自民党史2 自由民主党結党の流れ


【鳩山内閣時代前期】
(総評)保守合同

 11.30日、第20回臨時国会が開幕。12.6日、岸・民主党幹事長、和田博雄・左派社会党書記長、浅沼稲次郎・右派社会党委員長が協議し、翌12.7日、内閣不信任案上程を確認した。12.7日、最後まで解散を主張し大悶着となったが遂に吉田内閣総辞職。自由党は吉田に代わって跡目相続していた緒方竹虎の手に委ねられた。退陣前、吉田は次のような鳩山観を披瀝したことが伝えられている。

 概要「私が辞任するときはだ、私の政策を継承できる人間が、後継者でなくてはならん。鳩山には政権は渡さん。あの病人に何ができる。思想も政策も私と逆だ。憲法改正、再軍費゛‐‐‐危険だ。あれが天下を取るようなら、私は断じて辞めない」。 

 このあとをうけて、日本民主党総裁の鳩山一郎氏が、1954(昭和29)年12.10日、首相に指名されて、第一次鳩山内閣が成立した。鳩山にとっては組閣寸前での公職追放以来雌伏9年でようやく回ってきた首相の座となった。鳩山首相の政治史的意味は、官僚派吉田の潮流に対抗する党人派の巻き返しであったことにある。

 官房長官・根本竜太郎、幹事長・岸、総務会長・三木武吉の布陣で、大臣としては農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、運輸相・三木武夫らを登用していた。吉田時代と顔ぶれが一新しており官僚出身は4名、党人派による「寄り合い世帯」になったことから「寄り合い内閣」とも云われた。

 鳩山は、政策スローガンとして「明朗にして清潔な政治」を掲げた。それまでの吉田式官僚政治に対するアンチであった。鳩山は党人派政治家であったことから、全国に鳩山ブームが起きた。この内閣の政策には、復活しつつあった日本独占資本の要求がこれまで以上に強く反映した。1・自衛のための憲法改正、2・ソ連との国交回復による日ソ国交正常化と国連加盟を二大政策目標に掲げた。その他、3・小選挙区制、4・住宅問題の解決、5・中小企業対策の充実、6・失業対策の強化、7・税制改革、8・輸出の振興等を重点政策に掲げていた。

 「自衛のための憲法改正」は、拡張解釈で再軍備を進めていった吉田政治の手法に対する反旗として文言改正を企図した。この時の鳩山の弁は次の通り。

 「憲法を素直に読めば、吉田君のやってきた警察予備隊から保安隊へというやり方は『白馬は馬にあらず』と強弁するようなものだ。明らかに憲法に違反し、再軍備を進めながら、これは軍隊ではないと言う。私は、吉田君のようなウソは嫌いだ」、「憲法を守れない以上は、守れるように憲法を改正すべきだ。国民をだまし、だましながら再軍備を進める。そういうやり方は、議会政治の将来に禍根を残す」。

 この時期米軍基地の拡張、6カ年計画による自衛隊の大増強が進んだ。

 外交について、前首相の吉田のそれを「向米一辺倒」の「秘密独善外交」と揶揄していた鳩山は、「自主的な国民外交」を対置しソ連との交渉の機を窺うことになった。鳩山は、首相就任後の初の記者会見で、「恐れているのは米ソ戦争だ。米ソ戦を防ぐには中ソとの関係を断交状態に置くことは逆効果で、相互の貿易、交通を盛んにすれば自ずから平和への道が開ける」と語っていた。組閣後、農相河野と総務会長三木を招き、「僕の政治家としての使命は、日ソ交渉と憲法改正にある。他の問題は何でも両君の云うと通りついていってもいいが、二つの問題だけは、僕の意見について来て貰いたい」と並々ならぬ決意を語っている(河野「今だから話そう」)。

 鳩山内閣は、翌1955(昭和30)・1月の総選挙に臨み、開票の結果、日本民主党185、自由党112、日本社会党左派89、同右派67、その他14議席という勢力分野となる。

