石原慎太郎論その4、都知事時代以降

 (最新見直し2012.10.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「石原慎太郎論3、都知事時代以降」を考察する。

 2012.10.29日 れんだいこ拝


 2012(平成24)年

 【隠し子騒動】
 11.15日、週刊新潮11.15日号が、「 」を報じている。記事によると、石原慎太郎氏の隠し子の相手は銀座のクラブホステス。石原慎太郎49歳、相手は22歳。彼女は24歳で妊娠。石原慎太郎氏は隠し子について認めた上で次のように述べている。「彼女がこれまで何の仕事をしてきたかは聞いていない。でも、僕から金額は言わないが、養育費も学費も出し、自分では完璧に責任を果たしたつもりです。借金をしたり、物を売ったりして、必死におカネを作った。石原プロが僕の代わりに養育費を払ったかって? それは、ナンセンス。まったく違う。無責任な謀略情報が流れているなんて初めて聞きました。80歳の老人の昔の情事などに、永田町は関心なんてないんじゃないの……。でもね、あなたたちのおかげで息子から連絡が来て、今度、初めて会うことにしましたよ」。養育費は「20歳になるまで毎月20万円を支払う」内容であったようである。

【石原慎太郎を知る為のその他事項】
 都知事就任以降、毎年8.15日に靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ「日本よ」を連載している。

 石原の08年11月~09年10月の「知事日程表」が驚きの勤務の実態を浮かび上がらせている。それによると、石原が都庁に姿を見せるのは1週間のうち「2~3日」だけ。1日の平均執務時間は「59分」。都政問題に詳しいジャーナリストの田中稔、野田峯雄の両氏が2年前に分析した結果で、石原が登庁していたのは月に多くて15日程度。つまり、1カ月の平均執務時間は約15時間しかない。「知事報酬は、ボーナスも含めて年間約2400万円だから、月給約200万円にならすと時給換算は13万円余りになります」(都政担当記者)。次のように評されている。(「2012.10.30日付け日刊ゲンダイの「フザケるな!石原 都知事時代は勤務平均59分 時給13万円」より)
 「この男がブチ上げた政策が都民のためになったためしはない。1400億円を投じた新銀行東京や、4000億円をつぎ込んでも進展ゼロの築地市場移転、失敗した16年の五輪招致にも100億円を使ったりと、結局は巨額の都民のカネをドブに捨ててきたようなものだ」。
 参議院議員(1期) 、衆議院議員(8期)、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代)、東京都知事 (第14代・第15代・第16代・第17代)を歴任した。趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。身長181cm、体重77kg。血液型:AB型。顔面チック症。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男。自由民主党幹事長の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、前衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男。

 【太陽の党を結党。共同代表に就任】
 2012(平成24)年、11.13日、たちあがれ日本を改称する形で太陽の党を結党。共同代表に就任する。11.17日、太陽の党が日本維新の会に合流。代表に就任。12.16日、第46回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックで当選。衆議院議員として17年ぶりに国政に復帰する。2012年から2014年まで再び衆議院議員、その間に環境庁長官や運輸大臣を務めることになるた。

 2013(平成25)年

 【「日本維新の会」結党、石原、橋下両氏が「共同代表」に就任】
 2013.1.19日午前、「日本維新の会」が、石原慎太郎代表や代表代行の橋下徹大阪市長ら執行部と国会議員団幹部による拡大役員会を東京都内のホテルで開いた。役員会では、石原、橋下両氏が「共同代表」に就任する人事案を了承、参院選に向けた「2頭体制」が事実上始動する。石原氏は冒頭あいさつで「夏の参院選は政治を変える大きなきっかけになる。世論を背景に本当の維新をやらないとこの国はつぶれてしまう」と強調。通常国会に関し「硬直した野党である必要はない。是々非々で進めていく」と述べ、法案の賛否などに対し柔軟に対応する考えを示した。橋下氏が共同代表に就くのは、メディア出演の機会を増やし、党としての発信力を強化するため。近く開催する結党大会で正式に就任する。 拡大役員会では28日召集の通常国会や、夏の参院選などへの対応を協議。橋下氏や幹事長の松井一郎大阪府知事ら在阪幹部と国会議員団側とで方針を擦り合わせる。松井氏は参院選で、与党による非改選を含めた過半数の議席確保阻止を目標に掲げ、全選挙区に候補を擁立する方針を表明。前哨戦となる都議選を含め、みんなの党との選挙協力を目指す考えを示している。午後からは、新人議員を対象に2日間の政策研修会を開催する。

 【浜渦前副知事&参与が、猪瀬直樹知事に再任されず退任】
 3月末、浜渦前副知事&参与が、猪瀬直樹知事に再任されず退任した。

 【軍事国家推進論を述べる】
 4.5日、朝日新聞とのインタビューで「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している


 2014(平成26)年

 【次世代の党を設立し最高顧問に就任】
 2014(平成26)年3月、元東京都知事で衆議院議員の石原慎太郎(81)が、「文學界」2014年3月号の「芥川賞と私のパラドクシカルな関係」というテーマで行われたアイドル評論家の中森明夫さんのインタビューで、「いや、皇室にはあまり興味ないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」と発言をした。都知事時代に教員に国歌斉唱を義務付けただけに、この発言は波紋を呼んでいる。ネット上では、「他人には強制しておきながら自分は・・・」「処分食らった人にはたまったもんじゃないな」と疑問の声が相次いだ。

 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK166」の笑坊氏の2014 年 6 月 08 日付投稿「「新保守」を掲げる日本維新の会の石原慎太郎代表が、「天皇制否定のマルキストか」と疑われている(板垣 英憲)」。
 http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/5320725a556a23cf5243e24bc5f66b90
 2014年06月08日 板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」

◆「石原慎太郎は湘南高校時代からトロツキストですね。昭和10年の第7回コミンテルン大会以来、共産主義者は潜伏活動をするようになったが、石原慎太郎もこの系譜でしょう。東京裁判の傍聴を2度してますね。終戦直後は『天皇を処刑して日本で革命を起こして共産化する』側に加担していたと思われます。いまでも彼は、天皇処刑に賛成なんじゃないですか?」というコメントがこのサイトの読者から寄せられた。このサイトでは、「石原慎太郎代表は、天皇陛下を侮る発言をしているが、自主憲法制定でも天皇陛下の存在を否定するのか?」(6月6日午前4時20分51秒配信)というタイトルの記事を掲載した。

 日本維新の会を分党した石原慎太郎代表が、「石原慎太郎派」に23人(衆院議員20人、参院議員3人)で、「自主・新保守・次世代」の3要素にした新党を結党する準備を始めている折、「新保守」とは、「天皇処刑に賛成」を意味しているのか、否かは、直接聞いて確かめてみないと分からない。けれども国民有権者の多くが、違和感を抱いているものと思われる。保守勢力が、天皇陛下を侮ることは考えられないからである。石原新党が、もしかしたら「新保守」の仮面を被った「マルキスト集団」と受け取られかねないのだ。

◆石原慎太郎代表が、湘南高校時代に共産主義に感化されていたのは、確かである。「石原慎太郎の日本を救う決断」(板垣英憲著、青春出版刊、2003年10月10日)の「第4章 カリスマ的リーダーシップを支える哲学」―「マルクス主義に傾倒した高校時代」で以下のように書いているので、参考までに紹介しておこう。

 慎太郎も高校生のころに一時、唯物史観に感化されている。要するにマルクス主義にかぶれていたのである。

 湘南高校の一年下級の江藤淳の紹介で江口朴郎・第一高等学校教授を訪問し、マルクスの唯物史観の話を聞き、大きな刺激と感化を受け、学校内で民学同を組織する。

 江口朴郎教授は、明治四十四(一九一一)年佐賀県に生まれ、東京帝国大学文学部西洋史学科を卒業して・外務省嘱託となり、後に、姫路高等学校教授、東京大学教養学部助教授、法政大学教授・津田塾大学学芸学部教授などを歴任している。この間に、歴史学研究会代表、原水禁代表委員(社会党・総評系)、日本ラオス友好協会会長を務めた。著書に『帝国主義と民族』『帝国主義の時代』などがある。

