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増税の時代が始まる。官僚支配政府は、大津波による大震災と原発事故は想定外として責任逃れをしているが、過去の貞観津波から10mを超える大津波は指摘されていたことであり、国の過ちによる過失、すなわち人災以外の何者でもない。本来最悪のシナリオが起こった場合でさえ、最小の被害で受け入れることができるように、海岸付近は数キロに渡って海岸林にするといった自然と調和した防災対策が必要であった。しかし国は最強の防波堤や防潮堤さえ築けば、大津波も克服できるという過信と驕りがあり、利権ぐるみの過密港湾都市開発を長年に渡って指導してきた国の責任は重い。
しかもまるでこの時を狙っていたかのように、この復興増税には当面のB型肝炎賠償費の7000億円が含まれている(今後30年で3兆2000億円と言われている)。このB型肝炎は、既に1953年に世界保健機関(WHO)が警告を出し、注射器使い回しによるウイルス感染の危険性を指摘していた。したがって当時の厚生省(現在の厚労省)も1958年に予防接種法実施規則を改正したが、自治体への指導を徹底せず、その後も注射器の使い回しがなされ数十万人ものB型肝炎患者を生み出し、1988年ようやく厚生省通達で禁止された。これは注射器の使い回しは当時としては致し方ないと、御用学者などを交えて証言しているが、1958年の改正時に禁止することはできた筈だ。そうすれば、その後の数十万人という被害者は防ぐことはでき、単に厚生省の人災というだけでなく、結果的に恐ろしい犯罪である。
そのような薬害はこれまでに厖大な件数に上り、その代表がサリドマイドとエイズ(HIV)である。睡眠薬サリドマイドは、61年にドイツのレンツ博士によって胎児奇形の原因であることが宣言され、世界のほとんどの国で即時発売停止措置が採られたにもかかわらず、日本では「因果関係が証明されたわけではない」としてその後一年間も使用を続け、数百人の奇形児が出産された。しかし裁判では国や企業の責任は、証言する医学者が御用学者であることから、結局問われなかった。またエイズ犯罪では、83年3月にアメリカ防疫センターCDCが「血友病患者のエイズの原因は、血液製剤とみられる」と厚生省に指摘警告したにもかかわらず無視し続け、ようやく85年8月に加熱処理血液製剤の製造を承認した。しかしその後もエイズ汚染された非加熱の血液製剤は、2年4ヶ月以上にも渡って回収されることなく使用され続け、85年以降2000人にも上る人がエイズ感染させられた。このような原因は、サリドマイドでは販売製薬の大日本製薬(当時)、エイズではミドリ十字(当時)の役員らが厚生省の天下りで企業利益を最優先させたことと、本質的には渦中において回収や禁止措置を採れば責任が問われることから、慣習に従って有耶無耶にしたと言えよう。
さらに遡れば、厚生省は戦前の内務省として政治の中枢を支配し、ハンセン病では感染力が非常に弱いにもかかわらず、強制収容による隔離絶滅政策を指揮してきた。(参照資料http://www.hansenkokubai.gr.jp/history/index.html)そのため戦後、劇的な治療効果のある特効薬のプロミンが登場していたにもかかわらず(当時の厚生省医務局長で、その後の都知事東龍太郎は48年の国会で隔離政策の転換を強く求めたが)、逆に隔離政策は逃亡が許されないように強化された。それは戦前の人間性を無視した絶滅政策の犯罪性が、明らかにされることを恐れたからだと言われている。このような経過でさらに半世紀も放置され、2001年に国際世論の高まりもあり、2001年にようやく違憲違法判決が下されたのであった。
まさに犯罪行為であり、官僚組織の致命的欠陥である。すなわち官僚組織は自己目的化し、仲間内の面子と利益を守るための自閉的共同体となり、そのため失敗は徹底的に隠蔽され、同じような失敗が無限に繰り返されるのである(岸田秀『官僚病の起源』参照)。そして今回の復興増税の中身である大津波被害による復興費用、そしてB型肝炎賠償費用は、すべて官僚支配政府の全面的な過失であり、責任である。それにもかかわらず、所得税などの増税によって全面的に国民に負担を押し付けている。全く理不尽であり、無責任だ!これを許せば、何度でも同じタカリが繰り返され、国民は骨までしゃぶられよう。それは、最終的に日本の財政破綻を招こう。何故なら増税しても、過去2回の消費税導入と値上げの事例が物語るように、肥大化した政官財の利権構造が食い尽くしていくからだ。
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理不尽な民にタカル復興増税案は、野田内閣の閣議で決めたものではない。あくまでも彼らは、官僚支配政府のお人形にしか過ぎない。確かに内閣では午前中から閣議が開かれ、議論し政府案を決定している。しかしそれはあくまでも形式であり、実際は通常前夜に開かれる官房副長官(官僚)が主導する事務次官会議で決められてきた。現在のように腰の引けた民主党政権では、その決定を丸呑み、丸投げするしかないのだ。だからこそ、官房副長官が政府の影の支配者と言われてきた所以である。とはいえ官房副長官が独裁者のように自らの意見を主張するわけではなく、下から各部局を通して積み上げ、大臣官房で総括し、各省庁の根回もされてきた草案を、只々承認決定しているに過ぎない。それはこれまで延々と続いてきた慣習によってなされ来ており、それを政治判断で覆せば、たちまち官僚たちの無言の抗議で機能しなくなる。
