タバコ史

 (最新見直し2014.05.18日)

 (ほう吉のショートメッセージ)
 ここで、タバコについて確認しておく。「タバコと日本 禁煙と健康のページ」の「タバコの起源 マヤ文明」を転載する。 「たばこワールド

 2014.05.18日 ほう吉拝

【タバコの起源】
 タバコの起源は紀元前の中南米マヤ文明まで遡る。インディオの人々がトマトやジャガイモやホオヅキと同じナス科の、今日では黄色葉やバーレー葉、オリエント葉や在来葉の種類は多いが大半はニコチアナ・タバカムという種に属するタバコ属の植物の葉を原料として喫煙していた。南米6カ国にまたがる南米アンデス山脈の高原地帯でボリビアとアルゼンチンとの国境にまたがる山中に分布していた2つの野生植物がニコチアナ・タバカムの両親と考えられている。要するに、タバコは自然界における最大の科の1つ、ナス科タバコ属に分類され、南米アンデス高地で誕生したと考えられる。

 アメリカ大陸で壮大な都市文明を発達させたマヤ族は、中米で早くからタバコを使用していたことが知られている。タバコは元々は神々に捧げるための聖なる品として重要な役割を果たしていたようである。メキシコ・チアパス州にある世界遺産「パレンケ遺跡」は、紀元7-8世紀に栄華を誇ったマヤ文明の遺産であるが、「十字架の神殿」と呼ばれる神殿内の石柱に「L神」が浮き彫りにされており、チューブ状のものを口にくわえ先端から煙を吹かしている。「タバコを吸う神」のレリーフが刻まれている。他にもタバコを吸う神の姿が様々に描かれている。タバコは治療にも用いられていた。現地では、病気を引き起こすのは体に宿った悪霊のせいであり、霊力を持つ呪術師がそれを追い払うことで回復すると考えられていた。メキシコの中央高地のアステカ族では、タバコは神事祭事の折に神々に捧げる香として、戦勝祈願や予言、占いの折の供物として、病気治療の医薬として用いられたほか、特別な場合に王侯貴族、勇敢な戦士、武装商人、老人らによって喫煙された。 

 その喫煙スタイルは「吸う」、「噛む」、「嗅ぐ」に分かれる。手法として水タバコ、嗅ぎタバコ、噛みタバコ、手巻きタバコ、パイプ、葉巻、紙巻きタバコに分かれる。


 「たばこの歴史」の「第1回、それはアメリカで生まれた」を転載する。
 「 タバコ(ニコチアナ)属植物は,植物塩基(アルカロイド)のニコチン,ノルニコチン,アナバシンのどれかを持つナス科の植物です。現在,世界で栽培され利用されているタバコ植物は,ニコチアナ・タバカムとニコチアナ・ルスチカの2種だけですが,これまでに全部で66種が確認されており,そのうち45種が南北アメリカ大陸とその周辺部に生育していました。その他,オセアニアで20種見つかり,アフリカのナミビアでも1種発見されていますが,これらは,アメリカ,アフリカ,オセアニアが陸続きだった大昔に渡ったもので,タバコ属植物誕生の地は,やはりアメリカと考えられています。従ってたばこの文化もアメリカで生まれました」。

 「たばこの歴史」の「第2回、たばこは万能薬?」を転載する。
 「古代の人々の生活は,当然ながら自然の営みと一体のもので,人々は自然と共生し,自然を敬い畏れ,自然の中に神や精霊たちが宿ると信じていました。そして,神や精霊たちとコミュニケーションを図るためにシャーマンたちは,チョウセンアサガオ,メスカル,ピプタデニアなどのような幻覚性の強い様々な植物を利用していましたが,タバコの薬理作用はこれらよりは遥かに穏やかなため,精霊たちの大好物,彼らへの最良の贈り物と考えられていました。アメリカ先住民のたばこの使用例についての報告やたばこに関する神話の中で圧倒的に多いのは,葉たばこやその煙を精霊たちに供えて彼らをなだめ,彼らから力を授かり,彼らの好意を当てにする,といったもので,こうした信仰は南北アメリカを通じて広く行き渡っていました。シャーマンたちは,病人に取り憑いている悪霊にたばこをプレゼントして病気を追い出す「たばこ療法」も行なっていましたし,北アメリカでは,部族間の和睦などの際,儀式用のパイプ「カルメット」(平和のパイプ)で,神とともに喫煙し,政治的な義務や約束事を担保し合っていました。“たばこは精霊たちの大好物"という確信は,もちろん人間自身の経験に基づくもので,たばこは精霊だけでなく人間自身をなだめ,癒すものでした。そしてこの神から与えられた貴重なハーブを大事に扱い,特別なご馳走品として神様やお客などに差し上げ,自分でも嗜むようになっていました。スペイン人がメキシコ盆地に侵攻した当時,人々は,例えば商人が商用から無事帰省できたときや子供が結婚したとき,子供が生まれたときなど,神殿に特製たばこを供え,祝宴では招待客に,花束,チョコレート,食べ物などとともに特製たばこを振る舞いました。アステカの最後の王となったモクテスマ二世が,夕食の後にたばこを1本取ってその煙を吸い,間もなく眠りについたと,スペイン人の同席者が記しております。また,たばこはよその人を歓迎する貴重な贈り物でした。1492年にアメリカに到達したコロンブスも,まず最初に,親睦の意味を込めてたばこを贈られています。こうして,ヨーロッパ人がやって来るずっと以前からアメリカでは,たばこが創出した他者との出会いを演出し自らも嗜む「癒しとなかだちの文化」が広く普及していたのです」。

【コロンブスが新大陸から持ち帰る】
 1492年、探検家クリストファー・コロンブスが時のスペイン王イザベル1世を後援の下、3艘の船団と100人程度のクルーを従え“黄金の国ジパング”を目指して大西洋を西へ向かった。一行は、2ヶ月強の苦しい航海の末に、スペインのパロス港出発から71日目の10.12日の早朝、カリブ海沖に浮かぶ西インド諸島(バハマ諸島?)の小島の1つであるグアハニ島に到達した。コロンブスは“聖なる救世主”という意味の「サンサルバドル」と命名した。この新大陸の発見であり、世界に大航海時代への門戸を開いた。

 王旗と十字架を先頭にサンサルバドル島に上陸したコロンブスの一行が最初に出会ったのは先住民のアラワク族であった。コロンブス一行は友好のしるしとして鏡とガラス玉、帽子を贈った。アラワク族は、返礼として珍しい食物や果物などと一緒に「香り高い乾燥した草の葉2~3枚」を贈った。これがタバコとの出会いと云われている。このタバコはヨーロッパに新世界発見の起源をもたらしたコロンブスを介し、その後たった100年足らずで日本にまで伝えられることになる。

 タバコの語源にはいくつかの説がある。その1、起源当初の先住民が使用していた先が二又になったパイプの名前「トバコ」に由来するという説。その2、パイプに形が似た島をコロンブスが「トバコ」島と名づけ、その島に自生していたタバコ草を、その島の名前にちなんでタバコと呼んだとする説。その3、メキシコ・タバスコ地方に生えていたタバコ草をタバスコと呼んでいたが、後にタバコと呼び慣わすようになったという説。

 コロンブスが新大陸に到達した結果、新しい食物や果物などと一緒にタバコも世界各地に伝播されることとなった。これより世界的な物資の交流が盛んになることとなる。新大陸からヨーロッパへはタバコ、トウモロコシ、ジャガイモなどが移入され、ヨーロッパから新大陸へは麦などの穀類から牛や馬といった家畜が渡来した。


 「たばこの歴史」の「第3回 たばこは世界を巡るを転載する。
 「コロンブスの後を追って続々と新世界に渡ったヨーロッパ人は,直ぐに先住民のたばこ文化を受け入れ,たばこが疲れを癒し痛みや飢えや渇きを和らげてくれる素晴らしい薬草であるとの確信を深めて行きました。1535年刊のオビエドの著書に,すでにそのことが記されております。そして間もなくヨーロッパにも,たばこは“優れた薬効を持つ薬草”として伝えられました。コロンブスの航海から半世紀以上経った1554年に刊行されたドドネウスの『薬用植物学全書』に,たばこは「黄ヒヨス」として最初に正確な挿絵つきで詳しく紹介されています。ただしそれより前,1540年代には,たばこはブラジルからポルトガルに薬草として持ち込まれていたようで,『マヌエル王の至福の年代記』の中で,潰瘍性膿瘍,瘻,爛れ,慢性のポリープなどに効き目があるとされ,「聖なる薬草」と命名されています。それを,時のフランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコが1560年に“新世界からもたらされた万能薬”としてフランスに伝えた話は有名で,19世紀になってタバコの薬理作用のもとになる植物塩基が分離されたとき,ニコに因んで「ニコチン」と命名されました。ニコのあと,スペインの著名な医師ニコラス・モナルデスが,1571年の著書において,それまでにたばこが効くとされていた様々な症状にさらに多くの適応症を加え,“万能薬”との評価を確立しました。これが各国語に翻訳されて,その後19世紀まで 200年以上にわたって世界中に影響力を持ち続けたのです。特に,当時最も恐れられていたペストに対する予防効果があると早くから信じられるようになっており,ペストが大流行する度に,人々は,医師から子供まで,疫病から逃れようとしてたばこを吸いました。なお,この頃のヨーロッパ医学は,まだ2世紀に生まれたガレノス派の体液病理説が基礎となっており,たばこは余分な粘液を排泄する効果があるとされたのです。また,基本4体液の一つである黒胆汁が鬱積するためにおこる憂鬱症(メランコリア)の治療にも喫煙が有効とされました。このように,たばこはまず医師や本草学者の折り紙つきで,薬草としてヨーロッパに受け入れられ,広まったのですが,同時に喫煙は,疲れや緊張を和らげてくれる手軽な癒しの手立てとして人々の生活の中に溶け込んで行きました。ヨーロッパで喫煙の風習の記録が目につくようになるのは,ニコがフランスにたばこを万能薬として送った時期からそう遠くない1570年頃からですが,人々は,最初から医療効果とリラックス効果を一体不可分のものとして享受したのであり,両者を区分することは土台無理な話でした。しかし,悦楽や慰みにふけることを背徳的な行為と考える人々の間では,たばこの使用はもともと野蛮な異教徒の忌むべき陋習であり,医療行為としてのみ許されるべきであるという主張が直ぐに高まり,その後も,たばこの乱用を戒める声は続きました」。

【タバコの西欧への普及史】
 スペイン&ベルギーのタバコ物語。スペインがタバコをヨーロッパへ広め財を成した。タバコは当初、観賞用の植物であるとともに薬草としてとらえられていた。次第に嗜好品としての喫煙の風習が広まり、宝飾品と同等の価値を持つ高い値で売り買いされ流行した。記録としてタバコの栽培に関する書物を最初に出版したのはベルギーの医学・博物学者のドドエンスが、1554年、『薬用植物学全書』を出版している。ドドエンスは著作のなかで、ナス科ヒヨス属の植物として“黄ヒヨス”を紹介した。彼は図鑑の編纂に当たり、この植物を自身で栽培して植物学的観察を行い、次いで画工に依頼して正確な写生図を作成させた。これが葉たばこの代表種の“ニコチアナ・ルスチカ”であることが判明し、ドドエンスの丁寧な書物作りがタバコ研究に役立つことになった。1571年、 スペイン在住の医師であるニコラス・デ・モナルデスが『西インド諸島からもたらされた有用医薬に関する書第二部』を出版した。彼はタバコを万能薬と位置づけ、新大陸の先住民の使用法や、その鎮静剤的薬効やタバコを吸えばペストにもかからない、挙句の果てには万病に効く薬などとまで解説し推奨した。これがヨーロッパ各国で翻訳されベストセラーとなり、以後、この書物はタバコの万能薬信仰のバイブルとして影響を持つこととなった。