 後輩の江藤淳は・本名を江頭淳夫いう。昭和八(一九三三)年に東京で生まれた。祖父は海軍中将・父は銀行家だった。高校時代からマルクス主義に傾倒、江口朴郎教授に私淑した。

 慶応大学文学部英文科在学中、「三田文学」に「夏目漱石」を連載し、評論で出発した。昭和三十三(一九五八)年、石原慎太郎や大江健三郎らと「若い日本の会」を結成し、「六〇年安保」の際には、「反安保」の立場で行動した。

 だが・進歩派に幻滅・右旋回し、「『戦後』知識人の破産」を発表し、「小林秀雄」(新潮文学賞)で評論家の地位を確立した。戦後史を民主化の歴史でなく、「喪失と崩壊の歴史」ととらえ、明治憲法下の世界観の崩壊が戦後史であり、民主化を異質にものとした近代日本の再認識を求めて論陣を張っている。この過程で、新憲法はポツダム宣言やハーグ陸戦規則に違反するとして見直しを提唱したり、自民党の「押しつけ憲法論」を擁護したりした。

 石原慎太郎も、江藤淳と同様に「右旋回」して作家活動を活発に進め、いわゆる「右派文化人」の系譜に連なることになった。

 右派文化人の系譜のなかで、文学活動をした先人の一人に、宮沢賢治がいたことを忘れるべきではない。宮沢賢治は、明治二十九(一八九六)年、岩手県に生まれ、中学時代から「法華経」に傾倒、田中智学の右翼団体「国柱会」に参加した。国柱会は、日蓮の「我国の柱とならむ」という言葉を会の名前にした団体で、日蓮の「立正安国論」を高唱していた。宮沢賢治はこの思想の影響を強く受けて、大乗仏教典の大衆化を目指した童話作家活動を行っている。

 林房雄は左翼から右派に転向した作家だった。明治三十六(一九〇三)年大分市で生まれ、東京帝国大学法学部政治学科を中退して新人会に入り、プロレタリア文学運動に参加した。学連事件に連座して検挙されたのをはじめ、数回下獄している。後にプロレタリア作家を廃業して転向、「中央公論」に「大東亜戦争肯定論」を連載するなど、日本主義的傾向の作品を発表した。

 清水幾太郎は、明治四十(一九〇七)年、東京で生まれ、東京帝国大学文学部社会学科を卒業した。東大時代から岩波の雑誌「思想」の編集に参加、朝日新聞社社外嘱託、読売新聞論説委員、学習院大学教授などを歴任している。サンフランシスコ講糺条約締結時、「全面講和」の立場で活躍、反基地闘争の先頭に立つが、「六〇年安保」で敗北後、マルキシズムを批判して「右旋回」し論壇を驚かせた。また「戦後を疑う」などの時評で戦後民主主義を批判し続け、天皇制維持、教育勅語賛成、君が代、日の丸肯定、新国家主義者となる。著書に『愛国心』などがある。

 三島由紀夫は大正十四(一九二五)年、東京で生まれた。本名を平岡公威という。東京帝国大学法学部を卒業して大蔵省に入省、すぐ退職して作家活動に入る。

 六〇年安保以後、作品にイデオロギー色が強くなる。天皇制護持を主張し、「文化防論」を唱えた。天皇制否定勢力を激しく批判し、私兵「楯の会」を結成して、「自衛隊クーデター」を待望し東京・市ヶ谷台の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入り、割腹自殺した。三島由紀夫は、親しくしていた石原慎太郎が、体制を批判していたにもかかわらず、突然のように自民党から公認されて参議院議員選挙に全国区から立侯補して当選したのに驚き、刺激されて、過激な行動に走ったのではないかと憶測された。石原慎太郎は、斬首されて床にころがっている三島由紀夫の遺体をみるに忍びなく、部屋に入れなかったという。

 黛敏郎は、昭和四(一九二九)年、神奈川県で生まれ、東京音楽学校研究科を卒業し、パリ国立音楽院を中退した。團伊玖磨、芥川也寸志とともに「三人の会」を結成し、二十世紀音楽研究所を創設した。「日本を守る国民会議」(右翼文化人ら約八百人が参加)を結成し、運営委員長となる。「建国記念の日奉祝式典」の運営委員長も務めた。

 村松剛は、昭和四(一九二九)年、東京で生まれ、東京大学文学部仏文科を卒業。東大大学院在学中、吉行淳之介らの「世代」に小林秀雄論、三島由紀夫論などを発表し、新進の批評家として認められる。立教大学教授、京都産業大学教授、筑波大学教授を歴任した。著書に『醒めた炎―木戸孝允』(菊池寛賞)『三島由紀夫の世界』などがある。

 これらの右派文化人のなかで、石原慎太郎は、体制内革新、反社会主義、・国家道義の高揚、国防と治安確保、憲法の二部の改修補損を提唱してきた。著書『法華経を生きる』において、日蓮主義の系譜上にあることを鮮明にしている。


 【「日本維新の会」分裂】
 5.29日、「日本維新の会」石原慎太郎の石原慎太郎・共同代表が都内で会見を開き、「合点のいかない政党と手を組むことは許容できない」として。党を2つに分党することを発表した。橋下徹共同代表らが合併に向けて準備を進める「結いの党」とは憲法改正や集団的自衛権の問題え意見の隔たりが大きいとし、「合点のいかない政党と手を組むことは許容できない」と分党に至った経緯を説明した。2012.11月に石原氏が率いた旧太陽の党と合流し、石原、橋下両氏の2頭体制で野党再編を目指してきたが、1年半ほどで分裂することになった。

 石原氏は、都知事就任前の1973年に結成した自民党内の議員グループ「青嵐会」で、尖閣諸島を購入する計画があったことを例に挙げて、集団的自衛権の重要性を強調。「私たちが政治生命を賭けてきた問題について、合点のいかない政党と手を組むことは許容できない」と、分党に至った経緯を説明した。

 「特捜部は石原家と鹿島の裏金を暴け!!時価3億円の別荘売却 石原氏とゼネコンに“癒着取引”疑惑」参照。
 7月、1965年に完成し約半世紀も慣れ親しんだ逗子の別荘を売り払った。JR横須賀線「逗子駅」から西に歩いて15分。およそ540坪の広大な土地の上に鉄筋コンクリートの建物。売却先は都政時代に再三、癒着が指摘された大手ゼネコングループの鹿島グループ企業系列のかたばみ興業(東京・港区)。鹿島建設と同社の鹿島昭一取締役相談役で6割近くの株を握る子会社である。石原と鹿島は因縁浅からぬ関係にある。「鹿島の現在の専務執行役員、栗原俊記氏は入社してすぐの1968年に休職し、約15年間にわたって国会議員時代の石原氏の公設第1秘書を務めていた。2人の深い仲が取り沙汰されたのが、2002年の秋葉原の再開発プロジェクト。あまりにも短い応募期間だったので、鹿島を中心とした企業グループしか入札できなかった。栗原氏は当時、営業本部統括部長として、事業に深く関わっていた」(都政事情通)。

 ㊟石原慎太郎一家とスーパーゼネコン鹿島の関係は深くて黒い闇に包まれている。1999年の都知事選で石原の選挙事務所を仕切ったのは鹿島の社員だった。と言うのは、自民党は国連次長の明石康氏を公認済みで、自民党支持団体の医師会や宗教団体等の各種団体約400を明石支持でまとめてあったため、後出しジャンケンの石原は苦戦を強いられた。都知事選ともなれば島しょ部も含め、全東京都内にポスターを張り出すだけでも大変な労力と金が掛かる。法定選挙ビラを撒くのも莫大な費用が必要だ。電話作戦にも多くの人員が必要。看板の街宣車を都内全域に走らせる、街頭演説橋所の確保。警護等々、石原陣営は鹿島に全面的に頼った。多数の社員を事務所に派遣し、社員の妻らを派遣(電話作戦。街頭演説のさくら等)し莫大な金を費やした。見返りを要求するのは当然。それはゲンダイの記事にもある秋葉原の都有地の払い下げである。鹿島は目を付けていたその秋葉原の都有地を石原当選と同時に払い下げ申入れをしたのは間違いない。そして石原の長男、伸晃は、鹿島の会長が終の棲家として神奈川県葉山町に建設した億ションの、売りに出した一番高い1億7000万円もの部屋を妻と共同名義で購入している。