2009年11月の第一回の民主党の「事業仕分け」には勢いがあり、政府の外郭団体の廃止や予算の縮減によって公約の16兆円捻出実現だけでなく、官僚支配政治の終わりさえ期待された。しかし2010年の第三回の「事業仕分け」では雰囲気が一変しており、各省庁の民主党の副大臣は従来のお役所のやり方を終始弁護し続け、官僚支配政府の軍門に下ったことを象徴していた。それは前の柳田法務大臣を事実上の更迭に追い込んだ本音の言葉、「法務大臣とは良いですね。二つ覚えときゃ良いんですから。個別の事案についてはお答えを差し控えますと、これが良いんです。わからなかったらこれを言う。で、後は法と証拠に基づいて適切にやっております。この二つなんです。まあ、何回使ったことか」が表しているように、専門家でなければ官僚の助けなくしては職務遂行も儘ならず、立ち向かうことなど不可能なのである。実際閣僚の答弁は官僚の書いた答弁書を読むことなしには、弱点をついた自民党の質問(パイプのある官僚たちが書いていると言われている)には太刀打ちできない。だからこそ、そのような官僚支配を知り尽くしている小沢一郎は、鳩山政権誕生の際官僚を国会から排除しようとしたのだ。それゆえに危機感を覚えた官僚たちは、従来の合法的汚職と知りつつ小沢一郎を攻撃したのである。
そうしたなかで公約に掲げていた官僚の天下り根絶は、合法化されたと言っても過言ではなく、逆に天下りの数は増加している。天下りが根絶できない理由は、政権が官僚支配されるだけでなく、日本の現場では1万にも上る権限と権益が未だに存在し、窓口を天下りの役人にした方がはるかに有利だからだ。
例えば第一回で述べた薬の承認では、製薬企業は医療上の有効性と安全性が確認された新薬を厚生労働省に製造販売承認の申請を行う。これを受けて厚生労働省は医薬品医療器総合機構における審査にかけ、その結果をもって、厚生労働大臣の諮問機関である薬事・食品衛生審議会に諮る。審査をパスしたものには、厚生労働大臣から製造販売承認が与えられる。この審査をする医薬品医療器総合機構は独立行政法人であり、歴代の理事長は天下り官僚であった。現在の理事長は批判も高まっていたことから、前の国立国際医療センター病院長であるが、理事長は同時に免罪符とも言うべきレギュラトリーサイエンス学会(薬害などの評価科学学会)を主催しており、連携する大学はこの医薬品医療器総合機構OBや厚生労働省OBを教授に採用するという構図が出来上がっている。
また審議会ほど国民を馬鹿にしたものはなく、「やらせメール」の巧妙な手口そのものと言っても過言ではない。何故なら審議委員は本来ならば国民の利益を求める中立的な専門家が選ばれべきであるが、各省庁の官僚が御用学者、官僚OB、そして財界人から委員を選び、しかも審議された報告書である答申は事務局の役人が書く事から、官僚支配に都合の悪い答申など有り得ないのである。したがって国民にとって重要な案件を審議する現在115ほどもある各省庁の審議会は、「やらせメール」そのものであり、無駄遣いであるばかりか、官僚支配政府のプロパガンダと言っても過言ではない。
また地方政府においても、総務省の官僚が出向し支配するだけでなく、地方政府の外郭団体も天下りのオンパレードである。その理由は、交付税と国庫支出金の地方公共団体への配分が中央官僚の裁量によって、公開されない単位費用、測定単位、補正係数といった不透明なやり方で決定されるからに他ならない。しかも配分の決定は、年度開始から6ヶ月近く経ってなされることから、3月の予算決定はあくまでも仮予算で、9月に補正予算を組まざるを得ず、費用負担などで自主決定をすることができないことから、実質的に地方政府は霞ヶ関詣でまでして、中央の官僚支配政府に全面的に依存しなければならないのだ。要するにこの国は、ほとんどの国民が理解できないように複雑な仕組みができあがっており、国の予算を見ても特別会計などが専門家さえ理解し難いほど複雑に重複しており、国民の目を逸らしていると言っても過言ではない。
それは伝統的権力の政治思想である「民は愚かに保て、寄らしむべし知らしむべからず」が、まさに物語っているのである。だからこそ取り仕切る政治家に対しては、特別な地位に祭り上げ、ドイツの連邦議員の10倍以上の実質的報酬を与え、骨抜きにしているのだ。
(投稿文参照http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/148.html)
地方議員に関しては、ドイツだけでなく欧米の民主国家の多くで名誉職(ボランティア)であり、報酬も日当制が常識であり、議会は市民が参加できるように夕方や休日に開催され、議員も地域の専門家とも言うべき教師などの公務員が多い。しかしこの国では、地方議員も専門職として高い地位に祭り上げ、市民参加もし難いように平日に開催している。
こうした悪しき官僚支配政府は、もはやあらゆる面で限界に達しており、それが1000兆円にも達する負債であり、東日本大震災や福島原発事故という人災を引き起こしたのだ。しかも官僚支配政府は全く責任を取ろうとせず、その責任の処理を国民に全面的に押し付けている。国民がそれを容認するならば、この国は破綻するしかない。この国に未来を求めるならば、まず審議会から御用学者や官僚OBを追い出し、中立な学者や専門家(額に汗して働く人と同程度の日当で意欲的に参加してくれる市民)による国民の審議会にしていくことから始めなくてはならない。そうすれば、現在の政官財の巨大な利権構造で喰い尽くされている無駄な予算から、16兆円どころか、少なくとも20兆円を捻出することも可能である。
