戦後直後の政権抗争史

 (最新見直し2006.6.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこサイト「自民党の党史検証」の「自民党前史1」のうち、選挙と政権交代の部分にスポットを当て再確認する。「自民党派閥の歴史その他を参照する。まだ纏め切れておらず、追々れんだいこ観点と文言で書き直していくことにする。

 2002.7.15日 れんだいこ拝


【戦後直後の政権抗争史】 
 敗戦の年の11月頃より、戦後保守系政党として自由党、進歩党、日本協同党の三派が相次いで結成された。 

 1946(昭和21).4.10日、終戦から8ヶ月目のこの頃、戦後最初の総選挙(第22回)が行われ、政権与党の幣原進歩党と鳩山一郎率いる自由党が覇を争った。選挙の結果、鳩山一郎総裁率いる自由党が第一党(140名)となり、幣原首相率いる進歩党が第二党(94名)となり、政権与党の進歩党は鳩山らの自由党に大敗した。

 幣原内閣は、「新憲法成立までの政治的責任」を理由に、引き続き政権を維持しようとしたが、社会、共産、自由、協同からなる野党が幣原内閣打倒で共同し、4.22日、総辞職を余儀なくされた。結局幣原内閣は7ヶ月の余命となった。幣原内閣瓦解後5.22日、第一次吉田内閣が成立するまで、丁度一ヶ月間政府不在事態が現出することになった。

 後継内閣の組閣が始まったが、140名を擁し第一党となった自由党は、過半数を制するにはいたらなかったこともあって、単独では政権維持の見通しがたたなかった。こうして、次の内閣を結成するまでの間、自由党の三木武吉、河野一郎らが社会党に連立内閣構想を持ち込んで奔走した。
92名の勢力を得た社会党は自由党から連立政権、共産党から民主戦線内閣を提唱され、どちらに舵を切るのかを廻って党内の左右両派が激しく対立した。社会党は最終的に自由党からの連立政権申し出を拒否した。 

【幻の鳩山政権】
 自由党は、社会党に連立内閣への協力を断られた結果単独内閣の組閣を目指すこととなった。進歩党や協同党と連立を組み、自由党党首の鳩山を首班とする内閣を構想した。閣僚の選考もほぼ完了し、いざ皇居に参内して組閣の大命を受けようとしたまさにその日、GHQが鳩山に対する公職追放を指示した。鳩山のみならず、幹部の河野一郎、三木武吉も追放を受け鳩山首班構想が潰された。5.4日、モーニング姿に威儀を正して宮中からのお召しを待ち受ける鳩山にもたらされたものは「追放令状」であった。こうして鳩山は公職追放された。この背景は憶測を呼んでいるが今日においても杳としてはっきりしていない。直後、辻嘉六、松野鶴平、河野一郎(幹事長)の3名が鳩山邸で誰に政権を預けるのかを相談している。この時三木武吉が総務会長。

【第一次吉田時代】 
 自由党は、選挙で第一党となっておきながら総理大臣となるべき者がいなくなるという事態に立ち至った。そこで鳩山らが白羽の矢を立てたのが、吉田茂であった。吉田は、敗戦直後に組織された東久迩宮内閣で、外務大臣の重光葵がGHQの要求に反発して辞職した際、かわって外務大臣に就任し、続く幣原内閣でも外務大臣に留任、選挙の敗北に対して居直り続ける幣原に引導を渡す役割をしていた。

 吉田は、鳩山が、「後継総裁として自由党に入党して内閣を組織してほしい」と依頼したとき、「金は作らない、人事に干渉してほしくない、嫌になったら辞める」の三条件を出したという。この時点では鳩山も吉田自身も、吉田内閣は暫定的なもので鳩山の追放が解除になったら政権を鳩山に返すという諒解があった。1946(昭和21).5.24日、吉田内閣が誕生した。これを第一次吉田時代と云う。この時、進歩党を基盤として自由党から芦田派が合流して民主党が生まれている。更に、戦後まもなく三木武夫が組織した日本協同党が日本国民党と合同して国民協同党となた。

