近現代学問のウソの構図考 |
(最新見直し2013.02.10日)
【近現代学問のウソの構図考】 |
2013.02.10日のふとした気づきを記しておく。近現代学問のウソの構図考と名付ける。これはどういうことか。結論を述べれば、近現代学問は、大田龍史観に従えば江戸幕末の黒船来航以降のことと云うことになるが、西欧学問と云う名の主流はネオシオニズム学問の輸入に向かい、こちらを師とする癖ができ、それを合理化する為に、日本は昔から外国の学問を取り入れることによって進歩してきたと云う通念を作り上げている。古代日本に於いては中国系学問の輸入、近代以降は西欧学問の輸入と云うことになり、それを是とする学問姿勢を打ち立てて来ている。れんだいこは、これがウソだと気づいた。 外国学問の輸入そのものを非と云おうとしているのではない。輸入そのものは、むしろ是であろう。問題は、それまでの日本独自の学問を卑下する形で、輸入された学問を先進だの文明だの進歩だのと称して絶対基準化させる学問姿勢にある。ここが間違いである。歴史を検証すれば、日本の能力は、輸入に於いて旺盛な意欲を示したことのみにあるのではない。旺盛な意欲で輸入したものを、日本式学問の中に新たに取り入れる形で咀嚼し、新たなものを発酵させ、学問を進化させた能力の方こそが称えられるべきではなかろうか。これは、集中的には言語に表われている。日本語そのものが、在来の日本語を基盤にしつつ発展してきた。決して日本語が放棄されたものではない。それは日本語が言にある通りである。 れんだいこの、この認識によれば、多くの伝播論が再精査されねばならないことになる。つまり、今日の日本にあるもののルーツを尋ねるのに、何でもかんでもインド、中国、ヨーロッパから紐説くのではなく、それまでの日本在来のものをも注目すべきである。それと、外国からのものが合体し、如何に新たなものがつくられたのかの考証こそ一番にせねばならないと云うことになる。全く新しい輸入ものもあるだろうが、多くは新発酵されたと思うべきであろう。ところが、近現代学問は、それまでの在地の学問を無視し、西欧ル―ツのものを絶対神として崇敬し、それを直輸入することこそ是とする傾きが認められる。これは非学問的な学問姿勢であろう。姿勢が悪ければ実るものも知れたものにしかなるまい。 この認識はあらゆる分野に適用されるべきだと考える。一々は述べないが、現下日本の風潮を思えば分かる話しである。(とりあえずここまで記しておく) 2013.02.10日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)