石原慎太郎論その1

 更新日/2016.10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「石原慎太郎論1、都知事時代まで」を考察する。「石原慎太郎言動録 見出し一覧」の「石原慎太郎の言動録2001年」その他参照。

 2012.10.29日 れんだいこ拝


 【石原慎太郎履歴その1】
 「ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。

 【出生
 1932(昭和7)年、9.30日、兵庫県神戸市須磨区に、海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。子供は伸晃良純宏高延啓。
        石原潔━光子  
            ┃           
┣━━━━━━━━━━━--------━━┓
石原慎太郎━典子                    石原裕次郎━まき子

   ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓         
  石原伸晃  石原良純  石原宏高   石原延啓

 「石原慎太郎の父親は、帰化人だったというのは、本当ですか?」に対し、「石原慎太郎の父親は、帰化人だったというのは」で次のようにコメントされている。
 「帰化ではなくて、軍に出入りしてて死んだ石原という日本人の戸籍を買った。石原は祖先のことを話せない・話さないことが知られています」。
 「石原家も小泉家も安倍家も中川秀直家も不良朝鮮人の家系です」。
 「厳密には、親などの段階で帰化しているため本人は在日ではないが正しいとはいえるでしょうが、在日の家系ですか?」で、「石原都知事ってやっぱり在日なんですか?」で次のようにコメントされている。
 「日本人にはない火病的気質もモロありますし、息子の石原良純の言動でもかなり変でちょっと日本人には思えません。いろいろな問題でも、結局、日本の利益につながることはしていない。二重スパイ的な立場で保守を装って、日本の立場を悪くしているのでは?と思えることばかり。天皇陛下や見下し、皇太子様を呼び捨てにしたり、君が代を嫌いと公言したり、とても日本人には思えません」。
 石原慎太郎の父親って、痰壺洗いの仕事をしていたらしいが・・・・」。
 佐野眞一著「てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎」32-33pは次のように記している。
 「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ痰壺洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている」。

 【弟・裕次郎誕生
 1934(昭和9)年、12.28日 、後年、大スターになる弟・裕次郎が生まれる。1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝(1933年7月23日)を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となった。1960年、裕次郎が北原三枝(石原まき子)と結婚。1963年、石原プロモーションを設立。1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。1987(昭和62)年7.17日、肝細胞癌のため死去(享年52歳)。戒名は陽光院天真寛裕大居士。墓は万成石五輪塔で神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。
 「石原慎太郎と朝鮮人コンプレックス(7) 」。
 7 義妹が朝鮮人であることをタブー視

 何故、慎太郎氏のテンションは、朝鮮問題になると異常に高まるのであろうか? その原因の一つは、先に述べた敗戦トラウマである。慎太郎氏の父親は、特設油槽船で軍用重油の輸送を請け負って急成長し、大連などに支店を置いて朝鮮、中国で大儲けをした山下汽船の重役であった。愛知の船成金から身を起こし、同社を一代で築いた創業者には、済州島などから大阪に出稼ぎに来ていた朝鮮人労働者たちが故郷と往来する船会社を作ろうと集めた資金を横領した、というよくない噂が絶えず、何かと朝鮮と因縁が深い。その会社の重役の息子として何不自由ない少年時代を送った慎太郎氏が、敗戦に屈折した感情を抱くのは十分にありうる話である。厳しかった父へのファザーコンプレックスも手伝って、目標とする父親像が傷つけられることは自分のプライドを傷つけるように耐えがたかったであろう。

 さらに慎太郎氏には、朝鮮人コンプレックスを抱く個人的事情があった。選挙の度に世話になる弟・裕次郎の妻が、朝鮮人なのである。スラリとした長身と都会的センスにあふれたボーイッシュな容姿で、日活映画「狂った果実」に裕次郎の相手役として共演するなど、゛太陽族ブーム゛を起こした北原三枝が、その人である。少年時代に石坂洋二郎を愛読していた私も、「陽のあたる坂道」で、妾の子で少し反抗的な裕次郎の妹の家庭教師役を巧みに演じた美しい女子大生の姿を、今でも覚えている。裕次郎は彼女との結婚が許されないのに怒って、アメリカに駆け落ちし、日活社長が結婚を認めるから帰って来いと電報を打って取り成した、というエピソードが小樽の裕次郎記念館で紹介されているが、石原家の猛反対があったことがうかがわれる。デュエット・ソングのはしりとなった「銀座の恋の物語」は、裕次郎が結婚前日に録音したもので、出だしの「心の底までしびれるような~」は、日活青春映画の主人公役を地で行ったナイスガイの純情であったが、周囲には歓迎されなかったようだ。

