悪貨の良貨駆逐論批判

 (最新見直し2012.11.13日)

【悪貨の良貨駆逐批判論】
 「グレシャムの法則」として知られる「悪貨が良貨を駆逐する」という知られた名句がある。れんだいこは或る時、これは本当の謂いだろうかと云う疑問を覚えた。貨幣鋳造史にはそういう歴史があるのかも知れない。が、これも仔細に調べないとなんともいえないのではなかろうか。世の法則は、「悪貨が良貨を駆逐する」ばかりではなく、「良貨が悪貨を駆逐する」交互関係にあるのではなかろうか。より正確に表現すれば、悪貨が良貨を駆逐する事例があるとしても、良貨は常に悪貨に対して指導的地位にあり、悪貨を牽引しており、悪貨は良貨に倣い続けているのではなかろうか。悪貨が良貨の地位に座り代わるなんてことはあり得ないのではなかろうか。してみれば、「悪貨が良貨を駆逐する」は実情にそぐわない名言ならぬ迷言なのではなかろうか。そもそもこの命題の含意は何なのか。誰が流行らせたのか。以下、これを考察する。

 「ウィキペディアのグレシャムの法則」で、「グレシャムの法則」は次のように説明されている。
 概要「『グレシャムの法則』の名前の由来は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し『イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである』と進言した故事に由来する。これを19世紀イギリスの経済学者ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し『グレシャムの法則』と命名、以後この名称で呼ばれるようになった」。

 これによれば、「イギリスに於ける貨幣改悪が、それまでの良貨を国外に流出させる原因となった」が原意であることが判明する。即ち、国内的に悪貨が良貨駆逐したのではなく、悪貨流通により良貨が海外に流失したという事情に対して述べられた謂いであるということになる。

 しかし、これが次のような定義になる。
 「貨幣の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則の事である。従って、主に金貨や銀貨など、それ自体に価値のある貨幣に当てはまる法則で、貨幣自体に大して価値のない信用貨幣の場合は殆ど当てはまらない。

 例えば、金の含有量の多い金貨と少ない金貨の二種類が、同じ額面で同時に流通したとする。この二種類には、通貨としての価値は同じでも貴金属としての価値は違うという、二重の価値が生じる。仮に、貴金属としての価値の高い方を良貨、低い方を悪貨と呼ぶ。すると、人々は良貨を手元に置いておき、日々の支払いには悪貨を用いる傾向が生じる。貨幣を用いるとはその貨幣を手放すという事であり、貴金属としての価値の高い良貨は手放したくなくなり、日々の支払いには貴金属としての価値の低い悪貨で間に合わせておこうと考えるからである」。


 もっともらしく述べられているが、どこまで本当のことか分かりはしない。しかし、「グレシャムの法則」はかなり昔から且つ洋の東西を問わず云われてきたようである。次のように述べられている。
 「古代ギリシアの劇作家アリストパネスは、自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放を批判している。日本の江戸時代中期の思想家三浦梅園も、自著『価原』(1773年)の中で、『悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る』という説を独立して唱えている」

 「グレシャムの法則」は、実際には次のような比喩的意味を持っている。

 「また、『悪貨が良貨を駆逐する』という言葉は、悪人がはびこるような治安の悪い状態や、軽佻浮薄な文化が流行するような場合を指すときにもよく引き合いに出される。前述のアリストパネスの例のように、これはもともと転義的用法だが、主流や流行を非難する際に便利な言葉なので、本来の意義を離れてよく用いられる」。


 以上は、「グレシャムの法則」の説明であり、この命題自体の当否の吟味ではない。れんだいこが知りたいのは、当否の方である。果して、「悪貨は良貨を駆逐するのか」。れんだいこは、必ずしもそうとは云えないのではなかろうかと思っている。「グレシャムの法則」は漠然とは当っているように思えるが、考えてみれば辻褄が合わない。何事も吟味役とか鑑定人が居る訳だから、「金の含有量」の少ないほうが多いほうの地位に代わる事はあり得ない。つまり、悪貨が良貨に代わることはない。悪貨をして良貨として流通せしめれば、それは詐欺であり、意図的邪な政策による人災としか考えられない。そういう人災時代があったとしても、割合と早期に再修正されているのが史実なのではなかろうか。

 だから、「悪貨が良貨を駆逐する」という意味は、悪貨が良貨の地位に据わるということではない。貨幣流通が盛んになり、その需要を満たす為に悪貨を大量鋳造することが求められ、そのようになってきたというだけのことであろう。それも間に合わなくなり、紙幣化したということではないのか。してみれば、「悪貨が良貨を駆逐する」という歴史的真意を読み取らなければ危うい。

 それはともかく、「悪貨が良貨を駆逐する」はむしろ含意によって広まっているとみなすべきではなかろうか。世の中では正義よりも悪がはびこるという別表現なのではなかろうか。これは俗耳に入り易い。ところが、この命題も臭う。本当にそうなのだろうか。仮に悪がはびこると、革命的弁証法によって正義が登場し悪を退治するのも史実なのではなかろうか。「グレシャムの法則」の一般的適用は、この革命的弁証法に基づく歴史観に対する鞘当的表現として流布されているのではなかろうか。

 ならば、革命的弁証法側にとって、「グレシャムの法則」は不正な命題ということになる。その命題が何ゆえに俗耳に入り続けているのか、これを考察せねばならない。れんだいこは、「悪貨が良貨を駆逐する」とは必ずしも云えない。良貨が悪貨を駆逐する歴史もある」と言い換える必要を感じている。だがしかし、「悪貨が良貨を駆逐する」ように見えるのは、悪貨をして主流派とせんとする勢力の邪悪な意思が働いているからではないのかと思っている。この勢力が歴史上一貫して無理矢理に正義を押さえつけ、悪をはびこらせているだけではないのか。

 これを分かり易くするために、悪貨=悪=病気、良貨=善=健康という風に言い換えて見る。「病気が健康を駆逐する」とは変な物言いではないのか。「健康が病気を駆逐する」のではないのか。凡そ医療というのは、健康を維持するための処方、病気になれば健康に戻すための処方を云うのではなかろうか。それを敢えてわざわざ健康を破戒する為の医療を生み出すとは背徳的ご苦労なことではないのか。

 そういう背徳的ご苦労は一部の邪悪な勢力により推進されているが、自然摂理に反するだけに決して本流にはなり得ないのではなかろうか。ただ、彼らは、有史以来数千年かけ闇権力を確立しており、この闇権力如意棒を振り回すことで邪悪な波動を作用させ続けているに過ぎない。「悪貨が良貨を駆逐する」とは、或るリアリストが、そういう社会を見据えての分析命題であるか、闇権力が己の悪行を居直って正当化せんとする為の獰猛な物言いのどちらかでしかないのではなかろうか。

 世に悪貨が良貨を駆逐すると云う言がある。れんだいこはそうは思わない。良貨は悪貨を駆逐しないまでも常に戻るべき平衡に治まり基準足り得る。この言を銘しておきたい。

 以上簡単ながら、「反グレシャムの法則」を喧伝したい。とりとめもない話しであるが愚考してみた。後日更に考察することにする。

 2006.10.2日、2012.11.13日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)