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現在の官僚支配政府は殖産興業、富国強兵を求めた明治政府誕生から既に始まっており、伊藤博文らはそのためにドイツ帝国のベルリン大学で学び、ドイツの官僚制度を模倣した。(実際はドイツでは、ビスマルク率いる政府も議会決定なしには身動きできなかったことから、勅令などのやり方で、議会決定なしで主導できる立憲君主制をウィン大学のロレンツ・フォン・シュタイン教授から学んだ。)すなわち二つの目的を最優先して遂行するために、勅令によって議会に左右されない官僚による専制政府を誕生させたと言えよう。確かに議会の延々とした議論と判断に依らないことは、即効的に機能し、一丸となった統率力で、日本を短期的に飛躍的に発展させた。しかしそのような急速な発展自体が官僚組織を肥大化させ、無責任な大本営へと変質させていき、太平洋戦争開戦によって破綻した。
そして戦後の日本はこのような官僚制度を反省することなく、核の持ち込みや核保有の密約などで明らかなように再び官僚主導の統率力のある政府によって、飛躍的な産業発展をさせた。しかしその飛躍的な発展自体が驕りと過信を招き、官僚支配政府は無責任な大本営と化し、再び破綻へと突き進もうとしている。
これに対してドイツでは、戦前の官僚組織の一兆パーセントのハイパーインフレとナチズムを招いたことが徹底して反省され、情報公開を徹底的して国民に開き、官僚組織が政府に尽くす以前に基本法に則って国民全体の利益に奉仕することが、あらゆる側面で求められた。その大きな柱の一つは権限の下への委譲であり、担当した官僚が責任の伴う決裁権を持っていることだ。すなわち日本のように稟議制といって、担当した官僚が係長、課長、局長、大臣官房長、大臣といった承認や指図に従って行政を実施し、過失があっても大臣が替わるだけで責任が問われないシステムではなく、担当者に決裁権があるかわりに、過失の際は責任が厳しく問われるシステムである。それゆえ官僚は、官僚組織よりも国民への奉仕を優先せざるを得ない。但し決裁権が任される官僚は、大学のディプロマー試験やマギスター試験に合格し、州政府などに2年間条件付官使として勤務した後、ラウフバー試験(法文系は司法試験を兼ねていることから、弁護士資格を収得)に合格しなくてはならない。そして3年以上の各省庁での見習い期間を経て、決裁権を持つ官僚になるが、課長以上へ昇進するためには競争も激しく、同時に厳しい責任が課せられている。それは、日本のように国家公務員試験1種に合格すれば、キャリア官僚として官僚組織があたかも自らの共同体を守るために、上へ上へ育成昇進させていくシステムとは対極するものである。そしてもう一つのドイツの柱は政治任用制度であり、誕生した政権が各省庁の事務次官、局長などの約400人の上級官僚を任用するシステムである。そのため各省庁の官僚は各政党にリストされており(多くは政党に入党している)、自ずと情報公開を徹底させ、官僚組織の自己目的化を分断していると言えよう。しかもこれらの官僚は、厳しい決済への責任が課せられることから、政党に属すことで政党に支配されることなく、基本法に基づいて国民全体の利益を最優先して求めているのである。
それゆえ2010年メルケル政権が原発運転期間を28年間延長し、原発推進へ舵を切ろうとした際、その過ちを強く指摘し、脱原発を実現させたのはドイツの官僚たちであったと言っても過言ではない。その証拠にドイツのZDFフィルム「大いなるこけおどし・・・政治の間違った約束」に、責任を担う官僚たちは積極的に出演し、原発運転期間延長の政策が間違った政策であることを強く指摘している。
(ヴォルフガング・レネベルク、2009年まで連邦原子炉安全局局長)
私は安全性の理由から、古い原発を設定された期間以上運転することは、無責任だと思っている。ドイツの全ての原発は、今日申請許可が得られるものではないだろう。
(ボルフラム・ケーニヒ、放射線防護局局長)
ゴアレーベンのような一つだけの最終処分場カードを切ると、実質的には10年から15年の長いプロセスの終わりに、すなわち原子力の計画確定作業の終わりに、安全性の裏づけが得られないということが明らかになれば、対処できない。私たちは、政治が選んだやり方を理解できない。
(ヨアヒム・ヴィランド、法務局憲法裁判官)
脱原発合意が解約されるなら、すなわち飛行機墜落を防御できない古い原発の操業許可が延長されるなら、国家は市民を守る防御義務に違反する。
(オラーフ ホォフマイヤー、環境事務局メルケル首相政府顧問)
脱原発からの下車は、明らかに巨大電力企業に長期に渡って好意を約束したものである。それは内容的に全く馬鹿げており、エネルギー政策的に全く間違った決定である。私たちは脱原発を、さらに徹底して実現していかなければならない。原発の長期運転は必然的により高い収益をもたらす。しかし必然的に安い電力料金にはならない。もし私たちが底なしに向かう原発の運転期間を延長するというシグナルを与えるなら、それは同時に再生エネルギー源の基盤による持続的な電力供給を本質的に望まないというシグナルを与えることである。その限りでは、このシグナルは全く致命的である。
このようにドイツの官僚たちは、官僚組織や政府よりも国民全体の利益と責任を最優先して、国民に奉仕していることは明らかである。日本は約百年前にドイツから官僚制度を導入したが、それは明らかに機能不全に陥っており、今まさにドイツの国民に奉仕する官僚制度への転換が求められている。
