橋本政権考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).9.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2004.5.13日 れんだいこ拝 |
1996(平成8)年 |
1.5日、村山首相が突然の辞意表明。1.6日、新政権に向けての与党3党の政策合意が成立。最重点課題として、大蔵省による金融行政の大幅な改革、農協系金融機関を含めた農林関係組織の改革、薬害エイズの真相究明と薬事行政の改革、という3点が掲げられたが、これらはいずれもさきがけが強く主張して盛り込まれたものだった。この合意を受けて自社さ3党は、橋本龍太郎を首班候補に擁立、さきがけからは田中秀経企庁長官と菅厚相が入閣した。同時に武村が羽田内閣時以来1年半ぶりに党務に復帰し、更なる政界再編に向けて再び動きを強めていくことになる。 1.11日、第1次橋本内閣が発足。田中秀征経企庁長官、菅厚生大臣が入閣。 |
橋本内閣の発足に伴って党務に復帰した武村代表は、あくまで社民党との合併による新党結成を模索したが、園田博之を始めとした党内の反発を受けて断念した。そんな中、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化し、以後新党を模索する動きは鳩山を中心に進むことになる。鳩山は友愛精神を基軸にしたリベラル新党の結成を目指し、新進党に所属する弟邦夫とともに自民党や新進党も視野に入れた、既成の枠組みにとらわれない政界再編の道を模索した。特殊法人改革、住専処理などを通じてイメージを低下させていた武村代表に対する不満や、小選挙区制の選挙に対する不安を抱える党内の若手議員、特に前回の総選挙で新党ブームに乗って当選した1年生議員は、こうした鳩山の動きに対して期待を寄せていった。しかしながら、ただでさえ存在感を喪失しつつある小政党にとって内部の路線対立ばかりが報じられるのは致命的であり、党勢はますます衰え、それに伴って選挙への不安が高まるといった具合に悪循環に陥りだした。 武村と鳩山由紀夫の路線対立は、さきがけの発展的解消、新党結成という方針で一旦は収束するかに見えた。しかし、さきがけ主導の新党に危機感を抱く弟邦夫の意向もあって兄由紀夫が態度を硬化、個人単位での結集と武村・村山両氏の不参加を主張し始める。事態収拾のため96年8月に行われた武村・鳩山会談も不調に終わり、鳩山とその同調者が離党する結果となる。武村は責任を取って代表を辞任し後任には、菅直人が代表就任要請を固辞したために井出正一が選ばれ、菅と田中秀征を副代表、園田を代表幹事とする新体制が発足した。以前からさきがけのメンバー全員が新党に移行することを望んでいた菅副代表が、鳩山新党との仲介役として登場するが、幹部を中心にさきがけ残留の声が高まり、結局菅は多くの若手議員とともにさきがけを離れて鳩山とともに民主党を結成する。 |
1.13日、羽田、「21世紀」の荒井将敬代表と連携に向けた協議を開始。 1.16日、 田中秀征・園田博之の副代表就任などを内定。 1.18日、石井紘基が入党。鳩山代表幹事が、党独自の調査から総選挙で1ケタに なるとの見通しを示す 1.19日、 社会党が定期大会で党名を「社会民主党」に変更。 1.19日、新進党第2回定期全国大会を日比谷公会堂で開催。 1.20日、太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置。 1.20日、鳩山代表幹事が、新党結成に向けて党内の意見調整を急ぐ考えを示す。 1.21日、太陽、新進、民主三党の国会対策責任者は、平成8年度補正予算案の対応について共同で修正案を出すことを確認。 1.22日、羽田グループの政策勉強会の旗揚げが行われる。 1.23日、民主党の鳩山由起夫、太陽党の羽田党首は、統一会派を視野に入れた週一回の定期協議を開くことを再確認。 1.24日、社民党と政策に関する定期協議を行うことで合意。自民党のグループ・新世紀が会則を改め、さきがけなど他党派議員の加入を認める。 1.28日、鳩山代表幹事が既成政党の枠組みにこだわらない政界再編の必要性を改めて強調。 