をもたらし、自民党の政治的基盤が確固不動のものとして安定するに至った。

 岸内閣は、このような政治的安定に自信を得て、進歩的国民政党の自覚のもとに、内外政策の力強い推進に乗り出していった。この間の最大の政治的な業績は日米安全保障条約の全面改定達成であった。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。
 「岸内閣は、左翼勢力の激しい集団暴力にも屈せず、従来の不平等な日米安保条約の改定に全精力をつぎこみましたが、この日米新安保条約こそは、その後の激動するアジア情勢の中でのわが国の安全確保と、世界の平和維持に貢献したばかりでなく、世界の驚異といわれる経済的繁栄の達成を可能にした大きな要因となったもので、その意味で岸内閣の果たした役割は、まさに歴史的な功績だったといえるでしょう」。

 5月、岸首相が東南アジア歴訪。6.3日台湾の台北で蒋介石国民政府総統と会談。この時、岸は次のように述べている。
 「日本の外交は、容共的、中立的な立場は取らない。中国大陸が、現在、共産主義に支配されていて、中華民国にとって、困難な状況にあることは、同情にたえない。大陸の自由回復には、日本は同感である。ある意味では、共産主義が日本に浸透するには、ソ連よりも、中国からの方が恐ろしい。国府が大陸を回復するとすれば、私としては、非常に結構だと思う」。

 6.19日、岸首相、「安保条約の再検討」の構想を抱いて渡米、アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官と会談。「安保条約はどうしても対等な関係における相互援助条約の格好にもっていかなくてはならない」が岸首相の信念であったと伝えられている。6.21日、日米共同声明を発して帰国、同時に内閣改造して岸体制を確立し、「日米新時代」と称せられる第一歩を踏み出した。先に51年講和会議によって設定された日米間の基本コースの上に、日本が新たな政治的外交的地位を要求することを推進することとなった。

 「日米新時代」は格別に考察を要する。ここまで占領体制からの脱却と国家的独立を一応達成した戦後日本が、この時期より戦後帝国主義的自立へ向けて再出発させようとしていることを意味していた。その方向は、米国の世界戦略の中に組み込まれることを自ら欲し、なお且つ日本独占資本の独自権益を模索し始めるという二重構造を特質としていた。社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように纏めている。

 「56年の経済白書は『もはや戦後ではない』という有名な文言を記したが、実際、翌57年度の工業生産額は戦前(34〜36年度平均)の2.7倍に達し、後年の経済白書の推計によれば1950〜57年間の平均経済成長率は年率10%を超えていた。この年の2月に成立した岸内閣は『日米新時代』を掲げ、6月訪米を機に『日米安保条約の再検討』に乗り出したが、それはこうした急速な経済拡大によって帝国主義的な復活・自立に向けての経済的基盤を整え、自信を取り戻した日本独占資本の政治的欲求を反映したものであった」。
 「旧安保条約もまた基本的にはブルジョア国家間の同盟関係を規定したものであった。しかし、51年のサンフランシスコ講和会議で独立を達成したとはいえ、占領下から脱したばかりであらゆる面で弱体な日本ブルジョアジーの地位を反映して、講和条約と同時に締結された旧安保条約は、米軍が一方的に日本を防衛する義務を負う代わりに、日本は国内の基地の自由使用権を米軍に与えるという『片務的』な性格のものであった。

 当時、日本独占資本は自らの国家の防衛と階級支配の維持を米国の軍事力に依存せざるを得ない状況にあった。また、そうすることで彼らは巨大な軍事支出をまかなう必要からまぬがれ、ひたすら資本蓄積と経済的発展に力を注ぐことができた。他方、米ソ冷戦が激化する中で、アメリカ帝国主義にとって、工業国家・日本をアジアの軍事・兵たん両面の前線基地として確保することは死活問題であった。つまり、日米安保条約には日米双方の独占資本とその国家の利害が貫かれていたのである。