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日本の一般会計は2011年予算が92兆円4116億円であるが、実際は各省庁は21種類の特別会計を持ち、総額は国の予算の4倍を超えている。もちろんこの巨大な総額は、国の予算との重複、各省庁間のやり取りなど複雑な仕組みが作られており、実際の国の総予算額は220兆円ほどである。そして国会で予算が審議されのは220兆円の6分の1ほどであり、後の6分の5は官僚の権限である裁量によって、様々な公共事業などに配分され、巨大利権構造と指摘される独立行政法人、特殊法人、26000を超える公益法人、さらにその下の無数のファミリー企業を潤わし、ソドムとゴモラの快楽を与えていると言っても過言ではない。
例えば、公共上必要な事業と説明される99の独立行政法人の2009年予算総額は63兆円に達し、自己収入は半分ほどであり、残りの収入の大半は国からの交付金、助成金、そして借入金で賄われている。そしてそれらの公表されている640人の役員の内訳は(2008年)、退職公務員が189人、独立行政法人等の退職者が165人、国から出向が85人であり、約七割が天下りである。しかも役員報酬(平均)は法人の長が1861万円、理事が1550万円となっており、さらに退職金も国民の常識から逸脱していることから、国民の血税を喰い尽しているといっても過言ではない。名古屋市の河村市長が言うまでもなく、ドイツであればこれらの法人長や理事は名誉職(ボランティア)となる筈である。こうした国民の血税を喰い尽す巨大な利権構造は、第3回で述べたように明治以来の悪しき官僚支配をドイツのように権限委譲と政治的任用で変えていくことなしには克服できない。
そして今緊急に目を向けなくてはならないのは、福島原発後も建て前とは異なって、突き進む原発ファシズムの暴走である。総額20兆円の六ヶ所核燃料再処理計画や、これまでに約2兆円を使果たした高速増殖炉開発計画は国際的な視点からも破綻しており、新自由主義路線を採る朝日新聞でさえ脱原発を論理的に打ち出しており、安全性を重視するならば当然廃止されるべきである。
(資料参照 http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/210.html)
しかし六ヶ所核燃料再処理計画を受け持つ国策会社日本原電は、福島原発事故後の4月に新たな拡張工事と言われる入札を実施しており、国策会社にもかかわらず情報公開もせず、2050年開始という高速増殖炉のためのプルトニウム燃料製造に突き進んでいる。また高速増殖炉「もんじゅ」開発を推進する独立行政法人日本原子力開発機構も年間2000億円以上(2008年2191億円)の莫大な予算を組み、「ナトリウム使用は安全面で制御困難」という国際的見解にも耳を傾けることなく、想定外の事故に立ち往生しているにもかかわらず、開発計画を貫徹しようとしている。まさに災いが起きるまで突き進む姿勢は、神をも恐れぬソドムとゴモラの裁きの滅びを予感せずにはおられない。
また核廃棄物最終処分場計画もドイツの多くの専門家が述べているように、安全な最終処分場などなく、ドイツでの最も安全と言われた岩塩鉱の3つの核廃棄物処分場の地下水侵入を検証すれば、只々核廃棄物を10万年という長い年月、安全に管理保管していくしかないという結論に達する筈である。
(資料参照 http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/230.html)
しかし日本の最終処分場を請け負うことになった国の事業体である原子力発電環境整備機構(NUMO)は、そのような検証も全くせず、3兆円の事業費で遅くとも2037年までに地層処分開始は可能だとしている。
(NUMO http://www.numo.or.jp/)
NUMOの地層処理の空想の域とも言うべき全く楽観的な説明では、「地下にある物質は主に地下水によって運ばれますが、地下深部では地下水の動きが極めて遅いため、物質の移動が非常に遅いという特長もあります。もう一つには、地下深部では酸素が極めて少ないため、錆びなどの化学反応が抑えられ、物質を変質させにくいという特長があります。これらの特長により、地下深部は地上に比べ、物質を長期にわたり安定して閉じ込めるのに適した場所といえます」
このような説明がもし正しいとすれば、ドイツの地下500メートルを超えるモアスレーベンやアッセ岩塩鉱での、僅か数十年での数万個の放射線廃棄物ドラム缶の激しい腐食は起こらない筈であり、地下水汚染などは絶対に有り得ないことだ。
また万一の場合も安全であるという多重バリアの工学対策では、「1.再処理した後に残る放射能レベルの高い廃液をガラス固化し、放射性物質をガラスの中に閉じ込めます。ガラスは水に溶けにくく、化学的に安定しているという特長を持っています。
また放射性物質はガラスと一体化しているので、ガラスが割れても放射性物質だけが流れ出すことはありません。 2.放射性物質を閉じ込めているガラス固化体をさらにオ−バ−パックという鉄製の円筒型容器に密封し、ガラス固化体と地下水が少なくとも1,000年間は接触しないようにします。
3.さらにオ−バ−パックの周りを水をとおしにくい粘土(緩衝材)で取り囲み、オ−バ−パックが腐食しガラス固化体から放射性物質が地下水に溶け出ても、緩衝材が吸着し、その場所から放射性物質を移動しにくくします」