かつて一・一ラインと言われて盟友だった市川雄一が「通常国会終了後に旧公明で勉強会を」(朝日新聞)と発言したり(1月20日)、羽田グループが勉強会「興志会」を発足させたり(2月1日)、細川護熙が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会を発足させる(2月13日)など不穏な動きが活発化した。 2.1日、羽田グループの初会合、勉強会「興志会」(66人)を正式に設立する。 細川が田中秀征、小泉純一郎と新しい勉強会発足へ。 2.5日、自民党の加藤紘一幹事長、社民、さきがけとの連立を基本としながらも、行政改革実現などのため、太陽、民主両党との連携を目指す考えを表明。 2.6日、自民党、財政削減へ協力要請、太陽、民主両党などと政策協議。 2.16日、菅厚相が薬害エイズ問題で国の責任を認め、患者・家族に直接謝罪。鳩山代表幹事が、小選挙区制の見直し論議に慎重な姿勢を示す。 2.20日、鹿野道彦・田名部匡省・増子輝彦を中心に「政治改革・政党政治を推進する会」を結成。 2.21日、社民党との合併を前提とした新党協議を棚上げ。住専問題に関係した金融機関からの政治献金受領を最低1年間自粛。 2.22日、自民党のグループ・新世紀が社さ議員を加えて総会、さきがけから7人参加。 2.25日、京都市長選挙、新進を含む5党が推薦した桝本頼兼が当選。 1996年の通常国会では住専問題が最大の焦点となった。この住専処理に対して政府・与党は6850億円の税金を投入しようとして世論の批判を浴びたので、これを機に政局を揺さぶろうと新進党は3月4日から25日までの22日間、国会内でピケ戦術を採ったがこれが思いの外、不評で世論にそっぽを向かれてしまい結局失敗に終わった。 3.19日、住専問題を巡り、小沢党首と橋本首相のトップ会談。 3.25日、土井衆院衆議院議長の仲介で与党側と新進党が合意、ピケ戦術を解除。 3.28日、田中秀征が細川護煕、小泉純一郎とともに行革の勉強会を発足。 4.1日、船田が鳩山由紀夫と「次の総選挙の前後に新党結成」で合意。 4.2日、鳩山代表幹事と新進党の船田元による新党構想が表面化。4.4日、鳩山代表幹事が船田元との新党構想に対して、当分は自粛すると表明。 4.5日、鳩山代表幹事が新党構想に関して、新進・自民にまず呼びかける考えを表明。 4.7日、鳩山邸で花見会を実施、鳩山兄弟の他に市民リーグや社民党の新党推進派が一同に会する。 4.8日、 「社さ新党」の結成を事実上断念。 4.21日、武村代表が衆院選に関して、単独で100人の擁立を目指す考えを表明。 4.22日、小沢党首が橋本首相と会談。 4.24日、鳩山代表幹事が、消費税率再引き上げの必要性を指摘。 5.7日、鳩山代表幹事が友愛精神を基軸にした新党構想を雑誌に発表。 5.10日、住専処理策を含む平成8年度予算案が参議院本会議で可決・成立し、住専予算の削減はなかった。こうして新進党はますます混迷の度を深めていった。 5.10日、武村代表が米軍用地収容のための特別立法に関して検討容認の考えを示す。政党交付金の使途をホームページで公開。住専処理に税金を投入する96年度予算案が成立。 5.23日、船田が前日の発言の責任を取り党総務会長代理を辞任。 5.31日、新進党の鳩山邦夫が、兄由紀夫にさきがけからの離党を促す。NPO法案について、新進党と意見交換を行うことが決定。 6.11日、グループ・新世紀の総会で、鳩山代表幹事が新党構想を語る。 6.18日、住専処理関連法が成立。 6.20日、小沢が細川・羽田と会談して「挙党一致」を確認し、また6月25日から7月18日の間に6回にわたって「小沢党首対話フォーラム」を開催するなどして党内融和を図ったがその後、鳩山邦夫や船田元など党内有力者の離党が相次いだ。 6.25日、 橋本政権が消費税率を97年4月から5%に引き上げることを閣議決定。 6.29日、鳩山代表幹事が、船田元らとの信頼関係を強調。 7.2日、沖縄米軍用地収容に関して、特別立法論議を急ぐことに懸念を表明。 7.18日、岩国哲人らが「新風会」発足。 7.23日、「興志会」が解散。 7.24日、岡山県知事選立候補のために江田五月が離党(落選)。 8.2日、鳩山代表幹事が、9月中に新党準備会を結成する方針を表明。 8.3日、園田博之が、新党の枠組みよりも行革を柱とする政策論議を先行すべきと主張。 