 【次世代の党を設立し最高顧問に就任】
 2014(平成26)年、8.1日、日本維新の会から分党した新党次世代の党を設立し最高顧問に就任。

 2014.11.30日、次世代の党の最高顧問である石原慎太郎が、衆院予算委員会で、安倍晋三首相に、「日本国憲法は日本語として明らかに間違っている!」 として憲法の“てにをは問題”をあげつらい、“改憲”を迫った。石原が問題にしたのは前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というくだり。石原によれば、この「信義に」は文法的に間違いで、「信義を」が正しいのだという。「助詞の『に』の使い方が明らかに間違いだ。おかしな日本語は日本に厄介な問題をもたらす9条につながっている」という論理を展開。「間違った助詞の一字だけでも変えたい。それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる」と言い出した。これに対し安倍首相は「文学者である石原先生らしい指摘」、「中学時代に丸暗記させられたが、すっと入らなかったことを思い出した」などと同調。「一字であっても変えるには憲法改正が伴う。『に』の一字だが、どうか『忍』の一字で…」と冗談まじりに答え議員たちの笑いをとった。

 そもそも石原慎太郎自身の悪文が有名で「“てにをは”の使い方がおかしい」、「日本語がヘン」と云われている。これを確認する。「弟」(幻冬舎、1996年)を俎上に乗せる。(「石原慎太郎氏の「てにをは」がヒドい 文壇では同氏の文章は悪文として有名」参照)
 〈弟という男がいったいその芯の芯に何を備えていたのかを知れずにいたといえる〉。
 「知れずに」は、「知らずに」か「知ることができずに」ではないだろうか。「人知れず」とでも混同してしまったのか。
 〈帰りは支流の分岐点までのべつなく船を引き摺って歩いた〉(「弟」、幻冬舎、1996年)。

 「のべつなく」という言葉はなく、「のべつまくなし」あるいは「のべつ」のまちがいでは。と思っていたら、現在の文庫版では「のべつ」に修正してあった。
 〈母が手にした白い琺瑯引きの洗面器に溢れるほど、たった今医者が瀉血した血がたわわに揺れていた〉(「弟」、幻冬舎、1996年)。

 「たわわ」というのは、実の重さなどで木の枝や棒がしなっている様子に使うのが一般的だが、まるで実のように血がいっぱいだったということだろうか。
 〈私には、弟のやがての相手の方が弟らしくも見えたし〉。
 裕次郎がはじめて家に連れてきた恋人が意外とふつうの女の子で「らしくない」と思ったというくだりなので、「やがての相手」というのは「やがて出会う相手」「やがて結ばれる相手」という意味なのだろう。しかし「やがて」は副詞なので、後ろに「の」をつけるこの表現は一般的とはいえない。
 〈それに拍車をかけたのが、学生ながらの弟の放蕩だった〉。

 「学生ながらの」。言いたいことはわかるが、「ながら」の後はふつう「の」でなく「に」ではないだろうか。

 『弟』が、国会議員を辞職し25年ぶりに書き下ろした長編だったから、筆が衰えていたというわけではない。慎太郎はデビュー当時から、その悪文ぶりを、ほうぼうから指摘されている。たとえば初期の短編「奪われぬもの」にはこんな表現がある。

 〈少なくとも試合の中の行為に彼はいかなる些細な意味合いも持たしたことがあっただろうか〉、〈そして行為が結果と言う形でいかなる意味を持つかは、果して彼自身にも本当に理解できるところではない〉。
 一読しただけでは、意味が“すっと入ってこない”のではないだろうか。当時東京新聞の匿名コラム「大波小波」は、この石原の文章について「変な言葉遣い」とし「一体に近ごろの若い作家の文章を見ると、係り結びが崩れてきているようだ」と批判している。

 三島由紀夫も慎太郎の悪文をたびたび指摘しているひとりだ。石原の最初の純文学長編「亀裂」について当時の「新潮」でこんなことを書いている。

 〈女から離れると何か骨のシンから出て来たような口をすぼめる一人笑いで明は歩いた〉
。
 「『骨のシンから出て来たような口』とはいかなる口かと思い惑ふが、「骨のシンから出て来たような」は、実は「一人笑い」にかかるのである。句読点なしで出まかせに続けられるこんな無秩序な語序、品詞の破天荒な排列」──。いかに慎太郎の文法がデタラメであるか事細かに指摘している。

 しかし三島は決して慎太郎の文学そのものを批判しているわけではなく、この悪文ゆえにギリギリのところで通俗性から逃れていると褒めているのである。三島は自身の文章論について書いた『文章読本』のなかでも、『源氏物語』や井原西鶴、横光利一の作品と並んで、慎太郎の「亀裂」を文章の見本として引用し、以下のように評している。「ここでは、日本語はいったん完全に解体されて、語順も文法もばらばらにされて、不思議なグロテスクな組み合わせによって、異常な効果を出しています」。文章のうまさ、読みやすさが、必ずしも文学的価値と比例するわけではない。石原慎太郎は悪文ではあるが、それが石原の小説に“異常な効果”をもたらす美点でもある、というのが三島の石原評だ。

 石原自身にはおそらく悪文の自覚はないと思われる。石原が自分の日本語力を棚に上げて他人の日本語の細かい表現をあげつらうのは、憲法前文だけではない。芥川賞の選考委員をしていたときも、候補作について「日本語がなってない」などとしょっちゅう批判し、豊崎由美、大森望のメッタ斬りコンビから「お前が言うな!」と突っ込まれていた。


 【第47回衆議院議員総選挙に比例単独での出馬し落選】
 2014(平成26)年、12.14日、体力不安もあり第47回衆議院議員総選挙前の引退を示唆するが、党員に引き止められ比例単独での出馬を決断し落選。比例順位は石原の希望により最下位にあたる9位だった。

 議席数は19から2へと激減した。党首の平沼赳夫氏(75)は開票の結果を受け、ホテルニューオータニ東京の一室で渋い顔で言った。「お相撲さんの世界を見ても、最初はぶつかり稽古で地面にたたかれても、そこから成長があります。われわれもそこからです」。党幹事長の山田宏氏(56=東京19区)は落選。「打倒公明党」を掲げ、太田昭宏前代表のいる東京12区から出馬した目玉候補、元航空幕僚長の田母神俊雄氏(66)もあっけなく落ちた。「私も空軍ですので一度飛び上がったら燃料がなくなるまで飛び続けるしかない」と、田母神氏。

 そんな危機的状況だが、最高顧問の石原慎太郎氏(82)は開票日、姿を現さなかった。選挙戦初日、JR新宿駅前での街頭演説では、「みんなで本当に次世代、子や孫のために頑張ろうな」と、熱く力強く聴衆に呼びかけたが、選挙戦早々に政界引退を示唆した。党関係者は不満げだ。「石原さんを推す人の票も『やる気がないのなら……』と離れてしまった。せめて、引退示唆は選挙後にしてほしかった。積極的にもっと応援に来てくれたら変わった気がするのに」。石原氏は最終日、山田氏の応援に駆けつけた。山田氏は以前、東京8区である杉並区長を務めており、同区での人気は高い。だが、石原氏の長男・伸晃氏(57)の選挙区のため、同区からの出馬に石原氏が反対したという。「山田さんの応援に来たのは、後ろめたさがあったからでしょう」(同)。だが、その応援では、自らの政治生活について話し、「一番したいことはシナと戦争をして勝つこと」などと語り、大きな拍手を浴びた。さながら個人演説会だった。また、伸晃氏と三男・宏高氏(50)の当選には、公明党の後ろ盾が不可欠。仲がよい田母神氏の応援に訪れなかったのは、このためと言われている。公明党の太田氏の応援には、伸晃氏が訪れていた。一方、党首の平沼氏は当選。ただ、寒空の下、コートも羽織らず直立する姿はさすがの風格だが、手すりを両手でつかまないと選挙カーの階段を下りられない。「平沼さんまで引退したら党の顔がいなくなってしまう。次を担える人材が育っていないのに……」(同)。石原氏は党の次世代(後継者)より石原家の次世代(息子)が大事だったのか。※週刊朝日2014年12月26日号