しかしこのような説明も、ドイツの専門家が最終処分場ゴアレーベンの2000年の凍結決定の際理由として述べたように、鉄製容器は高温であることから(少なくとも100度以上が想定)緩衝材の変質は避けられず、水が高温の鉄製容器に接触すれば、モアスレーベンやアッセで見られたように激しく腐食し、数百年どころか数十年で、地下水の放射能汚染が始まる可能性は高く、地下水と接触する場合は工学対策も使いものにならないことは明白だ。ドイツのような安定した岩塩鉱でさえボウリングによって地下水の浸入が避けられないことから、日本のような浸透性の高い地層では地下水との接触を避けることは不可能と言えよう。
そして最も危惧されることは、国民の命を預かる計画にもかかわらず、NUMOの責任者(理事)たちは国の事業体であるにもかかわらず、電力会社OBと天下り官僚ばかりで、評議員も御用学者などの原発推進者で固められており、開発が開始されたら地下水が浸入しようが、汚染されようがストップすることは困難であるということだ。
現在NUMOは全国の市町村を対象に建設候補地を募集しており、建設が決まれば固定資産税が総計1700億円も入るということだ。それは財政破綻に向けて困窮する地方自治体が多いなかで、その弱みに付け込んで丸ごと買い取ることだ。まさにこうしたやり方自体が、原発ファシズムを象徴している。このような原発ファシズムを容認するならば、日本はたとえ福島原発事故以後再び爆発事故を起こさないとしても、地下水は放射能で汚染され、近い将来人が住めなくなるだろう。
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財政問題は人間の体に譬えれば、慢性的な疲れや痛みには疾患という原因があり、癌であれば切除なくしては回復は難しい。薬は一時的に疲れや痛みを取り除いてくれるが、根本的な治療を先送りし、、薬に依存するならば、むしろ疾患を致命的に悪化させると言っても過言ではない。増税もまさに同様である。実際財政の健全化を目的とした1989年の消費税3パーセントの導入と消費税5パーセントの増税は、健全化どころか著しい悪化を招いた。実施前こそ駆け込み需要で景気は上向いたが、実施後は消費の急激な落ち込みから、何度も景気刺激策として箱物中心の公共事業が繰り返され、国の負債額は一気に倍増した。それは国の公債残高表を見れば、一目瞭然である。
すなわち財政悪化という疾患の根本原因にメスを入れることなく、先送りする対症療法的な増税は阿片であると言っても過言ではない。何故なら現在のようなデフレが生じるのは、消費者の懐にお金がないからであり(新自由主義が続く限り解消しない)、そうした状況において所得税増税、そして本丸の消費税を増税していけば、益々消費者は財布の紐を締めざるを得ない。そうなれば企業の景気も益々悪化し、企業の法人税や個人の所得税が激減していくことから、赤字国債による景気刺激策が必要となり、悪循環によって限界に達し、一気に日本の財政破綻の引き金が引かれよう。すなわち夕張市のような財政破綻自治体の続出、大失業時代の到来、貿易収支の大幅な赤字転落、円売り開始によるハイパーインフレ。まさに悪夢である。
それにもかかわらず財務省や民主党政権の増税論者たちは、ヨーロッパ先進国の消費税が20パーセント前後であることから、安易に10パーセントの増税を主張している。しかしこの安易に比較されるヨーロッパ先進国の消費税20パーセント前後の裏にこそ、本当の日本の疾患の原因が隠されている。すなわちドイツの消費税は19パーセント(食料品は7パーセント)であるが、実際の暮らしに必要な物価は消費税5パーセントの日本に較べて恐ろしく安い。そこにこそ、日本の疾患の本質的原因があるのだ。
次回は、日本の疾患の本質的原因について検証したい。
蛇足ではあるが、数日前夢を見た。私は妙高山に登っていた。一服して日本海側の米山を見下ろした時、真っ赤に光った。その瞬間、とうとう予期していたチェルノブイリの7倍規模の柏崎原発が爆発したと思った。私の夢では、俺たちに明日はなかった。Permalink
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財政問題の疾患の原因は、日本の暮らしに必要な物価が、消費税19パーセントのドイツより3倍も高いことにあると言っても過言でない。私自身2007年4月から2010年10月まで消費税19パーセント(食品は7パーセント)のドイツで暮らしていたが(冬季は帰国)、ドイツでの暮らしは飛行機代などを除き、日本の3分の1ほどで賄う事ができた。アパート代は、ベルリン都心の広くて綺麗な2DKで370ユーロ(光熱費、家具、19パーセントの消費税込み。アレクサンダー・プラッツまで地下鉄で3駅)の安さだった。また買い物はドイツのどこにでもある大手スーパー「アルディー」で購入していたが、野菜や果物、そして牛乳や乳製品などの安さは驚くものがあった。
例えば大玉レタスが0,5ユーロ、人参1キロ0,45ユーロ、ジャガイモ2キロ1,2ユーロ(トルコ人の多いノイケルンまで行けば、5キロ0,99ユーロ)、大玉メロン0,8ユーロ、牛乳1リットル0,5ユーロ、バター250グラム0,8ユーロ、そして大きな1,2キロのライ麦パンが0,75ユーロ(マイスターのパン屋でもその日の特売を買えば、750グラムで1ユーロほど)。それ故暮らしは、家賃などを含めて月600ユーロ(約7万円)ほどの清貧にもかかわらず快適であった。世界一物価が高い東京では、恐らくどんなに生活を切り詰めても3倍位はかかるであろう。その上大学院で学べば、タダ同然のドイツの授業料とは異なり恐ろしく高い。
