失語症時代考 |
(最新見直し2012.5.14日)
れんだいこが思うのに、2008年現代の日本の思想的情況は、実際にはもうかなり前からなのだろうが、明らかに失語症時代に入っているのではなかろうか。特に、左派戦線のそれが酷い。否、右派戦線はさらに酷く、戦前型の国粋主義は見る影もなくほぼ完全に潰えている。御用イデオロギーまでもが支離滅裂しており酩酊している。 代わりに台頭しているのがネオシオニズムイデオロギーであり、その思想、学問である。これ一色と云って過言でない思想情況にある。れんだいこが見立てるところ、我が国の支配層である政財官学報司警軍八者機関の上層部はネオシオニズム秘密結社にサインアップしたイカレポンチどもばかりで占められている。れんだいこが執拗に咎め続けている強権著作権思想も彼らが導入しているものであり、これにより彼らの権益と犯罪を隠匿する為に役立てられている。 ネオシオニズムに被れると、ネオシオニズムの指令を第一に御用聞きする事になるからして必然的に政治が売国奴化することになる。これに伴い支配層のモラルハザードが進行することになる。この原因による腐敗が次から次へと露呈している。にも拘らず、今現在これを糾す集団的圧力が存在せず、為に底なしの汚職、インサイダー利権が浸透しつつある。かくして実にケッタイな時代になってしまった。このところ世間にかっては考えられないような変な犯罪が次から次へと発生しているが、まさに時代の鏡であると云えよう。 こういう社会事象は、日本左派運動(人民大衆運動と云う意味で使っている)の衰退と共にやってきた。してみれば、左派運動が、こういう腐敗事象に対して堰止めする役割を果たしてきたことが分かる。左派運動は時々の言葉を生み出し闘ってきたが、今や言葉そのものさえない。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。これにつき愚考したい。 れんだいこは、日本左派運動の闘う理論の論拠が喪失している故ではなかろうかと看做している。これまで営々と積み上げ最終的に辿り着いたのがマルクス主義であったが、そのマルクス主義が機能不全に陥っているのが原因ではなかろうかと推測している。これにより我々は今、闘う論拠を喪失し、同時に言葉を失ってしまったのではなかろうか。 思い返せば、日本左派運動がマルクス主義に辿り着くまでには、在来の百姓一揆運動があった。それを捨て自由民権運動に走った。それをも捨てマルクス主義運動へ走った。そのマルクス主義が破綻した。にも拘らず、次の思想を生み出していないことにより、失語症時代に入っているのではないかと考えている。 その間隙を縫って支配層が欲しいままに乱脈政治を弄んでいるのではなかろうか。この情況を如何せんか。ここが問われねばならない。我々はそろそろ、我々自身の闘う武器としての新思想の創出へと向かうべきではなかろうか。ここに至らない限り問題は解決しないのではなかろうか。 |
ここまでの話なら耳タコで聞き飽きたという向きもあろう。そこで、れんだいこは思いきって処方箋を出してみたい。これが議論の真っ当な成り行きというものであろう。この姿勢のない論者が多過ぎる時代でもあるが、それはれんだいこの性に合わない。そこでれんだいこが試案を提供する。これを叩き台にして欲しい。れんだいこは次のように考えている。 一つは、古に帰り、日本人民闘争の精華を紐解かねばならない。これを古代神話の世界から説き起こすとなると長くなるので、近いところで幕末期の日本在来の百姓一揆の思想と運動を再評価し、現代風に手繰り寄せるべきではないかと考えている。 もっと近いところでは三里塚闘争の経験がある。あれは、れんだいこが見立てるところ、ひさかたの百姓一揆であった。新左翼が共闘したが運動を主導したのではない。運動の主体はあくまで戸村一作らの指導する反対同盟側にあった。その彼らの精神は「義民の世界 佐倉惣五郎伝説」で占められていた。れんだいこは三里塚闘争に何らタッチしておらず現場を知らないがそのように受け止めている。日本左派運動は、義民運動史から学ぶべきではなかろうか。これを云いたい。 一つは、日本左派運動の成功事例を学び直すべきではなかろうかと考えている。それは多くない。というか皆無と云うべきであるが、辛うじて見出せるのが60年安保闘争の第1次ブントの軌跡ではなかろうかと考えている。第1次ブントの秀逸さはどこにあったのだろうか。 その一つは、他の諸々の運動を排斥せず、自らが率先して危地に赴き情況を切り開いたことにあるのではなかろうか。これを支えていたのが労働者大衆の巨万のデモであった。