石原慎太郎論その1 |
更新日/2016.10.20日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「石原慎太郎論1、都知事時代まで」を考察する。「石原慎太郎言動録 見出し一覧」の「石原慎太郎の言動録2001年」その他参照。 2012.10.29日 れんだいこ拝 |
【石原慎太郎履歴その1】 |
「ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。 |
【出生】 |
1932(昭和7)年、9.30日、兵庫県神戸市須磨区に、海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。子供は伸晃、良純、宏高、延啓。 |
石原潔━光子 ┃ ┣━━━━━━━━━━━--------━━┓ 石原慎太郎━典子 石原裕次郎━まき子 ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ 石原伸晃 石原良純 石原宏高 石原延啓 |
「石原慎太郎の父親は、帰化人だったというのは、本当ですか?」に対し、「石原慎太郎の父親は、帰化人だったというのは」で次のようにコメントされている。
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「厳密には、親などの段階で帰化しているため本人は在日ではないが正しいとはいえるでしょうが、在日の家系ですか?」で、「石原都知事ってやっぱり在日なんですか?」で次のようにコメントされている。
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「石原慎太郎の父親って、痰壺洗いの仕事をしていたらしいが・・・・」。
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【弟・裕次郎誕生】 | |
1934(昭和9)年、12.28日 、後年、大スターになる弟・裕次郎が生まれる。1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝(1933年7月23日)を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となった。1960年、裕次郎が北原三枝(石原まき子)と結婚。1963年、石原プロモーションを設立。1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。1987(昭和62)年7.17日、肝細胞癌のため死去(享年52歳)。戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。 | |
「石原慎太郎と朝鮮人コンプレックス(7) 」。
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「下記の在日朝鮮人の有名人は100%事実なのでしょうか? 詳しい方は教えていただけませんでしょうか? 」、「在日帰化の人たち」その他を参照する。出典:東洋経済日報社資料「在日韓国人の底力」(植田 剛彦著)。(情報の精度につき検証を要す/2016.10.28日)
【在日著名人リスト男性】 |
【小樽市に転居】 |
1936(昭和11)年、6月、 父が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。小樽藤幼稚園卒園し稲穂国民学校に進学する。 |
【逗子市に転居】 |
1943(昭和18)年、2月、 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。 |
【湘南中学入学】 |
1945(昭和20)年、4月、神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。サッカー部に所属する。 1949(昭和24)年、【校風に反発】立身出世主義的な校風に反発し、胃腸の病を口実に1年間休学(不良少年)。休学中は文学・美術・演劇・音楽・映画に耽溺し、フランス語を学習。 1951(昭和26)年、【父の急死】10月、 父が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。 |
【一橋大学法学部入学】 |
1952(昭和27)年、4月、一橋大学法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属する。 |
【一橋大学法学部入学】 |
1955(昭和30)年、【結婚】4月、12月、当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。 この時の結婚について、石原が阿川佐和子との対談で次のように述べている。「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)。それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから“結婚します”って決心しちゃったのよ(笑)」(佐野眞一著「てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎」254-265頁)。 |
【「太陽の季節」で文壇デビュー】 |
著「灰色の教室」。 |
1956(昭和31)年、【文壇デビュー】1月、 大学在学中に文壇デビュー作である「太陽の季節」(新潮社)により第34回芥川賞を当時史上最年少の23歳3カ月で受賞、ベストセラーとなる。その後、「太陽の季節」が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。映画「太陽の季節」が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。 |