このように日本の暮らしに必要な物価が高いのは、日本では消費税の前に既に恐ろしく高い関税が課税されているからだ。すなわち米の778パーセント課税が象徴するように、小麦から乳製品にいたるまで主要な101種類の食料品には、200パーセント以上の課税がなされている。しかもこのような恐ろしく高い関税は、官僚支配政府によってコントロールされており、農業、林業、そして漁業だけでなく暮らしに必要な内需産業が、いかに国際競争力がないかを物語っている。そこにこそ、財政問題の本質的疾患の原因がある。
すなわち官僚支配政府によって地域の農業や林業を犠牲にして、バランスの欠いた産業発展を築いてきた。そこでは輸出産業を最優先して、産業の担い手をからめ捕るために、農業や林業だけでなく、国民の暮らしに必要な内需産業を見捨てて来たと言っても過言でない。それ故コメ政策で行き詰ると、戦後20年近くの無借金健全財政を転換して国債を濫発し、日本全土を高速道路開発を通して土建国家とし、輸出工業製品の生産拠点とする地域開発を推し進めた。もちろんそこでは、地域支援を名目に肥大化した政財官の利権構造が国民の血税だけでなく、赤字国債という将来世代からの借金を喰い尽し、現在の1000兆円にも上る負債を生み出しているのだ。そして国際競争が激化すると、輸出企業の海外移転が急増し、地域開発は破綻し、地域は益々衰退を加速している。このような危機の打開を、現在の官僚支配政府に期待しても無理である。
何故なら官僚支配政府は、明治の殖産興業、富国強兵に対して機能するようにつくられているからだ。
現在で言えば、輸出産業の海外進出に機能している。例えば原発輸出を推進するために、2010年に官僚主導で設立された「国際原子力開発」はそれを象徴している。しかし官僚主導での飛躍的な輸出産業の発展は、それ自体が驕りと過信を招き、世界が行き詰る中で戦前同様の無謀な拡大路線を邁進することで、再び破綻へと突き進もうとしている。例えば中東への原発輸出を国策で推し進めようとしているが、実現すれば原発テロ攻撃は避けられず、それを乗り越えようとすれば戦前の大本営の過ちを繰り返すことになる。何故ならZDFフィルムが語るように、2006年から中東のゲリラが使用している持ち運びが可能なロケット砲は、2キロ離れた地点から5メートルの鉄筋コンクリートを貫通させることができるからだ。そのような恐ろしい破滅へ道を歩ませないためには、官僚主導の国家支援をなくさなくてはならない。すなわち原発施設の60年間と言われる長期保障や開発支援金をなくせば、既に成熟した日本の輸出産業は、世界を滅ぼす原発エネルギーに関与するよりも、世界の未来に貢献する再生可能エネルギーに関与する道を選択する筈だ。そうした技術こそは日本の得意とする分野であり、たとえ政府からの支援がないとしても、むしろそれをバネとして創意工夫で乗り越えよう。
そして今、日本が取り組むべきは、財政問題を解決するためにも、衰退した地域産業を再生することだ。それは農業や林業、そして漁業の再生だけでなく、新たな地域産業を構築することだ。そのためには明治から継続されている専制的な官僚制度では機能不全と言っても過言ではなく、既に第3回「ドイツから学ぶ官僚支配政府の克服(責任ある決裁権と政治任用制度!)」で述べたように、ドイツの戦後の民主的な官僚制度へと刷新させていかなくてはならない。すなわち現在の稟議制を廃止し、権限を下へ委譲し、担当した官僚が責任の伴う決裁権を持つことだ。もちろん権限の下への委譲は中央政府だけでなく、徹底した地方分権を通して地方政府、さらには地方自治体に委譲されなくてはならない。
ドイツでは既に70年代には、決裁権は地域自治体の下級公務員にも委譲され、責任を持って処理されている。しかも文章管理も徹底されていることから、日本のように権限が天下りや利権構造の温床になることはなかった。もちろん下級公務員は州の行政学校で決裁権が過ちなく行使できるように、徹底した指導がなされている。またドイツの政治任用制度は、誕生した政権が各省庁の事務次官、局長などの約400人の上級官僚を任用するシステムである。そのため各省庁の官僚は、各政党にリストされている(多くは政党に入党している)。この長所は各政党に属する官僚が自ら行政を、国民に競って伝えようとすることから、必然的にガラス張りに開かれることだ。またそれは、官僚組織の自己目的化する自閉的共同体を分断し、官僚支配の呪縛を解く役割も果すと言えるだろう。
さらに審議会は連邦、州、そして地方自治体に至るまで、審議委員は選挙の政党の得票割合で選出されている。すなわち連邦選挙の得票割合がキリスト民主同盟40パーセント、社会民主党30パーセント、緑の党10パーセント、自由民主党10パーセント、左翼党10パーセントであれば、連邦のある審議会のメンバー20名はキリスト民主同盟推薦の専門家8名、社会民主党4名、緑の党2名、自由民主党2名、左翼党2名からなり、日本のように官僚が選出することは有り得ないことだ。したがってドイツの戦後の官僚制度では、官僚は国民に奉仕する有能な公僕以外の何者でもない。日本においてもそのように刷新していけば、財政を喰い尽す巨大な利権構造は自然消滅していき、財政問題の本質的疾患は解消されよう。
次回は具体的な地域再生について述べたい。
***昨日のような司法の独立性が疑問視される判決がなされるのは、最高裁事務局の官僚が裁判官の給料から人事にいたるまでを統括しており、毎年100人を超える裁判官が法務省に出向しているからだ。
まさに裁判の不当性は、病める官僚支配政府を象徴している。***
