あぁ左派恋しや

 左派とはいつから云われるようになったものかは知らねども、ものおしゅう恋しゅうなるものかな。こういう思いが切にする今日この頃です。日本左派運動の不在ないしは長期低迷の中で、新タカ派(戦前の反動派とシオニズム派合体による売国勢力)が我が世の春を恣(ほしいまま)にしている。れんだいこは見るに見かねている。

 小泉はんは遂に狂い咲きし始めた。思えば、守役の福田が官房長官を辞してより以降誰も小泉に重しをつける者がいなくなった。これは福田を評価しようとして述べているのではない。事実問題として指摘しているに過ぎない。小泉はんは今では糸の切れた凧のように舞い上がり日本国籍を喪失した中空で揺れている。為すことが次第にはちゃめちゃチグハグ域に入っており正視するに堪えない。

 その小泉はんは米英ユ権力の後ろ盾、ナベツネ的マスコミの後押しのみが唯一頼りである。とはいえ、この頼り綱さえあれば何でもできるらしい。先だっては官僚秩序に介入するという「不文律の聖域」に容喙した。れんだいこの観るところ、小泉の聖域侵犯問題の問題性は、官僚秩序の聖域を聖域と思う知力さえないことによってもたらされていることにある。ここでは、この問題についてはこれ以上述べない。

 いずれにせよ、このヘリコプター降下首相の命運は既に決まった。小泉政権の悪魔術がまもなく溶け、人々は悪い夢から醒める。小泉の悪行の数々が堰を切って露見し始めるだろう。退陣後の訴追免れ難しとなるであろう。となると、小泉はんは米国にでも亡命するしかなかろう。ヘリコプターでやって来た者はヘリコプターで逃げる。これは法理でもある。

 それにしても、小泉の政治は万事が与太者の政治であった。つぶさに調べた訳ではないが、重要法案で強行採決しなかったものは一つも無かろう。この男はこうして国会をレイプし続けてきた。歴史の歯車を僅か5年余で数十年分を右旋回させた。日本の三権分立制、議会制民主主義を根限り凌辱し続けた。それは、戦後日本政治が与太者政治にからきし弱いという体質を露呈させたという意味で反面教師的である。

 当然させた方にも問題がある。野党がだらしない。民主と社民が共同歩調でへなちょこ対応しているので如何せん力がない。民主の若手のタカ派度は、自民のそれに優るとも劣らない。この連中を居つかせている民主の寄り合い世帯ぶりは遠からず限界を迎えよう。そういう意味で、政局は波乱含みと見立てる。

 その上に、日共が、採決の場面になるとポーズだけの意味しかない反対投票でアリバイづくりしつつ、法案通しを裏協力するからどうにもならない。選挙でも国会でもこの党の動きは自民党の長期政権化に手を貸していることが誰の目にも明らかになりつつある。我々はそろそろ、口先で云うことより実践的な意味役割で以ってかの党の立ち働きを判断する能力を身につけねばなるまい。

 加えて、第四権力マスコミが小泉政権を後押しし続けている。というか、この連中は、時の政権与党擁護のプロパガンダ機関化することこそ、別の言葉で言えば批判を差し控えることこそ公正中立であると考えている節が有る。戦前もそうだった。戦後も今やはっきりそうなりつつある。

 あれこれ考えると、「あぁ左派恋しや」ということになる。地方選挙辺りでしかめ面して一喜一憂しているようではどうにもならない。それにしても台頭が遅すぎる。れんだいこには処方箋が有る。日本左派運動の稀有な事例即ちかっての全共闘派が再臨することである。一度出来たことは必ず二度できる。この田を耕そう。

 ここは一つ、左派サミットを開き、かっての最低限綱領で共同戦線化し、団結し、数十名規模での国会議員団を送りつけ日本政治を揺さぶる必要が有る。代表は党利党略に基づかず、一定の「自由、自主、自律」権限を与える。その代わりに国政報告会の開催が義務付けられ、発言と実践の検証を行う。その積み重ねにより更なる支持を生み出す。そういう仕掛けにしたい。

 その為に何を為すべきか。あぁ頭が痛い、何も出来ておらん。しかし、出来ておらんことが分かっただけでもましであろう。各自の持ち場からできることを積み上げ、左派サミット開催のうねりを創りだしていこう。これは日本人民大衆の能力問題として課せられていることを自覚しよう。

 全共闘各派の先輩の皆様、その流れを汲む諸派の皆様、一人一党の皆様、もっと歴史に責任持とう。手分けして日本左派運動共同戦線の流れ産み出そう。我がれんだいこ党はその為に云々と言いたいところだが、如何せん恥ずかしながら党勢拡大できておらん。しかし、必ずやり切る。日本左派運動に誓約しておく。

 云いたいことを云ったので、そろそろうがいでもしに街へ行くことにした。

 2005.4.25日、2005.5.25日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)


政治も経済も文化もつまり国家全体が液状化し始めている。政官財学マスコミには世界支配層に魂を売り、その徒党となっている手合いが多く居る。ロッキード事件以降の日本政治は日本破壊の為に機能している。


 地球とは、かけがえのない知的生命体を持つ球体惑星である。1億5千万kmのかなたから太陽光を受けている。1年という周期で公転し、一日という単位で自転している。地軸が黄道面に対して凡そ23.5度傾いている。表面積の71%が海で覆われ、陸地は**。多くの人種、民族」、国家が異なる地域の適性に合わせた適応している。独自の言語、宗教、文化、風俗を発展させている。家族、部族、民族、国家。