 美空ひばり、力道山など昔から芸能・スポーツ界には、朝鮮人・韓国人が多い。北原氏にもその噂があったが、『在日韓国人の底力』(植田剛彦著・日新報道)で在日コリア系著名人リストに、父親が韓国人として入っている。著者の植田氏は、最近も『三国感情―鮨とキムチとハンバーガー』(ケント・ギルバート、 池東旭共著)を著し、テレビ朝日の「朝まで生テレビ!」にも出演しており、よもや間違いはあるまい。

 出典「石原慎太郎と朝鮮人コンプレックス(02・5・7)」
 http://www8.ocn.ne.jp/~hashingi/page021.html
 「下記の在日朝鮮人の有名人は100%事実なのでしょうか? 詳しい方は教えていただけませんでしょうか? 」、「在日帰化の人たち」その他を参照する。出典:東洋経済日報社資料「在日韓国人の底力」(植田 剛彦著)。(情報の精度につき検証を要す/2016.10.28日)

 【在日著名人リスト男性】

 小林旭、五木ひろし(松山数夫,混血:同和・鮮人)、布施明、春日八郎、西城秀樹(李龍雄)、神戸一郎、北原謙治、野村真樹、内田裕也、ジョニー大倉李雲煥)、にしきのあきら(錦野旦)、井上陽水、柳ジョージ、矢沢永吉、ビートたけし、沢田研二(李研二)、松山千春、小畑実、フランク永井、河島英吾、井沢八郎(工藤金一)、坂本九、宝田明、堤大二郎、児玉清、松田優作、岩城こう一、つかこうへい(金峰雄)、 菅原文太、高倉健、金田賢一、隆大介、小坂一也、勝呂誉、松村雄基、大鶴義丹、孫正義、大山倍達(尹泰植)、岩城滉一(李光一)、安川正義(孫正義)、布袋寅泰(混血)、吉川晃司(レコード会社発)、いしだ壱成(星川一星,half)、いっこく堂 (玉城一石)、神田正輝、西村ひろゆき(2ちゃんねる管理人)、ポール牧(榛沢一道)、伊集院静、永六輔(永孝雄,台湾人か)、奥田瑛二、押尾学、岡八郎(市岡輝夫)、南こうせつ(南高節)、前田日明、長州力、ラッシャー木村、大木金太郎、青木功、加勢大周、せんだみつお(中野光雄)、つのだじろう、つんく♂(寺田光男)、トミーズ雅(北村雅英,母親・北村金子)、名高達郎(名高達夫)、なべおさみ。筑紫哲也(朴三壽)、佐高信(韓吉竜)。島田伸介、千原兄弟、白竜、木村拓也。

 相撲

 若乃花(初代)、二子山親方(貴ノ花) 、若乃花、貴乃花、玉乃海、武蔵川親方(三重の海)、前の山、栃光、若葉山、二所ノ関親方(金 剛) 、佐田の山、黒姫山、前田山

 プロレス、格闘技、スポーツ

 力道山、前田日明、長州力、ラッシャー木村、大木金太郎、星野貫太郎、高岩竜一、タイガー戸口、天山広吉、金本浩二、金村キンタロー、崔領二、青木功、大山倍達、秋山成勲、

 野球、スポーツ

 森本稀哲選手(北海道日本ハム)、金本知憲選手(阪神)、金村義明(キムギミョン)、呉本成徳、新井良太、桧山進次郎、新井宏昌、金田正一、新浦寿夫、張本勲(張 勲)、徳山 昌守(洪 昌守)(ホン チャンス)達川光男、


 【在日著名人リスト女性】

 美空ひばり、都はるみ(李春美)、和田アキ子(金現子)、山口百恵、西田佐知子、小柳ルミ子、杏里、川中美幸、シャーミン、瀬川瑛子、菅原都々子、由紀さおり、安田祥子、八代亜紀、青江三奈、工藤由貴、柏木由紀子、伊東ゆかり、松任谷由美(金玉子)、松坂慶子(高内慶子)、沢口靖子、岡田可愛、野川由美子、北原三枝、新井春美、山根元代、安田成美(鄭成美)、宮下順子(金英姫)、マッハ文朱(李文朱)、佐久間良子、石田ゆりこ、石田ひかり、大信田礼子、香山美子、伊藤蘭、林寛子、岡本夏生(李夏生)、ソニン、八代亜紀(琉球と半島の混血)、浅野温子、大原麗子、松本伊代、いしのようこ(石野陽子)、石野真子、うつみ宮土理(井川三重子)、かたせ梨乃(杉田典子)、川島直美、島袋寛子(混血:沖縄・鮮人)米倉涼子、伊藤美咲(安斎智子)、引田天功(板倉満里子)、宇多田ヒカル(岩下光)、園まり(薗部毬子)、高島礼子、三田佳子(高橋嘉子)、三田寛子、中山美穂(宋藍姫)、山田花子(金花子)、土井たか子(李高順)、福島瑞穂(趙春花)


 【小樽市に転居
 1936(昭和11)年、6月、 父が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。小樽藤幼稚園卒園し稲穂国民学校に進学する。