1950年代のその他の著作は次の通り。「処刑の部屋」、「日蝕の夏」、「理由なき復讐(改題前:喪失)」、「黒い水」、「北壁」、「透きとおった時間」、「婚約指輪」、「狂った果実」、「青春にあるものとして」、「若い獣」、「完全な遊戯」、「海の地図」、「価値紊乱者の光栄」、「月蝕」、「亀裂」、「夜を探がせ 」、「乾いた花(改題前:渇いた花) 」、「男の掟」、「鱶女」、「ファンキー・ジャンプ 」、「殺人教室」。 |
西暦 | 和暦 | 摘要 出来事の内容 | |
一橋大学法学部卒業 | 一橋大学法学部を卒業。 | ||
1957 | 昭和32 | 長男・伸晃誕生 | 4.19日、 長男・伸晃が誕生。 |
1958 | 昭和33 | 「若い獣」 | 東宝で映画「若い獣」の監督を務める。 |
「若い日本の会」 | 大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。 | ||
「狂った果実」 | この年、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化「狂った果実」で脚本を担当する。東宝映画「若い獣」で初監督を務める。 | ||
1960 | 昭和35 | 南米横断 | 隊長として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加。 |
1962 | 昭和37 | 次男・良純誕生 | 1.15日、次男・良純が誕生。 |
1963 | 昭和38 | 「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」 | 3月、「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」を新潮社より出版。 |
1964 | 昭和39 | 三男・宏高誕生 | 6.19日、 三男・宏高が誕生。 |
1966 | 昭和41 | 四男・延啓誕生 | 四男・延啓が誕生。 |
1967 | 昭和42 | ベトナム戦争取材 | 読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材。 |
【石原慎太郎履歴その2】 |
「ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。 |
【参議院選に初当選】 |
1968(昭和43)年、7月 、ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ初当選。2位青島幸男、3位上田哲。政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。 |
【参議院選に初当選】 |
1968(昭和43)年、7月 、ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ初当選。2位青島幸男、3位上田哲。政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。(1968年から1972年まで参議院議員) |
【田中幹事長室乗り込み】 |
参院全国区トップ当選した石原が新調の議員バッジをつけ初登院し田中幹事長室に乗り込み、威勢良くこうブチ上げた。「自民党の広報活動はなっていない」、「自由新報の編集はなっていない」、「自民党本部の職員は削減すべし」。黙って聞いていた田中は、一言次のように言った。「君の話は分かった。しかし、人間は木の股から生まれてくるのではない。人には歴史がある」。 |
【「スパルタ教育」出版】 |
1969(昭和44)年、11月 、「スパルタ教育」を光文社より出版。70万部売りあげる。 |
【「化石の森」出版】 |
1970(昭和45)年、長篇「化石の森」(新潮社)を書下ろし芸術選奨文部大臣賞を受賞する。 |
【三島由紀夫の石原酷評論】 | |
評論家・佐高信「痛覚なき石原慎太郎の“無意識過剰”」を参照する。
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これが三島の石原に対する定向的進化の到達点としてのスタンスである。如何に興醒めしているかが分かろう。 |
【核兵器保有発言】 |
1971(昭和46)年、7.19日付の朝日新聞で、「(核兵器が)なけりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するかわからんという不安感があれば、世界は日本のいい分をきくと思いますよ」との発言が紹介された。 |
【参議院議員辞職、衆議院選に当選】 |
1972(昭和47)年、11.25日、 1968年7月7日の第8回参議院議員通常選挙に全国区に自民党公認で立候補して初当選した石原慎太郎は、「本道を歩みたい」との理由からこの日、任期を2年残して参議院議員を辞職。 12.10日、衆議院に鞍替え出馬し東京都大田区を地盤とする旧東京2区から無所属で出馬して第33回衆議院議員総選挙に鞍替え初当選する。後に自民党に復党。以後当選8回、1972年から1995年まで衆議院議員。 |
1960年代の著作は次の通り。「青年の樹」、「これが恋愛だ」、「南米横断一万キロ」、「挑戦」、「 見知らぬ顔」、「青い糧」、 「汚れた夜」、「死んでいく男の肖像」、「雲に向かって起つ」、「禁断」、「断崖」、「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」、「日本零年」、 「密航」、「てっぺん野郎青雲編」、「死の博物誌」、「石原慎太郎文庫」、「行為と死」、「てっぺん野郎昇竜編」、「銀色の牙」、「 傷のある羽根」、「終幕」、「青春とはなんだ」、「命の森」、「星と舵 」、「おゝい、雲! 」、「砂の花」、「人魚と野郎」、「大いなる海へ 」、「還らぬ海」、「飛べ、狼」、「孤独なる戴冠 」、「青い殺人者」、「野性の庭 」、「黒い環 」、「青春との対話」、「巷の神々」、「待 伏せ 」、「怒りの像 」、「祖国のための白書」、「野蛮人のネクタイ」、「プレイボーイ哲学」、「鎖のついた椅子」、「スパルタ教育」 。 |
【石原慎太郎履歴その3】 |
「ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。 |
【「青嵐会」結成】 |
