好、恋、愛、主義考 |
(最新見直し2006.10.31日)
その昔、三島由紀夫の「恋と愛の違い考」が新聞の文化論に掲載されていたのを読んだ記憶がある。今、れんだいこが、「好、恋、愛、主義考」するようになるとは思わなかったが、記してみる。 思うに、「好く」というのは、個人資質的な扇形した感情移入を云うのであろう。対極は「嫌い」であり、人はそれぞれ多少なりともその嗜好性向が異なっているので塩梅良くなっているように思われる。「恋」というのは、「好く」の扇形をかなり狭めた極力一対一のかなり濃度の高い「好く」感情移入なのではなかろうか。 それに対して、「愛」というのは、一対一の「恋」の扇形を開く方向への感情転移なのではなかろうか。「愛」は広がれば広がるほど良いが、いずれ「止まり」がやってくる。なぜなら、「愛」は強めれば強めるほど逆に「憎」を呼び込むからである。こうなると、それまでの「愛」を「第一次愛」と呼び、「憎」と絡みながら織り成していく「愛」感情を「第二次愛」として区別すべきであろう。その上で、「第二次愛」も又広げていけば行くほど良い。 ところで、三島教理には説かれていなかったが、もう一つ似たようなものとして「主義」を考察せねばならない。「主義」とは、「好、恋、愛」の感情の移入ないし転移を、理論のそれへと切り替えたものではなかろうか。しかして「主義」も又相手との相性により扇形を狭めたり広げたりせねばならぬ。 この考察の大事なところは、いずれも宗教的な絶対的な真理観とは違う感情であり理論であるというところである。人はともすれば、宗教的な絶対的な真理観で「好、恋、愛、主義」を語ろうとする。しかしそれは無謀というもので、「好、恋、愛、主義」は本来は、政治的正義、必要、妥当論や宗教的真理論とは馴染まない類のものではなかろうか。つまり、何やら次元の違うものとしてあることを踏まえるべきではなかろうか。 あぁここまで書いてみたが、恋文と一緒で何やら意を尽くせない。書けば書くほど空言になる。れんだいこは何を書きつけようとしていたのだろうか。ひとまず指を休めることにする。 2005.6.30日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)