 【逗子市に転居
 1943(昭和18)年、2月、 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。

 【湘南中学入学
 1945(昭和20)年、4月、神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。サッカー部に所属する。 

 1949(昭和24)年、【校風に反発】立身出世主義的な校風に反発し、胃腸の病を口実に1年間休学(不良少年)。休学中は文学・美術・演劇・音楽・映画に耽溺し、フランス語を学習。  

 1951(昭和26)年、【父の急死】10月、 父が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。

 【一橋大学法学部入学
 1952(昭和27)年、4月、一橋大学法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属する。

 【一橋大学法学部入学
 1955(昭和30)年、【結婚】4月、12月、当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚。

 この時の結婚について、石原が阿川佐和子との対談で次のように述べている。「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)。それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから“結婚します”って決心しちゃったのよ(笑)」(佐野眞一著「てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎」254-265頁

 【「太陽の季節」で文壇デビュー
 著「灰色の教室」。
 1956(昭和31)年、【文壇デビュー】1月、 大学在学中に文壇デビュー作である「太陽の季節」(新潮社)により第34回芥川賞を当時史上最年少の23歳3カ月で受賞、ベストセラーとなる。その後、「太陽の季節」が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。映画「太陽の季節」が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
 1950年代のその他の著作は次の通り。「処刑の部屋」、「日蝕の夏」、「理由なき復讐(改題前:喪失)」、「黒い水」、「北壁」、「透きとおった時間」、「婚約指輪」、「狂った果実」、「青春にあるものとして」、「若い獣」、「完全な遊戯」、「海の地図」、「価値紊乱者の光栄」、「月蝕」、「亀裂」、「夜を探がせ 」、「乾いた花(改題前:渇いた花) 」、「男の掟」、「鱶女」、「ファンキー・ジャンプ 」、「殺人教室」。

西暦 和暦 摘要 出来事の内容
一橋大学法学部卒業  一橋大学法学部を卒業。
1957 昭和32 長男・伸晃誕生  4.19日、 長男・伸晃が誕生。
1958 昭和33 「若い獣」  東宝で映画「若い獣」の監督を務める。
「若い日本の会」  大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
「狂った果実」  この年、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化「狂った果実」で脚本を担当する。東宝映画「若い獣」で初監督を務める。
1960 昭和35 南米横断  隊長として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加。
1962 昭和37 次男・良純誕生  1.15日、次男・良純が誕生。
1963 昭和38 「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」  3月、「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」を新潮社より出版。
1964 昭和39 三男・宏高誕生  6.19日、 三男・宏高が誕生。
1966 昭和41 四男・延啓誕生  四男・延啓が誕生。
1967 昭和42 ベトナム戦争取材  読売新聞社の依頼でベトナム戦争を取材。

【石原慎太郎履歴その2】
 ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。

 【参議院選に初当選
 1968(昭和43)年、7月 、ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ初当選。2位青島幸男、3位上田哲。政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。

 【参議院選に初当選
 1968(昭和43)年、7月 、ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ初当選。2位青島幸男、3位上田哲。政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。(1968年から1972年まで参議院議員)

 【田中幹事長室乗り込み
 参院全国区トップ当選した石原が新調の議員バッジをつけ初登院し田中幹事長室に乗り込み、威勢良くこうブチ上げた。「自民党の広報活動はなっていない」、「自由新報の編集はなっていない」、「自民党本部の職員は削減すべし」。黙って聞いていた田中は、一言次のように言った。「君の話は分かった。しかし、人間は木の股から生まれてくるのではない。人には歴史がある」。

 【「スパルタ教育」出版】
 1969(昭和44)年、11月 、「スパルタ教育」を光文社より出版。70万部売りあげる。

 【「化石の森」出版】
 1970(昭和45)年、長篇「化石の森」(新潮社)を書下ろし芸術選奨文部大臣賞を受賞する。

 【三島由紀夫の石原酷評論】
 評論家・佐高信「痛覚なき石原慎太郎の“無意識過剰”」を参照する。
 「三島とは1970年秋のこんな遣り取りがある。矢崎泰久著『情況のなかへ』(現代教養文庫)によれば、『話の特集」の編集長だった矢崎に石原が、「三島さんと近く『毎日新聞』で公開書簡を交換する。そのあと『話の特集』で彼と対談してみたい」と言ってきた。しかし、その後読んでみると、論点が離れていて、論争にはなっていない。それでも、2人の対談はしばらくやられていなかったし、論点をしぼればおもしろいと思ったので、三島に電話すると、こんな答が返ってきた。『ぼくは、いやしくも文学者です。政治屋に堕落した人間とは口もききたくないという心境です。石原君が文学者として話したいというなら、多少の余地はあるかも知れないけれど、新聞を読んだ限りでは、もう彼は別世界の人間だ。接点がない以上、この対談は無意味ですよ。文学者のぼくが、石原君との同席に耐えられません』」。
(私論.私見)
 これが三島の石原に対する定向的進化の到達点としてのスタンスである。如何に興醒めしているかが分かろう。