8.13日、鳩山代表幹事が、臨時国会前に準備会を経ずに新党結成もありうるとの考えを示す。 8.15日、鳩山代表幹事と菅直人が会談し臨時国会前の新党準備会結成で一致。菅直人は、さきがけの大半が新党に移行する道を探るべきとの考えも示す。 8.17日、田中秀征、園田博之、菅直人が新党移行の方針で一致。鳩山代表幹事も理解を示す。 8.20日、武村代表も加えた幹部会議で先の方針を確認。鳩山代表幹事は最終判断を留保。整備新幹線の建設費を全額公費とする自民党案に同意しない方針を固める。 8.21日、発展的解党・新党移行の方針を固める。鳩山代表幹事も基本的に理解を示す。 8.24日、武村正義が、新党では後衛に回るとの考えを表明。 8.25日、鳩山代表幹事が、結党時には武村正義の参加を拒む意向を表明。 8.27日、鳩山由紀夫が党代表幹事の辞表を提出。武村・鳩山会談(〜28日)。 8.28日、鳩山由紀夫が、さきがけを離党し9月中旬に新党を結成する意向を正式に表明。武村正義が、党代表を辞任する意向を固める。 8.29日、臨時総務会で武村代表の辞任を了承。新人候補者への経過説明会。菅直人が、代表就任を推す声に対して固辞する考えを示す。 8.30日、新代表に井出正一を、新代表幹事に園田博之を選出。菅直人は副代表に。 鳩山、簗瀬、五十嵐の3名が離党。 8.26日、鳩山邦夫が党東京都連会長を辞任。 9.1日、さきがけの井出代表らによる新体制が発足。 9.2日、園田博之が、行革政権構想を軸に鳩山新党との連携を探る考えを示す。井出正一が、さきがけのまま総選挙に臨むことを前提に選挙準備を進める考えを示す。 9.3日、鳩山邦夫が離党(東京2区で当選、民主党)。 9.3日、代表幹事の役職名を幹事長と改める 9.5日、鳩山新党と社民党に対し個人参加の新党を提案。田中甲が離党。 9.7日、井出正一が、社民・さきがけ・鳩山グループの協議を1週間以内に始める意欲を示す。 9.9日、菅直人と鳩山由紀夫が、第三極結集に向けた新党準備会の設立で合意。10.10日、菅直人の報告を了承。メンバーのほぼ全員が参加する見通しに。 9.11日、武村代表が行財政改革に関する三つの提案を発表、選挙後の行革政権を提唱。園田博之が鳩山代表幹事の新党構想に関して、理念の必要性を指摘しつつ支持を表明。 9.12日、菅直人が民主党結成の呼びかけについて報告。参加は個々の判断によることを確認。 9.17日、菅直人・鳩山由紀夫が、さきがけ幹部に対し民主党に参加するよう要請。井出正一らはさきがけ残留を決定、当選一回議員の民主党参加は容認。 9.18日、小平忠正が離党。10.25日、石井紘基が離党。10.26日、荒井聰、小沢鋭仁、中尾則幸、中島章夫がさきがけから離党。 9.20日、さきがけが社民党と選挙協力を進めることで一致。 9.26日、住宅金融債権管理機構が発足。 9.27日、鳩山代表幹事と菅直人が、さきがけを発展的に解党して新党を結成する考えを示す。田中秀征が、さきがけのまま総選挙に臨むべきとの考えを表明。 9.27日、衆議院解散。石破茂(鳥取1区で当選、「21世紀」に参加)・今津寛(北海道6区で落選、自民党)が離党の意向を表明。 9.28日、武村代表が、さきがけが結束して新党に移行する可能性を探る考えを示す。 9.28日、民主党結党。社民党の土井たか子が新党首に就任。 10.2日、さきがけが、民主党と総選挙後に行革政権構想について協議することで一致。 10.13日、園田博之が民主党に対して、行革政権に参加するよう期待を表明。 10.15日、総選挙後の行革政権で進める重点政策案を発表。社民党が、さきがけの提唱する行革政権に対し積極的に対応する考えを示す。 |
10.20日、第41回衆議院総選挙衆院選投開票。新進党、衆院選で伸び悩み(事実上の敗北)。新進党は、小選挙区96名、比例代表60名(計156名)が当選、党の有力者では田名部や米沢が落選。改選前の160議席を4議席減らして156議席となり、事実上敗北とも言える結果だった。この選挙では比例区での順位決定に関して総選挙対策本部の顧問兼本部長代理である羽田の頭越しに決められ執行部の独走ぶりが目立った。 |
