宗教戦争について

 (最新見直し2007.10.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これはれんだいこの2004年現在の最新の気づきであるが、「宗教的紛争、戦争」について実はこれが歴史を動かしているという観点から歴史を見直さないと実相が見えてこないのではなかろうか。日本の場合、世界に冠たる神道が在り、非論理、直感、体感、生成変化式森羅万象内在的な八百万神教に立脚しているので「宗教的紛争、戦争」の重みが見えてこない。我々は日本神道のこの寛容さ故に、マルクス主義の階級闘争論をほぼ純粋無垢に受容し得てきたが、その分「宗教的紛争、戦争」の重みを捉え損なったきらいがある。

 世界は広い。日本式原理だけでは理解できない。西欧、中近東では、日本式宗教形態とは凡そ対極的な論理、絶対真理、外在的な一神教が牢として根を下ろしており、宗教が民族ないし国家の生殺与奪にまで関与しつつ君臨している。日本人の我々にはここのところが理解できないので決定的に見落としている。西欧では、マルクス主義的階級闘争論は創立の当初より常に相対的にみられてきており、「宗教的対立構図」こそ歴史の真の基軸となっているのではなかろうか。そういうお国柄の差異を踏まえず「宗教的紛争、戦争」を対岸視してきたのが日本的政治論では無かろうか。この落差に気づいたのが今日この頃のれんだいこである。容易ではないがこれを論証したいと思う。

 2004.6.3日 れんだいこ拝


【「悪の論理」形成過程検証】
 マルクス著「共産主義者の宣言」は、「すべてこれまでに立ち現れてきた社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と述べている。しかし、れんんだいこはこれを次のように述べ替えたい。「すべてこれまでに立ち現れてきた西欧史の裏原動力にユダヤ教を廻る宗教闘争である。2004年現代世界は、ユダヤ教を信奉する勢力に牛耳られているので、これが西欧史のみならず世界史の裏原動力である」。

 ユダヤ教にも穏和なそれもあれば急進的なそれもある。ここで問うのは急進主義的ユダヤ教徒の世界観、社会観、宗教戦争である。現在それはシオニズムとして開花しており、更に急進的な部分がネオコンとして勢力形成している。ネオコンは、ユダヤ教教義に則り選良意識に随った世界再編最終戦争に乗り出している。しかしてそれはかなり偏狭なものでありいわゆる「悪の論理」に支配されている。

 今や、このネオコン思想、哲学、世界観、社会観、政治論とどう対決するのかが問われている。その意味で、「すべてこれから立ち現れる社会の歴史は、ネオコンと非ネオコン、反ネオコンとの宗教闘争の歴史となる」。このことが知られねばならない。

 この気づきは、「9.11同時多発テロ」以来、攻勢的に続く米英ユ軍によるパレスチナ、アフガン、イラク戦争の「異常さ」によってもたらされた。かの戦争の非道さは尋常ではない。これを理解するのに、既成の戦争観では解けない。解けるとしたら、ユダヤ人の持つ「選良意識、その裏腹のゴイム思想」を通してであろう。これを正確に理解しようと思えば、「選良意識、その裏腹のゴイム思想」の歴史的形成過程を検証せねばなるまい。

 もう一つ。米英ユによる対イラク侵略戦争に対し、独仏露が複雑な対応を見せた。その背景にあるものは何か。案外と歴史的に根深いものがあるのではないかと、れんだいこは気づいた。西欧では今日でも「ユダヤと反ユダヤの対立抗争」が地下水脈で続いているのではなかろうか。その歴史はゆうに数千年を越える。この仮説が正しいかどうか。 

 では、「すべてこれまでに立ち現れてきた西欧史の裏原動力にユダヤ教を廻る宗教闘争である」につき説明して見たい。舞台は、今日のパレスチナ当時のカナンの地から始まる。暫くの間お付き合い願おう。


 2004.6.3日 れんだいこ拝


【古代ユダヤ国家の形成と滅亡】
 今日から約4000年前の紀元前17世紀、旧約聖書によれば、ユダヤ民族の祖となる族長アブラハム一家がカルデアのウル(メソポタミア)からカナン(乳と密の流れる地、今日のパレスチナ)へ導かれてやってきた。その子がイサクであり、孫がヤコブである。ヤコブの時代にヤコブ(イスラエル)と12人の息子は一族とともにエジプトに移り住んでいる。彼らの子孫はエジプト人の奴隷となり、約400年間にわたって過酷な強制労働に苦しむことになった。

 
彼らをエジプトから救いだしたのがモーセである。奴隷の身となって400年後の紀元前13世紀、イスラエルの民はモーセに率いられて、神が祖先に約束した土地エレツ・イスラエル目指してエジプトを出た(「出エジプト」)。カナンに向かう途上、モーセはシナイ山に登り、神から十戒を受けた。この律法がユダヤ人を一つの民族として結束させる事になった。モーセは約束の地に辿り着く直前に死んだが、「出エジプト」は、ユダヤ人の民族の記憶に深く刻印し、自由と解放のシンボルとなった。

 
それから200年間、イスラエル人はその土地のほとんどを征服(「カナンの征服」)し、それまでの遊牧生活を捨てて農民や職人となった。そして人々はある程度、経済的社会的に統合されていった。比較的平和な時代が続くが、時には戦闘も起きた。戦争が起こると、人々は、「士師」と呼ばれる指導者の下に集結した。政治的軍事的能力や信頼を集める能力のある人物が士師に登用されたが、士師は外敵と戦う必要がある時にだけ指導者として働いた。

 紀元前10世紀、ユダヤ民族は王朝国家「古代イスラエル王国」を創設した。初代サウル、二代目ダビデ、三代目ソロモンと続く。「古代イスラエル王国」は、@・カナン征服、A・12部族の一つの王国への統一、B・強大国家の確立に成功した。ダビデ王の時代に、威勢はエジプトや紅海の境界からユーフラテス川岸にまで及ぶようになり、エルサレムを首都に定めた。ソロモン王の時代にますます栄え繁栄と平和を享受した。エルサレムの王宮と神殿が建築され、これらはユダヤ人の民族生活、宗教生活の中心となった。

 
紀元前9世紀、ソロモン没後内部分裂し「古代イスラエル王国」は北王国のイスラエル王国と南王国のユダ王国に分裂した。 イスラエル王国は、イスラエルの10部族が治め、サマリアを首都とする地域に、200年以上の統治が続いた。一方、ユダ王国はユダとベンヤミンの2部族が治めエルサレムを首都として、ダビデ直系の王によって400年間統治された。 しかし、アッシリア帝国、バビロニア帝国が拡張を始め、先にイスラエル王国を、次にユダ王国をその支配下におさめていくことになる。

