鹿児島県の志布志冤罪事件。
2003年4月の鹿児島県議会議員選挙で当選した県議らが住民11人に191万円を配った疑いで、志布志市に住む15人が県警に逮捕され、このうち13人が公職選挙法違反罪で鹿児島地方裁判所に起訴された。ところが、警部補が取調室で容疑者の男性に「お前をこんな人間に育てた覚えはない ○○(父の名)」、「早く正直なじいちゃんになってください ○○(孫の名)」などと書いた紙を、男性の両足首をつかんで「踏み字」を強要したことなどが明らかになった。このため、鹿児島地裁は2007年2月、「強圧的な取り調べによって引き出された被告人たちの自白は信用できない」として、被告人12人全員(1人死亡)に無罪を言い渡した。検察側は控訴をあきらめ、無罪が確定した。警部補は罪に問われて、間もなく退職し、二〇〇八年3月、「取り調べの方法としてまともではなく違法」として有罪判決を受け、刑が確定している。
富山冤罪罪事件。
2002年1月と三月に、富山県氷見市で女性への暴行事件などが発生した。富山県警は4月にタクシー運転手の男性を逮捕し、長時間の取り調べを行い、自白を迫った。富山地裁は、男性に懲役3年の実刑判決を言い渡した。2年1か月、富山刑務所に服役し、仮釈放された後の2006年8月、別の男が「自分が氷見市の二つの事件をやった」と自白したことから、冤罪事件と判じ、男性は2007年10月、再審(裁判のやり直し)によりで無罪が確定した。男性は「顔と名前を公表した富山県警の行きすぎた取り調べは、法律違反である」と訴えている。
足利冤罪事件。
1990年5月12日、父親が足利市内のパチンコ店でパチンコに熱中している間に、同店駐車場から女児(四歳)が行方不明になり、五月十三日、渡良瀬川の河川敷で遺体が発見された。栃木県警捜査本部は、総勢180人余の態勢で捜査し、1991年12月2日、「女児の下着に付着していた体液のDNA型と、被疑者のDNA型が一致した」として、同市内に住む幼稚園バス運転手・菅家利和さん(当時45歳)を猥褻目的誘拐と殺人の容疑で逮捕した。菅家さんは、警察や検察の厳しい取り調べに堪え切れず、犯行を自白。しかし、第1審・宇都宮地裁の公判の途中(第6回公判)から否認に転じ、無罪を主張していた。だが、無期懲役判決を受け、東京高裁(高木俊夫裁判長)は1996年5月9日、控訴棄却。最高裁も2000年7月17日、「DNA型(MCT118)鑑定の証拠能力を認める」との初判断を示し、第1審の無期懲役判決が確定した。その後、菅家さんは優秀な弁護士に恵まれ、二〇〇二年12月、宇都宮地裁に対し、再審請求を申立てた。だが、同地裁(池本寿美子裁判長)は、二〇〇八年2月13日、これを棄却していた。これに対して、菅家さんは、東京高裁に即時抗告した。弁護側は、「事件当時、DNA鑑定(正しくはDNA型鑑定)は警察庁科学警察研究所に導入されたばかりであり、信頼性に疑問がある」と主張し、これを受け入れた同高裁はDNA再鑑定を行うことを決定、同鑑定の結果、菅家さん犯人の同一性に疑問が生じたため、2009年6月23日、同高裁(矢村宏裁判長)は原決定を取り消して、再審開始を決定した。DNA鑑定を盲信した結果、招いた冤罪であったが、幼児のシャツが残されていたのが、幸いした。しかし、菅家さんは、千葉刑務所に14年間も、服役させられていた。
釈放後、記者会見に臨んだ菅家さんは、逮捕されてからの取り調べの状況に対し「刑事達の責めが酷かったです。『お前がやったんだろ、お前は現場に行ってた筈だ』とか『早く吐いて楽になれ』と言われました」と述べており、その他、殴る蹴るの暴行や、頭髪を引っ張られるなど、拷問に等しい暴行を受けていた。菅家さんを取り調べた刑事たちについては「私は刑事たちを許す気になれません」とも述べている。
飯塚事件。
足利事件とほぼ同時期に起きた事件で、DNA型鑑定により被疑者が逮捕された。1992年2月20日、福岡県飯塚市の小学校1年生だった女児(当時7歳)が登校中に行方不明になった。その後、同県甘木市(現在の朝倉市)の雑木林で殺害され遺棄されているのが発見された。死因は窒息死だった。同じ「MCT118」という検査法を用いて、DNA型鑑定により、久間三千年が逮捕、起訴され、死刑判決を受けました。死刑囚となった久間は冤罪を主張し、弁護団は再審のための準備をしていた。しかし、死刑判決確定から2年2か月弱の2008年10月28日に福岡拘置所で久間三千年の死刑が執行された。70歳だった。再審を待たずして死刑が執行されたのである。死刑執行命令を出したのは、麻生太郎内閣の森英介法相であった。大臣就任後1か月しか経っていなかった。執行時の久間三千年の死刑判決順位は100人中61番目で、先に死刑が確定している死刑囚で再審請求をしていない者も数多くいたにもかかわらず、異例に速い死刑執行であった。
ところで、戦後の大事件のなかで、「4大死刑冤罪事件」と呼ばれているものがある。死刑判決が確定した死刑囚が、再審裁判を受けて、無罪を勝ち取り、晴れて自由の身になった事件である。
@免田事件=1948年、熊本県人吉市の一家四人が就寝中に襲われ夫婦が即死、娘二人も重傷を負いまし。翌年、免田栄さんが別件で逮捕され、無罪を勝ち取るのに34年を費やした。
A財田川事件=1950年、香川県財田村の闇米ブローカーが惨殺される。同年4月に強盗傷害事件で逮捕された19歳の少年(谷口繁義さん)がこの事件の犯人とされ、無罪獲得まで33年を費やした。
B島田事件=1954年、静岡県島田市の幼稚園から6歳の少女が連れ去られ、のちに遺体で発見。五月に軽度の知的障害と精神病歴のある男性(当時25歳)が窃盗(賽銭泥棒)容疑で別件逮捕され、厳しい拷問を受けて、自白を強要された。死刑判決を受けて服役し34年以上が経った1989年1月に無罪判決が下されている。
C松山事件=1955年10月、宮城県志田郡松山町で農家が全焼し、焼け跡から一家4人の惨殺体が発見されました。斉藤幸夫(当時二十四歳)が十二月に、別件で逮捕、起訴され、死刑判決を受け、死刑囚として28年7か月を獄中で過ごしている。