加えて辛うじて社会党が国会内で果敢に闘って連動していた。つまり院内外の共闘が阿吽の呼吸で成立し、巨万のデモと突出行動の三種が噛み合っていた。この三位一体闘争こそが勝利の方程式なのではなかろうか。 ならば、この三位一体闘争へ導く運動こそが是であり、逆は非なりとの結論が生み出され、その後の運動はこれに邁進すべきところ、60年安保闘争後の各党派は競うように逆対応に終始した。残念なというよりこったら馬鹿げた事があるだろうか。要するに、口で革命云いながら、実際にはしたくないんだなきっと。これを如何せんか。 一つは、その60年安保闘争の続編となるが、その結果、戦後型売国奴系タカ派として登場していた岸政権が退陣に追い込まれ、戦後型ハト派の池田政権が誕生した。これが60年安保闘争の真の果実であった。日本左派運動は、自ら政権を創出するか、そうできない情況下では、この政府与党内のハト派支援に向かうべきではなかっか。ところが、ハト派支援に向かうどころかハト派叩きに向かい、他方でタカ派とは是々非々で親疎すると云う逆方向をしてきて今日に至っている。残念なというよりこったら馬鹿げた事があるだろうか。これを如何せんか。 蛇足すれば、その60年安保の第1次ブント運動に徹底的に敵対したのが宮顕率いる日共であり、日共は、タカハト抗争史に於いても、口では万年式の政府自民党批判をするものの実際にはタカ派に親和的、ハト派に糾弾的という反動的対応に終始している。ここに日共の本質があることを確認すべきではなかろうか。してみれば、現下の国政選挙に於ける全選挙区立候補方式による政府与党救済は意図的故意の伝統芸ということになろう。れんだいこがいくら指摘しても分かろうとしない。 一つは、自由民権運動が芳香させていたルネサンス精神とその学問を再評価し、今からでも遅くない再検証し、咀嚼し直すべきではないかと考えている。加波山決起は存外知られていないが、自由民権運動急進主義者の貴重な戦いを歴史に刻んでいよう。 |
もう一つは、いわずもがなマルクス主義運動の再検証である。果たしてこの理論はどこまで有効でどこから嘘ッぱちなのか、はっきりさせてみたい。しかしながら、れんだいこは、既成のマルクス主義市井理論を下敷きにして論じようとは思わない。マルクス主義の本来の意味と思想を再検証し、咀嚼し直すべきではないかと考えている。 マルクス主義の場合、それが当局から最も恐れられた思想と運動であったせいか、改造マルクス主義ばかりが喧伝され教え込まれている気がしてならない。そういうご時勢であるからして、一から出直さなければならないと考えている。その為にはまずは原典の忠実な和訳から始めねばならない。 れんだいこの知る限り、既成の訳本は日共のそれに典型的なように極めて不自然な誤訳、意図的故意の歪曲意訳が横行しており、幾ら読んでも理解できにくいように為にならないようにできている。れんだいこは、「共産主義者の宣言」その他幾冊かしか目を通していないが、とにかく酷かった。それにしても、あんなお粗末訳で、疑問を湧かさぬ連中の頭脳に驚く。良くもすっきり通読してこれたもんだわと感心させられている。れんだいこは、意味が分からず、あるいは整合的に理解できず、途中止めにしてしまう方が多かったが、れんだいこのこの感性の方が素晴らしかったのだと、今頃になって知らされている次第である。 そういう按配だからして、ひとまずは訳本し直して正確なマルクス主義を理解してその上でマルクス主義の思想的検証に向かうべきではなかろうかと考えている。何事も俎上に乗せるからには対象をしっかりと掴んでおかなくては上滑りさせられてまうであろう。そうやってから、理論と実践の有効性を喧々諤々で論じ合いたいと思う。本当は、れんだいこの青春時代にこれをやりたかったという悔いがある。が、今更どうしようもない。 さて、それからだ。れんだいこは、れんだいこの甲羅に合わせてのマルクス主義理解でしかないが、最近滅法マルクス主義そのものに甚だ疑問を覚えるようになっている。云っておくけれども、既成のマルクス主義市井理論の欠陥を衝いて、それこそ己の甲羅に合わせて批判して得意になっている当局肝入り御用系の見地からではない。 れんだいこ的感覚を持たない御仁は幸せである。れんだいこ的感覚を批判するのは自由だが、それならそれでマルクス主義の現代的有効性を発揮させ、時代を切り開かねばならない責務があるだろうに、だがしかしそういう御仁は、この間、時代情況がどんどん悪くなりつつあるのをどう言い訳するのだろうか。情況と関係なくマルクス主義をお経のように唱えて事足れりとするのは主義者としては些か却って不正なのではなかろうかと思っている。 