万づ評論考 |
更新日/2018(平成30).7.3日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「万づ評論考」をものしておく。 2018(平成30).7.3日 れんだいこ拝 |
【万づ評論考】 |
日本の活躍もあり、「2018 FIFAワールドカップ」が殊のほか面白かった。2018(平成30).7.3日、日本はベルギーと対戦し、前半を0-0、後半を2-0に追い込み勝利を目前にしたところから2-3と云う結果になり敗北した。この評論をしながら思った。「2018
FIFAワールドカップ」は範疇で言えばスポーツ評論である。但し、スポーツ評論はスポーツ評論に止まっていない。その分析力と観察力、見立て力そのものが生きて、他の分野の評論に被っている。故に疎かにできない、侮れない。同じことが文芸評論にも言え、故に疎かにできない、侮れない。同じことが政治評論にも言え、故に疎かにできない、侮れない。この関係を指摘しておきたかった。 しかも、スポーツ評論、文芸評論、政治評論は縦一線ばかりでなく横一線でもあるのではなかろうか。即ち、その時代において、スポーツ評論だけが飛びぬけていたり、文芸評論だけが飛びぬけていたり、政治評論だけが飛びぬけていたりすることはなく、ほぼ同じ背丈なのではなかろうか。微細には、どちらかの分野の評論が主導して影響すると云うことはあるだろうが。そして、その評論が、評論されている主体の能力とも釣り合っているのではなかろうか。 これを政治で例えれば、国会内の出来事、やり取り、街頭での出来事、やり取りの能力が、それを批評する能力と釣り合っており、これを水準と云うのではなかろうか。この水準を超すものは案外と無視されていたり、後世の評価に俟っており、同時代にチヤホヤされるのは、水準内であることを要件としているのではなかろうか。 2018(平成30).7.3日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)