 【核兵器保有発言】
 1971(昭和46)年、7.19日付の朝日新聞で、「(核兵器が)なけりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するかわからんという不安感があれば、世界は日本のいい分をきくと思いますよ」との発言が紹介された。

 【参議院議員辞職、衆議院選に当選】
 1972(昭和47)年、11.25日、 1968年7月7日の第8回参議院議員通常選挙に全国区に自民党公認で立候補して初当選した石原慎太郎は、「本道を歩みたい」との理由からこの日、任期を2年残して参議院議員を辞職。

 12.10日、衆議院に鞍替え出馬し東京都大田区を地盤とする旧東京2区から無所属で出馬して第33回衆議院議員総選挙に鞍替え初当選する。後に自民党に復党。以後当選8回、1972年から1995年まで衆議院議員。

 1960年代の著作は次の通り。「青年の樹」、「これが恋愛だ」、「南米横断一万キロ」、「挑戦」、「 見知らぬ顔」、「青い糧」、
「汚れた夜」、「死んでいく男の肖像」、「雲に向かって起つ」、「禁断」、「断崖」、「狼生きろ豚は死ね・幻影の城」、「日本零年」、
「密航」、「てっぺん野郎青雲編」、「死の博物誌」、「石原慎太郎文庫」、「行為と死」、「てっぺん野郎昇竜編」、「銀色の牙」、「
傷のある羽根」、「終幕」、「青春とはなんだ」、「命の森」、「星と舵 」、「おゝい、雲! 」、「砂の花」、「人魚と野郎」、「大いなる海へ
」、「還らぬ海」、「飛べ、狼」、「孤独なる戴冠 」、「青い殺人者」、「野性の庭 」、「黒い環 」、「青春との対話」、「巷の神々」、「待
伏せ 」、「怒りの像 」、「祖国のための白書」、「野蛮人のネクタイ」、「プレイボーイ哲学」、「鎖のついた椅子」、「スパルタ教育」

【石原慎太郎履歴その3】
 ウィキペディア石原慎太郎」その他を参照する。

 【「青嵐会」結成
 1973(昭和48)年、7月、 渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成する。

 【衆議院議員辞職、東京都知事選挙出馬、落選
 1975(昭和50)年、3.18日、 衆議院議員を辞職。
 4.13日、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
美濃部亮吉 2,688,566 無所属、(推薦)社会・共産・公明
石原慎太郎 2,336,359 無所属、(推薦)自民
松下正寿 273,574 無所属、(推薦)民社
赤尾敏 12,037 大日本愛国党
秋山祐徳 3,101 無所属

 【衆院選に当選、環境庁長官就任
 1976(昭和51)年、12.5日、 第34回衆議院議員総選挙に出馬し復活当選し国政に復帰する。(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。以降3回連続でトップ当選することになる。

 12.24日、福田赳夫内閣 (改造)が発足し環境庁(後の環境省)長官に就任する。

 【環境庁長官として水俣市の患者療養施設を訪問し侮辱発言】
 1977.4月、環境庁長官として水俣市の患者療養施設を訪問した。自立を願っていた胎児性患者らは手紙を書き、「仕事がしたい」と石原さんに要望。受け取った石原さんが胎児性患者らを侮辱したような発言をしたと聞き、胎児性患者の坂本しのぶさん(水俣市)さんらは、熊本市に滞在していた石原さんに直接抗議文を手渡した。石原氏はその夜、会見で「これ(抗議文)を書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。さらには「補償金が目当ての“偽”患者もいる」との暴言を吐いている。

 1978年1月、石原さんは水俣市を再訪し、患者らの前で土下座して謝罪する事態となった。その際、患者側は歌手の石川さゆりさんを「水俣に呼びたい」と提案。石原さんや故原田正純医師らの支援を受け、患者たちは石川さんのコンサートを実現させた。

 1970年代の著作は次の通り。「慎太郎の政治調書」、「化石の森」、「慎太郎の第二政治調書」、「男の世界」、「野蛮人の大学」、「真実の性教育」、「信長記」、「酒盃と真剣」、「石原慎太郎短編全集」、「新和漢朗詠集」、「男の海」、「対極の河へ」、「息子をサラリーマンにしない法」、「風の神との黙約 -」、「 真の革新とはなにか」、「伯爵夫人物語」、「大いなる手との黙約」、「情熱のための航海」、「光より速きわれら」、「刃鋼」、「暗闇の声」、「嫌悪の狙撃者」、「型破りで勝つ!」、「 戦士の羽飾り」、「一点鐘」。