れんだいこはむしろ、故あってマルクス主義が廃れたと思っている。戦前的治安維持法によって押さえ込まれたは思わない。仮にそうだとしても、押さえ込まれるようなものでは本当の思想ではなかろう。問題は別のところにあるのではなかろうか。マルクス主義に内在的な限界と欠陥が有り、内部溶解したと看做すべきではなかろうか。実際には様々な要因があろうが、内部溶解説が至極正確を射ているのではなかろうか。 そういう訳で、れんだいこは既成のマルクス主義に代わるネクストマルクス主義、あるいはマルクス主義から出藍した新マルクス主義、否こうなるともはやマルクス主義と云う必要もなくて新たな思想と運動を生み出さす必要があるのではなかろうか。これが創造されていない負の悲劇が、情況をどんどん悪くさせているのではなかろうかと思っている。 |
ならばどのような思想を生み出すべきか。れんだいこは少しずつ見えてきている。これを簡略に述べ、同朋の見解を承りたいと思う。 一つは、カオス派的理論による開放型の思想を獲得せねばならない。ユダヤ教もキリスト教もマルクス主義も、この点に於いてはロゴス派理論であり、完結型閉鎖的な思想となっている。この構図の呪縛から逃れねばならないのではなかろうか。 一つは、カオス派的理論を必要条件とすれば、十分条件になる共同思想型の思想を獲得せねばならない。排他的絶対的統一的思想を排し、思想が鼎立し共同し合う思想を生み出さなければならない。この点では、アナーキズムの思想の方が弁えており、本来のアナーキズムはマルクス主義の宿アを超えていたと思っている。 一つは、無償の愛を相互に便益することで社会奉仕する助け合い思想を獲得せねばならない。現代世界を牛耳る国際金融資本の奏でるイデオロギーはこれと対極的に全てを金権化させ、排他的独占的に囲う金貨の多寡を尺度に万事を取り仕切るものである。我々は、貨幣の仕切る世界と貨幣の仕切りを及ぼさない世界を並立させ闘争するべきであろう。 一つは、社会成員に対する公僕意識の涵養に向かう思想を獲得せねばならない。誰しも御身と家族が一番でありそれを踏まえられるべきである。だがしかし、生活権益の確保と公僕意識は必ずしも衝突しない。或る時には共に調和する場合さえあろう。この領域を拡大すべきであり、対立ばかりを強調し私益優先に向かうべきではなかろう。 一つは、在地土着主義型の思想を獲得せねばならない。各国々の歴史と伝統の重みには合理性があることを認め、これに立脚した人民大衆思想を生み出さねばならないのではなかろうか。マルクス主義の通俗的理解によれば、民族主義は国際主義と対比的に論ぜられ排斥されているが、かならずしもそうではない。排他的独善的民族主義、愛国主義が排斥されていると弁えるべきで、国際主義に通ずる民族主義、愛国主義の道はあると考える。 一つは、史上の秀逸な思想と運動を再評価し、現代風にアンサンブルしてエキスを抽出し組み立て直さねばならない。れんだいこが見立てるところ、仏教、古代ギリシャ思想、イソップ教話、中国古典漢学、モーゼ律法、イエス説法、イスラム訓戒、ルネサンス精神、陽明学、百姓一揆、中山みき思想、自由民権運動、アナーキズム、マルクス主義等々にはそれなりの叡智が散りばめられており、我々は、史上の有益なそれらに精通し、これらを整合的に理論化してみるべきではなかろうか。 もっとも、これを阻害する役回りをするのがネオシオニズムであるからして、我々はこの勢力には共同戦線的に立ち向かわねばなるまい。この姿勢抜きには何事も覚束ないだろう。以上メモしておく。 |
最後にもう一つ挙げておく。れんだいこは、マルクス主義の負として、マルクス主義が人格陶冶の道を閉ざした事を訝り始めている。マルクス主義的社会理論の有効性が認められ、それなりに機能しているのならまだ良い。今日の如く廃れた場合、マルクス主義は、歴史と伝統が育んできた人格陶冶の道を壊しただけのことになってはいないだろうか。 例えばの話、つい先ごろまで歴代三位となる小泉政権なるものを許してきたが、マルクス主義派はこれにいかんともし難かった。なぜなら、社会的批判は為しえても、人格批判の理論を持ち合わせていないからである。れんだいこはその間ずっと奇妙に思った。あれほどのサイコパス人間を批判し得ないとしたら、それは理論の欠陥ではなかろうか。こんなことなら、釈尊的イエス的陽明学的な中山みき的理論から、痛烈に批判した方がより有効なのではあるまいか。そういう思いがある。とりあえず以上書き留めておく。 2008.6.26日 2012.5.14日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)