 とはいえ、『主権』の一部の譲渡を伴う旧安保条約は“一人前”の国家をめざす日本ブルジョアジーにとっては“屈辱的”であり、この喉に刺さった小骨を取り除き「独立の完成」(岸)を図ることは彼らの悲願であった。かくして50年代の経済的発展と政治支配の確立を背景に、岸内閣の誕生とともに、安保条約を独立した国家間のより対等な条約、つまり「双務的」なものに改定することがブルジョアジーの『第一の政治課題』として浮上してきたのである」。


 引用元を失念したが次のような概括もある。

 「日本の上からの独立達成に基づく軍事的政治的地位の引き上げを実現しつつ、その帝国主義的独自性を極東におけるアメリカの原子戦略体制の構想への積極的協力の線上に置いて確保すること、これが岸体制の任務であった」。

 1956.7.10日、岸内閣の第一次改造が為された(1958.6.12日まで続く)。官房長官・(石田博英経由)愛知揆一、幹事長川島正次郎(岸派)、総務会長砂田民政(河野派)、政調会長三木武夫(三木派)、副総裁大野伴睦の布陣で、大臣としては外務・藤山愛一郎、通産・前尾繁三郎、郵政・田中角栄、労働・石田博英、国家公安委員長・科学技術庁長官・原子力委員長・正力松太郎らが登用された。

 岸首相は、内閣改造で、藤山愛一郎氏を民間から引き抜いて外相に据えた。講和後の形式的独立を実質的なものとなすべく、日米安全保障条約の見直しに着手し、自主防衛的な「国防の基本方針」を打ち出した。当時外務省の意向は、新条約にすれば膨大な行政協定を作り変えなければならず、国会審議も大変だという判断から、来る改定時は「修正」でいく案を持っていた。岸はこれを良しとせず、新安保を指針させた。


 1957.12月、佐藤栄作(佐藤派)が総務会長に登用されている。 

 1958(昭和33).5月、二大政党下初の総選挙で、自民党は、298議席(選挙後の入党11名、繰り上げ当選3名を含む)を確保し、社会党の167議席を大きく引き離し、絶対多数の体制を固めた。次いで翌1969(昭和34)4月の統一地方選挙では、福岡、茨城の両県を除く各都道府県知事選挙で社会党をおさえたほか、都道府県会議員は定員2654名のうち1748名、市町村会議員にいたっては、保守系無所属議員を加えると、実に全議席の85%を超えるう躍進を記録している。同年6月の参議院議員選挙でも、社会党が、前回に比べ全国区、地方区あわせて11議席も激減したのに対し、自民党は逆に10議席を増やし、非改選議席とあわせて132議席となり、安定過半数を確保した。 岸内閣時代の政治的業績としてとくに見逃せないのは、次の諸施策である。まず内政面では、

(1) 老齢者、母子世帯、身体障害者に対する「国民年金法」を制定したのをはじめ、国民健康保険法の全面改正を行い、国民の一人びとりが残らず健康保険をうけられるようにする「国民皆保険」(実施は三十六年)への道を開き、また「最低賃金法」の制定を行うなど、福祉国家の建設に向って大きく前進したこと
(2) 実質六・五%の経済成長と五百万人の雇用増加、四割の生活水準の向上などを内容とする「新長期経済計画」を策定し、以後約四半世紀におよぶ高度経済成長時代への端緒をきりひらいたこと
(3) 「道路整備五カ年計画」をつくり、一兆円の資金を投入して幹線道路の完全舗装、地方道の整備などに力を入れ、今日、全国各地でみられるようなりっぱな道路網づくりの糸口をつくったこと
(4) すし詰め教室の解消や、老朽危険校舎の改築のため、「学校施設の国庫負担制度」を確立して、現在みるような鉄筋コンクリートづくりの近代的校舎をつくる道をひらいたこと

