江戸後期の真庭・中和地域の村をあげての感染者対策

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).5.23日

 2020.12.14日、「感染者排除しなかった先人の姿勢 江戸後期の真庭・中和地域」。
 村を挙げて感染症を防ぎ、患者が出れば隔離療養し、治れば村に迎え入れる風習が200年以上前の江戸時代に真庭市中和地域で成立していた―。そんな史実を伝える記述が津山郷土博物館(津山市山下)収蔵の古文書から見つかった。新型コロナウイルス感染が広がる中、感染者を排除しなかった先人の姿勢は今の世の参考になりそうだ。

 幕臣による庶民の習俗に関する全国調査「諸国風俗問状」に対して美作国側が作成した「山陽道美作国農工商之部」のうち「疫病除(よけ)」の部分に記されている。津山市史編さん委員で県立記録資料館の山下香織司書(47)が市史編さん過程で発見した。1820年頃に書かれたとみられる。

 古文書は「下尾村」(現下和地区)の疱瘡(ほうそう)(天然痘)への対応を紹介。流行の年はどんな用事があろうとも村外に出ず、村の入り口に番人を置いて、かさぶたの痕などから感染が疑われる人が村に入ってこないよう厳しく警戒した。

 村から患者が出た時には、郊外に家を建て介抱役の親族と一緒に住まわせ、治療に専念させた。食料を渡す時は100~200メートル先から大声で知らせて振り返らずに走り帰ったという。

 病状が落ち着くと湯本村(旧湯原町)で1週間ほど温泉に漬かり、さらに数日様子を見てから村に帰る決まりになっていた。村に戻る際は親類縁者が出迎え、神職のおはらいを受けた後、村人たちにあいさつしたとある。

 末尾には「今はもう行われていない」とあり、実際に習わしがあった時期は不明。山下司書は「祖父母世代くらいからの伝聞を筆者が珍しいと判断し、報告したのだろう」と推測する。

 山下司書は「江戸後期の庶民の習俗を詳述した古文書は全国でも貴重」とした上で「医学が未発達な時代に感染者を排除しない仕組みをつくっていたことに驚いた。コロナ禍で差別や誹謗(ひぼう)中傷が問題となる中、先人の英知に目を向けてほしい」と話す。

 ◇

 山陽道美作国農工商之部 美作国内の庶民の年中行事や通過儀礼などを約2万3千字にわたって記載。筆者名や作成年が書かれていた可能性が高い末尾が欠落している。表紙に「上」とあることなどから幕臣に提出されたか、その意図があったとみられる。諸国風俗問状に対する回答書は福山藩の儒学者・菅茶山が編集したものなど全国で20ほどが確認されている。




(私論.私見)