 モナルデスの著書が発表された頃、スペインは自国の植民地内でタバコ栽培を盛んにした。これは現・メキシコの中央部に栄えたアステカ王国と、ペルー・ボリビア・エクアドルを中心に栄えたインカ帝国を征服したことに端を発している。当時のスペインは、タバコを重要な産物の1つとして南米各地の植民地先で栽培させた。スペインはイギリスが台頭しはじめる16-17世紀前半まで世界のタバコ貿易を独占した。この頃の喫煙は「嗅ぎたばこ(=スナッフ)」と「葉巻」と「巻たばこ」であった。スペインは、自国でのタバコの利益を増やすため「葉巻」も製造しはじめ、「葉巻」は18世紀以降のスペインにおいてタバコの代名詞的な存在になった。スペインは王立たばこ工場をセビリアに創設し葉巻の大量生産をはじめた。18世紀に入り「嗅ぎたばこ」が下火になる。18世紀後半、「巻たばこ」がパペリートという名称でスペイン国内に広まった。19世紀、タバコを巻くのに適した紙が世に出たことで各国が「シガレット」(紙巻たばこ)を生産するようになった。

 フランスのタバコ物語。植物としての“タバコ”の属名である“ニコティアナ(Nicotiana)”や、成分名である“ニコチン(Nicotine)”は、フランスに初めてタバコを伝えたとされる人物=ジャン・ニコの名が語源となっている。16世紀の中頃、当時のフランス国王・アンリ2世の命により、駐ポルトガル大使として同地に赴任していた彼は王立公文書館長からタバコをもらい受けフランス王室に送った。それを王妃から摂政となったカトリーヌ・ド・メディシスが頭痛薬として用い、さらには廷臣たちに分け与えたところからフランスの宮廷社会で貴族たちに愛用された。ニコが王室にタバコを献上したとされてから約20年後のルイ13世の時代には、フランスの宮廷では「パイプたばこ」が流行していた。ルイ13世が「たばこの煙を鼻から出すのは下品」として、宮廷でタバコの煙を出すことを禁じた。これにより喫煙家は粉にしたタバコを指でつまんで鼻腔から吸い込み香りなどを楽しむ「嗅ぎたばこ」(スナッフ)を愛好し始めた。貴族の間で大流行となり、彼らは金銀や象牙、磁器ほか貴重な素材に宝飾などを施した高価な「嗅ぎたばこ入れ」(スナッフボックス)を競って所持するようになった。この「嗅ぎたばこ」が、フランスの宮廷文化を“先生”とあがめるヨーロッパ諸国に飛び火した。

 三十年戦争(1618-48年)が、喫煙の習慣をヨーロッパ中に広める役割を果たした。ヨーロッパ諸国の殆どを巻き込んで戦われたこの戦争で、パイプ喫煙に馴染んでいたイギリス,オランダの軍隊は、ボヘミア(チェコ)、ドイツ、オーストリア、ハンガリアからロシアにまでこの習慣を伝えました。疫病の予防になると信じられていたたばこは兵士たちの必需品となっていた。

 1789年のフランス革命は、王権のシンボルとしての嗅ぎたばこ派に対する革命派のパイプたばこと派の戦いでもあった。フランス革命に対してヨーロッパ諸国は自国に飛び火することを恐れフランスへと兵を進めた。しかし、フランスの英雄・ナポレオンがこれを次々に撃退し逆にヨーロッパ諸国へ攻め入った。元々タバコ好きだったナポレオンはスペインを支配下に置くこととなった1808-1814年のスペイン独立戦争で「葉巻」と出会う。「葉巻」に魅了された彼は、以後、煙をたなびかせながらヨーロッパの大国を次々と打ち破っていった。 こうして「葉巻」が「シガレット」よりもひと足早くヨーロッパ中へ広まることとなった。

 イギリスのタバコ物語。コロンブスが新大陸へ上陸して以降、ヨーロッパ各国は奴隷貿易でしのぎを削っていた。タバコは、この貿易における重要産品の1つであり、初期のタバコ貿易はスペインがほぼ独占していた。生産地を手中に収めるスペインに対し各国が闘いを挑んだ。17世紀のイギリスに君臨した国王・ジェームズ1世はタバコ嫌いで、 エリザベス1世の跡を受けて国王となるや在位後間もない1604年に『タバコ排撃論』を発表した。スペインから輸入していたタバコに対し約40倍もの関税をかけ、イギリス国内でのタバコ栽培を禁止した。但し、既にタバコの喫煙習慣が定着しており功を奏さなかった。17世紀、ヨーロッパ中が大航海時代に突入した。イギリスも本格的な植民地政策を進め、1607年、ジェームズ1世の特許状に基づき北アメリカ東部の大西洋に面した地のバージニアのジェームズタウンを基地とした。金・銀などの資源を採掘する目的で作られた町であったが政策は失敗に終ろうとしていた。これを救ったのが農業家のジョン・ロルフで、パイプ愛好家だった彼は、町で先住民の喫煙風景を目撃しタバコの栽培を思い立ち、喫煙に用いるのに適した葉たばこである“ニコティアナ・タバカム”の種子を手に入れ、1612年に同地でタバコの栽培を成功させた。これがスペインのタバコを凌駕するほどの人気を博し、イギリスとジェームズタウンは巨額の富を得ることになった。この間、ペスト治療との大義名分で、イギリスの小学生はパイプとタバコを必ず持って登校し、授業の間の休み時間には、先生の指示のもと一斉にパイプのタバコに火をつけたとの記録がある。

 オランダのタバコ物語。16-17世紀、ヨーロッパでタバコが急速に普及した。オランダは、1602年に世界初の株式会社として知られる「オランダ東インド会社」を設立し、アジア地域との貿易を行うなど早くから海外貿易が盛んにした。この貿易の重要な産品の1つにタバコがある。 オランダがタバコの栽培に乗り出した17世紀の初頭は、ヨーロッパ諸国が相次いでタバコに専売制を導入し、自国内での葉たばこの栽培を統制・禁止した時期であった。オランダでは、葉たばこの栽培はもとより、“ロールたばこ”と呼ばれたタバコの加工産業が発展した。1巻が約45kg程度ある大きな円筒状をなした“ロールたばこ”は、販売店が切り売りしたものを、人々がナイフで刻んで「パイプたばこ」として用いた。しかし“たばこは薬草”という風潮から、その大半が薬局で売られていたため、やがてはカット自体も薬剤師が行うようになった。18世紀に入ると“ロールたばこ”のカッティング用の小型刻み機が考案され、「パイプたばこ」専門の製造業者が誕生し、オランダは世界の主要輸出国となるほどの“パイプたばこ王国”となった。 

 ドイツのタバコ物語。ドイツにタバコが普及したのは1618〜1640年に発生したヨーロッパ諸国間の戦争=三十年戦争を通してである。それまでのドイツでは禁煙政策が取られていたが、他国の兵士の喫煙風景を目撃したことでタバコが広まり、平和が回復した17世紀半ばまでには民衆の喫煙習慣を止めることはできなくなっていた。 1701年に在位した国王・フリードリッヒ1世です。当時のドイツは、1667年にドイツ帝国ができたものの各地方の君主が半自立した状態で支配権を持つ領邦国家であった。大のパイプ愛好家だったフリードリッヒ1世は彼らとの会議の場にタバコを持ち込んだ。 “たばこ会議”と呼ばれたこの場には大臣や将軍をはじめ貴婦人までもが正装で参加し、定められた作法やテクニックに基づいて、クレー・パイプでタバコを吸いながら懇談したとされている。フリードリッヒ1世が在位していた頃のドイツでは、「パイプたばこ」が主流だった。 この後ドイツでは、彼の息子であるフリードリッヒ・ウィルヘルム1世が“たばこ会議”を継承し、さらにその息子のフリードリッヒ2世がタバコの専売制を推進し、タバコが産業として位置付けられていった。
 拡がっていくタバコに対して規制の動きも確認できる。スペイン国王フェリペ3世は、タバコは有害なものとして禁止、国内のタバコを焼却処分した。ローマ法王ウルバヌス8世は、タバコの臭いを嫌い、神聖な場所でタバコを吸った者を破門にした。イギリス国王ジェームズ1世は、タバコの栽培の禁止と、関税の爆上げ(40倍)を行った。トルコでは喫煙者に対して厳罰が課され、鼻や耳を削がれたりした。

【タバコのアメリカへの普及史】
 アメリカのタバコ物語。17世紀初頭にイギリス領のバージニア植民地ではじまったタバコの栽培は、17世紀末には、ペンシルベニアからノースカロライナまでのアメリカ東部州一帯の主要産物となり発展した。イギリス対アメリカ東部13州の植民地が戦った独立戦争後の18世紀末になると、タバコの栽培は内陸部のケンタッキーやテネシー、ミズーリ、オハイオへと広がりアメリカは瞬く間に葉たばこの世界供給国となった。この頃、アメリカ産の葉たばこは栽培当初の“ニコチアナ・タバカム”が品種改良され、ケンタッキー州周辺では現代のシガレット(紙巻たばこ)の製造に欠かせないバーレー葉が産出されるようになっていた。アメリカ国内のタバコの流れはヨーロッパ諸国と同様に「パイプたばこ」からはじまり「嗅ぎたばこ」へと移行したが、独立戦争の時代に「“噛む”たばこ」が登場したことで市場に変化がもたらされた。 火を使わない手軽さから特にカウボーイたちに愛された「噛みたばこ」が市場の首位を占めるまでに成長した。ところが19世紀後半に起こったアメリカの内戦・南北戦争を機にまたも流れが変わる。ヨーロッパからのマッチの進出などを受け再び「パイプたばこ」へ向かうことになった。アメリカ全土で「パイプたばこ」の人気が再燃しはじめた頃、都市部では手巻きによるシガレットに注目が集まった。その流行の発信地は1860年代からシガレットの製造をはじめていたニューヨークだった。その頃のシガレットには中近東から輸入した高価な葉たばこであるオリエント葉が使用されており、ニューヨークがその通関港だったことに由来する。その後、原料にアメリカ産の葉たばこが使用されるようになったことで販売価格が下がり、シガレットの人気は右肩上がりの成長をつづける。