 
1955(昭和30)3.18日、衆議院で首班指名投票が行われ、鳩山254票、鈴木茂三郎160票で、予定通り鳩山が選出され、第二次鳩山内閣が組閣された。官房長官・根本竜太郎、副長官・松本滝蔵、田中栄一の布陣で、大臣として農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、運輸相・三木武夫ら主要閣僚を引き続き登用していた。


 吉田ワンマン体制から鳩山内閣への移行期は、保守合同への動きを準備していた。この動きは1953(昭和28)年ごろから活発化していたが、1954(昭和29)・11月の改進党と日本自由党の合同による日本民主党の結成を経て、日本民主党と日本自由党の恩讐を越えた調整が始まる。この頃、緒方竹虎が吉田の跡目を継いでいたが、鳩山民主党の総務会長・三木武吉が自由党と民主党の合同を執拗に策す。

 1955(昭和30)4.13日、民主党総務会長の三木武吉氏が、大阪での記者会見の席上、保守合同の必要性を次のようにぶちあげた。
 「今や保守勢力結集による政局安定はダ、民主・自由両党ともごく一部の感情論を除けば皆強く望んでいる。185名の少数党の民主党で政策推進を行うということ自体がダ、根本的に無理である。民主党はダな、自由党に対し、引き抜きや切り崩しなどの工作をせず、近く表玄関から呼びかけるつもりだ。保守結集の形は、合同でも提携でも構わないが、その時機は今や熟しておると言ってもいい」。

 民主党結成後まだ半年も経っておらず、第二次鳩山内閣発足から僅かに1ヶ月のこの時「保守結集の為なら、鳩山内閣は総辞職しても良い。民主党も解党しても良い」と言い切り、まさしく爆弾発言となった。「大目的の為には、昨日の敵は今日の友、自由党総裁緒方はもとより、吉田といえどもだ、今度は手を握る努力をせねばならん。保守の総結集は、わしの最後の政治目的だ」が、本意であった。三木提案と呼ばれる。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。

 この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。三木武吉は自由党の窓口に、やはり総務会長であった大野伴睦に白羽の矢を立て、交渉を続けた。二人はそれまで犬猿の中で、三木は大野を「雲助」と呼び、大野は三木を「タヌキ」と罵詈し合っていた。

 1955(昭和30)5.15日、民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している(民主・自由両党幹部会談)。この二人は30年来の政敵であったが、「救国の大業を成就させたい、保守合同が天下の急務」との思いで極秘会談した。この時三木は、「今や政敵の関係を離れて国家の現状に心を砕くべき時期だ。日本は放っておいたら赤化の危機にさらされること、自明の理だ。天地神明に誓って私利私欲を去り、この大業を成就させる決心だ」。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」との名文句の生みの親大野はこれに応えた。「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい」と歌になったシーンである。都合60数回に及ぶ極秘会談が重ねられたと伝えられている。

 5.27日、民主党の岸幹事長、三木総務会長、自由党の石井幹事長、大野総務会長の四者会談が開かれ、その流れで6.4日、鳩山・緒方両党総裁会談が実現した。会談後、「両党総裁は、保守勢力を結集し、政局を安定することに、意見の一致をみた。これが実現には、両党の党機関をして当たらせる」声明を発表した。鳩山民主・緒方自由両党総裁の党首会談から、本格的な自由民主勢力の合同への動きが始まったことを思えば、鳩山・緒方両党総裁会談は歴史的な会談となった。

 これをきっかけとして事態は急進展し、6月末難交渉を経て、両党より10名ずつの政策委員が選ばれ、政策協定づくりに向かうことになった。この時の委員は、民主党側から福田赳夫、中村梅吉、井出一太郎、早川崇、堀木謙三。自由党から水田三喜男、船田中、塚田十一郎、灘尾弘吉らの面々であった。自民党史の「保守合同前史」は次のように記述している。
 「民主・自由両党から選出された政策委員会で、新党の『使命』、『「性格』、『政綱』づくりの作業が進められる一方、新党組織委員会では、新党の基盤になる党組織の構造の研究が行われ、その成果にもとづいて広く国民に根をおろした近代的国民政党としての『組織要綱』、党の民主的運営を規定する『党規・党則』、『宣伝広報のやり方』等の立案作業が行われました。