 1947(昭和22).2.1日、2.1ゼネストが巻き起こったもののGHQの介入で不発。5.3日、4.25日、新憲法に基づく戦後最初の総選挙(第23回)が行われた。ゼネスト中止後の民意を問うという意味があった。衆議院466名の定数に1573名が立候補するという激戦となった。選挙の結果は、社会143(解散前98)、自由131(同140)、民主121(同145)、国協29(同63)、共産4(同6)、諸派20(同4)、無所属13(同9)となり、吉田率いる自由党は敗北を喫し、社会党が予想を上回る勢いで一躍第一党となった。

 政界は、社会、自由、民主の三派が僅かの差で競り合う三すくみの状態となった。第一党となった社会党が政権を担う栄誉に就くことになったが、組閣に難航した。
当初、社会党、自由党、民主党、国民協同党の4党での連立が画策され、「政策協定の原案」作りに向かうことになったが、社会党左派の入閣をめぐって「左派と手を切れ」と主張する自由党との調整が難航した。漸く四党政策協定ができたものの四党間の足並みのみならず、各党派の内部でも抗争が始まっていた。地下水脈での丁丁発止の流れを経ながら「暗夜の手探りで」片山哲内閣の構想が練られ、最終的に自由党を除いた保守系の民主党.国民協同党との3党連立を策しこれに成功した。社会党左派は閣僚から除外されることで落ち着いた。この一連の過程に西尾末広が参謀として立ち働いている。

【片山時代】
 5.23日、衆議院本会議が開かれ、片山哲が内閣総理大臣に指名された。5.24日、社会党の片山委員長を首班とする社会党、民主党、協同党の連立内閣が発足した。吉田の自由党はこの連立内閣に非協力の態度を取った。案の定、連立内閣はたちまち足並みの乱れを起こし、閣内不一致で一部の閣僚が罷免されるなどの醜態をさらした。挙句の果てには、内閣が提出した予算案が、社会党左派の鈴木茂三郎が委員長である予算委員会で否決されるという有り様となった。1948(昭和23).2月、党内の支持すら失った片山内閣は総辞職し、8カ月間の短命政権となった。

【芦田時代】
 片山のあとを継いだのは、連立内閣に参加していた民主党の芦田均であった。難産の末、片山辞職から1月もたってようやく組閣を終えた芦田内閣には、連立内閣の基盤である民主党、社会党、協同党の呉越同舟的な脆弱さがつきまとった。この時代、吉田率いる日本自由党は下野していたが、幣原率いる民主クラブを合流させ、1948.5月、152名で民主自由党(総裁吉田茂、幹事長山崎猛)を結成している。

 6月頃より昭和電工疑獄(昭電事件)が起こり、閣僚が取り調べを受けるに至って芦田は退陣を余儀なくされる。1948.10.7日、総辞職を余儀なくされた。芦田内閣も僅か7ヶ月の短命政権となった。

【幻の山崎主班構想】
 保守勢力の蟄居は束の間で解け僥倖がやってきた。芦田政権の崩壊で、1年余の雌伏ののち、政権は再び自由党の手に戻った。鳩山らの追放はまだ解除されておらず、自由党総裁の吉田が首班となり組閣の動きを見せた。これに横槍を入れてきたのがGHQであった。この当時GHQは、G2(情報局)とGS(民政局)が抗争していた。G2は軍司令部に置かれる標準的な組織のひとつで、局長ウィロビーをはじめその構成員は軍人が中心であった。一方GSはホイットニー局長など構成員の多くは民間の出身で、1930年代のニューディール政策の過程で出世してきた者が多く、その考え方はなかば社会主義的な革新的なものが大勢を占めていた。GSとG2は事あるごとに対立し、マッカーサーの下にあって勢力を競いあっていた。GSでは、吉田を「超保守派」とみなしており、内閣首班としてはふさわしくないと見ていた。そこでホイットニー局長は自由党幹事長の山崎猛を総裁にして内閣首班とするように示唆した。

 この示唆はGSの独断でマッカーサーの承認を得ていたわけではなかった。しかし自由党の反吉田勢力は、この指示をタテに吉田の追放を策した。吉田も一時は辞任も止むを得ないと考えたらしい。続いて開かれた総務会で吉田は引退を表明することになった。ところがこの時の総務会で、田中角栄が、GHQの指示は内政干渉であるとして断固異論を唱え、中央突破を説いた。総務会の雰囲気は一変してあくまで吉田首班で行くことを決議した。吉田周辺は、山崎をかつごうという策謀を封じるために山崎に議員辞職を勧告した。山崎はこの勧告に従って議員を辞職し、GSの目論みは潰えた。