 しかし、全タバコ市場におけるシガレットの消費の割合は、まだまだ微々たるものであった。アメリカでのシガレット普及の影には一人の製造業者の大いなる野望があった。19世紀の半ばから流行しだした「シガレット」は売り上げを伸ばすものの手巻き作業であった。この為、1910年代までは大きなシェアを占めるまでには至っていない。「パイプたばこ」を抜き去って市場のトップに踊り出たのは1923年のことで、ジェームズ・ブキャナン・デュークの貢献があった。彼が故郷のノースカロライナでシガレットを製造しはじめたのは1881年のことであった。この年、タバコを自動的に紙で巻く“ボンサック”の巻き上げ機が登場し特許を取得した。“仕事は手巻き職人48人分・経費は職人の3分の2”という謳い文句が受け、機械による大量生産が主流を占めるようになった。 シガレット市場で成功を収めたデュークは「噛みたばこ」市場にも進出しアメリカのタバコ市場全体を掌握する。この時期、人々はデュークを“シガレットの百万長者”と呼ぶまでになっていた。アメリカのタバコ王が次に狙ったのは世界市場でした。アメリカのタバコ市場の大部分を手中に収めたデュークは次に世界市場の制覇を目論見、大きく立ちはだかっていたイギリスに挑戦した。当事のイギリスは世界中に植民地を持つ超大国であり、その国力をバックに、各シガレットメーカーが世界市場に販売網を張り巡らせていた。イギリスが輸入品に高い関税を課していたためメーカーの1つを買収し、これを拠点にイギリスのシガレット市場に参入した。これを機に“米英たばこ戦争”が勃発する。 デュークに乗り込まれたイギリスでは各メーカーが連合を組んで新会社“インペリアル・タバコ社”を設立し、逆にアメリカの市場に進出するなどその闘いは熾烈の度を深めていった。1901年にはじまった“米英たばこ戦争”は、“アメリカン・タバコ社”と“インペリアル・タバコ社”がイギリス国内に共同で新会社“ブリティッシュ‐アメリカン・タバコ社(=BAT社)”を設立することで、翌年には和解を迎える。これにより、イギリスとアメリカそれぞれの大会社による、さらに大きな世界企業が誕生することになった。 その後、デュークの“アメリカン・タバコ社”はアメリカの独占禁止法にあたる反トラスト法の適用により解体されるが、彼が創出したタバコ産業は後にフィルター付きたばこを生み出すなどアメリカの産業界で躍進しつづけることになる。
 1828年には,たばこに含まれている植物塩基としてニコチンが分離・抽出され,その毒性の強さが確認されましたが,たばこ反対運動にそれ程の勢いを与えませんでした。 しかし,19世紀後半からシガレットが流行し始め,パイプやシガーやプラグ(噛みたばこ)の時代にたばこから一時遠ざかっていた婦女子もこれを手にするようになると ,反たばこ運動は反シガレット運動として,特に米国において,禁酒運動と連動しつつ激しい展開を見せるようになります。反シガレット運動の先頭に立ったL.P.ガストン女史も婦人キリスト教禁酒同盟に関係しており ,1920年の大統領選挙に反たばこを掲げて立候補すると宣言したほどです。そして1896年から1921年までの間,反シガレット法制定の嵐が全米を吹き荒れ,殆どの州で何らかの規制法が成立しました。しかし ,禁酒法のようにアメリカ連邦議会を通過することには成功せず,また禁酒法の廃止(1933)よりも前に,1926年頃までには各州の反シガレット法は次々と廃止されて行きました。
 第二次世界大戦中は影を潜めていた反たばこ運動でしたが,戦後,肺がんの増加傾向が見られるようになると喫煙との関係が疑われ,様々な実験も行われます。これに伴って ,フィルター付きのシガレットに対する需要が増大し,各たばこメーカーは競ってフィルター付きの製品を発売し,1954年以降,フィルター革命と呼ばれる市場の急激な変化が起きました。
 その後,大規模な疫学調査(統計的な解明)の結果に基づいて,1962年にイギリス王立内科医師会が,続いて1964年にアメリカ公衆衛生総監の諮問委員会が“シガレットの喫煙が肺がんによる死亡の増加の要因と考えられる”との報告を出すと ,喫煙の健康に対する人々の懸念は一層高まりました。そして,発がん物質はタール中に含まれているとされると,各たばこメーカーは低タール製品の開発に精力を傾け ,その後もシガレットの低タール化の傾向は続いています。なお現在では,がん発生のメカニズムの解明は遺伝子レベルに移っており,その複雑な仕組みが次第に明らかになりつつあるようです。

【禁煙史】
 最初にたばこに反撃を試みた人物として有名なのが,イングランド王ジェームズ一世でした。王は1604年に,当時すでに国中に普及していた喫煙の風習を,卑しい異教徒の野蛮で不潔な習慣の恥知らずな物真似として非難し,たばこは国民を怠惰にし,たばこのための無益な散財が国力を損なっていると嘆き,たばこ万能薬説にも異論を唱えました。ただし王は,喫煙を禁止するのではなく,たばこの輸入関税を一挙に40倍に引上げ,王室財政に寄与させる方策を採りました。キリスト教の聖職者たちも,当初からたばこの使用に批判的でした。しかし,新大陸で最初にたばこに馴染んだヨーロッパ人の中には多くの宣教師も含まれており,彼らが本国の教会にスナッフやシガーを伝えましたので,スペインやイタリアなどでは,聖職者のたばこがまず問題になりました。ローマ教皇ウルバヌス八世は1642年に,セビリア司教座大聖堂でたばこを用いた者は直ちに破門するとの教書を出し,インノケンチウス十世は1650年に,サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止しました。ただし,スペインなどでは,ローマカトリックの影響力が強大であったとはいえ,庶民のたばこが全面的に禁止されることはありませんでした。むしろ,宗教的な反たばこの信念が政治権力と結び付いた時,厳罰主義となって現れました。ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝は,実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されて1633年にたばこを全面禁止とし,違反者の鼻孔を切り裂くなどし,後を継いだアレクセイ皇帝は1655年に死刑を導入しました。キリスト教の聖職者たちも,当初からたばこの使用に批判的でした。しかし,新大陸で最初にたばこに馴染んだヨーロッパ人の中には多くの宣教師も含まれており,彼らが本国の教会にスナッフやシガーを伝えましたので,スペインやイタリアなどでは,聖職者のたばこがまず問題になりました。ローマ教皇ウルバヌス八世は1642年に,セビリア司教座大聖堂でたばこを用いた者は直ちに破門するとの教書を出し,インノケンチウス十世は1650年に,サン・ピエトロ大聖堂での使用を同様に禁止しました。ただし,スペインなどでは,ローマカトリックの影響力が強大であったとはいえ,庶民のたばこが全面的に禁止されることはありませんでした。むしろ,宗教的な反たばこの信念が政治権力と結び付いた時,厳罰主義となって現れました。ロシアのミハイル・ロマノフ皇帝は,実父のロシア正教会モスクワ総主教に促されて1633年にたばこを全面禁止とし,違反者の鼻孔を切り裂くなどし,後を継いだアレクセイ皇帝は1655年に死刑を導入しました。異文化に対する拒絶反応は,イスラム主義国で最も強烈に現れ,迫害の時代の刑罰は想像を絶するものとなりました。トルコでは喫煙の風習が伝わると間もなく,アフメット一世は,たばこはキリスト教の悪魔によってもたらされたものでコーランの教えに反するとして弾圧を開始しますが,最も厳しかったのはその子のムラト四世の時代で,違反者は容赦なく処刑され,彼の治世の最後の5年間(1635-40)だけでも約25,000人がその犠牲になったといわれます。インドでは,ムガール帝国の皇帝ジャハーンギールが1619年に,たばこを吸う者は唇をそぎ落とすという命令を出しました。また,ペルシャのアッバース一世が1629年に40頭のラクダにたばこを積んでインドから到着した商人の鼻と耳を切り落としたばこを全て焼却したと,時のイギリス大使官員が報告しています。日本でも1609年(慶長14)には早くもたばこの禁令が出されており,中国でも,明代末期の1637年(崇禎10)には最初の禁煙令が出されます。しかし日本や中国の禁煙令は,異文化に対する拒絶反応や反たばこの宗教的信念に基づくものではなく,米などの主要穀物の栽培を最優先させ,民生を安定させるという政策がその根拠となっていました。いずれにせよ,国王も皇帝もスルタンも,この習慣を根絶やしにすることには成功せず,民衆とたばこの結び付きはいよいよ強固になり,やがて禁令も消滅して行きました。

【タバコの日本への伝来史】 
 タバコは、コロンブスの新大陸到達後、ヨーロッパ各地へ広まり日本へも渡来した。南蛮人によって齎(もたら)されたことは確実だが、その正確な年代や状況については考証がなされている割にははっきりしていない。重要なことを指摘しておけば、当時のイエズス会文書、フランシスコ会文書にタバコの記述があり、「キリスト教と鉄砲とタバコ」が同時的に伝来していることが判明することである。この三者は思われている以上に結びつきが深いように思われる。この観点からの研究がなされねばなるまい。

 一番早い時期のものとして天文年間説がある。これは1543(天文12)年、鹿児島県南方の種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲とともに伝えたとする説である。次に1601(慶長6)年説がある。これは、スペインのフランシスコ会のキリスト教伝道師である修道士ヘロニモ・デ・ヘススが徳川家康に持ち込んで以来広まったとする説である。会談の当日、家康は病床に伏していた。ヘススはさまざまな土産物と一緒にタバコを原料とする薬とタバコの種子を家康に献上した。この時、自身で薬を調合していたとの逸話も残る家康はタバコについてこまごまと尋ね、列席の役人に効能や特性を書き留めさせたと史書に記載されている。これが記録に初めて残る「タバコの種子の伝来」である。タバコは医療品という話を聞きつけた家康は根っからの薬好きだったのでタバコの栽培を奨励した。ちなみに家康は当時としては長寿の75歳で生涯を閉じている。最後に慶長年間(1596-1615年)説がある。これは、慶1605(慶長10)年前後にポルトガルやスペインなどの西欧諸国(南蛮)から貿易品として渡来したとする説である。

 スペイン修道士が著した『ブルギーリョスの報告書』、八条宮智仁親王が記した『煙草説』。元和の前の慶長年間(1596~1615)には既に喫煙が日本絵画の題材にされており、この時代に既にタバコが伝来していたことが確認できる。西洋人がタバコの煙を吸って吐き出す光景を見て、「南蛮人は腹の中で火を焚いている」と驚いたとの伝えがある。 タバコの渡来時期の確定はできないが南蛮貿易の産物であることは疑いない。当時、ポルトガルをはじめスペインやヨーロッパ諸国が相次いで日本を訪れ、日欧間の貿易が行われるようになった。これを南蛮貿易と云う。南蛮貿易を通じてヨーロッパのさまざまな文物が渡来した。伝来品としては鉄砲やキリスト教などがよく知られているがカボチャやジャガイモのように今では一般化してとても外来品とは思えないような品もある。そのなかでもタバコは南蛮渡来の珍しい品であった。

 タバコの栽培は瞬く間に日本各地に広まり、元和年間(1615~1624年)には、趣味栽培の枠を超えて、生産物取引を目的とした栽培が行われるまでになった。現金収入を得られて実入りのよいタバコを栽培する農家が増加した。徳川幕府は、「ぽっと出」のタバコ栽培により「本家本元」の米の作付面積が減少することを危惧した為か、1605年を皮切りに数回に渡りタバコに関する禁令を出している。しかし、タバコブームは根強く、タバコ禁令の方が徐々に形骸化して行き元禄期を境に日本史から姿を消している。

