「論理と理論と見解と方針の違いと相関」について

 (最新見直し2007.10.15日)

【「論理と理論と見解と方針」について】
 これは、1999.6.1日、「さざなみ通信」に投稿したものである。
 最近ちょっと考えたことをお伝えして、皆様の討議を受けたいと思っています。表題のように「論理と理論と見解と方針」というように、ともすれば互いに良く似ておりごちゃ混ぜにされる傾向にあるものの実は違うものについて分析してみました。学問的にどう説明するのかは別にして、私は次のように区別してみました。

 「論理」とは、物事の考え方の筋道のことをいう。「理論」とは、「論理」に従って導き出された物事の認識の仕方をいう。「見解」とは、「理論」に従って導き出された物事に対する実践基準を云う。「方針」とは、「見解」に従って導き出された具体的な実践方法を云う。仮にこのように定義づけるとして、なぜこの区別が必要なのかということについて意見してみようと思います。

 「論理と理論と見解と方針」のうち融通性の効くものと効かないものを知っておくべきではないかというのが、私の気づいたことになります。融通性は、それを一方向に強めれば寛容さになり、中ぐらいのところが融通性であり、逆方向に強めれば排他的になるという相関関係にあるものとして、一般的には寛容さが尊ばれ、排他的であることは嫌われる傾向にあります。中ぐらいの融通性とは是々非々主義ということでもあり、これはこれで良いことなのでしょうが、かなり難しく、一歩誤れば場当たり主義という欠点を持つことにもなります。

 なるほど、所詮お見通しがいい加減でしかない凡人たる我々にとって排他的であるよりは寛容さの方が処世法としては無難であると思われます。しかし、しかしと私は考えました。先の4区分のそれぞれの寛容さと排他的の度合いは微妙に違うべきではないかというのが私の論点になります。私の考えでは、そういう差異があるべきであることに加えて、各自においてもまた、この関係のさせ方が微妙に違うのではないか。ちなみに、私の理想的な関係のさせ方は次の通りです(図示します)。
排他的度 融通度 寛容度
論理 ○○ × ××
理論 ×
見解 ×
方針 ×× ○○

 (○とは、その傾向が強い。△とは、やや弱い。×とは、その傾向が弱い、という意味で使っています)

 この図で分かるように、つまり私は、考え方の筋道をつくる論理を重視しており、方針については柔軟性を持たそうとしています。上記の図の見方が判らないという方に説明します。論理は、排他的であって、融通がきかなくて、寛容でないというのを自然とするという意味に了解しています。理論は、同じ傾向の幾分トーンを下げたものであるべきだとしています。見解は、やや柔軟になり、寛容的であるべきだとしています。方針は、さらに柔軟であり、非常に寛容的であるべきだとしています。人によってはこの逆を理想的な関係とする人もおられると思います。つまり、論理の拘りはさほどでなく、方針の一致こそ大事とみなす発想の人という意味です。

 どちらが良いとか悪いとかは一概に言えないかも知れませんが、少なくとも議論の前提としてどこの部分の話かを整理しておかないと、お互いに話が噛み合わなくなるのではないでしょうか。ちなみに、教条主義といっても、論理又は理論の教条なのか、見解又は方針の教条なのかを明らかにしないと噛み合いません。もっとも盲従主義というのもあるなぁ。おそらく、折衷主義というのは、論理が違うものから導き出されたものを一緒にすることをいうのですよね。

 私が論理に拘るには訳があります。人は皆な自分に固有な論理を持っており、ひょっとすると階級闘争という面だけではなくて、人は論理の闘争をしているのかもしれないと思うからです。似た論理の人達と他の論理の人達との攻めぎ合いが常になされているのではないかなぁと。

 注目すべきは、この論理の背景には気質と能力が関係しており、人は皆なその気質と能力に応じた論理を持っているのではないかとも思っております。この考え方は階級闘争理論を否定しようというつもりで云っているのではなく、それとの調整的な組み合わせとして出藍(止揚、揚棄)させたいと考えているのです。しかしながら、私にはそこに向かう知力が足らない。誰かが見事に解析してくれるのを期待しているのです。

 なぜ、そう言う必要があるのかというと、世の中の実際にはブルジョアであれプロレタリアであれ、助け合い志向の人と我さえ良ければ式の足の引っ張り合い志向の人がいるわけです。気難しい人とお人好しがいるわけです。丁寧な人と乱暴な人。姿勢の低い人と傲慢な人。こういうものの差異が環境的なものだけで生み出されたものとはどうしても思えない。

 これに能力が重なる。能力は教養とバランスを保っており、教養に支えられた能力と気質が重なって似合いの論理を嗜好する。この世の中は、そういう気質に応じた論理に従って似たもの同士が集まったり励まし合ったり闘争しあったりしているようにも思えるのです。人は自分を愛すれば愛するだけ、同じような自分を見出しうる人達に親近感を覚え、そういう人または人たちが仮に悲惨である場合に自分のことのように立ちあがり……、これが本来の社会主義運動のモニュメントではなかったのかなぁ。

 れんだいこに云わせれば、マルクスでさえこの点を弁えておらず自ら袋小路に入ってしまったのではないかと思っています。傲慢なとらえ方でしょうかねぇ。





(私論.私見)