 【政界引退】
 12.16日、次世代の党の最高顧問で次世代の比例代表東京ブロック名簿の最下位に登載されていた 石原慎太郎(82)が日本記者クラブで記者会見し、正式に政界引退を表明した。「悔いはない。晴れ晴れとした気持ち」と強調。「『次世代の党』でなく『新党ヤマト』の名前にしたかった」と次世代の党への不満を語った。自主憲法の制定を掲げた次世代の党が選挙で大敗したことについては「国民の関心は憲法にない」と淡々とした表情で語った。日本維新の会で共同代表を務めていた橋下徹・大阪市長を未来の総理候補と持ち上げ、「彼は天才だ。再登場すると思うし、させなければいけない」、「彼ほど演説の上手い人はいない。若いときのヒトラーだ」みたいだと発言した。

 「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die, but fade away)」というマッカーサーの言葉を考える。今後は若手芸術家の育成などに携わる考えを示し、「言いたいことを言ってやりたいことをやって、人から憎まれて死にたい」と語った。「中国は嫌いだ。共産党の独裁を壊滅させなければ駄目だ」と持論を展開する場面もあった。本サイトで既報の「野望は支那と戦争して勝つこと」発言について問われた際も、あらためて発言を認め「私が首相なら(尖閣諸島の中国船を)追っ払う」「けんか仕掛けているのは向こうだ」などと言い放った。

 なかでも心残りとして慎太郎が語ったのが、憲法改正だ。「心残りは憲法の一字も変わらないことだ」と切り出し、「あの醜い前文ひとつを見ても、間違いが非常に多い」、「言葉には助詞、動詞、形容詞、いろいろあり、助詞も非常に大事な要素だ。この助詞の間違いが前文にたくさんある」などと憲法全文の“てにをは”が間違っていると、あげつらった。そして10月の国会で安倍首相に一文字改憲を迫った際に語った「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というくだりについて「人にお金を貸すとき、『あなたに信頼してお金を貸します』とは言わない。やっぱり『信義を信頼』だ」と主張した。
 作家として芥川賞を受賞後、35歳で政界入りして40年余り。「晴れ晴れとした気持ちで政界を去れる」と述べた。今後はヨットレースへの出場や、若い芸術家の育成に力を入れるという。 衆院選落選から2日。石原氏は内幸町の日本記者クラブで会見し「キャリアの中で歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは、うれしい経験だった。晴れ晴れとした気持ちで政界を去れる」とサバサバとした様子で政治生活を振り返った。公示前には「老兵は去るのみ」といったん引退を表明したものの、党内の若手に促され前言を撤回。比例東京ブロック最下位の9位で立候補した。同党は獲得議席も19から2と大幅減となった。

 心残りについては「憲法が一字も変わらなかった」。次世代の党の敗北には「政党の名前としては問題がある。浸透しにくい名前だった。時間がなかった」と分析した。 日本維新の会をともに立ち上げた、維新の党の橋下徹共同代表について質問すると「彼は天才だ。あんなに演説がうまい人を見たことがない。うまさは若い時の田中角栄だし、迫力はヒトラー」とベタ褒め。「彼は再登場すると思うし、させなきゃいけない」と持ち上げた。

 また、中国メディアから中国は嫌いかと聞かれると「嫌い!あんた方がチベットをなくしたんだ」などと気色ばんだものの、以前のような歯に衣(きぬ)着せぬ石原節をサク裂させることはなかった。

 今後は「国内外の若い芸術家を育てる仕事をしたい」と述べるなど、新しい芸術に力を注ぐ方針で、体調面には問題ないとばかりに「元気ならヨットレースに出たい」と意欲を示した。ラストメッセージには「もうすぐ死ぬんでしょうけど、言いたいことを言って、やりたいことをやって、人から憎まれて死にたい」と締めくくり、ようやく“らしさ”を見せた。

 芥川賞作家から1968年に政界に転身、以来舌鋒鋭く世論を刺激してきた石原氏。「キャリアの中で歴史の十字路に何度か立つことができたのはうれしい経験だった」と政治生活を振り返った。  

 政界引退は衆院解散時に「見回すと国会議員の最高齢者になっていた」と決意。次世代の党の若手議員に懇願され、比例の東京ブロックで名簿最下位で出馬したが、党は改選前の19議席から2議席と惨敗した。

 敗因について石原氏は「党名が浸透しにくい名前だった。私は『新党ヤマト』でいけばよかったと思ったが、過ぎたことだから愚痴でしかない」と指摘。「名簿の最初に石原さんの名前があったら票数も違った。という人がいたが、それは分からない。もう選挙の結果はいいでしょう」と衆院選の話題を打ち切った。

 それでも、2012年の前回衆院選で組んだ橋下徹氏(45)については「私の人生の中で、彼と知己を得たのは快事の一つ。総理になると思う。彼のように演説がうまい人は見たことがない」と評価。「国会で内閣を動かさなければ、大阪は持ち上がってこない」と述べ、国政進出に期待感を示した。

 今後は「内外の若い芸術家を育てる仕事をしたい」と話した石原氏。会見では尖閣問題で突っ込んできた中国メディアに「けんかをしかけているのは向こうだ。頭を冷やした方がいいよ、シナの人は」とやり返す一幕もあった。引退はしたが、今後も“ご意見番”として大いに活躍してくれそうだ。 最後まで“慎太郎節”を炸裂(さくれつ)させた。

 足元を気にしながら、ヨロヨロと登壇する姿が引退の真実を物語っていた。冒頭、慎太郎氏は「50年以上も政治に携わって参りました(実際には初当選から46年)が、今度の選挙でああいう結果になって引退の決心を致しました」と思いを語った。

 最高顧問として率いる次世代の党が19議席から2議席に減らす大惨敗を喫した衆院選から2日。自らも立候補したが、比例最下位での出馬は事実上の引退宣言だった。「仲間に対する最低限の義理は果たせました。落選という形で討ち死にするのも一つの宿命」と殊勝に語りつつ、敗因を問われると「党名が浸透しなかった。『新党富士』とか『新党ヤマト』が良かったけど、富士はリンゴがあって、ヤマトは『宇宙戦艦ヤマト』で重複するとかで」と笑った。

 1968年に参院議員として政界入りして46年。歯に衣着せぬ物言いで物議を醸し続けてきたが、やはり最後まで慎太郎節を炸裂。中国メディアから「中国嫌いですか?」と問われると「嫌い!」と即答し「共産中国、好きな人はいない。あんたがたがチベットなくしたんだ!」とカミついた。

 一方、分党前に共闘した維新の党・橋下徹共同代表については「彼は天才。あんなに演説がうまい人はいない。若い時の田中角栄、若い時のヒトラーだね」とビミョーな表現で絶賛。そして「(今選挙は)出るべきだった。前日まで電話して口説いたけど『風呂敷を広げすぎたので畳みます』と言うから『君は大阪という井戸を出て国会から日本という大海を見ろよ』と言った」と舞台裏を明かした。

 別れ際に「間もなく死ぬんでしょうけど、死ぬまで言いたいこと言って、やりたいことやって、人から憎まれて死にたい」と言い残した82歳。今後について「生きてて元気なら、来年もヨットレースをしたい。好きな海ですから」と笑顔も見せていた。


 2015(平成27)年

 【旭日大綬章受章】
 2015年春の褒章で旭日大綬章受章。

 2016(平成28)年


【「小池百合子都知事候補に対して大年増の厚化粧」発言】
 2016年の都知事選挙の際、当選すれば史上初の女性都知事が誕生するということでレース中から大きく話題になっていた小池百合子都知事候補に対して、元都知事の石原氏は、別の候補者(増田寛也氏)の側についていた。その応援演説で、石原氏は小池氏のことを「大年増の厚化粧がいるな」、「(都政を)厚化粧の女に任せるわけにはいかない」とこき下ろし「セクハラだ」と波紋を呼ぶ。小池氏は化粧で顔のあざを隠していると明かしているが、石原氏はそのコンプレックスをも無遠慮に刺激した。