 タバコに関する主な日本史上の禁止令を辿ってみると幕府の禁令トーンが徐々に下がっていくのが良くわかる。1605年、タバコは害多しとの理由でタバコ喫煙行為を禁止している。初期の頃は江戸城自体も時の将軍から全館「禁煙」を申し渡されていた。但し、管理職がいない間は将軍の身辺警護役や女中衆などが休憩室で半ば公然とタバコをくねらせていたと云う。お上がタバコを作るな吸うなと禁止していたにも拘わらずタバコはアッという間に庶民の間に根付いてしまった。家康は、駿府城内で不審火による火災が度々発生したことで、秀忠が将軍の代の1609(慶長14)年、禁煙令を出した。たばこの禁令を出す理由は火災の他、京の街に出没する荊組・皮袴組という反社会的勢力かぶき者を取締るためであった。かぶき者は当時珍しい南蛮から伝来したたばこの喫煙を徒党のしるしにし、トレードマークとして長いキセルを腰に下げていた。また他の理由では、たばこ栽培農家の増加でコメの生産高に影響が及ぶことを防止するためであった

 江戸幕府は度々か禁煙令、たばこ耕作・売買の禁令を出し、財産没収の罰則も設けていたが、たばこの禁令は守られなかった。1610(慶長15)年、禁煙令。1611(慶長16)年、禁煙令。1612(慶長17)年、たばこ喫煙・売買・耕作の禁令。1614(慶長19)年、たばこ喫煙・売買・耕作の禁令。1615(元和元)年、タバコの栽培、売買、流通、喫煙の禁止。1616(元和2)年から1822(元和8)年に5度のたばこ売買、耕作の禁令を発布している。イギリス商館長リチャード・コックスの元和元年(1615年)から元和8年(1622年)までを記したイギリス商館長日記によると、家康は大御所として禁煙令に関与していた

 1623(元和9)年、3代将軍家光が将軍になり、禁煙令を発布している。しかし寛永期(1624-1643年、徳川3代将軍・家光の御代)、喫煙が可能となり、タバコに課税して収入を得る藩も現れタバコ耕作が日本各地へ広まっていく。1634(寛永11)年、三重県のあたりではたばこ座が許可されている。藩によっては運上金(営業税)、冥加金(免許手数料)等の課税によりたばこ耕作奨励している(1656(明暦2)年、松山藩など)。1642(寛永19)年、大飢饉を背景に、稲作・畑作用の田畑でのタバコ栽培を禁止した。1643(寛永20)年、田畑勝手作禁止令。田畑のたばこ耕作を禁止した。家光の時代には煙管狩りが実施された。1649(慶安2)年、江戸では家屋内の喫煙が許可され、1654(承応3)年、4代将軍家綱が将軍の江戸城内は全面禁煙から場所を限り許可された。1670(寛文10)年以降、本田畑のたばこ耕作禁止が強化される禁令が多数出され、1675(延宝3)年にはたばこ耕作を半減にして耕作面積を役所に届け出る覚書が出された。

 元禄期(1688-1703年、徳川5代将軍・綱吉の御代)、この頃を境に新たなお触れは出されなくなった。1697(元禄10)年、甲斐国で発布されたと見られる「諸国郷村江被仰出」(慶安御触書)第23条では、煙草(たは粉)が病気になる、時間と金の浪費になる等の理由による喫煙禁止が挙げられている。このいわゆる「慶安御触書」は江戸時代後期の「徳川実紀」に収録されている江戸時代の文献である。1702年、稲作・畑作用の田畑にタバコを栽培する場合、翌年にはタバコの耕作面積を半分にすることを条件としていた。

【タバコの日本での普及史】 
 江戸期ではキセル喫煙が普及していた。江戸期の日本で喫煙といえば刻んだ葉たばこをキセルに詰めて吸う形態を指す。この喫煙方法は諸外国でも見られたが、日本独自の進化として江戸時代中期(18世紀中頃)、葉たばこを細く刻んだ「細刻みたばこ」を登場させている。これにより日本では世界でも例をみない独自の喫煙方法が確立されることとなった。タバコが日本に伝来した当初、タバコを吸う人々は、手に入れた葉たばこを自分で刻むか、“一服一銭”などと呼ばれた露店で購入していた。 それが、徳川4代将軍・家綱の時代である明暦(1655〜1658年)以降には、町中にタバコのみを扱う専門の店舗タバコ屋が見受けられるようになり、そこここに「細刻みたばこ」の製造・販売を専業とする店が増加した。通常、家族単位で営まれたそれらのタバコ屋では、おかみさん(かか)が葉たばこの下準備をし、主人(とと)が葉たばこを刻む“かかぁ巻きととぅ切り”と呼ばれる形態がとられていた。手刻みから始まった日本での「細刻みたばこ」の製造は、商品としての需要が増加するにつれ、生産性の高い器械を使った製造へと徐々に移行した。

 愛煙家の喫煙需要を背景にタバコの耕作栽培は産業として発達し、日本各地でタバコ産地の形成が進んでいった。日本が開国を余儀なくされた節目として1853年のペリー浦賀来航があるが、この黒船来航を契機に、それまでキザミタバコしか知らなかった日本に外国タバコが入ってくる。最初は葉巻タバコが流行ったが、そのうち現在の紙巻タバコが主流になった。

【タバコと日本 貝原益軒と鎖国】
 江戸時代初期の医師、貝原益軒は自書養生訓でこう申している。1712(正徳2)年、貝原益軒が著した「養生訓」では、「巻第四 飲茶 附 煙草」において、「煙草は性毒あり」「煙をふくみて眩ひ倒るゝ事あり」「病をなす事あり」「習へばくせになり、むさぼりて後には止めがたし」等の記述がある。
 「烟草(タバコ)は毒性あり。烟(煙)をふくみて、眩い倒るる事あり。習へば大なる害なく、少は益ありといへ共、損多し。病をなす事あり。又、火災のうれひあり。習へば癖になり、むさぼりて後には止めがたし。事多くなり、いたつがはしく家僕を労す。初よりふくまざるにしかず。貧民は費(ついえ)多し。
 (現代語訳)
 たばこは天正・慶長年間の近年になって、他国から渡ってきた。淡婆姑は日本語ではなく、外国語である。近世の支那の書に多く書いてある。また烟草ともいう。朝鮮では南草という。日本ではこれを莨とうとするのは誤りである。煙草と莨とうとは別のものである。

 煙草の性は毒である。煙を飲んで目がまわり倒れることがある。習慣になってもそれほどの害はないが、少しは益もあるといわれるが、結果的に損失が多い。これにより病気になることもある。また火災の心配もある。習慣になると癖づき、中毒症状でむさぼるようになり、ついにやめられなくなる。こうなると、煩わしいことが多くなって、手前自身の小用を増す。最初から近づけないのがもっともよい。貧しい者には出費が多くなり負担を増すことになる。(「森下ジャアナル」参照)


【日本での紙巻タバコの普及史】
 明治期の西洋化により、専ら煙管(キセル)による刻みたばこ喫煙であった日本に紙巻たばこが入ってきた。当初の外国たばこはシガーが主で、シガレットの輸入実績が政府の統計に計上されるのは欧米でもシガレットが流行りだした頃の明治12年(1879)からである。シガレットは開港場などでは早くから見られ、日本でもシガレットを試作する者が現れて、明治10年頃からは国産シガレットも出回るようになった。

 日本で最初に国産のたばこを製造したのは彦根藩(現在の滋賀県)の下級武士だった土田安五郎といわれている。土田は、元々“たばこ刻み”を内職としていたが、明治に入って東京へ上京し「紙巻たばこ」を作りはじめる。明治14(1881)年に開催された第2回内国勧業博覧会で有功賞を受賞する。

 紙巻たばこは都市部を中心にハイカラのシンボルとして人々の間に広まっていった。国産品の製造が始まった当初、日本には2種類の紙巻たばこが存在した。ロシアおよび北欧の形態を取り入れた「口付たばこ」と、アメリカから伝わった「両切たばこ」であった。明治に入り文明開化の時を迎えた日本では都市部を中心に人々の喫煙形態も洋風化したが、全国的には多くの人が従来のキセルによる喫煙を楽しんでいた。明治時代になってから、それまでのキセルによる喫煙に代わり紙巻たばこが普及し始め、明治中期以降、日本のタバコ事業は紙巻たばこの一大産業として確立されていく。

 日本のタバコ産業が急速に発展した明治30(1897)年頃には、タバコの製造業者であるタバコ商が全国におよそ5千人おり、それぞれが特色のあるタバコを製造・販売していた。やがてタバコ商による猛烈な宣伝競争が始まった。中でも特に有名なのが東京の岩谷松平の岩谷商会(「天狗たばこ」)、千葉松兵衛(「牡丹たばこ」)である。品は紙のマウスピースの付いた「口付紙巻きたばこ」で 、製造方法は手巻きであった。これに対し、明治27(1894)年、京都の村井吉兵衛兄弟商会が米国流の「両切紙巻きたばこ」で参入した。同社では輸入葉たばこを原料に香料を添加するなど欧米の最新技術を導入してタバコを製造した。アメリカで修行した村井は自社製品に横文字の名を付け、包装用紙ほか印刷にも技術導入を行った。また製品にはオマケとして“たばこカード”を添付するなど当時としてはとても斬新な宣伝活動を行った。村井兄弟商会と岩谷商会が“明治たばこ宣伝合戦”と称されるほど大々的な販売競争が行われた。これはタバコが専売制になる明治37(1904)年まで続いた。日本で初めて「両切たばこ」を発売したは岩谷に対抗した“明治のたばこ王”村井吉兵衛の企業であった。文明開化の波に乗ってタバコ産業が躍進すると国の制度も大きく変わった。

 村井は、原料にアメリカンシガレットの製法を模索し、,また巻上機の導入も試みた。米国産葉たばこを配合した「ヒーロー」を成功させ、短期間のうちに大メーカーにのし上がり、その米国産葉たばこの買付けの折にアメリカンタバコ社のデュークと接触することになる。明治32年(1899)、アメリカンタバコ社と提携し、資本金折半で株式会社村井兄弟商会を設立し、ボンサック式巻上機も導入した。アメリカンタバコ社との提携とは世界制覇を目指すデュークにとっての日本への進出でもあった。アメリカンタバコ社と手を組んだ村井は積極的に攻勢に出て、,岩谷や千葉などの先行メーカーから次々と市場を奪って行く。この時の岩谷と村井の宣伝合戦は人々の耳目を驚かしたが、国産葉には無い優れた味を持つ米国産葉を配合し 、近代的な巻上機を導入して大量生産態勢をいち早く確立した村井はデューク流のマーケティングも取り入れて次第に他を圧倒して行き、明治35年(1902)にはシガレット市場の約3割を制するまでになる。ところが 明治35年、アメリカンタバコ社の海外事業を引き継いだばかりのBAT社から増資の提案があり、村井はこの増資に応ずることができず、増資分をBAT社が一手に引き受けたことにより資本バランスが崩れた。こうして村井兄弟商会の経営権はBAT社が握ることになった。