10.21日、党最高諮問会議で羽田や細川が分党の意向を伝え小沢も了承した。しかし創価学会や党内の支持が得られず、分党問題はひとまず収束することになった。 10.21日 自民・社民、さきがけが、政権継続を前提に政策協議を開始。 10.22日、さきがけが、行政改革の推進を条件に、新政権に閣外協力する方針を決定。井出正一の代表辞任を了承、堂本暁子を議員団の座長に選出。 さきがけは、武村・園田の2議席を獲得したのみで惨敗した。井出正一が代表を辞任する意向を示す。代表を務める井出や経企庁長官だった田中などが落選し、衆参合わせても5人という小政党に転落した。この結果、堂本暁子が議員団座長に就任するなど党組織は大きく変化し、第2次橋本内閣に対しても社民党とともに閣外協力に転ずることになる。この時政権離脱をしなかったのは、参院社民党勢力を政権に残留させるためにも自民党がさきがけを必要としたという外部要因と、たとえ小政党となろうとも与党に留まることで少しでも政権に対する影響力を維持したいという内部要因があったと思われる。しかし自民党中心の連立政権の中で党の存在感は以前に増して薄くなっているのが現状である。 10.24日、熊谷弘に除名通告。10.31日、米田健三が離党届提出。11.5日、高市早苗が離党(12・27自民党へ)。11.6日、笹川が離党 10.28日、羽田・細川「分党構想」断念。 10.29日、政調会長に水野誠一が就任、総務会長は堂本暁子が兼務。参院補選で芦尾長司の推薦を決定。 10.31日、自民・社民、さきがけが政策合意書に署名。 11月 7日、新進党は、首班指名選挙では多数の党議拘束違反者(=小沢党首以外に投票)を出し党内の混乱ぶりを露呈した。第2次橋本内閣発足。さきがけは社民とともに閣外協力。畑恵が離党を提出(12.18日、自民党へ)。田浦直・米田健三を除名処分にする。 11.29日、新進党と民主党の政策責任者による協議を開催。 12. 2日、日米の特別行動委員会が沖縄の米軍基地の整理・縮小策で最終報告。 12.4日、警視庁は、岡光序治・前厚生事務次官を収賄の疑いで逮捕。 12.4日、羽田、羽田グループ閣僚経験者との会談の席で、離党に強い決意。12.7日、民主党との連携を早くも模索。 12.10日、新進党結成2周年。 12.7日、郵政省とNTTがNTTの分離・分割を合意。 |
12.12日、この日から16日まで3回の羽田・小沢会談(平行線をたどる)。羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめた。小沢と羽田の間の政治手法の違いや小沢チルドレンと呼ばれる議員たちが垣根を作って羽田らを寄せ付けなかったことなどが原因だった。 12.13日、さきがけが、建設国債発行額で異論を唱え、補正予算編成を延期。 12.16日 さきがけが、補正予算編成に関して、主張が通らねば賛成しない姿勢を確認。小沢と羽田の3回目の会談、羽田の離党・新党結成で「合意」をまとめる。 12.20日、補正予算案に反対する方針を確認。与党3党が医療保険制度改革案を合意。 |
12.26日、与党3党が金融検査・監督の分離を合意。この間に奥田・岩國が正式に「羽田新党」参加決定。 12.26日、羽田孜元首相等13名(旧新生党を中心とする衆院10人、参院3人)が新進党を離党し、「太陽党」を結成した。羽田らは記者会見で「日本政治の機能を取り戻すきっかけを作りたい」と述べ、「対立と清掃の政治から対話と実行の政治への転換」を掲げた結党宣言を公表。「政界再編の起爆剤となる」との決意を表明し、規制緩和や地方分権など「自由と自己責任」の実現、各国との「和と共生」による国際協力などの基本理念を掲げた。 基本政策の内容については別箇所参照するとして、極めて当たり障りのない内容が盛り込まれている。その理由は「政界再編の起爆剤となる」ためにほかならない。すなわち、衆参合わせて13人の政党で政策実現がかなうはずもなく、羽田党首が表明したとうり、太陽党の当面の目標は「新進党と民主党の橋渡し」(こういう政党を政治学では「要の政党」という)なのであり、橋渡しには政策を固定化しない方が有利なのである。イデオロギー政党色を脱した、プラグマティズム政党としての具体例は、憲法問題にも現れる。 96年2月の議員研修会において、新進党内では異論を主張しなかったが、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について、「憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめた。同時に、介護保険法案についても政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。明確に、個々の政策について是々非々の態度をとるプラグマティズム政党の姿勢を表明したといえよう。なお、 党名は、「羽田氏の明るく、ぬくもりのあるイメージと勢力結集の核になる」(参院議員)として「太陽党」となった。 結党当初より羽田党首は、「野党結集の接着剤となることを目指す」とか「あくまで野党勢力の結集を目指す」、「健全な野党として各党をつなぐ触媒の役割を果たし、自民党に対抗するもう一つの極を作り出す核になる。」(結党翌日の96年12月27日)との考えを示している。具体的に、「触媒」とは、新進党の反小沢グループと民主党とのつなぎ目となることを意味している。しかし小沢が現新進党党首である以上、新進党との距離を縮めるには限界がある。そこで必然的に最初のアプローチは民主党に向けられたが、それは必ずしもスムーズに進んでいるとはいえない。例えば97年11月7日の世話人会の席(年表参照)で鳩山副党首は、構想中の統一会派への参加を当面見合わせることを表明している。(菅党首は別の場所で「政党の再編をあまり急ぐと数合わせになる」と述べている)これはそもそも菅・鳩山のイタリアの中道・左翼連合「オリーブの木」をモデルにした構想は、それぞれの政党が統一の首相候補や政権構想を掲げて選挙協力する「政党連合」的なものであり、必ずしも統一会派や政党の合流は必要でないからに他ならない。民主党は苦労して作り上げた「民主党」というブランドを簡単には手放したくないのである。 羽田は新進党への離党届け提出の際、西岡新進党幹事長に「お互い改革という目標は同じだ。存分に連絡を取っていこう。」との趣旨の発言をしている。これに対し小沢は「離党・新党の結成は国民の期待に反する」と批判する一方で「改革の意志を同じくする人とは、協議するのは当たり前」とも述べている。両党の関係は比較的良好だったと言っていい。それを裏付けるように1月20日に太陽、民主両党は、「21世紀」を含めて経済政策を話し合う「緊急経済対策会議」を設置したものの太陽党畑英次郎幹事長は、統一会派については、「新進党を加えた協力が必要」の立場を崩さなかった。しかしその後、感情的なしこりや小沢の保保路線志向の表面化などにより関係は悪化していく。2月17日初の議員研修会の中で太陽党は、現行憲法下での多国籍軍参加を容認する新進党の基本政策について「常道の憲法解釈を逸脱している」と否定的な見解をまとめたほか、介護保険法案でも対案の提出を検討している新進党とは 同一歩調をとらず、政府案の成立に基本的に協力していくことを確認し、「非新進路線」を打ち出した。さらに2月24日の講演の中で羽田は、オレンジ共済組合事件を巡る新進党両院協議会が質疑抜きで打ち切られたことに対し、小沢を批判している。これに対し新進党側も6月10日の党総務会で、太陽党に対する不満が続出し、太陽党との定期協議のあり方を見直すよう、注文がつく事態となる。結局、両者の完全な関係修復は新進党の解党まで待たれることになる。 指摘しておかなければならないのが、わずかに13人の政党とはいえ太陽党には、路線上の対立があると言われていることである2)。構図としては、羽田、畑といった幹部が自民党に対抗する野党結集の核づくりを目指しているのに対し、中堅・若手は自民党への接近や復党を志向しているというものである。後者については、知名度を持たない中堅・若手が、小選挙区制度で生き残るための必然的な動きともいえる。 |
1997(平成9)年 |
橋本龍太郎論 |
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Re:れんだいこのカンテラ時評184 | れんだいこ | 2006/07/01 |
【橋本龍太郎逝去に寄せて】
