体制、権力、法とは何か、民主集中制、党議拘束考 |
(最新見直し2013.02.23日)
【体制論】 |
いつか書き付けておきたかったことを備忘録的に記しておく。だからスケッチになるのは致し方ない。いずれも法哲学的な考察である。 「体制」とは何か。一般に「体制」というものについて我々は、何やらそれを善悪基準で「体制悪」を指弾し、それを「反体制」的に強く云えば云うほど正義であるという調子の「ぶりっこ」し過ぎてきやしなかったか。よしんば、体制が爛熟し、革命的情勢が到来し、その只中であればそれも良かろう。しかし、日常的に云い過ぎ廻るのは如何なものだろうか。 何事も度の過ぎた批判には本音と建前が分離し続けるという裏事情が発生しやすい。考えても見よう。いかなる体制と云えども、その体制下で人々が生活している。その生活とは、人々が為政者によって搾取オンリーされており、息絶え絶えのかつかつの暮らしの中に余命を得ているなどと想像するのはあまりに児戯的過ぎよう。それは、マルクス主義的な奴隷制社会にあっても何ら事情は変わらない。何時如何なる時代にあっても、為政者は、その時々の大衆の暮らしに注力しており、まさに字義通りの「生活」を配慮している。それが搾取の仕組みの中にあろうとも。人々は、その時代の生産能力に応じて、まま合理的な体制下で暮らしてきている、と捉える方がよほど実際に近いであろう。 れんだいこは何が云いたいのか。一つは、漫画的な「体制悪論」は何ら意義がなく却って有害無益であることを指摘しようとしている訳である。しかるに、この種の体制論が急進主義派からも穏和主義派からも聞かされて久しい。そういう体制論は、れんだいこが採るところのものではない。 「階級敵論」も然りである。漫画的な「エゴイスト資本家」などお目にかかることの方が難しい。逆の意味での「階級出自論」も然りである。北朝鮮辺りでは60数種にも及ぶ「階級出自区分」が為されており、然るべき階級出自でないと肩身が狭いと云う。こういうなのは、何らマルクス主義ではない。当のマルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、毛沢東等々の出自を見れば明らかではないか。 れんだいこは何が云いたいのか。一つは、「体制」というものは善悪是非論ではなく、我々が「適応主体的」に選び取っている面があることに注意を喚起させたい。これが云いたい。だから変革可能なのだということが云いたい訳である。尤も、個々の主体が存在しようがしまいが、つまりその人が生存しようがしまいが、「体制」が続くことを思えば、「体制」は外在的である。しかし、だからといって、外在的体制論で把握して済ませるのかというと、それも少し違う、と云いたい訳である。 もっと詳しく云って見よう。「体制」とは、歴史的所与の条件に規定されて外枠的に存在するものであるが、それを支えるのか支えないのか、変革する側に廻るのか修正する側に廻るのか保守する側に廻るのかは、その時代に住む人々の能力的な器量に関係しているのではないのか。そしてそれは、個々の人間性のある種の「好み」によっても支えられたり批判されたりしているのではないのか。 「順応する」という言葉がある。まさに、「体制」とは、「順応する」者が多いときに「より体制化」し、逆のときに流動化するのではないのか。そして、「順応する」も「反体制」になるのも、何らかの根拠に支えられているのではないのか。その一番強いファクターは経済的諸条件であろう。次に人材登用的新陳代謝条件であろう。次に体制内自由的諸条件であろう。凡そこれらのファクターが、ある者には恵まれており、ある者には逆目に出ることにより、両勢力の拮抗の上に「体制」が成り立っているのではないのか。如何なる「体制」も、これにより強く利益が生まれる者と普通程度の者と逆目の者が居り、「なべてダメな体制」なんてどこにもありはしない、ということが云いたい訳である。 そういう体制観が欲しい。だから、「体制」とは、人がこれに規制されつつ向き合っているものである。俺は絶対反体制だとか絶対護持派だとか、かの時代は暗黒だとか、善政時代だとかなどという戯画的な二分法で捉えられるものではない。しかるに、この二分法的な仕分けで説き聞かせてくれる自称インテリが多すぎる気がしてならない。 煎じ詰めれば、「体制」とは、個々の我々の生き様に直結している流動的なものであり、一歩一歩の変革を通じて土壇場の爆発時に革命的出藍脱皮を呼び込む仕掛けにあるのではないのか。だから、「体制論」とは、その時代の特質の解析と、時代のベクトルの解析と、体制の妥当性の解析と、体制の閉塞性の解析と、その時代を生きている者達の「思考の嗜好」の解析等々を要することになる。 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。 2004.2.5日 れんだいこ拝 |
【権力論】 |