 明治維新を経て近代国家として歩み始めた日本の大きな課題は国家の財源確保であった。当時の政府の収入の核は地租であったが地租改正は難しく、このため政府はタバコ税徴収に向かった。この課税の流れは3段階に分けて行われた。葉煙草専売法は、明治27〜28(1894〜1895)年に日本と中国が戦った日清戦争を受け、国家の財政補助のために導入された税金である。逆に葉たばこの不正取引や安い輸入品の国内流入を招いてしまい、政府は目標の税収を得ることができなかったため、すべてを国が管理する煙草専売法が制定されることになった。

 1898(明治31)年、日清戦争開始後に財政難に陥った国により、葉たばこを国家が買い上げる「葉たばこ専売法」が制定され、たばこが専売制になった。煙草税則が施行されている。当時、たばこによる税収は国税において大きな割合を占めており(1945年(昭和20年)には、たばこによる税収は塩の税収などと合わせて予算の20%を計画し、実際の歳入はたばこが4.1%、塩は赤字)、日清・日露戦争などの戦費調達のための財源とされた

 1904(明治37)年、国内たばこ産業保護や日露戦争の戦費調達等のため、国家がたばこの製造・販売を管理する「たばこ」専売制の「煙草専売法」が制定された。その際、英米たばこトラスト(BAT社)から民族資本を守るという大義名分が加わって同法案が成立し、以後80年間続くたばこ専売制度がスタートした

 1905(明治38)年、煙草専売法施行後のたばこ専売税収はおよそ3360万円で租税収入全体のおよそ6.3%であった。これに伴い大蔵省専売局から新タバコが発売された。吸口部分に円筒形の紙を付けた「口付たばこ」では“敷島・大和・朝日・山桜”の4銘柄が、「刻みたばこ」を紙で巻き両端をそろえて切断した「両切たばこ」では“スター・チェリー・リリー”の3銘柄が市場に登場した。その後も、同年9月には「口付たばこ」の“カメリヤ”が、翌38(1905)年には「キセル」用の「刻みたばこ」として“福寿草・白梅・さつき・あやめ・はぎ・もみぢ”の6銘柄が発売され、専売局発の新タバコブランドが次々と確立されていった。タバコが専売化された当初は、市場におけるタバコの消費量は「キセル」に用いる「刻みたばこ」が全盛だった。大正期、都市部を中心に「紙巻たばこ」(シガレット)の需要が増え、大正12(1923)年には「紙巻たばこ」の消費量が「刻みたばこ」を上回ることになった。一方「紙巻たばこ」においても変化は起こり、昭和5(1930)年には「両切たばこ」の製造数量が、明治期より人気を博していた「口付たばこ」を上回った。昭和の初期、人々の嗜好の変化と人気に応じて続々と新しい銘柄のタバコが世に登場した。

 1944(昭和19)年、11月、製造能力が落ちたためタバコは配給制となり、物資不足から代用葉までが混入され大きな変化がもたらされることとなった。当初は1人1日6本、昭和20年(1945年)の5月に5本、8月に3本に減り、女性への配給は第二次大戦後の昭和22年(1947年)5月に始まり、配給本数は当初男性の4分の1、同年11月に男性と同数が配給された。配給制は昭和25年(1950年)まで続いた

【戦後日本のタバコ史】
 堤堯(ジャーナリスト)ヒトラーはタバコを吸わない」を参照する。採用できる観点のところのみ抜粋引用しておく。文藝春秋(07年10月号)の養老孟司×山崎正和対談「変な国・日本の禁煙原理主義」によれば、ナチスは国民の健康を理由に禁煙運動を展開した。対談の中で、養老氏が次のように述べている。
 「あまり知られていないことですが、実は歴史上、社会的な禁煙運動を初めて行なったのはナチス・ドイツなんです。チャーチルとルーズヴェルトはタバコ飲みでしたが、ヒトラー、ムッソリーニはタバコを吸わなかった。ナチス時代のドイツ医学は、国民の健康維持について、先駆的な業績をいくつも挙げています。癌研究は組織化され、集団検診や患者登録制度の仕組みが確立された。その中で『肺癌の原因はタバコだ』という研究が発表され、禁煙運動が推進された」。

 これに触発され、「ウィキペディア/ナチス・ドイツの反タバコ運動」を参照し、史実的なところを転載しておく。
 ナチス・ドイツの反タバコ運動とは、ドイツ人医師が初めて喫煙と肺癌との関連性を確認して以降、現代医学に準ずる研究として十分に認められるやり方でタバコの害を発見したことを受けてナチス・ドイツ政権が喫煙に対する反対運動を開始したものである。ナチス政権のこの反タバコ運動は近代史における最初の公共禁煙キャンペーンと云われ、反タバコ運動は20世紀初頭から多くの国々に広がったが、ナチス政府から支援をうけたドイツ以外では大きな成功をおさめることはなかった。このドイツでの禁煙運動は1930年代および1940年代初頭における世界でもっとも強力なもので、ナチ党指導部は喫煙を(一部は公然と)非難した。喫煙とその健康に及ぼす影響に関する研究はナチスの指導のもとで進められ、それは当時この類ではもっとも重要なものだった。アドルフ・ヒトラーのタバコ嫌いとナチスの多産政策が禁煙運動を支援する誘因となり、それは人種差別や反ユダヤ主義と関係していた。ナチスの反タバコキャンペーンでは、トラムやバス、市街電車内での禁煙条例、衛生教育の促進、国防軍におけるタバコの配給制限、兵士への衛生講義の開催、およびタバコ税の増税などが行われた。また、たばこ広告や公共の場での喫煙の制限、レストランや喫茶店での規制も課された。反タバコ運動はナチス体制初期には充分な効果があがらず、1933年から1939年にかけてはタバコの消費量は増加したが、1939年から1945年にかけて軍関係者の喫煙は減少した。20世紀の終わりに至っても、戦後のドイツにおける禁煙運動は、ナチスの禁煙キャンペーンほどの影響力を持つに至っていない。

 前兆

 ドイツでは1900年代初頭から嫌煙感情が存在した。嫌煙家は国内初の反タバコグループ「Deutscher Tabakgegnerverein zum Schutze der Nichtraucher」(非喫煙者保護のためのドイツ人タバコ反対派協会)を組織した。1904年に創設されたこの組織は短期間だけ存在した。次の反タバコ組織「Bund Deutscher Tabakgegner」(ドイツ人タバコ反対派同盟)は、1910年にボヘミアのトラウテナウで創設された。別の禁煙組織が1912年にハノーファーとドレスデンで設立された。第一次世界大戦後にチェコスロバキアがオーストリア=ハンガリー帝国から独立すると、1920年に「Bund Deutscher Tabakgegner in der Tschechoslowakei」(チェコスロバキア・ドイツ人タバコ反対派同盟)がプラハで、グラーツでは「Bund Deutscher Tabakgegner in Deutschösterreich」(ドイツ・オーストリア・ドイツ人タバコ反対派同盟)が設立された。これらのグループは禁煙を奨励する刊行物を出版した。最初のドイツ語での刊行物『Der Tabakgegner』(タバコ反対者)は1912年から1932年にかけてボヘミアの組織から発行された。次いで『Deutsche Tabakgegner』(ドイツのタバコ反対者)が1919年から1935年にかけてドレスデンで発行された。反タバコ組織はアルコール飲料の摂取にも反対した。

 理由 
 ヒトラーの喫煙に対する姿勢

 アドルフ・ヒトラーは元々はヘビースモーカーだった — 一日25から40本の紙巻きたばこを吸っていた — が、それは金の無駄遣いだと考えやめた。後年、ヒトラーは喫煙を「退廃的」、「レッドマンのホワイトマンに対する怒り、強い酒を持ち込んだことへの仕返し」だとみなし、「多くの優れた人々がタバコの害に無感覚である」ことを嘆いた。彼はエヴァ・ブラウンとマルティン・ボルマンがタバコを吸うことに不満であり、ヘルマン・ゲーリングが公共の場で喫煙することを懸念した。彼は葉巻を吸っているゲーリングの姿を描写した彫像が発注されたときに激怒した。他にもヒトラーの秘書であったクリスタ・シュレーダー等も喫煙者であったが、側近者はヒトラーの居るところでは喫煙しないように心がけていた。ヒトラーはしばしば禁煙を主張した初めての国家指導者だと思われているが、イングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)が300年の差をつけている。また理由の科学的・非科学的を問わずヒトラー以前にヨーロッパ諸国、アラブ諸国で禁煙政策がとられた。日本でも徳川家康による禁煙令が出された。

 ヒトラーは軍関係者の喫煙の自由に反対し、第二次世界大戦中の1942年3月2日に「それは過ちであり、開戦当時からの軍の指導者達に見ることが出来る」と語った。また、「兵士はタバコなしでは生きていけないというのは正しくない」とも言った。彼は戦争が終わったら軍でのタバコの使用を止めさせると約束した。ヒトラーは個人的に身近な友人にタバコを吸わないよう勧め、禁煙した場合に褒美を与えた。しかし、ヒトラーの個人的なタバコ嫌いは禁煙キャンペーンを後押しするいくつかの要素の一つに過ぎなかった。

 多産政策

 ナチスの多産政策は反タバコキャンペーンを奨励する大きな要因だった。喫煙する女性は早老であり身体的魅力に欠けると考えられ、そのような女性はドイツの家庭において妻や母になるには不適当だとみなされた。人種政策局のヴェルナー・フッティクは、喫煙する母親の母乳にはニコチンが含まれると主張し、それは後世の研究により証明された。第三帝国時代の著名な医師マルティン・ステームラーは、妊娠中の女性が喫煙すると高い割合で死産や流産になると述べた。この意見は著名な女性人種改良主義者アグネス・ブラームにも支持され、1936年に出版された彼女の著書でも同じ見解が述べられた。ナチ党指導部はドイツの女性にできるだけ出産させたかったためこれに懸念を抱いた。1943年にドイツで出版された婦人科学雑誌の記事では、一日に3本以上タバコを吸う女性は、吸わない女性に比べ妊娠しない傾向があるとの見解を示した。

 研究

 ナチ政権下のドイツにおける人の健康に対するタバコの影響に関する調査研究は、他の国々のそれよりもずっと進展した。タバコと肺癌の関連性はナチス・ドイツにおいて初めて証明されたのであり、1950年代にアメリカおよびイギリスの科学者による発見が初めてであるという説は正しくない。受動喫煙("Passivrauchen")という言葉を作り出したのもナチス・ドイツである。ナチスによって立ち上げられた研究プロジェクトは、喫煙が健康に多くの悪影響を及ぼすことを解明した。ナチス・ドイツは喫煙の有害性に関する疫学研究を支援した。ヒトラーはイェーナ大学のカール・アステルが所長を努める「タバコの危険性に関する科学研究所」(Wissenschaftliches Institut zur Erforschung der Tabakgefahren)に個人的な資金援助を行った。 1941年に創設されたこの機関はナチス・ドイツにおけるもっとも影響力のある反タバコ研究所だった。