 現代世界の新権力、世界支配層。ユダヤ。16世紀に始まる白人帝国主義国家による世界分割競争。植民地支配。これを陰で操ったのは国際ユダヤ勢力(イルミナティー)である。フリーメーソンはその下部組織である。

 明治維新にもその陰が認められるが、その後の歩みは必ずしも望んだ通りにはならなかった。為に、雌雄を決する形で太平洋戦争にまで突き進むことになった。戦後の中国内戦で、毛沢東率いる中共側が勝利し、蒋介石派が台湾へ逃げ込んだのもシナリオから外れた。第二次世界大戦後、国家単位による帝国主義よりも、ユダヤイルミナティーの世界支配がメインとなった。米ソ二大陣営対立は見せ掛けでしかなかった。戦後の日本の驚異的経済発展も誤算であった。これはロ事件で解決した。親ユダヤ的マスコミの果たした役割は大きかった。日本に巣くうエイリアン。エージェント。政官財学業での高い地位と収入の保証で釣られている。

 明治維新以後、ユダヤ流の覇権主義、植民地主義に毒され、朝鮮、台湾、中国大陸へ侵略を開始した。西欧真似主義に陥り。アジアを蔑視し、軍閥主導。歴史の選択を間違った。世界支配層の親衛隊。日本は直接支配されたことが無いために、ユダヤ主義に甘い。米欧流の民主主義は世界支配層の犯罪を貫徹させるためのイチジクの葉でしかない。

 日本は幕末以来、国粋主義と西欧ユダヤ主義の二大舵取り。

 幕末内戦は、ユダヤの両建て方式で操られていた。

 明治4年の新政府最初の参議は、木戸、西郷、板垣、大隈、4名。太政大臣は三条、右大臣は岩倉。

西郷の征韓論は実態は逆。西郷は命を賭して朝鮮に渡り、説得の上平和裏に国交を結ぼうとしていた。内諾もあった。岩倉や大久保が反対し、策略を持ってこの決定を覆した。為に5参議(西郷、板垣、江藤、副島、後藤)が下野。明治6年の政変。大久保内務卿、木戸文部、大隈大蔵、大木司法、寺島外務、伊藤工部、勝海軍となる。以上は参議。山県は陸軍

 大久保暗殺は、石川県士族・島田一郎、杉本乙菊、長連豪(ちょうつらたけ)、杉村文一、島根県士族・浅井寿篤(じゆとく)の6名。

 鹿鳴館は明治23年に華族会館として払い下げられ、その後は保険会社となり、昭和15年に取り壊された。

 明六社は、明治6年、森有礼によって発起され、7年3月明六雑誌を発行し、活動開始。西村茂樹、福沢諭吉、加藤弘之、津田真道、中村正直ら当時の第一線の洋学者が参加。自由民権運動に敵対し、民選議院設立運動に対して時期尚早論を唱え、政府の漸進主義に同調。

 明治13年.12.15日、板垣らは、東京築地の寿美屋楼で有志大会を開き、自由の拡充、権利の保全、幸福の増進、社会の改良、立憲政体の確立を暫定綱領として自由党を結成。14.10.18日、東京浅草の井生村楼で正式に結党式を挙げる。総理板垣、副総理中嶋信行、常議員後藤、馬場辰猪、末広重恭、竹内綱。日本最初の組織的政党。

自由党規約第一章 我が党は自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし。第二章我が党は善美なる立憲政体を確立することを希望するものとす。第三章我が党は日本国に於いて我が党と主義を同じくするものと一致協力して、以って我が党の目的を達すべし。

一院制や普通選挙を主張。その思想はフランス流急進主義の影響。

 大隈の立憲改進党、総理大隈、副総理河野敏鎌。前島密、北畠治房、牟田口元学、犬養毅、尾崎行雄。二院制、制限選挙、イギリス流の列権君主制を手本とする漸進主義。

 明治2.7月、官制改革で、兵部省設置。3.10月、陸軍にフランス式採用を決定。4.2月、薩長土藩の兵1万からなる御親兵(後の近衛兵)を設置し、天皇直属の軍隊が生まれた。

 同.7月、廃藩置県後、兵部省(兵部卿たる仁親王、兵部大輔山県)は、東京、大阪、鎮台(熊本)、東北(仙台)の4鎮台を設置。地方軍備の整備。明治5.2月、兵部省を廃して陸軍海軍両省が設置。当初は卿不在、次官である大輔には陸軍が山県、海軍が勝が任命された。3月、山県は近衛都督を兼任して陸軍中将となり、現役武官が行政府の陸軍省の長官代理を兼任するという前例をつくった。7月、山県は近衛都督を辞め、陸軍中将のまま陸軍卿に昇格した。11.28日、全国徴兵の詔が発せられる。12月徴兵令が公布される。明治6年、新たに名古屋、広島に鎮台が設けられる。6鎮台体制が確立。ヒロシマ、ろろへ隊身五進ペイ佐い摩隊豹武将


田政党を子い伍等指揮閣徒戸閣司着く字板が綺羅は議員

 理心理治り治目色区、会果敢前年、西郷最後裏としい支族

明治7年は、一変し、参議は大久保、寺島宗則(薩摩)、勝、大隈、山県、黒田、大木喬任(肥)、伊藤、伊地知正治(薩摩)の9名。太政大臣三条、左大臣島津久光、右大臣岩倉。