2006.7.1日、元首相橋本龍太郎(以下、「橋龍」と記す)が多臓器不全などのため東京都内の病院で死去した(享年69歳)。これをどう評すべきか。 「橋龍」は、1937年、東京生まれ。慶応大法学部政治学科を卒業し、呉羽紡績(現東洋紡)に入社した。厚相などを務めた父龍伍氏の死去に伴い、1963年、衆院旧岡山2区から出馬し26歳で初当選。現行制度に移行した96年からは岡山4区選出で、連続14回当選。 次第に頭角を現し、1978年の第1次大平内閣で厚相として初入閣。その後、竹下登元首相(故人)が結成した創政会に参加し、竹下派では梶山静六元官房長官(同)や小沢一郎氏(現民主党代表)、小渕恵三(故元首相)らとともに「7奉行」と称された。 1980年、党行財政調査会長に就任し、「土光臨調」路線を推進。総理府と行政管理庁を総務庁に統合した。1986年、第3次中曽根内閣で運輸相に就き、国鉄の分割民営化を主導した。1989年、宇野内閣で自民党幹事長に就任したが、同年7月の参院選で惨敗、わずか2カ月の在任に終わった。海部内閣では3期連続、蔵相を務めた。 自民党が野党に下野した93年に党政調会長に就任。1994年には村山内閣の通産相に就き、難題だった日米自動車交渉に取り組み纏め上げた。米メーカーの対日輸出を拡大する数値目標の導入を廻って、当時のミッキー・カンター米国通商代表と厳しい交渉を続け、「タフ・ネゴシエーター(手強い交渉相手)」と評された。 1995.9月の自民党総裁選で小泉純一郎氏(現首相)を大差で破り第17代総裁に選出。1996.1月、自民、社会、さきがけ3党連立の村山富市首相に禅譲される形で第82代首相に就任し、2年半にわたって首相を務めた。宮沢内閣以来、自民党から約2年半ぶりに首相の座に就いた。岡山県出身では、犬養毅、平沼騏一郎に次いで3人目、戦後では初。 在任中は行政改革や財政改革など「6大改革」を掲げ、明治以来の行政組織改変に着手し、中央省庁を現行の1府12省庁に再編する案をまとめた。自由化、規制緩和を促進させ、株式手数料の自由化、銀行と証券会社の相互参入といった「日本版ビッグバン(金融制度改革)」を主導。通信分野でも規制緩和を推進した。財政再建のため消費税率を3%から5%に引き上げたほか、社会保険料値上げ、所得税・住民税の特別減税廃止を押し進めた。財政構造改革法を成立させた。(れんだいこボソボソ)ろくなことをしていない。もうこの頃はだれがやってもそうなるけども。 1996年、クリントン米政権との間で米軍普天間飛行場の返還で合意。ただ返還作業は進まず、代替施設はキャンプ・シュワブ沿岸部に建設するよう合意内容が見直されるなどの経過をたどっている。この時期、新たな日米防衛協定のための指針(ガイドライン)を決定した。 北方領土問題の解決にも精力的に取り組み、1997年のロシアのエリツィン大統領との会談で、2000年までの平和条約締結に全力を尽くすとした「クラスノヤルスク合意」を結んだ。1998年、ロシアが北方四島の日本帰属を認めれば、施政権の返還は当面求めないとする「川奈提案」による国境線確定方式を提案した。 1996.10月、小選挙区比例代表並立制による初めての総選挙で小沢一郎党首が率いる新進党を破った。1997年、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を総務庁長官に起用し、世論の集中砲火を浴びて十日余りで更迭を余儀なくされた。中曽根首相以来の靖国神社参拝を復活させたが、近隣諸国から激しい反発を受け参拝を自粛した。消費税増税、特別減税の廃止による景気低迷が景気の腰を折り、これらを機に求心力が低下。三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券など大型経営企業の破綻(はたん)などで金融危機が深まる中、1998.7月、参院選で自民党が記録的大敗、首相を辞任した。 2005.5月の小渕首相死去に伴い、2000.7月、当時の自民党最大派閥「平成研究会」会長に就任し、橋本派へと移行させた。同年12月の第2次森改造内閣では、行革、沖縄・北方担当相として入閣した。2001.4月、総裁選に立候補したが、小泉首相に敗れた。2003年、総裁選の際、派内が独自候補擁立派と小泉首相支持派で対立し、事実上の分裂状態に陥った。 2000.4月、日本歯科医師連盟からの1億円ヤミ献金事件が浮上、2004.7月、責任をとる形で自民党橋本派会長を辞任。同年11月には衆院政治倫理審査会で、1億円受領について「事実なんだろうと思う」などと弁明した。