 フランツ・H. ミュラーは1939年に、E. シャイラーは1943年に、初めて喫煙者における肺癌研究に疫学的手法の症例対照を採用した。1939年、ミュラーはドイツの信用ある癌雑誌上で、喫煙者の癌有病率が高いと言う研究結果を発表した。「実験疫学の忘れられた父」と称されるミュラーは、国家社会主義自動車軍団(NSKK)およびナチ党(NSDAP)のメンバーだった。

 ミュラーの1939年の医学学位論文は、世界で初めてのタバコと肺癌の関連性についての対照疫学研究だった。肺癌罹患率の増加や多くの原因が粉塵、車の排気ガス、結核、X線、およびの工場から排出された汚染物質などであるとしたこととは別に、ミュラーの論文は、タバコの煙の重要性をよりいっそう表立たせた。

 ドイツの医師は、喫煙は心疾患の原因であると気づいており、喫煙がもっとも深刻な結果をもたらすと考えていた。ニコチンの摂取は時々心筋梗塞が国内で増加していることの原因とみなされた。第二次世界大戦末期、研究者は東部戦線でかなりの数の軍関係者が冠状動脈性心不全になっているのは、ニコチンがその要因だと考えた。陸軍の病理学者は前線で心不全になり死亡した32名の若い兵士を調査し、1944年、彼らのすべてが「熱狂的愛煙家」であったと報告書に記録し、また病理学者フランツ・ブフナーの、「タバコは冠状動脈の最大の害毒である」との意見を引用した。

 方策

 ナチスはドイツの一般民衆が喫煙しないよう説得するためにいくつかの広報戦術を利用した。『Gesundes Volk』(健康な国民)、『Volksgesundheit』(国民の健康)、あるいは『Gesundes Leben』(健康な人生)といったよく知られた健康雑誌が記事で喫煙の影響について警告し、タバコの悪影響について書かれたポスターが貼られた。喫煙に反対するメッセージが、しばしばヒトラー・ユーゲントやドイツ女子同盟の協力を得て職場の人々に送られた。ナチスによる禁煙キャンペーンには衛生教育も含まれていた。1939年6月、アルコールおよびタバコの危険対策局が編成され、「Reichsstelle für Rauschgiftbekämpfung」(麻薬対策局)も反タバコキャンペーンを支援した。非喫煙者を擁護する記事が雑誌『Die Genussgifte』(快楽の害毒)、『Auf der Wacht』(護衛のもとで)、および『Reine Luft』(きれいな空気)などに掲載された。これら雑誌の中で、『Reine Luft』が反タバコ運動の中心となっていた。カール・アステルのイェーナ大学タバコの危険性に関する科学研究所は『Reine Luft』を購読し、数百部再版して配布した。

 健康に対するタバコの悪影響が認識された後、いくつかの禁煙法が成立した。1930年代後半になると、ますます反タバコ法がナチスによって施行されるようになった。1938年、ドイツ空軍およびライヒスポスト(国営郵便電信事業)に喫煙禁止が課された。喫煙は医療機関だけでなく、一部の官公庁や介護施設においても禁止され、助産師は仕事中の喫煙を制限された。1939年、ナチ党は党施設内での喫煙を全面禁止し、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは警察関係者および親衛隊将校の勤務中の喫煙を制限した。喫煙は学校でも禁止された。

 1941年、ドイツの16の都市でトラム車内での喫煙が禁止された。防空壕内も禁煙とされたが、いくつかのシェルターは喫煙室を用意していた。特別治療施設では女性の喫煙を防ぐ措置がとられた。ドイツ医師会会長は「ドイツの女性はタバコを吸わない」と宣言した。

 第二次大戦中、妊婦、25歳以下、および55歳以上の女性にはタバコの配給券が支給されなかった。サービス業および食品小売業の、女性へのタバコ製品の販売制限が課された。女性向けの反タバコ映画が一般公開され、喫煙の問題と影響について論じた社説が新聞に掲載された。これらの事柄に関して徹底的な方策が取られ、国家社会主義経営細胞組織(NSBO)の一地方局は、公共の場で喫煙した女性は除名すると発表した。反タバコキャンペーンの次のステップは1943年7月に現れ、18歳以下の公共の場での喫煙が禁止された。翌年、ヒトラーは女性の乗客が受動喫煙の被害者になることを恐れ、個人的に主導してバスや市街電車内での喫煙を違法とさせた。

 タバコ製品の広告制限にも制限を課し、1941年12月7日に法が制定され、広告協議会会長のハインリヒ・フンケはそれに署名した。喫煙が無害であるかのような、あるいは男らしさの象徴であるかのような広告は禁止された。反タバコ活動家をからかうようなことも禁止され、線路、農村地域、スタジアム、および競争路での広告ポスターの使用は現状維持とされた。ラウドスピーカーおよび郵便による宣伝もまた禁止された。

 喫煙制限は国防軍にも導入された。タバコの配給は兵士一人当たり1日6本に制限された。余ったタバコはしばしば、特に膠着している戦場において兵士間で売買されたが、これらは各兵士1か月あたり50本までに制限された。ヒトラーユーゲントのメンバーで構成された第12SS装甲師団所属の十代の兵士達は、タバコの代わりにキャンディを支給された。国防軍婦人補助要員のタバコの入手は許されなかった。軍関係者に喫煙を止めるよう促す衛生講義が用意された。1941年11月3日、タバコ税を小売価格の約80-95%に引き上げる条例が布告された。これはナチ政権崩壊後25年以上経った時点でももっとも高い上昇だった。

 有効性

 当初反タバコ運動は小規模でその影響力は極めて小さく、初期の禁煙キャンペーンは失敗したと考えられている。1933年から1937年にかけてドイツでのタバコ消費量は急増し、国内の喫煙率の上昇は隣国のフランスより高かった。1932年から1939年の間のフランスでの一人当たりの紙巻きたばこ消費量が年間570本から630本に増えたのに対し、ドイツでは570本から900本に増えた。

 ドイツのタバコ製造会社は反タバコキャンペーンを弱体化させるための企てをいくつか行った。彼らは雑誌を創刊し反タバコ運動を「狂信的」、「非科学的」として伝えた。タバコ業界も政府の女性の喫煙を止めるためのキャンペーンに反対し、広告にタバコを吸うモデルを起用しようとした。またタバコと女性が描かれたファッションイラストレーションが『Beyers Mode für Alle』のような有名な出版物に掲載された。ヒット曲『リリー・マルレーン』のカバーアートには歌手ララ・アンデルセンがタバコを持つ姿が採用されている。政府の取締りをよそに、ナチス高級官僚の妻を含む多くの女性が日常的にタバコを吸った。例として、マグダ・ゲッベルスは記者から取材を受けている最中でもタバコを吸っていた。

ドイツとアメリカの一人当たりの
紙巻きたばこ年間消費量
1930 1935 1940 1944
ドイツ 490 510 1,022 743
アメリカ 1,485 1,564 1,976 3,039

 1930年代の終わりと第二次大戦初期にナチスは反タバコ政策をさらに施行し、喫煙率は減少した。国防軍内での反タバコ方策実施の結果として、1939年から1945年の間兵士の総タバコ消費量は減少した。1944年に実施された調査によれば、国防軍内における喫煙者数は増加したが、平均タバコ消費量は開戦直前に比べ23.4%減少した。一日あたり30本以上タバコを吸う喫煙者は、4.4%から0.3%に減少した。

 ただしナチの反タバコ政策には矛盾もはらんでいた。例えば、「国民の健康」(Volksgesundheit)および「健康の義務」(Gesundheitspflicht)政策を実施しながら、それと同時にナチスが〔喫煙する〕「資格のある」グループとみなした人々(前線の兵士、ヒトラーユーゲントのメンバーなど)へのタバコの支給も行われた。他方では、「資格のない」あるいは虐げられたグループ(ユダヤ人や戦争捕虜)はタバコの入手が認められなかった。

 反ユダヤ主義および人種差別主義との関連

 国民の健康への懸念は別として、ナチスはイデオロギーによる大きな影響を受け、この運動は特に人種改良および肉体的純潔の概念の影響を受けた。ナチ党指導部は、喫煙は支配民族にとって不適切であり、タバコの消費は「民族の堕落」に等しいと考えた。ナチスはタバコを「遺伝子の毒」とみなした。人種改良主義者は喫煙に反対し、「ドイツ人生殖質」が汚染されることを恐れた。ナチの反タバコ活動家は、しばしばタバコを「アフリカ人変質者の悪習」と表現しようとした。

 ナチスはユダヤ人にタバコとその悪影響を持ち込んだ責任があると主張した。ドイツのセブンスデー・アドベンチスト教会は、喫煙はユダヤ人によって広められた不健康な悪習だと発表した。『Nordische Welt』(北欧世界)の編集者ヨハン・フォン・レールスは、1941年、「タバコの危険性に関する科学研究所」の開所式において、「ユダヤ資本主義」には喫煙をヨーロッパ中に広めた責任があると公言した。彼は、最初にドイツ国土にタバコを持ち込んだのはユダヤ人であり、ヨーロッパにおける主要なタバコ草陸揚げ拠点であるアムステルダムのタバコ業界を牛耳っているのだと語った。

 第二次世界大戦後

 ヒトラーは、ベルリンの戦いの末期に総統地下壕で自殺を遂げたが、秘書の一人ゲルダ・クリスティアンの回想によると自殺直後の地下壕は虚無的な雰囲気に包まれると同時にそれまでヒトラーに遠慮していた人々が大っぴらにタバコを吸い始めたと言われている。

 第二次世界大戦が終了し、ナチス・ドイツが崩壊した後、アメリカのタバコ製造会社が速やかにドイツの闇市場に進出した。タバコの密輸が一般化し、ナチス禁煙キャンペーンの指導者らは暗殺された。1949年、アメリカでおよそ4億本の紙巻きたばこが製造され、毎月ドイツに不法に持ち込まれた。1954年、20億本のスイスタバコがドイツとイタリアに密輸された。

 マーシャル・プランの一環として、アメリカはドイツに無料のタバコを送った。1948年にドイツに送られたタバコの量は24,000トンにのぼり、1949年には69,000トンになった。アメリカ合衆国連邦政府は、この計画に7千万ドルを使い、利益に飢えていたアメリカのタバコ製造会社を大喜びさせた。戦後ドイツにおける一人当たりの年間タバコ消費量は1950年の460本から1953年の1,523本へと着実に増加した。

 一方でタバコの消費が回復すると同時に、タバコ会社による「禁煙=ファシズム」という印象操作にも等しいネガティブ・キャンペーンによって、禁煙や嫌煙運動は打撃を受けることになった]。20世紀末になっても、ドイツにおける反タバコキャンペーンは(ナチスの絶頂期だった)1939年~1941年の水準にまで届かず、ドイツのタバコと健康の研究は、ロバート・N・プロクターをして「沈黙した」と言いわしめた。


