日月地球三位一体考 |
(最新見直し2013.1.11日)
ふと日月地球三位一体について確認したくなった。古来より地球を起点として日月を敬う習慣は古今東西を問わずある。学者は、そういう信仰の起源、伝搬を考えるのを好むが、余り意味がないと思う。日月信仰は世界各地で自然崇拝的に始まったと考えるべきであろう。但し、土地ところ民族によって慈母的になったり厳父的になったり敬われ方に違いがあるようだ。気になることは、古代人の日月信仰の際に当の地球がどのように認識されていたかである。今日では、我々の住む衛星は地球と称されている如く球体として認識されている。古代人は果たして球体として認識していたのだろうか。西欧に於ける天動説、地動説の如く、地球の姿かたちが平状か球状かで論争されて来た歴史がある。これは稀な例で、世界の土地ところ民族では争いさえ起こしていない。ではどのように認識していたかと云うと、我々の住む衛星は絶対的な与件であり、この与件を問う姿勢はなかったと思うべきだろう。ここに古代人の日月信仰の限界があったと認めざるを得ない。今日では、我々の住む衛星を地球と認識することにより日月地球三位一体論が要請されている。これにより日月地球三位一体論に立った日月信仰論が望まれていることになる。 問題は、地球が球体として認識されたことにより古代式日月信仰論の限界を突き破り地球三位一体論に基づく、日月信仰論を生むべきだったにも拘わらず、地球を球体として認識した頃より日月信仰論を遠ざけ始めたところにある。地球が球体として認識された頃より近代科学が始まる。その科学が日月信仰論を排斥するような形で科学性を強めた。これが近代科学の癖ではなかろうか。今日は現代科学の時代である。現代科学は、近代科学の癖をそのままに継承する形で発展して来た。しかしながら、21世紀初頭の今日、近代科学、現代科学の癖を認め、それらが忘れたもう一つの可能性としての科学を視野に入れるべきではなかろうか。 もう一つの可能性としての科学とは、古代式日月信仰を日月地球三位一体論に基づく日月信仰へと改造する道を云う。このことが如何に重要なことであるのかは、原子力科学に関係している。今日では原子力科学時代を迎え、その原子力科学が地球を滅ぼすような勢いを強めつつあり、これとの決別が促されている。原子力科学の未来には地球の滅びしかない。そうであるなら、原子力科学の改良に精出すよりも決別に向かうのが筋ではなかろうか。その際のカンテラが日月地球三位一体論に基づく日月信仰論である。新式日月信仰論を生むことによる現代科学の再生が望まれているのではなかろうか。これは科学の二股の道であり、両方の科学に乗る訳には行かない。以上、とりあえず思いつくままに記しておく。 2013.1.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)