村岡兼造元官房長官の公判で証人喚問されるなど、釈明に追われた。(れんだいこボソボソ)この事件の真相は未だに不明。嵌められた可能性が強い。 2005.9月の衆院選に出馬せず政界を引退していた。同選挙で比例代表中国ブロックから初当選した橋本岳氏は二男。橋本大二郎・高知県知事は実弟。その後は、環境などの分野で活動を続けていた。2006.3月、日中友好議員連盟などの友好団長として北京を訪問し、胡錦濤国家主席と会談した。2006.6.4日夜、腹痛を訴え入院。腸管虚血との診断を受け、大腸の大部分を切除するなどの手術を受けていた。 ヘアクリームでオールバックに固めた髪形がトレードマーク。趣味の写真はセミプロ。剣道は教士六段。登山は1988年の日本・中国・ネパールの3国友好登山隊で、日本隊名誉総隊長を務めた。「厚生族のドン」とも呼ばれた。 |
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以上は、一般的な情報記事である。本当は次のことが肝腎である。「橋龍」は、初当選以来、当時の戦後保守主流派佐藤派に属し、同時にめきめきと頭角を現しつつあった田中角栄の子飼いグループに位置して遊泳していった。ポスト佐藤の福田対田中戦争で田中が勝利することにより、登用されていくことになった。つまり、日の当たる坂道を歩一歩登っていくことになった。 しかし、この頃形成されつつあった田中ー大平同盟に対し、現代世界を牛耳る「シオンの議定書派」即ちネオ・シオニストの米英ユ同盟奥の院は徹底殲滅に向った。それは、田中ー大平同盟による政治支配が強まるにつれ、日本の自主化が進み、ネオ・シオニストの米英ユ同盟奥の院の手綱から離れ、コントロールが利かなくなるからであった。 そのことを恐れたネオ・シオニストは、ジャップに目にものをみせてやると、用意周到に且つ総力を挙げてロッキード事件を勃発させた。この時の雇われ右翼と日共の立ち回りこそ噴飯ものである。マスコミは、今に繋がるネオ・シオニストの御用プロパガンダを喧騒していった。 事件の捜査は、本星の児玉ー中曽根ー松野ラインには向わず、既定方針通りに次第に角栄包囲網が狭められ、角栄は遂に逮捕された。この時、「橋龍」が後の首相を当確させる素敵なセリフを吐いた。多くの同志が日和見を決め込む中で、「橋龍」一人が、「それでも俺はオヤジが好きなんだ」との胸中を公言させた。形勢利有らずの中での勇気ある告白であった。この時、「橋龍」は男を挙げた。 「橋龍」は、角栄釈放時にも何憚ることなく迎えに出向いている。ここでも、見る者が見れば男を挙げた。あの頃の「橋龍」は格好良かった。その後、紆余曲折しながらも出世階段を登りつめ首相になる。その後の「橋龍」が、「男になった」かの時の矜持(きょうじ)を持ち合わせていれば「更に男になった」筈である。 「橋龍」は、その頃から「俺は元々本籍佐藤派で、田中派ではない」と御身保全に向かい始めた。この瞬間から男を下げ始めた。以降の「橋龍」の解説は無意味であるので割愛する。 ところで、果敢に角栄を護った男がもう一人いる。ロッキード公判を欠かさず通い詰めた男が居る。小沢である。小沢が操を曲げず今日まで奮闘していることは見上げたものである。「橋龍」の常在主流派癖に比して、党を割り、イバラの道へ向った。敢えて損な道を択んだ。火中の栗を拾い、大ヤケドしながら今日まで辿り着いていることは大いに評価されるべきである。 ネオ・シオニストが日本を呑み込み、使い捨てにせんと策謀を廻らしている渦中の形勢利あらず只中で、見識を示していることは男の中の男である。小ネズミ的嬌態政治から決別するのは、角栄政治の薫陶を正面から受け止めているこの男を通して以外に無い。 「橋龍」と小沢。政治に翻弄され、歩んだ道はそれぞれのものとなったが、戦後保守主流派を形成したハト派政治の何たるかを知っているだけに、今の政治にはがゆさを覚えている点では共通しているであろう。「橋龍」の死は、袂を分かった者であるとはいえ、小沢にとって損失であろう。しかし、今は懐旧する暇は要らない。屍を踏み越えて政権奪取に向かえ。日本人民大衆の大包囲網で勝負に向う以外に無かろう。思いつくまま。 「橋本龍太郎論」(seito_giminto_history_hashiryuron.htm) |
(私論.私見)