【戦後日本のタバコ史】
 1945(昭和20)年、戦争が終結するとタバコにも再び変化が生じる。当時のタバコは国家財政の税収の約20%を占める重要な財源だったが、戦災で工場の半数を失っていたため巷では極端な品不足が続いていた。数少ない嗜好品として庶民がタバコを求めたため、結果として、私製の「手巻たばこ」や進駐軍が横流しした「外国たばこ」がヤミ市に出回わった。終戦直後の物不足のなかにあって、たばこ税収は財源として重視され、たばこや塩などの品目は、国家予算の約5分の1(20%)へと増収が図られた予算が組まれたが、昭和20年(1945年)のたばこ専売税収の実収はおよそ9億7000万円で国家歳入総額のおよそ4.1%であり、塩専売の税収の実収は1億2012万円の赤字であった

 1948(昭和23)年、連合国最高司令官(GHQ最高司令官)ダグラス・マッカーサーは内閣総理大臣芦田均宛てに国家公務員法の改正に関する書簡を発した。日本政府は書簡で示唆される公共企業体設立の旨に基づき、連合国最高司令部と協議を開始した。1949(昭和24)年、終戦から数年後、日本の復興とともにタバコ産業の立て直しを図った政府は日本専売公社を設立した。それにより明治の煙草専売法は改正されたばこ専売法が施行された。タバコの配給制度を廃止。専売制は昭和60年(1985年)の日本たばこ産業株式会社(JT)発足まで続いた

 昭和32(1957)年、国産初の「フィルター付きたばこ」である「ホープ」が発売される。昭和35(1960)年、「ハイライト」が発売される。時代が「両切たばこ」から「フィルター付きたばこ」へと移行した。以降、数多くの銘柄が登場する。

 1980(昭和55)年時点では、輸入たばこには90%の関税がかけられ、国内市場における輸入たばこのシェアは1.5%未満に過ぎず、日本国外のたばこ企業が日本国内でテレビ・雑誌・看板などの宣伝活動や市場調査を行ったり販売網を築いたりすることはできなかった。しかし、1980年(昭和55年)のアメリカ合衆国・フィリップ・モリス社の5か年計画において、日本に対し市場を開放するよう圧力をかけることが計画された。

 1982(昭和57)年、米国通商代表部(USTR)は日本政府に対し、関税の90%から20%への引き下げ、海外企業の宣伝活動や市場調査の許可を求め交渉した(経済制裁の脅しも持ち出されたという)。

 1985(昭和60)年、4月、専売制度が廃止され「日本たばこ産業株式会社」が発足する。日本専売公社が日本たばこ産業に民営化された。「1970年代に入り、貿易の自由化、経済の国際化が進む中で、たばこ多国籍企業群からのたばこ市場開放要求が強まり、ついに専売制度が昭和60年 (1985) に廃止された」。

 1987年(昭和62年)、米国たばこへの関税は撤廃された。結果として、米国からのたばこ輸入本数は1986年(昭和61年)に99億本、2002年(平成14年)には780億本へと増加し、米国のたばこ輸出の61%を占めるまでになった。また、日本たばこ産業は民営化されたとはいえ、日本たばこ産業株式会社法により財務省が過半数の株を保有している。


 1987年、に米国内で販売が禁止されている基準値0.5ppm以上のダイカンバ(除草剤)に汚染されたたばこが国内に輸入され、141万本が日本国内に出回る事件が起きた。この事件については同年6月5日の参議院決算委員会において、旧大蔵省及び外務省が5月20日の段階でこの情報を知りながら、回収を行わないまま調査結果を内密にするよう米政府に要請していたことについての質疑が行われている

 2008()年、3月、taspo
(タスポ)が導入された。成人識別ICカードの名称、及び同カードを使用したシステムの総称である。社団法人日本たばこ協会 (TIOJ) 、全国たばこ販売協同組合連合会(全協)及び日本自動販売機工業会 (JVMA) が未成年者の喫煙防止に向けた取り組みのさらなる強化の一環として開発し、順次日本全国に導入されている。

【タバコの値段史
 購入価格の64,4%が税金である。内訳は、2015年現在で国税が24,7%、地方税が28,5%(都道府県税、市町村税)、特別税が3,8%、消費税が7,4%。430円のタバコで276.73円が税金。
 タバコの値段の値上げ推移は次の通りである。
大卒初任給 ハイライト セブンスター マイルドセブン(現メビウス)
1960年(昭和35年)6月20日 1万3030円 発売:70円
1969年(昭和44年)2月1日 発売:100円
1970年(昭和45年)3月15日 80円
1975年(昭和50年)12月18日 120円 150円
1977年(昭和52年) 150円
1980年(昭和55年)4月22日 150円 180円 180円
1983年(昭和58年)5月1日 170円 200円 200円
1986年(昭和61年)5月1日 200円 220円 220円
1997年(平成9年) 4月1日 230円 230円 230円
1998年(平成10年)12月1日 250円 250円
1999年(平成11年) 250円
2003年(平成15年)7月1日 270円 280円 270円
2006年(平成18年) 7月1日 290円 300円 300円
2010年(平成22年)10月1日 410円 410円 410円
2013年 19万8,000円
2014(平成26)年 420円 430円

 それにしても2010年時の大幅値上げが異様である。喫煙人口がそれでも減らなかったのか減ったのか、タバコの売上推移が気になるところである。

【タバコ税】
 たばこ税は、「国税」、「地方税(都道府県、市区町村)」、「特別税」3種類の税金で構成されている。これに消費税が加わる。実に値段の63.1%が税金である。「たばこ特別税」とは、1998年に旧国鉄債務処理・国有林野改革関連法案が成立したために出来た税金で財源に当てている。

【タバコ税財源考】
年度 タバコ税額 前年比較
1996 2.13兆円
1997 2.06兆円
1998 2.18兆円
1999 2.32兆円
2000 2.29兆円
2001 平成13年 2兆2393億円 -374億円
2002 平成14年 2兆2010億円 +483億円
2003 平成15年 2兆2759億円 +749億円
2004 平成16年 2兆2992億円 +233億円
2005 平成17年 2兆2400億円 -592億円
2006 平成18年 2.29兆円
2007 平成19年 2.27兆円
2008 平成20年 2.12兆円
2009 平成21年 2.03兆円
2010 平成22年 2.11兆円
2011 平成23年 2.38兆円
2012 平成24年 2.27兆円
2013 平成25年
2014 平成26年




(私論.私見)

<連載>
第7回  キセルの文化論
第8回 カルメンがなぜシガレットなのだ!
第9回 デューク大学をつくった男
第4回 いじめに会う 第10回 「天狗」 vs.「ヒーロー」
第5回 ジョン・ロルフとポカホンタスの恋 第11回 禁酒法と禁煙法
第6回 優雅にクシャミ
第5回 ジョン・ロルフとポカホンタスの恋
たばこはヨーロッパでは,17世紀を迎える頃までには広く普及していましたが,栽培は未だ薬草園の域を出ず,供給はもっぱらスペイン領アメリカ植民地に仰いでいまいた。中でもヴェネズエラ沿岸部やトリニダード島などが良質の葉たばこを産出するようになりましたので,オランダやイギリスがスペインの目をかい潜って盛んに密貿易を働きました。これに業を煮やしたスペインは,1606年にヴェネズエラでのたばこ栽培を向こう10年間禁止してしまったのです。そのためヨーロッパでたばこの値段が一段と上昇し,これが他の地方の新産地開発を刺激しました。ちょうどこの時期にたばこの有力な産地として台頭してきたのが北米イギリス植民地のヴァージニアでした。
イギリスの北米植民地ヴァージニアは1607年に建設されましたが,当初は,さしたる物資を産出できず,厳しい飢えと寒さのために殆ど失敗に終わろうとしていました。これを救ったのが,ジョン・ロルフの葉たばこ栽培の成功でした。ヴァージニア地方の先住民もたばこを吸っていましたが,品質の劣るニコチアナ・ルスチカ種でした。ロルフはこれに代えて西インド諸島のトリニダード島から入手したニコチアナ・タバカム種を試作したところ,土壌や気候に適合し,良質の葉たばこを収穫でき,1613年には僅かながら本国に輸出して好評を得ました。以後生産量は急速に拡大し,ジェームズ一世も,1619年にイングランドでのたばこの栽培を禁止し,植民地の新しい産業を保護することにしました。このヴァージニアの成功に倣ってバミューダ諸島がこれに続き,メリーランド,カロライナの植民地も葉たばこ栽培に活路を求めました。チャールズ一世が“全てが煙の上に築かれている”と嘆いたように,北米イギリス植民地の基礎はたばこによって築かれたのです。

なお,ヴァージニア入植地に到着して間もなく妻を失ったロルフが,当地で強い勢力を保持していた先住民の酋長ポーハタンの娘ポカホンタスと再婚したロマンスは有名で,これにより,その後8年間,先住民との間で平和が保たれました。しかし,ポカホンタスはロルフと共に訪れたイギリスで亡くなり,ヴァージニアに戻ったロルフも,先住民との抗争で1622年に亡くなったと伝えられています。北米イギリス植民地と並んで ,南米ブラジルのバイア地方も葉たばこの産地として頭角を現してきました。またヨーロッパでもオランダが比較的大きなたばこ産地に成長します。こうしたたばこ産地の台頭は ,新しい品種の導入だけではなく,耕作技術や葉たばこの乾燥処理技術の改善の賜物でもありました。
ただし,かつて世界のたばこ資源を独占していたスペイン領アメリカ植民地は,ハバナ葉がシガーの原料としての名声を維持し続けますが,二度と昔の独占的地位を回復することはありませんでした。

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第6回 優雅にクシャミ
ヨーロッパに限らず,パイプ喫煙がまず一般民衆の間に広まり,主流になりました。ただし,薬としては,スナッフ(嗅ぎたばこ)も最初から推奨されていました。新大陸に渡った聖職者たちがスペインの教会に伝えたのも主にスナッフでした。
 また ,フィレンツェのメジチ家出身のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスは,偏頭痛に悩まされていたのですが,ジャン・ニコがフランスに伝えたたばこのスナッフによって軽癒したので ,国王である自分の息子や家臣たちにも奨め,そのためたばこは「王妃の薬草」とも呼ばれたほどでした。

その後もスナッフに対する信望は衰えず,スナッフによるクシャミが体に良いとされ,ルイ十三世の時代(1610-43)以降,フランスの宮廷社会を中心に急速に広まり ,ほかのヨーロッパ諸国の上流階級もこれに倣いました。さらにこの上流社会の風習は次第に庶民層にまで浸透して行きましたので,続く18世紀は,フランスはもちろんヨーロッパ中がスナッフの時代になったのです。すでにたばこの専売制を実施していたフランスやオーストリアでは ,フランス革命直前,たばこの売上げの80%以上がスナッフになっていました。