 バッシングに屈することなく当選した小池氏は、8月1日放送のテレビ番組『モーニングショー』(テレビ朝日系列)にて、石原氏の次男である石原良純氏と共演。良純氏が「石原慎太郎というのはああいう人」「多分謝らないと思いますので、私が代わりに」と詫びを入れる一幕があった。

 ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK205 」の赤かぶ氏の2016 年 5 月 09 日付投稿「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由(リテラ)」。
 左・舛添要一の公式サイトより/右・石原慎太郎公式サイトより 

 舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由
 http://lite-ra.com/2016/05/post-2228.html
 2016.05.09. 石原都知事時代の贅沢三昧は舛添以上  リテラ

  たとえば、04年、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が「『知事交際費』の闇」と題した追及キャンペーンを展開したことがある。「サン毎」が情報開示請求を通じて明らかにしたのは、高級料亭などを使って一回に数十万単位が費やされていた「接遇」の実態だった。これは、他の知事と比べても突出したもので、しかも相手の顔ぶれを見ると、徳洲会理事長の徳田虎雄氏や文芸評論家の福田和也氏など、ほとんどが石原氏の友人やブレーン。ようするに石原氏は“お友達”とのメシ代に税金を湯水のごとくぶっ込んでいたのだ。

 訪問国や為替レートを考えると、これは、今問題になっている舛添都知事と同じ、あるいは、それ以上の豪遊を税金を使って行っていたといっていいだろう。ところが、当時、この「サンデー毎日」のキャンペーン記事を後追いするメディアは皆無。世論の反発も怒らず、追及は尻すぼみに終わった。

 しかし、その2年後、石原氏の“無駄遣い”が再び発覚する。発端は、共産党東京都議団の追及だった。しんぶん赤旗06年11月16日付によれば、石原氏が都知事に就任してからの19回の海外出張のうち、資料が入手できた15回だけで、総経費が2億4千万を超えていた。たとえば、06年5月からのロンドン・マン島出張では、本来の目的であるはずの五輪の調査は実質約1時間半にもかかわらず、マン島でのオートバイレース見物などをして3600万円もの経費をかけていたという。

 この再燃した豪華外遊問題に加え、石原氏が自分の四男のプロジェクトに都の税金を億単位もつぎ込むなど、身内を重用したことも問題視された。そして、湯水のように使っていた交際費についても、裁判で一部が「違法」と認定され、09年に石原氏の敗訴が確定している。

 つまり、先に述べたとおり、東京都知事の公私混同&贅沢三昧は、石原都政の頃からすでに顕在化していたのだ。

 さらに言えば、舛添都知事は「湯河原へ行っているときに大地震が起きたら指揮がとれないだろ!」と糾弾されているが、実は、石原氏にいたっては、都知事でありながら登庁すらせずに、たびたび“行方不明”になっていたという。

「サン毎」は04年1月25日号で石原氏の「勤務実態」についても追及しているのだが、入手した公文書によれば、石原氏の“出勤”は週平均でわずか3日程度。また、公用車の運転日誌によれば、登庁日も自宅を出るのはだいたい午前10〜11時ごろだったという。

 企業の相談役でも石原氏よりは“出勤”しているのでは?と思えるサボりっぷりだが、しかも問題は、知事日程表にしばしば登場する「庁外」なる文言だ。これは、知事の動向を職員たちが把握していない日を指す。つまり“動静不明”なわけだが、これが資料に記された1年間7カ月の期間で、なんと110日も数えられたという。

 つまり、今、舛添批判のひとつとなっている「都知事が緊急時に連絡がつかない」という問題についても、石原氏はその“先駆者”と言えるのだ。いや、一応湯河原の別荘にいることが分かっている舛添都知事と比較してみると、職員らが行く先を把握していなかったという石原氏のケースは「危機管理」の観点から見ても、よっぽどトンデモだろう。

 では、なぜ、目を爛々とか輝かせて舛添都知事を追及しているマスコミがあの時、石原都知事の問題を徹底追及しなかったのか。それは、石原批判が多くのメディアにとって“タブー”だからだ。

 ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。

 批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。

 その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

 にもかかわらず、舛添都知事だけが、マスコミから徹底批判されているのは、今の都知事にタブーになる要素がまったくないからだ。それどころか、安倍政権の顔色を伺っているマスコミからしてみれば、舛添都知事は叩きやすい相手なのだという。

「安倍首相が舛添都知事のことを相当嫌っているからね。舛添氏は第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際、『辞職が当然』『王様は裸だと言ってやれ』と発言するなど、安倍降ろしの急先鋒的存在だった。安倍首相はそんな舛添氏の口を塞ごうと内閣改造で厚労相にまで起用したが、内心ではかなり舛添に腹を立てていた。都知事になってからも、五輪問題で安倍の側近の下村(博文・前文科相)を批判したり、憲法問題で『復古的な自民党改憲草案のままなら自分は受け入れられない』などと発言をする舛添都知事のことを、安倍首相はむしろ目障りだと感じていたはず。だから、今回の件についても、舛添が勝手にこけるなら、むしろいいチャンスだから自分の息のかかった都知事をたてればいい、くらいのことを考えているかもしれない。いずれにしても、官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているんだと思うよ」(政治評論家)

 実際、普段は露骨な安倍擁護を繰り返している安倍政権広報部長というべき田崎“スシロー”史郎・時事通信社解説委員なども、舛添に対してはうってかわって、「外遊なんてほとんど遊びだ」と激しい批判を加えている。

 一方で、石原元都知事にその贅沢三昧のルーツがあることについては、今もマスコミはタブーに縛られ、ふれることさえできないでいる。

 舛添都知事の不正を暴くのは意味のあることだが、「マスコミもやる時はやるじゃないか」などと騙されてはいけない。強大な権力やコワモテ政治家には萎縮して何も言えず、お墨付きをもらった“ザコ”は血祭りにする。情けないことに、これが日本のメディアの現状なのである。 (宮島みつや)

コメント
1. 2016年5月09日 09:57:51 : UbKxk03a2s : vx@fVc1In8E[1]

都知事時代の石原のデタラメは枡添の比ではない。
http://dot.asahi.com/aera/2013122500044.html
http://blogs.yahoo.co.jp/pongisayoku/27186630.html

徳州会疑惑では生贄の小物利権屋猪瀬しか司直が踏み込まないとうデタラメである、徳州会疑惑で石原が聴取さえ受けないという信じられない腐敗社会構造なのだ。
http://www.sankei.com/images/news/140925/plt1409250026-p3.jpg
http://madconnection.uohp.com/mt/archives/002101.html
改憲利権ジジイ石原慎太郎ほど利権の固まりであった男はいないが、どこもマトモな追求はしていない。

なぜ石原は叩かれないのか? 言うまでもないことだ、尖閣国有化の巨大利権構造と石原は密着合体しているからだ。
http://esashib.com/poor01.htm

http://blogs.yahoo.co.jp/pongisayoku/26900150.html
http://tamutamu2011.kuronowish.com/yumikotyannjikenn.htm
「西部航空方面隊司令官」「呉地方総監」「陸上幕僚長」「航空集団司令官」「第一師団長」などそうそうたる自衛隊幹部が三菱(原発・軍事)財閥の「顧問」として天下りしていることが分かった。 これほどあからさまな憲法改悪の巨大利権、税金収奪構造は他では有り得ない。マスコミは瑣末な生活保護者を叩いても、この憲法改悪の巨大腐敗構造を叩くことがもう出来ない構造が確立している。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-03-19/2012031915_01_1.html
日本の軍事費は実質6兆を軽く超えて、税収の15%であり、毎月毎月5000億円もの巨額税金が自衛隊と軍事財閥に盗み出され、一人頭は中国の9倍にもなり国民生活はボロボロで保育所さえ足りない発狂軍事国家といわれる。 (近年は国交省などの予算に軍事道路港湾などの予算や文部科学省には宇宙関連予算を紛れ込ませ真の防衛費は総税収39兆円の内8-9兆円ではないかと言われる、国民生活が戦時中と同じにボロボロになるのは当たり前の構造なのだ。)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/Part2.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/pongisayoku/26811072.html