1973(昭和48)年、7月、 渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成する。 |
【衆議院議員辞職、東京都知事選挙出馬、落選】 | ||||||||||||||||||||
1975(昭和50)年、3.18日、 衆議院議員を辞職。 4.13日、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
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【衆院選に当選、環境庁長官就任】 |
1976(昭和51)年、12.5日、 第34回衆議院議員総選挙に出馬し復活当選し国政に復帰する。(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。以降3回連続でトップ当選することになる。 12.24日、福田赳夫内閣 (改造)が発足し環境庁(後の環境省)長官に就任する。 |
【環境庁長官として水俣市の患者療養施設を訪問し侮辱発言】 |
1977.4月、環境庁長官として水俣市の患者療養施設を訪問した。自立を願っていた胎児性患者らは手紙を書き、「仕事がしたい」と石原さんに要望。受け取った石原さんが胎児性患者らを侮辱したような発言をしたと聞き、胎児性患者の坂本しのぶさん(水俣市)さんらは、熊本市に滞在していた石原さんに直接抗議文を手渡した。石原氏はその夜、会見で「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。さらには「補償金が目当ての“偽”患者もいる」との暴言を吐いている。 1978年1月、石原さんは水俣市を再訪し、患者らの前で土下座して謝罪する事態となった。その際、患者側は歌手の石川さゆりさんを「水俣に呼びたい」と提案。石原さんや故原田正純医師らの支援を受け、患者たちは石川さんのコンサートを実現させた。 |
1970年代の著作は次の通り。「慎太郎の政治調書」、「化石の森」、「慎太郎の第二政治調書」、「男の世界」、「野蛮人の大学」、「真実の性教育」、「信長記」、「酒盃と真剣」、「石原慎太郎短編全集」、「新和漢朗詠集」、「男の海」、「対極の河へ」、「息子をサラリーマンにしない法」、「風の神との黙約 -」、「 真の革新とはなにか」、「伯爵夫人物語」、「大いなる手との黙約」、「情熱のための航海」、「光より速きわれら」、「刃鋼」、「暗闇の声」、「嫌悪の狙撃者」、「型破りで勝つ!」、「 戦士の羽飾り」、「一点鐘」。 |
【婚外子騒動】 |
石原慎太郎の息子は、正妻の子が4人。長男/自由民主党衆議院議員の石原伸晃(のぶてる)、 1957年4月19日。次男/タレント・気象予報士の石原良純(よしずみ)、1962年1月15日。三男/自由民主党衆議院議員の石原宏高(ひろたか)、1964年6月19日(51歳)。四男/画家の石原延啓(のぶひろ)、1966年8月22日。5人目が1980年初めに生まれた婚外子の息子で、計5人となる。これは正式に本人も認めている。婚外子を生んだ女性は元銀座の高級クラブのホステス(保子)。知り合った当時の石原は49歳、女性は22歳。彼女は24歳で石原氏の子供を産んでいる。愛人関係が2年続き、妊娠した頃から認知をめぐってギクシャクし始める。向き合わない石原を滞在先のホテルまで追い、ホテルのドアを「どうしてくれるのよ」と何度も叩く姿が証言されている。その後、石原プロの幹部などが彼女の務めるクラブのママなどの間に入って話合いが持たれ、正妻も入っての話し合いとなる等ひと騒動となった。石原が正式に認知したのは子供が11歳になった1994年。この当時、石原は「怪文書」がばら撒かれ、彼の選挙資金の出どころや、出馬の経緯、石原自身や三男のオウムとの関係までを精細に指摘されていた。加えて週刊誌フライデー(5月7・14合併号)が「石原慎太郎に問う『元愛人』」を掲載した。結局、石原は彼女を追い払うかのように認知をして、子供が20歳になるまでに毎月20万の支払いをする約束をして白金から実家の新潟へ引っ越しさせたという。 |
【海上自衛隊飛行艇の私的利用】 |
1981(昭和56)年、弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。 石原慎太郎の弟裕次郎の手術の執刀医がオウムの林郁夫だった。 |
【自由革新同友会代表就任】 |
1983(昭和58)年、自由民主党の派閥の自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ合流。黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。 |
【黒シール事件】 |
1983年、第37回衆議院議員総選挙に連続3期のトップ当選。この時の選挙活動期間中に衆院旧東京2区に立候補した故・新井将敬氏のポスターに石原慎太郎の公設秘書が「(新井氏は)66年に北朝鮮から帰化」と記した黒シールを貼り付けた公職選挙法違反事件を起こしている。それを指揮していたのは石原の公設第一秘書であることが判明した。石原氏は「秘書がやった」と認めている。そのときに逮捕された秘書が、後に豊洲新市場の建設を落札する大手ゼネコン鹿島建設の社員の栗原俊記で休職扱いで出向してきていた。結果として、これは石原陣営が対立候補に選挙違反をした事件として世間に知れ渡ることとなった。第一公設秘書が指揮したとあれば公職選挙法違反事件となり、当然公職立候補者である石原の指示があったかどうかが疑われた。結果、公設第一秘書が逮捕されたのみで石原自身に捜査が及ぶことはなかった。石原の公設第一秘書栗原俊記は書類送検され、秘書を辞めて派遣元である鹿島建設に復帰、2014年2月現在、同社常務執行役員に名を連ね、豊洲新市場の建設受注に一役買っている。
新井が黒シールを貼られた事にいち早く抗議したのは勧誘した渡辺である。発覚後は「彼は日本人だ! 日本人が立候補して何が悪い!」とインタビュアーの前で怒りをぶちまけた。また、民族派右翼の大物として知られた野村秋介もこの件で石原を批判した。石原は「秘書が勝手にやった事」とした上で、「日本人は在日であるか否かを知る権利がある!」と正当性を主張し居直った。 |
