政治と学問の連動と差異考 |
(最新見直し2008.8.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここでは、政治と学問の連動と差異について愚考してみる。一体、学問的成果が政治にどう反映するのか、学者と政治家の違いは何処にあるのか、という問題を問うことになる。案外考察されていないのではなかろうか。 れんだいこが思うのに、学問というのは、基本的スタンスとしてあらゆる可能性を問わねばならない関係上、容易に断定決め付けができず、諮問に対して具申するというのが関の山とするのが正しい学的態度ということになるのではなかろうか。なぜなら、学問そのものが常に発展途上であるべきであるし、ものの見方考え方というのは位置する角度によって多様に見えることから、極めて難解であるということを弁えるべきだから。現段階ではこう考えることができ、かく対応するのが望ましいと控えめに対応することが正式の態度であるように思われる。 これに比して、政治家及びその政治となるとそうは行かない。優柔不断は厭われ、常に政策的判断を迫られ、然るべき時期には何がしかの投企により決定せねばならない。それは正しい政策となる場合もあるし間違う場合もある。いずれにしても責任を被り、更に上策を求めて変更を行うのが政治家及び政治の務めである。そういう意味で、政治家とは責任を負うところに特質があると見られる。よって、責任を放棄した政治ないしは政治家とはその存在意義の自己否定者、喪失者であるということになろう。 その点、学者には学的誠実さが求められている訳で責任は問われない。例えて云えば、「責任をとらなくてよい代わりに慎重であるべき」というのが学者の務めとなり、「決断と実行が求められており、責任を蒙る」のが政治家という事になる。ここに官僚論を交えれば、両者の中間に位置すると云うべきか。学者と政治家と官僚の役目の違いがここにある。もし、学者が、学的誠実さを疎かにし、政治的具現に熱中し、その実行を迫り、且つ責任をとらないとすれば、これほどお粗末な学者はいないということになろう。今日びはこういう学者が流行ではあるが。 現下の学界と政界の病巣は、両者が混交しあるいは倒錯していることにあるように思われる。即ち、政治家が日和見的見解に終始し、責任をとらない。逆に、学者が政治的立ち回りに熱中し、政策決定を誘導したり参画する。こうなると立派な政治家であろう。但し、共通しているのは責任をとらないということになっている。政治家が悪しき学者になり、学者が悪しき政治家になっているところに現下の学界と政界の病巣が認められるように思う。おかしなことだが、このおかしさが風潮になっている。ふと気づいたので、これを書き付けておく。 2006.10.21日 れんだいこ拝 |
もう一つの問題がある。理論と実践、これを学問と運動と言い換えることもできるが、それらは現実の諸問題に有効な処方箋を提起し得てこそ十全となるのではなかろうか。この場合、十全とは、理想と云うことを意味している。この理想に近ければ近いほど良いのだが、理論(学問)、実践(運動)が、結果的に現実の諸問題に悪対応する事が考えられる。この場合には、少なくとも理論(学問)は、現実の諸問題に超然として近寄らない方が賢明と云うことになろう。従って、政教分離ならぬ政学分離が要請されることになる。 しかしながら、政教分離ならぬ政学分離も、理想論的見地から云えば有り得てならぬことであり、有り得るのは民主主義同様にある種の弁えに拠っていると理解する必要があろう。 しかしながら、この弁えは、常に「現実の諸問題に有効な処方箋を提起」できるよう衝動すべきであるとすべきではなかろうか。この緊張感無くしては理論(学問)、実践(運動)が根底から意義を失うだろう。 このことを言い添えておく。 2008.8.28日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)