 【婚外子騒動
 石原慎太郎の息子は、正妻の子が4人。長男/自由民主党衆議院議員の石原伸晃(のぶてる)、
1957年4月19日。次男/タレント・気象予報士の石原良純(よしずみ)、1962年1月15日。三男/自由民主党衆議院議員の石原宏高(ひろたか)、1964年6月19日(51歳)。四男/画家の石原延啓(のぶひろ)、1966年8月22日。5人目が1980年初めに生まれた婚外子の息子で、計5人となる。これは正式に本人も認めている。婚外子を生んだ女性は元銀座の高級クラブのホステス(保子)。知り合った当時の石原は49歳、女性は22歳。彼女は24歳で石原氏の子供を産んでいる。愛人関係が2年続き、妊娠した頃から認知をめぐってギクシャクし始める。向き合わない石原を滞在先のホテルまで追い、ホテルのドアを「どうしてくれるのよ」と何度も叩く姿が証言されている。その後、石原プロの幹部などが彼女の務めるクラブのママなどの間に入って話合いが持たれ、正妻も入っての話し合いとなる等ひと騒動となった。石原が正式に認知したのは子供が11歳になった1994年。この当時、石原は「怪文書」がばら撒かれ、彼の選挙資金の出どころや、出馬の経緯、石原自身や三男のオウムとの関係までを精細に指摘されていた。加えて週刊誌フライデー(5月7・14合併号)が「石原慎太郎に問う『元愛人』」を掲載した。結局、石原は彼女を追い払うかのように認知をして、子供が20歳になるまでに毎月20万の支払いをする約束をして白金から実家の新潟へ引っ越しさせたという。

 【海上自衛隊飛行艇の私的利用
 1981(昭和56)年、弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。

 石原慎太郎の弟裕次郎の手術の執刀医がオウムの林郁夫だった。

 【自由革新同友会代表就任
 1983(昭和58)年、自由民主党の派閥の自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ合流。黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。

 【黒シール事件
 1983年、第37回衆議院議員総選挙に連続3期のトップ当選。この時の選挙活動期間中に衆院旧東京2区に立候補した故・新井将敬氏のポスターに石原慎太郎の公設秘書が「(新井氏は)66年に北朝鮮から帰化」と記した黒シールを貼り付けた公職選挙法違反事件を起こしている。それを指揮していたのは石原の公設第一秘書であることが判明した。石原氏は「秘書がやった」と認めている。そのときに逮捕された秘書が、後に豊洲新市場の建設を落札する大手ゼネコン鹿島建設の社員の栗原俊記で休職扱いで出向してきていた。結果として、これは石原陣営が対立候補に選挙違反をした事件として世間に知れ渡ることとなった。第一公設秘書が指揮したとあれば公職選挙法違反事件となり、当然公職立候補者である石原の指示があったかどうかが疑われた。結果、公設第一秘書が逮捕されたのみで石原自身に捜査が及ぶことはなかった。石原の公設第一秘書栗原俊記は書類送検され、秘書を辞めて派遣元である鹿島建設に復帰、2014年2月現在、同社常務執行役員に名を連ね、豊洲新市場の建設受注に一役買っている。

 新井が黒シールを貼られた事にいち早く抗議したのは勧誘した渡辺である。発覚後は「彼は日本人だ! 日本人が立候補して何が悪い!」とインタビュアーの前で怒りをぶちまけた。また、民族派右翼の大物として知られた野村秋介もこの件で石原を批判した。石原は「秘書が勝手にやった事」とした上で、「日本人は在日であるか否かを知る権利がある!」と正当性を主張し居直った。


 【戸塚スクールの体罰教育支援
 1983年、80〜82年の間に、過酷な「訓練」中に2名が死亡、2名が合宿の帰りに船から飛び降りて行方不明となった「戸塚ヨットスクール事件」で戸塚氏逮捕直前、「文藝春秋」で対談し、「戸塚さんがやっていることは、あるべき正当な教育やしつけの一番の真髄なんだね」と絶賛。拘留、刑期中、出所後も一貫して擁護し続け、現在も戸塚氏と個人的親交が厚く、「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長も務めている。

 【弟・裕次郎が死亡
 1986.7.24日、週刊新潮記事 「選挙民も知らなかった帰化『韓国人』の『代議士』当選」より。
 「皆、割と鈍感だけど、帰化した人が代議士になるのは憲政史上初めてのことなんですよ。差別とか偏見とかではなく、原則論として考えなければいけない問題があると思うんです。一つは日韓関係で激しい摩擦が生じた時、いったいどちらの国益を優先させるのか、ということです。新井氏の原籍が北か南かよく分かりませんが、いずれにしても、日本と韓国の間には教科書問題や竹島の領有問題があるし、漁業権もいつも問題になっている北は日本を敵視する大変な国ですしね」。