 
紀元前732年、イスラエル王国はセム系遊牧民のアッシリアの攻撃を受け滅ぼされた。紀元前6世紀、イスラエル王国滅亡の136年後、ユダ王国も新バビロニア帝国に征服された。紀元前586年、神殿が破壊され、ユダヤ人の指導者層はバビロン(現在のイラク)に連れ去られた(「バビロン捕囚」)。

 この「バビロン捕囚」がユダヤ人離散の始まりとなった。しかし、被征服下でユダヤ教が生き残り、ユダヤ教はユダヤ人の民族的統合の精神的支柱としてその力を発揮した。この間、神から啓示を授けられる預言者が現われ、カリスマ的に民族の危機を救っていった。彼らは、神の告知を伝え、宗教、モラル、政治に関してユダヤ人に指針を授けていった。預言者たちの行いは、神の啓示を受けて書かれた詩や散文の著作に残っており、その多くは聖書におさめられている。


 紀元前5世紀頃、「バビロン捕囚」ユダヤ人は祖国エルサレムに帰還、この頃ユダヤ教を確立した。「旧約聖書」が成立したのはこの時期であると云われている。この時、@・ユダヤ人は神から選ばれた「選民」である。A・エルサレム(シオン)を「聖地」とする。B・ヨルダン川西岸は神がユダヤ人に与えた「約束の地」である、と確認された。(今日のイスラエル政府がエルサレムの領有に固執し、シャロン首相らの右派勢力が西岸のユダヤ人入植地の拡大に拘る理由がここに遡る)

 ユダヤ人たちがユダヤ教を確立整備し始めた頃のこの時代は、征服者の交代が相次いでいた。アッシリア、バビロニア、ペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、ローマと入れ替わり、ユダヤ人は祖国に帰ることができたもののその支配に服していた。紀元前63年、ローマ帝国の支配する時代に入った。ユダヤに王は存在したものの、ローマの支配下にある属国となった。ローマの支配はAD313年まで続くことになる。しかし、このローマも政争に明け暮れることになる。

 
紀元前8年(4年とも云われている)、イエス・キリストが誕生している。30年、イエス・キリストが十字架刑で処刑される。ペテロ、パウロにより伝道活動が開始される。

 
紀元63年、パレスチナを支配するローマ帝国にユダヤ人民族派が叛乱をおこした(「ローマの圧制に対するユダヤの反乱」)。「シカリオリ(短剣党)」なる地下運動が組織され、反ローマ帝国運動に参加しない者が片っ端から暗殺された。この間、キリスト教が創始され、目覚しい勢いで浸透していく。64年、ネロ帝がキリスト教迫害し、ペテロ、パウロが殉教する。

 66年、紀元66年から70年にかけて約5年間、第一次ユダヤ戦争と呼ばれる戦争が続いた。ローマ帝国は、シリア総督ガルルスに鎮圧を命じ、ガルルスは第12軍団を中心とする軍隊をエルサレムに送り込んだが、エルサレムの民はこれを迎撃し勝利した。これにより100万人以上のユダヤ人が戦死した。ユダヤはローマの植民地となり、ユダヤ人たちはパレスチナの土地から追放された。ユダヤ人の故郷からの離散が決定的になった。

 70年、ローマ軍がエルサレムを破壊、徹底的に弾圧された。この時のローマ帝国とユダヤ教徒との戦場の痕跡を残すのが「嘆きの壁」である。ローマ軍によって破壊されたユダヤ神殿の壁「嘆きの壁」には。現在多くのユダヤ教徒が巡礼にやってきて、この壁に向かって祈りを捧げている。

 反乱軍の一部は岩山の「マサダの砦」に立てこもり、2年間にわたって抵抗を続けた。その最後は、960名のうち二人の女性と5名の子供を残し、全員が自決するという悲劇で幕を閉じることになった。この砦は現存し、イスラエル軍新兵は、ここで国家への忠誠を宣誓することになっており、今日のイスラエル国家独立のシンボルとして歴史化されている。

 エルサレムはローマの直轄領となった。ユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まる(「流浪の民となる」)。ある者はエジプトに、ある者はバビロニアに、ある者は小アジアに、またある者は南ヨーロッパへと流浪していった。このユダヤ人の離散は「ディアスポラ」と呼ばれている。

 132年、ユダヤの民はバル・コホバを指導者として再びローマの圧制に蜂起する(「第二次ユダヤ戦争、バル・コホバの乱」)。135年、ユダヤ人最後の抵抗運動「バル・コホバの乱」が敢行されるが結局失敗に終わる。その結果、ローマは、ユダヤ全土の名称をユダヤの仇敵ペリシテ人にちなんで「パレスチナ」と土地名を変更した。


 パレスチナという名は、モーセに率いられたイスラエルの民と同じ頃カナンの地に移住してきたペリシテ人に由来する。ダビデ以前のこの地の支配者は、ペリシテ人とフェニキア人だった。やがて、その人々は土地の人々と混血し、同化していく。そして「カナン」と呼ばれたその地は、やがてローマによって「パレスチナ」と呼ばれるようになる。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照)

 ローマは、地名の変更のみならずユダヤ人のエルサレム立ち入りを禁止し、パレスチナの地からユダヤ人を追い払うことを決定した。これにより過半のユダヤ人が世界中に離散を余儀なくされた(ユダヤ人の民族離散=ディアスポラ)。


【「ディアスポラ」時代】
 二度にわたるユダヤ人の武装闘争の敗北により、イスラエルの民は祖国から追放され、欧州やロシアに離散することになった。しかし、イスラエルの民は、律法書(トーラ)や歴史書、詩編などを含む聖書や口伝書(タルムード)を肌身離さず、極めて濃密なユダヤ人社会(「ゲットー」)を各地につくっていった。この「ディアスポラ」は1948年にユダヤ人が自らの国家イスラエルを建国するまで、実に1900年近く続くことになった。

 流浪していったユダヤ人のうち、二つのグループが特に重要である。すなわちスファルディとアシュケナジである。スファルディはスペインあるいはポルトガルに住んでいたユダヤ人である。彼らはラディノ語を話し、「世間ずれしていて物わかりがよくコスモポリタン(国際人)である。彼らは例えば商人、医者、高利貸し、哲学者、王やキリスト教司祭のアドヴァイザーとして器用に立ちまわる」。