【第二次吉田時代】
 吉田は第二次内閣を組織した。

 第二次内閣は発足したものの、自由党が少数与党である状況には変わりはなかった。そこで吉田は早期に国会を解散して多数を確保しようと考えていた。ところが、期待していた山崎首班を潰されたGHQ、特にGSは反撃に出、憲法上内閣に解散権はないとの見解をしめし、吉田を少数与党の位置に置こうとしていた。吉田はマッカーサーと直接会見して、翌年早期の解散を認められた。

 昭和24年初頭のこの総選挙では自由党は大勝し、一気に単独過半数を確保した。またこの総選挙では吉田の引きで政界入りした元官僚が大量に当選した。その中には池田勇人、佐藤栄作、岡崎勝男、前尾繁三郎などが含まれている。吉田は従来からの党人にかえてこれらの官僚を自分の爪牙として重用した。

 総選挙をうけて吉田は第三次内閣を組織した。この内閣では、初当選したばかりの池田が大蔵大臣の要職を占めていた。池田はドッジラインにのっとった経済改革を推し進めた。また吉田は池田蔵相を特使としてワシントンに派遣した。表向きの任務は日米経済会議だが、その実は対日講和に関して米政府の意向を探ることにあった。当時すでに冷戦の萌芽が見えはじめており、アメリカは日本を重要な前進基地とみなしていた。国防省ではできるだけ永く日本を占領下において米軍基地を確保しつづけようと考えていた。池田は国防省の意向を覆すことはできなかったが、日本が早期講和を希望していることを伝えるとともに、早期講和に同調する勢力が米政府内にも存在することを確認し、ある程度の手応えを持って帰国することができた。

 吉田が目指した早期講和に冷水を浴びせたのが、昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争であった。朝鮮半島での戦闘が激化すれば、それだけ後背基地たる日本の戦略的重要性は増す。国防省が日本を占領し続けて基地使用の便宜を確保しようとするのは必然であった。しかし実際には朝鮮戦争はむしろ講和を促進する作用をも果たした。当時極東米軍は慢性的な兵力不足に悩まされていた。東西対決の正面を欧州地域と見なしていたアメリカにとって、極東は所詮裏口だった。戦後の和平ムードにのって戦力の大幅削減を実施していた米軍の主戦力は欧州に充当されざるを得ず、いきおい極東に回される兵力は乏しくなる。そこに起こったのが朝鮮戦争であった。ただでさえ足りない兵力は朝鮮半島にとられ、しかも本国からの補充兵力はない。マッカーサーが日本防衛に不安を覚えるのは当然のことであった。このためマッカーサーは日本自身に日本を防衛させるという重大な方針転換を行なう。この結果生まれたのが警察予備隊で、これがのちに保安隊を経て自衛隊となる。

 国務省では、日本に防衛という義務を負わせた上で米軍が占領を継続するというのでは日本人の強い反発を買うだろうという意見が生まれ、またこれまで早期講和反対の急先鋒だった国防省でも、日本自身に防衛力を持たせた上で西側陣営に引き込んだ方が得策という計算からも、むしろ講和を促進して日本を国際社会の一員として(ただしあくまでも米国の同盟国として)自立させるべきであるとの判断から、早期講和の気運は急速に高まった。

 吉田は、講和後も米軍の国内駐留を認めれば国防省の懸念は解消し、講和への障害はなくなると判断して安保条約との抱き合わせによる講和を目指した。この作戦は図に当たり、昭和26年にはサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本は独立を回復する。この講和はいわゆる「全面講和論」を排して西側諸国だけとの講和を調印した。同時に調印された安保条約によって、日本はアメリカの核の傘の下で「軽武装、経済重視」政策を突き進む道を選択することになった。