 【弟・裕次郎が死亡
 1987(昭和62)年、7.17日、弟・裕次郎が東京都新宿区の慶應義塾大学病院で肝細胞癌のため逝去した (享年52歳) 。

 【運輸大臣就任
 1988(昭和63)年、11.6日、竹下内閣で運輸大臣に就任。

 【「漁業施設がヨットに危険」
 1988(昭和63)年、4.8日 、「漁業施設がヨットに危険」と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させる。

 【「生還」が平林たい子文学賞受賞
 1989(平成元)年、「生還」(新潮社)で平林たい子文学賞を受賞する。

 【自民党総裁選落選
 1989(平成元)年、8.8日、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す河本派の海部俊樹に敗れる。

 【「NOと言える日本」
 1989(平成元)年、1月、「NOと言える日本」を盛田昭夫と共著で出版(光文社)。125万部を売りあげる。

 【「宗教法人オウム真理教」後援、オウム真理教の宗教法人認可に尽力】
 1989(平成元)年、8月、オウム真理教が東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。東京都は頑なに認定を拒否し続けていたが、運輸大臣・石原慎太郎の根回しがあったと云われている。

 石原慎太郎の四男は「オウムの幹部」。
 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/691.html
 「石原慎太郎とオウム・統一教会の関係」。
1.石原慎太郎は、浜田幸一『ハマコーの非常事態宣言』の中で、 山口敏夫と共にオウム真理教への資金提供を行っていたと批判された。

2.石原慎太郎は、統一教会系の霊友会に支持され、オウムは統一教会信者の早川により武装化された(実質乗っ取られた)。

3.石原慎太郎の弟裕次郎の手術の執刀医がオウムの林郁夫。

4.石原慎太郎の圧力でオウム真理教は宗教法人になった。

5.オウムの麻原は、「石原慎太郎が日本のリーダにふさわしい」と言っていた。

6.オウム元幹部は、クーデター成功の暁には石原慎太郎氏を首相に想定していたと証言

7.石原4男、延啓氏はオウムの準幹部(官房長官副秘書官)だったが、第7サティアンで"救出"され、保護、その後暫くの間、高尾病院に強制入院させられていた。

8.麻原が瞑想していた座の後ろにあった曼荼羅は画家である四男延啓の作で ある。

9.石原慎太郎は、検察当局との「司法取引」により、公職即ち国会議員を辞職。不問に付したのが当時の野中国家公安委員長

10.石原慎太郎が尖閣買うと発表したヘリテージ財団は統一協会の文鮮明から 資金提供

 http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/691.html

 オウム真理教と石原裕次郎になんの関係があるのかと思われるであろう。キーワードは「慶應病院」である。 1981年に解離性大動脈瘤で入院したときの執刀医がだれであったか、そこに鍵がある。この大手術の執刀を行ったのは、心臓外科医としての林郁夫だった。

 1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑なに宗教法人認定を 拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをするためにはなんとしても宗教法人の認定を受けたかった。 林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に、状況打開の依頼がいったことは想像に難くない。 実際、石原慎太郎は運輸大臣の肩書きを背景に東京都にプレッシャーをかけ、オウム真理教は まんまと宗教法人に成りおおせている。

 石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。宗教法人を隠れ蓑にしなかったら、このようなとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか。当時、政権は村山富市首相であり、自民党は戦後もっとも弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政府は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。その原因を作った 人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上で踏ん反り返っていることが衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。
 オウム真理教と石原慎太郎と故石井鉱基議員!」。
 「何とか石原さんを首相にしたい!」って、コラッ!橋下!何て大それたことを。ってこの言葉、昔誰かが言ってた。誰だっけ? 橋下さんだけじゃない。佐々さんなんかもそうだが、石原慎太郎さんを首相に推す人も結構いる。これ本気で言ってるのかな?もし本気で言ってるなら少し考え直してみた方がいいかもしれない。

 石原慎太郎=霊友会
 長男伸晃(のぶてる)、自民党衆議院議員=崇教真光(すうきょうまひかり)
 次男良純(よしずみ)、タレント、気象予報士=世界救世教?
 三男宏高(ひろたか)、政治家志望、浪人中=幸福の科学
 四男延啓(のぶひろ)、画家=オウム真理教
 父=統一教会
 石原家と新興宗教。

 石原さんだけじゃなく、今の政治家は大抵が宗教団体と切っても切れない関係なのは創価学会と公明党や、統一教会と民主党、自民党の山谷さん稲田さんを見てもわかる。政治家とはいえ、誰がどんな宗教を信仰しようが、信教の自由は憲法上認められているため良いのかもしれないが、どこからどこまでが政治と宗教が一致しているかの線引きは曖昧なため、なかなか突っ込みにくいところがある。よって本来は、宗教団体からの政治献金や逆に税金で生活する政治家からの宗教団体への寄付は禁止されるべきなのかもしれないが、この辺の問題は今日は置いておいて話をすすめる。

 石原慎太郎に関しては少し具体的に掘り下げていく必要があると思い書くのだが、石原慎太郎自身は霊友会を信仰しているが、本人は、「石原教の信者であり私が教祖である」と過去に発言している経緯から、霊友会を信仰しているわけではなく、「組織票(180万票?)」が目的で信仰していると思われる。で、石原さんのように、明らかに「組織票」欲しさに信教の自由を盾に政治家として信仰していることは、これは完全なる政教一致であるように僕は思う。余りこういったことは世に顔を出さないため(新興宗教ネタ)、知る人も少ないかもしれないが、石原慎太郎という政治家には決して見過ごすことのできない事実があるので書いておきたい。マスコミは以下の事実について報道したことがあるだろうか?