 9.22日「保守合同のためには、自由、民主両党議員全員で、新党結成準備会を結成する」と、民主党が党議決定を可決、9.25日自由党もこれを可決した。やがて、これら新党の根幹となるべき『政策』、『組織』の基本方針の策定が完了したので、10月には政策委員会も新党組織委員会も『新党結成準備会』に切りかえられ、政党の生命ともいうべき『立党宣言』、『「綱領』、『政策』、『「総裁公選規程』等が最終決定されたのです。最後まで問題になったのは新党の名称であったが、広く党内外に公募した結果、自由民主主義を最も端的に象徴する『自由民主党』に決定した」。

 この保守合同の経過について格別に検討されるに値するように思われる。自民党史の「保守合同前史」はこのことを次のように語っている。
 「そのような環境の中で、国民も政治家も、実に多くのことを体験し、学びました。そして、やがてその貴重な体験と反省の中から、わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない、という強い要望が国民の間にも、政治家の間にも芽生えてきたのでした」。
 「終戦後の十年間は、内外ともに苦難と激動と独立体制の基礎固めの時代であり、政界もまた、自由民主陣営、革新陣営を問わず大きく動揺を続けました」、「それでも歴代の自由民主主義内閣は、敗戦直後の廃墟の中からの日本の建て直し、空前の食糧難の打開、行きすぎた労働争議など社会的混乱の克服、現行憲法の制定、農地改革、教育改革、一ドル360円の固定相場制への移行、財政の確立をはじめ、新憲法制定にともなう内閣法、国会法、裁判所法、地方自治法、財政法、労働関係法、教育基本法、学校教育法、独占禁止法等の憲法関連諸立法を重ねて、今日にみるわが国民主社会の基本制度を固めたのでした」。

 興味深いことは、1955(昭和30)年は左右両派で政界再編成が進んだ歴史的な年となったということである。まず、共産党が先鞭を付けている。7.27日に「日本共産党第六回全国協議会」(「六全協」)を開催し、「50年分裂問題」に終止符を打った。新執行部は、それまで指導してきた徳球―伊藤律系主流派を排斥し、野坂―宮顕連合という穏和派を頂点に据えた上で党を合同した。

 こうした共産党の合同の影響かどうか社会党左右両派の統合も進んでいる。5.7日、右派社会党はそれまで綱領を持っていなかったが、左派社会党との統一機運に合わせて、練り合わせの為か綱領を作成し、この日中央執行委員会で承認された。これを見るに、民主主義制度を機能させた社会主義の建設を目指すこと、ソ連型の一党独裁と永久政権方式を排除すること、前衛党的指導を目指さず国民諸階層の結合体運動に向かうこと、自由制度を保障した議会闘争による多数派工作に注力すること等々としていた。総じて「民社社会主義」の立場を敷衍していた。


 こうして社会党の左派と右派の合同が進むことになる。10.13日、左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。左派社会党の新綱領が転じて統一綱領となった。その統一綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」等々と明記され、共産党によるソ連型運動を否定的に総括した労農派社会主義論を満展開していた。

 この流れについて、社労党「日本社会主義運動史」は次のように論じている。
 「右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ『統一綱領』の下に再び野合を遂げてしまうのである。『統一綱領』の無原則な折衷主義は『階級的大衆党』というわけの分からない『党の性格』規定に象徴されている」。
()ともみなされている。

 統一社会党初代委員長には鈴木茂三郎が就任した。書記長・浅沼稲次郎、財務委員長・伊藤卯四郎、政審会長・伊藤好道、国対委員長・勝間田清一、選対委員長・佐々木更三、統制委員長・加藤勘十、顧問河上丈太郎などの陣容が決められた。こうして自由民主党の誕生より一カ月早く、社会党はすでに左右両派の統一をみた。