 講和による独立の回復は吉田の勢威を大いに高めたが、その一方で吉田政権の屋台骨を揺るがすひとつの要素をももたらした。それは占領軍の指示により公職から追放されていた戦前型政治家たちの追放解除にともなう政界復活であった。吉田は「個別審査」によって彼らの追放解除をできるだけ遅らせようとしたが、いずれ彼らの復活は避けられなかった。その中でも元自由党総裁の鳩山一郎、そして三木武吉、河野一郎の復活は吉田にとってもっとも痛手であった。鳩山らは初め、自由党へ復党せずに反吉田陣営を糾合して新党を結成しようと考えていた。しかし追放解除直後に鳩山自身が脳溢血で倒れ半身不随となり、自由党に復党せざるを得なくなる。鳩山の以後の経過は良好で、政治活動に支障がない程度まで回復したが、吉田は「病人の鳩山に日本は任せられない」として政権に居座った。追放解除後の政権禅譲という黙約に期待していた鳩山らはこれに反発、党民主化同盟(鳩山民同)を結成して本格的な反吉田運動を開始した。

 吉田は鳩山民同の活動に業を煮やし、昭和27年「抜き打ち解散」をうって民同の勢力低下を謀った。民同側では総選挙を予想しておらず、鳩山、河野、三木らの幹部は議席を得たがその勢力は微々たるもので大きな痛手を負った。しかしこの解散はむしろ吉田にとってより痛手だった。自由党はそれまでの絶対多数から辛うじて過半数を越えるところまで議席数を落とし、少数派とは言え民同の協力を仰がなければ国会運営に支障をきたすまでになった。民同の存在感はむしろ増すことになった。吉田は総選挙に際して民同の幹部の河野一郎、石橋湛山を除名していたが、鳩山は両名の除名取消し、党民主化の促進、憲法調査委員会の設置の3条件を突きつけた。吉田はこれを了承、鳩山は第4次吉田内閣に協力することとなった。民同から三木武吉が総務会長に就任し、形の上では民同を主流派に組み込んだが、三木ら民同は反吉田的活動をやめず、吉田も3条件の実行を先延ばしにしていた。

 昭和28年、吉田が予算委員会上で「馬鹿野郎」と口走った。三木ら民同はこの機会に吉田の失脚を策し、野党に働きかけて吉田の懲罰動議を提出させた。三木は党人出身で元幹事長、はじめは吉田に近かったが吉田後継と目されて野心を募らせてきた広川弘禅農相を抱き込み、民同と広川派の採決欠席により懲罰動議を成立させた。三木は、懲罰が実現すれば吉田は総辞職するだろうと見ていたが、吉田は広川を解任、広川派や民同に対して除名をちらつかせて切り崩しにかかり、中央突破を図った。吉田辞任の目論みが外れた三木らはやむなく自由党を脱党して日本自由党(鳩山自由党・鳩自党)を結成、吉田内閣不信任案を可決させ、世にいう「バカヤロー解散」をもたらし、わずか1年で再び総選挙となった。

 総選挙では鳩自党と改新党(民主党と協同党が合同)は伸び悩み、自由党はついに過半数を割り込んだ。躍進したのは左派社会党(当時路線問題から左右両派に分裂していた)であった。吉田は首班指名を改新党の重光葵と争って辛うじて勝利し、改進党の協力を得て少数与党内閣を組織した。吉田は鳩山一郎を抱き込みにかかった。当時、吉田は元朝日新聞主筆の緒方竹虎を重用しており、はじめ官房長官、のち副総理に登用、緒方は党内の支持を強めつつあった。鳩山は「吉田の次を狙うなら、自由党に復党しなければならない。吉田が引退した時に君が党外にいたら、政権は緒方にいってしまうよ」と説かれ、石橋湛山らとともに自由党に復党したが、三木武吉、河野一郎らは鳩自党に留まった。

 昭和29年早々、吉田の致命傷となる造船疑獄が発覚する。この疑獄事件で、吉田政権の中枢を含む多数の要人が逮捕され、あるいは取り調べを受けた。4月、検察は自由党幹事長の佐藤栄作の逮捕許諾請求を衆議院に提出しようとしていた。自由党は過半数を割り込んでおり、これを否決できない。吉田は法務大臣の犬養健(元首相犬養毅の子)に佐藤逮捕阻止を指示、犬養はこれを受けて指揮権を発動し、佐藤逮捕を中止させた。犬養はこの責任をとって法相を辞任したが、吉田の強引なやり方に輿論は厳しかった。