 弟石原裕次郎が大動脈瘤で手術をした時、その手術を担当した外科医が林郁夫(オウム真理教)であったこと。地下鉄サリン事件後に、第七サティアンで麻原が捕まった時、現場に四男の延啓がいたこと。そしてその四男は、精神異常のため保護され精神病院に救急搬送されていたことになっていること(怪しい)。地下鉄サリン事件と時を同じくして、故浜田幸一(ハマコー)が自著に「石原慎太郎はオウム真理教に資金提供していた!」と名指しで批判していたこと。オウムに対して、「危険」な団体であるため、なかなか宗教法人認定を出さなかった東京都が、何故か石原慎太郎が運輸大臣の時に認可されていたこと。麻原が「石原慎太郎を総理大臣に!」と発言していたこと。これらは一切マスコミは触れていない。つまり茶の間には伝えられていない。

 地下鉄サリン事件直前に石原慎太郎は突然議員辞職したこと、オウム真理教に信者から集めた金だけでは到底賄えないと思われる現金(7億円)と、金の烙印のないインゴット10本が見つかったこと。これらを繋ぎ合わせると、「石原さん、お主もワルよのー、間違いなくオウムと繋がってるよね?」と言わずにはいられないわけで、橋下さんも「石原さんを総理に!」と、麻原と同じこと言ってるわけで、少しガックリくるわけである。「石原慎太郎とオウム真理教」の繋がりを世に出さないための突然の議員辞職であったと(検察との取引)、疑われても仕方ないだけの経緯。もし、オウム真理教に宗教法人認定を与えるように石原慎太郎が運輸大臣時代に東京都に圧力をかけていたのなら、もし、ハマコーが書き残しているように、オウム真理教に資金提供していたのなら、もし、林郁夫や、四男延啓との兼ね合いでオウム真理教の勢力拡大、武装化に結果として加担していたのなら、石原慎太郎がオウム真理教に力を貸していたということになるし、地下鉄サリン事件を招いたと言われても何ら仕方ない。

 麻原が逮捕された第七サティアンに自衛隊で唯一突入した池田誠治さんは、いち宗教団体が揃え、所持するには有り得ないほどの武器(科学兵器含め)が保管されていたことに驚いたと言っている。きっと裏で繋がっている国があるのだろうとも。そこを独自に追求していた民主党の衆議院議員だった石井鉱基議員が刺殺されて今年でちょうど10年になる。石井議員はこのように言っていた。「オウム真理教はロシアに5万人の信者がおり、統一教会と同じくロシアと繋がっており、統一教会信者がオウム真理教に入っている」。つまり、統一教会とオウム真理教は繋がっていると。そんな統一教会に入信していた石原慎太郎の父。そして統一教会と関係の濃い霊友会を入信する息子石原慎太郎。そんな霊友会の派生、崇教真光に入信する長男伸晃。この何とも言えない宗教繋がりを見せる石原家。勿論「組織票」目的なんだろうが、となると公明党と創価学会の政教一致の問題を誰も追求してこなかったのがよくわかるし、これからも追求しないであろうことも、というより自分も同類なのでできないわけで、それは安倍さんとて同じことである。

 これらも全て知りながら、果敢に不正や日本の闇にメスを入れようとした石井鉱基議員。と、石原、オウムと来たら、石井議員についてと刺殺事件の明らかな闇を書きたいところだが、それはまたにして、少なくとも東京都政、石原慎太郎という人間を客観的に見たら、仮に、どんな良い政策を掲げようが間違っても「首相に!」なんて言えないわけで、麻原と石原が直接の関係があったかは知らないが、創価学会と公明党のことを追求しない、もしくはカルト的新興宗教に対して課税対象にするなどの具体的政策を、小沢や亀井のように言及しないような政治家は、全員信用できないのである。

 1つ例がある。民主党の長老石井一参議院議員である。あれだけ国会で息巻いて「創価学会と公明党」について追求していたのに、ある日突然パタッと追求を辞めてしまった。その背景には、相当な圧力があったのだろうが、今では石井一議員から創価学会のその字も出て来ない。まだYouTubeに残ってるか知らないが、多分「石井一と創価学会」で検索すれば、当時の勇ましい石井一議員が見れると思う。危うく石井鉱基議員のように刺殺されるところだった。と今は思っているのだろうが、もう一度あの凄まじいほどの学会と公明党批判を見たいものであるが、たまに超人大陸に顔を出すものの、現在の石井一さんには覇気がなく拍子抜け喰らってしまうほどだ。

