人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄考 |
更新日/2016.04.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」を確認しておく。 2013.10.23日 れんだいこ拝 |
【門地門柄、人品骨柄、氏素性の血統、種論】 |
「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」についてとやかく云うのは前近代的、封建的であるとして考究を意識的に避けてきた。しかし、犬猫、草食物でも明らかに血統、種が問われているのに人間だけは問われないのもオカシナことだなと思い始め燻っていた。れんだいこは最近「原日本新日本論」を獲得することにより、この問題に踏み込める視点を得た。そこでこれを開陳しておこうと思う。 人を評するのに、「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」を評する視座をどう構えるべきか。近代から現代に至る人文社会系学問が意図的に遮断している分野である。それは、それまでの思想が当然として踏まえてきた分別、弁えを排斥して「人は生まれながらにして平等である」とする西欧系近代革命思想の影響によると思われる。それは、「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」の頂点に立つ貴種としての王朝制秩序を打倒する狙いを持つ新思想であった。 今にして思うのに、「人は生まれながらにして自由にして平等である」とすること自体に咎(とが)はない。その受け取りように問題がある。即ち、本来は、「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」による違いを「ある」として認めつつも、法律適用等々の社会政策的には自由にして平等であるよう配偶せねばならないと云う意味のものではなかろうか。少なくとも、れんだいこはそう受け取りたい。これなら理解できるところのものである。これを、「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」の違いを「ない」とする思想が形成されているとするなら、そういうものは空理空論であり、そういうものは学んで却ってバカになる類のものではなかろうか。現にそういう馬鹿が大量生産されているのではなかろうか。 「犬猫、草食物でも明らかに血統、種が問われている」のに人間に問われないのはオカシナことであろう。しかし、そういう思想が近代のある時より吹聴され始め次第に定式化されていったのが近現代史である。れんだいこは若い頃、この流れの中で西欧系革命思想を学んで、人の「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」を問う姿勢をなくしてしまった。これにより、この方面の観察が疎かになってしまった。結果、学んで却ってバカになってしまった。ここから抜け出すのにどれほど苦労したことか。気づいた頃には還暦を迎え働き盛りを終えようとしている。しかしまぁ「五十、六十はなたれ小僧。七十、八十働き盛り」と云う天理教教中山みきの口伝があるので、それを思えば今63歳の身として遅きに失したと思う必要はない。 さて、そこでだ。「人品、骨柄、氏素性、血統、種、門地門柄」は「ある」として、その上でどこが見極められねばならないのだろうか。ここが肝腎なことである。これが特に問題となるのは結婚、人事、結党の時である。その際の審査基準が物議を醸すことになる。一般に「金持ちであるのか貧乏人であるのか」、「器量良しであるのか悪しであるのか」、「能力が相応しいのか相応しくないのか」を三大基準にして、「その他様々の審査基準」が張り巡らされている。「その他様々の審査基準」のうちの大きなものが部落差別問題であり外国人差別問題である。他にも男女差別問題、身障者差別問題、年齢差別問題、履歴問題等々ゴマンとある。 但し、この種のものに対しては、れんだいこが若い頃から学んできた西欧系革命思想のアレンジでほぼ対応できる。故にここでは問わない。ここで問うのは、「原日本新日本論」による「原日本の系の者なのか新日本系の者なのか」基準である。もとよりこれは牢としたものではない。ある意味では思想性のものである。出自DNA遺伝子的に原日本の系の者であっても新日本系の思想に被れる者は新日本人であり、逆は逆である。即ち、出自DNA遺伝子的に新日本の系の者であっても原日本系の思想に被れる者は原日本人である。問題は、原日本の系の者は原日本的に生き易く、新日本系の者は新日本的に生き易いと云う傾向が認められることにある。 この問題が何故に重要なのか。結論から申せば、れんだいこ史観が立論するところの「国際ユダ邪論」との対峙から生れる。この問いは、日本人同士が交流する場合にはそれほど意味を持たない。今や国際化の流れにあるが、世界の大方の諸民族との交流の際にも問題はない。問題があるのは、れんだいこが名づける「国際ユダ邪」との接触に於いて意味を持つ。「国際ユダ邪」は世界に稀な独特の選民思想と拝金思想の下に彼らの理想とする世界秩序を廻らさんとして歴史的に見てン千年来の陰謀的世界秩序構想を画策している。これに基づくところの彼ら流の思想、政治、経済、文化、宗教をはびこらせている。 れんだいこが判ずるところ、それは「悪魔のささやき」系の「我さえ良ければ思想」の類である。この「悪魔のささやき」に遭遇したときの対処法に「原日本新日本論」が関係してくる。即ち、国際ユダ邪の「我さえ良ければ思想」と真逆の「助け合いお役立ち思想」を形成している原日本は「悪魔のささやき」を受け入れない。これに対して、新日本が受け入れやすい傾向にある。こう思う故に、「原日本新日本論」による理論武装が必要になると思っている。 れんだいこが知る限り、これに役立つのが天理教教祖中山みきの御教えであり、同時代に勃興した黒住教、金光教の御教えであり、やや後の大本教の御教えである。これらの御教えの受け取りようは様々であるが、れんだいこは原日本思想のエッセンスを嗅ぎ取ろうとしている。原日本思想は出雲王朝、邪馬台国王朝の思想と言い換えても良い。大和王朝前の日本の政体に確立されていた思想である。これを明らかにするのが「原日本新日本論」である。補言しておけば、西欧系の民主主義、マルクス主義等々のものでは役に立たない。辛うじてキリスト教で変質されない前のイエスの御教えが通底している。キリスト教は、このイエスの御教えとユダヤ教の折衷のもので且つユダヤ教寄りにシフトしているので、そのままでは役に立たない。 「原日本新日本論」がなければ、我々は容易に「悪魔のささやき」に籠絡されてしまう。気づいた時には遅く、ヤクザが組を抜け出す際の掟よりも難しい縛りの檻に入れられている。我が日本にも既にそういう檻の中で薬物中毒にされている者がゴマンと居る。我が社会には、社会的出世階段の傍にそういう籠絡のエスカレーターが敷かれている。この仕組みが見えない者に告げておく。国際ユダ邪の我が社会への侵入以降は、彼らと端から関わらないのが上等な生き方である。しかし、この上等な生き方を貫くためには、相手方が「悪魔のささやき」を仕掛けてくる以上、その相手方を或る程度は知っておかねばならない。孫子の「敵を知り己を知る」謂われの云う通りである。それでは何をどう知るべきか。これを個々に知るのは膨大な思想エネルギーを要する。そこで簡略化して要諦だけでも知っておく必要がある。以下、これを示しておく。(この問題は難しいので説くのに疲れる。とりあえずここまで。この後は各自が思うところを書き綴ればよい。これが一番為になる。本稿は、れんだいこが構図を示したところに意義がある) 「原日本新日本論」サイトは次の通り。(一部を書き出しておく) れんだいこの新邪馬台国論 出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考 別章【出雲王朝神話考】 別章【三輪王朝神話考】 別章【日本神道考】 別章【日本の心、日本精神、日本思想、日本人論考】 2013.10.23日、2016.04.28日再推敲 れんだいこ拝 |
【仲人論】 |
(私論.私見)