 それに対して、アシュケナジはドイツや東欧に住み、イディッシュ語を話す。「彼らは行商人、農奴、プロレタリアであり、赤貧洗うがごとき生活を送り、信仰においては原理主義者、正統派の伝統を固守し、救世主を熱望し、その到来を夢みる。信仰心が篤く、神に対する無限の愛があり、屈辱と迫害にじっと耐える」(「」内はユダヤ学の研究者ロステン)。第二次世界大戦前までは世界のユダヤ人の90%がアシュケナジであった。今では50%をわずかに上回る程度にすぎない。

 この間、ユダヤ人は、ほとんどどの時代にもそしてまたどの国に住みついても、排除され、差別され、そして迫害された。スファルディもアシュケナジも共に迫害された。その理由として、「しかし、ユダヤ人は、『キリストを売ったユダの子孫=キリストの殺外者』というレッテルを貼られ、その後のヨーロッパを支配したキリスト教国社会で絶えず、蔑視され、迫害され続けて来た」とされている。

 亡国の民となったユダヤ人は、土地の所有は禁止され、頭に三角帽子をかぶされるという虐待を受けた。やむなく当時賎業とされていた裏稼業的商業や金融業につかざるをえなかった。「これは、当時のキリスト教義が清貧を重んじ金銭を取り扱うことを卑しいこととしていたことと関係していた。キリスト教義を信奉する国家の民は金銭の取り扱いを罪悪視し、そうした賤業にユダヤ人を就けることでいわば共存する仕組みを構築していた。こうして、中世期を通じて長く差別と迫害に苦しめられることになった」とされている。 

 しかし、そういう理解は浅薄なように思われる。ユダヤ人は、ローマ帝国なき後のヨーロッパ秩序を回復したカール大帝(在位768〜814)の保護下で、商人として東西貿易に活躍した。カール大帝以後のカロリング諸王のもとでも、被保護者の立場にあった彼らは、国王の商人の名の下に、特別な保護を受けている者もいた。単に商人としてのみならず、国王や軍隊の水先案内人、物資の調達者として軍隊や軍需物資の輸送などに従事し、王に忠誠を誓い、見過ごしがたい重要な役割を果たした。カロリング王朝下で、異教徒のキリスト教への強制改宗の試みはあったものの、ユダヤ人は聖書の民として特別な保護も受けていたし、中世初期から10世紀は概してユダヤ教徒とキリスト教徒間には共存できる寛容さも存続していた。



【キリスト教の隆盛、国教化、教皇権力の確立】
 この間、キリスト教が西欧精神の支柱として発展していった。当初は迫害されていたキリスト教が世俗国家の統治イデオロギーとして昇格し国教化されていくことになる。並行して教皇権力も生み出されていくことになる。

 180年、新約聖書成立する。聖書の中に、「父(神)」、「子(キリスト)」、「精霊」が併記された。しかし、「キリストは神か人かを廻る論争」が続く。380年、キリスト教がローマ帝国の国教となる。381年、コンスタンティノープル公会議で三位一体の教義が確定する。

 注目すべきは次のことである、383年、ローマ帝国下で、ユダヤ教が法的に禁じられている。392年、ローマ帝国テオドシウス大帝(在位379〜395)下で、キリスト教はローマ帝国唯一の合法宗教たる国教にまで高められ(「ローマ帝国でキリスト教が国教になる」)、異教禁止令が出され、すべてのローマ人はキリスト教信者の受容を強制されるようになった。

 このことは、ローマ帝国がユダヤ教の取り扱いに如何に悩ませられてきたかを物語っている。いわばユダヤ教対策としてキリスト教が採用され、国教化したことを証左している。「キリスト教の政治的勝利」は、このセンテンスで理解されねばならない。これによりユダヤ人は法的な差別や制限を受けざるを得なくなった。「この時から、それまでキリスト教徒を迫害してきたユダヤ教徒が、逆に迫害され始めた。当時キリスト教の神学に、ユダヤ人はイエス・キリストを殺した民であって、その罪ゆえに彼らは離散の呪詛を永遠に背負わなければならないのである、との解釈が生じた」とされている。


【イスラム教の広まりと異教徒共生政策】
 638年、ムハンマド(マホメット)の興したイスラム教が爆発的に拡がった。エルサレムもイスラム教徒の支配下におかれ(イスラム帝国・A.D641〜A.D1517)、パレスチナは以降、十字軍時代の約百年を除き、1917年に英国が占領(後に委任統治)するまで、イスラム教徒サラセン軍が支配した。

 この間、パレスチナには多様な民族が共存していたことになる。それは、イスラム帝国の治世方針として異教徒を容認していたことによる。ユダヤ人はメソポタミア各地にユダヤ人社会を形成し、彼らはイスラム教の太守から自治権を付与され、9〜10世紀にはバグダッドだけでも4万人のユダヤ人が暮らし、平和にイスラム教徒と共存していた。

 「暗黒の中世史」を通じ、ユダヤ商人は次第に富裕になり、王侯貴族や教会権力中枢に食い入っていくことになった。但し、不正の手段によってではなく商能力の高さによってそうした関係を創って行ったとみなすのが穏当であろう。この頃よりユダヤ人の能力の高さが認められ、諸分野に次第に社会進出し始めていくことになる。


【十字軍遠征の影響とユダヤ人ゲットー社会の形成】
  1095年、当時の法王ウルバヌス二世がキリスト教徒に対して聖地の奪還を訴えかけた(クレルモン会議で十字軍を宣布)。こうして十字軍遠征がが始まることになる。1096年、第1回十字軍。1099年、第1回十字軍がエルサレムを占領し、エルサレム王国樹立する。十字軍遠征は1291年まで続き、西欧社会に大きな社会的経済的変化をもたらすことになる。

 十字軍遠征はその後の世界史に重要な意味を及ぼすことになる。異教徒に対する戦いという異常な宗教的情熱意識による「キリストの聖地を取り戻そう運動」は、ユダヤ人の精神世界をも覚醒させていくことになる。キリスト教徒十字軍は、「キリスト殺しのユダ公」として憎しみの対象でしかなかったユダヤ人にも襲い掛かる。その最初の犠牲者となったのがライン川沿いの古都に居住していたユダヤ人であった。「改宗しようとしないユダヤ人の根絶(アウスロツトウング)」と言う思想が初めて現れた。これ以後、西欧ユダヤ人の迫害史が正式に開始されることになる。