 などが、とくにめざましい成果であった。

 また外交面では、
(1) 鳩山内閣時代の国連加盟のあとをうけて、「国連中心の平和外交の展開」「自由主義陣営諸国との協調」「東南アジア諸国との親善協力関係の強化」という三原則を確立し、その後の日本外交の基調を固めたこと
(2) 岸首相の二度にわたる東南アジア、米国訪問をはじめ、欧州、中南米諸国歴訪など積極的な外遊によって、これら諸国との親善友好関係を強め、戦中、戦後の外交的空白を埋めて、わが国の国際信用を高めるのに貢献したこと
(3) その他、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなど東欧諸国と相次いで国交を樹立したのをはじめ、カンボジア、ラオスへの経済援助、インドネシアとの平和条約、賠償協定、ベトナムとの賠償協定の調印など、戦後処理に着実な成果をあげたこと

 などの功績を見逃すことはできない。国連加盟後、なお日の浅いわが国が、1957(昭和32).10月には国連安全保障理事会の非常任理事国、1959(昭和34).10月には同経済社会理事国に選ばれたのも、そうした外交努力の一つの成果であった。

 1958.6.12日、第二次岸内閣が成立(〜1959年6月18日)。官房長官・赤城宗徳、幹事長川島正次郎(岸派)、総務会長河野一郎(河野派)、政調会長福田赳夫(岸派)、副総裁大野伴睦の布陣で、法務・愛知揆一、 外務・藤山愛一郎、大蔵・佐藤栄作、経済企画庁長官・三木武夫、無任所・池田勇人らが登用された。

 1959.1.24日、自民党総裁選挙。岸首相は、反主流の推す松村謙三を破って再選された。岸320票、松村166票。この時松村は「金権政治の打破」をスローガンにして闘った。自民党の総裁選挙で金権打破が打ち出されたのは、これが最初であった。反主流派が要求していた人事刷新については、川島幹事長と河野総務会長が身を引くことになり、幹事長に岸派の福田赳夫、総務会長に池田派の益谷秀次、政調会長に河野派の中村梅吉が就任した。

 この当時の自民党内派閥地図は、主流派が岸(衆議員63名)、佐藤(39)、大野(41)、河野(33)の四派で、反主流派は池田(47)、石井(26)、三木・松村(30)、石橋(14)の四派であった。つまり八派に分かれていた。大野・河野両派がキャスチング・ボートを握っていたことになる。

 1959.2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「しかし、岸内閣時代の後半は、教職員の勤務評定問題、警察官職務執行法の改正問題等をめぐって、社会党、総評、共産党などこれに反対する左翼勢力と鋭く対立し、やがて日米安全保障条約の改定問題にいたって、自由民主陣営と左翼陣営との対決は頂点に達したのです。このように政局が、二つの勢力にわかれて激突し、はげしく相争った原因としては、まず第一に、当時の冷戦時代を背景に、東西両陣営の国際的対立がそのまま国内政治に反映したこと、第二には、「独立体制確立」の立場から、行き過ぎた占領行政のより現実的で、国情に即した是正に積極的に取り組もうとした岸内閣の施政に対して、観念的なイデオロギーや、社会主義政党としての立場に固執する社会党など左翼勢力が、教条的な対決行動に出たことなどが指摘できるでしょう」。

 6.16日、第二次岸内閣改造。官房長官・椎名悦三郎、幹事長・川島正次郎(岸派)、総務会長・石井光次郎(石井派)、政調会長・船田中(大野派)の布陣で、大臣として外相・藤山愛一郎(留任)、蔵相・佐藤栄作(留任)、通産相・池田隼人、農相・福田赳夫、科学技術庁長官・原子力委員長・中曽根康弘、防衛庁長官・赤城宗徳らを登用している。この人事の特徴は、これまで主流派だった大野、河野派が反主流へ、反主流だった池田、石井派が主流派へと、党内の配置が全く逆転したことにあった。


【岸総裁時代】
(総評)

 59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。そういう面もあったが、新安保条約が、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背するものでもあった。この時岸首相は、ここのところの論議を避けて強権的に日米安保条約の改定に向かおうとしていた。これが反発を余計に生んでいくことになった。

 藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。仮に無事調印されたとなると、内閣の責任によって外国政府との間で締結した条約案はその時点で有効である。国会には「修正権はない」とするのが通説であり、承認するか、しないかの二者択一しか権能は無い。さて、どうするかということが課題となって急速に浮上した。