http://kwout.com/cutout/s/km/pa/z8p_bor_sha.jpg
中国を挑発して引き摺り出す尖閣国有化の巨大利権
http://netgeek.biz/archives/41345
日米安保詐欺同盟の戦争法案巨大利権。
極右利権屋の石原慎太郎を使い軍産ヘリテージ財団で会見させ突然尖閣を国有化、
沖縄の市民に暴行して辺野古を埋め立て、
攻撃兵器オスプレイを全土に配備し、市民や学生を蹴散らして憲法違反の安倍戦争法案で、中国を次々に軍事挑発し南沙埋め立てを引き出し脅威論を振り撒く軍事財界と自衛隊の巨大な憲法改悪利権。中国や北朝鮮やロシアに露骨な軍事挑発を仕掛けて巨額な税金を引き出す自衛隊と財界の巨額改憲利権。
現在の自衛隊インチキ防衛予算は実質毎月毎月5000億円で、国民生活はボロボロに破壊されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/pongisayoku/27178935.html
http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-6871.html
尖閣国有化の巨大改憲利権。週末は葉山でクルージング。 この夏、遊び人風に焼けた肌をさらしていたのが、自民党総裁選で本命視される石原伸晃幹事長(55)だ。日焼けの原因はクルージング。石原伸晃は神奈川のビーチリゾート「葉山」に立派な別荘を構えている。目の前に相模湾が広がる高級リゾートマンションです。部屋数は5戸のみ。大手ゼネコン『鹿島』の創業家をはじめ、セレブが所有しています。伸晃氏の部屋は元タレントの里紗夫人との共同名義で、専有面積は約145平方メートル。近くのヨットハーバーには自前の豪華クルーザーを係留させ、伸晃氏が会員権を持つ『葉山国際カンツリー倶楽部』も車で10分足らずの距離です。相場は今も議員歳費では買えない1億円を下らないと聞いています。(自民党関係者)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-15/2012091514_01_1.html

18. 2016年6月11日 18:54:03 : qF4T1YwunA : 0ID5WaAuWRA[768]
 石原慎太郎のヘリテージ財団での講演ばかり話題になりますが、その半年ほど前に伸晃が、やはり米軍産複合体系のハドソン研究所で”尖閣”に火をつけています。

①2011年12月13日:石原伸晃、ハドソン研究所
  ↓
『自民党の石原幹事長、「尖閣諸島に自衛隊を常駐させるべき」』
http://www.afpbb.com/articles/-/2845597?pid=8195350

②2012年4月16日:石原慎太郎、ヘリテージ財団
  ↓
『尖閣諸島と石原慎太郎とヘリテージ財団』
http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120418/1334711376

20. 2016年6月14日 19:15:29 : zvmAC44GK2 : mr8DSYKvVCM[67]
 実は、棄民党議員はもっと酷い・・・
 ★:ノビテルの視察名目の外<遊>三昧~~~環境大臣時代

 南国の環境調査と嘯き、数百万円の政務調査費を財務省から貰い、毎日、朝から、スキューバダイビング三昧をする。全身がスーツなのでばれないと思いきや、頭の形が三角なので、周りに居る日本人観光客が気付き、水中めがねを外した瞬間、一斉に写メを盗られ、週刊誌に掲載された。国会で追及されるものの、甘い追及で、尻蕾に。

 ======

 これだから、小泉は厚生大臣時代はゴルフやスキーの練習器具を持ち込んで勉強一つしないし、アヘン王子は広島土砂災害時もJR東海の会長と高級料亭で豪遊三昧。

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 日頃、遊び疲れてるので、国会では居眠りが多い。若い進次郎は、コミック本まで読み耽ってる始末。福島のB層の爺婆への駄洒落の種でも探してたか。

35. ジョンーk[5] g1eDh4OTgVtr 2016年6月15日 15:23:44 : bXODWBkea2 : 07wIee71JJA[3]
>20 南国の環境調査と嘯き、数百万円の政務調査費を財務省から貰い、毎日、朝から、スキューバダイビング三昧をする。ある絵描きの人から聞いた話ですが、その人は毎年ある時期に南国の島へ服用すると気持ちが良くなるあるものを取りに行くそうですが、毎年行くたびに石原のヨットが停泊してて、気持ちが良くなるあれがかなりなくなっていると真剣にぼやいてました。本当の話です。


 2010年代の著作は次の通り。「声に出して詠もう和漢朗詠集」、「真の指導者とは」、「再生」、「新・堕落論」、「我欲と天罰」、「平和の毒」、「日本よ」、「石原愼太郎の思想と行為」。
 共著
  • 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社 1969
  • 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
  • いかに国を守るか 羽仁進藤原弘達 日新報道 1970
  • エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文藝春秋 1970
  • 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文藝春秋 1975
  • 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
  • それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: 渡部昇一小川和久) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
  • 断固「NO」と言える日本 (共著: 江藤淳) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
  • 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
  • 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 市川周共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
  • 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
  • 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
  • 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
  • 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
  • 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
  • 生きる自信 健康の秘密 石原結實対談 海竜社 2008
  • 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 松平康隆対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449
 随筆・対談・評論選集
  • 石原慎太郎の思想と行為 第1巻 政治との格闘 産経新聞出版 (平成24年10月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第2巻 「NO」と言える日本 産経新聞出版 (平成24年10月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第3巻 教育の本質 産経新聞出版 (平成25年1月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第4巻 精神と肉体の哲学 産経新聞出版 (平成25年2月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第5巻 新宗教の黎明 産経新聞出版 (平成25年3月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第6巻 文士の肖像 産経新聞出版 (平成25年4月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第7巻 同時代の群像 産経新聞出版 (平成25年5月)
  • 石原慎太郎の思想と行為 第8巻 孤独なる戴冠 産経新聞出版 (平成25年6月)


【石原慎太郎とオウム・統一教会の関係】
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK137」のちゃむちゃん氏の2012.10.29日付け投稿「ほんとだろうか? 石原慎太郎の四男はオウムの幹部 橋下維新 「石原と地獄に堕ちそう」 石原スキャンダルがスゴすぎる」を転載しておく。
 ちょと、ネットからひろってみました!ほんとだろうか?

 橋下維新 「石原と地獄に堕ちそう」 石原スキャンダルがスゴすぎる。

 石原慎太郎の四男はオウム真理教の幹部。石原四男坊こそ、石原慎太郎の”アキレス腱”である。

 【石原慎太郎とオウム・統一教会の関係】

1.石原慎太郎は、浜田幸一『ハマコーの非常事態宣言』の中で、山口敏夫と共にオウム真理教への資金提供を行っていたと批判された。

2.石原慎太郎は、統一教会系の霊友会に支持され、オウムは統一教会信者の早川により武装化された(実質乗っ取られた)。

3.石原慎太郎の弟裕次郎の手術の執刀医がオウムの林郁夫。

4.石原慎太郎の圧力でオウム真理教は宗教法人になった。

5.オウムの麻原は、「石原慎太郎が日本のリーダにふさわしい」と言っていた。

6.オウム元幹部は、クーデター成功の暁には石原慎太郎氏を首相に想定していたと証言

7.石原4男、延啓氏はオウムの準幹部(官房長官副秘書官)だったが、第7サティアンで"救出"され、保護、その後暫くの間、高尾病院に強制入院させられていた。

8.麻原が瞑想していた座の後ろにあった曼荼羅は画家である四男延啓の作である。

9.石原慎太郎は、検察当局との「司法取引」により、公職即ち国会議員を辞職。不問に付したのが当時の野中国家公安委員長

10.石原慎太郎が尖閣買うと発表したヘリテージ財団は統一協会の文鮮明から資金提供

 また出た韓国のカルト宗教、統一教会。

 コレが報道されたら、石原と維新の会は全滅。

 ですか( ̄(工) ̄)y
 補足
 http://wind.ap.teacup.com/people/6887.html  

 転載元
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296387137

03. 2012年10月29日 08:16:22 : pUnCMCeCqw
 石原慎太郎いわく、小学館「文藝ポスト」2000年秋号で「三島さんには今度はもうちょっと綿密なクーデター計画を立てて、本気でやりましょうって言うわね(笑)。」 「今の日本は軍事政権でも擁立しない限りどうにも変わらないよ、本当に」
 http://www.geocities.jp/inkyo_at_the_corner/3-7coupdetat.html

 1~10まで、ぜーんぶ事実だよ。こいつは、オウムを使って自作自演テロを起こして、トップに成りあがろうとしたのだ。「SP」という映画で国会を占拠する自作自演テロを扱っているが、これと同じ構図だ。
 http://sp-movie.com/kakumei/story.html

 こんなのが首相だと・・・ふざけるな。とっとと師ね!