 諸般の準備が完了し、民主・自由党の合同による自由民主党は、とりあえず鳩山一郎、緒方竹虎、大野伴睦、三木武吉の四氏を総裁代行委員として、全国民待望のうちに1955(昭和30).11.5日、東京・神田の中央大学講堂において、華々しく結成大会を開いた。ここに「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党(鳩山)と日本自由党(緒方)の二大保守政党が合同し、戦後最大の単一自由民主主義政党として自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。歴史的な快挙であった。

 ちなみに、当時の自民党所属国会議員は、衆議院298名(299名)、参議院115名(118名)であった。ところがこの時吉田茂は、政敵鳩山とは与せずとして合流しなかった。これに殉じて、佐藤栄作と橋本富三郎が無所属に留まった。数ヵ月後3名とも入党している。この筋目と義理人情の世界が自民党には有るという証左であろう。

 初代幹事長は岸信介、総務会長は石井光次郎、政調会長は水田三喜男が就任した。総裁人事が進まず、「首相は鳩山。党は総裁を置かず、当分代行委員制でゆく、いずれ総裁は公選で決める」として、総裁決定まで鳩山一郎・緒方竹虎・三木武吉・大野伴睦の4名を代行委員に選出し、新党の運営に預からせることになった。11.6日、三木・岸・大野・石井の四者会談で、@・新党の運営は、代行委員制とする。A・31年頃、総裁公選を行う。B・第三次鳩山内閣を発足させるを打ち合わせした。  

 自民党史の「保守合同前史」は次のように語っている。

 「自由民主党は、まず『立党宣言』の冒頭で、『政治は国民のもの、即ちその使命と任務は、内に民生を安定せしめ、公共の福祉を増進し、外に自主独立の権威を回復し、平和の諸条件を調整確立するにある。われらは、この使命と任務に鑑み、ここに民主政治の本義に立脚して、自由民主党を結成し、広く国民大衆とともにその責務を全うせんことを誓う』とうたったあと、『われら立党の政治理念は、第一に、ひたすら議会民主政治の大道を歩むにある。従ってわれらは、暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。第二に、個人の自由と人格の尊厳を社会秩序の基本条件となす。故に、権力による専制と階級主義に反対する』と、自由民主政治の基本精神を明らかにしました。『階級政党としての社会党に対決する国民政党』が標榜されていた。

 また『党の性格』については、(1)・わが党は国民政党である、(2)・わが党は平和主義政党である、(3)・わが党は真の民主主義政党である、(4)・わが党は議会主義政党である、(5)・わが党は進歩的政党である、(6)・わが党は福祉国家の実現をはかる政党である、と規定し、『綱領』には、
一、 わが党は、民主主義の理念を基調として諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する>
一、 わが党は、平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚して、国際関係を是正し、調整し、自主独立の完成を期する>
一、 わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する>

と定めました。かくして、わが国戦後民主政治の発展に画期的な歴史を画する自由民主党の歩みがかくて始まった」。

(私論.私見) れんだいこの自民党観

 この自民党の綱領について格別に検討されるに値するように思われる。凡そ政党として持たねばならない綱領、そのロジック等についてかくも明確にしておるという点で、他の諸党の手本になっていると思うのはれんだいこだけであろうか。この理論と実際の党運営及び組織論、運動論と併せての四部作の水準は高いと見なすべきではなかろうか。ある意味で、ここに宣言された自民党の党是は今日の日共が吹聴している理論と瓜二つである気がするのはれんだいこだけであろうか。

 このことは何を意味するのだろう。少なくとも今日びの日共は自民党内の一派閥として棲息すれば良いと云うことになる。もう一つは、自民党内の左右両翼の裾の広さに感嘆すべきではなかろうか。この党是で結集した自民党がその内部で如何なる抗争と変遷を見せていくのかが自民党史であり、他のどの政党よりも凄まじく案外とイデオロギッシュである。この点に注意を喚起させておきたい。

 この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。ここからが「55年体制」のスタートとなった。ここに「保守・革新」の二大政党時代が幕開けして、日本の政治の新しい前進でありイギリス流議会政治の水準に至ったともてはやされる時期を迎えた。この背景には、「強い保守党」を臨むアメリカの影響もあったものと思われる。ちなみに、この時の自民党議席は299、統一社会党の議席は154であった。




(私論.私見)