【性愛、性交考】

 (最新見直し2015.10.05日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「性愛、性交考」をものしておく。

 2014.01.13日 れんだいこ拝

【性愛、性交考】
 急に「性愛、性交」について考察しておきたくなった。これまでもやもやとしたものがあったが云いたいことがはっきりしてきたので書きつけておく。「性愛、性交」は成年の誰もが世話になっていることではあるが、面と向かって考察されることは少なかろう。思想的哲学的な面においてという意味である。近頃、「性愛、性交」を身体的に観察することは流行っている。週間ポストと週刊現代が気脈通じて性器写真集を綴じ込みにしている。れんだいこに言わせれば、それも「性愛、性交考」の一種であろうが、思想的哲学的な面においては何も貢献しない。誰でも最初は興味を持つかも知れぬが、やがて見飽きて、それがどしたと云い始めるのがオチであろう。「性愛、性交」の思想的哲学的な読み取りが何ゆえ必要なのか。以下、「れんだいこの性愛、性交考」を発表しておく。

 実は、「性愛、性交」には尋常でない深い意味が宿されている。これを思弁的に説くより実感と重ね合わせて理解する方が良い。人は思春期になると異性に恋し始め、性愛、性交に憧れる。これは実はとても健全な姿である。昔は写真、今はビデオとかの映像で事前レクチャーされるようになっている。そしていつしか実体験を迎える。この時の性愛、性交感が大事である。初体験でいきなりと云う訳には行かないが何度か試みるうちに「性の不思議」に気づかされる。それがよしんば、男性側で言えば精液のはけ口としての性交であろうとも、そのうちに性行為に伴う「性の神秘」に気づかされた者はいないだろうか。これを仮に「性の理」と命名する。

 れんだいこの経験からすると、性の淫靡さと神聖さに同時的に気づかされた。それは不即不離的なものである。性の淫靡さだけを取り出すこともできないし、性の神聖さだけを強調することもできない。但しこの二つは常にフィフティー均衡している訳ではない。或る時には淫靡さが優り或る時には神聖さが優る。総じて「二つ一つ」的なものであることが共認できれば良い。これを逆から云えば、「二つ一つ」的にある「性の不思議」、「性の神秘」のうち、「淫靡さだけの性」、逆に「神聖さだけの性」を取り出すのは、「性の理」に対する冒涜である。最近、この「性の理に対する冒涜」が仕掛けられている気がしてならない。

 「性愛、性交」をそれとして了解すると、次に問題になるのが「如何なる性愛、性交であるのか」である。これを抽象的に論じても仕方ない。実際で考えると、「独身者の性愛、性交」、「夫婦の性愛、性交」、「既婚者の夫婦外の性愛、性交」に識別できる。こう識別するのは、それぞれによって了解事項が多少異なるからである。大事にしたいことは、日本的「性愛、性交」の大らかさで理解する必要があることである。これについては後日考察する。

 2014.01.31日 れんだいこ拝
 ここまでは、まだ普通の気づきである。これかられんだいこ真骨頂の気づきを開陳する。れんだいこは、実は、日本古神道は「性の理」から生み出されているのではないかとの仮説を持っている。即ち、「性の理」を通して身の内の仕掛けを知り、これを命と認識している。この命が身の外の森羅万象と相関していることを見抜いている。これを分かり易く云えば、身の内が小宇宙、身の外が大宇宙と認識している。「性の理」を通して小宇宙の命と大宇宙の命の繋がりを見抜こうとしている。この思想及び認識の仕方が日本古神道の真髄であり、これを型にしたのが儀式なのではあるまいか。

 これより、日本古神道の宗教的儀式の幾つかを確認してみる。お参りするときに鳥居がある。これは囲いであり、女性器の大陰唇を象徴している。これに拝をして、鳥居を潜って中へ入ると参道と呼ばれる。これは女性の「お産の道」と通底している。辿り着く所がお宮である。これは女性の「子宮」と通底している。ここで拝をして、鈴を鳴らして、再度拝をして手を合わせ、拍手して、祈念する。祈念の内容は様々であるが、代表的なものが妊娠成就である。妊娠すると十月十日を経て出産する。安産祈願。子宝。授かるという。産着を着せて宮参り。七五三。ひな祭り、鯉のぼり。元服。成人式。

 2014.01.31日 れんだいこ拝





(私論.私見)