歴史推理能力と霊能透視術の相関考 |
(最新見直し2015.10.03日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「歴史推理能力と霊能透視術の相関考」をものしておく。 2014.01.13日 れんだいこ拝 |
【歴史推理霊能透視術考】 |
歴史サイトを書き直しているうちに、ふと気づいた。「歴史推理能力と霊能透視術の相関考」をものしておこうと。云いたいことは次の通りである。 これまで他の方の論考を読んでの印象は群盲象を撫でるの感が深い。部分的には良い観点を打ち出しているものもあるけれども、その観点が続くことがない。大概は総論のところで勝手にこけている。これは誰しもそうなんだろうと思う。そういう意味では他人事ではなく自戒せねばならない。しかし、そのれんだいこから見ても、仮にれんだいこが囲碁6段とすれば、3段、初段、級位の論が多過ぎる。中には結論を逆にして台なしにしている例さえある。これを意図的に狙い、道中の推論で信用させ、逆さ結論を押し付けているとなると質が悪いと云わざるを得ない。 元々、歴史推理は難しい。それは、歴史において本当中の本当のことは表に出てこないことによる。これは古代史でも現代史でも同じだろう。事件事象の当たり障りの良い話しが露見するのであって、重要な案件になればなるほど事件事象の真の要因は隠される傾向にある。そういう訳で、その隠された部分に光を当てて真相を抉り出そうとする歴史推理には格別の困難が伴う。 その格別の困難を伴わない評論が多い。それらは露見現象を解説すれば良いだけ、あるいは当局の望む方向で迎合記事を書くだけ、なので気楽な稼業であろう。 しかし、面白いもので、人は、その楽な方を選ばなくて最も困難な方に関心を向けたがる者が居る。その結果、当るも八卦当らぬも八卦のような珍論愚問迷答が飛び交うことになる。しかしそれでも良い。そういう営為が大事で、そういう営為をしているうちに次第に脳筋が鍛えられ、そのうち真相に辿り着くことができるのかも知れない。 そういう限定の中で、互いの推理力を競い合っている。 とか何とか云いたかったので、とりあえずこう書いておく。 追考。 2014.01.13日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)