 1.19日、日米新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為のものと宣伝した。新条約は有効期限を10年間と定め、日本の自立を認めた上で「アメリカ陣営内における集団的自衛」をうたっていた。さらに、旧条約が内乱や騒擾鎮圧に関して米軍の出動を規定していたのを改めていた。独立国家の面子に関わる規定であったので削除した。しかし、調印された新安保条約は、米軍の日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという面も持っており、この部分が岸の高圧的な政治姿勢と重なって国民に不安を与えることになった。

 この条約を客観的に見た場合、51.9月の吉田首相の調印した条約の是正に功があり、より相互性を持たせたものであった。米側の日本防衛義務と日本側の呼応義務を明記していた。しかし、このことが「日本が戦争に介入ないし巻き込まれる危険性が増大」したと判断された。かくてこれ以降、左派運動は調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことになった。批准阻止の国民会議が結成された。

 2.2日に「安保国会」が幕をあけた。2.5日、新安保条約が国会に上程され、2.11日、衆議院に日米安保特別委員会が設置され審議が始まった。討議は条約の基本的性格、相互防衛義務、事前協議、条約区域、極東の範囲、沖縄問題等々、広汎に進められた。野党側が鋭く政府を追及し、特に事前協議において、日本が戦争に巻き込まれるのを防ぐことができるのか、日本側に拒否権が認められるのかという問題が論議の中心となった。しかし論議は平行線で噛み合わなかった。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。

 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。11時7分頃、清瀬議長の要請で座り込みをしている社会党議員団のゴボウ抜きが強行された。

 
会期延長に続いて、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。「安保はゆっくり、会期延長さう決まれば、それでいい」というのが事前情報であり、この時の強行採決は抜き打ちであった。岸内閣からすれば、6.19日にアイクの訪日が決まっており、諸般の情勢から止むにやまれない措置でもあった。


 
このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「だが、それにしても許せないのは、これら一連の問題を通じて、社会党、共産党などの左翼政党が、院内での議事引き延ばし、審議拒否、座り込みなどの実力行使はいうにおよばず、総評、全学連などが院外での大規模な集団デモ、違法スト、はては国会乱入など手段を選ばぬ集団的暴力行動によって、国政を左右しようとする反議会主義的、暴力主義的な動きに出たことです。

 その結果、とくに35.5月の衆議院本会議での、新安保条約その他の関係案件の審議に当たっては、警官隊の国会内導入という異例の非常手段を講じて、これら勢力の暴力を排除しなければなりませんでした。そればかりでなく、翌6月には、アイゼンハワー米大統領の来日準備のため、羽田空港に着いたハガチー大統領新聞係秘書に対して、デモ隊が乱暴を働き、ついに同大統領の来日が不可能になるという国際的不祥事件までひき起こしたのです。さらに、全学連を中心とする暴力デモ隊が国会構内に乱入した際には、女子学生一名が死亡、デモ隊、警官隊の双方に数百人にのぼる負傷者を出す流血の惨事まで引き起こし、わが国議会史上に大きな汚点を残したのです」。

 6.18―19日、新安保条約は自然成立、発効した。大騒動となった「60年安保騒動」も以降潮がひくように沈静化した。このことを自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「この間、約半年余にわたり社会党、総評、共産党など左翼陣営の集団的暴力行為に屈することなく、毅然として、安保改定の所信を貫いた岸内閣および自由民主党の決断は、長く歴史に残る功績だったといわねばなりません」。

 6.23日、新安保条約の批准書交換、岸首相が退陣の意思を表明。芝白金の外相公邸で、藤山・マッカーサーの間で批准書が交換されたのを見届けた後、岸首相は次のように辞意表明した。

 「ここに私はこの歴史的意義ある新条約の発効に際し、人心を一新し、国内外の大勢に適応する新政策を強力に推進するため、政局転換の要あることを痛感し、総理大臣を辞するの決意をしました」。




(私論.私見)