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地域再生を考える時、そこで生きる者にとって地域が未来に向けて輝いていなければならない。そのように未来に向けて輝いている成功例として、かっては困窮の極にあったデンマークが挙げられるだろう。デンマークはドイツの上に位置し、北海道の半分ほどの大きさで、人口も500万人ほどで日本の都道府県規模である。絶えずドイツ帝国とオーストリー帝国の圧迫に苦しみ、19世紀中頃に立ち上がったが敗れ、肥沃な大地シュレス・ヴィヒホルシュタインをドイツに没収され、莫大な賠償金を課せられた(『デンマルク国の話』内村鑑三・・・青春文庫 )。
http://www.aozora.gr.jp/
しかし残された不毛の地ユトランド生きる人たちは、その逆境をバネとして希望の緑の大地に変え、世界に輝く国に再生した。しかも1973年のオイルショックにおいてはエネルギー自給率1パーセントであったが、北海油田や再生可能エネルギー開発に全力を傾け、エネルギー自給ができるような税制度を採り、2008年にはエネルギー自給率130パーセント(2004年155パーセント)に達し、世界で最も豊かな国の一つになっている。
http://www.ambtokyo.um.dk/ja/menu/GreenDenmark/Denmark/
日本の衰退著しい地方も、不毛の地であることをバネとして豊饒の地と成した小さな国デンマークを手本として、地域を再生することは十分可能である。そのためには前回述べたように、機能不全を呈している明治以来の官僚支配政府の刷新は必要不可欠だ。権限の下への委譲で中央に支配されない地方分権が徹底されていけば、地方政府は小さな国デンマークのように、現在の窮状をバネとして、創意工夫で豊饒の未来に向けて動き出す筈だ。現在の地域衰退の原因は、若者が雇用がないため都会へ出て行くのとは対照的に、物が地域振興のために開発された高速道路を通して都会から入って来るからだ。すなわち物を外に依存するため、益々雇用の場が減少し、若者が外へ出ていく悪循環を深化させている。そうした中ではどれだけ国民の血税と将来世代の負債が投入されても、政官財の巨大な利権構造に喰い尽されていくだけだ。それを打破するためには、地域での地産地消が必要であり、デンマークに倣うならば税制的戦略も不可欠だ。すなわち地産地消税の創設である。
地産地消税は、小国地方政府の地域関税であり、地域外から運ばれてくるすべての商品に課税する税である。確かに税であることから、消費者にとってはマイナスのイメージしかないかもしれないが、地域内の生産者には課税されず、地域外からの生産者に対して適正な競争のインセンティブを与えることから、逆に物価が下がり暮らし易くなる。特に日本のように物価が恐ろしく高い国では、むしろ世界の物価に収束して健全に下がり、国際競争力の向上にも貢献する。しかもそれは地域を再生すると同時に、中央に依存しない自立した豊かな地域を実現することに繋がる。そのような地産地消税が威力を発揮するためには、少なくとも10パーセント程度の課税が必要であろう。もっとも急激な変化はデメリットや抵抗も予想されることから、健全な国際競争力育成を掲げて1パーセントから始めて、累進的に増加させることで10年後10パーセントになるといった方法がよいだろう。課税で得られた税収の一部を地域内の生産者支援に利用していけば、これまでほとんど他の地域に依存していた農産物や製品に対しても、デンマークのエネルギーの自給率1パーセントから130パーセントが示すように、自給自足することも可能だ。
実際の導入では、例えばある農産物がほとんど外からの流入する地域であれば、税収をその農産物の生産に参入する生産者育成や、外の地域又は外国の生産者を地域内に呼び込む移住支援に使えば、地域内での地産地消を高めることは難しいことではない。また電化製品などの生産されていない地域では、課税免除と十分な支援金によって、意欲ある生産企業を招致することも可能だ。さらに法整備で地域内での徹底したリサイクルを義務付けて行けば、大きなインセンティブとなるであろう。もっともすべての農作物や製品を地産地消することは、適材適所の生産原則からして不可能であろう。たとえ課税免除と十分な支援があったとしても、農作物であれば気候や耕作地の適正に大きく左右されるため、導入後地域内での生産がある水準まで増加した後は、自ずと適正なバランスに達するであろう。しかし生産原則の観点から大きなハンディーのある地域においても、食料や生活必需品に関しては少なくとも3分の1ほどの地産地消は可能であり、そのために地方政府はあらゆる方法で支援すべきだ。そのためには地方政府は、これまで地域産業衰退の原因を徹底分析すると同時に、産業振興戦略を抜本的に見直さなくてはならない。
すなわち戦略的な農業政策、林業政策、漁業政策、そして未来産業の枠組みを作り、長期プロジェクトで地産地消を実現すべきである。