04. 2012年10月29日 08:54:22 : pUnCMCeCqw
 まだ、こいつはトップになることを諦めてないと思う。特に11月は非常に危険だ。三島事件は11月25日、オウムのクーデターも11月に予定していた。こいつがはじめた東京マラソンで異常の数の警官を動員しているのもテロ対策の予行演習なのだ。最後の悪あがきで、自作自演テロを東京で起こす可能性は否定できない。尖閣募金がテロのために使われるのではないか危惧している。

 オウム真理教の国家転覆計画とは、オウム真理教が企てた国家転覆計画。「11月戦争」
 1995年3月の警察による強制捜査により頓挫することになったが、教団は同年11月に「11月戦争」と呼ばれる「無差別大量殺戮計画」を企てていたことが明らかになった。「11月戦争」計画によると、1995年11月の国会開院式に乗じて、教団所有の軍用ヘリコプターを使って東京上空からサリンを散布、天皇・閣僚・国会議員を含む東京都民を大量殺戮する。そして日本の混乱に乗じて、米・露・朝の各軍隊による核戦争を誘発させる。その間、教団はサティアンに篭り、核戦争終結後に国家機能が消滅した日本を統治するというものであった。

05. 2012年10月29日 09:18:32 : ASoliZlDAM
 チン太郎は、オウムにかかわりサリン事件でで国政を引いたのだ。石原慎太郎、こいつの正体を国民に周知しないと国が亡びる。愛国者ブル奴ほど、売国奴である。騙されてはいけない。アメリカの片棒を担ぐ政治家に成り下がった。立ち上がれニッポンの平沼氏は、目が冷めて欲しい。
06. 2012年10月29日 09:56:44 : OWyk4nzirs
オウムと石原慎太郎の意外な関係
http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/691.html
なぜ石原慎太郎親子はつかまらないの?
http://blogs.yahoo.co.jp/shion1082001/46123894.html
石原伸晃の「サティアン」発言について
http://www.asyura2.com/12/senkyo135/msg/730.html
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/290.html
 1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑なに宗教法人認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをするためにはなんとしても宗教法人の認定を受けたかった。林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に、状況打開の依頼がいったことは想像に難くない。実際、石原慎太郎は運輸大臣の肩書きを背景に東京都にプレッシャーをかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人に成りおおせている。

 石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。宗教法人を隠れ蓑にしなかったら、このようなとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか。当時、政権は村山富市首相であり、自民党は戦後もっとも弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政府は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。その原因を作った人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上で踏ん反り返っていることが衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。表面的には強がりを言っていたが、詰め腹を切らされたことは、想像に難くない。
07. 2012年10月29日 10:33:53 : 9mOM3FEthM
 長男も顔が逝っているが、四男もかなりヤバそうだ。一応は画家ということになっているが、その絵には精神的な疾患を感じさせるところがある。
 http://nobuhiroishihara.com/works/

 また石原家によるトーキョーワンダーサイト私物化の疑惑も指摘したい。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%
AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88

 石原延啓氏がオウム真理教に入信していたこと、その関係もあってか石原慎太郎氏がオウム真理教の宗教法人化に尽力したり資金提供したりしていたというのは目新しい情報ではない。


【石原慎太郎政論「ある、とんでもない提案」考】
 石原慎太郎エッセイ「日本よ」のある、とんでもない提案」(2004年5月3日発売の産経新聞掲載)を転載しておく。
 「ある、とんでもない提案」

 文明が進み人間や情報の行き来がより簡単になって、今日、世界では予期せぬ出来事、予期できぬ出来事が頻発しているが、しかしその根底に理由無き理由などありはしない。そのすべてに人間たちの歴史がさまざまに介在している。そして世界はいまだかつてない危機に繋がる不安定に晒されている。

 識者にいわせれば今日の世界の不安定要因の七〇%はパレスチナ問題にあるともいう。確かに戦後からこのかた、かの地ではすでに四度の戦争が行われ、さらに今なお血で血を洗うテロと弾圧がくり返されている。ユダヤ教、イスラム教という絶対神を仰いだ一神教同士の憎しみの激しさと戦いの凄まじさは、日本人のように鷹揚(おうよう)な汎神論的価値観の保有者には理解に遠い観があるが、しかし現実には悲劇に継ぐ悲劇が進行してい、それが増幅しさらに他の地においても新しい危険を醸し出している。

 パレスチナ問題はもともと、イギリスの第一次、第二次戦争後の外交野心にきざした無責任な二枚舌、いや三枚舌外交のもたらしたものだが、戦後世界でのユダヤ人の復権台頭に伴って、彼等がその致命的中枢を支配する、今日世界唯一の超大国になりおおせたアメリカの動向をも規定している。それは世界のアメリカ化への兆候への反発とあいまって世界中で、ハンチントンが懸念した文明の衝突の態様を示すにいたってしまった。

 パレスチナを巡るパレスチナ、ユダヤ両民族の過去の歴史を眺めれば、気の遠くなるような長い長い経緯を背景にしてもなお、周囲の大国に一方的に振り回されつづけた両民族は気の毒というよりない。そして彼等が共にそれぞれの強い信仰を踏まえた民族と文化の沽券(こけん)にこだわりつづける限り解決の道は遠く、その火種はとどまることなく世界中に蔓延(まんえん)しつづけるだろう。

 私はかつて、当時ごく親しかったエジプトの大使にパレスチナの人々に安住の地を与えるべく、一度はイスラエルに占領された、あのほとんど瓦礫(がれき)の連なりのシナイ半島の一部をパレスチナ人に提供したらどうだといったことがある。答えは、とんでもない、あなたは日本の政治家として日本の領土の一部をそうする決心が出来ますかということだった。

 そこでの、敢えてとんでもない提案だが、第二次世界大戦のどさくさにソヴィエトにかすめ取られたきりこの半世紀余未だに還ってこない北方領土の国後なり択捉の一島を、世界の安定のために割譲しパレスチナ人に入植させ新しい国家の建設をさせるというのは、はたして能天気な話だろうか。そのためにはロシアもまた同意する必要がある。北方四島だけではなくシベリアのような広大な国土をもてあましたままでいるロシアにとって、その領有にいかなる正当性も有り得ぬ島の一つを、持て余したきりで国家の沽券のためいたずらに抱えつづけることなく、世界の安定のために返還ではなしに、彼等にしても割譲ということになるのかも知れないが、新しいパレスチナ建設のために提供する決心をしたら世界の歴史は大きく変わっていくに違いない。

 国後や択捉はそれぞれ面積からいっても、沖縄本島を上回る十分な大きさを持ち、気温はパレスチナの地に比べれば寒くはあっても、豊かな緑や水に恵まれた豊穣(ほうじょう)の地である。ちなみに沖縄本島の総面積は一二〇〇平方キロメートル。国後は一五〇〇平方キロメートル。択捉は三二〇〇平方キロメートル。パレスチナ自治区の面積は六〇〇〇平方キロメートル。入植地ガザは三六〇平方キロメートルでしかない。

 アラブの諸民族の中でも極めて優秀とされるパレスチナ人ならば、短期間にして充実した新国家の建設は可能に違いない。日本もまた至近な友国として多角的な協力が可能だし、そうした協力は水爆を保有し日本向けのミサイルを配備し、尖閣諸島を侵犯してはばからぬ中国へのODAの提供なんぞよりもはるかに世界中の納得を得られるに違いない。