 民主党には少なからず、不正を追求する気概を持った政治家がいたのは確かで、皆途中で折れてしまうのも確かである。まるで就職仕立ての情熱いっぱいの教師が、現実と理想のギャップに幻滅し、年々情熱を失っていく姿と同じであり、患者のためにと医者になったはいいが、現実はそんな甘っちょろい社会ではないことを理解してしまい、腐ってしまう医者と同じであり、教師にせよ医者にせよ政治家にせよ、皆同じであり日本社会そのものが、どんな志高くその職についても、腐らせてしまう社会である。野田さんも昔は立派なことを言っていた。

 問題は、「何が」こんな社会にさせているのか。であり、そこがわからなきゃ政治はわからない。だからこそ、政策だけで投票先を決められるそんな分かりやすい選挙などやっていないわけで、政策だけで判断して日本が良くなるのなら、民主党に任せておけば良かったわけである。当選してしまえばあっさりと政策をひっくり返して「保身」に走る政治家ばかりであり、日本未来の党にしても、大層立派な政策を掲げてはいるが、蓋を開ければなんじゃこりゃ?となってしまう可能性もあるわけで、自分のところの子供すら守れない知事が、「国民のため」なんて言って国政に進出したところで、やはり信用はできないのである・・・。「国防軍」や核武装まで散らつかせる自民や維新という右翼政党もダメ、日本国民ではなく、朝鮮向いたりアメリカ向いたりとコロコロ態度が変わる民主党や、それと同じ匂いのする嘉田さんら左翼もダメ。じゃあ誰に投票したら良いのか、本当に困る国である。以上を理解している人達が、最後の頼みとして小沢一郎にすがりたくなるのもよーくわかる。石井鉱基議員が殺されてから、日本の深い闇、数々の不正にメスを入れるような「肝っ玉政治家」は皆無となった。 石井鉱基議員のように、殺されるのも覚悟の上で、国民のために働く人がいるとは思えない・・・。そして、中川昭一さんに松下なんちゃらさんと、不審な自殺が続けば尚更である。

 1980年代の著作は次の通り。「亡国 」、「大いなる海へ」、「秘祭」、「バカでスウェルな男たち」、「暗殺の壁画」、「流砂の世紀に」、「現代史の分水嶺」、「拝啓息子たちへ」、「生還」。

1990 平成2 長男の伸晃が衆院選に初当選  2.18日、 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
1992 平成4 三島由紀夫賞選考委員  三島由紀夫賞選考委員を務める。1999年まで。

 【地下鉄サリン事件
 1995(平成7)年、3.20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。

 【衆議院議員辞職
 1995(平成7)年、4.14日、 国会議員在職25年表彰の場の国会演説で、「日本の政治に失望した」として突然の衆議院議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。警察によるオウム施設の手入れが始まってから数週間後であった。

 石原慎太郎の四男は元オウムの幹部であり、オウムの地下鉄サリン事件の翌月に石原慎太郎は政治家を引退した。オウムと石原慎太郎の強い関係はマスコミによって隠蔽されている!
 http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-748.html

 【「ハマコーの非常事態宣言」
 1995(平成7)年、7月、「ハマコーの非常事態宣言」(主婦と生活社)の中で、石原が山口敏夫と共にオウム真理教への資金提供を行っていたと名指しで批判されている、とある。
 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120406/1333675760

 【芥川賞の選考委員
 1995(平成7)年、この年から芥川賞の選考委員を務める。2012年まで務める。

 【「弟」
 1996(平成8)年、弟の石原裕次郎をテーマに「弟」(幻冬社)を発表。約120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞する。

 【「隠し子問題」
 1996(平成8)年、この年、週刊誌「FRIDAY」で隠し子問題がスクープされている。

 【「法華経を生きる」
 1998(平成10)年、「法華経を生きる」(幻冬舎)を出版し33万部売りあげる。

 【「国家なる幻影」
 1999(平成11)年、1月、「国家なる幻影」(文芸春秋社)を出版する。

 1990年代の著作は次の通り。「不思議な不思議な航海」、「 わが人生の時の時」、「 時の潮騒」、「 光速の時代に 」、「 十代のエスキース」、「 来世紀の余韻」、「三島由紀夫の日蝕」、「禁断の島へ」、「 遭難者」、「- かくあれ祖国」、「風についての記憶」、「 わが人生の時の会話」、「亡国の徒に問う」、「肉体の天使」、「」、「“父”なくして国立たず」、「法華経を生きる」、「国家なる幻影」、 「聖餐」。





(私論.私見)