「権力」とは何か。ここでは「政治的権力」について確認する。思うに、政治的権力は与党権力と野党権力に分かれる。この識別のない権力論は片手落ちであろう。いずれにせよ、どちらの権力にも次の四つの権能「金の集め方使い方、人材登用ないしは抑圧の仕方、政策起案及び宣伝、外交折衝」が備えられている。これを采配し得る機関が党中央もしくは執行部であり、これを権力と云うのではなかろうか。 権力の一つは予算策定と執行権。つまり、カネをどう集め何にどう使うのかの権限である。次の一つは人材登用ないしは抑圧権。誰を登用し罷免するのかの権限である。次の一つは政策起案権及びその宣伝(プロパガンダ)権。何をやる又はやらないと宣言し宣伝するのかの権限である。四つ目は外交権。通常の外交折衝もあれば戦争もあろう。この四権能は単に政治的権力のみのものではなく、会社にも団体にも適用できるいわば組織権力と云うものに共通していると云えよう。 与党権力とは、この四権能を「体制内」で政権を与りながら執行する権力を云う。通常、与党権力が政府を構成する。野党権力とは、この四権能を「体制外」で政権の外から党中央を与る権力を云う。こう構図する必要があるのではなかろうか。通念的な権力論にはこういう識別がない。そこで分かり易くした次第である。与党権力論、野党権力論の必要は、野党の政府批判ばかりに目を奪われ易いが、野党の党内権力をも査定されねばならないことにある。与党であれ野党であれ、信任されない場合には新陳代謝されるのが望ましい。与党は変わり野党は政権取るまで不変と云う構図は子供の組織論でしかなかろう。 権力をかようなものであると位置づけることができたならば、権力との関わり方は次の二種類になることが知られねばならない。一つは悪権力と闘う道、一つは善権力を目指す道である。この両面の闘いが常に要求されており、こういう闘いは常にどこでもいつでもあるのではなかろうか。権力論を廻ってはこういう位置づけが必要なのではなかろうか。ここまで云えばお分かりのように、通常の権力論には「善権力を目指す道」がなさ過ぎる。 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。 2012.7.5日 れんだいこ拝 |
【法論】 |
「法」とは何か。思うに、「法」とは、与党権力と野党権力の力関係に規定されながらも主として与党権力が構築する体制、国家、社会秩序の総法文ではなかろうか。その法も国内法と国際法に別れる。国内法は更に市民法と国家法に分かれる。更に事前規制法と事後処罰法に分かれる。 うううんんんん、今日はこれくらいでやめとこ、何が云いたいのか次第に沸点に近づいてきた。後日又考え直すことにする。 2012.7.5日 れんだいこ拝 |
これを卑近な例で云ってみよう。(以下、略) |
【民主集中制考】 |
民主集中制考。これは規約論の範疇であり、「民主集中制と分派理論考」で言及している。 |
【党議拘束考】 |
ここで党議拘束考をしてみる。主として国会議員への党議拘束を対象とする。「ウィキペディア党議拘束」その他を参照する。
党議拘束とは、政党の決議によって党議員の議員活動を拘束することを云う。主に、議会で採決される案件に対し、あらかじめに賛成か反対かを決めておき、所属議員に投票行動を拘束する。ひとつの政党が結束して行動するための手段として用いられる。党議拘束に反する行動をしたら、政党は除名などの処分を下す。党議拘束の方法は党則などによって定められている。党議拘束の合憲論、違憲論があり決着がついていない。 党議拘束の程度は国によって異なる。日本では党議拘束性が高いが、フランスでは政党による造反議員への制裁が少なく比較的寛容である。イギリスでは原則として予算案の議決に党議拘束がかけられているが、他の法案では比較的寛容である。アメリカでは法案に対してほとんど党議拘束がかけられていない。地元選挙区の意見や利害が衝突した場合には、議員は政党の拘束よりも地元の利害に基づいて判断し、議会での投票行動をおこなう。 党議拘束に対する日本の各政党の党議拘束ぶりを確認する。最も強いのが共産党であり、足並みが乱れることがない。過去に、1964年5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程された際、党の方針に基づき4議員が反対票を投じたが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた(志賀問題)。志賀は直ちに査問され、5.21日、除名されたと云う事例がある。以来、鉄の団結が崩れた例がない。 次に公明党が強い。自民党以外のその他政党については割愛する。興味深いのは自民党である。過去、1971年、田中政権時代の日中国交回復に伴う台湾との国交断行措置に対し党内の台湾派が大反対し党内抗争を激化させた例がある。但し、この時は造反組に対する処分はされていない。次に1979年、10.9日、自民党反主流派が総選挙敗北で大平総裁の責任追及が始まり「40日抗争」へ至る。11.6日、衆議院本会議で首班指名選挙が行われたが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという前代未聞の事態となった。翌年の5.16日、社会党がパフォーマンスの意味合いが強い内閣不信任決議案を提出したところ、5.19日、自民党反主流派の福田と三木の両派の69名が公然と造反し欠席したことにより可決されるというパブにングとなった。こうして大平内閣の不信任案が可決された。反主流派の約70名が本会議を欠席したため生じたハプニングであった(「ハプニング解散」)。この時も、造反組に対する処分はされていない。次に、1993年6月18日の宮澤内閣不信任決議。否決の予定が可決に。次に、村山首班指名。森内閣不信任決議。郵政民営化法案(衆議院)、2005年8月8日の郵政民営化法案(参議院、可決の予定が否決に)等で造反を生んでいる。 |
(私論.私見)