ラムネ氏について

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).10.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 こういう文章を書いてみました。

 2004.3.29日 れんだいこ拝


 ラムネ氏考 れんだいこ 2004/03/29
 れんだいこは、坂口安吾の「ラムネ氏のこと」は非常な名作だと思っている。しかしあまり触れられることが少ない。試しにインターネット検索してみれば良い。坂口安吾論はあまた為されているが、「ラムネ氏のこと」について正面から批評した文章に出くわさない(2004.3.27日現在のことであるが)。れんだいこはその昔、一部抜粋であったかも知れないが高校生のときの現代国語でこれを読んだ記憶がある。この一文が教科書に登場していたとは、思えば「良き」時代であったと思う。

 前置きはこれくらいにして「ラムネ氏のこと」についてのれんだいこ論評に入る。安吾は、一見他愛ないラムネ氏論から書き起こしている。ラムネ氏とは、「ラムネの玉が吹き上げられて蓋になるのを発明した奴」ということであるが、このラムネ氏が筋となって話しが続いていくことになる。導入部でのラムネ氏論はその後の文章全体に対するいわば胡椒の部分であり、単なるふりかけに過ぎない。

 「ラムネ氏のこと」の真価は次のところにある。「全くもって我々の周囲にあるものは、大概、天然自然のままにあるものではないのだ。誰かしら、今ある如く置いた人、発明した人があったのである」。れんだいこが意訳すればつまり、文明の享受に当たり、その功労者に感謝せよ、そのお陰を思え、ということを安吾はそっと示唆している。

 このことを具体的に次のように述べている。「我々は事もなくフグ料理に酔いしれているが、あれが料理として通用するまでに至るまでの暗黒時代を想像すれば、そこにも一篇の大ドラマがある。幾十百の斯道(しどう)の殉教者が血に血をついだ作品なのである」。安吾はさらりと述べているが、これは革命的諸闘争の擁護理論である。それをただ当たり障りのない純文学的表現で述べているだけである。

 続いてこの後に面白おかしく何十何百のフグ食あたり殉教者について述べている。「こう遺言して往生を遂げた頓兵衛がいたに相違ない。こうしてフグの胃袋に就(つい)て、肝臓に就て、又臓物の一つ一つに就て各々の訓戒を残し、自らは十字架にかかって果てた幾百十の頓兵衛がいたのだ」でフグ話しを終えている。

 以上が「上」であり、次に「中」に入る。再び四方山話しで面白おかしく書き出しながら、今度は毒キノコ論に向かう。今日キノコが食用になっている背景には多くの毒キノコ往生者がいるとそれとなく示唆する。キノコ取り名人に話が及び、「ところが、現に私達が泊まっているうちに、この名人が、自分の茸(キノコ)にあたって、往生を遂げてしまったのである」と云う。「それとなく臨終のさまを訊(たず)ねてみると、名人は必ずしも後悔していなかったという話であった」とも書き添えている。

 安吾は、フグあたり挑戦者、毒キノコあたり挑戦者に対し、これをラムネ氏系譜の人達であると云う。直接的表現ではそうは云っていないが、「然しながら、ラムネ氏は必ずしも常に一人とは限らない。こういう暗黒な時代にわたって、何人もの血と血のつながりの中に、ようやく一人のラムネ氏がひそみ、そうして、常にひそんでいるのかも知れぬ。ただ、確実に言えることは、私のように恐れて食わぬ者の中には、決してラムネ氏がひそんでいないということだ」で「中」を結んでいる。

 れんだいこに云わせれば、これはもう立派な文学的革命イデオロギー論であろう。それ故にかどうか、れんだいこの高校生時分までは教科書に採用されていたものの、それ以降ぷっつり姿を消しているようである。

 続いて「下」に入る。今度も又手を替え品を替えつつ遂には戯作者論へと辿り着く。「ともかく人間の立場から不当な公式に反抗を試みた文学はあったが、それは戯作者という名で呼ばれる。戯作者のすべてがそのような人ではないが、少数の戯作者にそのような人もあった。いわば、戯作者もまた、一人のラムネ氏ではあったのだ」と云う。続いて、「チョロチョロと吹き上げられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者もまたラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか」と書き添えている。

 総文の締めくくりはこうだ。「然しながら、結果の大小は問題でない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変えてきた。それだけでよかろう。それならば、男子一生の業とするに足りるのである」。

 れんだいこの総評はこうだ。安吾の書き付けは案外と多い、というか膨大だ。その中でも、この「ラムネ氏のこと」は秀作ではなかろうか。内容の重さを軽妙な筆裁きでこなしている点で名作ではなかろうか。この名作は今日それが流布されることを意図的に抑えられている気がしないでもない。かっては高校教科書にも載っていた経緯がある。今やインターネット検索で僅かに痕跡が認められるぐらいに閉じ込められている。ならば、れんだいこが世に出そう。れんだいこは、この名文の内容の濃さ、それに比して語りの軽妙洒脱さ、論旨展開の絶妙さ故にいつの時代にても読み継がれるべき、読み継がさねばならない文章である、と見る。

 2004.3.27日 れんだいこ拝




(私論.私見)