 ユダヤ人を社会からすべて隔離し、絶交しようとする動きが見られていくことになった。十字軍によるユダヤ教徒迫害は次第に激化して行き、ゲットー成立の重要な背景になって行った。キリスト教の理論化が浸透するに従い、「キリストを殺した者達=ユダヤ人」という感情が醸成されるようになった。中世から近世にかけて「聖体冒とく」(キリストの聖体、ホステイアを盗んで冒とくすること)と「儀式殺人」(ユダヤ教徒が儀式のために、キリスト教徒の幼児をさらって生き血を吸う)のデマがまともに受け入れられるようになってゆくのも、十字軍のまっただ中である12世紀中頃からである。その背景には、単にキリスト教徒の宗教的偏見という理由のみならず、ユダヤ人の富裕に対する「嫉妬」もあった。

 13世紀頃
中世ドイツにおけるユダヤ人の処遇は興味深い。ドイツ国王は、「キリスト殺し」のレッテルを貼られたユダヤ人に対して、特別に保護している。ユダヤ人は、その代償として種々の納税義務を果たした。それは、しばしば迫害に遭う弱い立場のユダヤ人とドイツ国王との取引でもあったように見受けられる。分裂した領封体制下でのドイツの国王にとって、全ヨーロッパに四散していたユダヤ人の国際通商能力、経済力は重要な収入源となったし、ドイツ全体のユダヤ人を自らの直接の保護下におくということは、国王の権威を全ドイツに知らしめる上でかっこうの論拠となり、更に実益にもなった。

 13世紀にはいると、国王の意に反してユダヤ人はドイツを去ることが出来なくなっていった。ハプスブルク王家出身のルドルフ1世(在位1273〜91)は自分の許可なくして聖地パレスチナへ移住しようとしたユダヤ人を重罪に処し、彼らの財産もすべて没収している。その論拠は、すべてのそして個々のユダヤ人は王庫の”下僕”として、その人物、財産ともにすべて国王一人に属するというものであった。

 こうしたドイツ国王のユダヤ人に対する特別保護、徴税権は皇帝特権の一つとなった。そればかりか、財政難に陥った国王はユダヤ人に対する徴税権を抵当に入れ、借金をすることも常のようであった。そして、もともと国王の特権であるユダヤ人保護、徴税権は、王権の動揺や財政窮乏下で次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。

 その後のユダヤ人に対するキリスト教徒の差別は過酷で、服装を「とんがり帽子やマント、頭巾」を義務づけされたのも、その当時であるし、ユダヤ人が公職に就くことを禁止したのもその当時である。そして、ユダヤ人を決定的な孤立へと陥れるもう一つの取り決めがあった。

 それは、キリスト教徒間での利息を伴う金の貸し借りを破門を持って厳格に禁止したことである。しかし、教会法の対象外となるユダヤ人は、堂々と利息を取って金を貸すことができた。すでに職人組合ギルドから締め出され、店舗を構えて商売もできなくなり、国際商取引も大幅に制限されたユダヤ人は、教会法に拘束されなかった金貸し業や両替商に活路を見いださざるを得なかったのだ。そして、キリスト教で言う”隣人愛”に反する金貸し業を営むユダヤ人はますます孤立に追い込まれるに必然であった。それ故、15世紀後半にゲットーに閉じこめられるのを待つまでもなくユダヤ人の隔離は現実化していった。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照)



【キリスト教国家のユダヤ人追放、改宗、虐殺政策】
 1290年、ユダヤ人のイギリス追放。1322年、ユダヤ人のフランス追放。1492年、ユダヤ人のスペイン追放。以下「ユダヤ人問題」より転載。711年から約500年間に亘ってスペインはイスラム教徒の支配下にあった。この時代にバビロニアにいたユダヤ人の多くがスペインに移住してきた。ここで彼らは比較的平和で自由な生活を享受することができた。イスラム教徒にとっては、ユダヤ人がキリストを殺したことは何の意味も持たなかったので、ユダヤ人に対して寛容だったのである。しかしイスラム教徒の支配が終わり、キリスト教徒の支配が始まるとスペインにおいても迫害が始まった。

 キリスト教徒はユダヤ人にキリスト教への改宗を迫った。改宗したユダヤ人は「マラノ」と呼ばれたが、これはスペイン語で「ブタ」あるいは「汚れた人間」を意味する。キリスト教徒たちは、彼らが本当に改宗したかどうかを確かめるために、異端審問を開始した。トマス・デ・トルキエマダは大審問官として異端審問で猛威をふるった。彼は2000人のユダヤ人を殺し、10万人のユダヤ人を投獄し、拷問させた。異端審問はスペインで300年以上続いた。1480年にはユダヤ人はゲットーに閉じこめられ、その12年後にはスペインから追放された。

 彼らが追放されたのはスペインからだけではなく、イギリス、フランス、ドイツなどでも同様であった。それで16世紀には多くのユダヤ人がコンスタンチノープルやポーランド、そしてアムステルダムに移住した。コンスタンチノープルに移ったのはその宗教がイスラム教だったからである。ポーランドに移った理由は、時のポーランド王が、モンゴル軍の侵攻によって荒廃した国土を復興するため、ユダヤ人(特にスファルディ)の高い文化・知識を必要として、ユダヤ人を保護・優遇したからである。またアムステルダムに移住した理由は、そこの宗教がプロテスタントであったため、カトリックほど反感が強くなかったこと、さらに国際都市であったため、人々がコスモポリタンとして寛容であったからである。

 一般論としては、カトリックがユダヤ人に対して一番過酷で、イスラム教とプロテスタントはより寛容であった。さらに寛容ないし友好的であったのは、啓蒙主義と自由主義であった。18世紀にボルテールとルソーの影響のもとに、ユダヤ人の解放運動が起こった。これとフランス革命のお陰で、西ヨーロッパのユダヤ人たちは国籍を取得することさえできるようになったのである。

 1348年、〜50年まで、全ヨーロッパでペストが大流行した。これに伴うユダヤ人虐殺が発生している。「理由の分からない災厄がヨーロッパに起こると、いつもスケープゴート(犠牲)にされるのはユダヤ人であった。スイスではあるユダヤ人が拷問に耐えかねて、井戸に毒を投げ入れたと自白を強要された。この噂はただちにヨーロッパ中に広がり、様々な地域で何千人というユダヤ人が虐殺された。例えばフランスのストラスブールでは約2000人のユダヤ人が生きたまま焼き殺された。ドイツのマインツでは6000人が殺されたが、ヨーロッパ全体で何人くらいになるのかは分からない」。