 吉田の支持率低下を見て取った三木武吉らは攻勢を再開、鳩自党と改新党、そして自由党岸派を糾合して11月に日本民主党を結成した。総裁は自由党を脱党した鳩山である。自由党に対抗しうる保守政党の誕生であった。民主党は社会党と共同で吉田内閣の不信任案を提出する。岸派の分裂などで党勢をさらに落としていた自由党にはこれを否決する力はない。不信任案可決を前提として善後策を講じるしかなかった。吉田は解散総選挙を強く主張した。しかし、副総理で吉田が後継総裁に指名していた緒方は総辞職を勧めた。吉田は激怒し、緒方を罷免するとまで言ったが、党内の大勢はすでに総辞職に固まっており、吉田自身が後継に指名していた緒方を自ら罷免するとあっては沽券にかかわるとの説得もあって、吉田は閣議の席を立ち、書斎で辞表を認めると私邸に引き揚げてしまった。閣議は吉田欠席のまま総辞職を決定した。

【鳩山時代】
 当時、民主党は衆議院第二党であったが、できるだけ早い時期に解散総選挙を行なうという約束で鳩山が首班となって内閣を組織した。「悲劇の政治家」鳩山一郎はついに悲願を成し遂げた。鳩山は吉田政権時代の官僚偏重からうってかわって党人を重用、対米一辺倒を改めて対ソ関係修復を政権の大きな目標に据えた。昭和30年になって早々、鳩山は約束通り解散をうち、総選挙では「鳩山ブーム」に乗って党勢を拡大して第一党とはなったものの、過半数には遠く及ばなかった。吉田引退後に総裁を継いだ緒方率いる自由党は低迷、百議席を多少超える程度の議席を確保したに留まった。躍進したのが左右(特に左派)の社会党で、左右合わせて150議席を超えた。鳩山は相変わらず少数与党として第二次内閣を組織するしかなかった。

 先に鳩山政権実現に奔走した三木武吉は、社会党の躍進に強い危機感を感じ、保守合同という新しい目標に向かって走り始めた。はじめ三木は自由党の緒方総裁にこの話を持ち掛けたが緒方は乗り気でなく、相手を大野伴睦に乗り換えた。大野はもともと鳩山の第一の子分を自任しており、鳩山が追放になったときには「鳩山先生のために座布団を暖めておく」と称して自由党に残った。ところがいざ鳩山が追放解除になってみると、三木や河野らが側近としてすでに居座っていたため、大野は弾き出されてしまった。大野が三木らに良い感情を持っていようはずはなく、三木は大野をなだめるのに相当苦労したようだが、保守合同という大義名分を盾に会談に引きずり込み、数度の会談で大筋の合意を見た。

 その頃、左右の社会党では路線対決の原因となった講和会議への対応の違いもすでに過去のこととなり、合同すれば第一党も夢ではないとあって、合同の気運が急速に高まりつつあった。この情勢に危機感を抱いたのは財界である。経団連は「保守政党が大同団結することを強く望む」という異例の政治的談話を発表し、まだ目処もついていなかった保守合同に発破をかけた。財界が保守合同を期待した裏には、強力な保守政権のもとで安定した成長を続けることのできる条件を整えることもさることながら、自由党・民主党と保守政党が分裂していては政治献金の贈り先の選択にも困るので一本化して欲しいとの意向があったと言われる。

 自由党内では吉田直系の池田、佐藤らが合同に強く反対していたが、大野や三木の根回しと財界の意向によって大勢は保守合同に向けて進んでいった。難題の党首についてはとりあえず総裁代行委員をおいて集団指導体制でいくこととし、できるだけ早い時期に党首選挙を行なうことで合意した。昭和30年10月、社会党は一足先に合同を果たした。右派の浅沼稲次郎と左派の鈴木茂三郎が書記長と委員長を分け合い、150議席を保つ大社会党が発足した。自由民主党の結党式が行なわれたのは11月15日のことである。いわゆる「55年体制」の始まりであった。

 自民党史の「保守合同前史」は次のように述べている。
 「それから『保守合同』による自由民主党の結党までの十年間は、文字どおり激動と混乱を続け、平和条約締結後も占領政治の後遺症からぬけだすことに精一杯で、いわば戦後民主政治確立への、生みの苦しみを続けた『準備期』であったといえましょう」。





(私論.私見)