例えば林業をでは、日本は国土の7割近くが森林であるにもかかわらず、国内自給率は僅かに2割ほどであり、多くの森林は管理されることなく荒れ果て、災害の原因とさえなっている。これに対して森林が国土の3割しかないドイツでは、山間地の小規模農家を林業マイスターに育成するなどして100万人以上の雇用を生み出し、徹底的な森林管理を通して日本の三倍もの木材を安定的に生産している。また日本のように国土が森林で覆われる北欧諸国では、育成に100年も要する寒冷地にもかかわらず、林業は主幹産業として未来に輝いている。日本も戦後10年ほどは木材を自給し、林業は農業と並んで地域の要であった。しかし1961年の完全自由化という悪しき政策によって、価格の安い途上国の熱帯雨林などに依存し、木材の自給率を激減させてきた。しかも農業同様に補助金による保護政策を通して利権構造を生み出し、恐ろしく国際競争力を低下させてきた。それは1立法メートルの木材を生産するのに、日本では70ドルも必要とするのに対して、スウェーデンでは僅か6ドルで済み、まったく補助金なしで林業が地域の要となっている。この理由は、日本では森林所有者が分散して小規模、伐採木材の搬送道路が不整備、それ故に機械化が大幅に遅れているからだ。既に林業の機械化は北欧だけでなくドイツでも進み、林業マイスターたちは立木をつかんで切り倒し、長さを揃えて木材にできるハーベスタに乗っており、一度も地面に降りない機械作業となっている。したがって日本の林業を再生するためには、これまでのように林業を森林組合に任せるのではなく、意欲的民間企業の参入が不可欠だ。しかし森林は保水力や水源などの公共性が強く、利益追求だけを最優先させることはできない。それ故森林組合がチェック機関として機能すると同時に、民間企業が容易に参入できるように搬送道路の整備や森林所有者の同意を取るなど、黒子として先導役に徹することが必要である。そうすれば、全ての地域で少なくとも半分ほどの地産地消を実現することは十分可能だ。
また海に囲まれた日本は世界一水産資源に恵まれ、1982年には1282万トンの漁獲量を誇る世界一の水産国家であった。しかしそれ以降急速に減少し続け、2009年には530万トンとなり、既に何年も前から世界最大の水産輸入国である。日本の漁場が世界一水産資源に恵まれていたのは、先人が植物プラントを生み出す森と魚の密接な関係を知っており、江戸時代の各藩が漁場近くの森の伐採を禁止し、森を育成してきたからだ。しかし日本の工業発展とともに捕獲技術が恐ろしく向上し、「巻き網漁」などによって魚を根こそぎに捕獲することで、日本近海の水産資源は激減し、漁業を不況産業へ転落させた。これに対して現在の欧米、特に北欧諸国では好況産業として未来に輝いている。そこでは水産資源の育成が最優先され、最新の科学技術で厳しく水産資源を管理している。例えば深海においても1立法メートルあたりどれ位の魚がおり、各々の魚の体長は何センチか判別可能な魚群探知機を開発し、必要とされる漁獲量だけを網で捕獲している。したがって欧米では、漁業が育成と捕獲を厳しく管理規制する知的産業として位置付けられている。すなわち日本のように緩い総量規制による解禁を待って、公の海で漁船が魚を根こそぎにして取り合い、多く捕獲すればするほど利益が得られ、時にはそのために取れ過ぎて畑に捨てるやり方では成立しない産業となっているのだ。したがって地方政府が少なくとも漁獲量が回復するまでは公社化し、漁協が中心となって専門家の指導のもとに捕獲から水産加工までを運営すべきである。何故なら日本の海は公のものであり、国民のものだからだ。そうすれば北欧諸国のように水産資源育成を最優先し、知的産業化を推し進めることは可能である。
そして本丸の農業政策については簡略に述べることはできないことから新たな題目で書く予定であるが、2000年まで環境農業政策の農家直接補償制度で、豊かな理想的地域農業を築いてきた農業自給国ドイツでさえ、新自由主義のボトム競争の中で毎年1万件以上の農家が倒産するほどに、地域農業は危機に瀕している。そうした中では民主党の掲げる農家直接補償制度は時代錯誤的であり、戦後自民党が推し進めてきた食管制度の枠を越えるものではなく、農家に媚びるお金のバラマキ以外の何者でもない。端的に述べれば、コメの完全自給に拘るより、出来るだけ多くの農産物を地域で地産地消できるように、新たな戦略で若者を地域に呼び戻し、希望溢れる産業に再生していかなくてはならない。
ドイツの小規模農家の生き残る戦略として、地域で消費する有機農産物の生産から鶏卵や養豚などを営むビオ農家への転向が増えており、2009年には1万9000件にも達している。既にハウス栽培で有機農産物を生産することは決して難しくなく、欧米だけでなく韓国においても経営が成立つマニュアルは完成しており、地方政府が本物の食の安全を掲げてビオ農家の育成に取り組めば、若者や新規参入者を呼び込むことも可能であり、農産物の地産地消は右肩上がりに実現されていく筈だ。
東京都のような大都会では、確かに食の地産地消は難しい。しかし地方の過疎地域などに地産地消を目的とした都の農業法人を設立し、3割までの地産地消に課税免除の措置を採ればよいだろう。もちろんこれらの都の農業法人は地方政府に属することから、過疎地域の活性化にも役立つ筈だ。また長野県のように海と接していない都道府県でも、地方政府が漁港のある地方の地域に漁業法人を設立し、地産地消の実現に励めば相互の繁栄に繋がるだろう。
後編に続く。
・・・タイトル「第七の封印を解け!」について。
「第七の封印」とは、ヨハネ黙示録にある世界の終末を意味しており、現代で言えば、ギリシャ金融危機に見られるように強者のルールなき強奪が繰り返される世界、北朝鮮、インド、パキスタだけでなくイランやイスラエルといった国々に核兵器が拡散される世界、自国利益を最優先して地球温暖化に対処できない世界、安い、クリーン、安全という嘘で原発バブルを推進する世界、自爆テロの連鎖が拡がり続ける世界、といった絶望的な世界である。尚、『第七の封印』はスウェーデンの巨匠ベルイマンの映画作品でもある。
http://www.youtube.com/watch?v=O4JgsWxFY2E&feature=related
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