【キリスト教、ユダヤ教、イスラム教鼎立時代】
 1517年、オスマントルコ帝国のパレスチナ支配が開始され、他の中近東諸国と同じくイスラエルの地は16世紀以降オスマン・トルコの支配下に入った。

 1521年、ルターが「キリスト者の自由」を刊行。新約聖書をドイツ語訳する。1529年、ルター派が第2回シュバイヤー会議で信教の自由を取り消され、抗議文を提出。プロテスタントの始まり。

 1534年、英国王ヘンリー8世がカトリック教会の勢力挽回に貢献。ヨーロッパ各地で宗教戦争起こる。1559年、イギリス、統一法で英国国教会が成立。

1558  アンリー4世がナントの勅令で、新教徒に信仰の自由を認める。
1560  ヨーロッパで宗教改革の波。カルバン派が長老会議を取り入れる。
1611  イギリスで、欽定訳聖書。
1618  30年戦争起こる。
1624
 イタリアでゲットーの設置。
1685  ナントの勅令廃止。

 この頃ヨーロッパに散ったユダヤ人はゲットーと呼ばれるユダヤ人集落を各地に作っていた。フランクフルト、オックスフォード、ウィーン、ブタペスト、マドリード、ローマ、ナポリその他26地域に散在していた。フランクフルトのでゲットーは、15世紀頃に成立した。キリスト教絶対社会にあっては、ユダヤ教徒たるユダヤ人は社会の表舞台に登場することが出来なかった。許されたのは金融業その他科学ないしは芸術家的な専門分野であり、シェークスピアの「ベニスの商人」はその辺りの様子を活写している。「ベニスの商人」では、ユダヤ商人シャイロックが「強欲な金権万能主義者」として描かれているが、これが一般的に定着しているユダヤ人像である。

 ユダヤ人の置かれたこの状況が、産業革命の進行と共に変化を蒙ることになる。フランクフルトゲットー内での住人3000名の内4家族のうち1家族が富裕ユダヤ人となっていった。そうした富裕家族の中で、ロスチャイルド家をはじめとする54世帯は、一万グルデン以上(3000グルデンでおよそ、1億数千万と思われる)の財産を持つ大金持ちとなっていった。つまり、ゲットーの11%に近い住人が、大金持ちに属していたことになる。当時のフランクフルト市の人口3万7000〜3万8000人における市民の富裕階級と貧しい庶民の数を、ゲットーのそれと比較して考えると、いかにゲットーに富裕階級が多かったかが明らかとなる。

 ユダヤ人社会に胎動したこの活力がやがて社会改革に向かわせることになった。フランス革命前の啓蒙思想や解放運動の主体としてユダヤ人が頭角を現していくことになった。迫害とそれに抗する能力の高さ−これが当時のユダヤ人の特質となった。


【イタリアルネサンスが西欧を洗う】


【フランス革命】
 1789年、フランス革命勃発。 西欧は、自由、博愛、平等を詠ったフランス革命以降、近代社会を開花させた。この流れは長い間封建制社会の下で苦しめられてきたユダヤ人の社会的政治的地位の上昇をもたらすことになった。この時、ユダヤ人は二つの選択肢の岐路に立った。一つは、それぞれの国の国民として同化の道を辿るべきだとする道であり、これが大勢となった。これは、ユダヤ人は民族としては最早存在せず、ユダヤ教を精神のあり方を律する宗教としてのみ受け入れ、それぞれの国の中に同化し、その国の市民として平等の権利を享受しながら、その国家に貢献する道であった。

 ユダヤ人の同化運動の系譜から社会主義思想が生み出されていくことになり、労働運動と結合することにより社会の根本的変革思想へ辿り着いたのがマルクス主義とみなすことができる。この思潮及び運動が19世紀から20世紀にかけての主流となっていく。

 もう一つの道は、シオニズムであった。ユダヤ人の悲哀を民族国家が無いことに求め、その根本的解決の道としてユダヤ人の独立国家の建国を目指すべきだとする。そこで白羽の矢が立てられたのは古代ユダヤ王国が在った聖地カナーンの地であった。当時パレスチナと云われており、ここに人工的にイスラエル国家をつくろうとした。これがシオニズムであり、この流れが「パレスチナ問題」を発生させていくことになる。


【民族国家確立時代と戦争政策】

1798  フランスの皇帝ナポレオンがエジプトに遠征。エジプト全土を支配下に置く。目的はイギリスと当時イギリスの植民地だったインドとの間に楔を打ち込む為だった。
1805  マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長モハメッド・アリが、ナポレオン遠征の混乱に乗じエジプト総督に就任、1811年に支配権を確立し事実上の独立を果たす。アリはフランスの援助を受け、エジプトの近代化と富国強兵策を進める。
1830  フランスがアルジェリアを支配。
1869  フランスの指揮のもとスエズ運河が開通し、地中海とインド洋を結ぶ要となった。
1870  バチカン公会議、教皇不謬性を宣言。
1875  エジプトは財政難のためスエズ運河会社の株(全て!)をイギリスに売却、イギリスがスエズ運河株式会社の株を買い占め、支配者となった。
(解説)
 
こうして、スエズ運河は、エジプトのなかにありながら主権の及ばない地域となった。その背景にはイギリスの植民地政策があり、インドへの最短通行の確保の為に運河の安全を確保したいという狙いがあった。その他、メソポタミア北部に発見された油田からのパイプラインの出口として地中海沿岸の権益を確保するという事情があった。

 この頃、燃料が石炭から石油に切り替わる移行期であり、石油の確保が植民政策の重要な柱になりつつあった。19世紀の後半になると、ヨーロッパ列強諸国が、世界中を植民地化しようと、触手をのばし始める。
1876  エジプトの国家財政は破綻しイギリス、フランスなどの欧州各国の財政管理下に置かれることになる。
1880  1880−1925年の間にアメリカへ400万人のユダヤ人が移住していった。
1881  フランスがチュニジアを占領。
1881
 〜84年まで、ロシアとポーランドでポグロム(ユダヤ人の大量殺戮と略奪のことをロシア語で「ポグロム」という)発生。

 この事件の原因は皇帝アレキサンドル二世の暗殺事件で、実行した革命集団に一人のユダヤ人女性が関与していたことによる。ポグロムは4年間続き、襲われた地域は100カ所を越えた。ロシア政府はポグロムを抑え込むどころか、数万のユダヤ人を虐殺する民衆に経済的支援さえ与えている。政府は、ポグロムが、圧制への民衆の不満のはけ口になることを望んでいたためである。ロシアおよび東ヨーロッパではくり返しポグロムが発生し、その厳しさから逃れるため、1881年から1914年までの約30年のうちに、200万人を越えるユダヤ人が主としてアメリカに移住した。
1882  イギリスがエジプトを支配。
1891