【戸塚スクールの体罰教育支援】 |
1983年、80〜82年の間に、過酷な「訓練」中に2名が死亡、2名が合宿の帰りに船から飛び降りて行方不明となった「戸塚ヨットスクール事件」で戸塚氏逮捕直前、「文藝春秋」で対談し、「戸塚さんがやっていることは、あるべき正当な教育やしつけの一番の真髄なんだね」と絶賛。拘留、刑期中、出所後も一貫して擁護し続け、現在も戸塚氏と個人的親交が厚く、「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長も務めている。 |
【弟・裕次郎が死亡】 | |
1986.7.24日、週刊新潮記事 「選挙民も知らなかった帰化『韓国人』の『代議士』当選」より。
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【弟・裕次郎が死亡】 |
1987(昭和62)年、7.17日、弟・裕次郎が東京都新宿区の慶應義塾大学病院で肝細胞癌のため逝去した (享年52歳) 。 |
【運輸大臣就任】 |
1988(昭和63)年、11.6日、竹下内閣で運輸大臣に就任。 |
【「漁業施設がヨットに危険」】 |
1988(昭和63)年、4.8日 、「漁業施設がヨットに危険」と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させる。 |
【「生還」が平林たい子文学賞受賞】 |
1989(平成元)年、「生還」(新潮社)で平林たい子文学賞を受賞する。 |
【自民党総裁選落選】 |
1989(平成元)年、8.8日、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す河本派の海部俊樹に敗れる。 |
【「NOと言える日本」】 |
1989(平成元)年、1月、「NOと言える日本」を盛田昭夫と共著で出版(光文社)。125万部を売りあげる。 |
【「宗教法人オウム真理教」後援、オウム真理教の宗教法人認可に尽力】 | |
1989(平成元)年、8月、オウム真理教が東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。東京都は頑なに認定を拒否し続けていたが、運輸大臣・石原慎太郎の根回しがあったと云われている。 石原慎太郎の四男は「オウムの幹部」。 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/691.html |
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「石原慎太郎とオウム・統一教会の関係」。
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「オウム真理教と石原慎太郎と故石井鉱基議員!」。
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1980年代の著作は次の通り。「亡国 」、「大いなる海へ」、「秘祭」、「バカでスウェルな男たち」、「暗殺の壁画」、「流砂の世紀に」、「現代史の分水嶺」、「拝啓息子たちへ」、「生還」。 |
1990 | 平成2 | 長男の伸晃が衆院選に初当選 | 2.18日、 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。 |
1992 | 平成4 | 三島由紀夫賞選考委員 | 三島由紀夫賞選考委員を務める。1999年まで。 |
【地下鉄サリン事件】 |
1995(平成7)年、3.20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。 |
【衆議院議員辞職】 |
1995(平成7)年、4.14日、 国会議員在職25年表彰の場の国会演説で、「日本の政治に失望した」として突然の衆議院議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。警察によるオウム施設の手入れが始まってから数週間後であった。 石原慎太郎の四男は元オウムの幹部であり、オウムの地下鉄サリン事件の翌月に石原慎太郎は政治家を引退した。オウムと石原慎太郎の強い関係はマスコミによって隠蔽されている! http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-748.html |
【「ハマコーの非常事態宣言」】 |
1995(平成7)年、7月、「ハマコーの非常事態宣言」(主婦と生活社)の中で、石原が山口敏夫と共にオウム真理教への資金提供を行っていたと名指しで批判されている、とある。 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120406/1333675760 |
【芥川賞の選考委員】 |
1995(平成7)年、この年から芥川賞の選考委員を務める。2012年まで務める。 |
【「弟」】 |
1996(平成8)年、弟の石原裕次郎をテーマに「弟」(幻冬社)を発表。約120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞する。 |
【「隠し子問題」】 |
1996(平成8)年、この年、週刊誌「FRIDAY」で隠し子問題がスクープされている。 |
【「法華経を生きる」】 |
1998(平成10)年、「法華経を生きる」(幻冬舎)を出版し33万部売りあげる。 |
【「国家なる幻影」】 |
1999(平成11)年、1月、「国家なる幻影」(文芸春秋社)を出版する。 |
1990年代の著作は次の通り。「不思議な不思議な航海」、「 わが人生の時の時」、「 時の潮騒」、「 光速の時代に 」、「 十代のエスキース」、「 来世紀の余韻」、「三島由紀夫の日蝕」、「禁断の島へ」、「 遭難者」、「- かくあれ祖国」、「風についての記憶」、「 わが人生の時の会話」、「亡国の徒に問う」、「肉体の天使」、「弟」、「“父”なくして国立たず」、「法華経を生きる」、「国家なる幻影」、 「聖餐」。 |
(私論.私見)