日弥子抄その1

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.7.21日

 日弥子抄その1

 日弥子抄のはじまりは、彼女の母と私との出会いから追わねばならないように思う。それは早稲田大学法学部8号館地下の寄り合いサークル一室のマルクスレーニン主義研究会(略称МL研)での一コマだった。私はそのときは2年生、彼女は新入生だった。私はそれまで法学部自治会のはしくれ役員のようなことをして、連日立看の出し入れなり、集会動員の一員として明け暮れていた。合間にアルバイトをして糊口を凌いでいた。自治会と行動を共にするようになったきっかけは、70年安保闘争に何か関わりたいと思う一匹狼たちの小集団が形成され、そのうちに自治会からマイクが借りられるということで何度か出入りしているうちに、70年安保闘争のピーク時の或る日、早稲田民青の指導者グループの一員の方から民青への加盟を口説かれ、それは思いがけない口説きでもあったので瞬時とまどった。少し考えさせてくださいと云いながら実は僅か1分だったか3分だったかわからなくなつたが、濃縮した思考スピードで了承した。加盟書にサインがこの時のことだつたか、改めて別の日だったか分からない。とにかくこうして早稲田法学部民青の一員になった。この辺りのことを書き出せばキリがないので端折る。問題は、当時の温和過ぎるデモに不燃焼を覚え、闘争課題でも、三里塚闘争になぜ取り組まないのかの疑問を発したところ、あれはトロの運動だで却下され、挙句の果ては「お前は理論不足やなぁ、宮本顕治の日本革命の展望を読め。あれが一番良い」と噛まされ云々が続き、血痰が出て止まらない症状に見舞われ始めた。そういうことがあり、自治会活動から手を引き、サークル活動にシフト替えせんとした。その時、見つけたのが名前ずばりのМL研だった。そのとき既に留年を決めていた。別に慌てて4年で卒業する必要ががなかったからである。そうして私のМL研一員としての学習活動が始まった。1年生終わりの頃である。新年度になり、新部員が入って来た。そして互いの自己紹介をする会議があった。その中に日弥子の母となるH子がいた。私の自己紹介を済ませ、新人の自己紹介が始まり、その中に確か3名ほど女性がいた。そのうちの一人のH子が何やらしゃべり始めたとき、私の脳裏に「おれっ、この子と結婚するのか。嫌やなぁ」と閃いた。嫌やなぁと思ったのは美人でなかったからである。もう少し美人寄りの人と一緒になりたいと本能が思い、その一方で結婚するという電撃的なメッセージが生まれたのである。今思っても不思議である。だってその頃はまだよしんば付き合いはしても結婚しようなどとは夢にも思わなかったからである。

 そういう機縁があり、彼女の方も私を気に入っていたようで、そうなれば交際は早い。私が家移りしようと思い立ち、彼女が私も一緒に探すと云い始め、西武新宿線沿線の物件を見て回った。結果的に哲学道のすぐ近くの新井薬師の安アパートを借りた。彼女が当時珍しかった牛乳流して少し柔らかくして食べる、名前が分からなくなったがカリカリがおいしかった。成り行きで二人は結ばれた。
 2年生の夏、私は帰省して岡山で過ごしていた。電話か手紙のやりとりが続いた。そうこうしているうちに、二人とも非常に会いたくなり、彼女が来岡することになった。岡山駅前で落合い、後楽園へ行き、確かお城も身て回った。お城を出ると、ラブホテルのような旅館があり、そこへ入り楽しんだ。その後、バスで児島まで帰り、我が家へ連れて行った。親父がどうもてなしていいのか分からず、お風呂でもお入りと云ったところ、入ってまいりましたと答え、親父は思わず含み笑いしていた。
 そんなこんながあり、これがその一となる。




(私論.私見)