 英・仏の内政支配に我慢ならなくなったエジプトの軍人アラビ・パシャ率いる軍が蜂起。イギリスが単独でこれを鎮定、イギリスはこれを口実(?)にエジプトを「保護国」とし、支配することになる。



シオニズム運動勃興
 1894年、フランスのユダヤ人将校フランス軍大尉ドレフェスが、ドイツに軍事機密を売り渡したとのスパイの嫌疑のぬれぎぬを着せられ、裁判にかけられるという事件が起こった(「ドレフュス事件」)。スパイ容疑の冤罪事件であったが、当初終身刑、後無罪が確定した。 フランスでは世論を二分する大論争が起こった。ドレフュスを擁護したのは進歩的な政党で、作家のエミール・ゾラや後の首相クレメンソーがこちらの陣営についた。反対の立場にあったのは反ユダヤ主義的な保守政党であった。

 この事件は、フランス革命以降ユダヤ人の解放が各地で達成されつつあると考え国々での同化を目指していたユダヤ人の間に危機意識を募らせた。この頃東欧ユダヤ人の西欧流入が起こっており、新たな社会問題を発生しつつあった。これが、西欧での反ユダヤ主義り新たな契機となっていくことになる。

 1896年、当時パリで働いていたハンガリー出身のユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツェルが、ドレフェス事件の衝撃もありユダヤ人問題解決のための唯一の道は、ユダヤ人の独立国家の創設である、と考えるにいたった。「ユダヤ人国家」を出版し、聖書の記述「私はこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで」(聖書・創世記第15章)に基づく、ヤダヤ人国家の建設を提唱した(「ヘルツェルのシオニズム運動の始まり」)。テオドール・ヘルツェルは、「シオニズムの父」と称えられている。

 シオニズムとは、エルサレムにある小さな山の名前シオンから派生している。旧約聖書には、パレスチナを
約束の大地」、「乳と蜜の流れる地」と書かれており、国家を持たないユダヤ人にとってパレスチナは“回帰すべき安住の地”という認識を生み出していくことになった。
 1896年、【テオドール・ヘルツェルの提唱に基づくシオニズム(ユダヤ民族祖国再建運動)始まる

 シオニズムとはユダヤ人の民族主義運動で、パレスチナの地にユダヤ民族国家の再興を目指す政治的運動であった。このシオニズムは、これによりパレスチナへのユダヤ人入植が拡大、アラブ人との衝突が始まった。これが今のパレスチナ紛争の直接の起源となる。

 シオニズムのシオンとは、聖地エルサレム南東にあるシオンの丘の名から命名されていた。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどる「旧約聖書」の記述中の<シオンの地>は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ教にとって解放への希求と合わさって象徴的意味を持っていた
 


【第1回世界シオニスト会議】
 1897.8月スイスのバーゼルで第1回世界シオニスト会議が開催され、政治的シオニスト運動の国際組織「世界シオニスト機構」が創設された。「公法で保証された(世界が承認し合法的な)ユダヤ人のホームランドをパレスチナに創設すること」が宣言された。以降、「土地無き民に民無き土地を」プロパガンダが喧伝されていった。イスラエル建国前は現在のイスラエルのある地域全体をパレスチナと呼び、長い間イスラム教徒によって治められていた。ユダヤ人も少数ながらキリスト教徒と共にイスラム政権下のもと共存していた。第一次世界大戦以前、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン トルコの領土だった。当時オスマン トルコの弱体化により、西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めていた。エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するというのは十字軍のとき以来のキリスト教徒にとっての悲願であった。そこにユダヤ教徒も祖国再建運動で参入することになった。








 

 
(解説)
 
1898  シオニズム計画実行の経済的支援の為のユダヤ殖民信託が設立された。
1901  シオニズム計画実行の経済的支援の為のユダヤ民族基金が設立された。
1904

 英仏協商が締結。イギリスはフランスをエジプトから追い出す。

1905
 ロシアでユダヤ教徒の陰謀計画書「シオンの議定書」出版される。但し、真偽は今も未定。
1905  〜06年、東ヨーロッパでポグロムの嵐。
1914  第一次世界大戦勃発。
 この時、パレスチナを支配していたオスマン・トルコ帝国が、ドイツ・オーストリアの同盟国側につき英国やフランスと戦うことになった。シオニズムの意向を受けたイギリスはオスマン帝国の後方撹乱をねらい、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)での反乱を起こさせた。オスマン・トルコの領土だったアラブ地域で、イギリス、フランス両軍とオスマン・トルコの間で戦闘が繰り広げられた。
1914  第一次世界大戦下において、イギリスはスエズ運河防衛を大義名分に掲げ、またもやエジプトを保護国だと宣言する。
1915.10 【「フセイン・マクマホン協定」】
 英国のエジプト・スーダン高等弁務官・ヘンリー・マクマホン卿とメッカの守護職(シャリフ)ハーシム家のフセイン間で書簡が遣り取りされた(1915.7〜1916.1)。英国は、アラブ人がオスマン トルコとの戦いへ協力する見返りに、勝利した暁には「アラブ人の独立を承認し支持する用意がある」として東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)及びアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束した。

 つまり、アラブに対しパレスチナでのオスマントルコ支配からの独立を約束したということになる。そのアラブの独立領土には当然パレスチナが含まれていた。しかし、この約束はイギリス出先機関が結んだもので、ロンドンの英国政府の保証は無かった。
1916.5月 【「サイクス・ピコ協定」】
 英国は、仏、ロシアに対しても「サイクス・ピコ協定」を結び、 イギリスとフランス、ロシアは、戦後に東アラブ地域(シリア・パレスチナとメソポタミア)を三国で分割する条約を秘密裏にかわした。「北部パレスチナを含むシリアの大部分に対するフランスの要求を認め、エルサレムを含む南パレスチナを国際管理下に置く」という秘密協定であった。つまり、オスマントルコに勝利した後の「遺産ぶんどり」協定であり、戦後アラブの独立を承認していた先の「フセイン・マクマホン協定」を空約束にするものであった。
1916.6月  オスマントルコに対するアラブの反乱が開始された。
1817  イギリス軍、エルサレム入城。
1917.11.2 【「バルフォア宣言」】
 他方、英国のアーサー・バルフォア外相が、ユダヤ人の有力者にしてイギリス・シオニスト連盟会長のエドモンド・ロスチャイルド卿宛に、「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人のナショナルホームを設立を支持し、努力する」事を確約する書簡を出した。これが「バルフォア宣言」と呼ばれるものであり、第一次大戦時のユダヤ人の支持と協力を求めてパレスチナでのユダヤ人国家建設支持を表明した。以降、イギリスは、ユダヤ民族郷士(ナショナル・ホーム)の建設の後ろ盾となった。「バルフォア宣言」は、シオニスト運動を大きく前進させた。