スナッフは上流社会から広まった風習だけに,粉末状にしたたばこには様々な芳香剤などが配合され,それを入れて携帯する容器は次第に贅沢なものとなり,貴族たちは ,金銀,象牙,磁器などの素材に宝飾を施した豪華なスナッフボックスを競って所持するようになりました。 また,吸い込む仕草にも優雅さが求められ,スナッフを吸い込んだときに出る軽いクシャミの仕方のマナーまでありました。ただし,庶民の持つ容器は殆ど木製の粗末なもので ,スナッフも,手の甲のくぼみに取り分けて勢い良く鼻から吸い込んでいました。
ヨーロッパで流行したスナッフは中国にも伝えられ,やはり宮廷社会を中心に盛んに用いられました。そして中国でもその容器は凝ったものになり,陶器,貴石 ,ガラスなどで作ったスナッフボトル(鼻烟壺)が多くの人々に愛されました。ただし,日本ではスナッフの習慣は殆ど見られませんでした。
一世を風靡したスナッフでしたが,やがて市民革命の時代を迎えると,急速に廃れて行き,それまで下層階級のたばことして疎んじられ,一時需要が大きく落ち込んでいたパイプたばこが復活してきます。

プロイセンやオーストリアでは街頭や公共の場所での喫煙が禁止されていましたが,人々は,疫病が流行する度に禁止令の一時凍結を嘆願してきました。そしてついに1848年の三月革命の際 ,民衆は喫煙の自由を再び勝ち取ったのです。
パイプたばこの復活と同時に,それまでスペインおよびその植民地のたばこに止どまっていたシガーが,革命の時代らしく,男たちの間で流行するようになりました。ヨーロッパ中にシガーを広める切っ掛けとなったのは ,ナポレオンのイベリア半島侵攻(1808-14)でした。そしてシガーは,時代を反映して進歩の印となり,国民主権や共和制を表象するたばことなりました。カール・マルクスもシガー愛好者であったことが知られています。

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第7回 キセルの文化論
わが国にもシガーが伝えられた形跡はありますが殆ど広まらず,最初からキセルと呼ばれたパイプを使っての喫煙がもっぱらでした。そのキセルも,近世風俗画などに描かれている初期の頃のキセルは大分大ぶりで ,長さは優に1メートルを超すように見えます。こうした大ギセルを持ち歩くことが,まず「かぶき者」と呼ばれた伊達男などの間で流行しました。1609年(慶長14)の最初のたばこに対する禁令は ,かぶき者の取締りのために出されています。以後幕府は,喫煙を異国から伝わった無益な風習として非難し,たばこの栽培や売買までも禁止する法度を度々出しますが効き目がなく ,禁煙令はわが国では実質15年位で沙汰止みになりました。そして禁煙令に代わって,寛永19年(1642)の大飢饉を契機に,本田畑でのたばこの耕作を禁止ないし制限する御触書が出されるようになります。しかしこれもあまり守られず ,幕府からのたばこ耕作規制令も18世紀に入ると見られなくなり,諸藩の中には産業としてたばこの栽培を奨励するところも出てきます。
最初の頃かぶき者が持ち歩いたキセルは大袈裟なものでしたが,一般の人々が使うキセルは50センチ以下の短なものとなり,火皿も小ぶりになりました。 小さな火皿に刻みたばこを一つまみひねり込み,三,四回吸って灰をポンと捨てる一服の間が,日本人の生活のテンポに合っていたのでしょう。煙の量もヨーロッパのパイプやシガーに比べて格段に少なく ,そのためか,わが国ではヨーロッパのように,喫煙が怠惰や不健康を意味するようなことはあまりありませんでした。むしろ,「一服する」「たばこにする」は ,生活の句読点としての小休止の代名詞となり,庶民の間に広く定着していました。

江戸時代後期の山東京山は,自著の滑稽本に『春宵一服煙草二抄』というタイトルを付けております。屋外での一服を楽しむための携帯用のたばこ入れも発達しますが ,これは,武士の印籠の向こうを張った庶民の装身具となり,男たちはその粋を競い合いました。
葉たばこも,わが国に伝えられてから気象や土壌条件に適合して,「在来種」と呼ばれる葉肉の薄い品種になり,これはキセルに詰めて吸う刻みたばこを作るのに適しました。初めの頃は ,乾かした葉たばこを自分で刻んで吸っていましたが,葉たばこを1枚1枚丁寧にのばして圧展して包丁で髪の毛ほどに細く刻む技術が発達し,都会の人々は専門の刻み職人の刻んだたばこを買って吸うようになりました。
たばこ盆もわが国らしい喫煙具といえましょう。 パイプ喫煙の文化を発展させたイギリスやオランダの古い絵画などを見ても,たばこ盆のようなものはあまり見当たりません。わが国のたばこ盆は,香盆を転用したものといわれるように ,主人が独り占めする物ではなく,最初から人をもてなすセットで,客にはお茶より先にたばこ盆が出されました。

たばこ盆には火入れや灰落しとともにキセルを2本添えるのが習わしで,1本はお客用でした。茶道では,腰掛待合に用意した円座の上にたばこ盆を乗せて客を待ち,茶室では正客の座る位置にたばこ盆を置いてもてなしの心を表します。昔は ,すすめられたたばこを頂戴する際の作法ありました。

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第8回 カルメンがなぜシガレットなのだ!
19世紀に入ってシガーやパイプたばこが貴族的なスナッフを追い落としますが,シガーの流行もそう長くは続きませんでした。後から追い上げてきたシガレットに直ぐに抜かれてしまったのです。シガレットは 1853-56年のクリミア戦争の頃から流行りだしますので,クリミア戦争のさ中に誕生したともいわれていました。戦争でパイプを壊してしまった兵士が,大砲の火薬を包む薬包紙でパイプ用の刻みを巻いて吸ったのが始まりだというのです。そこで ,ビゼー作曲の歌劇「カルメン」でたばこ工場の女工たちがシガレットをふかしながら登場するのはおかしいという意見があります。原作であるメリメの小説「カルメン」はクリミア戦争前の1845年に発表されているからです。

ただし,シガレットはクリミア戦争で誕生したというのは正しくありません。イタリア生れでヨーロッパの宮廷社会を渉猟したカサノヴァの『回想録』に,1767年にマドリッドに向かう途中 ,安宿の亭主が紙で巻いた「シガリート」を吸う場面が記されていますし,ゴヤが1778年に描いたゴブラン織りの下絵「凧揚げ」の中で,一人のマホ(伊達男)がシガレットを吸っています。
また,小説「カルメン」の中にも紙巻きたばこパペリトが出てくるので,フランス人のメリメも既に知っていたのです。実は,スペイン領アメリカ植民地ではもっと以前からパペリトが吸われていて ,17世紀中葉にはスペインにも伝わり,さらにクリミア戦争の頃までには近東やトルコからロシアにまで広がっていたのです。
それにしても,カルメンが働いていたとされるセビリャのたばこ工場ではその頃確かにシガーを作っていたのですから,なぜカルメンがシガレットなのでしょうか。これは ,当時急速に進行していた産業革命と関係があるかも知れません。

この頃から産業の機械化と高速化のテンポが早まり,人々の生活にもスピードが求められ,緊張が増してきます。そこで人々は,パイプやシガーのようなゆったりとした喫煙ではなく ,もっと手軽に何時でも楽しめるたばこを求めるようになったと考えられます。ビゼーが「カルメン」を作曲した1870年代は,産業革命の進展により社会が根底から大きく変わりつつあった時代でした。たばこ工場の女工たちには ,すでにシガーよりシガレットこそ相応しかったのかも知れません。シガレットは,近代工業化社会に生きる人々が求めていたたばこだったといえましょう。シガレットの需要は ,19世紀後半から急速に伸びて行ったのです。
当時のシガレットはまだ手巻きで,手巻き職人の多くは先進地のロシアや東欧などからやって来ました。また,紙の質も悪く,燃える時にいやな匂いがしましたので,庶民のたばこと見られていました。しかし ,この頃から良質のライスペーパーが工業的に生産できるようになり,また,手巻きよりも各段に効率のよいシガレットマシンも1880代には実用化の段階を迎えます。さらに ,シガレット原料として最適な葉たばこに仕上げる熱風送管乾燥(フルー・キュアリング)がアメリカで開発されます。こうして,シガレットの大量生産の技術的な基礎が確立され ,たばこ産業における産業革命がシガレットを軸に展開されて行き,「シガレットの時代」を迎えるのです。

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第9回 デューク大学をつくった男
シガレット産業の工業化をリードしたのは米国でした。米国にもヨーロッパの流行は直ぐに伝わり,シガレットは1850年頃から流行りだします。しかし,手巻きによる製造では限界がありましたので ,南北戦争( 1861-65)後,巻上機の開発がいろいろ試みられました。そのなかで,画期的な巻上機を開発したのがJ.A.ボンサックでした。この巻上機は1881年に特許を取得しますが ,これは,熟練した手巻き職人の約50倍の能力がありました。いち早くこのボンサック式巻上機に注目し,有利な条件で導入に踏み切ったのが,父ワシントン・デュークとともにたばこ製造業に挑戦していた若きジェームズ B. デュークでした。
デュークは,機械化により製造の態勢を整えるとともに,税制上の商機を捉えて一挙にシガレットの売上げを拡大し,さらに巧みなマーケティング戦略を駆使して瞬く間に米国最大のシガレットメーカーにのし上がって行きました。その上で ,他の4大シガレットメーカーに併合を働き掛け,1890年にアメリカンタバコ社を設立し,シガレット市場をほぼ独占するに至ったのです。ただし当時のシガレットのシェアは ,米国の製造たばこ全体の僅か数パーセントで,全体の約半分を占めていたのが「プラグ」と呼ばれる噛みたばこでした。そこでデュークは,シガレットで稼いだ利益を元にプラグたばこ業界に挑み ,P.ロリラード社,リゲット&マイヤーズ社,R.J.レイノルズ社といったプラグたばこの大手を次々と買収・併合して行き,この分野でも短期間のうちに独占的地位を築き ,さらに,パイプたばこなども支配下に収めて,たばこ王と称されるようになりました。

デュークは,米国の全たばこ産業をほぼ手中に収めると同時に海外進出も企て,1901年にはイギリス本土への上陸を果たし,猛烈な市場攻撃を仕掛けます。これに対しイギリスの主立ったシガレット企業は合同してインペリアル社を結成して防戦に努めましました。この熾烈を極めた米英たばこ戦争は約1年間続きましたが ,結局,両社は和解して米英相互不可侵協定を結び,世界制覇のためには共同出資の別会社BAT社を1902年に設立し,デュークが社長に就きました。このBAT社がその後世界一のたばこ会社に発展して行きます。
しかし,デュークの強引なやり方は世間の批判を浴びるようになり,米国政府が反トラスト法に抵触するとして提訴に踏み切り,ついに1911年にアメリカンタバコ社の解体命令が出されます。その結果 ,かつて併合されたリゲット&マイヤーズ社,P.ロリラード社,R.J.レイノルズ社がアメリカンタバコ社から再独立しました。また,米英相互不可侵協定も無効とされましたので ,間もなくアメリカンタバコ社は英国に再上陸し,BAT社も米国にB&W社を設立します。こうしてこの時期に顔を揃えたこれらのたばこ会社が,その後,世界的な多国籍企業に発展して行き ,これらの会社に新興のフィリップモリス社やロスマンズ社を加えたたばこ多国籍企業群が,1974年には,社会主義国・専売国を除く世界のたばこ市場の約78%を押さえるまでになるのです。
 なお,デュークは,反トラスト法違反の判決を受けたあと渡英しますが,1923年に帰国して,郷里のデューク大学設立に尽力し ,その生涯を終えます。

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