 そうした至近な隣国との交流は新しい混血混交をもたらしさらに、文明の衝突の代わりに、新しい文明文化の造成にも繋がっていくに違いない。これはこの現代にして初めて可能な、人類として未曾有の実験ともいえるだろう。戦後このかたパレスチナの独立のために辛苦してきたアラファト議長も、かつて囚われのユダヤ人たちを率いてエジプトを出た「出エジプト記」のモーゼのように決心して、国家民族のための新しい実験に乗り出したらどうかと想うのだが。過去にも民族の大移動が歴史を変えた事例もある。

 と、こんな夢想?を提言としてものすれば、かつてソヴィエトから被った非道を忘れ得ぬ人々から(私もまたその一人だが)非難の声が返るかも知れないが、今日の日露関係の態様からすれば私たちの目の黒い内にあれらの島々が全て戻ってくるとはとても思えない。あの豊穣な土地を人間の財産として人間たちのために今最も有効に役立てる術は、あの島のどれかに新しいパレスチナを、世界の意志として作り上げることではないかと思うが、これははたして戯(たわ)けた夢想に過ぎないだろうか。それを実現することは、強い信仰を持つパレスチナの人々にとっても決して屈辱ではあり得ないと思うのだが。

 余り世の役にたっているとは思えぬ国連あたりで、こんな提案を持ち出してみたらと思うのだが。

(私論.私見)
 この論文ほど石原らしさを示すものはあるまい。前段はまずまずの見識を見せている。これによれば問題意識は良いと云うことになる。後段から途端に論が崩れ本人が認めるトンデモ論になる。具体的には、パレスチナ紛争による難民を北方領土へ送り込めなる論を提案している。誰が見ても、石原自身が認めるように、「パレスチナ問題はもともと、イギリスの第一次、第二次戦争後の外交野心にきざした無責任な二枚舌、いや三枚舌外交のもたらしたものだ」と云っておきながら、「戦後世界でのユダヤ人の復権台頭に伴って、彼等がその致命的中枢を支配する、今日世界唯一の超大国になりおおせたアメリカの動向をも規定している」からしてこれに事大主義的に従うべしとして、パレスチナ難民の方を北方領土へ送り込めなどと云う。暴論と云うより無茶苦茶と云うしかない。ここから云えることは、「問題意識まずまず、時に鋭く辛辣、権威に事大主義、処方箋が無茶苦茶、放言癖あり。話題を呼びそうなネタを探して衝撃発言しドラマ化させるのを生き甲斐としている軍事、原発パラノイア」と云うのが石原慎太郎の人となりと云えそうである。

 2012.10.29日 れんだいこ拝

【東京都知事の権限考】
 都知事の権限を考える上で役に立つサイト「『都知事―権力と都政』より、石原都政三期十二年を振り返る」(佐々木 信夫「都知事―権力と都政 (中公新書)」)にヒットしたので、これより学ぶ。

 都知事は、全国有権者の一割に及ぶ1000万有権者(平成23年3月時点で10,679,880人)の直接投票によって選ばれ、強い権力と影響力を持ち、首都の顔として国政にも影響を与えるのが都知事である。この都政を自在にして来たのが石原である。主としてこれを確認したい。都の予算規模は韓国の国家予算並みの十二兆円、職員数十七万人と飛びぬけて大きく、トップに立つ都知事は裁量権も大きい。東京都の経済規模はGDPベースではカナダを抜いて世界第九位にあたり、世界上位五〇〇社の本社数も五一社と二位パリに二倍近く差をつけて一位、ニューヨーク、ロンドンと並ぶ金融市場を擁するなど国際社会に対する影響力が強い。国内に対しても、政治、行政、経済、情報、文化の中枢機能が集中し、GDPの約二割、国税収入の四割、株式売上高の約九割、本社・本店、外国企業の五割、情報サービス業(売上)の五割、銀行貸出残高の四割、商業販売高の三割を占有し、大学生の四割近くが東京で学んでいる、など影響力が非常に強い。東京には主要テレビキー局、全国紙の新聞、出版社の本社機能が集まり、全国向けの情報発信力が強い。

 都知事は副知事四、教育長一、特別秘書二、若干名の参与の任用権限を持つ。都道府県知事を「執行機関」、それを支える官僚機構を「補助機関」と呼び、知事を直接補佐するのは以下の者たちになる。
 1)副知事
 副知事は知事と同様に任期四年、3または4人で担当部門を分担し、補助機関を管掌する。ほぼ都庁出身者で占められ、まれに外部出身者(石原都政での浜渦副知事、猪瀬副知事など)が登用される。鈴木都知事までは知事も実務に関っていたが、青島・石原都知事以降は実務は副知事が行い、都知事は政策決定や政治活動に力点が置かれている。副知事には財務局長からのコース、総務局長ないし企画系局長からのコース、事業系局長からのコースがあり、財務局長コースが最多である。技術系局長は副知事にはまだなっていない。任命に都議会の同意が必要なため、都議会と都知事が対立する場合に議会の抵抗で副知事が任命できないことが起こったり、辞任に追い込まれることなどがある。

 2)特別秘書
 都庁職員から任命される一般の秘書と別に、都知事が自由に任命する特別秘書は、都知事の政治的補佐を行う。参与とともに政策ブレーンとして機能する。

 3)その他の役職者
 都道府県・区市町村の教育委員会を統括する教育長、各部門を統括する局長・部長、顧問、専門委員、審議委員などの役職者が知事を直接補佐する。


 石原慎太郎さんの方も三島由紀夫さんを批判しています。野坂昭如との対談や自著『三島由紀夫の日蝕』(1991年)などで、三島に対して否定的な見解も示し、市ヶ谷のバルコニーで絶叫する三島の写真を「グロテスク」、死に方を「奇矯な死に方」、三島の肉体を「所詮フェイクなものでしかなかった」とも述べており、そういった石原の見解は、「浅墓な三島理解」だと宮崎正弘に批判的に書かれた。石原は2010年の『別冊太陽 日本のこころ175 三島由紀夫』の中でも、「ゲテモノの肉体」「パフォーマンス」などという物言いをしている。 

【石原慎太郎逝去考】
 2022.2.1日午前、石原慎太郎が田園調布(大田区)の自宅で死去(享年89歳)。膵臓がんを昨年10月に再発していた。一応哀悼しとく。それが礼儀だろうから。相性としては、角栄が相手にしなかっただけのことがあって、角栄ファンの私としては好きくない。その点、三島由紀夫の方が親近感がある。最後はああいう按配なってしまったが、長生きした石原慎太郎とは対照的である。世の中に何か寄与したことがあるとすれば、石原はんの場合、さて何があったんかいなぁ。
 葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。2013年に軽い脳梗塞を発症した石原さんは翌年、神奈川・逗子の邸宅を売却。書斎や倉庫にあった約3200冊の本を整理し、地元の逗子市立図書館に寄贈。その“終活”ぶりが話題になった。14年に出版した「私の海」(幻冬舎)には“遺言”も記していた。 「ことさらに来世なるものを信じている訳でもないが、次に何に生れ変ってこの世に現われたいかといえば、いつか相模湾の外れの三つ石崎の沖合いの潮目で出会ったような巨きな離れ鯨になりたい気がしている」と鯨になって、自由気ままに世界中の大海原を泳ぐ姿を想像すると「心が弾む」と記していた。そして、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したという。

 作家で元東京都知事の石原慎太郎さんの訃報から一夜明け、自宅には、東京都の小池知事や福田康夫元首相が弔問に訪れた。1日に亡くなった石原慎太郎さんの東京・大田区の自宅には、2日正午前、東京都の小池知事が弔問に訪れた。小池知事は10分ほど滞在し、報道陣の問いかけには応えず、無言で車に乗り込んだ。また、午前11時前には、福田康夫元首相が弔問に訪れた。石原さんは、福田元首相の父・福田赳夫内閣で環境庁の長官を務めていた。




(私論.私見)

 大統領制を唱えていた橋下徹に入れ込んだのも若いころの自分に重ね合わせたからだろう。「僕は橋下君を首相にしたい」「彼は革命家になれる」「若い頃のヒットラーにそっくりだ」。