 この宣言の背景には、当時ヨーロッパに散在していた300万〜400万人のユダヤ人に「民族的郷土」を与え、「イギリスの忠実なユダヤ人国家をエジプトやスエズ運 河の近くに設置する」(ハーバート・サムエル初代パレスチナ高等弁務官)というイギリス帝国主義の目標が秘められていた。これにより事態はますます複雑化した。

(解説)
 第一次世界大戦中、英国は自国に有利にことが運ぶように以下のような三枚舌外交を展開した。今日の複雑な中東情勢をつくりだしたもとは、第一次世界大戦中の英国のこの三枚舌外交に発し、戦後、実際には英国が同地域を植民地支配し、ユダヤ人入植を促進させたというアラブ人愚弄政策から始まる。

アラブ人への約束 フセイン・マクマホン書簡で、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島でのアラブの独立、王国建設を支持する事を約束し、オスマントルコに対して反旗を翻させた。
ユダヤ人への約束 バルフォア宣言で、ユダヤ人の協力を得るために「英国政府がパレスチナでのユダヤ人の民族郷土を建設を支持し、努力する」事を約束した。
フランスへの約束 「サイクス・ピコ協定」を結び、 イギリスとフランスは、戦後に東アラブ地域を両国で分割する条約を秘密裏にかわした。

 つまりイギリスは、パレスチナのトルコからの独立を廻って、同じ札をフランス、アラブ、イスラエル三者に出したということである。これが現在のパレスチナ、イスラエルの争いの出発点となった。イギリスの目的として、当時の世界史的情勢から石油利権の確保も含めパレスチナ地域の確保が必要だったという事情があった。

 この当時のパレスチナ地域の人口は、アラブ系65万人、ユダヤ系5万6000人。
1918 【イギリスとフランスが、アラビア半島を分割支配】
 第一次世界大戦が終わった。イギリスとフランスは、アラビア半島を両国で分割した。
イギリス イラク北部の一部地域、中部、南部、ヨルダンを統治圏とした。後にパレスチナも手に入れた。
フランス イラク北部、シリア、レバノンを自国の統治、勢力圏に編入した。
(解説)
 第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、英国はその三枚舌外交、アラブ人愚弄政策の代償を払わなければならなくなる。約束が違うと怒るアラブ人の大反乱が起こり、なお第一次世界大戦終了後からユダヤ人移民がパレスチナへ大量流入し続け、各地で紛争が止む事が無かった。
1918 【アラブ臨時政府の樹立】 
 ワフド党による独立運動が起こり、メッカの大守フセインの3男ファイサルはロレンス(アラビアのロレンス)とともに、1918年ダマスカスを攻略すると、アラブ臨時政府を樹立した。

【アラビアのロレンス考】

 英国の特務機関のロレンスの物語(アラビアのロレンス)は、アラブ人の利用を廻ってこの波間で翻弄されたそれである。アラビアのロレンスは、ウェールズ生まれのイギリス人、トマス・エドワード・ロレンス(1888〜1935)のことで、第一次世界大戦中「アラブの対トルコ独立運動を指導した英雄」として名を残している。

 第一次大戦時代、ロレンスの中東経験が買われ、カイロの英軍司令部に情報将校として勤務する。1916年6月、イスラムの聖地メッカの太守フセイン(フサイン)がイギリスとの約束を信じてトルコへの反乱を起こすと、両者間の連絡将校を努める一方、17年3月以降、アラブ不正規軍を指揮、フセインの息子ファイサルの北部軍に加わって、18年10月、トルコ軍の中東司令部のあったダマスカスに入城した(軍人、ゲリラ指導者としてのロレンス)。

 しかし、ロレンスは、親アラブだった事実にもかかわらずシオニスト運動に対する態度にも好意的で、「ユダヤ人がアラブ人に大きな助けとなり、パレスチナにおけるユダヤ人の郷土はアラブ世界に多くの利益をもたらす」と言う理想的なものであった。1919年初め、イギリス政府の親シオニスと政策に抗議するあるグループに対して、「反シオニストはイギリスの国益に沿わないため、自分は反シオニスト集会には出席しない」との抗議の書簡を送っている。つまり、英国の国益を何より優先させていたということが判明する。

 ロレンスは国益に奉仕する愛国者、言い換えれば、英帝国主義の忠実な先兵であった。第一次世界大戦末期、イギリスの”三枚舌外交”が明るみにでてアラブ軍は動揺した。このとき、アラブ側が対英不信から、トルコへの兵を収めてしまっては一大事だから「勝までは彼らをだまし戦わせ、勝った後で裏切るしか道はなかった」と語ったのは他ならぬロレンス自身であった。すなわち彼はアラブのためでなく、終始祖国イギリスのために戦ったと云える。

 彼は、アラブの中世期における大帝国建設の歴史には全くの無知であり、、アラブは軽薄で、政治的未熟であり、自治能力にかけると言う、一見差別的な眼で見ていた観がある。だから、ロレンスは「英国統治下での自治領を築くべきだ」と考えていた不死がる。

 1921年3月、チャーチル植民地相が中東専門家を召集してカイロ会議を開いたとき、ロレンスは彼の特別顧問として参加し、第一次大戦後の中東政治地図の作成に重要な役割を果たしている(官僚、政治家としてのロレンス)。ちなみにロレンスは、終戦後間もない頃からアラブの反乱の記録「知恵の七柱」の執筆を始め26年の12月、限定版として出版している(作家としてのロレンス)。

 その様なロレンスを「英雄」に仕立てたのは、1918年4月、パレスチナ戦線を取材した従軍記者ローウェル・トマスだ。彼は帰国後、ロレンスを主人公とした映画と後援会「アラビアのロレンスと共に」を催して大当たりをする。彼はこれを見たイギリスの興行師に招かれ渡英するが、1ヶ月の予定が4年にも及びロンドンだけで100万人もの観客を動員した。こうしてロレンスはトマスによりイギリスの国民的英雄になった(つくられた英雄としてのロレンス)。

 要するに「アラビアのロレンス」とは、西洋人が西洋でつくった西洋向けのお話の主人公で、そこでは反乱の主体であるアラブの存在が当然のことながら無視されている。アラブの視座から見れば、ロレンスとは「祖国とアラブとの間で悩む悲劇の人」ではなく、チャーチルの指令に忠実に従ってパレスチナをユダヤ人に与え、アラブ世界を分割する政策に協力した、英帝国主義の先兵に外ならなかった(帝国主義者としてのロレンス)。

 この政策が、今世紀における最大・最長の地域紛争の記録を持つアラブ・イスラエル紛争の原因になったのだから、その「種まき」の一人になったロレンスの責任は重い。しかし、中東を離れてからオートバイにより事故死するまでの13年間における彼の奇怪な行動は何を物語るか。彼は仮名を使って一兵卒となり、最後には戸籍を抹消し、トマス・エドワード・ショーとして死んだ。ロレンスという虚名を恥じての行動としか思われない。しかし、現在でも彼は西洋人を引きつけてやまぬそうだ。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) 

 第一次大戦後の中東の石油利権をめぐって、英米は対立する。米国は現地勢力のうちサウド家を援助したが、英国は現地諜報員トマス・E・ロレンス大尉(いわゆる「アラビアのロレンス」)の進言に基づきハシム家を推して、両者は死闘を展開。結果は「ロレンスが負け」サウド家が勝ってサウド家のアラビア、サウジアラビア王国が誕生した。

1919  世界シオニスト機構の代表団がパリ講和会議に参加し、国際的正統性を高めた。
1920.4 【サンレモ会議】
 イギリスとフランス及びロシアの第一次世界大戦戦勝国間で、敗戦国となったオスマントルコ領を分割する協定を結んでアラブ独立の約束を反故にし、イギリスがイラクを委任統治する、パレスチナを国際連盟の委任統治領として自らが委任統治権獲得すること等を決定した。
1920  パレスチナ・アラブの反英・反ユダヤ闘争起こる。
1920  アラブ臨時政府がフランスの攻撃によりダマスカスより追放され、シリアはフランスの統治下に入った。この時フセインの次男アブドゥラーはシリアへ向けて進軍したが、途中イギリスの妥協案ーイギリス委任統治領となったパレスチナの東半分、つまりヨルダン川以東をアブドゥラーの領土とする事を提案した。アブドゥラーはこの案を受け入れ、パレスチナのヨルダン川以東は、トランス・ヨルダン首長国となり、アブドゥラーが初代首長となった。こうしてイギリスの委任統治領として現在のイスラエル、パレスチナの領土が決定された。
(解説)
 イギリスの委任統治30年の間、パレスチナはイギリス帝国主義の庇護を受けたユダヤ人の参入が続いて行くことになった。
ユダヤ人は『ナショナルホーム』の樹立を目指し。パレスチナに入植し国家建設の礎を築き始めた。そのため、パレスチナの小作農は排除され、同地域の不在地主達も土地を売却迎合した。パレスチナに入って来たユダヤ人は、ヨーロッパ、ロシアでのポグログ(ユダヤ虐殺)やナチ・ドイツのユダヤ人撲滅の被害者たちであったが、パレスチナではアラブの民を追い払う加害者として立ち現れた。

 
ヨーロッパからパレスチナへの移民は、20世紀に入り急増した。1930年代にはパレスチナのユダヤ人口は16万人に達した。土地所有規模も1920年代に約2倍に拡大した。
1922

 イギリスが保護権廃止を宣言、形式上エジプト王国が成立する。1936年、エジプト・イギリス条約により、ほぼ完全な独立を達成することになる。

1925  エルサレムにヘブライ大学が創立された。
1929  ラテラン条約で、バチカン市国の独立が確定。
1929  パレスチナにおいてユダヤ人を公式に代表するユダヤ機関が創設された。
1933
 ヒトラー政権の誕生。ユダヤ人への組織的迫害政策が強まり、大量のユダヤ人がドイツから流出。
1930年代後半  英国は、アラブの弾圧と共にシオニストへの牽制策もとる。ユダヤ人の英国への信頼失墜。
1937  イギリスが、アラブとユダヤの二国家建設を促すパレスチナ分割案を提唱する。
1938  水晶の夜。
1939  アラブ人多数派の下での単一国家構想打ち出される。
1939  イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の土地購入の制限や5年間の猶予を設け、その後はパレスチナへのユダヤ人移住を停止させる計画を発表。しかし、ユダヤ人はこれに反発する。次第に新米化していくことになった。
1939.9  第二次世界大戦開始(45年8月集結)ドイツがポーランドの西半を占領、新たに20万人規模のユダヤ人がドイツの支配下に組み込まれた。「ホロコースト」の始まりとされており、ユダヤ人のパレスチナ移住が加速した。
(解説)
 ナチズムの台頭とともにアメリカ・イギリスが移民の流入を制限したことから、パレスチナへの移民はさらに数が増した。当然のことながら、こうしたシオニスト・ユダヤ人と土着のパレスチナ人との抗争は次第に激化した。1936年から39年までパレスチナ人の大反乱が続いたが、当時のイギリスの軍隊の3分の1を投入してやっと鎮圧されたほどだった。
 イスラム教の最高指揮官ハジ・アミン・フセイニはユダヤ人入植への反対運動の先頭に立つ。しかしシオニズムとシオニストの入植を可能にしているイギリスへの抵抗は失敗。→イラクへ亡命。反イギリス運動失敗→ドイツへ亡命。
 ナチスの勝利によって戦後世界の同情がシオニストに集まる。シオニストは戦勝後に予想されたパレスチナをめぐるアラブとの衝突に備えるため、ユダヤ人部隊の創設を求める。
 アメリカが参戦
1942.5  アメリカが参戦した翌年、全米のシオニスト組織の代表がニューヨークのビルティモアホテルで会議を開いた。そのとき「ビルトモア綱領」が採択され、戦後にパレスチナ地域へのユダヤ人国家の樹立を求めることとなった。パレスチナへの移住と土地取得の自由が謳われ、これが世界シオニズム運動の公式綱領となった。
1946  米英合同委員会が現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人難民10万のパレスチナへの即時受け入れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵抗は必死として反対した。ベバンは「アメリカはユダヤ人を入国させたくないのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。
1947  死海文書発見される。
1948  第一次中東戦争、イスラエル建国。




(私論.私見)